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 投稿番号:100529 投稿日:2003年07月05日 22時36分05秒  パスワード
 お名前:花月
鈴木姓と揚羽蝶の関係について教えてください。
キーワード:鈴木
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

はじめまして。最近、『鈴木姓は熊野大社の関係です。』と伺いました。そこで自分のルーツを調べてみようと思い立ちましたが、これが難解ですねぇ〜。私の家は300年以上続いた大地主だと聞いていたのですが武門の出ではないと思うよ。と親は言いますが、ならなぜ揚羽蝶が家紋になっているのでしょうか。熊野大社との関係から言うと昔々に平家が関係してくるのかな?と何かわかる方よろしくお願い致します。ちなみに家は神奈川の横浜です。教えてください。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月06日 00時25分10秒 ) パスワード
  

花月さん

初めまして。

鈴木姓は日本最大の姓ですから日本では1番人口が多いわけでその出自も実にさまざまという事になります。

熊野大社関係の鈴木さんがいわゆる鈴木姓の中心というのは熊野大社が日本全国に勧進されたからで
でも100%熊野関係かと言ったらそうとは言えないです。

平家系か源氏系かというと
両方とも言えますし。
どちらとも姻戚関係がありますから。

でも「鈴木姓で揚羽蝶紋」でしたら
平家についた熊野であるというアイデンティティを守っているとも思えますが
そうじゃないかも知れないです。


300年以上続いた大地主ということになりますと
もとはその土地の豪族または有力者(貴族の末裔または宗教関係)だったという事になると思います。

私が思うには
南北朝の時に南朝方についた鈴木さんの末裔かも知れないです。
となると
平家方にもかなり傾きます。
または北朝に対抗した新田系源氏方かもしれません。


明治4年以降日本では戸籍法がありますから
その当時の戸籍を手に入れてはいかがでしょう。
御自分から遡れば良いですよ。

そうしますと明治の初めにどこに住んでたか分かります。
その土地の歴史を調べますと御先祖さまのお名前が出て来ますから
そこからその土地の有力者を調べますと関係が浮かんで出て来ます。


1番早いのは誰が系図を持っているか
お盆の時にでもおじさま・おばさまから聞き出すことと思います。
来月のお盆を前にして御先祖さまから花月さんに呼びかけてるのかも知れません。

もともと神奈川県に在住でしたら
藤原秀郷系藤原氏かも知れませんし
坂東平氏系かも知れませんし
源頼朝ゆかりの源氏系かも知れませんし
京都から下向した貴族の末裔かも知れませんし
いわゆる熊野系平家方かも知れません。


やっぱり地元の歴史と家系図から調べるのが確実と思います。

揚羽蝶=平家とは限らないので
紋からは遡れません。
[2]花月さんからのコメント(2003年07月06日 09時27分58秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様、早々に教えて頂いてありがとうございました。いろんな事がわかるのですね。そしていろんな方向が。私は嫁いだ身ですので今度近いうちに実家に帰り系図や代々のご先祖様が眠っているお寺に行き過去帖というのを見せていただこうかと思っております。それにしても、暇潰しのギャンブラー様の知識の豊富さには感銘いたしました。また、来月のお盆を前にしてご先祖さまから私に呼びかけているのかもしれません。とのお言葉にはジ〜ンときました。きっとそうなのかもしれませんね。ありがとうございました。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月06日 12時58分23秒 ) パスワード
  

花月さん

今年は江戸開府400周年なので
御先祖さまが何か伝えたい事があるのかも知れませんよ。

古くから続く大地主だったら
前身は武士だった
または貴族出身でも武装して土地を守ってた
と思いますから

私は花月さんの御先祖さまは武門関係にあったのは確かだと思います。
いつから
というのがもう少しの努力で分かるというのを感じます。

関東は伊東にしても大庭にしても平家方でしたから
そういうのを記念して揚羽蝶紋かも知れませんし。

わたくし自身確かに横浜あたりの大地主だった鈴木さんというお家を存じ上げてますが
南朝方の鈴木さんのお宅も今でも凄い土地持ちでいらっしゃいますよ。確か庶貴族と呼ばれる身分だったように記憶しています。
[4]花月さんからのコメント(2003年07月06日 21時27分51秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様へ

ありがとうございます。

そうなんですか。江戸開府400年。

 話が少し平家というテーマから外れてしまいますが、聞いていただけますか?
今、自分ではどうしようもない子供の悩みがあり、お寺の神官さんというのでしょうか。に、先日、見て頂いた所、

霊感体質だし、また大きな使命を持って生まれた子なのでいろんなもの(霊など)に良いものにも悪いものにも振り回されてしまいますので とにかくお参りしましょう。家の因縁をきって頂きましょう。ということで近所の神社に参っております。そこはスサノオの命様を祭ってありますが、話を聞いてくださった神官さんに鈴木は熊野の出です。と言われスサノオの命様、熊野神社、自分の家のことと繋がって調べております。何かに突き動かされるように調べまくっています。(^_^;)
また今年は元禄地震から301年目にあたりとても大きい儀式が多いし、その影響もあるようです。ともおっしゃられていました。

私は織田信長さまや濃姫とかがとても好きで興味は以前からありました。
織田家も木瓜紋と共に揚羽蝶を使っていたと最近はじめて知りました。
でも、暇潰しのギャンブラー様がおっしゃっておられたように家紋だけでは分かりませんものね。

今回暇潰しのギャンブラー様から江戸開府400周年と伺い、やはり何かご先祖様が私たちを助けようとして下さり、呼んでいらっしゃると感じてしまいました。こういうことってあると思いますか?ヘンな質問しましてお許し下さい。





[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月06日 22時36分19秒 ) パスワード
  

花月さん

私の幼稚園以来の親友はまさに!凄い霊感体質で
それを知ったのは本当に最近です。

10年ぐらい前
私が井上靖の失敗作のような木曾義仲の小説を読んだところ
長野県の出身の彼女の姓と同じ侍大将の名前が出てて
まさかね
と思っていたのです。

その後その本を処分して

親友が大変な病気になってしまい
普通その病気では死ぬ人が多いとされている病気で

彼女のご両親が日蓮宗なので身延山のお坊さんに見ていただいたところ
先祖が部下をたくさん死なせたので「包帯と食べ物をお供えして欲しい」と言ってる、
と。


ここまでは(ふ〜ん)と半信半疑だったのです。
なんとでも言えるわよね
と、どちらかと言うと疑う方が多かったのですが

その御先祖さまという方のお名前が
井上靖の本の中に出てた侍大将の名前と全く同じで
もうビックリ仰天しました。


ここから彼女の霊感体質というのをいろいろ知らされることになり
思いもよらない不思議な話を沢山聞かされました。

彼女自身
源氏は好きだけど藤原氏は嫌いとか
なるほど木曾義仲方だったらそう思うだろうと私が想像するような感じを
彼女も感じてた、と。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月06日 22時58分35秒 ) パスワード
  

鈴木家で蝶紋で・・・

日本の名字は中国や韓国とは違って都合で替えてしまうので
系図で確認しない事にはいつからその名字を名乗っているのか
分からないですね。

紋もいつから使用しているのか?


確かに鈴木家は熊野系が殆どでしょうけど
他の系統もありますし
確率からいきますと熊野系である可能性は高いのですけど

下鴨神社の鈴木さんは藤原姓だそうですし
伊勢神宮の鈴木さんは宮原姓だそうで

関東ですと
武蔵7党の鈴木さんもあるそうで、その他、いろいろあるそうです。


300年以上続いた大地主というお話から
どの時代から=つまりどの戦いで敗れて以来=武門は止めたのか
それが分かると良いですね。

戦国時代はひょっとすると北条氏に仕えていたのかもしれないですし
江戸時代改易に合って武士を止めたのかも知れないですし。


明治の初めの御先祖さまがどこで本籍を登録してたのか
江戸時代に近い時でしたらそんなに動いてはいないと思うので掴み易いと思いますが。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月06日 23時22分26秒 ) パスワード
  

御先祖さまが交信したがっていらっしゃるのかも知れませんので
話し掛けてください。

そして御先祖さまに子供さんのことを御報告になってください。
あなたの子孫です、と。
だから守って欲しい、と。



信長と濃姫ですと

戦国時代の御先祖さまは越前・伊勢・尾張・美濃あたりで織田家と繋がりがあったのかしら?
それで花月さんのDNAに何か好意を持つ記憶が刷り込まれているのかしら?


機会が出来ましたら
熊野に是非いらっしゃいますように!
そして名古屋にもお出掛けください。
名古屋の中区の栄と熱田区の金山の間に御坊さまという東別院というお寺があって(地下鉄の駅があります)
確かここが信長の育った那古屋城跡だったと思います。
石垣になってるので分かり易いと思います。

こういう所にいらっしゃいますと不思議な感覚を経験します。

私は比叡山(母方)と赤間神宮(父方)でした。

夫も比叡山は休火山のように外見は静かだけど中はマグマが活発で轟音を立てていると言います。
不思議な体験をしました。
赤間神宮に行って以来、私は平家に嵌りました。
物凄い所でした。
[8]花月さんからのコメント(2003年07月07日 09時30分57秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様へ

おはようございます。

まず、はじめに ありがとうございました。
夜遅くまでいろいろ教えてくださって。ひたすら感謝です。

調べる方向はこれでよいのでしょうか?
@遡れる限りの戸籍をとる。そこで名前を確認する。
A土地の歴史を調べる。
B寺へ行きここでも調べる。

気にかかるのは、この先の調べ方です。

江戸時代の頃には、今の土地に住んでいたと聞いています。
そうなるとその時代に鈴木の姓を名乗っていたかというのは系図や過去帳しかないですよね? 

万一系図がどこにあるか分からなかったら・・・祖母が随分前になくなってから親戚がバラバラになってしまいました。家にはお嫁さんだけになってしまってそれで親戚が折り合い合わず寄り付かないのです。

それと、お寺の方は檀家の総代ということですが代も替わり今はお若いお坊様だと聞いています。

江戸時代に苗字をもっていたという家は特別だと何かの本で読みました。その土地の有力者(豪族や宗教関係だとかって。)
私の家は持っていたか、いなかったかは、系図がなければどうやって調べられるのでしょうか。もうここまでなのでしょうか。

そうすると、明治の時に一般の家が苗字を許されてから勝手につけたということですよね。

また 家は苗字は鈴木なのに、ご近所の方からは別の名前で呼ばれています。
バス停などもその名前です。所有の土地でしたからそれはなんとなくわかるのですが。きっと屋号のようなものなのでしょうか・・。
土地の名前、ここら辺からも何かわかるのかもしれませんね。

信長様や濃姫さまたちの本を読んだり写真を見ると血が騒ぐというのでしょうか・・。非常に高揚した気分になるのは、そうですね、DNAの遠い記憶なのかもしれません。勿論私の家は信長様と直接関係するような家ではないはずですが、その時代に生きていた記憶なのかもしれないな〜
または 信長さまのいらしたその土地に何か縁があったのかもしれないな〜
なんて思います。

暇潰しのギャンブラー様、朝起きるのがお辛かったのではないでしょうか。
見ず知らずの私のために遅くまでありがとうございました。

[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月07日 09時59分49秒 ) パスワード
  

花月さん

おはようございます。


>万一系図がどこにあるか分からなかったら・・・
>祖母が随分前になくなってから親戚がバラバラになってしまいました。
>家にはお嫁さんだけになってしまってそれで親戚が折り合い合わず寄り付かないのです。

大丈夫ですよ。
御親戚の中に必ずどなたか御先祖さまに関心のある方がいらっしゃって
そういう方が系図などは失敬していくものですから
行方が分からなくても
どこかにあると思います。

お盆の時に話題に出せばどなたかが失敬していった人の事を知ってるものです。

とにかくそんなに勝手に処分するモノではありませんから
どこかで生き延びている筈です。
ただし60年代に学生運動にかぶれていたような御親戚がいらっしゃいますと
燃やした
なんて過激な方がいらっしゃるかも
ですね・・・


とにかくお盆の席で話題にお出しになるのがチャンスとお思いください。
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月07日 10時12分10秒 ) パスワード
  

>B寺へ行きここでも調べる。

1)
まずは本家やホンヤにあたるお家の仏壇にある過去帳調べですね。
これでかなり分かると思いますが。

もし分からなかったら菩提寺ですね。

2)
菩提寺には前以て書面でお願いなさいますように。

突然お邪魔になりますとホントに文字通り「邪魔」ですし
お盆の時はお寺さんは1年で1番忙しい時ですから
(あとはお彼岸時など)

XXの鈴木家の者でございますが、とお名乗りになって
調べて欲しい事を時間の余裕を以ってお願いしたいと遠まわしにお書きになって
お寺さんの暇そうな時にいらっしゃってお尋ねする形が良いと思います。

金一封包んで置いて来れば後日郵送で教えてくれると思います。

お寺さんはお布施で存続してるのですから
金一封
が大事と思います。


それからお墓ですね。
お墓も記録の宝庫です。
魚拓でしたっけ?
鉛筆?を持参して石をこすれば紙に文字が移りますよね。

あとでじっと睨んでいれば御先祖さまが教えて下さいますよ。
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月07日 10時26分41秒 ) パスワード
  

上記は「拓本」ですね。
失礼致しました。


>江戸時代に苗字をもっていたという家は特別だと何かの本で読みました。
>その土地の有力者(豪族や宗教関係だとかって。)
>私の家は持っていたか、いなかったかは、系図がなければどうやって調べられるのでしょうか。
>もうここまでなのでしょうか。

大丈夫ですよ。
日本人は殆どが名字を持っていたのですから。
江戸時代
名字を名乗って良いと許された家が限られていただけで
実際は皆さん持っていたのです。

ただ
途中で
アイデンティティの問題で子孫に伝えなかった家もあったでしょうが

どこでも普通は伝えてたのです。

明治7年だったか8年だったか
全ての国民が名字を称して良いと法律が変わり
日本人は晴れて名字を名乗りました。

上記のように江戸時代個人的な心の問題で名字を伝えなかった家は
土地の名を名乗ったり
村の長の名字を名乗ったり
好きな名字を名乗ったり
勝手な名字を名乗ったでしょうけど

そういう家は珍しいと思います。
[12]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月07日 11時00分32秒 ) パスワード
  

上記は明治8年の「苗字必称令」でございました。
失礼致しました。


さてさて
現代は江戸時代の移住の禁止によって260年間1つの土地にほぼ縛られた影響から
ちょっと分かり難くなってはいるものの

昔は
例えば平安時代
地方の長官になって諸国を歴任なさった家もあり
力を持っていればいるほど日本全国に土地を持っていたのです。

平家は一族で日本全国の殆どを手に入れてました。


鎌倉時代の御家人でも日本のあちこちに土地を頂いてたりしてました。
母方は愛媛県と大分県と佐賀県だけかと思ってましたが越前やら紀州やらその他にも土地を持ってました。

