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 投稿番号:100524 投稿日:2003年06月23日 21時14分30秒  パスワード
 お名前:暇なギャンブラー
平田篤胤<その2>

コメントの種類 :人物  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100243_100.html
の続きです。

[1]さちこさんからのコメント(2003年06月23日 21時26分06秒 ) パスワード
  

わ〜い!
一番ゲット!

明子姫、
服部家は皆同じ、
詳しく書いてると、
賞味期限のきれた彦星がくるからね(笑)

服部明子さん。
ありがとう。
[2]さちこさんからのコメント(2003年06月23日 22時39分33秒 ) パスワード
  

川口さん。
スレッドが変更になったのでコピーするのが面倒になりましたが、
よく判ります。

歴史を調べていると、
時の権力者は必ずといって良いほど、
歴史に名を残した人物に系図を繋げたがります。

誰とは言わんが。。。

でも、歴史に名を残さずとも、
一生懸命まじめに働いてきたお父さん。
頑張って子育てしてきたお母さん。

そんな御先祖様が本当は一番偉いのでは?

川口さんのお話しでそんなことを思いました。

布袋さん。
ありがとうございました。
私、無知で失礼しました。

教科書では教えられなかった歴史というか。。
江戸時代から、明治時代。
本当は何があったのか。

お寺のない墓、
これは少し驚きました。

うちの田舎でもお寺のないとこに墓はありますが、
ここはあの寺の檀家の墓で、
この墓は誰々の墓でなんてことが判ります。

お盆休みに、九州にいきます。
鹿児島、宮崎、高千穂あたりです。
ずっと前から決めてたので偶然です。
調べてきます!
アドバイスよろしくお願いします。

川口さん。

神様になってる人物こんなのがありました。
何でなんだ〜?というのも。
笑うのもあります。
http://lefthander.fc2web.com/hito.html

確か弐に平田篤胤は異例かも知れませんね。




[3]ひにゃさんからのコメント(2003年06月24日 02時08分20秒 ) パスワード
  

こんばんは。

川口様

96の、薩摩弁のホームページ見させていただきました。
おもしろいですね。
地図で見ると、私の家のあたりは
肥筑ですが、実際は肥筑と豊日の中間あたりの言葉を喋っています。

一口に福岡と言いましても
やはり筑前と筑後では多少言葉も違ってまいります。
また、同じ筑後内でも、
筑後川から筑前よりと、筑後川から向こう、
さらに久留米より有明海より柳川藩と隣接するあたりと、
地域によってまた多少違います。
久留米に住む友人は、
自分の家より有明海に近いところの地域は訛りがひどいと馬鹿にしております。
福岡から見れば、どちらも大して変わらない田舎言葉なのでしょうが。

さちこさま

大分、福岡あたりの方言に朝鮮語の影響があるのかよく分かりませんが、
「むごい」というのは標準語でしょうか?
博多弁には「むごい」という言葉があるような気がします。
大分に住む私の祖母も、「むげねえ」とよく言います。
意味は…「残酷で可愛そう」くらいでしょうか。
その言葉の語源は「蒙古」にあるそうです。
元寇の襲来のとき、蒙古があまりにも残虐だったので
蒙古が転じた「むごい」が残虐な行為を意味するようになり、
それが博多を中心になって広がったみたいです。

これはうまい例えではないと思いますが(すみません)
福岡というのは、
それぐらい他の国からの影響を受けやすい場所であると思います。
ので、朝鮮からの言葉の影響など、確かに受けているかもしれませんね。
普段はそのようなこと、何の意識もせずに話しておりますが。

布袋竹さま

「最近の若いもんは」と、つい言いたくなってしまいますよね。
自分も含め、本当にきちんとした方言が話せなくなっていると思います、
最近の若者は。
といって標準語を話しているのでもないと思うのです。
それでは何を話しているのでしょうね、
最近の若いもんは。








[4]川口 信さんからのコメント(2003年06月24日 07時56分54秒 ) パスワード
  

ひにゃさん、実は私のパソコン教室の先生は福岡市出身で色々面白い話よく聞いております。

 たとえば、背にリックを背おうを、○○○なんて、実際は忘れてしまいましたが。

 さちこさん、各地の祭神のURL見てきました。

 建礼門院(平徳子)たいらのとくこ 久留米の水天宮  各地の水天宮
 二位尼(平時子)たいらのときこ    〃〃       〃

 全然知らなかったです。水天宮は安産の神様だとずっと思っておりましたので。
 
 このスレッドは勉強になるなぁ〜。
[5]布袋竹さんからのコメント(2003年06月24日 10時11分44秒 ) パスワード
  

このスレッドは平田さま・
でも、ほかのものも、おもしろい・と、ずらしていく私も悪い。
鹿児島では薩摩義士・岐阜の治水工事の親分、と、国分のたばこの服部さま・が関連

鹿児島に住んでる人には、お墓が綺麗なのは当たり前で
毎日が、盆・彼岸のようなのは、他の人がみて感じることなので・
外に出たことの無い人には、気づかないことかと思います。
お寺のない墓も自然・・

さちこさま
鹿児島で見たいものがあれば、ご案内します。
ひにゃさま
新しい薩摩弁がつくられてゆきます。今の若者によって・
言葉も、変わってゆくのでしょう。伝統行事も少しづつ変化してます。
むごいは、標準かもしれませんね。「むぜ」鹿児島ではかわいそう・
可愛いは「もぞか」    可哀想に→むぜか
川口さま
いつもありがとうございます。背中に「からう」と思います。
これは、九州圏全体だと思います。支払いの時に話す三つの圏もありますね。
「いくら」「なんぼ」「どしこ」
出身を言わない女性・に限らずおおよその地域を確認するあるwardsも・
[6]太郎さんからのコメント(2003年06月24日 18時47分45秒 ) パスワード
  

さちこさんへ
[92]の「草」の話は面白かったです。

>敵国に潜入した後その土地に馴染んで暮らし、その土地の娘を娶りながらもいつか来る(来ないかも知れない)指令を待っていました。

草は植え付けておけばどんどん根をはるし、増えたりもしますからねえ。「草」って表現ぴったりですねえ。
目障りな雑草になったら、引き抜かれちゃうかもしれないけど?(笑) 


あと、幕府の忍をおそれた薩摩が人工的に方言を作り出したとしたら、これもすごいことですねえ。
でも方言って、日本全国にあるので、人工的なものなのかは疑いの余地もありますが(笑)

ちなみに私が気が付いた方言。
東京の人なら「わたしは優しい人と結婚したい」と言うところを、千葉の女性は「自分は優しい人と結婚したい」とか言うので、「君、千葉の人でしょう?」というと当たっていたりします。
一方、東京の人なら「君は優しい人と結婚したいんだろう」と言うところを、京都の人は「自分は優しい人と結婚したいんだろう」とか言ってしまうみたいです。
「自分」の使い方が微妙に違うので、東京の人ではないとばれてしまう一例でした!!
[7]太郎さんからのコメント(2003年06月24日 18時50分22秒 ) パスワード
  

ひにゃさんへ
[3]に関して

「むごい」って標準語ですよ。よく使ってきました。本とかでも「このようなむごい仕打ちに耐えかねて〜」とか載っていたような。。。
[8]太郎さんからのコメント(2003年06月24日 19時04分08秒 ) パスワード
  

ここで一応、平田篤胤の話を振り返っておきますと、

@篤胤の実家の大和田氏は平将門の流れを引く桓武平氏らしいが、篤胤の養家である備中松山藩の平田氏はどの流れをひく桓武平氏なのか不明である

A平田神社で使われている卍型の御神紋が「捻じ万字」と呼ばれるものであることは平田神社への電話で分かったし、平田篤胤がその家紋の紋付を着ている肖像画も書籍などで見かけられたが、それが備中松山藩の平田家代々の家紋なのかは、平田神社の人にも分からない(平田篤胤が使い始めたという可能性もある?)

