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 投稿番号:100504 投稿日:2003年05月27日 09時43分23秒  パスワード
 お名前:川口 信
安徳帝縁の『八咫鏡』 妹尾家 難波家
キーワード:1973年の新聞記事
コメントの種類 :ニュース  パスワード

 先日戸棚の中を整理していたら、1973年の新聞の切り抜きが貼ってありました(他のところにNHKの「新平家物語」が高視聴率で終了したとあるので)。
新聞記事を見ると安徳天皇縁の『八咫鏡』の訴訟問題を取り上げた切り抜きでした。
 その頃は後になって「平熱」にお世話になるとも知らず、今日まで大事に保管していたのも何か因縁を感じます。
 
『神鏡』を奉るのは当方ぞと題する記事です。以下新聞記事から

◇“史実”その1 
「八咫鏡」皇位の徴証たる三種神器の筆頭なり。天の岩戸に隠れましました天照大神をお迎えせむと銅鋳せる鏡にて、天孫これを奉じて降臨し、銭祚に敬称。正体は(伊勢)皇大神宮にいはい奉る。内侍所(賢所)にましますは崇神の御代に模されし形代(代り)の御鏡なり。つつがなく万代の宗廟にまします(北畠親房「神皇正統記」より。

◇“史実”その2 
 清盛なきあと、平家一門は安徳天皇と神器の八咫鏡、草薙剣を擁して西へ西へと逃れたが、寿永四年(1185年)三月、ついに壇ノ浦(山口県)で海のもくずと消えた。安徳天も入水、八歳の命を断ち、草薙剣も海中に没した。
 さてその形代の八咫鏡はいずこに。このあたりから話はこんがらがってくる。

[1]川口 信さんからのコメント(2003年05月27日 09時49分26秒 ) パスワード
  

◇春名さんの“史実” 
 安徳帝は清盛の落いんともいわれる、近侍の武将、妹尾太郎兼康に鏡を手渡し「平家再興の守りにせよ」と命じたという。兼康は備中美作国(岡山県東北部)に落ち、鏡を隠して旗揚げの機会を待ったが果たさず死んだ。妹尾登代根さんは兼康の末裔に当たり、鏡の隠し場所をしるした古文書を持っていた。このことを郷土誌で知った春名さんは、隠し場所が岡山県若田群作東町、その名も“天皇谷”と呼ばれる山中であることを登代根さんから聞き出した。すっかり鏡に取りつかれた春名さん、気違い呼ばわりもものかわ、山を掘ること三年、ついに鏡は見つかった。昭和三十三年七月。







[2]川口 信さんからのコメント(2003年05月27日 09時58分13秒 ) パスワード
  

◇“カガミ騒動”
 小さな田舎町は大騒ぎ。やれッ国宝に、いや皇室に・・・・・・とハチの巣をつついたよう。町議会も慎重審議を重ねたが、結論が出ない。とどのつまり、町民大会を開いて「神器のしょちは春名さんに一任」これがそもそもの間違いのもと。「安徳天皇をお祭りする下関の赤間神宮に奉納するのが一番」と春名さん。
 翌年、同神宮に納めたら、任せたはずの作東町民がカンカン。「オラが町サのお宝をよそへ持出すとは何事か」とひともんちゃく。ことここに至って妹尾さんが登場する。『本来、神鏡は私のもの』と三十三年、「八咫鏡所有権確認請求訴訟」を岡山地裁に起こした。

◇裁判◇ 
 四十年、原告の訴えを棄却。理由―この鏡が八咫鏡と同一物とは認められず、原告の所有権もない。妹尾さん、広島高裁岡山支部に控訴。舞台が広島高裁岡山支部に移って、すでに八年。この間の口頭弁論だけで十九回。六月十八日、久しぶりに第十九回口頭弁論が開かれたが、双方一歩も引かない。担当裁判長もこの間次々と変わり、今の辻川裁判長は五人目。
辻川裁判長はこれまた大変な歴史マニア。証拠調べにも異常な熱の入れよう。それでも、とても証拠調べだけでは決着のつけようがないと判断したのか、和解工作をすすめ、岡山、山口両県知事の調停もあったが不調。
 原告側は「ちょっとやそっとのカネでは和解なんてとても・・・・・・」ととり合わない。被告の水野宮司も仕事の忙しさにかこつけて全く出廷せず、次回の裁判がいつ開けるか見通しもつかない。

◇終わりのないエピローグ◇
 草深い山里から降ってわいた、この“大”というか、“珍”というべきか―。十五年の長期裁判で登代根さんは年老い、三年前から寝込んでしまった。しかし自分の主張をガンとして曲げない。光延弁護士は「一審判決は赤間神社から神鏡を取返されるのを恐れた宮内庁が手を回したに違いない」、一方、春名さんも光述弁護士を訴えるなど意気ますます盛ん。戦前なら不敬罪で一発だが、当事者たちの執念、老いの一徹・・・・・・。“崇高なるドラマ”の幕は当分降りそうもない。

 原告代理人、光延弁護士の弁論 私は南朝史に興味を持っていたので、この件を引受けてから天皇史を研究した。その結果、本物の神器であると確信している。兼康は壇ノ浦合戦の二年前に死んでおり、安徳天からは神器は賜っていないので春名説は間違い。本物は南朝の帝に受継がれ、末裔の高仁親王が元禄十年、徳川幕府に追われたとき、これも兼康の子孫で近臣の妹尾四郎衛門兼玄に与えた。兼玄は天皇谷に安徳天皇や南朝を祭るほこらを建て、神器を埋めた。従って所有権は兼玄の血をひく登代根さんにある。焼けて形が欠けているのも史実に合致する。
 
 妹尾登代根さんの話 あの鏡は間違いなく先祖のもので証拠となる証文もある。絶対勝てると思うが、もし高裁でだめなら最高裁で戦うし、ワシが死んでも訴訟は子孫に受継いでいく。
 
 水野久直・赤間神宮宮司の話 鏡は祭神(安徳帝)と同格なのだから、いくら請求されようと金で解決する気は全くない。鏡は春名さんと妹尾家から寄進されたもので、赤間神宮が保管する。寄進状もある。和解する気持はある。それには法廷ではなく、当事者間の普通の話合いがいい。






[3]そりちゃんさんからのコメント(2003年05月27日 12時34分28秒 ) パスワード
  

川口さん貴重なお話しありがとうございます。
八咫鏡にまつわるこんなお話しがあったのですね〜。
歴史って本当におもしろいな、とあらためて感心しました。

伝説や伝承止まりであれば、ここまで大騒ぎにならなかったの
でしょうけど、お宝が出てしまうと皆さん冷静には
なれないのでしょうね。

お部屋のお掃除たいへんとは思いますが、また何か発見されたら
教えてくださいね。
[4]川口 信さんからのコメント(2003年05月27日 12時55分39秒 ) パスワード
  