土地をたくさん持ってれば持ってるほど子供達を派遣し治めさせていました。
でも時代が下るほど兄弟は他人の関係になって行きました。

それが戦国時代を経て江戸時代決定的にお互い疎遠になり
いつの間にやら先祖が共通という記憶をなくしてしまいました。


ですから現在日本のいろいろな土地に「鈴木家」がそれぞれ他人のように音信無く、
広大な土地を所有している
という事になったと思います。


どこから、いつの時代から、分かれたかは分かりませんが
(戦争になった時は同じ名字という事で遠交近攻をやってたのでは?と思います)

今は平和ですし
戦後の農地解放で随分浮沈があったと思いますから
東北の鈴木さんと九州の鈴木さんは他人関係のようにそれぞれ大地主の末裔でいらっしゃいましょうけど
昔は親戚とか一族だったのでは?と思います。


鈴木姓が日本で1番または2番の大姓であるという事は
それだけ日本で栄えていた御家だと思います。

具体的には<熊野>か<貴族>でしょうね。<熊野>=<貴族>だったのかも。
そして熊野の鈴木さんは平家とも源氏とも親戚関係でした。

南北朝時代どういうお家だったのか分かると良いですね。


花月さんのホンヤさんから
他の土地の鈴木家ホンヤという人を紹介されたりして
御自分のルーツが分かっていくと思います。


わたくしの父方もあちこちで今でも大地主として続いている家のあることを知り
昔はかなり力を持ってたという言い伝えが納得出来ました。

物理的に近くにいらっしゃるホンヤさんは我が家には雲の上の存在なんですが
このホンヤさんの他にも凄い土地持ちの家を知ってますし
ホンヤさんとお話ししてましたら他にも凄い土地持ちの親戚がある事が分かり
予想以上にあちこちで栄えてたというのが分かりました。

これも赤間神宮のお蔭で知ったことです。
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月07日 11時08分46秒 ) パスワード
  

>家は苗字は鈴木なのに、ご近所の方からは別の名前で呼ばれています。
>バス停などもその名前です。
>所有の土地でしたからそれはなんとなくわかるのですが。きっと屋号のようなものなのでしょうか・・。
>土地の名前、ここら辺からも何かわかるのかもしれませんね。


例えば同じ鈴木家の皆さんがお盆で一堂に会する時
みんな鈴木さんなので土地の名で呼ぶと思います。

他人の場合、畏れ多くて名字で呼んでは失礼という事で、地名だったり屋敷の名で呼んだり。

それだけ力があった御家という事と思います。
[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月07日 11時25分12秒 ) パスワード
  

北条早雲の時代
伊豆半島の江梨(今の沼津?)に鈴木さんという豪族がいました。

この人の他にも鈴木さんはたくさんいらっしゃったと思いますが
地理的に沼津ーー小田原ーー神奈川の線でかなり繋がると思いますが。

北条早雲は伊勢出身だとも言われてますよね。


わたくしは花月さんから御先祖さまの事を拝見して「北条氏」というのが引っ掛かりました。
伊勢でしたら当然平家ですから北条早雲も平家系かも。


元は熊野で平家と関連があって伊豆に目代かなにかで赴任なさって定住なさったのでしょうか?
こうなりますと南朝方だったという可能性も高くなりますね。
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月07日 11時52分46秒 ) パスワード
  

神奈川関係で有名な鈴木さんでしたら
味の素と鈴木商店がピンと来ますが
関係があるのでしょうか?

鳩山家と親戚の政治家の鈴木家
その他

こういう人の家紋を何かの機会に目に出来ると良いですね。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月07日 12時04分07秒 ) パスワード
  

一般的に相模の鈴木家は清和源氏仁科氏流だそうです。
家紋は「椰の葉」なぎのは
で、この紋は熊野系鈴木氏の紋の1つだそうです。


そうしますと花月さんのお家は蝶ですから袂を別った?
さてさていつの時代でしょうね?


それから鈴木という姓は鱸からも出てるそうで
鱸は平家の出世のシンボルの魚でもあります。
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月07日 12時28分12秒 ) パスワード
  

仁科といえば信濃の仁科家ですね。
絶えてからは武田信玄が5男に仁科家を再興させてますね。

本物の仁科家は後鳥羽上皇の熊野参詣の護衛について
子供達が後鳥羽上皇から取り立てられ
鎌倉の許可を取ってなかったので叱責されて
結局は承久の乱では京方に付いて滅びてしまった。

わたくしの母方は後鳥羽上皇に嫁いだのがいて
その縁で家が2つに分かれて戦いました。
この女性の名が菊姫で母方の女紋は菊紋です。
私の着物の紋は母方のこの紋を使用していますが

後鳥羽上皇は菊を愛したと我が家の母方には伝わっています。
[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月07日 12時33分22秒 ) パスワード
  

花月さん

明日から暫く留守をしますので
いろいろ書いて置きました。

また疑問などございましたら書き込んでおいてください。
戻りましたら拝見してお返事など書き込みます。

他の方からも書き込みがあると良いですね。
[19]皇竹さんからのコメント(2003年07月08日 17時08分18秒 ) パスワード
  

花月さん
私が今、読んでいる「義経紀行」・林順治・彩流社--に、
鈴木家のことが出ています。
偶然です、今読んでいるところが鈴木家のことです。
不思議な気がします。
花月さんの霊感が飛んできたのでしょうか。

それによりますと、
鈴木三郎重家、義経の家来です。
「義経記」では衣川で討ち死にしていますが、
地元秋田県雄勝郡羽後町飯沢、鈴木家に伝わる
「鈴木家由緒素録」には、義経が重家に曰く、
自分は亀井六郎重清(重家の弟)と蝦夷へ落ちるが、
お前は紀州、藤代に帰って親に孝養を尽くせ。と、
と言っても今さら帰るわけにもいかず、
羽後の山間の谷へ落ち延びた。
ここを紀伊の伊の字を取って伊沢と呼んだ。
ここの鈴木家は重要文化財の由。
さてこの鈴木家の本家は、和歌山県海南市にあるそうです。
鈴木家の124代鈴木重吉氏に子がなかったので、
以後、藤白神社の吉田宮司さんが鈴木家の管理をしているそうです。
鈴木家は熊野山衆徒で、元は藤白神社の宮司か神主で、
熊野の御師の一族であったかも、
と林順治氏は述べています。
鈴木の姓の由来は、
神武東征のとき、稲を献じたので、穂積という名を貰い、
椰子の木に鈴をつけたので、鈴木と名づけられた。
以上です。

この本は昨年出版されたものです。
出版社に問い合わせばまだあるかも知れませんよ。
私は図書館で借りましたが。
鈴木三郎重家について5、60頁に渡って書かれています。
また鈴木家のことについては、
海南市の藤白神社に問い合わせてはいかがでしょうか。

[20]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月08日 22時42分15秒 ) パスワード
  

そうしますと
源為義が熊野の娘を妻にしてた縁で
義経の家来になったのでしょうか?

この兄弟は義経に最期まで従った8人の家来の2人ですね。


としますと源氏方の鈴木家ということになりますね。














[21]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月08日 23時00分48秒 ) パスワード
  

「平隆二さん」のスレッドにも書きましたが
女優の鈴木京香さんがバリバリの平家の末裔だと東北では言われてるそうですよ。

京香さんのお家の家紋が揚羽蝶でしたら
凄い!
[22]さちこさんからのコメント(2003年07月08日 23時27分44秒 ) パスワード
  

余談になるか、
参考になるか判りませんが、

平田篤胤のスレで書いたのですが、

仕事で香典返しの宛名書きをしていて親戚関係で、
松阪、多気町に服部、本居の名前を見つけました。

その依頼主が実は鈴木さんでした。(意味不明ならごめんなさい)

揚羽蝶、南伊賀に多いように思います。
[23]花月さんからのコメント(2003年07月09日 00時04分10秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさま

PCの調子が悪く打ち込んでいる途中で消えてしまいましてこれで何度目でしょうか^_^;

書き込みありがとうございます。

さて

家系図がなかったら・・・という問いに
『大丈夫ですよ』 と、ギャンブラーさまが答えて下さったのを読んだらホントに大丈夫な気がしてきました。ありがとうございます。
そう きっとご先祖さまは導いてくださいますよね。

それと 非常に恥ずかしい稚拙な質問なのですが
お墓があるお寺と菩提寺ってどう違うのでしょうか?

なんとか南北朝の時代に遡れるように。
最近 特に仲良しの友人に あなたの家はどのような家系ですか? と聞くと
必ずうちは平家です。と答える方が多くてビックリします。
そしてよく知っていて驚きます。

やはり調べようとすれば必ず導かれるんですね。
ギャンブラー様のように お会いしたことも無い方も導いて下さいます。
とても 嬉しく思います。

ギャンブラー様のお家が後鳥羽上皇の家系であると伺い
菊姫様が雅やかな着物に菊の御紋をつけて歩いている姿が目に浮かびました。
ロマンですね〜 そして人の血はきっと覚えていると思いました。 

それと味の素の鈴木さんというのは始めて知りましたが今考えれば
亡くなった父は交流があったようです。
そういえば・・・随分前の話になりますが私が学校で決めた就職先が気に入らなかったらしく
父が『味の素に行け。話は通してあるから型だけ面接すればいいから。』
と言っていたのを思い出しました。
その時は若気の至りでそれを蹴って行きませんでしたが
味の素さんが鈴木さんだとは・・・感無量です。当時は父の学校時代の知り合いなのかな〜くらいにしか思っていませんでした。

私の歴史の知識は拙いもので 戦国時代しかよくわかりません。
ギャンブラー様に教えて頂いた人たちをこれから一人ずつあたっていこうかと思っています。

旅行でしょうか?
どうぞ、お気をつけて。楽しい日々でありますように。
[24]花月さんからのコメント(2003年07月09日 00時30分45秒 ) パスワード
  

皇竹様 

はじめまして 花月です。ありがとうございます。

「義経紀行」是非私も読んで見たいと思います。

鈴木という姓は必ずクラスに何人かいてきらいでした。
もっと珍しいカッコイイ苗字に憧れていましたが最近好きになってきました。
と、言っても もう嫁いだ身ですから今更トホホですが。

>花月さんの霊感が飛んできたのでしょうか。
ありがとうございます。飛ばしました(笑)
縁は異なもの味なものとかっていいますが(この字で良かったかしら)
皇竹様とも目に見えないところで繋がれた事、縁だと思いました。

どうぞ もっともっと教えてください。皇竹様のお時間の邪魔にならない時でよいので。

ありがとうございました
[25]花月さんからのコメント(2003年07月09日 00時44分30秒 ) パスワード
  

当分ギャンブラーじゃない様へ

今晩は 書き込みくださってありがとうございます。

>としますと源氏方の鈴木家ということになりますね

ひぇ〜〜っ 私は誰なんでしょう?
平家の子孫?源氏の子孫?


これほど家系図や過去帳というのが見たいと思ったのは生まれて始めてです。
家系図って大事ですね。
何年かに一度くらいにこういうことを調べたいと思う人が生まれてくるのかもしれませんね。それが本人の生を受けた使命だったりして(^_^;)


鈴木京香さんちは何故平家とわかったのかな〜
家に家系図があったから
あるいは家のものが言い伝えたから?どちらにしても うらやましい

これからも どうぞヨロシクお願い致します。
[26]花月さんからのコメント(2003年07月09日 00時54分19秒 ) パスワード
  

さちこ様へ

はじめまして 花月です これで かづきと読みます。
書き込みありがとうございました。


>揚羽蝶、南伊賀に多いように思います

やはり関東ではないのかもしれませんね 
お忙しい中教えて頂いた知識や情報 これから消化していきます。
平家と源氏 今も脈々とその気質が日本人の中に居ついているような気がします。血液型占いよりも平家源氏占いの方がその人の性格や気質を表しているような気がしました(笑)

ありがとうございました。
初心者の私ですが これからもよろしくお願い致します。

g 
[27]takahiroさんからのコメント(2003年07月09日 00時55分27秒 ) パスワード
  

『日本に「鈴木」はなぜ多い?』(日本最多の「姓」に秘められた逸話)
 という書籍が紹介されていました。
 1冊すべて「鈴木」姓に関する書籍であるようですので、花月さんの御先祖
 に直接関わる情報が掲載されている可能性もある気がします。
 
 http://www.suzuki-k.com/suzuki/suzukibook.jpg
[28]takahiroさんからのコメント(2003年07月09日 01時11分46秒 ) パスワード
  

また、『寛政重修諸家譜』には、50家もの鈴木氏が記載されているとの事、
こちらから何か判るかも知れないですね。
(『寛政重修諸家譜』は少し大きめの図書館へ行かれると閲覧できると思い
 ます。)
[29]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月09日 01時32分54秒 ) パスワード
  

takahiroさま

もろ藤白鈴木ではありませんか。
皇竹さまお書きですね。

不思議!


花月さん
お墓のあるお寺と菩提寺の区別
ワタシもよく分かりませんが
常に一致するとは限りませんし
生きている人の都合でお寺を動かすなどしょっちゅう行われてきました。

旅先で死んでお寺に葬られればそこに墓がありますし。



我が家は日本全国先祖のそれぞれのお寺や神社があって回るのに20年かかっても
まだ回り切れていません。


庶民の場合
一般的に
菩提寺とは檀家として代々所属しているお寺ではないでしょうか?


我が家は明治維新で大坂から伊予に戻り
その時の先祖が菩提寺にしたお寺は
江戸時代領主にくっついて来た16代に亘るお寺なんですが
バブルで破産して身売りしてしまったので
さあ、どうするか。
新しい和尚さんには一応ご挨拶はしてますが
お布施をまだ払ってないので
向こうはどう思ってるのかしら?


我が家の客死したとか配流先で死んだとかの先祖の墓はちゃんとご近所のお寺さんが面倒みてくれています。
この場合個人の<菩提寺>となりますね。


我が家は鹿児島から岩手まで菩提寺があり
さらに
ユカリの寺もありますから

xxおじじさまの菩提寺は祖父の菩提寺じゃない。
○○おじじさまの菩提寺は祖父の菩提寺じゃない。

現在ワタシの家族は東京に住んでますから東京で菩提寺を決めてお願いすることになりますが
困った問題です。


[30]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月09日 02時07分46秒 ) パスワード
  

もう1つ「菩提寺」ですが
名前を特定するとまずいのですが

ワタシの先祖が領主として亡くなって
菩提を弔うのにお寺を建てられたのですが
その後侵略に遭い

そのお寺はめちゃめちゃにされた後
新しい領主によって新しいお寺が建てられましたが

今の和尚さんには難しいところで
彼にとっては
「新しい領主のもとのお寺」
なんですが

寺紋は我が家の紋を使ってくださってます。



菩提寺ってワタシにすれば檀家としてアクティブで=こちらはお布施を今でも払っているなど=身近なお寺であるべき
と思います。

ほっとけさまにしておいて「我が家の菩提寺です」なんて突然主張されてもお寺さんには迷惑だろうな、と。


お寺は檀家が支えなくてはというのをつくづく感じました。
歓迎してくれるお寺さんばかりでしたが

子孫はほっとけさまにしてるのに
お寺やその檀家さんが私の先祖の菩提を今でも弔ってくれている
それも日本全国で。
更にお墓の周りも手入れしてくれています。
まったくの他人の人々が。



「日本の歴史皇紀2663年として」
日本人はあちこち移動して来ましたから
あちこちに先祖のお墓があって不思議ではないのです。
子孫としては菩提寺は1つだけの方が都合が良いのですが。
[31]皇竹さんからのコメント(2003年07月09日 12時34分49秒 ) パスワード
  

>源為義が熊野の娘を妻にしてた縁で
>義経の家来になったのでしょうか?

