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 投稿番号:100541 投稿日:2003年07月17日 03時24分16秒  パスワード
 お名前:烏夜啼
経正は長男か……
キーワード:経盛卿のご子息たち
コメントの種類 :質問  パスワード

はじめまして。
いきなり質問なのですが、平経正朝臣って、経盛卿の長男なのでしょうか。よくよく考えてみると、「嫡子」とは書いてあっても、「長男」と書いてある文献を見たことがないような気が・・・・・・(単に私が勉強不足なだけなのかもしれませんが・・・)
経盛には歌人の広盛というご子息がいらっしゃいましたよね。例えば、この方が庶長子だったとかいうような可能性ってあるのでしょうか。・・・と、どうでもよいことなのですが、ふと気になりまして、突然で失礼かとは思ったのですが、お尋ねしてしまいました。
私の素朴な疑問として、どうして経正は仁和寺のお稚児さんだったのか、ということがございまして。当時は貴族の若君をお寺に入れて、教育を受けさせるということは、一般的なことだったでしょうけれども、経正は平家の公達ですし。他にいましたっけ、平家一門でお稚児さんだった人って。経盛の教育方針というのも気になりますが、もしかして、経正がお寺に入れられたのは兄弟関係からなのかな、と。つまり、誰を経盛家の嫡子にするか、ということでもめたとか。ずっと後の時代のことになりますけど、確か足利直冬って、尊氏が子として認知せず、東勝寺に入れられたのでしたよね。だから、何か問題があると、子を寺に入れちゃうのかな、と・・・。でも、結局経正は嫡子だったのだし、関係ないのかな、ううう、どうにもわかりません。

経正と敦盛って似てますよね、兄弟だから当たり前だけど・・・。でも、私には二人は瓜二つに思えます。女の子みたいに綺麗だった敦盛って、お稚児時代の経正っぽい。経正といえば青山だけど、確か彼にも笛のエピソードがあった筈・・・。

以上、「異様人」(九条兼実公談)経正朝臣についての疑問でございました。

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[1]takahiroさんからのコメント(2003年07月19日 11時06分26秒 ) パスワード
  

烏夜啼さま

 安田元久著「平家の群像」には、経盛の子息につき、

 『経盛には数人の男子があり、系図によれば合計六人となるが、その内の
  一人、経光は実子でなく猶子であり、また他の二人はほとんど名もあら
  われず、その実在すら疑わしく、あるいは治承以前に死去しているかも
  知れない。そして何らかの意味で歴史に名を残しているのは、経正、経
  俊、敦盛の三人である。』

 と記載されています。


 「尊卑分脈」では、経盛の子息は、

  経正、経兼、廣盛、経俊、経光、敦盛 の六人の記載があります。


>私の素朴な疑問として、どうして経正は仁和寺のお稚児さんだったのか、
>ということがございまして。 

 私も推測でしか記せませんが、おそらく経正がその幼少時、仁和寺に祇候
 したのは、父経盛と仁和寺との関係(経盛は守性法親王の仁和寺歌会の参
 会者であった)からであったと思われます。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tunemasa.html
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syukaku.html
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kakusyou.html

 おそらく経正は、嫡子、庶長子等の問題から、仁和寺へ祇候していたので
 はなく、父経盛の歌人としての仁和寺とのつながりから、仁和寺へ祇候し
 ていたように思われます。

 あるいは、歌人経盛の子息ならと、覚性法親王に請われたからでしょうか。

 
 経正が、経盛の嫡子かつ長子であるか、あるいは他に庶長子が存在したの
 かについては、現在残されている資料からでは、確実な結論は出せないよ
 うに思えます。(経兼、廣盛について残されている資料の少なさから。)

 烏夜啼さまの疑問への答えにはなっていませんが、また何か新たに判れば
 コメントします。
[2]烏夜啼さんからのコメント(2003年07月20日 00時06分15秒 ) パスワード
  



takahiroさま

わざわざご丁寧にありがとうございました。
なるほど、経盛は覚性法親王と親交があったのですね、納得です。いや実はずっと不思議だったんですよ。経正は仁和寺で六義と琵琶を(そればかりではないでしょうけれど)学んだそうですが、和歌なら経盛自身が教えればよいことですし、音楽は従兄弟の藤原師長にでも弟子入りさせればよかったのだろうに、何故わざわざ仁和寺へ入れたのだろうか、と。それほど覚性法親王の琵琶は凄かったのだろうか、と。覚性法親王の方から乞われた、との御説、いろいろな意味で納得です、大賛成です。

大変勉強になりました。本当にありがとうございました。
[3]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月10日 03時02分09秒 ) パスワード
  

ところで、経誦坊祐円って実在の人でしょうか。

源頼朝の母方の従兄弟か何かに祐円っていう人いましたよね。仁和寺関係だったかなんだったか・・・

良祐阿闍梨(桂流の基綱から琵琶灌頂を受けた人)とは関係ないんでしょうか。いや、ただ単に「祐」の字が一緒なだけですけど・・・。良祐って能登尼(桂流琵琶灌頂、「われがね」の持ち主)の父らしいので、もし、祐円が良祐の関係者だとすると、経盛家とのつながりも頷けるのですが。

[4]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月10日 03時48分26秒 ) パスワード
  

そういえば、広盛って刑部大輔だったらしいですね。この人は承安3(1173)年頃亡くなったのではないか、という説を述べている方もいるようで、その説を信じますと、この時、最低でも刑部大輔でなければならなかったことになります。
一方この時、経正は正五位下行兵衛佐で、刑部大輔より下の職です。もっとも、経正は「行」ですが、広盛の方は「守」だったかもしれませんけど。
それでも、はじめは広盛の方が上だったみたいですね。経正が嫡男になったのって、承安3年以降みたいな気がします。
経正は、3,4年で位が一つずつ上がる、というペースなのに、承安3年から安元2(1176)年の期間のみ、何故か僅か3年で三つも上がっているのです・・・従四位上です。何か特別功績があったというわけでもなさそうです。やっぱり嫡子になったからなんじゃないかしら、と思っているのですが、どうなんでしょうね。
まだまだ若いのに、承安3年に歌合を主催しちゃってますし。これって、歌林苑をはじめとする歌人仲間たちへの、お披露目みたいなものだったんじゃ・・・・・・嫡子になったから、宜しく、みたいな。・・・ああ、考え過ぎかなあ。など、日夜妄想する日々でございます。
[5]takahiroさんからのコメント(2003年09月10日 06時53分24秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年09月10日 11時35分18秒
[6]takahiroさんからのコメント(2003年09月10日 07時01分01秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年09月10日 11時35分56秒
[7]takahiroさんからのコメント(2003年09月10日 08時14分50秒 ) パスワード
  

>経正は正五位下行兵衛佐で、刑部大輔より下の職です。
>もっとも、経正は「行」ですが、広盛の方は「守」だったかもしれませんけど。

確か、「行(ぎょう)」とは、自身の役職(官職)が自身の官位相当よりも低い時に付記し、 「守(しゅ)」とは、自身の役職(官職)が自身の官位相当よりも高い時に付記するのですね。

上記で見ると、従五位上の相当職である「兵衛佐」に、正五位下の経正が就いているので、「行」が署名に挿まれているのですね。

経正の経歴を見ると、

生年不詳。
仁安二年(1167)閏七月:淡路守。
承安二年(1172)正月:殿上人(五位)。左兵衛佐・左馬権頭などを歴任。
安元二年(1176)正月:皇太后宮亮従四位上。
治承二年(1178)正月:丹後守兼任。
治承三年(1179)正月:正四位下。同年十一月、但馬守兼任。
寿永三年(1184)二月七日、一ノ谷の合戦で戦死。

となり、確かに広盛没(との説もある)後の、承安三年頃以降の経正の官位官職の昇進は顕著と言えるかも知れないですね。

烏夜啼さん御指摘のように、広盛の承安三年においての刑部大輔という官職を見ると、正五位下というほぼ経正と同等の官位を授かっており(守でなければ)、ここから広盛が嫡男であった可能性も、推察され得るとは思います。
[8]takahiroさんからのコメント(2003年09月10日 11時34分29秒 ) パスワード
  

[5][6]のコメント、リンクの貼り違いがありましたので、削除の上改めてコメントします。

>ところで、経誦坊祐円って実在の人でしょうか。

『続群書類従巻第百卅八』の「系図部卅三・桓武平氏系図」によると、平経盛の子として阿闍梨経誦坊祐円(圓)の名が見えます。おそらく実在の人物であったのではないでしょうか。

良祐阿闍梨との関係についてはもう少し見てみます。

それにしましても烏夜啼さんは経盛一族についてお詳しいですね。

余談ですが、

平経正も会衆の一人であったという「歌林苑」については、その場所は現在の北白川天神宮社境内に当たると伝えられています。

http://isweb41.infoseek.co.jp/novel/kazu02aa/saigyo2/02sa5.html
http://218.228.195.8/jinjya/kyoto-city/sakyou/sa-kitaten/
http://home.att.ne.jp/sky/eyecatch/kyoto/tenjingu.html