そりちゃん、有難うございます。

 そうなんです。丁度そりちゃんが
 >かつてシュリーマンが伝説からトロイ遺跡を発見したように、
 >日本の伝説の中にも「真実」は多く潜んでいることでしょう。

 とホムペでお書きになっているとタイミングぴったりですね。

 伝説とバカにしてはいけませんね。

 
その後、裁判の決着をフォローしていないのでどう裁きがおりたのでしょうか。

 検索しましたら下記のようなURLが幾つもありました。
 
 http://ww5.tiki.ne.jp/~gakurou/hen/hen2.html
 
 http://www.ai.wakwak.com/~yudai/essay.html

http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kyoiku/shidoka/hurusato/www97/b4_aka09.htm
 
『赤間神宮の御由緒書』に
 ≪赤間神宮≫( あかまじんぐう )
 ≪御祭神 ≫ 安徳天皇( あんとくてんのう )
 ≪御祭祀 ≫ 八咫鏡 ( 安徳天皇神鏡 )
 
 とありますので落ち着くところに落ちついたのでしょう。
 目出度し めでたし。





[5]そりちゃんさんからのコメント(2003年05月27日 17時02分04秒 ) パスワード
  

HP見てくださってありがとうございます。
今本当に伝説の虜になっています。
どんどんアップしていく予定なので、
また覗いて見てくださいね(^^)/
[6]たまねこさんからのコメント(2003年05月27日 21時15分44秒 ) パスワード
  

川口様。面白い記事を紹介してくださって、ありがとうございます。

ひょっとしたら、八咫鏡だけでなく、草薙の剣も、どこかで一騒動
ある(あった)のでしょうか?

先祖ゆかりのお宝を探し当てたばかりに、人生を狂わされた方
(当人は、そう思っていない)の話を聞かされたことがあります。
もし、そんな大変なものを掘り当ててしまったら…とりあえず、
内緒にしておきましょう(笑)。
 
川口さん宅の戸棚からは、まだ、いろいろとお宝が出てくるかも
しれませんので、整理がてら探索をお願いします(笑)。
[7]川口 信さんからのコメント(2003年05月27日 21時47分39秒 ) パスワード
  

 たまねこさん お久しぶりです。『輪廻転生』のコメントいいですね。さすがたまねこさんらしいコメント他の人には出来ませんね。これからもドシドシ出してください。

 >川口さん宅の戸棚からは、まだ、いろいろとお宝が出てくるかも?

 そうですね。残念ながら先祖のものは「戊辰戦争」のさい下谷において戦火を被り何も残されていません。戸棚から出てくるのは古新聞バカリ(涙)

 そこで犬を飼っており、花咲か爺さんを狙って、あちこと掘らせています(笑)

 それと池の周りをウロツイテおりますが、何時も馬にたまねこさんがルソーと一緒に跨っているんじゃないかとキョロキョロしております。

 ウイットにとんだるルソーくんやお仲間のキャプションにひとりで微笑んでおります。有難う御座います。

 
[8]たまねこさんからのコメント(2003年05月29日 00時14分22秒 ) パスワード
  

川口さん。

退屈でアクビ100連発しそうなHPを見てくださって、
どうもありがとうございます。
猫も私もニブイものですから、池月に跨ったら、すばやく逃げられるよう、
訓練しているところです。

>残念ながら先祖のものは「戊辰戦争」のさい下谷において戦火を被り何も残されていません。戸棚から出てくるのは古新聞バカリ(涙)

御先祖さまの残したお宝は、川口家の安泰と繁栄ですよ、きっと。
あるいは、古新聞の中から、マロちゃんがヘソクリを見つけてくれるかも?
[9]川口 信さんからのコメント(2003年05月30日 18時39分10秒 ) パスワード
  


 >御先祖さまの残したお宝は、川口家の安泰と繁栄ですよ、きっと。
 >あるいは、古新聞の中から、マロちゃんがヘソクリを見つけてくれるかも?

 たまねこさん、励ましのコメント有難うございます。


 何も無いから、失うものが無い。
 
 そんなことで、自分の家の歴史を解明し、またこれまで川口家を支えてくれていた人々(貧乏旗本の家臣達)のお名前を明らかにし世の中に忘れられないようにホムペに記述し、ご冥福を祈り、ご子孫家の繁栄と隆盛を願っていくのが私に与えられた責務だと思います。そうすれば、うちの先祖と一緒にその人々達もわが家を守護、見守ってくれているかと、チャッカリ考えております。こんなんで良いのでしょうか?。
 なんだか「アヤノコウジキミマロ」さんに似た文になってしまいましたが。
 マロ続きで!!

 それと話題がそれそうなのですが、(『八咫鏡』の謎)で検索すると、伊勢神宮の『八咫鏡』は神官でさえ見たことが無いそうですが、ただ一人見たと言われている大学教授によれば鏡の裏側にヘブライ語の文字が書かれてあったそうです。
 ホントの話か、トンデモ話か分かりませんが。これも興味をソソられますね。




[10]たまねこさんからのコメント(2003年05月31日 00時22分48秒 ) パスワード
  

きみまろさんの次は、三遊亭歌之介だそうですよ(笑)。
…すっかり、話題をそらしてしまいました(恐縮)。

『八咫鏡』の裏側にヘブライ文字が書かれていたとすれば…、
「見なかったことにしておきましょう」ということになりませんか?
そう考えると、誰も鏡を見ることができなかった理由がわかりそうな
ものですが…勝手な推測で、スミマセン。

今度、知り合いの宮司さんに聞いてみようかと思います。
息子さんは伊勢神宮の神官をやっていらっしゃるそうですし。
鏡にまつわる怪しい話?が聞けるかもしれないです。
[11]薩摩節さんからのコメント(2003年06月03日 21時12分24秒 ) パスワード
  

三種の神器のゆくえ
 こんな話も伝わっています。「安徳天皇が替え玉で、実際はこのようになってます」という話は、全国18ヶ所とか三十余りとか、あるそうです。その中でも硫黄島のは出典もいくつもあり、信憑性も高いというか、ここが本物とみる識者もいるそうです。
 それはともあれ、その硫黄島の天皇の末裔と称する長濱家に伝わる三種の神器を納めていた島の大権現などの資料・現物一切を、時の藩主島津27代・斉興が集め、学者などに見せて、その当時の学者もびっくり。
ご神体と言われるものは、箱に収めて、開けると目が潰れると返却した。昭和の代にふたり学者が、目が潰れても良いと開けてみたところ、中には鏡と島津斉興が書いた書付が・
硫黄島権現 第一日御殿神体
一 八咫御鏡 讃岐国八嶋天皇渡御薩摩国琉黄島
  此時三種神器・・
硫黄島の辺鄙な所でこんなものが・忍びなくこちらで預かったというようなもの。鏡はもちろん当時すりかえた偽物がはいっていた。
戦後、子孫が島津家に返却を掛け合ったが、所在不明ということです。
先日、岩下家で話題になった「落日の平家」の著者永井彦熊氏も、安徳天皇が硫黄島に来たとしています。崩御の場所は違いますが・
資料  三島村村史・硫黄島大権現宮御本縁・三所大権現宮鎮座本記・若宮御降誕由本伝 肝付氏系図 四十九神社旧記 鹿児島神社帳高山神社
[12]川口 信さんからのコメント(2003年06月21日 12時38分33秒 ) パスワード
  