B平田家または平田篤胤が、卍の家紋を使うようになった由来は何なのか

など、まだ不明だったり、断定できなかったり、気になったりする部分はあったりします。すべての謎が明らかになる日は来るのでしょうか?
[9]さちこさんからのコメント(2003年06月25日 00時45分43秒 ) パスワード
  

太郎さん。
せっかくのスレッド、
なんだか変な方向にしてごめんなさい。

ご指摘のように関西人は本人のことではなく相手のことを自分といいます。
例えば標準語で、
「あなたはどう考えてるの?」が
    ↓
「自分何考えてんねん?」になります。

私の大好きな(?)河内弁のワレ!も我に通ずると思います。

むごいは確かに標準語で、
関西でも(大阪)、
ひどい、残酷で可愛想という意味もありますが、
もっと軽い感じで使う場合もあるように思います。

例えばこんな感じ。

「あんた遅刻してきたから今日はお昼ぬきやな」

「むごいこと言うなぁ〜」

今日は少し夜遊びしてたので遅くなりあまり書けませんが、(もう眠い)
鹿児島あたり、旧薩摩藩では、
先祖からの菩提寺というのはないのですか?
一般庶民の先祖のお寺は残ってないのですか?
教えてください。


[10]ひにゃさんからのコメント(2003年06月25日 02時09分44秒 ) パスワード
  

こんばんは。

太郎さま

私も突然はいってきたくせに
おかしな方向にばかり話を持って行こうとしてすみません…

むごいって標準語なんですね〜
何が博多弁なのかよく分からずに普段話しているんでしょうか

川口信さま

それはきっと「からう」ですよ。
布袋竹さまがおっしゃっているように、
九州全域で共通する方言だと思います。

私はいまだに聞いたことがないのですが、
大分では「かわいい」のことを
「けこい」という地方があると聞いたことがあるような気がします。
だから、「可愛い娘さん」は「毛濃い娘さん」になるという笑い話でした。
[11]太郎さんからのコメント(2003年06月25日 05時46分34秒 ) パスワード
  

さちこさん、ひにゃさん
気にしないでください〜〜(汗)(汗)
最近 takahiroさんが現れないので、少し話を元に戻してみたのでした。

方言は味がありますね。
毛濃い娘さんが可愛いっていうのは、ちょっとすごいです。
[12]takahiroさんからのコメント(2003年06月25日 15時40分52秒 ) パスワード
  

遅くなりましたが、太郎さん、平田神社への問合せありがとうございました。
その後も、皆さんの投稿を興味深く拝読していました。

平田篤胤については、また何か判明すればここへ投稿致します。
太郎さんの調査においてもまた何か判りましたら御教示下さい。

[9]のさちこさんの御質問についてですが、
>鹿児島あたり、旧薩摩藩では、
>先祖からの菩提寺というのはないのですか?
>一般庶民の先祖のお寺は残ってないのですか?
>教えてください。

旧薩摩藩では、江戸時代を通して浄土真宗(一向宗)が禁じられていたため、
元から浄土真宗の寺院は存在せず、明治維新期に廃仏毀釈遭った寺院とは、
曹洞宗、臨済宗、浄土宗等の寺院でした。江戸期を通し一向宗は禁じられて
いましたが、農民層、また一部士族層も含め潜在的一向宗徒は多く、明治9
年に政府により信教自由化が発布されると、旧薩摩藩内には雨後の筍のよう
に急速に浄土真宗系の寺院が建ち、幕藩体制下における潜在的一向宗徒が自
らの信仰を公にしました。廃仏棄釈により破壊された禅宗系の寺院も、明治
9年以降再建されていると思われますが、勢力は幕藩体制下の時代より大幅
に下がっていると思われます。
上記はあまり調べずに記していますので、誤っていましたら御教示下さい。
また、以下は私の推測ですが、旧薩摩藩の廃仏毀釈があれだけ徹底されて、
過激であったのは、単に平田篤胤に発する復古神道の教義に基づいた明治政
府の政策に沿ったためでなく、旧薩摩藩一般庶民の、幕藩体制下における施
政権力と結びついた旧寺院勢力に対する潜在的な嫌悪・不満感に発していた
のではないかとも思われます。
しかし廃仏毀釈による貴重な旧薩摩藩内の仏教美術、工芸、寺院建築等文化
財の消失は、理由如何に問わず残念に思われます。

http://www2.hongwanji.or.jp/kagoshima/
http://www4.synapse.ne.jp/eastbetuin/sub3.htm

布袋竹さんの「鹿児島の平家落人伝説」のURL、とても素晴らしいですね。
今後とも楽しみに拝見します。
[13]takahiroさんからのコメント(2003年06月25日 15時49分10秒 ) パスワード
  

上記紹介しました
http://www2.hongwanji.or.jp/kagoshima/  にて、
「西本願寺鹿児島別院」のホームページへ飛びますが、その中の『かくれ念仏』の項目を見て頂くと、旧薩摩藩における一般庶民の信仰についての記載があります。
[14]takahiroさんからのコメント(2003年06月25日 17時45分40秒 ) パスワード
  

推測ですが、廃仏毀釈においても各家のお墓は破壊されず、その後も各家に
おいて保護され、それらの墓地は明治9年以降、ようやく布教を許された浄
土真宗系の寺院に、あるいは復興を遂げた元禅宗系菩提寺に吸収されていっ
たのではないでしょうか。そしてあまりに廃仏毀釈が徹底していたため、未
だどこの寺院にも復帰しないまま、各家において世話されている「お寺のな
いお墓」というのが、鹿児島県には存在するのでしょうか。
廃仏毀釈後の、再び信教の自由が認められるまでの鹿児島県においては、葬
儀、年忌等は神式祭事で行われていたとの事です。
[15]布袋竹さんからのコメント(2003年06月25日 19時21分24秒 ) パスワード
  

takahiroさん、ありがとうございます。
各スレッド、意味は解らずとりあえず目を通しただけですが・
皆様のお名前は何度も頭の中に入ってるらしく、はじめましてもなく
ぶしつけに、カキコさして頂いております。

詳しい話・宗派とか解りませんが、鹿児島はお寺が少ないです。
それまで禁止されてた一向宗とかだけでなく、廃仏毀釈のあとも
目立って寺院建設が・・は感じられません。
無くなったお寺が、新しい寺に吸収されてとの話も・それは、少しは
宗派によっては、それもありますが、やはり目につくのは寺無しの墓ですね。
隣の今和泉島津家の菩提寺・この町の私領の領主5000石の菩提寺でさえ
跡形も無く壊されてしまったのですからね。
そして、そのままお寺無しが続いております。
もちろん、個人の墓は健在で、住職のそれもちゃんと存在します。
○○寺跡というのがそのままで、新しい寺が出張ったというのは少ないです。
違う場所に新しいお寺が出来てるのはあります。
近場の気づいたものばかりで、全体尺度になってないので、また調べたら
カキコします。
お寺が無いから、個人が余計墓守をし、それで競うように
どこでも、毎日が盆暮れ彼岸命日になっているのかもしれません。
土地を離れている墓は、親戚・あるいは、花代や掃除代を払い、近くの人に
頼んでいて、ほとんどの墓がそうなってます。
身分で墓の場所は違っても、庶民の墓も全て同じです。

先祖からの菩提寺も壊された・今は無しということです。
[16]takahiroさんからのコメント(2003年06月25日 20時28分20秒 ) パスワード
  

布袋竹さん、ありがとうございます。

確かに私の「明治9年に政府により信教自由化が発布されると、旧薩摩藩内には雨後
の筍のように急速に浄土真宗系の寺院が建ち」との記載は、表現が過剰すぎました。

下記書籍「薩摩のかくれ念仏」を書店で見、入手した数字ですが、江戸時代の薩摩藩
の寺院数は1800を越えていました(現在宮崎県に編入されている諸県郡も含め。)
http://member.nifty.ne.jp/HOZOKAN/bookd/ISBN4-8318-7528-7.html

[12]で紹介しました「西本願寺鹿児島別院」のHPでは、鹿児島県における西本願寺系
の寺院の数は現在約160との事であり、また他の宗派の寺院の再興も多くはなさそ
うであり、実数字の上からも、やはり布袋竹さんの言われるように、廃仏毀釈後、鹿
児島県では、規模として旧に復するような寺院復興はなされていないようです。

上記書籍「薩摩のかくれ念仏」は、一向宗のみならず、藩政期から明治維新後にかけ
ての、旧薩摩藩における仏教事情につき詳細な記述が多く見れますので、私もまた調
べてみます。

今後とも御教示お願いします。
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月25日 22時05分18秒 ) パスワード
  

>廃仏毀釈後の、再び信教の自由が認められるまでの鹿児島県においては、
>葬儀、年忌等は神式祭事で行われていたとの事です。

西郷さん宅も神道だったと聞いた記憶があります。
[18]さちこさんからのコメント(2003年06月25日 22時11分36秒 ) パスワード
  

takahiro様、太郎様、布袋竹様、ひにゃ様。

ありがとうございました。
よく判りましたと言いたいところですが。。
私には難しすぎて。。(涙)

でも、凄く貴重なことが書かれているので、
ない頭をしぼって読みかえすつもりです。
本当に感謝です。

素朴な質問!鹿児島では御葬式どうしてるの?
私の住んでる三重県北部では、(多分愛知県の名古屋あたりも同じだと)
菩提寺の住職をよび、家で仏式のお葬式をします。
(最近では、家ではなく民営、または市営の葬儀場等を使うことが多いですが)

この辺りの田舎では、
仏壇。。。
名古屋仏壇物語、と言われるほど仏壇にお金をかけます。

一千万円の仏壇なんていうのは、
ちょっとした旧家なら当たり前というか。。。

うちは勿論そんなのではありませんが。
でも、とーちゃん。結構仏壇に金使ったなというか。。?