平経盛、経正も参加していたという「別雷歌会」が開かれていた旧賀茂(藤木)重保邸は、現在は西村家別邸として一般公開されています。

http://www.digimake.co.jp/webtown/kita/nishimura/nishimura.html
[9]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月10日 19時06分34秒 ) パスワード
  

takahiroさま


いろいろと沢山のコメントを頂きまして、ありがとうございます。

歌林苑も別雷社もいい所にあったんですねえ。特に重保邸の庭は風情があっていいですね。私、今までは等持院のお庭が一番のお気に入りだったんですが、もっと素敵な場所教えて頂いた。何か、とっても嬉しいです。有難うございます。機会があって、京都へ行くようなことがあったら、是非一度赴きたいと思います。


祐円って実在したのですね。『平家物語』が勝手に経盛の近親者にしてしまったのかと思っていました。

私は、琵琶やら七絃琴に興味がありまして、当時の琵琶ってどんな感じだったのだろうか、とちょっと調べてみると、妙音院の師長など、重要な人が経盛とつながっている・・・蛮族な武士(と、当初坂東武者と伊勢平氏を同類と思っていた・・・)が何故楽の名手に囲まれているのだ、と不思議に思ったものです。
経盛一家は不遇だという割には、やれ歌人だ、音楽家だ、と遊び呆けているようで、暴いてみたくなりました。
あ、因みに良祐も能登尼も桂流の琵琶灌頂を受けていますが、経正は受けてなかったと思われます。よく言われているように経正が桂流だったならば、『啄木』は伝授されていなかったでしょう。西流の血脈にも見られませんが。『啄木』は一体誰から伝授されたんでしょうね。あ、それとも師長や能登尼などが、人の耳があることにも気づかず、ついうっかり弾いてしまったのを、経正が聴いていて、覚えてしまったとか。秘曲を聴いただけで、覚えてしまった人は稀にいたらしいので。確かに、琵琶秘曲はすぐ覚えられそうな単純な曲ばかりですから。

広盛と経兼って同じ人ですかね、どちらも刑部大輔だったような・・・。
[10]takahiroさんからのコメント(2003年09月11日 09時31分33秒 ) パスワード
  

烏夜啼さま

 烏夜啼さんのハンドルネームは、琴の曲に由来するものだったのですね。
 烏夜啼さんの音楽(琵琶、七絃琴)方面からの経盛一族への解釈、とても新鮮で、興味深く拝読しています。

>経盛一家は不遇だという割には…。

 辻邦生の小説「西行花伝」の中に、次のような文章がありました。

 『入道(清盛)はそれを見極める達人だった。優美な水干姿で管弦の宴に現われ、並居る人々に驚きを与えることも力であれば、部将を呼びつけてその落度を厳しく面罵できるのも力である。…入道(清盛)はそうした様々な力を見る優れた眼を持っていた。』

 上記は西行が回想にて清盛の人物を評している箇所ですが、もし清盛が上記西行が説くような、雅びのもつ力にも十分な理解を示していた人物であったなら、おそらく清盛にとり、詩歌、管弦に優れる経盛一族は平家の誉れであったこととも思われます。

 また清盛、経盛の父、忠盛自身が優れた歌人でしたので、平家一族として雅びの道に精進することは、大いに奨励された事であったのではないでしょうか。

 ふとそう言う風に思いました。
[11]takahiroさんからのコメント(2003年09月11日 10時57分57秒 ) パスワード
  

>広盛と経兼って同じ人ですかね、どちらも刑部大輔だったような・・・。

手持ちの平氏系図から、経盛子息について書出してみます。

『尊卑分脈 平氏』

 経正:新勅新拾作者 左兵佐[左馬権頭] 但馬守 正四下
 経兼:刑部大輔
 広盛:刑部大輔
 経俊:若狭守
 経光:若狭守 経盛猶子
 敦盛:従五下

『尊卑分脈 脱漏 平氏』

 経正:新勅新拾遺集等作者 左兵衛佐 左衛門佐 但馬守 正四位下
 経兼:刑部大輔
 広盛:同上
 経俊:若狭守
 経光:伊賀守 
 敦盛:無官従五位下

『続群書類従巻第百卅八 系図部卅三 桓武平氏系図』

 経正:皇后亮於一谷河越小太郎被討
 経俊:若狭守於一谷討死
 祐圓:阿闍梨経誦坊
 経房:淡路守
 敦盛:号無官大夫
 親盛:女院判官
 広盛:刑部大輔

後、原典を控え忘れているのですが、『平氏(高見王一) 平朝臣姓』という系図資料には、上記意外に経盛子息として「輝経」の名が見えます。 

広盛と経兼については、上記の資料のみでは、同一人物であるか否か、判断できないかも知れないですね。ただ、官職は同じ一族の間で引継がれることも多いですので、刑部大輔は兄弟である広盛から経兼へ引継がれたのかも知れません。国司職の場合は任期が四年と決まっていましたので、同族内で任期が満ちると国の交換をしたりもしていたようです。

また刑部省とは、最晩年の平忠盛が長官(卿)を務めていた省でもありますので、その影響下での人事であったのでしょうか。
[12]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月11日 17時17分12秒 ) パスワード
  

takahiroさま


はい、その通りでございます。私の烏夜啼というのは、琴曲名です。なかなか趣ある美しい曲で、大好きなので。この曲を昔、『三国演義』という中国のドラマでは『長河吟』という題にして、周瑜が作曲したということにしてました。しかも、劇中、何度もこの周瑜がこれを右手と左手の奏法をあべこべにして演奏してました。テクニシャンぶりを見せつける狙いだったのか・・・・・・
『烏夜啼』は後漢のころの江南の民謡が六朝期に発展して、琴曲に編曲されたものらしいです。劉宋の王族劉義慶が原曲の民謡をもとに琴曲にしたのでしょう、きっと。まあ、ドラマの方は同じ民謡をもとに『長河吟』を作った、という設定にしたのでしょう、ということにしておきましょう。
他は碣石調『幽蘭』や、『長清』『短清』などが好きです。

余計なことばかり申しました。



経盛一家を音楽から見るという邪道を行っておりましたので、これからは、ちゃんと歌道から見てみよう、と思います。
住吉社歌合か広田社歌合か、或いは月詣和歌集だったか、確か広盛の官位が記されていたものがあった筈です。高校生のころ、ふと図書館で見かけた覚えがあります。でも、特にメモも取らずに無視してしまったような記憶が・・・・・・あああ、ちゃんとチェックしておくべきでした。そこら辺の図書館にはないし、国会図書館にでも行くしかない・・・
歌から見れば、経盛一家の地位もはっきりするでしょう。

西行の言葉は、いいこと教えて頂いたわ、と、とても嬉しく思っております。有難うございます。



[13]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月11日 17時44分26秒 ) パスワード
  

takahiroさま、いつもいつも、凄い方だわ、と思っておりますが、文献を沢山お持ちですね。
経盛家の系図を見て、とても驚いております。経盛にも、沢山の子息があったのですね。有名なのは三人だけですけど。でも、これだけ沢山の子がありながら、姫君がいない。全然聞いたこともない名の人もいますし、侮れませんね、経盛一家。

刑部大輔は広盛から経兼に、あるいは経兼から広盛に受け継がれた、と考えればよかったのですね。そういえば、左馬権頭も一族で受け継がれてましたものね。

官位やら官職やらというものは、何やら私には難しく、楽曲分析のようなわけには参りません。
これからも、いろいろお教え下さいませ。
[14]takahiroさんからのコメント(2003年09月12日 00時13分08秒 ) パスワード
  

>経盛一家を…歌道から見てみよう、と思います。

是非何か判ればコメントをお願いします。
是非ともいろいろとお教え下さい。

(また少し戻りますが、)

>ところで、経誦坊祐円って実在の人でしょうか。
>源頼朝の母方の従兄弟か何かに祐円っていう人いましたよね。
>仁和寺関係だったかなんだったか・・・

源頼朝の母方の出自は熱田大宮司家藤原氏(藤原南家)です。

確かに烏夜啼さんが[3]にて指摘されていますように、同名なのでしょうか、この熱田大宮司家藤原家にも「祐円」という人物が存在しました。

祐円の父は藤原祐範ですが、この祐範の姉妹が、源頼朝の生母(源義朝室)でした。

そして実際、この藤原祐範の子、祐円も仁和寺関係者(仁和寺法眼)でした。

平経盛子息、祐円については、『平家物語 巻七 一門の都落の事』において、「落ちゆく平家は誰々ぞ。…経誦坊の阿闍梨祐圓(円)、…」として名が挙がっていますので、藤原祐範子息の祐円とは別人物であると思われるのですが、以上を踏まえると、平経正は仁和寺において、源頼朝の母方の従兄弟である仁和寺法眼祐円とも、時期的に見て、知己を通じていたのでしょうか。

当時の複雑な人間関係を垣間見た気がしました。
[15]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月12日 11時42分51秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年09月13日 01時06分28秒
[16]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月13日 01時35分30秒 ) パスワード
  