薩摩節さん、貴重な情報有難うございます。
 ドシドシ、コメントをお寄せ下さいませ。



 戸棚から出てきた物の続き、第二段。

 今度は段ボールに入っていた手紙やハガキを整理読み直していたら、また不思議な事に平宗清について、岡山県の高田さんとお読みする方(達筆なので良く判読できない(涙))からお手紙を頂いたのがありました。

 お手紙を頂いた時期は私が平宗清について、『歴読』などに投書して全国の皆様のお知恵や情報を集めていた頃のもので、20年余年ほど前のものでした。

 そのお手紙によると、同家は高田姓を名乗り、家紋はモッコ紋を使用している。
モッコ紋を使用している者は高棟流れを汲むものだけと「日本紋章学」という本に書いてあるという。
 
 吉備群書集成に平宗清は「門出村:和気郡・・・に宅地の跡という処あり、播州石田の庄、美作弓削の庄、備前佐帳の庄、三箇所を賜る、宗清の子孫、今にあり、刑部と言い、また四郎左衛門とも言う。また美作略史に、平頼盛に弓削荘を賜る、などとあります。

 同家の裏山に天皇山と言う所があり、妹尾さん(前述の新聞記事の方)と同じ村です・安徳天皇が西国に逃れたときに、ここに色々なものを埋めたと言われている。そして、堀り出したら、剣、鏡などが出てきた。そして所有権を巡って裁判になっている。など便箋に六枚ほどに詳細に書きとめられておりました。
 
 手紙を頂いたのが先か、新聞を切り抜いておいたのが先かあまり覚えておりませんが、やはり、この事については浅からぬ因縁があったのかもしれません。

 このお手紙に書かれている事が本当なら、剣は何処にいったのでしょうか?

 どなたかご存知ありませんか。
[13]布袋竹さんからのコメント(2003年06月27日 14時15分59秒 ) パスワード
  

川口さま
以前のスレッドを読んでいたら、こんなものも、出ていました。

「赤間神宮の八咫の鏡を見たことのある人いますか?」
http://hikoshima.com/bbs/heike/42256.html

どれが本物で、どれがコピーなのか・本物は、いずく
なお、硫黄島の鏡の文様は双鳥瑞雲・鳳凰が飛んでるような図柄だったとか
[14]川口 信さんからのコメント(2003年06月27日 17時29分05秒 ) パスワード
  

布袋竹さん、過去スレのご紹介有難うございます。

 
 お歴々のコメント、大変勉強になりました。

勾玉や剣についてはあまり知りませんが。
 
 日本においては、鏡などは形代(かたしろ)を作りそれに入魂をしておりますので、外国で言うレプリカとは意味が全然違います。
 
 入魂された鏡(分霊された)は日本各地の神社において奉られ、拝まれ、その価値において、元の鏡と何ら損傷はありません。ようは考え方だけです。

 こんなふうに解釈しておりますが、安易な解決方法ですが、これで世間が上手くおさまります。如何でしょうか。



 
[15]小林雅成さんからのコメント(2003年08月07日 01時33分11秒 ) パスワード
  

鏡を掘り出した春名さんは、秦氏の子孫だっちゃ!
[16]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年08月07日 06時07分26秒 ) パスワード
  

ということは結局は回り回って秦氏ー平家あたりのラインに繋がりますか?
執念で掘り出したというのはやっぱり平家がらみのオカルト的執念に通じますか?
やっぱり鏡は赤間神宮に収められてしかるべき?

やっと安心出来ました。
それにしても平家の怨念・執念は時空を超える?
[17]小林雅成さんからのコメント(2003年08月09日 00時50分13秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年08月09日 14時20分37秒
[18]小林雅成さんからのコメント(2003年08月09日 10時35分56秒 ) パスワード
  

ジュ・ヌ・セ・パ・ギャンブラー様

春名=ハルナがアラビヤ語で、高貴な人を表すことはしってますよね?
私は、秦の血が入っているので、秦かどうかはわかりますが、ギャンブラー様はおわかりでない?掘り出したのは、偶然だとおもうけど(^^;)

天皇谷のある土居は、出雲街道沿いで、とても落人の里と呼べるとこじゃないんだけどね。
[19]妹尾 久義さんからのコメント(2004年01月04日 01時57分10秒 ) パスワード
  

 はじめまして、一族のことを検索していまして、このHPに行き当たりました。いろいろと勉強になるこよが有り拝見させてもらっています。話題としては随分と遅いのですが、自分の調査したことと一部接点が有りましたので、投稿させていただきました。

「平家落人」伝説としては興ざめになるかな。

 妹尾一族は備中の國で木曽義仲軍に敗れた平清盛の家臣「妹尾兼康」を初代としています。私どもの一族一派は「藤原姓」のようです。初代の「兼康」が母の兄である「瀬尾(藤原)兼門」の家名相続をしたように記述されています。しかし、鳥羽院の院宣で瀬尾が使えなくて、妹の妹をとって「妹尾」と表記するように成ったとのことです。妹尾兼康と違い、瀬尾(藤原)兼門は歴史上には「名前」を残しては居ないようです。ご存じの方が居られましたらご教示願いたいのですが?。なお、他の妹尾一族には平姓や橘姓をとっている筋も有ります。


土居妹尾氏の詳しい系譜を最近見させてもらいました。平家物語に出て来る、「妹尾兼康」の次男の「じろう」(表記は様々ですが)をルーツとする同族一派と分かりました。私の家の同族一派の動向は分かりませんが初めて分かった家筋です。ルーツの在所は、妹尾次郎兼吉(他の一族では二郎・二郎左衛門などの「じろう」が共通です)が、建久8年に居住したのが岡山県真庭郡落合町古見(旧・大庭郡古見村)です。それまでは、妹尾兼康長男の娘二人と母親と当人と4人で備中の山奥で過ごしています。(私ども中河内・半坂妹尾より出ている慶長13年と元禄10年に領主への先祖由緒書きの写しより)

