【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
 投稿番号:100538 投稿日:2003年07月11日 18時30分36秒  パスワード
 お名前:山口県民♪
平家一門の生き残り
キーワード:平家一門
コメントの種類 :その他
本人によりコメントは削除されました。 2003年07月11日 18時36分42秒
[1]山口県民♪さんからのコメント(2003年07月11日 18時38分45秒 ) パスワード
  

はじめまして。
つい最近、母から話を聞いたのですが、何やら私には平家の血が流れているみたいです。(母も兄もそうなんですが)というのも、私の祖父の方のご先祖様があの壇ノ浦で生き残った平家の武士だったそうです。もしあの時ご先祖様が死んでいたら、今の私はいません(笑)で、最近学校の古典の授業で「壇ノ浦」をやったばかりで、色々と興味をもったり・・・。その古典の教科書に「越中次郎兵衛・上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛騨四郎兵衛はなにとしてかのがれたりけん(どのようにして逃れたのであろうか)、そこをもまた落ちにけり(そこからもまた逃げ延びていった)。」という文章があるのですが、もしかしたらこの中に!?と思ったり、思わなかったり(謎)祖母曰く、30年前に新聞に載っていたそうなんです。ご先祖様は一体誰なのか気になるところです。。。  何かないですかねぇ〜(笑)


[2]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月12日 00時21分52秒 ) パスワード
  

まず苗字ですね。
それから家紋。
出来れば明治の初めの戸籍謄本から江戸時代はどこに居住してたか?

そこからその土地の有力者を探し御先祖との関係を調べていく。


もうすぐお盆なので
その席でご親戚のおばさま・おじさまに
うちってどういう家だったの?
と聞いてみることですね。


仏壇の中の過去帳をみたりお墓に行ってみるとか。
それからホンヤはどこかとか。


上総五郎兵衛はとにかく頼朝の首をとろうと
魚の鱗を目に貼って
盲のふりをして近づいて
という大変な努力をしています。
[3]山口県民♪さんからのコメント(2003年07月12日 12時00分18秒 ) パスワード
  

>当分ギャンブラーじゃないさん
レスどうもありがとうございます^^
もうすぐ夏休みだし色々調べてみようと思います。
苗字や家紋ですか〜〆(._.)メモメモ
アドバイスありがとうございました(>∀<)
[4]植本大介さんからのコメント(2003年07月14日 00時25分30秒 ) パスワード
  

>山口県民♪さん
はじめまして。ずいぶん前に私も同様のカキコしてました。
うちの本家も平家の生き残りと言われているのですが、
親戚の叔父から「30年ほど前の朝日新聞にのっている」
ってなことを聞いて大学の図書館でいろいろ当たっているのですが
なかなか手がかりがありません。
なにか情報お持ちでしたらよろしくお願いします。

ちなみにうちの本家は若狭湾です。
[5]平家さんからのコメント(2003年07月16日 00時13分39秒 ) パスワード
  

はじめまして。旧姓、平家といいます。静岡に住んでいます。

昔から名前の由来が気になっていましたが、両親が離婚していることもあり知る機会がありませんでした。最近とっても気になって調べたいと思っています。父の出身は愛媛県の宇和島ですが、おじいちゃんは保内町の出身のようです。そこまでわかっていますが、あとはどうやって調べようかなぁと悩んでいます。

どのように調べていったらよいか、よい方法や情報などありましたら教えてください。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月16日 00時41分35秒 ) パスワード
  

>旧姓、平家といいます。

「平家」ってなんてお読みするんですか?
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月16日 01時28分09秒 ) パスワード
  

まず戸籍謄本をお取りになってください。
明治の初めまで遡って取ってください。

明治の初めでしたら江戸時代どこに住んでたか、かなり分かります。
日本人は江戸時代は転居の自由が無かったので江戸時代どこに住んでたか
その土地の電話帳で同じ姓の人に電話しまくります。
あんまり効果は期待できませんが。