祐円ってよくある名なのですね。他にも何人か同じ名前の人がいたような・・・・・・


能登尼の父という良祐は、比叡山の高僧の良祐とは同一人物であるのか未確認で
すが、これもよくある名だったかもしれません。
余談ですが、琵琶秘曲の『啄木』(啄木調)はいい曲だと思います。面白い。本当に鳥がコツコツ木をつついている感じで。でも、私は『上原石上流泉』(上玄石上)が好きです。昔の人はこんなよい曲を聴くことが許されなかったなんて、かわいそうですね。鴨長明の気持ち、よく分かります。『楊真操』(太常博士楊真操)は、楊太真の曲らしいです。あまり貴妃さまっぽくありませんけど、この曲。『石上流泉』(流泉)は、七絃琴曲にも同名の曲があります。
[17]takahiroさんからのコメント(2003年09月13日 02時07分05秒 ) パスワード
  

烏夜啼さま

当時、「秘曲」の演奏には、一生に一度しか演奏してはいけない、それも天皇の許可を得なければいけない等という厳しいしきたりがあったのですね。

確かそれを鴨長明は、友人達との宴において、その場の勢いで無断で演奏してしまい、その事が後に大きな問題となってしまったのですね。

この事件の為に、鴨長明は河合神社(下鴨社摂社)の宮司職につく機会を逃してしまったとの事、それほど当時の「秘曲」というものは特別なものであったのですね。

私も機会があれば、琴曲を聴いてみたくなりました。
[18]takahiroさんからのコメント(2003年09月13日 02時15分21秒 ) パスワード
  

確かこの鴨長明も、俊恵の北白川歌林苑の会衆であったと思いますので、同じく歌林苑の会衆であった平経正とは親しかったのでしょうね。

(元々鴨長明は下鴨社の神職の子息であり、当時の下鴨社の社家町である吉田泉殿邸で育ったと推測されますが、ここから北白川歌林苑へは極近距離です。)
[19]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月14日 03時50分19秒 ) パスワード
  

確か、経盛の家も白河にあったとか小耳に挟んだような・・・・・・

鴨長明の琵琶の師は中原有安ですから西(院禅)流です。一応経正は桂流らしいので、和歌の話のついでに、琵琶のそれぞれの流儀の違いでも話したものでしょうか。
西流は『楊真操』を秘さず、『上原石上流泉』をあまり大事に思っていなかったようです。長明の軽々しい行動も、そのためではないでしょうか。『啄木』は西流も桂流も最秘曲としていましたし、長明はこれを伝授されていなかったので、どうしても聴いてみたかったのだろうと思います。

因みに、血脈には、秘曲四曲中、どれか一曲でも伝えられた人は入れていたそうですが、後白河院の時から、灌頂(『啄木』伝授)を受けた人のみ記すようになったそうです。でも、記入漏れもけっこうあったようで、経正が、もし本当に『啄木』を弾けたのだとすると、この人も漏れてしまったうちの一人なのでしょう。

七絃琴曲だけは、中国の輸入版CDを入手しないと、なかなか名曲を聴くことはかないませんが、琵琶なら、気軽に聴けますよ。秘曲の譜(三五要録の)やそれを五線譜化したものを解説書に載せているレコード(琵琶のほとんど全種を網羅している)もあります。でも、これは入手困難かもしれません。CDで、琵琶秘曲四曲全部入っているものが入手しやすいと思います。和琴の秘曲や筝の平調『越殿楽』の輪説なども入っていて、かなり満足できます。和琴の神秘的な音色が絶品です。このCDはそこら辺のお店に普通に売られてます。雅楽コーナーをご覧になってみて下さい。
天平琵琶譜の『番假崇』を復曲したCDなんかもあります。
あとは、近頃の薩摩琵琶奏者の方の中に、楽琵琶を嗜む方や、逆に楽琵琶の方が薩摩琵琶をなさったりしてまして、それらの演奏会で楽琵琶の秘曲が演奏されることがよくあります。どちらの方も鶴田流でした。

七絃琴も近頃中国で修行なさった方々やその流れの方々の努力で復活しつつあり、時々演奏会もあります。また、国内で入手できるCDも何枚かありますので、機会があって、もしご興味をお持ちでしたら、お聴きになってみて下さい。ハマリますよーーー。(って私だけかも・・・)
[20]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月14日 04時34分17秒 ) パスワード
  


そういえば、一つ思い出しました。けっこう前のことですが、NHKで『人形歴史スペクタクル平家物語』という番組があったかと思うのですが、この劇中、『上原石上流泉』が流れました。
竹生島で、色白で凛々しーーい経正人形が弾いていました、この曲を。経正の亡くなる場面でも、この曲でした。
『平家物語』「竹生嶋詣」では、経正が弾いた曲は『上玄石上』(上原石上流泉)とありますから、経正人形にこれを弾かせたこの番組、なかなかです。
[21]takahiroさんからのコメント(2003年09月14日 10時30分15秒 ) パスワード
  

>七絃琴も近頃中国で修行なさった方々やその流れの方々の努力で復活しつつ
>あり、時々演奏会もあります。また、国内で入手できるCDも何枚かあります
>ので、機会があって、もしご興味をお持ちでしたら、お聴きになってみて下
>さい。

御教示大変ありがたく思います。早速、お店巡りをし、入手できたなら聴いてみたく思います。

>経正が、もし本当に『啄木』を弾けたのだとすると…、

平清盛の娘、盛子もまた琵琶の名手であったそうです。平盛子は、治部卿尼(皇嘉門院女房の従三位源盛子)に師事し、秘曲「泉流」、「啄木」まで伝授された腕前であったとの事、この平盛子と平経正は、一門であるとともに、琵琶演奏を通しても交流があったのでしょうか。琵琶秘曲「啄木」を通し、平盛子と平経正のつながりや交流が見えてくればと、興味深く思います。

平盛子の邸宅は白河(白河延勝寺の西)に所在したため、彼女は「白河殿」と称されていました。また確かに烏夜啼さん御指摘のように、平経盛の邸宅も白河に所在したようです。邸宅の所在地や、音楽、詩歌の関連を通しても、当時の平家一門の人間関係を推測できるかもしれないですね。

そもそも白河の地は、平忠盛が造進した得長寿院があり、また白河北殿の千躰阿弥陀堂は平清盛が造進しているなど、平家とも縁の深い地でした。

なお、平経盛の白河邸は、別邸であったようで、本邸は、洛内左京三条三坊九町に所在しました。

左京三条三坊九町とは現在で示すと、「二条下がる烏丸西入る」の辺りに該当します。

余談ですが、この洛内の経盛邸の近くには、経盛弟頼盛の邸宅(左京三条三坊十四町)も所在しました。頼盛邸左京三条三坊十四町とは、現在で示すと、「御池下がる烏丸東入る」の辺りに該当します。)

再び戻りますが、平盛子邸は白河延勝寺の西に所在しましたが、この延勝寺の東方には、同じく白河六勝寺のひとつに数えられる白河法勝寺が所在し、この法勝寺の執行は当時村上源氏がその任を担っていました。

この村上源氏に累する源信雅が平経盛の生母に当たりますので、平経盛の別邸が白河に所在したのはこの関係からかも知れません。

 ◎村上天皇━具平親王━師房━顕房┳雅実
                 ┃
                 ┗信雅━女子(平経盛母)

また、平頼盛が後に村上源氏と縁戚を結ぶのも、この平経盛の生母の由縁を通しての関係からかも知れません。

 ◎村上天皇━具平親王━師房━顕房┳雅実
                 ┃
                 ┗寛俊━寛雅┳俊寛
                       ┃
                       ┗女子(平頼盛後室)

やや、平経盛一族と音楽の話題から離れてしまいました。

再び戻りますが、平盛子の琵琶の師、治部卿尼とは、西(院禅)流、桂流の何れの流派に属していたのでしょうか。いろいろと興味深いです。
[22]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月14日 11時28分53秒 ) パスワード
  

治部卿局は桂少輔信綱の娘ですね。この人は、良祐や能登尼の師基綱の孫娘です。基綱は桂大納言経信の子息で、桂流は経信の始まりますから、治部卿局は正統な桂流の伝承者です。桂流は代々宇多源氏によって受け継がれていたのですね。
治部卿は桂流に違いありませんが、父の信綱は西流も学んでいました。師は妙音院太政大臣師長と同じ孝博です。また、師長は信綱の弟子でもありました。
因みに、治部卿の主皇嘉門院は西流です。
察するに、白河殿盛子は桂流だったかと思われます。経正と同じですね。経正は寛子(完子、基通室)の家司ではあったようですが、盛子との関係は私は存知ません。残念なことに。
[23]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月14日 11時43分31秒 ) パスワード
  

白河やら三条やら六波羅やら西八条やら・・・・・・皆一族で固まって住んでいたのですね。大変勉強になりました。ありがとうございます。
当時は母の家で育つことが多かったでしょうから、すると、経盛の白河邸というのは母の家だったのかもしれませんね。師長もここで生まれたのかもしれません。彼が逃げ込んだのも、従兄弟の家だ、というよりは、母の家だったから出戻って来た、ということだったのかもしれません。
考えると、いろいろ面白いことばかりです。
[24]takahiroさんからのコメント(2003年09月14日 11時53分02秒 ) パスワード
  