「八咫の鏡について」
・ 上の記述からも妹尾太郎兼康が「八咫鏡」に関与した説は否定できます。 
・ この論争及び裁判における「原告」側(土居妹尾の本家・明治3年に他所 に移居)は『妹尾兼康説は虚構』と主張している様です。美作土居に居られ る、古い分家の方も平成15年12月現在も同じように主張されて居ます。
・ この鏡は別の「美作後南朝説」によるものです。ですから「燼余の鏡」で 在って、嘉吉年間の神器争奪事件のおり小倉宮から美作の南朝の宮に渡った とする物です。
・ この「美作南朝」を保護して、画策していた時の領主「本能寺で織田信長 と共にした森蘭丸」の弟の「森忠政」から授かった鏡とのことです。そし  て、この「森忠政」は京都で毒入りの桃を食べさせられて毒殺されたとのこ とです。
・ 「八咫鏡」の形状について、鏡は下三分の一は溶けたようになり、横の長 さは九センチ、タテ6センチ背面には小さな紐には、三十二個の玉模様が浮 き彫りされている。「大日本史」の「神鏡災に罹る、燼余を収む」と合致と のこと、さらに國學院大學(ちなみに、私の出身大学・・・)大庭磐雄博士 らに鑑定をもとめ「藤原時代の作で、日本最古の和鏡」という答えを引き出 した。と言うことらしいです。(貴重な写真付です。)

* 土居妹尾氏以外の記述は、昭和61年1月1日発行の「NEU LIF おか  や」というローカル誌 記載の「元毎日新聞倉敷支局長・橋田穂波氏」の記 事より                                                                                                                
               
                                                                  





[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月04日 10時31分13秒 ) パスワード
  

妹尾 久義さま

妹尾家の由来
もったいないのでスレッドを新しくして頂きたかったです。
他の妹尾家や瀬尾家の皆さんに検索し易いように。

タイトルをちょっと変更させていただきますね>川口さま
[21]小林雅成さんからのコメント(2004年01月04日 11時05分00秒 ) パスワード
  

妹尾 久義さんへ

うちの曾祖母が吉ヶ原妹尾です。
阿哲郡、岡山市、旧備中国の妹尾さんは、平家の家人の系統とは異なり下がり藤、上がり藤を使うのでちょっとちゃうなとおもっていたのですが、藤原姓なんですね。占部姓ともネットで見たことがありますが。

なかが〜ちの妹尾さんのご先祖は、森侯に仕官されたんですね?

家紋は何使ってはります?
[22]妹尾 久義さんからのコメント(2004年01月04日 21時19分00秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー・小林 雅成 さんへ

 早速のコメントに感謝。何処にも全く投稿したことの無い初心者でして、脱字もありました。(^_^;)


森家仕官について。

・本筋としては仕官をして居りません。系図の書き上げ者は156家存在しています。皆在地の荘官家として「安堵」されたことのようです。いわゆる地侍として、有る程度の権益を保障された者と言えます。全国的な名称で言えば「庄屋」筋と言えます。

・はっきりした所で言えば、仕官者は二人います。当地3代目は天正十二年の(久米郡久米町所在の)岩屋城の野火で焼失以後は当地初代の根拠地に戻り帰農しています。以来ずっと百姓ですね。

・享保年間に「松平家」に仕官して妹尾姓を名乗っていた可能性の強い人物がいます。
家紋について
・「蔦」です。女紋は「梅鉢」です。時代背景からすると、赤松氏か浦上氏からの「下賜紋」と思われます。本来の紋は「尊卑分脈」の花輪違いに菊ではないかと想像しています。

[23]小林雅成さんからのコメント(2004年01月04日 22時31分49秒 ) パスワード
  

妹尾 久義さんへ

うちの本家筋は郷士なんです。木堂先生(犬養)のとこは庭瀬の郷士らしいし、妹尾さんところも郷士とみていいんですか?

>岩屋城
城主?、城将クラス?

>「松平家」に仕官して妹尾姓を名乗っていた
丸に揚羽蝶の妹尾家がありまして、津山藩士なんですよ。春に岡山にもどりますので、機会あれば、紹介しましょう!

>「蔦」です。
岡山市内にありますね。私は、桓武平氏族と推定しているのですが、、。

>女紋は「梅鉢」です。
女紋は、岡山では女系の血統の表象であって、下賜とかではないとおもいますが。赤松氏族で梅鉢を使用しているいえはあります。浦上氏が、部下に丸に二つ引きを下賜したケースはあります。

>花輪違いに菊ではないかと想像しています。
現在では、七宝に花菱といいまして、妹尾家では桓武平氏族。
また七宝に14葉菊は、桓武平氏族か?です。
[24]妹尾 久義さんからのコメント(2004年01月05日 02時41分05秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年01月06日 07時40分26秒
[25]小林雅成さんからのコメント(2004年01月06日 17時24分48秒 ) パスワード
  

妹尾 久義さんへ

妹尾家のこれ以上の詳細なお話は私宛にメールください。
[26]妹尾 久義さんからのコメント(2004年01月29日 03時24分54秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様 

皆様のように知識が無いのでお教え願えたらと思い、また書き込みました。

 最近は「烏丸の太刀」の事が頭に入り込んで居まして、

 似たような話を以前に読んだか聞いたかと、思い出せずにいました。以前のスレッドで「小烏」で「小烏丸」とのことが話題になっているのを拝見して、やはり桓武天皇の話に出て来る烏 の下りを以前読んだ事を思い出しました。


 以下のことは小烏丸ではありませんが・・・。
 「烏丸」の太刀と称するものが幾つか存在することを知りました。赤間神宮の宝物に挙げられて居たような気がしますが。また、島根の大社にも奉納(土居妹尾家から)されているのも在るようですが。

私の手持ちの2件の資料には
        @ 烏丸写則吉井之住人友成
           之鍛前之太刀也然ニ此太刀并ニ
           兼康母ヨリ譲之端刀モ焼失ス

A 干時建久八年弥生日老母総領を子孫為令
           知傳記之と也老母より譲りとて
           九寸五歩の懐劔此家傳とす是則烏丸と號
          

  資料の文を要約しますと『「兼康・常遠車輪の兄弟」の下りに兩劔を清盛より両人に下し給う、とあります。鳥羽院所蔵の「烏丸(平清盛が伊勢國より奉捧)」と「木枯丸(平清盛が信濃国より求める)」の「写し」です。』
どこからの引用なのか伝承なのか分からないのですが。八咫鏡のように烏丸の「形代」の形で御霊や心が引き継がれているのでしょうか。
あくまでも、原版と言っていいのでしょうか・・?、素は四振りの劔が存在していたことは想像がつくのですが(写しは二振りのみ鍛えられたとありますので)。