前述の本によれば、
この兄弟の父、重倫は為義の従者で、
平次の乱で戦死した由、
19代熊野別当行範は為義の娘、鳥居善尼を妻にしていた。
行範はこの縁で新宮や那智の衆徒を率いて源氏方についた。
この鈴木家はかつては、藤白神社の境内にあったというから、
間違いなく、神主か宮司であったと。
鈴木家は平安末期は法皇、上皇の熊野詣でのガイドを勤めていた。
と、いうことですが、
平家の家紋とは結びつきませんが、・・・。
[32]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月09日 14時42分02秒 ) パスワード
  

そうでしたか。
では源氏3代に亘る家来だったのでしょうね。

この鈴木兄弟が義経に従って奥州で子孫を残した可能性はあるでしょうが
もし使用するなら熊野系または義経系の紋を伝えたでしょうね。

間違っても平家系の紋は伝えなかったのでは?と思います。


鈴木家で平家落人の京香さんの家紋が分かるといいですね。
[33]takahiroさんからのコメント(2003年07月09日 16時18分41秒 ) パスワード
  

ギャンブラーさん、皇竹さん、さちこさんの情報に重複しますが、下記URLに
「鈴木姓」についての詳細な記載がありました。
http://www.ma.e-colle.com/~i-suzuki/page004.html

花月さんの鈴木家は「揚羽蝶紋」であるということが大きな手掛かりになりそ
うですね。
[34]花月さんからのコメント(2003年07月09日 18時55分04秒 ) パスワード
  

みなさん こんにちは!花月です

今日は一日ネット三昧してました。なにしろ私は知識がないもので源頼朝から義経 平清盛まで遡り勉強しました。あ・あ!学生の時に習ったはずなのに初めて聞いたかのように「へぇ〜そうなんだ!」って感じの新鮮さです。

楽しいですね。歴史のロマンは。皆様にいろんな人物の名前を伺っても??
それはどういう方なのかしら?となっていたのですが調べていくうちに全体に頭の中でつながってきました。

そこでわけのわからない事がありました。教えてくださいませ。

@ 何故 熊野の神官だった鈴木が戦うのか?
本家は神様に仕えてても分家とかは関係なく戦とかしちゃうのでしょうか。
江戸時代には平氏だ源氏だってあんまり関係なくなっちょうのかしら?
織田家を敵に回した雑賀孫一も本姓は鈴木ですよね。熊野の出身でも実際に戦ってる。
でも ちゃんと家紋は やた烏 を使っていますよね。

A 我家は熊野の鈴木の子孫かもしれませんが 平家の家紋
ということは

>源為義が熊野の娘を妻にしてた縁で
>義経の家来になったのでしょうか?

の反対で平家方のどなたかと婚姻関係にあって揚羽蝶を使ってるということも考えられますか?

B北条の線も十分考えられますね。相模ですし。
桓武平氏のラインも捨てられない。これで行くと清和源氏で池田氏の家紋と同じ。
で・・・さちこさんが揚羽蝶は南伊賀に多かったように思います。
と書いてくださっているとこみると 伊勢源氏のラインも。

家紋だけではわからないけれど 源氏と揚羽蝶は絶対に結びつかないですよね。

でも、鈴木だけとればいろんな線で源氏と結びついてくる。
あああ・・!最近首つっこんだばかりの 素人には難し過ぎです。

きっと読んでくださってる皆様も
『何がいいたいんだろう???』って感じかもしれないですね。
ごめんなさい。

それからtakahiro様に教えて頂いた”鈴木はなぜ多い”今読んでいます。
ありがとうございました。寛政重修緒家譜 見てみたいです。
今度図書館で問い合わせてみます。

当分ギャンブラーじゃない様
菩提寺 よーくわかりました。ありがとうございました。
鹿児島〜岩手 すごいですね〜

では・・失礼致します。
[35]takahiroさんからのコメント(2003年07月09日 19時16分40秒 ) パスワード
  

A 我家は熊野の鈴木の子孫かもしれませんが 平家の家紋ということは

>源為義が熊野の娘を妻にしてた縁で
>義経の家来になったのでしょうか?

の反対で平家方のどなたかと婚姻関係にあって揚羽蝶を使ってるということ
も考えられますか?

確かに熊野第21代別当湛増は源氏とも縁戚関係にありましたが、同じく平家
とも、湛増姉妹が平忠度に嫁しており縁戚関係にありましたので、花月さん
の「揚羽蝶紋使用鈴木」姓は、平家との縁戚関係からの流れを汲まれている
のでしょうか。
[36]さちこさんからのコメント(2003年07月09日 21時47分14秒 ) パスワード
  

>織田家を敵に回した雑賀孫一も本姓は鈴木ですよね。
 熊野の出身でも実際に戦ってる。
 でも ちゃんと家紋は やた烏 を使っていますよね。

横スレになると遠慮するつもりだったのですが、
やはり気になる鈴木さん。花月様。

うちはタオルの卸屋で香典返しの仕事など、
表向きにはしてません。
親戚や知人などタオルが安いからと頼まれれば面倒だけどしてました。
(でも今は不景気だから裏家業にしてもいいかな?)

まだ寒い頃(一月か二月)。
北勢の山奥の鈴木さんという方が香典返しを頼みたいといらっしゃいました。
香典返しといえばかなりの金額になるので、
葬儀屋さんや、ギフトやさんがてぐすね引いて待ってるどころか、
喪主のお宅へ強引に売り込みに行くそうです。
それでたいていは決まるものらしいですが。

この鈴木さんは、
どこでどう聞いてきたのか判らないのですが、
香典返しをうちへ頼みにきました。
(クチコミでこれはたまにあります)

親戚関係の住所をみて、
この鈴木さんが、
多気郡や松阪の本居家、服部家と親戚と判りました。

今の時代ですから、
恋愛結婚で新しい親戚が出来てということも当然あります。

住所リストには、本居家三件、服部家二件でした。
住所の関係から本居家と服部家は今も親戚関係と思いました。

「だからどうなんだ〜??」

毎度の事ながらカンだけでよく判りません。
でも凄く気になってたのです。

三重県北部の山間部の町は、
全国的ではないけど平家や南朝の話が多く残ってます。

このことを詳しく知りたいと思い菰野という三重北部の町の知人聞いたら、
「400年前から由緒ある松の木を守ってる旧家があるからそこに聞け」
と教えてくれました。

鈴木家でした。

笑い話になってしまうのですが、
これがよく知ってる家で!
えっ?という感じでした。

それが、ここの家のオッサンてサ〜。
もの凄くカル〜イ性格の人で。

私が平家や南朝のこと、
先祖に関して調べているので教えて欲しいといったら。。

「さっちゃん!!病気?」

だとか。。

「僕に気があって、デートしたいなら素直に言ってくれたらいいのに〜」

等と言われてしまいそうです。(笑)

花月さんの話とはずれてしまうので申し訳ないですが、
南朝四家七苗字の鈴木家の家紋はなんでしょうか?
[37]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月10日 00時44分38秒 ) パスワード
  

花月さん

人のマシンを借りて打ってるので小分けにして書いていきます。



まず宗教関係は平和主義というのは表の顔=理想でして
裏=現実は戦いの明け暮れでした。

聖徳太子だって実は子供の頃にすごい戦いを指揮しているんですよ。
太子の場合は仏教を守るため。

これが日本史上初の大宗教戦争でした。


でも時代が下るにつれ日本の宗教は権力と結んで権利を守るため
僧たちも武装して仲の悪い=権利がぶつかるお寺と
いつも抗争を起こしていました。

1番の荒れくれは比叡山の僧で
天皇さえ比叡山の荒法師には困っていました。

平安時代の歴史を読みますと
比叡山vs三井寺
比叡山vs興福寺
その他
京都を守るためのお寺である比叡山は自分たちの言い分が通らない度に
京の都になだれ込んで争いを起こし
わがままを通しました。


だから比叡山を押さえるために平家は頑張りましたし
信長は比叡山を焼き討ちしました。


後に戦う教団として名前を馳せたのが「一向宗」=浄土真宗=大坂石山寺です。

信仰を守るために最後に戦ったのはキリシタンということになりますね。


ですから土地を守るとか名誉を守るとか家族を守るとか信仰を守るとか
いろいろな名目で宗教人も武装して戦いました。


鈴木孫六も一向宗と組んで信長や秀吉と戦いました。


キリシタンが負けて以来日本の宗教はおとなしくなったと思います。


第二次大戦中は西本願寺は権力と一緒になって人を弾圧しました。
たとえば共産主義弾圧や軍国化に協力しました。
いまはその反省があって、それに政治にはかかわれなくなりましたし
随分おとなしい宗教になって
よその宗教の内部抗争を高みで見学しています。
[38]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月10日 00時54分44秒 ) パスワード
  

やた烏自体が日本では「戦いの象徴」ですよね。
神武東征のシンボルですから。


平安時代京都の皆さんの熊野参詣に鈴木家がガイドを勤めてたとの御指摘から
鈴木家は権力とかなり近いところにあったのが分かりますから

京都の方々と姻戚関係を結んでたというのが分かりますね。

ということは京都で争いがあればしっかり巻き込まれ介入し兵を送ったということです。


熊野が大きく日本の争いに関わったのは源平時ということになりますね。

その後は戦国時代ですが
途中の時代時代にやっぱり争いに参加してたというのが読めますね。
[39]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月10日 01時25分59秒 ) パスワード
  

江戸時代
徳川家が「源氏」を称するにあたって
日本の各大名などは徳川家に遠慮して
出自を登録した時に自分の家の出自をかなりごまかして提出したと
思いますし事実そうでしょうし
成り上がった大名家はテキトーに源氏だの藤原氏だのにしたと思いますよ。
(まさか平氏は平家のイメージがあるから使わなかったと思います)
江戸時代に平氏で登録した家は本物の平氏の子孫だろうと思っています。
ごまかしようがなかった有名な家ということになりますね。




家康自身
三河守を名乗った時は藤原氏を称していたのですから。

それが将軍というのが視野に入って来て
藤原氏では征夷大将軍になれないから源氏を称したのです。
藤原氏では摂政とか関白職にしかなれないから。


秀吉は足利将軍にお願いして養子にしてくれと頼んだけど断られました。
これで源氏にはなれませんでした。
つまり征夷大将軍にはなれないということで
藤原氏の猶子になって関白になって
改めて豊臣氏を称しました。


織田信長も初めは忌部氏だの藤原氏だのを称していましたが
結局は平氏を称することにしました。



ワタシはこういう姓を変えるというのは100%嘘とは思っていません。
ワタシ自身曾祖母は藤原氏なので
友人が5位の女房の位を冷泉のおじいちゃまから頂いているので
ワタシも5位の女房にして頂くのに曾祖母の藤原姓でお願いしようかしら
と友人と話しました。



先祖は1つの姓だけとは限らないのです。

ワタシの母方の20代前の先祖も大坂の役に敗れて落人になった時
名を変え紋を替えています。
源氏の佐々木の紋を使用しています。
姓は江戸時代末期に許されて本来の姓に戻すのが許されましたが
紋の方は許されませんでした。

母方は源氏方だったので源氏を称したのは誤差範囲ということになります。
(源頼朝と相婿でした)

ワタシだけは「ウチは源氏方で源氏ではない」とはっきり言ってますが
我が母方一族は「ウチは源氏だ」と言ってます。

ワタシが頑張らないことにはと頑張ってます。
[40]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月10日 01時33分25秒 ) パスワード
  

藤白の鈴木さんの件は

仕えていた源為義の娘が熊野に嫁いでいた

と皇竹さまより御指摘を頂きましたので
皆様
お忘れなきように。
[41]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月10日 01時57分25秒 ) パスワード
  

揚羽蝶紋は源平合戦で平家の紋というキャッチフレーズが成立してるので
日本人は揚羽蝶紋=平家と思っているけれど

蝶紋は動物紋では使用度ナンバー1なんです。
蝶紋のバリエーションも60だか70だかあるそうです。


蝶紋は平家だけでなく源氏も藤原氏もその他の姓でも使用しています。


ただし
蝶だと聞くと伊勢・伊賀の平氏つまり平家が浮かびますが
坂東平氏は三つ鱗紋が代表になります。北条政子さんご一族です。


でも平氏で北条氏で蝶紋を使用してる家がありますから
これは伊勢から出た北条早雲の使用紋の1つなのでは?と想像しています。


ですから
花月さんのお家が鈴木姓で揚羽蝶紋ということは
1)平家方の熊野の鈴木さんである?
2)北条早雲と関わりがあった?
3)その他?