治部卿局についての詳細な御説明、ありがとうございました。桂流とは主に宇多源氏により受継がれた流派なのですね。

また治部卿局(源盛子)の祖父、源基綱の弟、俊頼の子が俊恵であり、この俊恵が経正も会衆であった歌林苑の主宰者に当たりますので、これらのグループは、詩歌、管弦の境を超え、一種のサロンのようなものを形成していたのかもしれないですね。
[25]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月14日 14時18分24秒 ) パスワード
  

桂流も西流も基本的に世襲されていたようです。今の家元制度のように完全なる世襲ではなく、婿とか妻とか娘にも伝承され、それからその子に伝授されるなどしていました。よって他家にも伝承されていますが、よく考えると、その他家の者も近親者であることが多いのです。勿論、血統とは全く関係ない人も伝授されています。でも、正統な継承者は代々その近親者であるようなのです。
また、血統と関係ない人でも、その近親者に伝授することが多かったようです。基綱の弟子ですと、例えば輔仁親王から、その子有仁へ。また、良祐から能登尼(基綱にも師事)へ、そしておそらく能登尼から経正へ・・・・・・と、いうように。
あまり世襲と関係なくなったのは、天皇への伝授が行われるようになった鎌倉時代に入ってからのことではないでしょうか。




余談ですが、鴨長明の師中原有安は信綱にも師事していますので、長明は桂流にも詳しかったかと思われます。


なるほど、takahiroさまの仰る通り、歌林苑は単に歌のサークルだっただけではなく、音楽をも含むすき人の集まりだったのかもしれません。
これで得心致しました。経正は父の経盛に連れられて、あちこちの歌合に出詠していますが、当然歌林苑も経盛に連れて行かれたのかと思えば、経盛は会集にはなっておりません。どういうことか、とずっと不思議に思っておりましたが、経正だけが会集になったのは、この琵琶道のためであったのかもしれないですね。




[26]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月14日 15時05分16秒 ) パスワード
  

ふと、思ったのですが、もしかすると鴨長明は桂流の方を伝授されていたのかもしれません。
『楊真操』は伝授されていたそうです。一説によると西流はこれを秘してはいなかったそうですが、桂流は殊にこの曲を秘していたそうです。ようやくこの曲を許された、というところから察すると、桂流だったかもしれません。『啄木』も弾けたらしいですし、正式な許可(灌頂)はなくとも、伝授されることはあったのでしょう。




余計なことかもしれませんが、CDのことで、少々言葉が足りなかったので、補足いたします。
琵琶秘曲のCDは勿論純邦楽(雅楽)コーナーでよいのですが、七絃琴曲は、ワールド・ミュージック(中国)コーナーをご覧下さい。





ところで、『源平盛衰記』に、清盛の娘で七絃琴の名手がいた、とかいう爆弾発言があるのですが、これも盛子なのでしょうか。
七絃琴は、『宇津保物語』が書かれた頃はもう廃れていた、とも言われており、『源氏物語』にも七絃琴の重要な記載がありますが、紫式部は直接その独奏曲を聴いたことはなかった筈です。よって、平安末期には廃れて久しい楽器であったに違いないのに、清盛女が名手とは、一体どういうことなのでしょう。

ただ、以前別のスレッドにも書きましたが、重衡が厳島神社に梅花断の七絃琴(現存)を奉納したとかいう伝説もあるので・・・・・・
平家は宋と貿易してましたから、宋人によって伝えられたのでしょうか。
もし、本当に平家人の中で七絃琴が弾けた人が存在したとすると、我が国の音楽の歴史が変わることになります。

琵琶や経盛家からは話がずれましたが、CDのついでに・・・
[27]takahiroさんからのコメント(2003年09月14日 15時42分48秒 ) パスワード
  

>重衡が厳島神社に梅花断の七絃琴(現存)を奉納したとかいう伝説もあるので…

 http://www.jtas.com/jt-music/jt-data_html/ko_jp05.html

厳島神社に所蔵されている、『重要文化財 七絃琴(伝・平重衛所蔵)』が上記に掲載されていました。

清盛子息、平重衛が所蔵していたという事は、その姉妹に当る清盛の娘が七絃琴の名手であったとの『源平盛衰記』の記述も、あるいは真実かも知れないですね。もしそれが真実なら、やはりこの名手とは、平盛子の事でしょうか。

日本では、『宇津保物語』(十世紀末成立)が書かれた頃は七絃琴はもう廃れていたとの事ですが、烏夜啼さん御指摘のように、重衛およびその姉妹は、直接宋人によってその奏法を伝授されていたとの可能性も、あり得ると思います。

現実に、伝・平重衛所蔵の七絃琴が現存している事は、その信憑性を高めていると思われます。もし平重衛が実際に所蔵していたのなら、おそらく演奏もしていたのではないでしょうか。ただあくまで、「伝・平重衛所蔵」と、「伝」がついていますので、判断は難しいですね。


>琵琶秘曲のCDは勿論純邦楽(雅楽)コーナーでよいのですが、
>七絃琴曲は、ワールド・ミュージック(中国)コーナーをご覧下さい。

丁寧に御教示頂き有難うございます。琵琶秘曲、七絃琴曲、ともに両方探そうと思います。
[28]takahiroさんからのコメント(2003年09月14日 16時11分56秒 ) パスワード
  

正二位権大納言藤原隆房の室となった清盛の娘が、『源平盛衰記』において、「稀にみる箏琴(そうのこと)の名手であった」と伝えられているそうです。

箏琴と七絃琴とは別物なのでしょうか。

関連ないかも知れませんが、隆房と清盛の娘の子息は「藤原隆衛」と名付けられており、これは元服の際、平重衛が烏帽子親になり、自身の諱を一字与えたのでしょうか。
[29]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月14日 16時21分36秒 ) パスワード
  

わあああ。重衡の七絃琴ってカラーでは初めて見ました。
以前、岸辺成雄先生の論文で白黒のは見たことがあったのですが、「これが梅花断だ」と、アップの写真も載っていましたけど、はっきりとは見えなくて、もどかしい思いをしていたのです。
黒光りしているものを想像していましたが、そうですか、茶色でしたか。私の中では大発見です。確かに種種の断紋も浮かんでいるようですし。takahiro様に教えていただいた写真に、物凄く感動しております。泣きそうです、本当に。有難うございます。

実は、弘安年間まで、七絃琴の演奏が行われていた、という説もあります。ただし、独奏曲は平安後期までには絶え、合奏にのみ加わっていた、というのです。批判的な意見もありますから、鵜呑みにはできませんけれど・・・・・・


[30]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月14日 17時11分59秒 ) パスワード
  

琴(コト)というのは絃楽器全般を指す言葉で、よって、「琵琶の琴」、「筝の琴」、「琴の琴」(キンのコト)等称しました。これらは皆、大陸から伝来したものであったのですが、それに対し、日本の琴である、というので、神楽等に使う絃楽器を「和琴」というのです。

「琴の琴」は七絃琴のことです。筝琴は、十三絃の楽器で、柱を立てます。それに対し、七絃琴は、例の写真を見て頂くと分かるかと思いますが、徽という13の丸いもので音高を定めます。絃の長さによって音を作る楽器であるわけです。このような構造の楽器(八雲琴、一絃琴など)を琴類と称し、柱のあるものは筝類と称します。

七絃琴(「琴」とも。古琴とも)の起源は、中国の三皇五帝の伝説にまで遡ります。『詩経』にも出てくる楽器ですから、殷周革命の頃には演奏されていた楽器で、非常に古いものです。
今でも、春秋時代に作られた(眉唾ですが)曲が演奏されています。

筝琴の起源は戦国時代の秦ですので、秦筝とも称します。
瑟(琴とともに用いられた。『詩経』に記載。琴瑟相和すの語源)という二十五絃の柱を立てる楽器がありました。ある時、秦のある姉妹(始皇帝の娘とも)が、一張の瑟をめぐって争いました。お互い、自分のものにしよう、としたのです。二人の争いは激しかったので、はずみでこの瑟は真っ二つに壊れてしまいま
した。十三絃と十二絃にわかれたのです。十三絃の方は姉が、十二絃の方は妹がもらいました。こうして、争ってできた新しい十三絃と十二絃の楽器を、竹冠に争うと書いて、「筝」と呼ぶようになったとか、云々言われています。

物凄い伝説ですが、中国では、俗楽に十三絃の方を用いていました。日本の雅楽は、唐の宮廷俗楽が伝来したものですから、日本の筝は十三絃なのです。

これが、筑紫筝になり、さらに俗化して、筝曲、いわゆるお琴(おコト)となったのです。



七絃琴と筝琴とは、全く別の物です。


[31]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月14日 17時38分24秒 ) パスワード
  

私、非常に恥ずかしい勘違いをしておりました。
清盛の子で、当腹の、つまり二位殿腹の3番目の男子は「重衡」さんというのだと思っておりましたが、「重衛」さんだったのですね。
ぐおおおおお。ば、馬鹿でした・・・・・・