その他
お墓ですね。
それから菩提寺。

かなり特定出来たら歴史で調べることになりますね。


平家さんって珍しいお名前なので調べ易いと思いますが。
[8]山口県民♪さんからのコメント(2003年07月18日 13時02分42秒 ) パスワード
  

>植本大介さん、平家さん
はじめまして。書き込みありがとうございます^^
同じような疑問を持っている方がおられたとは・・嬉しいです(^▽^)/
えっと、やっぱり30年前に朝日新聞に載っていたのを祖母は見たそうです。
祖父の母の親元が平家の武士だったようです。壇ノ浦の戦いで敗れ、山口県の美祢市にある『南原寺(この字であってると思うんですが)』に逃れてきたそうです。で、平家のお偉い人に薬屋を開き、生計を立てろと言われ、ずっと薬屋を営んできたようです。今はやってないそうですが『内田漢方』という薬屋だったようです(これも美祢市にあるようです)。その薬屋に昔、鎧兜などあったと祖母はいうんですが・・・、戦争があったりして、今はあるかどうかさえ分かっていません。暇があれば美祢市に行って調べてみたいと思います。
平家という苗字だったんですか〜・・それは大きな手がかりかもしれませんよ!図書館とかありそうでなかったり。。。ここまでが今のところ限界です(笑)また情報があったら教えてください☆
[9]静岡の旧姓平家さんからのコメント(2006年05月08日 23時45分35秒 ) パスワード

今週末、やっと愛媛へ行く機会に恵まれたので、戸籍を頼りに行ってみる事になりました。平家(へいけ)という名前は保内町に多いみたいです。小さい頃、平家谷や流しそうめんへ行った記憶があるので、行けたらと思っています。母に聞いたら、祖父の家は領家で、町長さんだったらしいので、もしかしたら詳しくわかるかなと思っています。
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月09日 00時29分00秒 ) パスワード

宇和の平家落人伝説は知らなかったです。

お里帰りで詳しいことが分かると良いですね。

落人伝説について
http://www.city.yawatahama.ehime.jp/0kankou/heike/index.html
詳しくはURLをクリックしてくださいね。


宮内川上流の「平家谷」一帯は、平家落人たちの哀しい伝説が残る場所。渓谷と自然林がことさらに美しく、今では憩いとやすらぎの場として生まれ変わり、人々に親しまれています。


壇ノ浦の戦い(1185)に敗れた平家の落人たちが隠れ住んだと伝えられている平家谷と鼓尾、枇杷谷、両家地区には、「平家落人伝説」が残されています。現在平家谷は、森林公園やダム湖、遊歩道が整備され、保内町を代表する観光地となっています。


蘇る平家落人 伝説の里「平家谷」  
桜やツツジ、あじさいの花が咲き乱れる春、瑞々しい緑と木漏れ日が心地よい夏、紅葉が美しく映える秋。人の足が遠のく冬でさえ、水仙と梅の花が咲きそろい、清閑とした雰囲気に浸ることができます。特に夏場のシーズン中は、マス釣りやマスの塩焼きが楽しめるほか、渓谷の清流を利用した「そうめん流し」が夏の風物詩となり、観光客の人気を集めています。


平家谷の由来

平家谷風景  文治元年(1185)長門の国壇の浦(現在の山口県下関市)の源平の戦に全敗した平家一族が瀬戸内海を東西南北に落ちのびていきました。そのうち、平有盛系一族8人は三崎半島の瀬戸内海沿いに流れつき良き場所を求めて逃げ落ちた場所が、現在の平家谷であるとされています。

平家谷風景  その当時、この地は昼夜の区別がつかないほどの入らず山であり、彼らは此処へ身を隠して百姓になりました。その後、東・西へ見張所を造り毎日見張りをしながら500m位下の現在のハザマ谷の荒地を毎日開墾して3年の月日がたったある日、見張人が白サギ鳥が海岸近くに群れ飛ぶ様を敵の白旗と見誤り、今敵らしい白旗が海岸の方より押し寄せて来ると皆に知らせました。一同は、逃れる術もなく、捕らえられて憂目を見るよりはと相談の結果、平家の子孫を跡へ残したいと話し合い、2人を残して6人の者は、ハザマ谷の田の中で切腹してしまいました。