お家の紋は1つだけじゃないという事もお忘れなきように。
家書には姓や紋についてきちんと書かれているので
今年のお盆には是非おじさま・おばさま方に我が家の由緒は?とご質問になってください。


家が他人=嫁しか残らないようになると
誰かが大切な物は持ち出すものです。

わたくしの母方も同じでした。
それで一応名を変えた経緯や紋を替えた経緯が分かっているのです。

わたくしの持ってるのはそのコピーなんですが
本物は大阪空襲で焼けてしまったという話で
それでワタシは自分の持ってる系図をファックスの機械で巻紙状にコピーして
関係各家に(欲しいと名乗り出たあちこちの教育委員会などに)郵送しました。


お蔭で母方85代目をニューヨークにいる従弟が継いでくれて
私は肩の荷を降ろすことが出来ました。

私の身近な兄弟姉妹姪達は興味ないので困っていたのですよ。

こうやって、ひょんな所から後継者が出来て私の母方の由緒が伝わっていくことになりました。
[42]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月10日 02時30分19秒 ) パスワード
  

清和源氏の池田家が蝶紋を使用してるのは
他のスレッドにもありますように
織田信長の乳兄弟の池田家が信長から拝領したから。

織田信長は秀吉には足利家の桐の紋を使用せよと許しています。


我が母方は江戸時代に本来の紋に戻すのをとうとう許されませんでしたから
・なにかのきっかけで紋を替えても良い
・そうそう勝手に替えられるもんじゃない
というのが分かりますね。



どこかのスレッドにも書きましたが
着物のレンタルでついてる紋は蝶とか桐とか蔦とかありますが
私はよそのお宅さまの紋を背中にしょうのは出来ないです。

アイデンティティの問題ですから自分の家の由緒が分かったら
とても他人の家の紋など背負えませんよね。
それもその紋の家と昔戦ってこっちが負けてる場合は特に。
[43]takahiroさんからのコメント(2003年07月10日 02時53分28秒 ) パスワード
  

割り込む形になっていれば申し訳ないですが、
花月さんの鈴木氏とも関連される「味の素創始者 鈴木 三郎助 碑」
が紹介されていました。

碑によると鈴木三郎助氏は「相模國三浦郡葉山村」の出生と記載され
ています。紋については記載はないようです。

http://www.d5.dion.ne.jp/~ikeyoko/M-HIBUN.htm#  三郎助碑

    『鈴木 三郎助 碑』   

  居士諱三郎助稱忠七相模國三浦郡葉山村人鈴木三五郎之長男以天
  保十二年正月十日生爲人渇而有才幼仕土豪石渡氏參與其家政大
  有陋・益焉年二十六解任歸郷所立一戸以□木酒娶高山氏賽二男二
  女長男曰泰助長女適人次女大二男曰忠治居士之平素營業也精良其
  物低廉其債加以内子慧敏善接客乾遠近之人爭先来買不出數年家道
  頼興矣明治八年會羅病薬石典効終以其十二月十二日歿享年三十五
  釋氏追號曰隆元院開譽榮脂居士葬於光徳寺先生之次
  大姉諱仲子高山氏秋谷村半右衛門之長女以弘化四年六月十九日生
  死大姉時年二十有九也一夕招三兒其膝下褌涙論曰汝等不幸早震巖
  君将来教養一栢吾属弱之身危可不謹而勵焉也哉長子泰助年漸長嗣
    喪父名而年少氣鈍屡誤商校殆至湯産不能立大姉再視家政心窃以
  爲文明日進之世徒守舊圖不如創斯業以謀回復也乃使三郎助製造沃
  度爾来夙興夜寝躬辟工場督勵男女十人如一日終至復見家道之販盛
  矣嗚呼如大姉謂之如丈夫亦非益美也明治三十八年十日十四日病歿
  享年五十有九葬於良人墓側天照院營譽妙善大姉其法謚也

   明治三十九年七月 二世三郎助 其弟 忠治相謀立石 表其墓
                  正四位 勲三等 金井之恭 撰并書
[44]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月10日 05時00分07秒 ) パスワード
  

takahiroさま

いえいえ
面白いことになって来たではございませんか。


味の素の鈴木さん
江戸時代にちゃんと鈴木姓を名乗っていらっしゃる。
家紋が花月さんのお宅のと同じだったら?!
これはもう!葉山の堀内の鈴木家の菩提寺・光徳寺に味の素の家紋の確認にいらっしゃるべきですね。
同じだったら簡単簡単!
出自が分かったという事になります。
早速いらっしゃって調べてください。




味の素の鈴木家のその前身は何だったのか?

信州国の仁科氏の末裔?
これだったらいよいよ本物の源氏ではありますが2転3転する運命!が見えて来ます。

この仁科氏を挟んで三浦氏との関係が出て来ました。

整理しますと
仁科氏は後鳥羽天皇方として滅びました。
その子孫が?傍流が?一族が相模の鈴木家になっている。
代表が味の素。


三浦義村の弟の胤村は後鳥羽上皇方として処刑されています。
葉山ゆかりの後鳥羽上皇方の1人。

三浦氏なんて凄い家が出て来ましたが
ここの一族も2つに分かれて兄弟で戦いました。


当然信濃国の仁科家と三浦家は鎌倉で仲良かったはず。
花月さんのご先祖さまの亡霊がいよいよ姿を現し始めました。


承久の乱で敗れて武士としては力を失い武門はやめたのかも知れませんね。
一線から脱落して地元の有力者になって

その後鎌倉幕府の滅亡から南北朝の混乱に再び野心を燃やす花月さんのご先祖さま。
当然南朝方だったでしょうね。
鎌倉憎し!坂東平氏系北条憎し!
ですから。
新田さんとは手を組んだでしょう。
やっぱり南朝方ですね。


その後、伊勢から平家系北条氏がやって来る。
ここで被官したのか滅ぼされたのか?縁があって蝶紋を拝領したのか?


味の素の家紋が蝶だったら身近な一族ですし
違ってたら
当たらず遠からず
ですね。

でも戸籍謄本で明治の初めの花月さんのご先祖さまの中に葉山あたりに在住のかたがいらっしゃったら
状況証拠が揃いますが。
[45]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月10日 05時08分20秒 ) パスワード
  

戸籍謄本は御自分から1代ずつ遡ってとってください。
時間はかかりますが
その間戸籍謄本を睨んでいますといろいろ家庭の秘密が書かれています。


明治4年あたりのご先祖さまの戸籍謄本。
何が書かれているでしょうね?

昔の戸籍謄本は一族数十人の名前がたくさん書かれています。
中には葉山に戻ったかたもいらっしゃるかも。

謄本取得理由は「先祖の800回忌供養準備」とでもなさってください。
承久の乱で処刑された先祖の供養のためとでも。
[46]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月10日 05時22分27秒 ) パスワード
  

いやあ〜
もうびっくりしております。

花月さんの書き込みを最初に拝見した時
北条早雲の太った大笑いしてるイメージがあって
私は北条早雲というのは痩せた神経質な人だと思ってたので
誰?このおじさま!
と。

なんか北条早雲が出て来るのですよ。
私には関係ない人と思うのですけど。


南朝方で花月さんのご先祖さまとウチのがご一緒してたように思うのですけど

もっと前の時代の「承久の乱」だったの?です。


日本人は8代遡るとみんな親戚周りになると聞いてますが
え〜
っと驚いています。


あちこちの大地主の鈴木さんと結構引っ張り合いがあったので
南朝時代の繋がりだろう
とは内心気づいてたのですけど

結局は母方でも父方でも御縁があったようですね。
[47]takahiroさんからのコメント(2003年07月10日 16時24分36秒 ) パスワード
  

[44]〜のギャンブラーさんの記述への補稿ですが、仁科氏の代表紋のひとつに
揚羽蝶紋も存在したようです。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nisina_k.html

上記URLによると、「仁科」氏の系譜は源平また他姓が入乱れ複雑なようです。

相模鈴木氏と仁科氏との関係、また揚羽蝶紋との関係からみると、花月さんの
相模鈴木氏と仁科氏とは確かに関係しているかも知れないですね。
[48]takahiroさんからのコメント(2003年07月10日 16時35分36秒 ) パスワード
  

上記URLより(ギャンブラーさんの記述と重複しますが。)

『承久元年十月、後鳥羽上皇が熊野詣をされた。そのとき、仁科盛遠は二子を
連れて熊野詣に出ていたが、上皇と熊野で出会った。上皇の御尋ねに応えて、
盛遠は仁科盛遠と、同二人の男子に候と奏した。結果、上皇は盛遠の二子を院
中に召し西面衆とし、盛遠もまた院に仕えるようになった。北条義時は、これ
を聞いて、関東御恩の侍が許しもなく院中に奉仕することは心得ずとして、仁
科盛遠の所領を没収するに至った。
 これに対し上皇は、勅使を立てて所領を返すように命じた。しかし、義時は
勅答申さんと上洛し、仰せに従い難き旨を勅答した。これを聞いた上皇は幕府
を倒さんと思い召されたという。すなわち「承久の乱」である。
 乱に際して、仁科次郎盛遠は京方として、宮崎左衛門尉貞範らと二千余騎を
もって都を固めた。別説によれば、次郎は宮崎左衛門尉貞範・糟屋右衛門尉有
久とともに北陸道に馳せ下り、砺波山を支えんとしたが、幕府軍に敗れて、仁
科・宮崎の軍は落ち失せたともいう。』
[49]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月10日 23時19分55秒 ) パスワード
  

いよいよ見えてきましたね。

信濃の仁科家は
もともとは熊野の鈴木家なんでしょうね。
時代の流れで平家についたり源氏についたりしてたのでしょう。

武田菱を使用したのは信玄の5男でしょう。
戦国時代は
武田方よりはやっぱり北条早雲系の北条方についてたのじゃないかしら?
信玄の5男にのっとられているのですから
寄るべきは北条方となって信玄憎しだったと思いますね。

それで堂々と揚羽蝶紋を使用した?



[50]花月さんからのコメント(2003年07月11日 21時09分33秒 ) パスワード
  

皆様 こんにちは 花月です。

皆さまの貴重なお時間を割いて いろいろと教えて頂いてありがとうございます。

私なりの拙い知識の中で考えたのですが 大きい流れの中で個人名はともかく考えると 

鈴木は元はなんらかの形で熊野と関係があった。
 ↓
そこで南朝の時代に何らかの形で平家方に関わり ついた。
 ↓
目代や桓武平氏 伊勢平氏の関係で相模へ。
 ↓
時代は変わり相模の北条に関わった。

こんな推測で考えてみました。時代オンチなので妙なとこがあるかと思います。ヘンだよ!というとこがありましたら是非とも教えて下さい。
個人に関してはまだまだこれからの花月でございます。チェックはたくさんしております。

今、神奈川にいる兄弟に父や、その先の戸籍謄本をとってもらっています。
どんなご先祖様が出ていらっしゃるのか ワクワク です。

宗教関係は平和主義が表の顔、裏は戦いの明け暮れ
聖徳太子もそのようなことがあったと。
比叡山の事は理解できましたが
やたガラス自体『戦いの象徴』 (゜o゜)
そっか 大局的に考えればそうかもしれませんね〜。私は『導いた』と本でよんでたものですから そのまま考えていました。

味の素の『鈴木さん』に関しては父の知り合いだったらしいとしか考えていませんでしたが、夏の休みに 是非 葉山に行くべきですね。実家に近いので行ってきます。
takahiro様に教えて頂いた 鈴木三郎助氏 とは何か関わるのか とても気にかかる部分です。
よーーーし!!

仁科氏→後鳥羽上皇→平家系北条家

皆様からそのような事をうかがいました。やはりその流れが自然なのでしょうか。

過激な発言ですが

もしも 適うならば わたくしは 平氏系でありたい! と思います。
なぜか好きなんです。平家の生き方、考え方 進み方。
万一ご先祖様がいろいろな理由で源氏であったとしても それは私には計り知れない時代のことですから。今、私がいることをまず感謝致します。
ちょっと前までは平氏源氏なんて考えもしませんでした。しかし調べていくうちに平家でありたい と思いました。

このような場で発言することは マズイことのなのでしょうか。

色で言えば 私のイメージで言えば  平家は朱色 源氏はブルー。
平家は西郷隆盛みたいなかんじ 源氏は思い浮かびませんが線の細い そして理に適った思考をする方、それは情とかには流されないような。


この度、兄弟に戸籍を取らせていますが、もしもその後、寺などで調べ『蝶紋』を使っていたのが判明すれば

当分ギャンブラーじゃない様に教えて頂いたように 江戸時代に徳川に遠慮があった時代、ごまかしきれなかった平氏ということですよね。

また、質問させて頂きます。
お暇な時にでも、お答え頂ければ幸いです。


Q 北条早雲の時代 戦国時代は平氏でも源氏でも時代の流れでお召抱えになってしまう時代だったのでしょうか

Q また上記のような場合は平家系のご先祖様には良き時代だったのでしょうか

Q 戸籍謄本をとっていますが、(本)家が途中で二男 三男などが継いでいた場合は、長男にあたる方のは取れるのでしょうか。
また、家の血を調べてる場合はそのようなことは必要ないのでしょうか。

それと全然関係ない話で非常に俗物的な話ですが

どうしても合わない人がいます。
どうしても日々の生活で関わる人なのですが・・・もう数年我慢しています。
向こうも同じく我慢しているのがわかります。

最近、もしかして、これって昔からの関係?なんて考えてしまいました。
先方は家紋が父方が さがり藤 母方が鷹の羽 だそうです。

これってどこの関係の家紋の流れなのか ご存知でしたら 教えて下さいませ。




[51]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月12日 01時20分23秒 ) パスワード
  

花月さんへ

ちょっと書いてみます。
慣れない人のマシンなのでやり方が分からないのでQについては後ほど。


信濃の仁科は清和源氏となってますが

よく分かりませんが
主人が源氏だから自分も源氏を名乗るという事があります。

また信濃の父の系統は仁科氏を名乗り
相模なり伊豆に出た息子の家は他の名を名乗ることがあります。
例えば「鈴木」を名乗ったのかも知れません。
すでに有力な豪族として勢力を張ってた鈴木家があって
そこの婿に入ったとかね。

明らかに自分の苗字より格の劣る名を名乗ったりはしないと思います。
名乗るとしたら自分の名か、それより格の高い名。
日本人がどこの馬の骨とも分からないような苗字は拾ったりはしないと思います。



中国や韓国と違って日本は苗字を都合で変えたので
それに姓も都合で平氏を名乗ったり源氏を名乗ったり

本当は平家方だった・源氏方だった家も時代が下がると
本物の
平家だった・源氏だった
と格を上げてしまうこともよくありました。


戦国時代はごちゃごちゃになってたと思いますよ。
ごまかしようのない家はごまかえないけど
よそから流れて来た家はごまかしたでしょう。

ごまかしようのない家もあるにはあった。
1番の例が豊臣秀吉ですね。
それだけ正直者の家系だったのかもです。

だって従兄弟たちは「加藤清正」だの「鬼頭=福島=正則」だの苗字がちゃんとあるのですよ。
なんで藤吉郎の家は伝わってなかったのだろう?と実に不思議です。
よっぽど隠さなきゃいけないひどい先祖がいたのかしら?とも思ってしまいます。


伊勢伊賀平氏=平家=に対抗する為、
坂東では
坂東平氏はこぞって頼朝の味方をしました。

南北朝の戦いの時
鎌倉幕府(坂東平氏の北条家)を倒すために源氏が頑張りました。

その後源氏は2つに分かれて争いました。
足利源氏 vs 新田源氏ですね。
このとき我が家は新田源氏につきました。南朝方です。

南朝方が負け
結局は日本は麻の如く乱れました。
戦国時代です。

この戦いは局地的ではなく日本全国での戦いになったので
もう完全に源氏だの平氏だのという小さなことは言ってられなくなりました。

信長・秀吉・家康と誰が覇者かという最後の勝利者が決まってきて
やっと
平氏だの源氏だの再び名目が必要になって来ました。

将軍になる為には源氏でなければならなかったから。
無事家康の将軍宣下。

そうしますと将軍に恭順を示すため
みなさん源氏を称したかった。
でも歴史的にミエミエの家は絶対源氏は名乗れなかった。
例えば伊勢伊賀平氏系や藤原秀郷系。

こういう家が源氏だなんて称したら馬鹿にされたでしょうね。
立派な先祖をもってたが故に源氏を称することが出来なくてくやしかったでしょうね。



紋から特定な家を調べていくというのは至難の業ですね。

紋からハッキリ分かる家は2つしかないでしょう。
皇室関係と徳川将軍家関係だけ。


私でも初対面なのに嫌な印象を受ける人というのがあって
苗字を聞くととs佐々木氏です。
もともと佐々木という苗字は子供の時から好きじゃなかったです。
理由は最近分かって納得が出来ました。