冷泉隆房はすき人であったそうですから、清盛は娘の中でも筝の名手を選んで縁組したのでしょう。
隆房も筝の名手であったかと思うのですが・・・・・・。未確認です。建礼門院右京大夫の母・夕霧尼の弟子ではなかったでしょうか。未確認ですけど。夢で見たことかもしれませんので、信じないで下さい。
[32]takahiroさんからのコメント(2003年09月14日 18時00分18秒 ) パスワード
  

烏夜啼さんの「重衡」が正しく、私の「重衛」が誤字です。

言い訳のようですが、七絃琴の画像のURLからそのままコピーしてしまいました。おそらくあの記載をされた方が、「衡」を「衛」と打間違えられたのだと思います。

「藤原隆衛」も「藤原隆衡」が正しいです。

七絃琴と筝琴の違い、非常によくわかりました。有難うございました。



[33]takahiroさんからのコメント(2003年09月14日 18時13分50秒 ) パスワード
  

http://rose.zero.ad.jp/~zad70693/guqin/edomono.html

上記紹介の岸辺成雄著『江戸時代の琴士物語』について、

『岸辺成雄先生卆寿の労作『江戸時代の琴士物語』(有隣堂印刷株式会社)は、江戸時代の琴と琴士とを網羅した労作ですが、法隆寺の開元銘の唐琴や、正倉院の金銀平文琴に関する言及も詳細で、古代日本音楽史研究には必備の書と言えるものです。厳島神社蔵の平重衡愛用の琴に関する文献も紹介され、長い間の疑問も氷解しました。』

http://www.asahi-net.or.jp/~tu3s-uehr/nikki0309.htm

とのコメントがありましたが、岸辺成雄先生は、厳島神社蔵の平重衡愛用の琴に関してどのような見解をもたれているのでしょうか。興味があります。
[34]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月14日 18時15分41秒 ) パスワード
  

はあ、そうでしたか。
わざわざお教え下さいまして、有難うございます。


筝と琴の違い、あまり明瞭に説明できませんで、混乱させたのではないか、と案じております。紛らわしいですよね。
私の友人でその違いを理解できている人は一人もおりません。


経盛一家から、かなり遠いお話になってしまいました。申し訳ございません。ここまでお付き合い下さいまして、本当にありがとうございます。
[35]takahiroさんからのコメント(2003年09月14日 18時31分02秒 ) パスワード
  

岸辺成雄氏の上記著作、いつでも構いませんので、烏夜啼さんの研究上、もしお読みになる機会があれば、「厳島神社蔵の平重衡愛用の琴」についての項、またお教え下さい。いろいろとお教え頂きありがとうございました。
[36]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月14日 18時35分55秒 ) パスワード
  

岸辺先生の論文は、本になる前、月刊誌の『楽道』(筝曲の雑誌)で読んでいました。全部とっておきましたが、別の家に置いてありまして、今、手元にないのですが、確か、重衡の琴については、フィールドワーク報告のようなもので、あまりどうのこうのと論じてはいらっしゃらなかったかと記憶しております。
ただ、琴は断紋を愛でる楽器でもあり、古くならないと浮かび上がってこないのですが、殊に梅花断は稀で、唐琴のような、古いものでないと、確認できない、とのことでした。中国でも、唐琴は残っていることは少なく、梅花断は滅多に見られない、とのことで、貴重らしいです。
重衡の琴には、確かに梅花断が確認できる、とのことでした。古い、唐琴なのであろう、というようなことが書かれていたように記憶しております。(記憶違いかもしれませんが・・・)
平家の時代、琴が演奏されていたとは考え難いので、存疑、とあって、はっきりとしたことは仰っていなかったかと思います。

あとで、きちんと確認しておきます。


[37]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月14日 18時48分42秒 ) パスワード
  

弘安年間まで、合奏には加わっていたのではないか、という説を紹介していらしたのも、岸辺先生でしたか・・・・・・
よって、平家時代も、独奏曲は廃れても、演奏されていた、と考えることもでき、重衡の琴は、本当に重衡の愛用品であったかは不明ですが、1000年程経った古い琴であるのでしょう、というようなことも仰っていたような・・・・・・

確か、仲尼式の唐琴って書いてありましたよ。
琴は、君子の精神修養に欠かせない楽器ですから、孔子さまが最も大事にしていらしたものだそうで、この孔子の用いた型の琴であるので、仲尼式というのですよ、確か。
[38]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月14日 19時24分01秒 ) パスワード
  

takahiro様



琴に興味をお持ちになったご様子。私が余計なことを言ったばっかりに。責任を感じております。
琴は調べることが膨大で、その割には資料は入手し難く、かなり厄介なものですが、調べ始めると、面白くて止まらなくなります。かなり恐ろしい分野ですので、どうぞお覚悟を(笑)

takahiro様は、五線譜はお得意でしょうか。
もし、西洋音楽に不自由を感じない方でしたら、三谷陽子氏(岸辺氏の弟子・故人)の『東アジア琴筝の研究』(1975全音楽譜出版社)が導入としてはお勧めです。琴ばかりではなく、中国の筝から日本の俗筝のことまで書かれております。琴については、これ一冊を読んだだけでも充分な知識を得られると思いますよ。
[39]takahiroさんからのコメント(2003年09月14日 20時37分23秒 ) パスワード
  

烏夜啼さま

 お心使いを頂き有難うございます。

 烏夜啼さまのおかげで新たな世界に興味を持つ事ができました。『東アジア琴筝の研究』、一度図書館で探してみようと思います。またその前に、早くCDをお店で見つけ、聴いてみたく思います。

 私は今夏、伊勢の神宮においてお神楽奉納を観覧する機会を得たのですが、その際の厳粛な空気の中での舞人の優雅な舞と、奏楽におけるとりわけ琴の美しい音色に魅入られ、もう少し奏楽の世界を知りたいと思っていたところでした。

 また表立った政治的な権力闘争としての歴史のみでなく、詩歌や音楽というものを通しての、当時の平家人の「生」や心性が垣間見れた気がいたしましたので、烏夜啼さまとのやりとりは楽しかったです。

 ありがとうございました。
[40]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月14日 21時05分43秒 ) パスワード
  

そのように、仰って頂くと、大変嬉しく思います。なかなか経盛一家について詳しい方に出会えませんでしたので、takahiro様のような方とお話できて、とても幸せです。


CDは『殿上人の秘曲』といいます。和琴が本当に素晴らしいですよ。普通の管絃のCDや、舞楽のビデオ等もご覧下さい。

七絃琴曲は神田の神保町のすずらん通りにある中国書籍専門店に、国内では入手不可能なCDが沢山置いてあります。
でも、名曲を沢山聴くことはできなくても、少し大きめのCD店に行けば、おそらく2,3枚は入手できると思いますよ。


三谷氏の本はちょっと特殊なので、普通の図書館にはない可能性もあります。
もしなかったら、ヤマハ等のお店の中でも大きめの店舗に行ってみて下さい。或いは、音楽大学の図書館が宜しいかと思います。
[41]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月16日 20時27分10秒 ) パスワード
  

琵琶西流。
院禅家と桓武平氏の関係が分かりました。


流祖・院禅と妻殿(院禅の弟子。皇嘉門院の師)との子・長慶には、孝博という子がいました。孝博は父長慶と祖父院禅の弟子でしたが、長慶の弟子・博定の猶子でした。
この孝博は桂流の源信綱や、妙音院の師長、かの藤原信西、藤原重通(中原有安の師)等の師でした。
孝博には周防という娘がおりました。周防は藤原成隆との間に孝定(孝博の猶子)を儲けました。
平教盛は周防の夫・成隆の姉妹を室とし、教子が生まれています。平教子は西流の正統な後継者である孝定と、いとこ同士だったのですね。
さらに。
孝定には孝道という子があって、この人は師長の弟子となっていました。この孝道には讃岐(ゑんてう。筝の琴の名手)や孝時等、幾人もの子がありましたが、その中に、尾張内侍(すぢ。讃岐と孝時の同母姉妹)という人がいました。
平教子は高倉範季との間に範茂を儲けましたが、範茂は平知盛女との間に範継を儲けました。
範継は尾張内侍の弟子となり、その子範藤は範継の弟子となりました。


でも、平家人で西流を嗜んだ人はいなかったようです。
やはり、桂流の経正と盛子くらいですかねえ。
他の公達でも、重衡など、琵琶を嗜む人はいたようですが、系統が分かりません。

[42]takahiroさんからのコメント(2003年09月17日 11時27分48秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年09月17日 11時30分18秒
[43]takahiroさんからのコメント(2003年09月18日 09時07分22秒 ) パスワード
  

>[41] 烏夜啼さま

 新しい情報を有難うございます。

 またゆっくりと返信させて頂きます。([42]は誤記が多かったので削除致しました。失礼しました。)

 藤綿範継は、前出藤原隆衡夫妻にも大変愛顧された人物であったようです。
[44]takahiroさんからのコメント(2003年09月25日 14時20分17秒 ) パスワード
  

