[1] | 服部 明子さんからのコメント(2003年07月18日 04時39分31秒 ) | パスワード |
最初に、まったく分かりません。
わたくしでしたらどう調べていくか書きますと
岩手県岩波郡矢巾町室岡の歴史を教育委員会に問い合わせます。
どういう土地だったのか?
どこの教育委員会でも親切にいろいろ教えて下さったり資料を送ってくださいましたよ。
ただし切手貼付の返信用封筒を同封なさってくださいね。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2003年07月18日 04時47分01秒 ) | パスワード |
その次が斯波氏との関係です。
いつから斯波氏の管轄下に入ったのか?
斯波氏の動きを追っていけば室岡氏のお名前も出て来ると思いますが。
奥州管領の斯波氏ですから詳しい資料があると思いますよ。
足利幕府以前なのか以後なのか?
我が家は敵だった斯波氏に戦国時代は配下にあったそうでもうビックリしました。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2003年07月18日 05時00分10秒 ) | パスワード |
江戸時代の身上書に「伊藤」氏を称している問題。
伊藤氏というのは日本でトップ何十やらに入る大きな名字ですから
伊藤氏から先祖を突き止めようというのは
これは難しいですよ。
岩手という地理的状況証拠からは
藤原秀郷子孫の藤原経清の系統でしょうね。(北家)
また鎌倉時代に地頭として赴任して来て室岡に住んだというなら
工藤の一族かもしれない。(南家)
もし伊勢に行った藤原秀郷の子孫がなんらかの事情で岩手に来て室岡に住んだのなら(北家+平家)
南朝方だなんて記録があれば状況証拠かなり!!!ですね。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2003年07月18日 05時40分58秒 ) | パスワード |
やっぱり私だったら室岡という場所+その近辺について調べまくります。
志波や紫波そして斯波について調べます。
近くのお寺や神社や稲荷に聞き歩くと思います。
南部藩に仕えた理由が分かるといいですね。
江戸時代
どこの藩でも昔その土地の名家の子孫を見つけ出してきて抱えたのです。
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2003年07月18日 06時00分54秒 ) | パスワード |
状況証拠からは「南朝方」だったのでは?と思いますが。
そうしますと平家+南朝方の伊藤氏ということで藤原北家の秀郷の御子孫では?と。
北畠顕家がそちらの方にいたでしょ。
義良親王を戴いて。
それから工藤貞行
そして南部師行・信光。
でも北朝方の
南部政長
斯波直持・兼頼
吉良貞家・満家
に従ってたのかも知れませんが。
南北朝時代が分かると掴み易いのでは?と思います。
[7] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月18日 10時01分37秒 ) | パスワード |
皆さんからも情報
よろしくお願い致します。
[8] | 田中愛造さんからのコメント(2003年07月19日 17時11分14秒 ) | パスワード |
服部先生(大切な時間有難う御座居ました)昨日は東京に行ってました、遅くなり済みません。在大阪ですが、先祖は紀州です。明恵上人の里有田郡です、友が類呼び、平安〜戦国に至り、先祖の敵・味方が相寄り、今はドクター・住職・教師・実業と様々な者達で先祖談議の花咲かせて居ります。其の仲間に先祖の繋がら無い、室岡と小路が居り、時代の中に同姓の存在が見えるも、確たるものなく、調べていました次第です。本当に有難うご座居ました。ご健闘とご多幸お祈り致します。
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2003年07月20日 02時05分06秒 ) | パスワード |
田中愛造さん
大阪在住でいらっしゃいましたか。。。
田中愛造さんのお仲間の御先祖さまと私の父方+母方先祖も繋がる印象を受けます。
私の母方は源氏方でしたが戦国時代から江戸時代にかけ大坂にいましたし
母方の系図の中には江戸時代紀州藩の平田家から嫁が来ています。
その前の戦国時代は大坂石山寺に味方して
堺の浜で討ち死にした先祖の1人は御坊あたりで2郡を頂いてた筈です。
湯浅氏と関係がありそうなんですが。金屋の近辺。
湯浅や明恵上人でしたら平家ですね。
ここでも平家だったわたくしの父方と繋がりますよね。
日本って本当に不思議な民族ですよね。
田中愛造さんとも、もしかしますと、御親戚だったかも知れませんね。
やっぱり南朝方だったんじゃないでしょうか?