平家では何か、「烏」にこだわりがあるのでしょううか。八咫烏或いは三本足の烏の信仰に関わった謎でもあるのでしょうか?。
京都の烏丸通りは関係ないのでしょうか。

[27]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月29日 06時39分33秒 ) パスワード
  

残念ながら書き込み出来るのは「烏丸通り」の件だけですね。
>京都の烏丸通り
これは秀吉が烏丸村を移動させて以降だというのを観光案内で見ました。



お公家さんに「烏丸家」というのがありますね。
太陽に住むと言われる霊鳥=烏というのは昔はありがたかったと思いますね。
この烏丸家は桓武平氏の高棟王の子孫で

高棟王10世の孫の時忠は(姓は藤原氏や平氏を称しているそうですね←堂上平氏)
姉や妹達が清盛の妻+後白河天皇の女御で高倉天皇を生み+宗盛の妻や重盛の妻にもなってるそうですね。
娘の1人は源義経の妻になってましたよね。
この人の家の名は何だったのでしょうね?「烏丸家」だと面白いですね。
高棟王の他の公家系子孫の家は安居・西洞院・平松・交野・石井・小松・梶野・長谷などがあるそうです。


烏丸の太刀と小烏丸の太刀は別じゃないかと私は思います。
烏丸の太刀は兼康の子が受け継いで岡山に持って帰った太刀ですよね。

小烏丸というのは普通名詞の小烏丸と固定名詞の小烏丸とあるそうで
普通名詞の小烏丸という両刃の太刀は今でも作られて売られてるのを見掛けます。


妹尾 久義さま同様「烏丸」という名前に妙にこだわりだしています。
時忠さんの家が「烏丸」だったら?!

それに妹尾家はどこの平家の家老をしてたのでしょうね?
時忠家だったら?!


例えば景清で有名な藤原忠清は清盛の次男の基盛の家の家老だったって某有名学者から聞きました。
清盛は子供達に大事な家臣をつけて補佐させてますから。
[28]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月29日 06時52分01秒 ) パスワード
  

アップしてからちょっと部屋を出て戻って来たところです。


安徳天皇を抱いて入水したと言われる2位の尼=時子さん=時忠のシスターですから
彼女が「烏丸家」出身なら
妹尾兼康公が彼女のお家の名前である「烏丸」という太刀を清盛公または時忠公を通して頂いた
という連想も出て来ますね。

八咫鏡の件も兼康公の子に託したという可能性もますます大有り!


妹尾と「烏丸」という名前にますますロマンを感じます。
[29]妹尾 久義さんからのコメント(2004年01月29日 23時32分33秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様
 
 2位の尼=時子さん=時忠のシスター・・・・う〜うん・・なんか謎あるロマンに引き込まれそうですね。謎とかロマンが付くとなんでも、昔から(黒岩・・・氏の本とか平野レミさんのお父さんの出されていた本のあたりから)とても好きな私ですので・・。

 時忠家のこと、何か真実みが増したような気がします。何とも言えませんが、当方は兼康の母を称女白河殿としている一派のお仲間のようです(保子と言う説もありますが。)。複雑なシスターズも絡んで・・・でしょうか。このあたりは複雑な背景が在りそうなので、謎の方がいいのかも知れませんね。ロマンとして!!。

[26]に書き込みしました@Aの「烏丸」は同じ物のことのようです。出雲大社(享保五年に奉納の記録・この太刀の由緒書きは大社でないと分からないようです。)と赤間神宮の物も別個の存在のように感じます。壇ノ浦からの「烏丸」は「出雲大社」に納まったことになりますね・・・?。赤間神宮はそれなりに納得なのですが、何故に大社なか・・?また夜も寝られなく・・・です (^_^;) 。
[30]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月30日 02時02分42秒 ) パスワード
  

妹尾 久義さま

妹尾家に時忠卿のシスター又はイトコが輿入れしててもおかしくないですよね。


昔は親戚および一族で周りを固めましたから。
上記の藤原忠清でも清盛のシスターを頂いてるそうですよ。
平家5強侍大将のお家である妹尾家が時忠卿や清盛や忠清や我が家から妻を貰ったり与えたりは当たり前でしょう。
それから公家からも頂いたでしょうし。公家に嫁にやった娘もいるでしょう。


そういう意味で妹尾家が藤原氏の他にも平氏を称してるというのもアリですよね。
藤原忠清でも藤原氏と平氏を称してますから。
忠清の子の景清は梶原姓も称してたらしいです。


「烏丸」と「小烏丸」
それから上記の2振りの太刀
謎ですね。


天皇家が60年ごとだったか代ごとだったかに伊勢神宮に奉納するなんとかという太刀のお話を聞いたことがあります。
凄い宝太刀です。(どこかのスレッドに書いたかも)

こういう感じで小烏丸や烏丸も作られていたのかしら?と思います。
小烏丸は平家の嫡子または嫡子相当の人物の家に(例えば頼盛卿に)
烏丸は妹尾家の嫡子または嫡子相当の人物に
という事で宝刀が作られて伝わったのかしら?と。

それで赤間神宮に伝わったものもあり出雲大社に伝わったものあり・・・?


出雲大社に問い合わせて教えて頂けると良いですね。
[31]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月30日 08時35分38秒 ) パスワード
  

平時忠の父は摂関家の家司だったという情報しか得られなかったです。
そして時忠の若い頃はかなりの乱暴者だった。
[32]小林雅成さんからのコメント(2004年01月30日 11時06分13秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

うぎゃん(烏トーテムのぎゃん族)については、小生の私見は省いて、下の論考を参照されてはと思います。
協議会の会員で、HP開いているひともちらほら見かけますし。

苗字研究の重鎮、有名なベストセラー作家の丹羽基二氏が、《執筆を始めるにあたり烏に促された》という逸話(真偽不明)を自著で展開されております。

ちなみにうちは雀だす(^^)

************************************************************
家系研究協議会の機関誌(会報)
「鳥トーテムをもつ秦王室とその族裔たち」(1)(会報第1号、02/8)
「鳥トーテムをもつ秦王室とその族裔たち」(2)(会報第2号、02/12)
[33]烏夜啼さんからのコメント(2004年01月30日 11時54分03秒 ) パスワード
  

烏丸家について、ちゃんと調べたわけではないのですが、私の記憶違いでなければ、これは信基の血統であったと思います。

信基は贈左大臣時信の甥、つまり時忠や時子のいとこです。
信基の父は参議になったあの『兵範記』の著者・信範。
信基は壇ノ浦の合戦後、都へ帰って、流罪になりましたが、その後許されて、帰京しました。
信基には信季という早世した兄弟がいましたが、その遺児に従三位親輔がいて、この子を養子にしたのでした。
親輔には時高(この子孫が西洞院家)と範輔という子がいて、この範輔が烏丸だったかと思います。確か権中納言でした。

違っていたらごめんなさい。

[34]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月30日 12時09分33秒 ) パスワード
  

小林雅成さま

実は夫の親戚のカナダのインディアンの一族は実は「烏族」なんですよ〜
シンボルがカラスなんです。


私ともあの一族は繋がってたのかしら?
ちょっと不気味。

ま、人類は7人のイブ達の子孫らしいですから、人類みな兄弟(笹川良一?)
[35]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月30日 12時14分40秒 ) パスワード
  

烏夜啼さま


面白いことになって来ましたね。
そうすると烏丸家や西洞院家って時忠卿につながるかも?

