キーワード:板碑 コメントの種類 :史蹟
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大変ご無沙汰しております。
東京で、平家滅亡のころから始まった石造物「板碑」についてお話し合いを持ちましたので、それと九州との関係を記してみます。
板碑は鎌倉時代の始まりとともに造立されだし、戦国時代の終焉とともに終わった石像物です。
それは、本来五輪塔などと同じく、追善供養や逆修(生前功徳を積んでおくこと)を目的としたもので、インド以来のいわゆる塔婆の一種であって、ただの石碑ではありません。五輪塔などが中世からそうした名称をもっていたのに対し、板碑はその形から昭和になって「板碑概説」で有名な服部清道さんにより付けられた名で(そういえば服部さんの親戚かも。29歳でこれを書いたというのですからすごいですね)、以上の成立に照らし適当な名前ではないとの説もあります。
この板碑は埼玉県に最も多く2万数千基が、東京に1万数千基が知られ、それらの多くは秩父系の緑泥片岩を薄く剥いで、頂上を三角にし、二条の線を入れた下部に阿弥陀(キリーク)三尊を彫ったものが一番多いのですが(80パーセント近く)、題目や禅語を彫ったものもあります。元弘3年(1333年)の板碑もいくつか知られ、その中の、入間市円照寺にあるものは、北条高時に殉じた丹党の加治家貞を関係者が供養したもので、そこには有名な臨剣頌、つまり、北条時宗の先生である渡来僧無学祖元が中国で蒙古の兵に述べた言葉が書いてあります。「乾坤 孤きょう(こきょう・つえ)を立つるに地なし 喜びえたり 人 空にして 法また空なるを 珍重す 大元 三尺の剣 電光影裏に 春風を斬る」と(ただし、円照寺のものは若干字句が異なります)。
私は大宮の県立博物館でそのレプリカを見たことがありますが、グッと来るものがありました。
さて、私の故郷の肥前ではと見ると、例えば吉野ケ里部落の真ん中の石頭院にはたくさんの板碑があり、この寺が近くの東妙寺と元はいっしょだったことによるものと考えられます。奈良の西大寺を本山とし鎌倉北条氏と関係深いことから、東国の文化の伝播の一つとしてこれら板碑もやってきたのでしょう。
神埼の荘は平家のドル箱のあと三浦氏が一時勢力を持ち、1247年の宝治合戦で三浦が敗れると北条氏が押さえて、更に元寇の恩賞地となりましたので多くの東国武士がやってきたことと思われます。しかし、関東のような粘板岩は取れませんから、そこでは安山岩系の石です。ちなみに太宰府で私がみたのは花崗岩製でした。
昔の人の故郷に寄せる切実な気持ちが伝わってくるようでした。阿波や東北でも同様の板碑があり、感動させられます。
こうした板碑は、文禄・慶長以降作られなくなり、正に中世武士道の時期と重なるわけで、武士道の二つの種類、つまり中世武士道と近世武士道との違いについて考えている私としては無視できない一つの事象で
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