佐々木の他にももう1つありますが
この家の嫌いな理由も分かりました。

ですから先祖の記憶が私の血の中にしっかり刷り込まれているんだと思います。
[52]花月さんからのコメント(2003年07月12日 13時35分44秒 ) パスワード
  

当分ギャンブラーじゃない様

いやはや歴史というのは続いているのですね〜(当たり前ですが)
途中から探りはじめると、にっちもさっちも行かなくなっちゃう。
膨大な時の流れの中を ちょいと首を突っ込んだ者が分かろうはずはありませんが。でも、皆さんのおかげで少しずつ近づいてきました。
後は、戸籍謄本が届くのを待ち、教えて頂いた知識と照らし合わせていきたいと思います。
来月のお盆までにある程度間に合いますようにと思っております。
その時に親戚の人に疑問を投げかけられますから。

教えて頂いた人物を少しずつ紐解き理解していく中や、その名を聞いた時に鳥肌がたつ時があります。
例えば桓武平氏とか伊勢平氏とか。
また、秀郷とはどんな人なのかこれから調べていきます。
調べ始めるとどんどん、どこかに繋がって膨大な量になりますね。
会社休んで一日中調べていたい。

ギャンブラーじゃない様にもお嫌いな方がいらっしゃるんですね。
やはり、血は記憶しているのは間違いないのですね。
DNAの記憶でも強い記憶は刷り込まれて伝えられると何かで読みました。

私の友人に神事の先生がいらっしゃいます。ここ一年ほどで子供を通して知り合いました。
その友人が
自分は平家の出です。先祖は分かっています。
その時代にも自分は生きていました。と。
そして平家でありながら源氏の身分の高い人と恋をし、子供を作り しかし許されぬことゆえに川だか海だかに子を流したと言います。

他人の子で自分の子の所に遊びにくる子の中に、とてもかわいくて仕方が無い子がいるそうです。
自分の子ではないのに、いとおしくて悪さしようが笑おうが、嬉しくて。
我子と思っているとよく言っていました。
嬉しくても悲しくてもその子のことになると涙してました。

他にも遊びにくる子供達はたくさんいます。毎日来る子もいます。でも、その子だけは、自分の子と同じようないとおしさを止められないのだと、先日泪を流しながら言いました。
きっと、その子は悠久の時に許されぬ子と自分が手放した子の分魂をもって生まれてきているのかもしれないと。

そのかわいがられている子とは今まさに私が心配しご先祖様や神社を調べようと思ったきっかけとなった私の子です。 

生まれ変わりや記憶など信じない人もたくさんいらっしゃいます。
私も最近までは半信半疑でした。
でも、友人が私の子を、それはそれは親でもできないようにかわいがり手をかけしてくれているのを見ると生まれ変わりや記憶は本人の意識できないところで残っているのかも 確かにある と最近思うようになりました。

関係ない話になってしまってごめんなさい。

これからも ヨロシクお願い致します。
[55]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月13日 00時11分50秒 ) パスワード
  

花月さん

私は「佐々木」が嫌いなのです。
最初子供の時に漫画で佐々木という姓を知りました。
その時から嫌い。

理由はありません。

「佐々木」という名字にズルさを感じたというのが理由でしょうか?
嫌いに理由などありません。
キッパリ


仕事で全く知らない人なのに反発を感じて
名前を佐々木と知って納得しました。

ある時、とても素敵な紳士がいらっしゃって
その方のお名前が佐々木さんで
以来反感は棄てました。

お殿様のようなお名前でした。


理由が分かれば納得出来ますから憎しみは消えますが
母方でも父方でも佐々木は敵でしたから
私の血が嫌ってるのでしょうね。

現代的表現では「生理的に受け付けない」というのでしょうね。
生物学的には「DNAに刷り込まれている」でしょうか?
[56]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月13日 00時17分31秒 ) パスワード
  

藤原秀郷:大雑把に書きますね。

栃木県の藤原町とか佐野市とかあの辺りの豪族です。
(但し私は栃木と群馬がこんがらがってますが)

秀郷は藤原氏出身で
日本の武士の発祥の1家です。(他は源氏であり平氏であり武蔵7党です)
日本の武士の出身の源として1番多く武家を出しています。


10世紀の中頃になるのかしら?
平将門が乱を起こした時
将門の従兄弟の平貞盛が藤原秀郷にお願いして同盟を結び
平将門を殺しました。

以来
藤原秀郷(+子孫)と平貞盛(+子孫)は仲が良いのです。


平貞盛の子孫は上総国から結局は伊勢伊賀に引っ越して栄えました。
これが平家です。

そのまま上総国に残った貞盛の子孫や貞盛の親戚の平氏達は栄えるチャンスを失って
それで平家に対する憎しみを募らせました。
だから源頼朝が挙兵した時に力を貸したのだと思います。



藤原秀郷の子孫で伊勢に引っ越したのが現代の名字でいうと「伊藤」さんになり
伊藤さんと平家は仲が良いのです。
伊藤さんも本姓の藤原を名乗ったり平姓でも呼ばれます。
平家一門ですから。
それに姻戚関係にありますから
もとは藤原氏でも平家と名乗っても平姓を名乗ってもおかしくはありません。
ですから伊藤さんは藤原姓でも平姓でも辞書に載ってます。


万世一系なんて称してる天皇家だって厳密に言えば「ありえない」んですから。
日本人が「源平藤橘その他の姓」ごちゃごちゃで当たり前なんです。

ただ伊勢伊賀平氏の子孫で三重県に今でも住んでる家が「ウチは源氏だ」なんて称したら
アホ
と言われちゃうでしょうね。


昔は敵の男との間に男子を生んだら水子にされたでしょうね。


そういう悲しい歴史って私達日本人の血には刷り込まれてると思います。
だから「血が騒ぐ」「胸騒ぎ」って表現しますものね。
DNAが反応してるんだと思います。
[57]花月さんからのコメント(2003年07月13日 09時36分15秒 ) パスワード
  

おはようございます。花月です。


藤原秀郷のこと よくわかりました。ありがとうございました。
教えていただいた中で

>そのまま上総国に残った貞盛の子孫や貞盛の親戚の平氏達は栄えるチャンス>を失って
>それで平家に対する憎しみを募らせました。
>だから源頼朝が挙兵した時に力を貸したのだと思います。

これは坂東平氏ということでしょうか?

また将門についても、ついでに調べてみましたら(何せ知識が薄いもので)

”将門が「新皇」と称し坂東八ッ国を従え関東の政を手中に収めた。”

と書かれていましたが、この場合の従えとは、すでに味方であったものたちを従えて?それとも制圧した?これは何方にあたるものたちなのでしょう。それとも地方の勢力たちのことを言っているのでしょうか。

そして、この後 秀郷たちに将門は滅ぼされ、この時に共にした平氏の一門から憎しみをかった!

ふむふむ 

それと話は変わってしまうのですが、前から気にかかっていたのですが
本姓 平姓 苗字 これはどう区別されるのですか?

いつも簡単な質問ばかりですみません。
せっかく教えてくださってるのに、ギャンブラー様たち気がぬけちゃいますね。ごめんなさい。

それと「血が騒ぐ」「胸騒ぎ」「血が煮えくり返る」 うんうん日本語ってすごいですね。妙にこの言葉たち納得しちゃいました。

それでは また

[58]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月13日 10時36分32秒 ) パスワード
  

花月さん

平氏も4流あるのです。
この中で栄えたのが桓武平氏流になります。

桓武平氏流は
武門になった平氏の他に
清盛の妻になった時子さんの出身の堂上平氏というのもあります。

でも平氏というのは上総国に下向して
さらに常陸・上総・下総で力をもった一族が栄え
貞盛と将門が激突して勝ったのが貞盛方で
この子孫で伊勢伊賀に向かったのが平家となって栄えたのです。

貞盛と将門が戦った時5家あったのです。
1つは歴史から消え
1つは平家となり
将門の方は負けて殆ど消え
あと2家から千葉や畠山などの系統と三浦や和田の系統などが出て来て
この人達は頼朝の挙兵の時に源氏方に付きました。


この2家に代表される桓武平氏を坂東8平氏と呼び
伊勢伊賀に移った平氏=平家=と対にします。


ちょと出掛けます。
[59]takahiroさんからのコメント(2003年07月13日 18時54分55秒 ) パスワード
  

花月様
すでに確認されているかも知れないですが、「姓氏家系大辞典・神奈川県版」に、
4ページにわたり神奈川県各地の鈴木姓についての情報が記載されています。
「姓氏家系大辞典・神奈川県版」は少し大きめの図書館でしたら所蔵していると
思いますので、一度閲覧されることをお薦めします。
[60]花月さんからのコメント(2003年07月13日 20時24分34秒 ) パスワード
  

こんばんは!花月です。
今日は一日、自分なりに年表を作り、そこに皆様から教えて頂いた人物の名前を書き込み自分でわかるようにしました。
あらためて皆様のコメントを読み返し結構納得できた今、皆様からの意見の重さがよ〜くわかりました。

takahiro様、
今私が住んでいますところは、ものすごーーく田舎なので、 
その「姓氏家系大辞典・神奈川県版」は近くの2箇所の図書館にあるのかと心配です。おそらくとりよせて頂くことになると思います。そんな本があったとは・・・(゜o゜)
明日電話してみます。誰が書かれたのでしょうか、県でしょうか。鈴木でしょうか。すごいです。感動します!ありがとうございます。



以前に当分ギャンブラーじゃない様からの

>母方は源氏方だったので源氏を称したのは誤差範囲ということになります。
(源頼朝と相婿でした)

>ワタシだけは「ウチは源氏方で源氏ではない」とはっきり言ってますが
>我が母方一族は「ウチは源氏だ」と言ってます。

>ワタシが頑張らないことにはと頑張ってます。

というのが胸に響きます。

私の家も受け継いだ子孫たち、従兄弟達も皆30代から40代になりますが家系?別に知らなくても問題なしって感じです。
たまに葬儀があった時に「あの方どなた?」「どこの関係?誰それ?」って感じです。

私も私が頑張りしっかりご先祖様の血 思いを残していかなきゃ!と思っています。今回系図作っても大切にしてくれるものがいるのかは分かりませんが いつか何百年後の子孫に私みたいなのが生まれ、先祖の血や考え方を誇って生きていかれればいいなと思っています。

源氏であったり平家であったり 人が生きてきて家を残すということは当時は本人や周りの関係者を残すということですね。
後々に伝えようとしたご先祖さまの生き方や信念を大切にしたいと思います。それがルーツであり血なんですね。
それを垣間見させていただきたいと思っています。

ルーツを探るとは自分を探しているのだと気づきました。
自分にそっくりな顔のご先祖様や考え方、気性が似ている方がきっとおられるのでしょうネ。
当分ギャンブラーじゃない様のご先祖さまと承久の乱の頃ご一緒していたのでしょうか。父母ともに縁があったようですとのお話うれしく思います。

 それでは また
[61]takahiroさんからのコメント(2003年07月13日 23時48分35秒 ) パスワード
  

花月様

「神奈川県姓氏家系大辞典」は、角川書店から出ています。

神奈川県の他、岩手、宮城、群馬、富山、石川、長野、静岡、京都、鹿児島、
沖縄の各府県が出ています。将来は全都道府県のものが発刊される計画であ
ると思われます。

高価な書籍ですので、図書館で複写されるのが賢明であると思います。

私もこのスレッドで何かコメントできればと、上記書籍より鈴木姓の4ページ
は複写してきていますが、あまりに情報量が膨大ですので(各ページ3段組)、
御自身で複写され、資料として手元に持たれておいた方がいいと思います。

もしどうしても図書館の取寄せが時間がかかる等でしたら、郵送で私の複写を
お送りすることも可能です。

[60]の花月さんのコメントを含め、ギャンブラーさんとのやりとり、毎回興味
深く読んでいます。私もまた何か参考になりそうな資料があればコメントしま
す。
[62]花月さんからのコメント(2003年07月14日 00時44分56秒 ) パスワード
  

今パニクッてます。花月です。お知恵をお貸しくださいませ。

今、寝る前に今一度PC開きtakahiro様のコメント読ませていただいて
良かったわ〜。私いつも関係ない方に脱線してて皆さまにご迷惑おかけしているから申し訳ないと思っていたんです。
でも、

>ギャンブラーさんとのやりとり、毎回興味
>深く読んでいます。私もまた何か参考になりそうな資料があればコメントし>ます。

と書いて下さって本当に嬉しく思います。
ありがとう。

話は変わりまして

もう一度土地の歴史を調べてみよう検索してたら
何件かヒットしたんです。

それが下のHPなんですが・・・


http://www.city.yokohama.jp/me/asahi/furusato/rekishi/rekishi2.html

ここに写ってる家 本家なんです。
ここんとこ、行ってないし、マジマジと門なんか見てないし
古いため修繕などで印象は変わってますが 
間違いないと思います。

そうしたら 私は誰なんでしょうか?

自分で考えてはみたのですが、歴史まだ完全ではないので、どなたか解説お願いできないでしょうか。

畠山重忠って???平家?源氏?
[63]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月14日 01時59分29秒 ) パスワード
  

畠山重忠は「鎌倉一の武士」と称された人物で
源氏方では人気の高い武士です。

本姓は坂東平氏で
最初頼朝と戦い
後に頼朝方になって戦いました。

頼朝死後北条氏に疎んじられ滅ぼされました。
旭区の区役所の近くに重忠の霊を慰めるお地蔵さんが立ってます。

二俣川の戦いは有名なのでどんな本でも書かれています。
[64]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月14日 03時06分10秒 ) パスワード
  

takahiroさま
ありがとうございました。


花月さん
ホンヤさんのお宅に伺って出自をおききになるのが良いと思います。
熊野系なのか?
仁科系なのか?
その他なのか?

ホンヤさんが称している範囲でまとめないと
ホンヤさんは○○系だと言ってるのに分家がXX系だというのもおかしなものですから。



私の神奈川の友人の鈴木さんと花月さんとは御親戚みたいですね。
[65]花月さんからのコメント(2003年07月14日 18時55分00秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様

遅い時間にもかかわらずのコメントありがとうございました。

昨日は、いろいろ考えよく眠れず うつらうつらの中 畠山という名が何度も浮かんできました。

私は平家とは関係無かった?仕事しながらも、頭の隅でいろいろ考て・・・。

畠山重忠の事はよくわかりました。ありがとうございます。
自分もいろいろ調べてみました。

ナンデ?がたくさん出てきました。以前から思ってたなんで?と合わせてみますと

この方は平氏の出身なのにナンデ頼朝についたのかしら?これ程意思がお強い方が命かけてまで。

坂東平氏もそう・・いくら伊勢平氏ほど繁栄、活躍できなくても、妬みだけで源氏に?ナンデ?

北条家だって、桓武平氏の分流と言いながら、ナンデ急に源氏になっちゃうの?

仁科流にしても いろんな本の中で源氏方で活躍がみえますよね。なんで揚羽蝶を前面に押し出しながら それはナンデ許されたことなのかな?