時忠卿の夫人は「洞院局」とおっしゃるから西洞院家の出身かしら?と思ってましたが
当たらず遠からずかも?


岡山の県教育委員会が妹尾家について調べているはずと思いますけどね〜
烏丸家との関係が証明されると面白いのですが。
[36]烏夜啼さんからのコメント(2004年01月30日 19時42分37秒 ) パスワード
  

洞院局は、よくは分かりませんが、時忠の家が六条辺りの東洞院辺りにあったので、それで洞院局というのかな、と勝手に思ってました。
女房の名のつけ方には決まりがあったようですから、多分違っているとは思いますが・・・
洞院局は葉室領子さまとおっしゃる方ですので、藤原氏ですね・・・
でも、この人の父・中山中納言顕時の妻は平忠盛女つまり清盛の姉妹ですので、洞院局は清盛の姪であった可能性があります。ただ、兄弟の盛方の母は忠盛女と分かっていますが、洞院局の母は分からないんですよね。
因みに、兄・行隆(母・藤原有業女)の子が信濃前司行長で、盛隆(母・藤原信輔女)の子が時長です。
『平家物語』成立には葉室家が関係している、と言われるのは、この洞院局が時忠の後妻だったから、又、安徳天皇の乳母だったからでしょう。

そういえば、時忠は検非違使別当を3回もやっていますよね。
捕らえた盗賊集団の片腕を切り落として、刑場に並べて置いたり、かなーーり厳しい恐い別当だったので、「悪別当」と呼ばれて恐れられていました。
で、妹尾兼康は検非違使に勤務していたことがあったように思うのですが、もし、時忠が別当であった時と時期が重なると、兼康は時忠の部下だったことになりますね。
[37]烏夜啼さんからのコメント(2004年01月30日 20時17分19秒 ) パスワード
  

堂上平氏(高棟王流)

西洞院、安居院はどちらも内蔵頭信基の子孫。
平松、長谷、交野、石井は何れも西洞院家の分家。
小松、梶野はどちらも石井家の分家。

西洞院を初めに名乗ったのは正三位参議行時で、その兄弟の従三位行兼が安居院を名乗りました。この兄弟は南北朝時代の人です。
安居院以外は皆、西洞院家の分家ですね。
何れの家も信基の子孫です。

[38]小林雅成さんからのコメント(2004年01月30日 21時03分23秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

新人物往来社から出ている『東アジア古代史』(ISBN:4-404-01376-0)によると烏丸は東胡種族で、前漢初期に匈奴の冒頓がそれを支配したんだけど、それに従わずに烏丸山を拠点に独立した一派だそうです。(世界史はおわかりになります?)
東胡種族には、鮮卑もあります。半島に押出された鮮卑の王朝は朝鮮だし、日本の源氏は母方先祖がもろ鮮卑だし。

東胡は、騎馬民族でして、やっぱりモンゴルというかバイカル湖周辺ですよね、故郷は。インディアンは、血液や遺伝子レベルでみるとモンゴロイドと同じなんでしょ?
モンゴロイドに烏をトーテムとする一族がいてもなんらフシギではないとおもいます。文化人類学的にいえば、カナダインディアンもトーテムを有するといっていいでしょう。日本人にトーテムがあるかどうかは、学者によって意見がわかれるでしょうが、大陸や台湾の原住民族には、トーテムが認められていますよね。

>私ともあの一族は繋がってたのかしら?
お烏さんを信仰していたらそうですよ。ニギハヤヒノミコトの子孫である物部氏
の中には既に秦氏がまぎれこんでいます、またここにも秦さん(^^;)
烏で有名なのは、熊野神社の鈴木さんですよね。鈴木さんは、物部氏。

>人類みな兄弟(笹川良一?)
そうでしょ、そうでしょ人類はみな兄弟だからギャンブル好き(えぶす族かいな(^^;;)
[39]烏夜啼さんからのコメント(2004年01月30日 21時10分25秒 ) パスワード
  

烏丸家

やはり範輔が祖でした。
烏丸家は正二位にまでなっている人もいて、けっこう栄えてますね。
後二条天皇の妃になっている人もいます。
贈従二位烏丸成輔は、元弘2年5月22日、相模の国で斬られています。そういや『太平記』にこんな公家出てきましたよね。
その子行輔も南朝方です。

烏丸家は断絶してしまっています。
[40]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月31日 02時40分00秒 ) パスワード
  

小林雅成さま

古代東アジア史は全然分かりません。
古代中国史に出て来る時のイテキ辺りの認識です。

「烏帽子」なんて言葉がありますから
カラスとかトーテムというのが(ああ、そうか?)と連想がいきます。
明治天皇のえい?が非常に長く高いので、トーテム、特に連想しました。


古代日本の男子は冠が脱げるのが実に恥ずかしいことであったと聞いていますから
特にカラスとトーテムは古代東アジアの名残りなのかしら?と。
[41]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月31日 03時00分08秒 ) パスワード
  

烏夜啼さま

詳しい書き込みをありがとうございました。
そうしますと西洞院家も烏丸家も時忠卿や時子さんのいとこの関係となりますね。


いよいよ時子さんが妹尾兼康の子を頼りにしたというのが自分の中で納得になって来ました。
女性って表向きは夫社会だけれど心情的には実家を大切にするので。
妹尾家は時子さんには頼りにしてるお家だったんだろうな、と。
わたくしが考えてる以上に深い関係にあったんだろうな、と。
[42]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月31日 03時04分42秒 ) パスワード
  

それから妹尾兼康の兼という字はどなたから拝領したのかな?と。
どんどん連想が膨らんでいきます。
[43]烏夜啼さんからのコメント(2004年01月31日 03時41分19秒 ) パスワード
  

「兼」、ですか。
堂上平氏から「兼」の字を持つ人を探すと・・・
やっぱり信基の身内になっちゃいますね。
信基の兄弟の信国には従三位時兼という人がいます。つまり信基の甥ですね。
実はこの時兼は時忠の養子だったんですよ!
時兼の子孫は代々「兼」の字を使ってます。
時兼の子は従三位兼親、その子従二位高兼……
[44]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月31日 07時37分30秒 ) パスワード
  

>実はこの時兼は時忠の養子だったんですよ!

ひゃあ〜
では時忠卿の御養子どのの後見人(乳母夫)だったのか?などと連想してしまいました。

妹尾家と時忠卿というのはかなりの関係にあったかもですね。
やっぱり時子さんは妹尾家を頼りにしてたのかしら?