紀州に落ち着いた理由が分かると良いですね。
[11] | 田中愛造さんからのコメント(2003年07月22日 03時11分59秒 ) | パスワード |
服部先生、私は源氏です。金屋の隣吉備町下津野(藤並荘・湯浅党本拠)菩提寺は天平勝宝八年(756)飯盛山阿弥陀寺号、八世紀頃、行基が先人と父の為建て他に始まり十世紀末恵心僧(源心)が、又、十三世紀初め明恵上人が、修行したと縁起にあり。住職則岡さんは楠木一族則岡氏です。又、大阪の友に佛乗寺住職藤並さんがいて嵯峨源氏で湯浅党藤並荘領主の子孫です。縁とわ不思議です。保元一年七月熊野詣途上の平清盛が乱の報聞き、京に引き返すとき、湯浅宗重が護衛したのと、徳川家康が伊賀越えに、伊賀・服部氏が護衛したのも、よく似た光景が想い浮かびます。何か昨日の如く感じるのは、私だけでしようか?・・・
[12] | 田中愛造さんからのコメント(2003年07月22日 03時29分07秒 ) | パスワード |
訂正《恵心僧都(源信)・《他(た)・《わ(は)
[13] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月22日 03時36分18秒 ) | パスワード |
田中愛造さん
縁とは本当に異なもの味なもの。不思議ですね。
>住職則岡さんは楠木一族則岡氏です。
わたくしの先祖の一族の服部の1人に楠木正成の姉?を妻にして
という人がいますから
それに伊賀とも地理的に近いですし
やっぱり日本人は本当にみんな何らかの形で敵になったり味方になったり同胞というのをしみじみ感じます。
田中さんのお仲間とも南朝方で繋がってたようですね。
わたくしの母方も父方も双方南朝方でした。
その前は源平敵としてで戦ってましたが。
信長の時代は両親の家は両方とも反信長でした。
母方は大坂石山寺の熱心な信者で堺の浜で討ち死にです。
それも信長の死(6月の初め)の2ヶ月前の4月です。
父方は伊勢長島一揆の戦いでこてんぱてんにやられました。
日本人って先祖の何らかのつながりで現在親しくなれるのでしょうね。
私の過去に登場した男の子達のお家も当時は興味がなかったので知りませんでしたが
今は「ああ、あの時代のお仲間だったの」と。
この男の子は南部の人でした。
当時の私は藤代に興味があって知りたいと思っていたら南部の男の子が現れたという形でした。
その後母方に紀州藩からお嫁さんが来たということで自分に和歌山の血が混じってるというのが分かりました。
藤並さんとも引っ張り合いがあるかも知れませんね。
[14] | さちこさんからのコメント(2003年07月23日 23時33分20秒 ) | パスワード |
田中愛造さん。
はじめまして。
横スレ専属の、さちこと申します。
湯浅、藤波は三重県に多い苗字ですね。
明恵上人、伊賀の八鳥(服部)
お茶を伝えたと言う事です。(本当)
[15] | 田中愛造さんからのコメント(2003年07月24日 03時02分44秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん 服部次郎左右衛門元成さんの事ですね、楠木正成公の姉か妹かいまだに解らないが観世流観阿弥の母上ですね。元成さんは上嶋の次男だからご養子さんですか。失礼な事言ってしまったら、許して下さい。さて、伊勢長島の戦いだけでなく息つく暇無く戦ってきた(信長)は焼き討ちが専門で、至る所で火攻めで(秀吉)は水攻めで、よく我々子孫が残ったものです。先祖の有難さがしみじみ感じられます。
[16] | 田中愛造さんからのコメント(2003年07月24日 04時09分13秒 ) | パスワード |
さちこさん有難う御座います。まだ慣れないもので上手く書けませんが宜しく。伊勢の多紀郡志気村に湯浅宅址があるそうですね、藤波は中臣氏の出で伊勢神宮の祭主家や荒木田氏の禰宜家で名門だが、藤並は紀伊国と豊後国に多いらしく、唯、荒木田氏族家田氏から藤並氏顕が出てるに過ぎないと思います。私の曽祖父の家が阿弥陀寺の隣りで、明恵上人修行の寺で、伊賀の服部さんに拠った不思議の縁かもしれませんね
[17] | 田中愛造さんからのコメント(2003年09月20日 23時49分02秒 ) | パスワード |
はからずも、友人の古書店にて【世阿弥残影】と云う本、何気なく買いました。著者は、倉田美恵子先生で(観世元昭師)に師事され。1994年に発行されて居ります。
室町幕府三代将軍足利義満が主じとして、関白二条良基・前関白近衛道嗣・日野兄弟・細川・畠山・今川三管領達の、花の祝宴に、父、観阿弥三郎清次の「自然居士」に、子の世阿弥三郎元清新作「泰山府君」を披露にはじまり。父観阿・妻はつの死、
弟四郎太夫と共に(芸の花を求め、人間を追求してやまない)曲舞を取り入れ、幽玄美の表現法、平家物語に流れる無常観、「清経」の滅びの理(ことわり)、「檜垣」では、大宰府の美しい白拍子が、死してもなお、生前の罪業の故に苦しみ、「砧」に語られる、前妻への追憶と散華。
数多くの作品を世にのこし、甥の音阿弥三郎元重に観世太夫を譲ったのち、青蓮院
義円(後・将軍義教)に、我が子十郎元雅が疎んじられた。
「盛久」によつて(斬首の折の太刀が折れ、処刑が行われなかったと云う様な、作り話は、源氏方を愚弄している)と言うものである。世阿弥は「盛久」の台本を、のちに娘佐保の夫となる金春氏信(後・禅竹)に与えた。祖父をも超えた才能の持ち主で、将軍義持の頃、醍醐清滝宮の楽頭職であった観世元雅も罷免され、二年後、伊勢
の阿濃津で急死し、弟元能は出家し、世阿弥は佐渡に配流となる。で終わっている。
因みに、佐渡より京に戻り、妻寿椿と娘婿の金春禅竹のもとに身を寄せ、世に別れ
る。
楠木正成(河内国玉櫛庄領主正遠の子)
服部元成(伊賀国浅宇田荘領主上嶋景守次男・服部氏養継)
(妻・楠木正成妹)
観阿弥 (元成の子)
(妻・上野国小波多領主竹原大の娘・志津)
世阿弥 (観阿弥の子)(子・元雅、元能、佐保・金春禅竹妻)
(妻・はつ、後妻金春氏・寿椿)
四郎太夫(観阿弥の子)(弟・五郎)
(妻・結崎氏・キク)
音阿弥 (四郎太夫の子、世阿弥養継)
( 他・略す。)
[18] | 田中愛造さんからのコメント(2003年09月21日 14時13分23秒 ) | パスワード |
追伸 書き落とし (観阿弥の妻・竹原大覚の娘)
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