ナンデ急に変わるの?時代は変われる時代だったのですか?

将軍家が源氏だったから??先を見据えて?

どうもこの辺が今一つ前から分からなくて。


それとも家を存続させる為には、泪を呑んで源氏にと思った?

あるいは息子の代になって父と考え方が変わって?

今回は?ばかりになってしまいました。ごめんなさい。

それと一番ショックだったのは

仮に我本家もどんな形にしろ坂東八平氏に従い?頼朝に繋がったとしたら私が今まで抱いていた平家への思い入れは『思い込み』に過ぎなかったのかも。
これが今回一番ショックでパニックになった理由なんです。
平家のHPにおじゃまして皆様とお話できるのを楽しくしてたのに私・・関係なかったんだ。と。

もしもそうでもご先祖様が家や末裔のために一番良き道を選んだ あるいはそうせざるをえない状況だったのでしょうからそこの部分を掘り下げていきたいし理解したいとは思っています。

もう少しだけ おつきあいくださいませんか。

お願い致します。
[66]takahiroさんからのコメント(2003年07月14日 20時31分58秒 ) パスワード
  

http://www.city.yokohama.jp/me/asahi/furusato/rekishi/rekishi2.html

花月さんに紹介頂いた上記URLを拝見しました。
花月さんの御本家、今宿鈴木家はとても立派な門構えのお屋敷を現在に伝えて
られるのですね。

当スレッド冒頭の、花月さんの鈴木家は300年以上続いた大地主とのコメン
トと合わせ、大変由緒あるお家だと思われます。

やはりまずは、御本家の鈴木家を訪ねられ、伝承されている「今宿鈴木家」の
由緒を調べられるのが最も良いと思われます。

その中で、「畠山重忠」、「板東平氏」と御本家との関係、また「熊野」との
関係、あるいは「平家」との関係がはっきりしてくると思われます。

また「揚羽蝶紋」の由来も判明してくると思われます。

[65]の花月さんの?への返信にはなっていませんが、『平家物語を熱く語る』
は、『平家』を、ではなくあくまで『平家物語』に関連するトピックを皆で語
る場所ですので、畠山重忠、板東平氏、また源氏も大いに「平家物語」に関連
していますので、また揚羽蝶紋も大いに関連していますので、変わらぬコメン
トをお願いします。

また御本家に行かれた結果、やはり花月さんの鈴木家は「平家」との関わりの
あるお家であると判明する可能性も多くあると思われます。

上記URLのみでは最終的な結論を出すには情報量が少なすぎると思われますので、
是非御本家で由緒の聞き取りを為されるのが最も良いと思われます。
[67]花月さんからのコメント(2003年07月14日 22時05分15秒 ) パスワード
  



花月です。今晩は

takahiro様 お優しいお言葉ありがとうございます。

今一日、仕事しながらも頭の中でウダウダ考えていたもので 帰ってきて読んだ時、とても嬉しかったです。ありがとうございます。

もう少し みなさまご一緒させてください。

今日、考えていたことは

昨夜、畠山重忠が鶴ヶ峯、二俣川で・・ということを読んで
うっ そこは本家の土地だったとこじゃん!絶対に関係あるんだと頭の中で結びつけてしまいました。
でも、もう一度よくいろいろ調べてみますと、鎌倉に行く途中に、いろいろな関係で たまたまそこだった?!かもしれない。と気を良くしました。
takahiro様の
>上記URLのみでは最終的な結論を出すには情報量が少なすぎると思われますので

を読んで そうだそうだ!と昨晩から考えると強気になっております。

なにせ私の思考はあちこち飛ぶもので。これは知識のない人の専売特許ですネ。(笑)

でも残念ながら 本家での聞き込みはアテにはしてないのです。
本家はお嫁さんだけしかいません。
直系の鈴木家の者は他界しておりますし。

親戚がお盆で来た時に聞いてみるくらいしかないんです。

でも以前に

系図があるか心配です。 と書いたときに 暇潰しのギャンブラー様が

そういうことは必ずご先祖様に関心のあるかたが失敬していくものですからどこかに系図はありますよ。
と書いて下さったので 探せばあるかも!という気になってます。

一日も早く、戸籍謄本が届き解読するのが楽しみです。

takahiro様 ありがとうございました。








[68]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月15日 00時50分37秒 ) パスワード
  

花月さん

わたくしの母方の家は少なくとも3巻の系図がございました。
1番古いのは大阪空襲で燃えたと聞いています。
もう1本は大叔母が持っていましたが最近行方不明になっています。大叔母の息子が持っているのでしょう。
3つめは(わたくしの持っていますのは)伯母がなにかの機会に写したものです。

こんな風に機会があれば写していきますので1つだけとは限りません。
ですからお盆の席で話題に出せばどなたかが何か知ってる筈です。


わたくしの友人夫妻は「我が家は農家」と「農家」を強調なさってました。
豪農だったその昔はどんな様子だったのかはお話になりませんでした。
いつの時代に?
江戸時代なのか?
その前の北条氏の滅亡で秀吉の時代に?
または、もっと前の時代?

私の別の友人の庶貴族出身の鈴木さんと親戚になるのかどうか?

また別の友人には伊勢の豪商の「伊藤次郎佐衛門」の親戚の鈴木さんという方もいらっしゃいます。
[69]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月15日 01時58分29秒 ) パスワード
  

日本って、8代遡ればみんな親戚、と言うように
殆どが昔っから日本人は日本人ですから
回りまわって親戚だったりして、知ってる人に繋がったり

わたくしの友人と花月さんとが御親戚と分かって・・・やっぱり〜
でした。


畠山重忠は埼玉に博物館のようなものが建てられていて
40代あたりの年をとった畠山重忠の像があるとか聞きました。

畠山家はもとは埼玉の人で坂東平氏なんです。
源平合戦のころ最初は平家方についてました。

頼朝の挙兵で畠山重忠は平家方として戦ったのですが
伊豆の平家の大将の大庭が敗れたりして
坂東での形勢は平家方に絶対的に不利になっていき
仕方無く畠山重忠は頼朝に降参したのです。

同じく坂東平氏の三浦もスッキリしない行動を取りました。
この家もぐずぐずどっちに付くべきか様子を見てました。

平家のもとで良い思いをして別に不満の無い家は頼朝につく必要が無かったのです。
平家のもとで良い思いをしてなかった家が頼朝につくのは当然。

坂東平氏が頼朝を主人にして伊勢平氏を倒した経緯というのは
日本の武士の戦いの原点でありますから
後の
新田源氏 vs 足利源氏の戦い
戦国時代
最後の
倒幕時代
の日本人の精神構造が分かりますから

是非海音寺さんや永井さんの作品を4〜5点読まれますように。
平将門・藤原秀郷・平貞盛についてはいろいろ歴史小説になってますし
平家時代の人間模様もいろいろな方面から書かれています。

中世が分かれば日本人の精神構造が分かりますから
わたくしの友人御夫妻の「我が家は農家です」とキッパリおっしゃった矜持も理解出来ます。


わたくしの父方はホンヤさんを雲の上の存在として敬愛して現代に続いていますが
(ホンヤさんは出ていった家をかわいがってくださってるし)

でも

わたくしの母方はいろいろ事情があってスッキリというわけにはなっていません。
これって家が衰えていくことになるんです。
でも当事者達にすれば感情が先にありますからナカナカ。
それで私はニューヨークの従弟を85代目に決めてしっかり教育してるんですけど。

この従弟も霊感の強い性質だそうで
自分が85代目を継がなきゃいけないというのが分かってたようです。
でも彼の母親は上杉家の出身で
それで彼の心の中では名門上杉家との戦いがまだ決着がついてないみたいです。
彼の母親の家がとるに足りない家ならあっさり棄てられますけど
立派なお家ですから整理のつかない部分があるわけです。

従弟には比叡山に修行に行きなさいよとは言ってるのですけどね。


私達1人が存在するのに
平安時代の40代前の御先祖さまにまで遡ったら
一体どれだけの人間が関与したか
計算すると天文学的数値になります。

(私1人生まれるのに両親が必要。
両親が存在するのに4人必要。
これを40代分やってみてください)


私達の血って物凄い数の御先祖さまの血を頂いているのが分かります。

花月さんの血の中には
畠山重忠がむざむざ殺されるのを不条理と思いつつもどうしようもなく見殺した
そういう御先祖さまの血も流れているのです。

私もそうですから。

ですから花月さんが
御先祖さまはどちらの御出身?
私は誰?
と思い始めれば

天文学的数の御先祖さまがわらわらと出て来て当然なのです。
[70]takahiroさんからのコメント(2003年07月15日 14時37分46秒 ) パスワード
  

以下、参考になるか判りませんが、紹介頂いたURLに、

http://www.city.yokohama.jp/me/asahi/furusato/rekishi/rekishi2.html

『江戸時代にはいくつかの村々に分かれ、代官の治める天領と旗本の治める知
 行所になりました。所領を得たのは関ヶ原の合戦や大阪夏の陣で手柄をたて
 た人たちです。』

との記載がありましたが、
「神奈川県地名辞典」の<横浜市旭区>よると、

『近世初頭、ニ又川村は渡辺・稲富・宅間、今宿村は美濃部、白根村は藤川、
 下川村は倉林、川井村は鈴木・倉林・駒井の旗本領となった。』

との記載がありました。

この川井村(今宿村の北隣の村)の領主、旗本鈴木氏は、「神奈川県姓氏家系
大辞典」によると、穂積姓(熊野大社系)であり、

『鈴木重次系、鈴木信吉が、寛永10年から都筑郡上川井村・川井村(横浜市)
 の一部を領したが、同家は、天和3年に改易され、同領も収公されている。』

との記載があります。

*幕臣旗本「鈴木重次系、鈴木信吉」については、『寛政重修諸家譜』を参照
 されれば、詳細が記載されていると思われます。

花月さんの御本家、今宿鈴木家に地理的に近く資料に登場する「鈴木氏」に、
上記旗本「穂積姓・鈴木重次系、鈴木信吉」が挙げられますが、ただ、御本家
鈴木家は、旗本鈴木家より、より早い時代に土地に土着(帰農)されていた可
能性もありますので、上記情報は、一資料としてここに記載しておきます。
[71]takahiroさんからのコメント(2003年07月15日 15時45分06秒 ) パスワード
  

『神奈川県姓氏家系大辞典』に記載されている「鈴木家」のうち、横浜市内の
鈴木家についての記載は以下の通りです。

○橘樹郡小机村(横浜市)の氏の先祖は、ほかの三家と小机四人衆と称し、小
 田原北条氏の支配下、同地に土着した侍と伝えている(武蔵風土記稿)。

○同郡下菅田村(横浜市)長道寺の開基は鈴木与兵衛で、同村の名主役を務め
 る鈴木家の先祖と伝え(武蔵風土記稿)、同家は現在江戸初期からの文書を
 所蔵している(横浜市史料所在目録第6集)。

○また、現横浜市保土ヶ谷区岩間下町にも、江戸期以来の氏がある(横浜市誌)。

○享和三年刊『東海道人物誌』に橘樹郡保土ヶ谷宿(横浜市)の医師鈴木清玄
 の名が載せられており、同人は俳人としても知られたという。

○また、同郡神奈川宿(横浜市)青木町の鈴木利貞は江戸期最後の本陣を務め 
 たという。<後略>

○都筑郡では、東方村(横浜市)に氏がある。同家は同村相給名主の一家で、
 その祖は北条氏直に仕えた鈴木但馬守という(武蔵風土記稿)。

○同郡榎下郷(横浜市)には、天正十二年の小机城主北条氏尭朱印状写によれ
 ば、郷内遠藤氏の借銭・借米返済の催促が命じられている知行人鈴木氏がい
 た(神奈川県地名大辞典)。

○また、同郡別所村(横浜市)の鈴木清香は和算家として知られ、文政四年に
 は『孩堤算方』を刊行しているという(県史別編1)。


上記鈴木家は、各家なんらかの理由で、江戸時代前に現横浜市内に帰農(土着)
した鈴木家であると思われます。


幕臣旗本系鈴木家については、[70]記載以外にも多くの鈴木家が、現横浜市内
(または神奈川県内)に所領を有しています。『神奈川県姓氏家系大辞典』に
もその概要は記載されていますが、こちらは『寛政重修諸家譜』にて一家一家
の鈴木家を当った方がより詳細が判明すると思われます。


また、『神奈川県姓氏家系大辞典』の葉山町鈴木家については、

○三浦郡木古庭村(葉山町)に氏があり、その祖は小田原北条氏時代に村の長
 であったという(相模国風土記稿)。

○同郡堀内村(葉山町)では、鈴木七右衛門が幕末の海防にともなって川越藩
 から苗字帯刀を許可されている。

○また、慶応三年同村の米穀酒類商の長男として生まれた鈴木三郎助は、大正
 期、新調味料味の素を売り出し、味の素株式会社を興した(県史別編1)。


上記は、『神奈川県姓氏家系大辞典』から、神奈川県下の内、横浜市内と葉山
町の鈴木氏の項目を抜粋しましたが、神奈川県下の他の地域の鈴木氏について
も多量の情報が記載されていますので、おそらく花月さんの鈴木家とも何らか
関連のある家もある事と思われますので(近隣地の同姓として)、上記書を取
寄せられましたら、資料として参照される事をお薦めします。
[72]takahiroさんからのコメント(2003年07月15日 15時57分53秒 ) パスワード
  

上記、様々な資料をコメントしましたが、花月さんの揚羽蝶紋鈴木家の御先祖
の探究は、花月さん御自身のペースで、ゆっくりと進めていかれればと思います。
[73]takahiroさんからのコメント(2003年07月15日 16時07分37秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年07月15日 16時08分29秒
[74]花月さんからのコメント(2003年07月15日 21時53分37秒 ) パスワード
  

takahiro様 

お忙しい中、たくさんの資料を頂き心より感謝いたします。

寛政重修緒家譜と神奈川県姓氏家系大辞典 共に近くの図書館に頼み取り寄せていただいています。

早く着くといいな〜。。しかし、ここはおそろしく田舎で、つまり全ての面において時間と手間がかかる土地なのです。(~o~)

>『近世初頭、ニ又川村は渡辺・稲富・宅間、今宿村は美濃部、白根村は藤>>川、下川村は倉林、川井村は鈴木・倉林・駒井の旗本領となった。』

川井宿といいますが、すぐ隣でほんと散歩道の範囲です。
遠い昔は所有の土地だったと聞いています。今の本家のお嫁さんもそこら辺から嫁がれたとか。

また、白根は祖母の生家がある所です。我が家の本家も祖母の生家も ともに今も土地名や屋号に『大』をつけて 大○○と呼ばれています。
祖母の家も、とても大きい昔からの家だったそうです。土地持ちだからかと思っていましたが別の意味もあったのかもしれませんね。

