[1] | takahiroさんからのコメント(2003年07月08日 14時26分10秒 ) | パスワード |
晨晨さん はじめまして。
晨晨さんの御質問、答え得る範囲でしたら返信致します。
今後とも「平家物語」についての投稿をお願いします。
[1] | 川口 信さんからのコメント(2003年07月08日 14時26分13秒 ) | パスワード |
晨晨さん いらっしゃいませ。
管理人さんが留守にしているようで、かわりに。
お上手な日本語のコメントですね。お名前はなんとお読みしたらよいのでしょうか?。
日本人でさえ「平家物語」など古典文学は難しいです。このWebは平家物語について語る部屋ですので、疑問・質問などがありましたら、遠慮なくドシドシお寄せください。
皆で力を合わせれば、難問も解決すると思われます。
特に管理人さんは知識が豊富で親切で人情豊かな人ですので。
投稿をお待ちしております。
[2] | 晨晨さんからのコメント(2003年07月08日 18時00分32秒 ) | パスワード |
takahiroさん&川口 信さんへ
お返事ありがとうございました。まったく平家の初心者なので、すごく不安でしたが。。。これからも頑張ります。
さて、名前は「しんしん」と読みます。この漢字は日本語でめったに見えません。たぶん難しい漢字でしょう?そして、中国でもすっごく珍しい苗字があるのよ。母の苗字は「支」です。知り合いではただ1人だけ同じ苗字、しかも母と同じ故郷です!!
昨日は小松公がなくなる部分まで読みました。また、丹波少将を児島へ流方した部分も読みました。で、ずっと昔中国でも同じとこがありました。有権者に怒られ、すごく遠いところへ行かされたのです。ほとんどは海南島でした。とてもかわいそうに思いました。
今の仕事はと古典とまったく関係ないですが、少しでも興味のあることをやりたいから、平家を始まったのです。
皆さんのご協力お待ちしております。
[3] | takahiroさんからのコメント(2003年07月09日 01時39分04秒 ) | パスワード |
>昨日は小松公がなくなる部分まで読みました。
小松公、平重盛は生前に、平家一門滅亡を予見し、子孫に供養を期待できないとして他国(宋の国における)供養を企て、黄金三千両を宋へ送り、育王山欣山寺に寄進したとの伝承が『平家物語』巻三・「金渡」の章に記載されています。育王山欣山寺とは現在の中国浙江省に実在するそうです。
[4] | 晨晨さんからのコメント(2003年07月09日 14時36分49秒 ) | パスワード |
大学時代の友達が折江省出身で、彼女に聞いてみたら確かにあります。
[5] | takahiroさんからのコメント(2003年07月09日 16時09分41秒 ) | パスワード |
晨晨さん
小松公に限らず、平家と中国(当時の宋国)とは、日宋貿易を中心に非常に
親密な関係を築いていたようです。
育王山欣山寺について、早速確認いただきありがとうございました。
今後ともよろしくお願い致します。
[6] | 晨晨さんからのコメント(2003年07月09日 16時48分17秒 ) | パスワード |
すみません、育王山ありますが、欣山寺はあるかどうか、彼女も分かりません。寧波には古い仏教のお寺がたくさんあるので、彼女もよく分かりません。いまになっても、寧波は中国の仏教聖地の1つです。
[7] | 晨晨さんからのコメント(2003年07月09日 16時57分30秒 ) | パスワード |
すみません、育王山ありますが、欣山寺はあるかどうか、彼女も分かりません。寧波には古い仏教のお寺がたくさんあるので、彼女もよく分かりません。いまになっても、寧波は中国の仏教聖地の1つです。
昔、インドには阿育王がありました。彼の子孫は避難か商売のためか、寧波に住むことになりました。で、阿育王を記念のためお寺を建てました。「阿育王寺」というのです。
[8] | takahiroさんからのコメント(2003年07月10日 01時06分43秒 ) | パスワード |
晨晨さん
「阿育王」についての御説明ありがとうございました。
(「阿育王」は日本ではサンスクリット語読みでの「アショーカ王」として
有名です。)
◇育王山欣山寺と平重盛(及び平貞能)との関連で以下のURLがありました。
http://www.johgi.or.jp/aramasi/engi/engi2.htm
『中国大唐の時代に、法照禅師と申される高僧がおられ、五台山(現 山西省)
竹林寺にて文殊菩薩様より南無阿弥陀仏の名行を直におうけになり阿弥陀
如来画像のご宝軸を賜りました。以来、禅師は、育王山欣山寺に隠匿する
まで、そのみ教えを熱心に広め、ご霊像は、長く同寺の宝物として、広く
人々の信仰をあつめていました。
平重盛公が内大臣を務める頃は戦が絶えませんでした。そこで公は、中国
の育王山欣山寺に、黄金を寄進し平和祈願をしました。平重盛公の篤志に
対し、伝来の阿弥陀如来の御霊像が送献されてきました。公は、歓喜し天
皇、国家の安泰、平氏一族、我が身の後生を日夜祈りました。
治承2年秋、平重盛公は、重い病にかかり、自ずから死期を悟ります。そ
こで、公の重臣であった肥後守平貞能公に御宝軸を授け、長く後世に伝え、
天皇はじめ平氏一族、世の人々の後世と、自らの死後の菩提を弔うように
伝えました。
平家が壇ノ浦の戦いに敗れた後、重盛公の遺言にしたがい、貞能公は宝軸
をまもり、ひそかにこの地に隠れました。貞能公はなおも世をはばかり、
名を「定義」と改めました。今、この地を「定義」(じょうぎ)と称し、
如来様を「定義如来」と申し上げるのもここに起縁いたします。貞能公は、
建久9年(1198年)7月7日、御年60歳を以てお隠れになりました。
そこで従臣達は公の遺言通りに墓上に小堂を建て如来様の宝軸を安置しま
した。
宝永3年(1706年)、早坂源兵衛は如来様の御霊威、日を追って盛ん
になることを悟り、在家の身を以て御奉仕いたすことは畏れ多いことと、
自ら出家し「観蓮社良念」と称し、「極楽山 西方寺」を創立されました。』
上記は仙台市青葉区大倉の『定義如来 西方寺』のURLに掲載されていました。
http://www.johgi.or.jp/
[9] | 大谷 アイ子さんからのコメント(2003年09月08日 23時55分16秒 ) | パスワード |
私は 点字図書館の本の音訳を ボランティアでしております。
育王山 は いおうざん とは 読まないのでしょうか?