で、あたり前のように仏壇と一緒に神棚を祀ってます。
本当にあたり前で仏壇のある家なら当然神棚もあります。
私はこれが普通と思ってましたが。
他の地方ではどうですか?

我家の菩提寺、桑名にある長禅寺、
元は長島にあり、長島の一向宗徒とともに信長と対立していた服部家の寺です。
小さい寺です。
この寺にはお稲荷さんが祀ってあるのです。
子どもの頃からあたり前だったので疑問に感じたことはないですが。

今考えると少し不思議です。
お稲荷さんを祀ってる寺というのもし御存知でしたら教えてください。


いや〜たくさんあるかも知れないです(笑)
[19]さちこさんからのコメント(2003年06月25日 22時27分18秒 ) パスワード
  

>西郷さん宅も神道だったと聞いた記憶があります。

明子さん、
西郷家と服部家の関係気にならない?
徳川二代将軍秀忠の母、お愛さん。
服部家から西郷家へ養女に行ったとか、
西郷家から服部家の養女だったとか、
他にも色々な説がありますが。

大久保家も半蔵のとこと親戚関係でした。
何か気になりませんか?

西郷さん!
ホ〇だったって本当?
お坊さんと出来てたという話。。。
当時は(今も?)珍しくはないでしょうけど。


[20]takahiroさんからのコメント(2003年06月26日 00時55分56秒 ) パスワード
  

服部明子様
 廃仏毀釈後の鹿児島県の神式祭事についてはもう少し調べてみます。

[9]さちこさんの御質問への続き([16]の補稿)
 
○江戸時代の薩摩藩の寺院について
 曹洞宗:941
 真言宗:610
 臨済宗:202
 時宗:50
 浄土宗:26
 律宗:4
 天台宗:2
 法華宗:14
 浄土真宗:0
 合計:1850ヵ寺(『歴代制度』より)

○明治維新による廃仏毀釈により、旧薩摩藩の寺院数は0となる

○明治22年における鹿児島県の寺院数
 浄土真宗:42
 他宗派:13

○大正10年における鹿児島県の寺院数
 浄土真宗:142
 他宗派:24

現在の鹿児島県の寺院数については手元にデータがありませんが、上記を見る
限り、やはり廃仏毀釈後の鹿児島県においては、規模として旧に復するような
寺院復興はなされていないようです。

(廃仏毀釈という政策が、源を平田篤胤の復古神道に端を発するという事から
 も、やや詳細に鹿児島県における廃仏毀釈前後の寺院数を記載しました。)
[21]takahiroさんからのコメント(2003年06月26日 05時19分55秒 ) パスワード
  

さちこさんへ

 服部家と薩摩西郷家、大久保家との関係のお話、ありがとうございます。

 (以前紹介頂いた、本居宣長門下、服部中庸は、平田篤胤と「義兄弟」の
  契りを交わしていたとの記載、最近読みました。)

 さちこさんの[9]の質問をきっかけに、「薩摩のかくれ念仏」という書籍を
 購入しました。私もこの中には何か大事なことが書かれている気がします
 ので、これから精読しようと思います。

 平家物語を熱く語る内のさちこさんの投稿、いつも楽しみに読んでいます。
 スレッドの内容から外れそう等、気になさらず、どんどん「さちこさん節」 
 を発揮して下さい。そして今後とも服部家について御教示下さい。
[22]布袋竹さんからのコメント(2003年06月26日 10時51分45秒 ) パスワード
  

takahiroさま具体的数字ありがとうございます。
私は、感覚的というか、付近の見たものの直感とか行われているもので
判断カキコしています。
で、葬儀など。神道式が多いです。我が家もそうです。
近所はほとんどそうです。ただ、近所は少し特殊な場所です。
もっとも、この特殊と言っても、県内に100以上あった場所ですから
普通の所と言って、差し支えないでしょう。全部の三割位の人口を占めて居るはずです。
他では、新しいお寺での仏式も見られます。

海外から見れば、日本っておかしな国に見られるのでしょうね。ギャンブラーさん
産まれて神社参り、七五三、結婚式は神様が多いか・・そして、亡くなると仏式
仏壇と神棚が同じ部屋に鎮座しているのですから。
これが、平均的な日本人でしょうね。
やはり、薩摩が少し変わって神道が浸透しているのでしょう。

西郷さんho○? 薩摩でも、流島の大島でもオトマガネ「愛加那」に一男一女
両刀だったのかな? もっとも、ふぐりが脹れてたぬきさんになってたとか・・
[23]さちこさんからのコメント(2003年06月26日 22時58分47秒 ) パスワード
  

やはり我家は平均的日本人だったのですね(笑)

結婚式はチャペルでなんていうのもありますね。
結婚式場が次々に形だけの教会建てて。

結婚式は若い人の好みで、
でも、葬式は古くからのしきたりをと言う感じでしたが、
葬式も変わりつつあるみたいです。

何処かで書いたけど、
うちの寺の坊さんカトリック系の女子高で教師をしてたからな(笑)

takahiro様

隠れ念仏また是非教えてください。
何故江戸時代薩摩藩で浄土真宗が禁じられていたか?
でも何故か、明治以後圧倒的に浄土真宗の寺が多いのですよね。

薩摩には隠れ一向宗とが多かったと言う事でしょうか?
恐いよ〜。一向宗徒は(!?)

二代将軍秀忠の母に関する西郷家と、
薩摩の西郷家の関連は判りません。

秀忠の母、お愛さんに関しては諸説あるので。
下記は一つの説としてご参照下さい。


http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/sengoku/tokugawa/yasu-3.htm



男秀忠、四男忠吉の生母。
家康の20才年下。
父は戸塚忠春、母は西郷正勝の娘。
早くに父が戦死し、母は服部平太夫正尚(蓑正尚とも)と再婚しました。
家康に仕える以前、祖父・西郷正勝の嫡孫で従兄弟である西郷義勝と結婚し、
義勝が武田家臣・秋山晴近との戦いで討死したため養父・服部平太夫の館に身を寄せたといいますが、
享年から数えると義勝の戦死した時わずか10才です。
1578年、17才の時、伯父・西郷清員の養女として浜松城の奥勤めの侍女になりました。養父の館を訪れた家康の目にとまったためと伝えられます。
翌年家康三男の秀忠を、さらに翌年ついで四男の忠吉を生みました。
「西郷局」と号しました。温和誠実な性格で、家康の信頼も厚かったといいます。
28才で駿府城にて病没。
墓は駿府の竜泉寺(後の宝台院)に葬られました。
一説に松平家忠(深溝松平)の家臣稲吉兵衛に殺されたともいわれます。
強度の近眼であったらしく、
とりわけ瞽女(盲目の女性)に同情を寄せ、
常に衣服飲食を施して生活を保護していました。
そのため西郷局が若くして死去すると、
瞽女たちは連日、寺門の前で彼女の為に後生を祈ったといいます。
後に、徳川2代将軍秀忠の生母として従一位を追贈。
宝台院殿松誉貞樹大姉と謚名されました。
竜泉寺も金米山宝台院と改められ、三〇〇石が寄進されました。


西郷さん〇〇説は、
僧の月照でした。

安政の大獄のあと2人で海に飛び込んで心中したという話です。
政治的同士であったみたいです。
西郷さんは助かったのですが、
僧の月照は死んでしまったそうです。


その時2人がしっかりと抱き合った姿で見つかったと言う事で、
変な噂になったのかも?

でも薩摩って結構そういうの???真相は?