バッチリ意識の中で繋がるところがありました。

 ホントに不思議なことに 私たちが知ろうとすれば今まで全然分からなかった事がどんどん分かってきて、そして強力してくださる皆様が居て下さる。
とても 不思議な事ですね。もうすぐご先祖様の大まかな筋まで近づけるかもしれないです。
ご先祖さまたちも そうか知りたいか?と笑っていろんなことを教えてくれてるような気がしてます。


 穂積の名が出てドキドキしてしまいました。
最初はこの穂積から調べ始めたんです。私。 久しぶりにこの名に戻ってきました。

>ただ、御本家鈴木家は、旗本鈴木家より、より早い時代に土地に土着(帰>>農)されていた可能性もありますので、上記情報は、一資料としてここに記>載しておきます。


しっかり、これからもいろんな角度で見ていきます。
私の、思い込みやなんかで、ヘンだな?と思った時は どうぞご忌憚なくご意見をお聞かせ下さいませ。

他にも何件かの鈴木家、関係ありそうな感じです。
血族ではなくても、過去に親しくしていた家だったような感じかもしれません。

どのような関係かはわかりませんが、それこそ8代遡れば皆親戚かもしれませんね。

とても貴重な資料、ご意見をありがとうございました。





[75]花月さんからのコメント(2003年07月16日 18時19分30秒 ) パスワード
  

 takahiro様   

 花月です。

みなさま今日も一日お疲れ様でした。やっと仕事から帰ってきました。(^.^)

楽しみにしていた『寛政重修諸家譜』 図書館から電話があり、
答えは『持ち出し禁止』
ひぇ〜っ(@_@;) なにやら何巻もあるそうですね。
置いてあるその図書館に行くには高速道路を使っても小一時間かかる。

ううっ・・・。仕方ない行くか!と思ってた矢先にまた電話が来て 
図書館の人が、『全部読むわけではないでしょうから、必要な部分をコピーして送りますよ。』と言ってくださったので、おお!ラッキーこんなサービスが図書館にあるなんて!それともご好意かしらなんて。結構うれしかったりして。


そして、また電話が来て ナント家から30分ほどの小さな図書館においてあることが分かりました。なんでそんな小さな図書館というより”図書室”なんですが置いてあったのか、その方が不思議ですネ。

きっとご先祖様のお導きですね。

逆にすぐ入るだろうと思えた 神奈川県姓氏家系大辞典 これが無いというんです。角川から出てます と申し上げたのですが・・今答え待ちです。

必要なものは、必ず私の手元に来るはずですからネ。だから近いうちに連絡入るような気がしています。早く見たい。

話が変わりまして

ギャンブラー様の神奈川のお友達と私が親戚のようだと伺い 誰でしょう?と先日から従兄弟や叔母、叔父に思いを馳ていました。

どなたかは分かりませんが、家系のことを、私よりも前から気にかけていてくれたことが、とても嬉しく思えました。

親戚や従兄弟たち親とさえ、そのような会話をしたことは、物心ついて以来記憶に全くありませんので、どなたかは検討もつきません。
もしもお話する機会がありましたら、親類の中に他にも気にしている人間がいると、お伝えくださいませ。
一緒に探せれば一番良いのですが。


また々脱線しますが ワイス博士(精神科の退行催眠)やホイットン博士(同じく精神科)が言っているように 過去に何か縁あった者は今回も必ず同じ時期に生まれ・・つまり周りの関係者一同 親戚 兄弟 会社関係やご近所など云々。が立場や性別は違えど ワンセット で同じ時期に生まれてくるのだそうです。
なんかこれ・・・ホントそうかもしれないなんて思ってしまいました。
ただ、夫婦や親なんかは違うらしいですが。これは逆に切れない縁として仲が悪かった人となることが多いらしです。皆が仲良くしていけるよに ということらしいです。

ギャンブラー様や皆様とも縁があったのかもしれないなぁ〜なんて思っています。


また余計な脱線をしてしましました。



                  花月
[76]takahiroさんからのコメント(2003年07月17日 00時42分24秒 ) パスワード
  

花月さま

 寛政重修諸家譜につきましては、確か二十巻ほどあったと記憶しています。
 
 しかし別巻として、「家紋」の巻と、「索引」の巻が三巻ほどあり、ここで
 「鈴木」を検索されると、穂積姓、藤原姓、清和源氏姓、その他の姓と、各
 鈴木家が、それぞれ、何巻の何頁に記載されているとの、分りやすい索引が
 あります。確か鈴木家は五十家ほど掲載されていると思いますので、まずは
 索引で全体を掴まれれば良いと思います。

 再度当スレッド、頭から見ましたが、ギャンブラーさまのコメントはすべて
 鋭いものばかりですので、是非その線に沿って、調べを進められればと思い 
 ます。
[77]takahiroさんからのコメント(2003年07月17日 01時31分21秒 ) パスワード
  

[6]のギャンブラーさんのコメントに、

>伊勢神宮の鈴木さんは宮原姓、との記載がありますが、

花月さん御紹介のURLには、
http://www.city.yokohama.jp/me/asahi/furusato/rekishi/rekishi2.html

『中世には二俣川から保土ヶ谷区保土ヶ谷町あたりは榛谷御厨といわれ、榛谷
 氏によって治められた伊勢神宮の荘園でした。善部町は膳部と書かれ、伊勢
 神宮への五穀を奉納していたとも伝えられます。』

との記載がありますので、伊勢神宮関係の鈴木氏が、荘園の関係で、現横浜市
旭区の地に下向し、その末裔が花月さんの鈴木家である可能性もあるのではと、
推論もできると思われました。
[78]takahiroさんからのコメント(2003年07月17日 01時44分00秒 ) パスワード
  

いくつもの推論を記し、花月さんの探索を複雑にしてしまっているようでもあ
りますので、私の推論は頭の片隅に入れて頂く程度にしておいて下さい。
[79]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月17日 02時19分44秒 ) パスワード
  

takahiroさま
ありがとうございます。

花月さん
わたくしの神奈川の友人御夫妻とのお付き合いは非常に長い期間に亘ってまして
やっぱり昔々からの先祖以来のお付き合いのなせる業だったのかしら?と思います。
庶貴族の鈴木さんと神奈川の鈴木さんが親戚であれば我が家との縁をもっと深く認識します。
昔はヨソの家の紋には興味が全くなかったのです。
複数いらっしゃる庶貴族の鈴木さんの1家の紋については何かの時に知り
(そんな紋じゃないわよ)
と反発した記憶もございます。←よそのお宅の紋なのに


>ワイス博士(精神科の退行催眠)やホイットン博士(同じく精神科)が言っているように 
>過去に何か縁あった者は今回も必ず同じ時期に生まれ・・
>つまり周りの関係者一同 親戚 兄弟 会社関係やご近所など云々。
>が立場や性別は違えど ワンセット で同じ時期に生まれてくるのだそうです。

>ただ、夫婦や親なんかは違うらしいですが。
>これは逆に切れない縁として仲が悪かった人となることが多いらしいです。


この部分
まさにそう思います。


わたくし自身「この人とは運命の結びつき」「この人とは宿命の結びつき」というのを感じます。
宿命の人とは何度も何度も生を受けちゃんと出合って来たと思います。
でも今生でやっとお互いそういうのがきちんと納得出来ましたのでもう来世は必要なくなっています。
もう一回生まれ変わるなら次回は夫と若い年齢で早く出会いたいと願っています。

私の宿命の人も花月さんと全く同じことを話していました。


このスレッドが7月5日に立てられてまだ2週間にもならないというのに
花月さんの鈴木家とはどこかで引っ張り合いがあったというのを感じます。

平家
承久の乱
南朝方
の3つの時代かしら。

1434年頃には花月さんの御先祖さまは伊豆相模方面へ我が家は伊勢尾張方面へ。
そして江戸時代の260年間に全く知らない関係になっていたのでしょうね。
[80]花月さんからのコメント(2003年07月19日 21時54分59秒 ) パスワード
  

こんばんは 花月です。

今日、兄弟から戸籍謄本、除籍謄本一式が届きました。
遡れる限り遡ったということです。区役所のおばちゃんが言うには『なかなか続く家系は無いんだよ。良かったね。』と言ってくれたとか。
とにかく、戸籍法というのでしょうか それの最初からとれました。

ところで、いろいろ順番に見ていきますと・・・
最初の方が難解で理解に苦しみました。

天保八年のご先祖がいらっしゃいまして
これは江戸時代ですから、その時点で鈴木姓だった事は証明されました。
それと住所は地名改正などはありますが今と全く同じ場所でした。

戸籍謄本を見ていて、よく字が見えない部分や昔の字体、達筆過ぎるぅ〜というのが多くこれからじっくり見ていこうと思います。

今日図書館でコピーしてきました『寛政重修緒家譜』の鈴木の部分を今見ています。
やぁ〜これも難しい。
それと昔はみょうにナンとか右エ門というのが多かったのですね。
我最初の戸籍の戸主も恒右エ門さんでした。
とにかく、わけがわからない部分が多く、解読するのも大変ですね。
見ればすぐわかるように書いてあると今まで思っていました。

でも、もしかしたら解らないのは私だけ?(^_^;)

>このスレッドが7月5日に立てられてまだ2週間にもならないというのに
>花月さんの鈴木家とはどこかで引っ張り合いがあったというのを感じます。

>平家
>承久の乱
>南朝方
の3つの時代かしら。

>1434年頃には花月さんの御先祖さまは伊豆相模方面へ我が家は伊勢尾張>方面へ。
>そして江戸時代の260年間に全く知らない関係になっていたのでしょね。

ほんと そうですね。もしも同じ土地に住んでいたら、今も『親戚』として過ごしていたのでしょうにね。

長い時代離れていましたが、今、また会えましたね。(^o^)丿





[81]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月20日 00時50分22秒 ) パスワード
  

花月さん

やっと届きましたか。

戸籍と『寛政重修緒家譜』を見比べている内に御先祖さまから語り掛けがございますよ。
戸籍の男子の名前の共通点(通字)が見つかると良いですね。
で、『寛政重修緒家譜』の鈴木某さんの系統というのが分かると良いですね。
[82]花月さんからのコメント(2003年07月21日 07時47分31秒 ) パスワード
  

おはようございます。 花月です。

戸籍と寛政重修緒家譜をここんとこずーっと見てました。
ともに最初はなにやら分からなかったのが、それでも見ていると 分かってくるものですね。

戸籍に最初に載っている方は明治六年生まれです。 

その前に前戸主 鈴木恒右エ門 と書かれています。しかし、生年月日の記載はありません。
しかし、母としての欄に恒右エ門さんの妻の生年月日が天保八年と書かれていますので、夫婦ですから、2〜3才くらいの違いと推測いたしました。

この 恒 という字に注目して 寛政重修緒家譜でおっていくと

穂積氏の欄に 鈴木恒五郎政喜さんという方がいました。

この方は1763年(宝暦13年)生まれですので 繋がりがあれば我が家のご先祖様はひ孫くらいにあたるのでしょうか。
妻は山田姓で藤原氏流の家の方ですが、この家は後に鈴木に改めたと書かれていました。
そして もう一人 この鈴木恒五郎政喜が祖 と書かれている 重直さんというかたは 別に家を興す と書かれています。

鈴木の姓に関する全てに目を通しましたが 寛政重修緒家譜の中に恒という字がつく方はこの方だけでした。

恒 という字は珍しいですし、別に家を興すということは家紋が稲穂から変わったのかもしれない・・・。と仮説をたてました。

PCの調子が悪くすぐ消えてしましますので、こまめに送ります。
[83]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月21日 08時06分35秒 ) パスワード
  

花月さん

お盆までに何か掴めると良いですね。
あと3週間ちょっとしかないですものね。
[84]花月さんからのコメント(2003年07月21日 08時17分56秒 ) パスワード
  

またまた花月です。

二番目の仮説は、本家のあたりの土地は、元和の頃に鈴木作兵衛さんといういう方がもっていたと土地の歴史に記されていました。

また、親戚一同の話の中に「ここら辺の土地はみーんな国に取られちゃったんだよね。』なんて聞いてたことがあるのですが、
先の鈴木作兵衛さんの土地も明治維新後は神奈川県の管轄にと書かれていました。
土地の所有や場所、が親戚や親が言ってた事と郷土の歴史に書かれていることが一致することが多いのでここから調べました。

寛政重修緒家譜によりますと これにも一人だけ鈴木作兵衛信正さんという方がいました。元和三年に亡くなっています。
先の元和の頃に土地を持っていた と土地の歴史に書かれていますので時代は共通していました。

しかし土地の場所が書いておらず、東照宮につかへたてまつる と記載されており
これは東照宮で働いていた?という意味ですよね?

違う作兵衛さんなのかしら。

とりあえず、この作兵衛さんのとこは甚左衛門の時に罪ありて家絶ゆ と。
この方の二男はまた別の鈴木で出ていますが、他の兄弟や親戚たちが家を出、家紋を替えたのかも知れない。

これが二番目の仮説です。

仮説1、2共に
強引にくっつけてしまったかもしれません。

みなさま
お時間が有る時にアドバイスをお願いできませんでしょうか。

また、他にどういう方法があるかと考えていますが
神奈川県姓氏家系大辞典が図書館から届くのにあと一週間ほどかかります。


文章を書くのが下手なもので、みなさまに意味が通じるか それが一番心配です。
[85]花月さんからのコメント(2003年07月21日 08時52分58秒 ) パスワード
  

しつこく花月です。

takahiro様から以前頂いたコメントの中に

>「神奈川県地名辞典」の<横浜市旭区>よると、
>『近世初頭、ニ又川村は渡辺・稲富・宅間、今宿村は美濃部、
>白根村は藤川、下川村は倉林、川井村は鈴木・倉林・駒井の旗本領となった。』

>この川井村(今宿村の北隣の村)の領主、旗本鈴木氏は、
>「神奈川県姓氏家系大辞典」によると、穂積姓(熊野大社系)であり、
>『鈴木重次系、鈴木信吉が、寛永10年から都筑郡上川井村・川井村(
>横浜市)の一部を領したが、同家は、天和3年に改易され、同領も収公され>ている。』

とあります。

あらためて皆さまに頂いたコメントのいろんなとこを読み返し、情報の重要性に気づいています。重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。

鈴木重次系、鈴木信吉これから調べてみます。

寛政重修緒家譜 山のようにコピーとってきてよかった!
実は先日この山のようにとっているとき図書館のコピー機を壊してしまいました。(笑)


今私が見ている郷土の資料
http://hamapyom.gooside.com/htm_7/7tna/718hodogaya.htm

二俣川村・都岡村の中の川井町のところを見ているのですが

元和元年 駒井右京亮親直に賜り御料となせしに、いつの頃か鈴木作兵衛、倉林五郎右衛門に賜りしも と書かれていますね。
(字が読めなくてはしょって書いてしましました。(・_;))

作兵衛さんも穂積で出てますし、この一体にいた鈴木さんは元はやはり穂積系だったのでしょうね。

少し自分のルーツが見えてきて、ほんともう少しのところまできました。
お盆が楽しみです。
一番嬉しかったのは、戸籍をとってくれた兄弟が今まで興味なかったようなのに、俄然興味を持ち始めてくれたことです。
やはり、ご先祖さまからの呼びかけですね。