ますます・・・・



烏夜啼さま、重ね重ね、ありがとうございます。
[45]烏夜啼さんからのコメント(2004年01月31日 08時30分30秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさま

いえいえ、とんでもございません。

私自身、「烏」という字が気になってのことですから。
私も烏ですしね(笑)



[46]烏夜啼さんからのコメント(2004年01月31日 08時47分27秒 ) パスワード
  

そういや、山木兼隆って、伊豆の人ですよね。

伊豆の知行国主は時忠で、国守は時兼だったけど・・・

たまたま「兼」が一緒なだけなんですよね???
[47]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月31日 11時23分05秒 ) パスワード
  

山木兼隆は平信兼の息子で伊豆に行ってました。

平信兼は平家滅びし後に藤原忠清・平田家継と一緒に滋賀や伊賀で佐々木秀義と戦っています。
[48]妹尾 久義さんからのコメント(2004年02月01日 16時49分40秒 ) パスワード
  


皆様へ
 
深いご考察ありがとうございます。

 やはり平家(中央の)の複雑な人間模様の内に存在していたようですね。
人間模様が解けそうないい公式はないでしょうね、弁図・線分図で・・・・数学・・・学生に戻ったようで・・・・(@_@)ですね。

ギャンブラー様
「平の時忠の若い頃はかなりの乱暴者だった。」は「殿下の乗合い」の事件のことでしたでしょうか。

☆ 少し文章に足らない部分が有りましたので、資料の部分を補足しました。
     有時入道殿之御前尓群臣並居テ
     御物語有之而兼康常遠被近召             
       〜 途中略 〜
     即妹尾難波二人ヲ車輪之兄弟ト名附テ先年
     従鳥羽院所給之兩劔ヲ両人ニ下給               

 『「兼康・常遠車輪の兄弟」の常遠は「経遠」で【難波二郎経遠】のことのようです。
難波家にも「烏丸写し」か「木枯丸写し」が相伝か伝承とかされているかも知れませんね。
 経遠家や経房家にも同様の相伝があれば、もっとワクワクのロマン感じるのですが・・。
[49]妹尾 久義さんからのコメント(2004年02月01日 16時54分11秒 ) パスワード
  


「吉野口遺跡を発掘調査」の新聞切り抜き紹介

・岡山市吉備津の宮内に在る鯉山小学校(妹尾兼康の宝篋印塔の隣接地)
平成8年8月11日(日)の「山陽新聞」にカラー刷りで大きく掲載されました。

 岡山市教育委員会は平成3年8月から4年にかけて給食調理施設建設に先立って発掘調査がなされました。
 刃傷や殴打され、鋭利な刃物で頚椎から切り落とされたと思われる頭蓋骨が出土しました。
 頭骨は、東西約10メートル、南北1.5メートル、深さ0.6メートルの穴の中に、顔を北に向けて横たえられていた。

 鑑定の結果、骨は40〜70歳の男性ものと推定の結果がでました。

 千百個の鎮魂祭祀の素焼きの土器の出土から埋葬時期は12世紀の後半と判りました。

兼康の宝篋印塔と云われる墓碑は、明治期に鯉山小学校の敷地を拡張した時に移されたと云われ、この頭蓋骨は太郎兼康のものに間違いないであろうと言うことになっています。

・ 教授 上横手雅敬氏のコメント抜粋「兼康だと考えることに大きな支障はない。全国的にも武将の首塚の発掘例は珍しく、大変興味深い資料だ。」

 

 分厚い発掘報告書も出されて居ますが、系次の後先などには触れていませんですね。やはり、お役所はプライベート部分には触れないようです。言葉尻も慎重で、「〜であろう。〜可能性は非常に高い。〜らしい。」ですね。
[50]小林雅成さんからのコメント(2004年02月01日 19時28分53秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様へ

>古代中国史に出て来る時のイテキ辺りの認識です。
それぐらいでいいとおもいます。ただ、過去存在した国の人々が国の滅亡とともに大量虐殺されて根絶やしになっているのではなく、しぶとく生き残って、あるものは、シルクロードを西へ、あるものは東へいって朝鮮半島、はたまた海を渡って日本列島に来ていてもおかしくないのです。で、それら中国東北部に興亡くりかえした末裔の習俗が日本人っぽい。はるか後1900年代前半に、日本はその中国東北部に満州国というユートピアを作ろうとした、あたかも、渡り鳥が越冬してもとの住処に戻るがごとく。

>「烏帽子」なんて言葉
そういえば、武家も公家もこれかぶりますよね。

>古代日本の男子は冠が脱げるのが実に恥ずかしいこと
また、秦に話題が飛びますが(笑)、ご存知かどうかは、?ですが、かんむりというのは、秦氏族の中で通用していた大昔の姓(かばね)のようなものであるようです。他の氏族は《冠》という姓は使用していないと太田亮博士は論述されています。秦宿禰などと同じように秦冠という書き方していたようです。

う〜ん、烏夜啼さんって意味深なハンドルネームですね。ご自分で案出された?秦熱オカルトか?(^^;;)
小生のネームの雅成の雅は小林家代々の通字で、つくりは《ふるとり》。
じつは、小生のいる大阪には、鳳(おおとり)、鴻池(こうのいけ:鴻もおおとりとも訓むそうです)、正雀(しょうじゃく)、鴫野(しぎの)などぞろぞろ地名が残っています。リクルートの会長だった江副浩正さんの回想録がこのたび出ましたが、カモメが表紙、あそこって社章がカモメなのよね(^^)
[51]烏夜啼さんからのコメント(2004年02月01日 23時27分05秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様

ありがとうございました。
平信兼の詳しいスレを拝読して勉強させて頂きました。

伊豆と「兼」という字につい惑わされてしまいました・・・・・・
[52]烏夜啼さんからのコメント(2004年02月01日 23時57分01秒 ) パスワード
  

小林雅成様

いや〜、私の「烏夜啼」ってのは、特に意味はないんですよ。
絃楽器オタの私は、単純に、気に入った曲の題名をハンドルネームに使わせて頂いているだけなんです(笑)

古琴(琴の琴、七絃琴)という楽器の重要レパートリーに『烏夜啼』という曲があるのです。

劉宋時代の王族・劉義慶が無実の罪で捕らえられました。ある夜、夫人が、烏が啼いているのを聞いて、何故か夫君は帰ってくると確信しました。すると翌日、義慶は釈放されて、彼女のもとに戻ってきたのです。夫人からこの話を聞いた義慶は、後漢時代〜三国時代の頃より江南地方で歌われている民謡の旋律を用いて、『烏夜啼』という曲を作ったのだ、と言われています。