こう考えると、壇ノ浦で、
「日頃の誓いを果たす時がきた」
手に手を取って海に沈んだあのお2人の関係も怪しくなりますが。。。
(いけない、いけない!)

[24]布袋竹さんからのコメント(2003年06月27日 00時05分08秒 ) パスワード
  

西郷さんの心中説だけは、否定したいですね。
でも、これは、本当のようです。
しかし、薩摩に捕えられ「東目送り」だったか、
これは、日向・あるいは大隅半島に島流しみたいなもので
そこに着くまでに、「切り殺してしまえ」の暗号みたいなもので、
それを知ってたか、察したか、西郷は切られるよりは・
月照と逃げるために飛びこんだというのが、真相に近いものです。
薩摩で、西郷さんの悪口や・こんなこと言うと、ホ○なんて・・
南洲傾注組がすごく多いですヨ。薩摩に限らず、好きな人は半キチガイみたいに・
どこかの何かに取り付かれて「私も含め」いる人のように・・
鹿児島市内に月照ゆかりのお寺が再建されてます。
あと、西郷さんの蘇生の家の・文章もあるので
全ページ、申し訳ありません、一番下・さいごです。
http://www3.ocn.ne.jp/~nansatu/saigoyukari.html
[25]さちこさんからのコメント(2003年06月27日 00時27分35秒 ) パスワード
  

布袋竹さん、
失礼しました。

>西郷は切られるよりは
月照と逃げるために飛びこんだというのが、真相に近いものです。

きっとそうでしょうね。


  弔亡友月照    西郷南洲
  相約投淵無後先 相約して渕に投ず後先無し
  豈圖波上再生縁 豈図らん波上再生の縁
  回頭十有餘年夢 頭を回せば十有余年の夢
  空隔幽明哭墓前 空しく幽明を隔てて墓前に哭す

  互いに約を結んで御船カ崎へ相投じたのは全く後先なかった
思いがけず自分だけが再生の縁があろうとは
思い出せばそれも既に十幾年もの昔の夢のこととなった
私はこの世にあり、
  ただあの月照を憶って空しく墓前で慟哭するばかりである。

 西郷さんが、京都の清水寺成就院の僧、
 尊皇攘夷派の月照と錦江湾に身投げして、
 西郷さんだけが助かり、
 その十有余年のあと作ったとされる詩です。

 西郷は京都で活動し続けますが、
 井伊大老により、京都から月照を連れて故郷へ逃亡します。
 だが薩摩ももはや安住の地ではありません。
 絶望して、錦江湾に船を浮べて、
 月照と錦江湾に身を投じます。
 その船で最後をみとっていたのが平野国臣です。安政五年十一月のことです。
 西郷さんはどうしてか(多分体重があったから)、
 海に浮びあがり助けられます。
 船の上でどんなに死んでしまった月照のことを呼び続けたことでしょうか。
 そしていまその月照の墓の前で、西郷さんが泣いているわけです。

 
[26]ゆうこさんからのコメント(2003年06月27日 16時21分03秒 ) パスワード
  

はじめまして

流れ流れてここに辿り付きました。過去のものも見させていただき勉強になります。
川口様のご説明は誠に説得力があり自分でも裏付けとして調べてみようかなと思います。それに引き換えさちこ様のオトボケは不快になります。度が過ぎてます。せっかくのものが台無しです。管理人様からもレッドカードくらい出しても良いのかと考えますがいかがなものでしょう。スレッドを立ち上げたご本人不在のスレをあっちいったりこっちいったりするやり方はスレッドを立ち上げた方にも失礼だし、他(平家以外のスレッド)の方々にもご迷惑だと思うのですがいかがなものでしょう。
このレスをさちこ様への個人攻撃とお取りになるか、平熱を楽しく見るための一個人の意見として聞き入れてくれるかは管理人様にお任せいたいます。
[27]川口 信さんからのコメント(2003年06月27日 17時18分36秒 ) パスワード
  

ゆうこさん、いらっしゃいませ。

 薩摩の方に持っていった張本人の川口です。

 
 このスレは平田」さんが立ち上げたものですが、その本人のコメントが未だにない。
 ズット前の別スレもそうなんです。

 どの方向に持っていくは立ち上げた本人が小マメにコメントをし、誘導するのが責任。

  このWEBは、この投稿に対するコメント方式をとっているもので、最初の主題からずれてゆくのもいたしかたが有りません。

 本人不在で100件以上のコメントがあったことは共通する話題に関心がある人が多い証拠です。
 
 他スレ「名馬池月」方の洗足池のほとりに勝海舟と西郷隆盛両公が並んだ聖域があります。
 いがみ合わないで、ゆうこさんも仲良くどのスレも盛り上げていきましょう。
[28]布袋竹さんからのコメント(2003年06月27日 20時59分05秒 ) パスワード
  

ゆうこさま、はじめまして。
スレッドを変な方向に持って行く布袋竹です。
私も初心者で、まだここでも、迷いながらカキコしてます。
いろいろ・・申し訳ありません
確かに、その為のスレッドではありますが、どのスレでも
少し、違った方面に動いて行くのは、仕方ないことかな・と
他のスレを見て思うのもあります。
管理人さま、服部さまが、そのたび、あたらしいスレを用意してくださったり
方向を戻して・あるいは、・太郎さま・川口さま・takahiroさま
ひにゃさま、さちこさまが、方向修整してくださいます。
この平田篤胤に関しては、川口さまのおっしゃる通りだと思います。
本人不在でも、興味が続いて、カキコが行われているのは・・
タイトルが変われば、良いのでしょうかしら・
あの話、誰のところに書いてあったかしらと探しますからね・
ロマンのある、ちょっとオカルトチックでもある平熱
かたく考えず、楽しみましょうよ。
かたい、ガチガチの学術論文だけでは、肩が凝ろうと思いますよ。
[29]さちこさんからのコメント(2003年06月27日 21時36分01秒 ) パスワード
  

ゆうこ様。
はじめまして。

ご不快に思われつつ、
私の投稿を読んで下さいましてありがとうございます。

他のスレッドは全てお読みになっていらっしゃいますか?
他のスレッド等で親しくなった方等と、
ついオフザケが過ぎてしまったのは大変申し訳なく思います。
ご不快に思われた事お詫び致します。

ただ、平田家と服部家の繋がりを考えるとというか、
以前より
宝暦の治水工事の平田靫負
本居宣長の門人、平田篤胤、

2人とも私の住んでる北勢では結構名の知れた人です。
この2人に何らかの形で服部家が絡んでると思ってました。
ですから、
川口さんから、平田靫負の名が出てついつい大喜びしてしまった次第です。

元はといえば私が歴史に疎く、
どうしても服部家の話題が中心になってしまう事が、
平家のHPにはふさわしくないと言う事かも知れません。

ただ、私は以外かと思われますが、
結構遠慮ぎみなのですよ。
本当に言いたいことは、大切な事は、つい冗談めいて言ってしまいます。
判る人にはわかってもらえると言うか。そんな気持ちでした。

私が平熱に来てちょうど二年になります。
初めての投稿の、
ゆうこ様からレッドカードですか。
投稿されたことのない他のかたも、
きっとご不快な思いをされているのだと思います。

反省の気持ちで一杯です。

今後は謹んで参りたいと思います。
[30]さちこさんからのコメント(2003年06月27日 22時03分15秒 ) パスワード
  

実を言うと、
25でかいた「平野国臣」に話題をもっていきたかったのですが、
これはまた。
[31]太郎さんからのコメント(2003年06月28日 00時39分49秒 ) パスワード
  

こんにちは。
わたしは「謎だ」と思ったことを追究したりするのがわりと好きで、ここの掲示板に来たことによって平田篤胤について調べるのに熱が入り、takahiroさんなど知識の深い方達のお話を聞いたりして、知識をより深めていくことが出来ました。

また、ついでに平田靫負とか方言のことなど、別の方向からの話題として楽しんでいます。

何というか、いろいろな人が集まっていろいろなことを話している中で、また新しい情報が入ったり、新しい人がやってきて情報を提供してくださることもあるかも知れませんよ。
[32]takahiroさんからのコメント(2003年06月28日 07時20分58秒 ) パスワード
  

さちこさん、平野国臣について気になりますので、コメント是非お願いします。
[33]太郎さんからのコメント(2003年06月28日 14時38分30秒 ) パスワード
  