先日 会社で恐ろしく嫌なことがありました。
不愉快と涙でいっぱいになりました。
でも、家に帰ってからまたご先祖さまのこと調べているうちに、『そりゃ、そうだよ。あそことは昔から仲悪かったんだから。』と笑っているような気がしてすっきりしてしまいました。

くだらない話ですみません。


[86]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月21日 10時05分09秒 ) パスワード
  

花月さん

上記書き込みからの想像ですが
>東照宮につかへたてまつる 
ご奉公したという意味の他
元和の時に土地を取られたということで、東照宮に土地を寄進した、寄進させられた、
という意味にも取れますよね。

もし奉公に出たなら東照宮のある場所の方に引っ越すでしょ。


それから「罪ありて家絶ゆ」という事で家紋を替えたかも知れませんよね。


ね、家書とか戸籍とか、そういうのを読んでいると家庭の秘密とか悲しみとか時代の不条理とか、
分かりますでしょ。
その内に御先祖さまも悔しい思いというのが花月さんの思いに変わりますよ。
[87]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月21日 10時12分56秒 ) パスワード
  

>鈴木重次系、鈴木信吉が、寛永10年から都筑郡上川井村・川井村(横浜市の一部)を領したが、
>同家は、天和3年に改易され、同領も収公されている。


これはひょっとしたらどのような咎だったのか記録で残っているかも知れませんね。
教育委員会に問い合わせたらコピーをいただけるかもですよ。


>『そりゃ、そうだよ。あそことは昔から仲悪かったんだから。』
ふふふ
わたくしの場合は佐々木氏でした。

昔から仲が悪いとか昔から仲が良かったとか
確かにありますね。
これ、非常に分かります。
[88]takahiroさんからのコメント(2003年07月21日 10時38分08秒 ) パスワード
  

花月さま

 さまざま貴重な、また有力な情報を入手されていると、興味深く上記拝見し
 ました。

>寛政重修緒家譜によりますと これにも一人だけ鈴木作兵衛信正さんという
>方がいました。元和三年に亡くなっています。
>先の元和の頃に土地を持っていた と土地の歴史に書かれていますので時代
>は共通していました。

>しかし土地の場所が書いておらず、東照宮につかへたてまつる と記載され
>ており
>これは東照宮で働いていた?という意味ですよね?

「東照宮につかへたてまつる」とは、東照宮=徳川家康の尊称であり、家康に
仕えていた、つまり幕臣旗本であったという意味とも捉える事は可能と思います。それ故、

>徳川氏江戸入國後は村高百四十九石三斗二升五合の内其一部を元和元年駒井
>右京亮親直に賜はり殘餘を御料となせしにいつの頃にか鈴木作兵衞、倉林五
>郎右衞門の釆地に賜はりしも鈴木の釆地は其後公収して御料となせり、明治
>維新後は神奈川縣の管轄に屬す

上記、花月さんの御本家に関連する土地の歴史に登場する「鈴木作兵衞」と、
寛政重修諸家譜記載の「鈴木作兵衛信正」は関連ある人物である可能性がある
と思えます。

また、

>『鈴木重次系、鈴木信吉が、寛永10年から都筑郡上川井村・川井村(
>横浜市)の一部を領したが、同家は、天和3年に改易され、同領も収公され
>ている。』

に記載されている、「鈴木重次系、鈴木信吉」と、先に登場した「鈴木作兵衛
信正」も、「信」という諱で関連しており、

○鈴木作兵衞
○鈴木作兵衛信正
○鈴木重次系、鈴木信吉

は、すべて花月さんの鈴木家と関連しているように思えます。

おそらく、元和三年に亡くなられている鈴木作兵衛信正の子孫が、寛永十年に
都筑郡上川井村・川井村の一部を拝領した鈴木作兵衛、つまり鈴木作兵衛信吉
なのではないでしょうか。

また、戸籍謄本に記載されている「鈴木恒右エ門」と、寛政重修諸家譜記載、「鈴木恒五郎政喜」も、花月さんが推測されている通り、関連してきていると
思えます。

資料の読解をもう少し続けられれば、様々なことが判明してきそうですね。
[89]花月さんからのコメント(2003年07月21日 10時55分41秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

花月です。

>これはひょっとしたらどのような咎だったのか記録で残っているかも知れませ>んね。
>教育委員会に問い合わせたらコピーをいただけるかもですよ。

なんと!!
教育委員会というのは、こういうこともしてくれるんですか!

私、今まで教育委員会というのは、公立の学校の問題や父兄からの不登校の子などの相談、一般の教諭が教頭や校長先生になる時に籍をそこに移す などがお仕事だと思っていました。
実にカルチャーショックでございます。

その地区の教育委員会に問い合わせれば、記録が残っているかもしれないということでございますね。

早速、明日連絡してみます。

なんで土地とられちゃうのかしら・・とは思っていましたが、
そんなもんなんだなその時代は。くらいにしか今まで考えませんでした。
私にとって、つい数週間前までは明治でも『遠い昔』のことでしたから。
今は、とても最近に変わってきたかも(笑)

それと、東照宮に土地を寄進したとして、神奈川から東照宮までは、かなりの距離ですが、そういうことが現実にあったのでしょうか。
また、お時間あればお教え下さいませ。


いろいろとありがとうございました。


[90]takahiroさんからのコメント(2003年07月21日 11時07分23秒 ) パスワード
  

[88]「東照宮=徳川家康」は、正確には「東照大権現=徳川家康」でした。

「旗本鈴木作兵衛信正、その子孫、甚左衛門の時に罪ありて家絶ゆ」の経緯か
ら何か判るかもしれないですね。
[91]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月21日 11時44分47秒 ) パスワード
  

takahiroさま
>「東照宮につかへたてまつる」とは、東照宮=徳川家康の尊称であり、家康に仕えていた、
>つまり幕臣旗本であったという意味とも捉える事は可能と思います。
なるほど!


花月さん

元和あたりの時代についてですが:

秀忠の時代は大名のお取り潰しが非常に多かったのです。
全部で65家ぐらいだったか改易されています。

秀忠+家光の時代は大名家にとっては戦々恐々、とにかく幕府はいちゃもんをつけて取り潰しました。

鈴木家も理由にならない理由で取り潰されたのかも知れませんね。


教育委員会には歴史編纂をしてる科があって
地元の歴史を調べています。
神奈川県と横浜市の教育委員会にお問い合わせをしてみたらよろしいか、と思いますが。
[92]takahiroさんからのコメント(2003年07月21日 12時13分38秒 ) パスワード
  

花月さん御紹介のURL

http://hamapyom.gooside.com/htm_7/7tna/718hodogaya.htm

より、[88]へ『川井町』については転載しましたが、更に『上川井町』として、

「元、川井村と稱して都筑郡の内なり、古き沿革は川井町の條に同じ、徳川氏に至り村高三百五十四石八斗三升八合の内、寛永の頃二百七十三石餘を裂きて旗下庄定之丞の先祖某に賜はりしがいくばくもなく公収し、正保の頃鈴木作兵衛の釆邑とせしも又間もなく収公せられて御料となる」

元和三年=1617年
正保年間=1644年〜1648年

また、

>『鈴木重次系、鈴木信吉が、寛永10年から都筑郡上川井村・川井村(
>横浜市)の一部を領したが、同家は、天和3年に改易され、同領も収公され
>ている。』

から、寛永十年(1634年)に鈴木信吉氏が上川井村・川井村の一部を拝領していますので、やはり、鈴木作兵衛=鈴木重次系、鈴木信吉であると思われます。

改易されているのは天和三年(1683年)であり、ギャンブラーさんの御指摘のように、この改易の経緯の史料を地域の公的機関等に問い合わされれば、さらに多くが判明しそうですね。
[93]花月さんからのコメント(2003年07月21日 12時58分32秒 ) パスワード
  

takahiro様

私が入力している間にコメントいただいていたのですね。
気づかずに大変失礼致しました。

>「東照宮につかへたてまつる」とは、東照宮=徳川家康の尊称であり、
>家康に仕えていた、つまり幕臣旗本であったという意味とも捉える事は可能>と思います。

そういうことだったのですね。

私の知識の中には東照宮=日光東照宮しかなかったので、これは目から鱗が落ちました。
これで日光との距離のなぞも解けました。

PC相変わらずおかしく、この文章何回打ち込んだかわからないので、
また消えてしまう前に送ります。

[94]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月21日 13時24分58秒 ) パスワード
  

天和三年(1683年)

元和3年とごっちゃにしてました。
ごめんなさい。

綱吉時代ですね。
この人の時も改易が多かったです。
57家だったかしら?

天和3年には摂津河内の稲葉正往が相模小田原を相続してるみたいですよ。
それに関してかしら?
よく分かりません。
[95]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月21日 13時34分52秒 ) パスワード
  

花月さん

レスが多くなって100を超えますと
このスレッドだけが重くなって管理人さんが大変になりますので
そろそろ新しいスレッド<その2>をお立てになってくださいね。
全然遠慮なさらなくて良いですよ。


私はマタマタそろそろ数日ちょっと留守になりますのでその間も書き込みをお願い致しますね。
留守中はヒトのマシンを借りて拝見する事が出来るかも出来ないかもよく分かりません。
[96]花月さんからのコメント(2003年07月21日 13時41分51秒 ) パスワード
  

鈴木重次系、鈴木信吉
に関して調べましたら、私が書いた信正さんのお隣に並んでいましたね。
信吉さんも作兵衛。

まだ、今一歩この寛政重修緒家譜の見方がわからないのですが、
●で結ばれているというのは兄弟ということでよいのでしょうか?

>おそらく、元和三年に亡くなられている鈴木作兵衛信正の子孫が、
>寛永十年に都筑郡上川井村・川井村の一部を拝領した鈴木作兵衛、
>つまり鈴木作兵衛信吉なのではないでしょうか。

なるほど、同じ一族として、信吉さんに引き継がれるのですね。

信吉さんは常陸国鹿嶋とかかれていたので、直系には関係ないと思っていましたが、昔は今ほど土地が細切れになっていなかったのかも・・・と今は思っています。それに鹿嶋  と言えば鹿嶋神社は確か熊野系でしたよね。



>戸籍謄本に記載されている「鈴木恒右エ門」と、寛政重修諸家譜記載、
>「鈴木恒五郎政喜」も、花月さんが推測されている通り、関連してきている>と思えます。

この線ですが、めちゃくちゃな、こじつけなんですが、
素人でまるっきり知識がないからこそ、恐れ多くも皆さまの前で臆面もなく発言できるのですが。

鈴木作兵衛さんと一緒に近くの領地をもっていた倉林五郎右衛門さん
同じような土地にいたので、婚姻関係があったのでは・・と。
その血も入っているのでは。

この倉林五郎右衛門さんの名前は

鈴木恒五郎政喜さんの 「五郎」と我が家の戸籍の前戸主の恒「右エ門」さんを+たようなもので、この倉林さんも、やはり元は穂積の関係のもので、鈴木恒五郎さんと繋がるのかも・・・なんてとんでもないことを考えてしまいました。
同じ地にいたということは、任されたり、頂いた土地でも、まるっきり関係ない血筋ではなかったのでは・・と。五郎さんも、右エ門さんもたくさんいらっしゃるから、こじつけですかね。。


>元和あたりの時代についてですが:
>秀忠の時代は大名のお取り潰しが非常に多かったのです。
>秀忠+家光の時代は大名家にとっては戦々恐々、とにかく幕府はいちゃもん>をつけて取り潰しました。
>鈴木家も理由にならない理由で取り潰されたのかも知れませんね。

そうなんですか。もしそうなら悔しかったでしょうね。
一門も家族も、そして表だっては出ては来ないけど女たちも。
涙を呑んで耐え忍んでいたのでしょうか。
胸がつまります。





[97]花月さんからのコメント(2003年07月21日 14時13分32秒 ) パスワード
  

寛政重修緒家譜で見ていきますと、
信吉さんの項は秀忠、家光につかえたてまつり・・・とあり
また、天保3年〜云々とも出てきます。

そうですか、又がり、どちらにしても取り潰しやなんかが多い時代だったんですね。
気苦労されたことでしょう。


>レスが多くなって100を超えますと
>このスレッドだけが重くなって管理人さんが大変になりますので
>そろそろ新しいスレッド<その2>をお立てになってくださいね。
>全然遠慮なさらなくて良いですよ。


教えてくださってありがとうございます。

どのようにしたら良いのでしょうか。
とりあえず、トップページに戻り、よく読んでやってみます。

それでは、また

いつも貴重なお時間を割いてくださりありがとうございます。
[98]takahiroさんからのコメント(2003年07月21日 14時45分25秒 ) パスワード
  

100までもう少しスペースがありますので、こちらに記しますが、

>おそらく、元和三年に亡くなられている鈴木作兵衛信正の子孫が、
>寛永十年に都筑郡上川井村・川井村の一部を拝領した鈴木作兵衛、
>つまり鈴木作兵衛信吉なのではないでしょうか。

の根拠ですが、重複しますが、

「神奈川県地名辞典」の<横浜市旭区>よると、

『近世初頭、ニ又川村は渡辺・稲富・宅間、今宿村は美濃部、白根村は藤川、
 下川村は倉林、川井村は鈴木・倉林・駒井の旗本領となった。』

との記載があり、

この川井村(今宿村の北隣の村)の領主、旗本鈴木氏は、「神奈川県姓氏家系
大辞典」によると、穂積姓、

『鈴木重次系、鈴木信吉が、寛永10年から都筑郡上川井村・川井村(横浜市)
 の一部を領したが、同家は、天和3年に改易され、同領も収公されている。』

との記載があり、

また花月さんからのコメント、『寛政重修諸家譜』に「鈴木作兵衛信正」の名
の記載があるとの事、またその隣の項に、「鈴木作兵衛信吉」の名の記載があ
るとの事、やはり花月さんの旧相模国都筑郡上川井村・川井村の近隣の地主で
あられた鈴木家は、幕臣旗本として(同上)上川井村・川井村を領有していた
鈴木作兵衛家信吉家と関係していると思われます。
[99]takahiroさんからのコメント(2003年07月21日 14時58分47秒 ) パスワード
  

江戸幕臣家について、また『寛政重修諸家譜』の読み方については、川口信様
がお詳しいと思われるのですが、もしお時間がございましたら、江戸幕臣の所
領と居住地の関係等、お教え頂きたく、勝手ながらお名前を出させて頂きます。

また自身でも、機会がありましたら、『寛政重修諸家譜』の鈴木信吉家の項を
拝見し、コメントできる事があればコメントします。
[100]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月21日 15時51分03秒 ) パスワード
  

では代わりに新しいスレッドをお立てしますね。
[101]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月21日 15時54分31秒 ) パスワード
  

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100547.html
に新しく<その2>を立てました。

タイトルは変更可能ですのでおっしゃってくださいね。
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