残された2人は、6人の死体を平家谷の入らずの森の岩穴へ埋め、その後は両家部落で生き続けました。そして、平家谷へは一切近づけなくなり両家部落の方々が切腹された方々の霊を慰める為、旧暦の11月初甲の日に部落中が集まり、毎年田で取れた米で酒を造りお祭りをすることにし、お祭りの日には、弓の稽古、神楽、その他の行事を行うようになりました。しかし明治34年頃、家庭で酒を造る事が禁止されこのお祭もなくなってしまいました。

その他、6人が切腹したハザマ谷には、大正10年頃まで石むろが築かれ自害の場所の印が残れていました。また、平家谷及びハザマ谷は明治の中頃まで女人は一切近づく事が出来ず、白い物は敵源氏の旗示であるので身につけず、平家の子孫は正月にも白餅をつくことも出来ませんでした。代わりに12月末には赤飯を造り正月15日まではその赤飯に毎日お茶をかけて食べていましたが、この習慣は大正10年頃にはなくなりました。
 
そして、現在の両家部落及び枇杷谷部落又は鼓尾部落は一族が半島へ流れついて平家谷まで逃げのびる途中弱りはて、音楽が好きであった一族のものが鼓尾部落へは「つづみ」を捨て、枇杷谷部落へは「びわ」を捨て、残された2人が部落へ住みつく事になり両家部落の名前がついたといわれています。
[12]れいんさんからのコメント(2013年08月30日 22時55分20秒 ) パスワード

こんにちは
僕はこの前17の誕生日に父に
お前は平家の生き残りなんだぞ
って言われました
父によると家は
岩手県の吉里吉里にいた
吉里吉里門左衛門(漢字はミスってるかも)が
ご先祖様に当たるそうです
調べてみたら、本当にいて
内心驚いています。

学校で習う平家滅亡説は
変えた方がいいかもしれませんね
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2013年08月31日 06時36分24秒 ) パスワード

れいんさん


初めまして。


>岩手県の吉里吉里


最初に吉里吉里が有名になったのは井上ひさしの作品ですよね。

その後、2年前の地震で世間に知られることになったエリアに吉里吉里中学があるのを知りました。

ということは、このエリアのゆかりのお家なのかもですね。



岩手県の県立図書館とか市立図書館などに地域の歴史を纏めた本などがあるはずですから
調べてはいかがでしょう。



>学校で習う平家滅亡説

この「滅亡」というのは1つの政権が終焉を迎え
なおかつ「悲惨な状態」だったからで


鎌倉幕府滅亡
平家滅亡
室町幕府滅亡
北条氏滅亡
足利幕府滅亡
豊臣政権滅亡
徳川幕府滅亡

政治的「滅亡」の使い方はこんな感じで成立するかな。

でも
明治維新政権滅亡とは言わないし
東條政権滅亡も言わないし

ちょっと「滅亡」の使い方を考えてみてください。


平家の場合は
後白河法皇に裏切られて「政権から追い落とされた」上に、
壇の浦の合戦などで有力な人物の子孫が絶えたりしてますからね。
更に
鎌倉幕府によって有力者の子供達も探し出されて殺されたりしてるしね。


そういうことだと思います。


でも平家ゆかりの人々はアチコチで存続しています。

元々の出身地に戻ったりね。
ツテを頼って違う土地に住んだりね。
落人になってヒッソリ代々命を繋いで来た隠れ里も日本中にありますしね。


鈴木京香さんは平家の末裔だとか聞いたことがあります。


美しい鈴木京香さんが平家の末裔というのは嬉しいじゃないですか。


他にも三重県の山の中などには平家の末裔の子孫の美男美女が今でも生まれ続けていますよ。


人間という存在は敵がいくら「滅亡」させたくても、おいそれとは出来ないです。
必ずどこかに生き残りがいて、子孫を残します。


わたくしもまさか「吉里吉里左衛門」の子孫がいたなんてビックリでしたし
御本人が驚いていらっしゃるぐらいなんですから。


御先祖さまのことを誇りに、あなたの子孫にも、御先祖のことを語り継いでください。


その為には図書館にある歴史書を片っ端から読んでください。
にっこり


また御研究になったことをこのサイトでスレッドを立ててお知らせください。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.20 by Rapha.