わたしもとても気になります。コメントお願いします。
[34]さちこさんからのコメント(2003年06月29日 00時15分19秒 ) パスワード
  

takahiro様
太郎様
そして 布袋竹様。

ありがとうございます。

我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし 桜島山

「鹿児島を訪れたことのある人、
 いや訪れたことのない人でも、
 一度はこの歌を耳にしたことがあるかもしれません。
 そして、この歌ほど、雄大にそびえ立つ桜島を象徴するのに適した歌は、
 古今東西無いと言っても過言ではないでしょう。この歌の作者が、
 筑前(現在の福岡県)の勤王志士・平野国臣(ひらのくにおみ)です。」

平野国臣に関しては下記をリンクしてまたコメントします。

http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/kuniomi.htm

上記、川口様には是非読んで頂きたいというか。
先日平野家の家紋と北条家の関係を教えて頂きました。
ミツウロコ。

ここで何故か平野国臣と北条が繋がっているので。
不思議なのです。

平野国臣少し不思議な人物です。
トンでもでも是非調べて頂きたいのですが。。

「初心忘るべからず。」

有名な言葉です。
能で有名な世阿弥が「花鏡」という書に残したものです。

一般的には、
謙虚な心を忘れるなと言う意味に解釈されてますが、
実は初めて感じた志を忘れるなという意味だそうです。

初心不可忘←(原文)

どちらでしょうか?
[35]川口 信さんからのコメント(2003年06月29日 07時11分46秒 ) パスワード
  

 さちこさん コメントを戴いてうれしいです。

 言われ無き中傷され心お痛みでしょう。皆さんの応援の声を背に頑張って下さい。

 来年の大河ドラマは「新撰組」薩摩がらみの展開になるでしょう。このスレはその予習になりますね。

 そこで平野国臣をもう一発!

 http://www.fcb.co.jp/bunka/hakata/hirano/1.htm

 有難う御座いました。

 
[36]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月29日 07時42分15秒 ) パスワード
  

平野氏は南北朝の時の南朝方ですから
そのご縁があるかもしれません。
[37]さちこさんからのコメント(2003年06月29日 17時01分27秒 ) パスワード
  

みなさん。
ありがとうございます。

そして、明子さんお気遣いとても感謝してます。
雨降って地固まるというか。

引越しがすんだら一度メールをと思っていたのですが、
ギャンブラーさんにハンドルネームを変えられたことが気になって、
何だか恐くなってしまったのです。

それで、つい明子姫の気を引こうとしてしまったという、
船場生れの悲しい性もあります(笑)

〇〇説なんて姫お好きだと思ったし。

これを機会にやはり服部明子さんに戻られたらいかがでしょうか?
私が明子さんの妹分である事が段々判らなくなり、
私も服部家のことが書きにくくなりますので。

西郷さんは日本人にとってのヒーローでもありますが、
特に鹿児島県の方にとってはかけがえのない存在というか。

三重県は、ヒーロー不在ですね。
特に北勢は何にもないという感じです。
四日市の一部も桑名藩だったのですが、
桑名が城下町だったのは知っていても、
多分松平家が藩主だった事も知らない人も多いというか。
少なくとも桑名松平家の城下町という感覚はないと思います。

「桑名の殿様しぐれで茶々漬け〜」
なんて歌がありますが、殿様をちゃかしたものだと思ってましたら。
桑名は江戸時代、交通の要所でもあり商業も盛んで経済的にも栄えていたそうです。
また米の相場や先物取引などで財を成した人も多く、
こうしたお金持ちの旦那衆を、桑名の殿様と呼んでいたそうです。

こういう県民性ですので鹿児島の方、
そして西郷さんファンのかた気を悪くなさらないでください。

takahiroさんも書かれてましたが、
幕末から明治維新、平田篤胤の思想が王政復古など薩長に影響してます。
一体どういう縁なのか。

服部中庸についてですが、
本居宣長亡き後、実質上の鈴屋の中心人物でした。
中庸に三大考というのがありますが、
平田篤胤は霊の真注のなかでこの服部説を受け継いでいくのです。
中庸の祖父、服部時保も本居宣長の弟子だったとされてますが、

本居 1730年生まれ
中庸 1757年生まれ

なので、これは少し変ですね。
もしかしたら逆かも知れません(笑)

本居宣長は山桜と鈴がが好きだったそうです。
山桜といえば私はどうしても吉野の山桜を連想してしまいますが。
宣長は吉野の神社にお参りして授かった子と言う話もあり、
宣長自身何度も吉野を訪れているそうです。

南朝を引き摺ってるな。。。そんな思いがするのですが。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

明治に煙草の名前をつけるときこの和歌から、
敷島、大和、朝日、山桜。と決めたそうです。
朝日は聞いた事ありますが私は後は知りません。

平野国臣。
川口さんの紹介のHPの家紋では三つ鱗ではなかったですね。
でも笛を吹いたりとか、
和歌のたしなみがあったりしながら、
修験道に変装するあたり中世を引き摺っていると言うか。
やはり南朝系の匂いがします。(笑)



[38]川口 信さんからのコメント(2003年06月29日 17時21分30秒 ) パスワード
  

さちこさん 他スレでもお呼びが掛かっておりますぞ!。

 鹿児島市内に平田公園がありました。平田靫負の功績を顕彰して作られた公園で、園内には平田靫負の銅像があるそうです。また調所笑左衛門広郷の屋敷後の石碑もあるとのこと。    

 http://www1.odn.ne.jp/~aaa57280/Seinansenso/kagoshima11.htm
  鹿児島―平田公園・天保山

 それと[35]のURL全部読みましたか?、11頁もありますのでそこに平野および北条の名がのっておりました。
[39]布袋竹さんからのコメント(2003年06月29日 18時01分44秒 ) パスワード
  

鹿児島市内の平田公園から、甲突川に沿って維新の有名人とかの屋敷など
ずらずらです。最も、屋敷跡もなく、只の公園に石碑だけある・銅像がある
といったものばかりですが、・平田・西郷は橋の名前にもなっています。
さちこさん、市内観光というか、維新あたりを訪ねるだけでも、丸1日は
見ていたほうが良さそうですヨ。
平田靫負の差していた立派な刀も見られると思いますヨ。
[40]布袋竹さんからのコメント(2003年06月29日 18時39分44秒 ) パスワード
  

あとひとつ、平田篤胤の関連というか、廃仏毀釈
鹿児島の精神というか、1800もあったと言うお寺をことごとく壊して
跡形もなくしてしまう行動・これは、日清日露の戦争で、敵が薩摩部隊と聞くや
逃げ出したというエピソードがあるほど・と
号令一過、上からの命令通り行動するのは、一種のキチガイ集団かもしれません。
間違ってたら、ゴメンナサイ。薩英戦争で、イギリスに対し、賠償金のほかに
何人かが死罪に・それの立会いに外人さん、武士が、顔色も変えず、
次から次に、切腹をしていくのを見て、途中でもう良いと、止めさせたというほど。
お国のため、昔の人は凄い精神・というか、洗脳されていたのですね。
[41]takahiroさんからのコメント(2003年06月29日 20時18分35秒 ) パスワード
  

さちこさんへ

服部中庸
江戸後期の国学者。紀伊藩士。通称義内。号水月。服部三右衛門時中の長子。伊勢松阪の人で家は代々藩に仕えた。天明七年三十一歳の時父の跡株に召抱えられ、支配勘定格御勝手方を経て松阪城代与力まで進んだ。妻の死もあって文化五年致仕。出家して水月庵茂翁、箕田水月と名乗り京都に住んだ。国学者としては天明五年、二十九才のとき本居宣長に入門。やがて天地泉の生成を記紀等を解釈の基礎として図解した「三大考」を著した。これは宣長の賞賛を得て「古事記伝」十七に付載され、平田篤胤の主著「霊能真柱」に影響を与えた。のちに中庸は篤胤と意気投合して義兄弟の杯を交わしている。(朝日日本歴史人物事典より)

薩摩藩と平田篤胤の復古神道の関係ですが、元々薩摩藩事体が明治政府の主導的立場にあったということもありますが、「平田篤胤」の前スレッドで紹介しました、後醍院真柱(元薩摩藩士、平田篤胤門下生)が、その直接の接点になっているのではないかとも推測します。
[42]ひにゃさんからのコメント(2003年06月30日 00時42分35秒 ) パスワード
  

こんばんは!