【訂正】

[43]の

「藤綿範継は、…」
  ↓
「藤原範継は、…」

でした。失礼しました。
[45]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月27日 19時37分51秒 ) パスワード
  

和琴血脈

不覚にも、つい先ほど気づきました。

琵琶桂流の源信綱は、和琴の名手でもありました。で、これを治部卿局に伝えたのですが、その治部卿の弟子の中に、琵琶の弟子が二人含まれておりまして・・・・・・一人は證盛なのですが、もう一人が白河北政所とありますから、これはすなわち平盛子のことですよね。
平盛子は和琴の名手だったのですね。『和琴血脉』に確かに載っていますから、正真正銘の和琴の名手だったのです。
琵琶の方は、血脈からもれていますので、もしかすると、和琴の名手という事実から、『平家物語』が琵琶の名手にもしてしまったのかもしれません。都合よく、治部卿局の弟子でしたしね。
どうやら『平家物語』の中で、最も大事にされている楽器は琵琶のようです。
琵琶法師が、種類が違うとはいえ、楽琵琶を大事に思う気持ちはよく分かります。琵琶のエピソードには思い入れが深かったそうですから、できるだけ多くの琵琶の名手をつくり出したかったのでしょう。
[46]takahiroさんからのコメント(2003年09月30日 00時45分17秒 ) パスワード
  

>平盛子は…『和琴血脉』に確かに載っていますから、
>正真正銘の和琴の名手だったのです。

新しい情報をありがとうございます。平盛子は和琴の名手であったのが、琵琶の名手に書き換えられているとの可能性、確かにあり得ると思います。

少なくとも、『和琴血脉』に名があると言う事は、平盛子は確かに和琴の名手であったのですね。

>琵琶の方は、血脈からもれていますので…

和琴の名手であったのが、琵琶の名手に書き換えられたのか、あるいはまた、実際に琵琶の名手でもあり、こちらは血脈に書き漏らされているのか、つまり、平盛子は実際に、和琴も琵琶もともに治部卿局に師事し、和琴、琵琶ともに名手の域に達したが、和琴の方は『源平盛衰記』に書き漏らされたのでしょうか。

以下が、『源平盛衰記(巻二)』<清盛息女事>による平盛子に関する記載の原文です。

『六条摂政基実公の北政所也。是は世に勝れ給へる琵琶の上手に御座き。経信大納言より四代の門葉、治部尼上の流れを伝て、流泉、啄木まで極給へり。高倉上皇御即位の時、御母代にて、三后に准る宣旨を賜て、世には重き人にて御座き、白川殿とぞ申ける。』
[47]takahiroさんからのコメント(2003年09月30日 09時28分16秒 ) パスワード
  

記し忘れていましたが、『源平盛衰記』原文は、
http://www.j-texts.com/sheet/seisuik.html
から引用しました。
[48]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月30日 09時49分33秒 ) パスワード
  

『源平盛衰記』の原文ありがとうございました。

どれが本当なのか、なかなか判断つきませんよね。単純に治部卿局(治部卿尼)の弟子と聞いて、それなら琵琶の名手に違いない、ということだったのかもしれないし。『琵琶血脉』に名の載る人は秘曲全曲許された人のみなので、1,2曲のみ許された人は載ってません。また、全曲許された人でももれてしまった人はいるそうですし・・・・・・
[49]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月30日 09時54分49秒 ) パスワード
  

[48]の「尼」という言葉


どうも、楽の名手である女性の芸名のようなものらしいです。実際尼だった人も多いのでしょうけど。

尾張尼、能登尼、治部卿尼、夕霧尼・・・・・・等等
[50]takahiroさんからのコメント(2003年09月30日 12時29分46秒 ) パスワード
  

また、先にも出ていました、藤原隆房室・清盛娘についての奏楽に関する『源平盛衰記(巻二)』における原文は下記の通りです。

『冷泉大納言隆房北方にて、御子数多御座き。是又情ある女房にて、琴の上手とぞ聞え給ひし。昔唐の白居易は、琴詩酒の三を友として、常は琴を引て心を養ひ給けり。管絃の道はなをざりなれ共、此を調るに、自つれ/゛\を慰む事たりぬと書置給けり。彼楽天の筆に自在を得給て、聊も作給へる詩篇を、よく人に被知給へり。其中に、随分管絃還自足、等閑篇詠被知人と書給へる詩を、北方常に詠じて心澄まし琴を弾じ給へりけり。太政入道は琴を愛して、女房達を集めて、常に聞給ける中に、秋風、鈴虫、唐琴渋と云、代の宝物四張あり。西園寺の名主、閑院少将、当摩寺紅葉、堀川侍従とて、四天王に算へられたる琴の上手を招寄て、常にひかせて聞給へども、異なる瑞相はなかりしに、此北方、村雲と云琴を調べ給へる時、色々の村雲忽に聳て、軒端の上に引覆、万人目を驚し、入道感涙を流し給ふ。狭衣の大将光源氏の君、管絃を奏し給しに、天人影向し給しも、角やと被思知たり。』

上記によると、平清盛自身が非常に「琴を愛し」た人物であったのですね。

また、生母が常葉である清盛娘「廊の御方」についてみても、和琴の名手であったとの記載が見えます。

『九条院雑子、常葉が腹の娘成けるを、花山院左大臣の御台盤所に親く御座せばとて、上・女房にて御座けり。三条殿とも申けり。又は廊の御方とも申けり。大臣殿も密に通給ければ、姫君一人出来給へり。此女房和琴の上手にてまし/\ける上、類なき手書にて御座ければ、手本賜はらんとて、人々色々の料紙を奉り置たれば、書も敢給ず、色々の料紙共、傍に取置せ給たりければ、朝夕は錦を曝す砌とぞ見えける。』
[51]烏夜啼さんからのコメント(2003年09月30日 23時06分59秒 ) パスワード
  

takahiroさま

またまた、原文を有難うございます。

白居易は確かに、琵琶の詩もよく作る人でしたが、七絃琴への思いはとても深く、独自の考えも持っている人でしたよね。

上記の琴名は、「秋風」は琴曲名としてしばしば使われる名で、何となく納得しました。「鈴虫」というのは謎だけど・・・・・・。『宇津保物語』なんかを見ても、面白い名の琴が出てきます。「なんふ(南風)」なんて、帝舜が琴を作って南風歌を歌ったという琴起源伝説に因んだ名の琴ですし、けっこう日本人にも琴に詳しい人はいたのだな、と思います。

『源平盛衰記』を書いた人の中には、けっこう琴に詳しい人がいたように思われ、全くのデタラメでもないので、とても驚いております。
[52]烏夜啼さんからのコメント(2003年10月01日 00時00分51秒 ) パスワード
  

隆房室の琴演奏による奇瑞は、『源氏物語』にある奇瑞譚の例というのを参考にしているのかもしれませんね。『源氏物語』のそれは、ほとんど『宇津保物語』の秘琴演奏による奇瑞の事を示しているので、『源平盛衰記』のも、何となく似ているように思います。
因みに、「せたふ(栴檀風)」を俊蔭が弾くと、瓦が砕けて花のように散ったり、六月なのに雪が降ったりしました。
「はしふ(波斯風)」を俊蔭女が、「りうかくふ(竜角風)」をその子仲忠が、「ほそをふ(細緒風)」をその娘犬宮が弾くと、星々が雷のようにひらめき騒ぎ、沈んだはずの月が明るく光って、そのまわりに星々が集まり、色々の雲が月のまわりに立ち舞い、琴の音が強くなると、月、星、雲も騒がしくなったとか。
俊蔭女が「ほそをふ」を弾くと、いろいろの霰が降り、星騒ぎ、珍らかなる雲が立ち渡り、「はしふ」を弾くと、雷が騒々しく鳴り、地震のように土が動いて、水が湧いたそうで・・・・・・
『源氏物語』の琴によって天地を動かしたことの例というのは、これ等のことかと思われます。

『源平盛衰記』もこのあたりを参考にしているのでしょう、きっと。


因みに、琵琶の奇瑞に村雨云々、というのが多いのは、『琵琶行』のイメージからきているのかな、と思います。



なんだか、随分経正からかけ離れてしまいましたね。すみません。もし他の方がここを覘かれたら、一体なんなんだろう、と思われるに違いない・・・・・・
[53]takahiroさんからのコメント(2003年10月01日 09時27分13秒 ) パスワード
  

烏夜啼さん、さすがにお詳しいですね。

上に挙げた『源平盛衰記』の原文から、琴演奏の奇瑞についての『源氏物語』、『宇津保物語』との関連等、さまざま推測できるのですね。

琴演奏の奇瑞については初めて知りましたが、素晴らしい奏楽の音は天地の理にまでも影響を与えるという、当時の人々の奏楽に対する畏敬の念の大きさがとてもよく理解できました。

*こちらに経正の係累のわかり易い紹介がありました。

 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01103.htm

上記、経正末裔生島氏、豊島氏については『平家後抄』(角田文衛著)の下巻にも詳細に紹介されています。

(経正末裔の生島さんとは、京都の神社関係者に現在でも実際におられます。)
[54]烏夜啼さんからのコメント(2003年10月01日 16時42分32秒 ) パスワード
  