ぜひ 教えてください。お願いします。
[10] | takahiroさんからのコメント(2003年09月09日 00時38分20秒 ) | パスワード |
大谷 アイ子様
はじめまして。
>育王山 は いおうざん とは 読まないのでしょうか?
http://www.elrosa.com/tisen/90/90016.html
によると、
『医王山[いおうざん]福光町
昔は「硫黄山」とか「育王山」と書かれていたらしいが、その語源は複数存在する。
※中国にある名山の「育王山」にちなんで付けられた。
※山頂にある鳶岩の形が阿育王の舎利塔ににているために付けられた。
※医王山王の本地仏が薬師如来で、同山に薬師如来を祀った《禮》があったことに由来している。』
との記載があり、大谷様の御指摘のように、「育王山」で「いおうざん」とも読むと思われます。
http://homepage1.nifty.com/~sakuranamiki/room1m.htm
また上記URLでは、
「阿育王山」(アショカオウザン)と読まれています。
そもそも「阿育王」とは、サンスクリット語の読みでは「アショーカ王」を指すようです。
http://www.maharshin.com/PDA/Htenzo/tenzo13.html
においては、「阿育王山」で「あいくおうざん」と読まれています。
そもそも「育王山」の語の由来が、インドから中国、そして日本へと、複数の言語を通ってきていますので、複数の読みが存在してきているのだと思われます。
点字図書館の本の音訳ボランティアをなされているとの事、御苦労さまです。
また何か御質問があれば、お答えできるか判りませんが、投稿下さい。
[11] | takahiroさんからのコメント(2003年09月09日 00時49分13秒 ) | パスワード |
大谷さま
追伸ですが、
『一谷嫩軍記』によると、
http://homepage2.nifty.com/hachisuke/yukahon/ichinotani.html
「これにつけても小松殿御臨終の折から、平 家の運命末危うし。汝武門を遁れ身を隠し、一門の跡弔へと、唐土( もろこし)育王山(いおうざん)へ祠堂金と偽り、三千両の黄金と ...」
「育王山(いおうざん)」と振り仮名が打たれていますので、日本の古典物として音訳されるなら、「育王山」=「いおうざん」で良いと思われます。
[12] | 大谷 アイ子さんからのコメント(2003年09月09日 14時22分48秒 ) | パスワード |
takahiroさま
コメント ありがとうございました。
私 育王山を いおうざん と、どうしても読みたかったのです
だから 図書館からの指摘で 読み直したくなく
いいお返事がいただけて たすかりました。
ほんとうに ありがとうございました。
[13] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年09月10日 02時17分43秒 ) | パスワード |
烏夜啼と申します。
関係ないことですが、平家と中国というと、南宋が壇ノ浦と似ている、と思ってしまいます。
平家も南宋も幼君を擁し、皆海に身を投げてしまいました・・・一方は陸秀夫に、もう一方は祖母の二位殿に抱かれて入水なさった幼帝。楊太后も建礼門院もその後を追い・・・・・・年齢も同じような頃でもあり、建礼門院が助かってしまわれたことを除けば、もうそっくりではないか、と。年代的にも100年と違いませんし・・・・・・
なんだか、ものすごく悲しい。
[14] | takahiroさんからのコメント(2003年09月10日 05時58分12秒 ) | パスワード |
烏夜啼さま
南宋最後の皇帝、衛王趙丙と安徳天皇の辿られた境遇の共通点は、確かに偶然とは思えないほど多いと思います。
『沈みゆく少年たち 』という文章がありました。
http://www3.tky.3web.ne.jp/~riverf/china/essei/jyusui.htm
[15] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年09月10日 17時47分07秒 ) | パスワード |
takahiro様
『沈みゆく少年たち』読んでみました。目が痛い・・・瞬き忘れて読み耽ってしまったからか、涙か・・・
やっぱり悲しすぎます。
琵琶の曲では平家琵琶でも薩摩でも、各々のどの流儀でも、「壇ノ浦」が好き、というか・・・・・・
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