しばらくチェックしておりませんでしたら
素敵な福岡人の話題が出ていますね。

平野国臣。
恥ずかしいことに、不勉強なので初耳ですが、
平野神社や西公園、いずれも行こうと思えば行けるところですので
一度訪れてみようと思っています。

さちこさま

遅くなりましたが、
私もさちこさまの書き込みは大好きです。

博多弁でいうと、
「遅くなったばってん、私もバリ好きやん」
みたいな感じになります。

どうかお気を落とされないでださいね。

私はとても勉強不足なので、
さちこさまはじめ、
皆様の書き込みで勉強させていただいております。
このページはいろいろな方面に深く広がっているので、
ありがたいというか(笑)

宇佐神宮と神功皇后のスレッドの書き込み
ありがとうございました!
レジュメ制作の参考にさせていただいております。

ちょっとセコいでしょうか。
図々しくてすみません(恐縮)
[43]takahiroさんからのコメント(2003年06月30日 00時58分53秒 ) パスワード
  

[41]追記
服部中庸: 宝暦7年(1757)7月16日〜文政7年(1824)3月14日。
*別の資料に確かにさちこさんの記載の通り、中庸の祖父時保も宣長門下と
 ありました。服部時保は長寿であったという事でしょうか。
[44]さちこさんからのコメント(2003年06月30日 22時21分37秒 ) パスワード
  

鹿児島でも、宝暦の治水工事のことはよく知られているのですか?
鹿児島へ行ったら平田公園ぜひ行ってみたいです。

朝フェリーで志布志に着いて、
それから桜島へ行きフェリーで鹿児島に渡る予定です。
その日は指宿で宿泊するのですが。
これでは時間が足りないか?
次の日は霧島に行ってしまうので。

国分市立郷土館という所に、
島津藩朱印状服部英龍の描いた西郷隆盛の肖像画があるそうです。
西郷隆盛の肖像画は沢山あるそうですが、
この服部英龍のものは、
実際に西郷さんにあったことのある人物が描いた唯一のもの?
または数少ない貴重なものであるという記憶があるのですが。

この服部さんはどういう流れなのか?
鹿児島には服部という苗字は沢山あるのでしょうか?
布袋竹さん。
お暇な時でいいですので、電話帳で調べていただけませんか?
お願いします。

川口さんに教えていただいたHPには、
平野国臣の先祖は香椎宮の大宮司、三苫氏と書いてありましたが。
香椎宮といえば三韓征伐にゆかりのあるお寺だと思います。
何か不思議ですね。
やはり気になる平野さん(笑)

>のちに中庸は篤胤と意気投合して義兄弟の杯を交わしている。

中庸は北畠氏の家臣の子孫で、
北畠氏の家臣の服部家は家長の末裔としてますから。
やはり、平田家と服部家は。。。
明子さんが泣いて喜びそう!

中庸には本姓源氏としたものもありましたが、
でも、御子孫の北畠氏家臣の会との関係を考えるとやはり平家と思いますが。

中庸と祖父との年齢差が判らないですから難しいです。
年齢差は、40〜60の間。
平均とって50とすると、
1707年生れで宣長より23歳年上ですね。

宣長がいくつから弟子をとったのとか調べてみます。

桶狭間のことがあるので、
先入観で物事が逆になる場合も?と考えたのです。

桶狭間のことと言うのは、
信長公記によると原文によると服部家が大高という所に、
千艘の武者舟を今川の援軍に出したのですが。
信長の奇襲攻撃で今川が敗れたので役立つことなく引き返しました(泣)

でも信長公記の現代語訳では船が20艘になってるのです。

その頃、家康は今川の人質でこの大高で今川軍の兵糧運びをしてたのですが。
先日、川口さんに教えて頂いた資料には、
服部家が十艘の船で兵糧運びをし家康に貢献したとなってました。

話が、
全く逆になってるのですよ。ブツブツ。。。


明日は京都に行ってきます!
[45]布袋竹さんからのコメント(2003年06月30日 23時51分54秒 ) パスワード
  

さちこさま
丁度、鹿児島のある掲示板にこんなのが載ってました。

鹿児島市と大垣市は姉妹都市なんですが、もともと江戸時代に木曽川・長良川・揖斐川の治水工事を薩摩藩に命じたのが縁で締結されたそうです。当時は難工事だったらしく多くの犠牲者が出ており慰霊碑も建立されています。
ここに少し載ってます。
[Click Here!]←リンクは消え

[14773] 薩摩義士 はなほじ (06/28 08:14)
「ひらた ゆきえ」さんか「ずしょ ひろさと」さんのどっちかが関係しとったですよね。漢字も忘れてしもたです。

[14778] 平田靭負(ゆきえ)でしたね やひさるぼーい (06/28 14:55)
さしかぶいのやひさるぼーいです。木曽三川の治水工事の話は小学校4年の道徳の時間で習いました。江戸幕府の薩摩いじめの極みでしょう。
平田靭負さんはその陣頭指揮をとり、完成させました。しかし多くの同士を亡くしてしまったことの責任をとって完成後に自害したと先生から教わり涙して聞いたのは今から29年も前のことなんです。

[14784] 平田ゆき負(ゆきの字が読めんです。) はなほじ (06/28 18:40)
道徳で勉強したときは確かに「郷土の誇り」を感じました。
道徳教育のおかげでしょうか、鹿児島出身の人たちは郷土愛が強いように思います。

[14787] 久し振りに 若 (06/28 19:53)
晩酌しました。タバコも晩酌も止めた若ちゃんは
偉いと思う 今日この頃です。
薩摩義士は、他国(他人)の事でも手を抜かずに
命を懸けて使命をを果たした
と、38年年くらい前に先生から習いました。
(当時は先生が、まだ偉かった時代でした)

[14817] 娘が中学の時 さつまっぽ (06/29 20:29)
娘が教育委員会からの誘いで、鹿児島と岐阜の親善ということで木曽三川の治水工事の交流で、岐阜を訪問しました。その後娘は高専、大学で土木を専攻し、今も土木関係の仕事に就いています。きっとその時の印象が深かったのでしょうか。先人に感謝

むかしは、道徳の時間に習っていたようです。
ちょっと時間足りないかもしれませんが、どうしても見たい、行きたいところから・
国分には、初タバコ栽培の服部氏がいましたから、
電話、あとで調べておきます。子孫は国分・鹿児島市が中心と思われます。
国分は、桜島を渡ると中途になるので、霧島に行く前後が便利かも。
あるいは、志布志から新しい高速道を利用し、先に国分・鹿児島・指宿のコースか
[46]takahiroさんからのコメント(2003年07月01日 00時28分25秒 ) パスワード
  

布袋竹さんへ補稿ですが、平田靭負の直系の御子孫は(靭負から六代後)現在
鹿児島県から移転され、岐阜県へ居住されています。やはり偉大な御先祖の事
績に因まれたのでしょうか。

また上記平田家は、ここ何代か鹿児島宇都宮家と縁戚関係をもたれており、現
当主も宇都宮家から入られています。

宇都宮家とは、源平の時代、服部家祖「平家長」の兄弟「平貞能」と縁の深い
一族ですが、宇都宮朝綱の末裔、宇都宮真覚が下野国宇都宮から大隅国肝属郡
高山へ下向しており、鹿児島宇都宮家の祖となっています。

平田靭負の話題は川口信様の投稿を機会に広がりを見ていますが、「平貞能公」
の御縁によるものでしょうか。

>ちなみに私の家は平貞能の末裔と称する「大橋家」から養子に入って
>おります。(平家流系図スレッド、川口信様のコメントより)
[47]takahiroさんからのコメント(2003年07月01日 00時36分14秒 ) パスワード
  

もし上記、平田家の「現在」につき記し過ぎていましたら削除します。
[48]takahiroさんからのコメント(2003年07月01日 00時55分01秒 ) パスワード
  

さちこさん[44]コメント

「島津藩朱印状服部英龍の描いた西郷隆盛の肖像画」は

「島津藩朱印状」
「服部英龍の描いた西郷隆盛の肖像画」と、

 別個の展示物のところ、国分市立郷土館がスペースを打ち忘れたのだと思い
 ます。

「島津藩朱印状」とは、島津義久が主に天正年間に藩内の商人に出した琉球・
 南方貿易の許可証の事だと思われます。

「服部英龍」について調べられる際、ややこしくなるといけないと思いました
 ので。
[49]布袋竹さんからのコメント(2003年07月01日 01時09分01秒 ) パスワード
  