系図、ありがとうございます。

『源氏物語』「明石」に、なんとも不可思議な描写の琴演奏場面があります。紫式部は流石に博学だ、というか・・・本当に分かっていたのかどうか・・・ちょっとナゾな場面で面白いです。
[55]烏夜啼さんからのコメント(2003年10月04日 23時51分13秒 ) パスワード
  

『残夜抄』

七絃琴についての記載がありました。

・・・・・・琴。たえたり。ながさ三尺五寸。くろくぬりて絃七すぢあり・・・・・・

これを書いたのは琵琶西流の藤原孝道。孝道は仁安元(1166)年生まれですから、平経正にも能登尼にも直に会っていると思われるので、この二人のことは「けり」ではなく「き」と書いています。
その孝道が「七絃琴は絶えた」と、述べているので、平家時代には琴は行われていなかったということになるのではないでしょううか。
何だか、いろいろなことを楽しく空想してましたのに、がっかり。
[56]烏夜啼さんからのコメント(2003年10月05日 00時32分41秒 ) パスワード
  

『啄木』は見る・・・・・・



琵琶の秘曲を許されていなくても覚えてしまった人が存在した理由です。
『胡琴教録』に面白い記載があります。『啄木』を弾く時は、周囲の人を追い出せ、と言っています。それというのも。

そのしだいをみるにこじつをしる。よて啄木をば見るといふなり。もし比巴ひかんもの。そのふをえてかのこじつをみれば。のこる所あるべからざるか。もともこれをひすべし。


本当に琵琶の曲は単純なのですね。
見れば、心得あってちょっと才能があれば、弾けてしまうとは。
「見る」というのが何とも面白いですね。
[57]烏夜啼さんからのコメント(2004年01月22日 17時19分23秒 ) パスワード
  

[37]、及び[55]についてです。

藤原孝道は『残夜抄』で琴は絶えたと記しています。つまり、平家時代は琴は廃れていた、と考えられます・・・
一方、岸辺成雄先生が『実冬卿御記』の弘安8(1285)年2月30日の記載(藤原貞子九十の賀)を紹介していっらっしゃって、確かに琴を演奏したらしいような雰囲気がしないこともない感じがします。
又、浦上玉堂は『玉堂雑記』で、平重衡愛用琴(厳島神社の『法花』)の梅花紋等を見て、平家時代に琴は行われていたと述べています。

『源平盛衰記』の記載を信じたいですね。
[58]takahiroさんからのコメント(2004年01月24日 11時47分14秒 ) パスワード
  

烏夜啼様

しばらく御無沙汰しておりました。

あらためてですが、烏夜啼様の[52]のコメントをお読みし、感慨深いものがありました。

『因みに、「せたふ(栴檀風)」を俊蔭が弾くと、瓦が砕けて花のように散ったり、六月なのに雪が降ったりしました。
「はしふ(波斯風)」を俊蔭女が、「りうかくふ(竜角風)」をその子仲忠が、「ほそをふ(細緒風)」をその娘犬宮が弾くと、星々が雷のようにひらめき騒ぎ、沈んだはずの月が明るく光って、そのまわりに星々が集まり、色々の雲が月のまわりに立ち舞い、琴の音が強くなると、月、星、雲も騒がしくなったとか。
俊蔭女が「ほそをふ」を弾くと、いろいろの霰が降り、星騒ぎ、珍らかなる雲が立ち渡り、「はしふ」を弾くと、雷が騒々しく鳴り、地震のように土が動いて、水が湧いたそうで・・・・・・』

おそらく琴を爪弾くこととは、単に楽の演奏にとどまらず、目に見えぬ天神地祇への働きかけであるとの意も有していたのでしょうね。

天地の理に関わる事、すめらみことに関わる事であるから奇瑞をももよおす曲は秘された。おそらく宮中の神道蔡祀にも秘曲は密接に結びついていたのではないでしょうか。

秘であるが故文献には残りにくいだけで、平家の時代も秘曲を含め琴の演奏は公にもまた秘にも連綿と続いていたのではないかと私は感じます。

今後とも烏夜啼様のコメントを楽しみにしています。
[59]烏夜啼さんからのコメント(2004年01月24日 21時06分39秒 ) パスワード
  

takahiro様

ご無沙汰しております。

お忙しいところ、コメントを頂きまして、恐れ入ります。

御神楽には秘曲の部分も多く、その部分の演奏者以外は遠ざけられるようで、まさしくtakahiro様の仰る通りであると思います。

それから、奇瑞の種類が異なりますが、秘曲伝授譚そのものが又、奇瑞と申しますか、奇妙と申しますか・・・

琵琶秘曲や琴秘曲は人間以外のものによって伝授されることが多かったようですね。
琵琶の『上原石上流泉』は唐の廉承武の霊が村上天皇へ。琴の『広陵散』は古人(伶倫・伝説上の音楽の創始者)から魏・晋の嵆康へ。『広陵散』は『聶政刺韓王曲』(聶政が仙人から琴を学んで作った曲)と関連性があって、復讐の曲ですが、広陵地方の仏教関係の曲とも言われ、『源氏物語』では、明石に下向した光源氏が演奏し、明石の入道が極楽浄土の音楽だと感じて涙するのでしたよ、確か。

『宇津保物語』の俊蔭は波斯国の栴壇の林の仙人から琴を学び、阿修羅が守る木で天稚御子が作った琴を30張入手するのでした。


琵琶の「玄上」には意志があって、何やらいろいろやらかしていますが、秘琴、秘曲の類というものは、本当に天の理をも動かす物凄いものであるのですね。
奇瑞をもよおす曲は秘された、宮中の神道祭祀にも密接に結びついていたという、takahiro様の仰る通りであると思います。御神楽という曲というか儀礼が、その何よりの証拠でしょう。
[60]takahiroさんからのコメント(2004年01月25日 12時56分34秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年01月25日 13時43分39秒
[61]takahiroさんからのコメント(2004年01月25日 13時46分27秒 ) パスワード
  

烏夜啼様

早速の御返信有難うございます。

>それから、奇瑞の種類が異なりますが、秘曲伝授譚そのものが又、奇瑞と申しますか、奇妙と申しますか・・・
 
確かに拝読しましたら、史実というよりまるで神話のような伝承が数多く伝えられているのですね。一つ一つが非常に興味深いです。「琴」という楽器は、また「琴」の音色はそれだけ神秘的な印象を人々へ与えていたという事なのでしょうか。

興味深いお話の紹介、有難うございました。


>琵琶の「玄上」には意志があって、何やらいろいろやらかしていますが

これはどのような事なのでしょう…。

またお時間ある時でいいですのでお教え下さい。


またやはり「琴」は御神楽を通し、宮中蔡祀にも関連していたようなのですね。

今後とも当スレッドにおいて、経正、琴について烏夜啼様ならではのお話の紹介をお願いします。

私も何か判れば投稿致します。

やはり、私は「重衡の琴」については気になり続けております。
[62]烏夜啼さんからのコメント(2004年01月25日 19時00分06秒 ) パスワード
  

申し訳ありません。

「玄上」は「玄象」と書く方が一般的ですね。
この琵琶にはいろいろありますよ。
例えば、内裏炎上の折は、自ら逃れた、とか。下手な人が弾こうとすると、馬鹿にして(むくれて?)鳴らない、とか・・・
この琵琶には意志があるのだそうです。
他には鬼が弾いた、とか、沢山逸話がありますよ。
南北朝時代に消失してしまったそうで、残念ですね。
因みに、『上原石上流泉』を村上天皇に廉承武の霊が伝えた時、『平家物語』では、霊は「青山」を弾いたと述べていますが、霊が弾いたのは「玄象」というのが一般的です。


「青山」は鎌倉時代後期までには消失してしまいましたから、これも残念な話ですね。でも、後醍醐天皇の御代には模造品が造られて、これは現存しています。

経正というと「青山」ですが、この人は「われがね」も弾いたかもしれず、「青山」は現存しませんが、「われがね」がどうなったのかは、調べてみたいと思います。もし、経正が実際愛用した琵琶が現存していたら、とても幸せなことですものね。

厳島神社の琴も、実際に重衡が愛用したものであったら、と願わずにはいられません。
[63]takahiroさんからのコメント(2004年01月27日 15時21分46秒 ) パスワード
  

烏夜啼様

>この琵琶には意志があるのだそうです。

「玄象」をはじめ、名器は自らに意志をもつに至っていると考えられているのですね。あるいは霊が弾いた、鬼が弾いたですとか、やはり名器になればなるほど、神秘的な説話にも彩られているのですね。興味深いです。またお読みしていましたら、「玄象」にしろ、「青山」にしろ、「われがね」にしろそのものの現物は今に伝わってはいないとの事、尚更、厳島神社伝来の琴は実際に重衡愛用の琴であって欲しいとの気持ちが高まりました。