[46]服部明子さまがご覧になれば・
   いえ、私も頬の毛が逆立ち、大好きなオカルトに
   話が続いていきそう・・・
   さちこさまも、立ち寄る場所が・・1週間では、足りませんネ。
   3人が喜ぶtakahiroさまの[46]・川口様も当事者になられるので・4人も
[50]暇なギャンブラーさんからのコメント(2003年07月01日 02時07分06秒 ) パスワード
  

布袋竹さま

ホント!
凄い因縁を感じます。

平田靭負・平田家・宇都宮家・貞能
結局は<平家>で繋がってしまいますね。
壇ノ浦で惨敗したとはいえ子孫はしっかり歴史に足跡を残していますね。
頼もしい限りです。
[51]太郎さんからのコメント(2003年07月01日 08時29分53秒 ) パスワード
  

お〜!!
平貞能と縁の深い宇都宮家が、平田靭負の子孫ともつながっていたとは!!
[52]太郎さんからのコメント(2003年07月01日 08時34分00秒 ) パスワード
  

ちなみに昨夜、急用ができて、大橋という大学時代の親友と電話で話したばかりです。
彼は現在、弁護士です。
「大橋」が平家方の苗字とは知らずに、長年つきあってきました。
これも平家つながり??(笑)
[53]暇なギャンブラーさんからのコメント(2003年07月01日 08時54分27秒 ) パスワード
  

太郎さん

そういう事があるんですよ。
・この人となんか気が合うんだな〜
・この人はなんか感じ悪いんだよ〜

過去を調べてみると平家で繋がってたり南朝方で繋がってたり反信長で繋がってたり

遺伝子のせいでしょうか?
[54]布袋竹さんからのコメント(2003年07月01日 18時54分48秒 ) パスワード
  

せっかく、遺伝子とか・面白いところに、水を差す様ですが
以前からの疑問
takahiroさまからのご報告

<廃仏毀釈前の寺院数が1850・
 その後
<○明治維新による廃仏毀釈により、旧薩摩藩の寺院数は0となる

<○明治22年における鹿児島県の寺院数
< 浄土真宗:42
< 他宗派:13

<○大正10年における鹿児島県の寺院数
< 浄土真宗:142
< 他宗派:24

宗派別のはわかりませんが、鹿児島の現在の寺院数は
461とのことです。約、4分の1にまで、きたのですね。
旧の薩摩藩でなく、現在の鹿児島県だけです。
[55]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月02日 00時12分48秒 ) パスワード
  

江戸時代はキリシタン御禁制で全ての民はお寺に登録しなくてはいけなかったでしょ。
宗門人別でしたっけ?
でないと拷問の上、磔とか虐殺でしたでしょ。

それから明治時代は神道でなきゃいけない。


浄土真宗大谷派?西本願寺?は今でも凄い力を持ってるとかで
戦国時代は戦う宗教でしたから江戸時代禁止された国があったのだなあと驚いています。

我が家はバリバリの信徒で祖母の時代までは凄い寄進をする家でした。
父方も母方もバリバリの信徒で家系書には命を懸けてたのが読めます。

私の代は仏様は「ほっとけ様」になってますが。
[56]布袋竹さんからのコメント(2003年07月02日 01時05分19秒 ) パスワード
  

薩摩はキリスト教とともに、一向宗も禁止。それゆえ隠れ念仏が多く
山の中・洞窟・各地にそれが伝えられ、残っています。
この461の内訳が知りたかったのですが・
takahiroさまの明治22・大正10ねんの数字から、
浄土真宗の数の多いのは想像されます。
でも、現在は神社参り、豆まき、クリスマスと神社お寺キリストさまと
ぐちゃぐちゃ、鹿児島では宗派も関係なく、葬式をしている所が多いようです。
神式か、仏式だけの区別で・
[57]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月02日 02時07分12秒 ) パスワード
  

>現在は神社参り、豆まき、クリスマスと神社お寺キリストさまと

この背景には江戸時代の仏教界の努力の無さが読めますでしょうか?
江戸時代の日本人が取り敢えずどこかのお寺さんの門徒になっておけば安全だったというのもありますし。

日本人の宗教観が形骸化したというのは双方からだったのだろうと思います。

神式というのも明治時代に仏教は X というのがありましたから
日本人は安全弁として仏教も神道もオーケー
キリスト教も便乗でクリスマスが日本人にオーケーになったのでしょうかねえ。


薩摩藩で浄土真宗が禁止になったという背景には大きな力を持ってて島津家に対抗した過去があるのでしょうか?
それかヨソで大変な問題を起こしてたから未然に禁止にした?


浄土真宗が戦う教団だった過去があったというのは今の姿からは想像もつきません。
忘れられた過去を知るって難しいですね。
[58]太郎さんからのコメント(2003年07月02日 06時28分37秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年07月08日 12時10分23秒
[59]takahiroさんからのコメント(2003年07月02日 20時16分24秒 ) パスワード
  

布袋竹さま 具体的な数字の補稿ありがとうございます。後程また投稿します。
[60]takahiroさんからのコメント(2003年07月02日 23時52分56秒 ) パスワード
  

>薩摩藩で浄土真宗が禁止になったという背景には大きな力を持ってて
>島津家に対抗した過去があるのでしょうか?
>それかヨソで大変な問題を起こしてたから未然に禁止にした?

薩摩藩が一向宗を禁じた理由としては、

○豊臣秀吉の薩摩侵攻の際一向宗徒は豊臣側に就いた等、藩内の一向宗徒は
 反島津であると捉えられた為。
 (一向宗徒は京都の本願寺と通じていたため、藩内においてスパイ的行動
  をとっているのではと疑われていた為。)

○一向宗徒が藩内の財源を布施として本願寺に流出させることを防ぐ為。

○一向宗の教義が封建的藩内統治に反した、四民平等観に根ざしていた為。

 等が上げられると思われます。また江戸時代、一向宗を禁じていたのは薩摩
 藩と肥後相良藩の二藩であったそうです。

 また薩摩藩では藩内の人口の26%が武士階級であり(他藩平均は人口の5
 %)、その武士階級の大多数が半農半武の下級武士層であり、この下級武士
 層に一向宗が拡がることを施政者は恐れていたと言われています。(実際、
 これら下級武士層にも農民層と同じく隠れ一向宗徒は多かったと言われてい
 ます。)おそらく薩摩藩は、一向宗という宗旨を共通の思想とし、実質的武
 装勢力である下級武士層と、数では圧倒的多数である農民層との結託を恐れ
 ていたのではないでしょうか。

 また明治9年の一向宗解禁には、西郷隆盛、大久保利通の意志が働いていた
 とも言われています。
[61]takahiroさんからのコメント(2003年07月03日 00時04分29秒 ) パスワード
  

>この461の内訳が知りたかったのですが・
>takahiroさまの明治22・大正10ねんの数字から、
>浄土真宗の数の多いのは想像されます。

『薩摩のかくれ念仏』には以下の記載がありました。

「現在、鹿児島は全国でも浄土真宗、真宗信者が多いことで知られている。三 
 百年あまり弾圧され続けた一向宗が最も多い宗派である。江戸時代、島津家
 武士の庇護を受けていた宗派がかつての勢いを取り戻す姿はまだ目にしてい
 ない。」
[62]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月03日 00時09分01秒 ) パスワード
  

takahiroさま

ありがとうございました。

秀吉の薩摩侵攻で一向宗が秀吉側についていたのなら
当然「敵」ですね。
それにお布施という形で国の財産が寄進されていたのなら領主としては許せませんね。
それに人間は平等だなんて思想は許せないでしょうし。

浄土真宗が日本全国で領主には脅威であったとは聞いていましたが
なるほど。
[63]布袋竹さんからのコメント(2003年07月05日 22時30分40秒 ) パスワード
  

さちこさま
鹿児島の服部家の電話帳調査での結果です。
予想通り、鹿児島市と国分市に集中。ほかのまわり、10数市町も調べましたが
鹿児島市40人・国分市30人・加治木町10人・隼人町5人
伊集院、東市来、松元、溝辺に各1人しかありませんでした。
鹿児島市・国分も島津家・しかも、おはら節に歌われるたばこは国分
1606年に、服部宗重が島津義久の許可を受けて試作栽培した場所
加治木、隼人も島津家と深い係わりがある土地なので・
国分郷土資料館は国分城山の上にあります。