エピソードの紹介、有難うございました。
[64]ckarb405さんからのコメント(2004年03月18日 08時06分58秒 ) パスワード
  

突然のメールにて失礼いたします。
平家物語に少し関心があるのですが、
お二人のスレッドを拝読させていただき、とても勉強になりました。

この度書き込みさせていただきましたのは、
烏夜啼様の書き込まれた、以下について、お教えいただけたら、と思ったためです。

>「青山」は鎌倉時代後期までには消失してしまいましたから、これも残念な話ですね。でも、後醍醐天皇の御代には模造品が造られて、これは現存しています。

これは、現在どちらに所蔵されるものなのでしょうか。
また、実際に見ることは可能なのでしょうか。
あるいは、館山漸之進『平家音楽史』に記載されている「青山琵琶図」とは、
何か関係があるものでしょうか。

お聞きするばかりで、まことに失礼とは存じますが、
お教え賜りましたら幸いに存じます。
よろしくお願いいたします。

[65]ckarb405さんからのコメント(2004年03月18日 08時19分41秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年03月18日 08時21分58秒
[66]ckarb405さんからのコメント(2004年03月18日 08時24分26秒 ) パスワード
  

申し訳ありません。同じ文面を二度送信してしまったため、
一つ削除致しました。失礼致しました。
[67]烏夜啼さんからのコメント(2004年03月19日 20時24分23秒 ) パスワード
  

ckarb405様

館山漸之進『平家音楽通史』は以前パラパラと適当に飛ばし読みした記憶があるのですが、全く内容を覚えておりませんで、何とも情けなく、お恥ずかしい限りです・・・もし宜しければ、その内容をお教え頂ければ有り難いのですが……

「青山」についての楽書における記載は少なく、実は「青山」についてはっきりしたことは分かりません。
『胡琴教録』『残夜抄』『夜鶴庭訓抄』『文机談』等等、経正のころの琵琶についてあれこれ分かる文献にも「青山」は出てこないし、琵琶灌頂の系譜である『琵琶血脈』にも経正の名そのものが見当たらないのでよく分かりません。
承久2年3月2日、稀代の名器ばかりを集めて行われたであろう『順徳院御琵琶
合』にも「青山」の名はないので、源氏の時代になって間もなく「青山」は散逸してしまったのだろう、というのが研究者の見解なのではないかな、と思いました。

そこで、過去の名品の模造品を作ろう、ということで鎌倉時代の末に「青山」銘の琵琶が作られたのではないか、と研究者は考えているようです。
その模造品についての文献が、実は今、手元になくて、別の家にあるものですから、きちんとしたご報告は1週間ほどお待ち頂きたいのですが・・・・・・私のあやし〜い記憶によると、確かその模造品には後醍醐天皇の御代の元が記してあって、一説によると近衛家でしたか、ちょっと忘れましたが、五摂家の何れかの家に代々伝えられてきて、明治になってから献上されて宮中の御物になったとか・・・。でも、私は写真でその模造品を見たのですが、それは確か九条家蔵であったような・・・。諸説あるのか、それとも後醍醐朝の模造品が幾つもあるのか、ちょっとよく分かりませんが、九条家のものは旧蔵ではなく、多分今でも所蔵されているかと推察致します。雑誌なんかにも載ったことがありますので、公開されることもあるかもしれませんね。

それから、平家琵琶にも「青山」銘のものがあるほどで、「青山」という名の琵琶は幾面もあるそうですよ。でも、経正愛用の本物は現存していないのです。経正の「青山」だ、と宣伝しているものは偽者である、と研究者はそういう結論に至っているようです。


件の模造品については資料を置いている家の方に行ってきちんと確認して参りますので、しばらくお待ち下さい。

不確かなことばかりで、申し訳ございませんでした。
[68]烏夜啼さんからのコメント(2004年03月19日 21時09分26秒 ) パスワード
  

上記、『平家音楽史』を間違えて『平家音楽通史』と書いたことに気づきました。失礼致しました。

館山氏というと、平曲家ですよね。もしかすると、楽琵琶ではなくて、平家琵琶の「青山」のことが記されているのかな、と思いました。
[69]烏夜啼さんからのコメント(2004年03月25日 20時05分24秒 ) パスワード
  

現存する「青山」銘の楽琵琶は少なくとも2面はあるようです。

1つは宮中の御物。
嘉暦4(1329)年7月8日の刻字のあるもの、即ち後醍醐天皇御時のもの。
明治時代、鷹司熈通が献上したものだそうです。


いま1つは九条家伝来のもの。
貞治2(1363)年の銘のあるもの。
国立劇場蔵だそうですから、現在は九条家から離れているようです。


私、この2面を混同しておりましたようで……
紛らわしいことを申しまして、申し訳ありません・・・。

もしかしたら、他にも幾つも「青山」銘の楽琵琶が存在するのかもしれませんねえ。
でも、経正が覚性法親王より預け下されて、都落ちの折に守覚法親王へ返上した「青山」は、『楽家録』にも「古く消失して今世これを聞かず」とありますので、確かに消失しています。
[70]ckarb405さんからのコメント(2004年03月26日 23時24分44秒 ) パスワード
  

烏夜啼様

青山の模造品について、お教えいただき、ありがとうございました。
書き込みしてから、所用でパソコンを見ることができませんでした。
お聞きしておきながら、大変失礼いたしました。

青山という銘の琵琶は何面もあるのですね。
『平家音楽史』の「青山琵琶図」につきましては、以下に関連箇所を引用します。

「漸之進博物館藤田主事に遇し、青山の琵琶の談を為すに、同氏親切に集古十種を
携へ来り一見するに黒田長成侯に、平経正所愛の琵琶とし其の図を載す、
経正所愛といへはすなわち青山の琵琶なるにより、音楽学校長に請ひ、
黒田家に照会せしに、左の回答を得たり。

 拝読陳者御照会之趣敬承然に当家所蔵之琵琶は平経正青山を模造し
 ほとゝぎすと名付られたるものにて天正十八年北条氏直より祖先
 孝高へ譲与之旧記も有之候如右青山には無之候へ共御参考之為
 御来館御希望に候はゝ差支無之候間前以日時御一報被下度御答
 旁此段申進候也
 明治四十三年二月十四日 侯爵黒田長成家令 山中立木
    東京音楽学校長湯浅元一殿 」(p958※旧字は適宜変更しました)

それと、口絵に「青山琵琶図」が掲載されていますが、
平家琵琶か楽琵琶かは、私にはわかりません。
烏夜啼様にお教えいただいた琵琶とは違うものかもしれません。
模造品が沢山あるかもしれないとのこと、興味深く感じました。
本当にありがとうございました。
[71]烏夜啼さんからのコメント(2004年03月27日 04時41分28秒 ) パスワード
  

ckarb405様

大変興味深い書き込み、有難うございます。
又、『平家音楽史』「青山琵琶図」の文章をわざわざお書き下さり、恐れ入ります。面倒なことをお願いし、申し訳ございませんでした。


黒田家にも「青山」の模造品があったのですね。驚きました。貴重な情報、有難うございます。
この模造品は、九条家伝来品や宮中御物のように、「青山」などとは称さず、「ほとゝぎす」としているのは紛らわしくなくて良いな、と思いました。
これはいつ頃造られたものなのでしょうね。
模造品というからには、鎌倉時代初期であって欲しいです。
これは、今いったいどちらにあるのでしょう??
特に何も変化がなければ、東京芸大が所蔵しているのでしょうけれども・・・


これで、経正愛用の楽琵琶「青山」の模造品は、少なくとも3面は存在することになりますね。





楽琵琶と平家琵琶は抱えて演奏している姿を見れば、どちらなのかすぐに分かりますが、ただ楽器の写真や絵だけ見たのでは、どちらか見分けがつきませんよね。よく似ていますから・・・・・・


因みに、私が写真で目にしたことがあるのは、九条家伝来の楽琵琶「青山」と、平家琵琶「青山」だけです。
[72]ckarb405さんからのコメント(2004年03月28日 18時33分57秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年03月28日 18時44分02秒
[73]ckarb405さんからのコメント(2004年03月28日 18時43分44秒 ) パスワード
  

烏夜啼様

「青山琵琶図」についてですが、
『国書総目録』に
「青山琵琶図(あおやまびわず)一軸、絵画、東博(模写)」
と記載があり、東京国立博物館所蔵のものが、関連があるかと推測されます。
ただ、実際に見て確認しておりませんので、詳細はわかりません。
また、この模造品の実物が現存するかも、わかりません。
お聞きするばかりで、本当にわからないことばかりで、申し訳ありません。
国立劇場と御物の琵琶、とても興味を持ちました。
写真など見られるものを探してみたいと思います。
[74]ckarb405さんからのコメント(2004年03月28日 19時14分29秒 ) パスワード
  

削除いたしましたものは、後の書き込みと
ほぼ同内容のものですが、「模写」と書いてあるものが、
『平家音楽史』記載のものと同じもののように書いてしまいましたので、
訂正いたしました。
どの程度関連があるかわかりませんが、
とりあえずご参考までにと思い、書き込みいたしました。
不勉強のため、他に関連があるかと思われるような情報を存じません。
本当に申し訳ありません。
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