ついで平田氏は、極普通にあるようで、人口に比例して増減しているようですが
東市来22 姶良24 国分15 隼人21 伊集院18 日吉9 加治木10
[64]さちこさんからのコメント(2003年07月06日 17時38分55秒 ) パスワード
  

布袋竹さんありがとうございました。

鹿児島は服部家少ないのですね。
(三重や愛知が多すぎ?)
これだと、薩摩の服部家のルーツはある程度限られてくるのでは?
薩摩の服部家の多くが伊賀の服部家と関係あるかもしれません。

西郷さんの肖像画を描いた服部英龍も?

takahiro様。
ご指摘ありがとうございました。
よく読まずコピーしました。
でも、服部家の事だから朱印状にドロンと化けるかも知れないし。。。

ガイドブックを買って鹿児島を調べてますが、
本当に時間がいくらあっても足らないと言う感じです。
アドバイスまたよろしくお願いします。

宝暦の治水工事のことはガイドブックは載ってませんが、
地元の方は結構ご存知なのですね。
鹿児島の方とお話しする機会があれば話題にしてみようと思います。

桑名に海蔵寺という寺があります。
薩摩義士墓所とも言われているのですが、
平田靭負の墓や義士の墓が多く残ってます。
毎年5月25日の平田靭負の命日に、
薩摩義士の御子孫や桑名市長を招いて法要を行ってるということです。


http://www.mirai.ne.jp/~wakita/gisi/bosyo/bosyo.htm#kaizouji

上記は薩摩義士の墓の一覧です。
海蔵寺の所をクリックすると、
平田靭負の像や、藩士ゆかりの徳利、古文書の写真があります。
うちの寺の長禅寺にも義士の墓が一基ありますのでよかったら見てください。

義士の墓は他の寺にも沢山あるのですが、
特にこの寺は他の寺よりも薩摩義士にゆかりが深いようです。

父に海蔵寺をしってるかと訊ねたところ、
「アホ!」と言われてしまいました(泣)
海蔵寺とうちの長禅寺は兄弟寺でとても親しいのだそうです。
子供の頃に何度か連れてってもらったそうですが記憶にないです。
曹洞宗のお葬式はお坊さんを五人くらい呼ぶのですが。
うちが葬式する時は、海蔵寺からも住職が来るのだそうです。

長禅寺というのは何度も書いてますが、
元は服部家一族の寺でした。
平田家との何かのご縁なのか、ただの桑名で曹洞宗のだけのご縁かは判りません。

弥富鯏浦に服部擔(たん)風という漢詩人がいたのですが(下記参照)

http://www.wai2.jp/~nohmin/fudeduka.html

海蔵には擔風先生が漢詩を教えに来ていてこちらの服部家とも親しかったそうです。
何かあるのかな〜。

海蔵寺に平田靭負の墓がありますが、
伏見にも墓があります。

伏見の薩摩藩邸留守役を代々服部家が世襲していたと言う事ですが。





[65]さちこさんからのコメント(2003年07月06日 22時17分47秒 ) パスワード
  

海蔵寺を調べていて面白い?話が。

下記アドレスは子供の作文の話ですが、
薩摩義士に関する所だけを抜粋します。

http://www58.tok2.com/home/nissaku/houshin/houshin97-98ho.html

「今日、ぼくの家、海蔵寺では薩摩藩の法要があります。
 テレビ局の取材もあります。」

「正弘君のとこ、寺の前に『宝暦の治水、薩摩義士の墓』って書いてあるな。
 宝暦の治水っていったら千本松原(岐阜県海津町)のことやろ。
 それがなんで桑名なんや。」

いろいろな意見が出された後
山田氏は、子どもたちへ

「今後、宝暦の治水について学習します。
 岐阜県の千本松原で亡くなった薩摩藩の人たちが、
 なぜ桑名のお寺に葬られたのか知りたいですね。」

と問い掛けた。
正弘君は十日ほどたってから祖母から聞いたことを日記に書いてきた。


   薩摩藩と海蔵寺           正弘

 「桑名の地になんで薩摩藩のお墓があるの。」
  とおばあちゃんに聞くと、
 「徳川幕府時代は、キリスト教を信ずることはできなかったの。 
  この治水工事に来ていた薩摩の人たちが病気で死んだり、
  自害した人たち八十五名もおりました。  
  その亡くなった人たちをほうむるのに、
  もしキリスト教を信じている人だと幕府に知れると、
  幕府からとがめ、 
  きつくしかられることがおそろしくてどこのお寺でも断りました。
  このときの海蔵寺の住職がとてもえらい方でしたので、 
  幕府をおそれずほうむることを引き受けました。 
  薩摩藩はちょうど禅宗だったので、
  海蔵寺も禅宗でしたから、
  お寺に何事が起こっても迷惑をかけませんと書いたものをお寺にわたして
  ほうむってもらいました。海蔵寺には、二十四名のお墓があります。」

 と教えてくれました。
 薩摩藩の人たちのお墓のお寺は断ったけど、この時代の海蔵寺の住職がとてもえら い方でしたのでほうむることができたというところで幕府をおそれなかったので、 本当にすごいえらい人だと思いました。もっと本を読んで調べたいです。

これは海蔵寺の子供が書いた作文だと思われますが、
子供が書いたことなので、
話が混乱している可能性もありますが、
素直に受け止めれば薩摩義士の中に隠れキリシタンがいたということ?

島津家は禅宗?
曹洞宗ですか?

桑名、やはり聞き込みしてくる価値ありかも?
[66]川口 信さんからのコメント(2003年07月06日 23時21分21秒 ) パスワード
  

[64] [65]のコメントとURL興味深く読みました。
 
 あまり関係がないのですが、参考に。

 平家一門スレの方にも書き込みましたが[38]
 曹洞宗の永平寺開山の道元禅師略伝によれば、母は平清盛の弟、通盛(みちもり)の女(むすめ)といわれています。嘉禄3年1227、安貞元)9月2日没。(道元禅師が中国から帰国した年) また、永平寺のある越前は平家歴代の任地でもありました。
 という事で曹洞宗は平家にたいへんゆかりがあります。それにしても桑名には曹洞宗んもお寺さんが沢山ありますね。


また、大洲藩は学問に重きを置いておりますが、家老に尾張の大橋家一族がなっておりますが、その大橋派の中に佃小左衛門、平田助右衛門、加藤伝左衛門などがおります。
 なかでも有名な人物に中江藤樹や矢野玄道(やの はるみち)(1823−1887)幕末から明治にかけて活躍した全国的に有名な国学者。大洲市阿蔵生まれ。25歳のとき平田篤胤の門に入り、国学の研究に生涯をささげました。その著書は700あまりにおよぶと言われています。

 矢野といえば尾張に多い姓で、大洲藩自体が岐阜や尾張出身者が多いです。さぞや薩摩義士の人々に感謝していることでしょう。
[67]さちこさんからのコメント(2003年07月07日 23時53分26秒 ) パスワード
  

川口の彦星殿ありがとうございます。

私の住んでる町では今夜いい天気になりました。
夕方までは雨が降ってたのですが。
でも月明かりが強くて天の川はよく見えません。

やはり本当の七夕は梅雨が過ぎてからでしょうね。

中江藤樹は漢詩で有名です。
月〜月〜何とかの月。。。思い出せません。(調べときます)
意味深いかも?

前にうちの菩提寺の曹洞宗の寺にお稲荷さんが祀ってあって不思議と書きました。
そして川口さんに曹洞宗と平家の関係を教えていただきました。

でっ、その件で検索したら、
日本三大稲荷の一つ、
豊川稲荷は実は神社ではなく、
曹洞宗の寺などと言うことが書いてあり。。
お稲荷さんは神社ではないの?

今、混乱してます。

また明日。本当の彦星様が待ってるから(笑)
[68]万次郎さんからのコメント(2004年02月18日 17時45分40秒 ) パスワード
  

卍の紋の話が出ていましたが、

江戸時代の墓石の戒名の上に、「丸に五つ割り卍」
http://www.otomiya.com/kamon/moji/manji.htm
をみかけました。

単に寺を意味しているとおもっていたのですが。
そうした紋を墓に入れることってあるのでしょうかね。
臨済宗らしいのですが。
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2011年10月17日 01時14分13秒 ) パスワード

先週、平田篤胤の肖像画を見る機会がありました。

全く初めて見た家紋です。
直違紋の先に鎌の刃がついてる感じ。
○は無かったです。

巴型なら3つだけど4つグルグル回る感じ。


ま、その内にどこかでお目にかかるでしょう。
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