この曲の前半が、いかにも夜らしい魅力的な旋律で、もう、一度聴いただけで、すっかり虜になってしまいました。バカですねーーー。

ある中国のドラマじゃ、二枚目が絶世の美女にこの曲を弾いて(笑顔を振り撒きながら)あげるシーンがあって、爆笑ものでしたよ。



私個人としては、シューベルトの『冬の旅』の中の《烏》という曲を、ちょっと前は《鵺》と和訳していたこともあったらしい、ということが気になります。
そんな、頼政じゃあるまいし・・・
[53]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月02日 03時54分07秒 ) パスワード
  

ウイルス怖いでマシンを離れている間にたくさんの書き込みがあって感激しています。


まず妹尾さま

>「平の時忠の若い頃はかなりの乱暴者だった。」は「殿下の乗合い」の事件のことでしたでしょうか。
これは資盛が子供の時の事件ですがお供に妹尾家がついてたかどうかは記憶にないです。


時忠卿は吉川英治の「新・平家」では初めヤクザっぽい義弟のように印象を受け
ネットで読んでた時に(やっぱり乱暴者だったのね)というのがありました。

政治的には2条天皇を引退させようとして事件を起こしたんでしたか?なかなかの策士だったようですね。

一癖も二癖もあった人、ですね。
自分の甥が高倉天皇だし、姪の子供が安徳天皇だから、平安の世なら、当然自分が摂政関白になる立場ですものね。
性格も荒いし。


この人を題材に小説を書いたら面白いと思います。
ナンバー2の立場でナンバー1の清盛を操ってた、って。
[54]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月02日 04時04分36秒 ) パスワード
  

>有時入道殿之御前尓群臣並居テ
>御物語有之而兼康常遠被近召             
   〜 途中略 〜
>即妹尾難波二人ヲ車輪之兄弟ト名附テ先年
>従鳥羽院所給之兩劔ヲ両人ニ下給    


妹尾家、難波家、面目躍如の記事ですね。
この記事1つで子孫はつらい世の中を生き抜いて
南北朝の戦いにもお召しがかかって加わったのでしょうね。 


妹尾家と難波家は当然親しい関係にあったと思いますが
思ってたよりずっと近いようですね。

難波家にも太刀のお話が伝わっているのでしょうかねえ。

難波家の皆さんの目に触れ易いようにタイトルをちょっと変更しますね。    
[55]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月02日 04時34分06秒 ) パスワード
  

>岡山市吉備津の宮内に在る鯉山小学校(妹尾兼康の宝篋印塔の隣接地)

吉備線?で吉備津には何度も行きました。備中高松とか服部というところにも。
鳴釜の吉備津神社(国宝)とお隣の吉備津彦神社(重文)の違い、お気の毒でした。
吉備津彦神社の方は祀ってある神さま?のお1人?が私の母方の先祖・人皇7代孝霊天皇でした。
それで洗濯室にお札をかざってありますが

何度も行った吉備津に妹尾兼康公の宝篋印塔のあることは全く知りませんでした。


昔まだ学生だった時に親友のボーイフレンドが妹尾さんとおっしゃって
なんか特別な感じを持ちました。
なるほど母方父方両方で何重にも御縁のある妹尾さんだったのだなあと日本人であることを感じ入ってます。


日本人ってちょっと話し込むと先祖同士が知り合いだったと分かりますがホント言い得て妙です。
ふふふ
それで何度も何度も吉備線に乗ったのだなあ、と。
[56]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月02日 04時49分25秒 ) パスワード
  

小林雅成さま

リクルートの河野なんとかという女性はワタクシの母の顔にそっくりです。
大阪の人で河野氏でという共通点からひょっとすると母のまた従姉妹関係にあるんじゃないかと。
同じ顔してます。
(ただし母の姉は八千草薫にそっくりですが)

鴻池の親戚の山中さんとはロスにいた時に親しくなり三和銀行の出来たいきさつなんか教えてもらいました。
もともとは鴻池と徳川家の関係ですけど。
しっかり聞いておけば良かった。
[57]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月02日 05時28分13秒 ) パスワード
  

ネットサーフィンしてたら妹尾兼康の父は平兼門というのも見ました。
平貞季流で
高梁川中流に湛井堰,加陽・窪屋・都宇に12郷開発。


     寿永2年1183年の倶利伽羅峠の戦いの後、
     6月1日の木曾義仲 vs 平維盛の篠原合戦で加賀国の住人・倉光成澄に生け捕られ
     木曾殿に命を助けられ
     倉光成澄の弟の倉光三郎成氏旗下に預けられる。
     閏10月、故郷備中で嫡男宗康(20歳)と倉光成氏を殺害逃亡。
     反源氏挙兵し倉光成澄を討取るも討死(兼康この時の年齢60に余って)

     このお話は「瀬尾最期の事」に詳しいです。


ということは平清盛や藤原忠清・平信兼・平田家継などと同世代なんでしょうね。
父親の辺りから既に平家と繋がりがあったのかな?と。
[58]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月02日 07時35分06秒 ) パスワード
  

>嫡男宗康

この嫡男は小太郎宗康(20歳)ということですから瀬尾兼康40代の時の子になりますね。
小太郎宗康の「宗」は平宗盛から頂いたのかも。


この人は小太郎ですから
本来は「太郎」と名付けられた腹違い?の兄がいたのか?


それとも
父親を瀬尾の太郎と書いてるから、その子供だから「小太郎」なのか?
子はこの子しかいないとも書いてありますからたった1人の男子なのか?
兄達は倶利伽羅峠で討ち死にしてるからなのか?


当時の有力者の子供が男子は1人だけというのは絶対に信じられないです。
多分倶利伽羅峠の戦いで子供達がみんな死んでしまったから
備中の息子は太り過ぎでとても戦えないから殺したのでしょうね。
[59]妹尾 久義さんからのコメント(2004年02月02日 18時46分42秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年02月02日 22時17分11秒
[60]妹尾 久義さんからのコメント(2004年02月02日 22時52分01秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

[59]に少し私見すぎた所が有りましたの、作り直しました。

 帰宅して、今開いています。私・・平熱に罹ったかも・・・。我が子はインフル熱で真っ最中^^;す。

 [58]のご考察に脱帽・・・!!です。

>兄達は倶利伽羅峠で討ち死にしてるからなのか?

 ・ いろいろな文献や家系図では全部「小太郎宗康」から系次を引き継いでいます (^_^;) ね。

 ・おそらく、平家物語や源平盛衰記が色濃く反映しているものと考えています。時代の変動や浮き沈みで古いことの伝承が不確かなものに成った為なのではと想像しています。

 
* 今のところ、当方から出た物の写し資料には平家物語と異なる部分が少なからず有ります。その一番が「小太郎宗康」の死亡場所です。なんと、ギャンブラー様の推察通りです。死亡場所はズバリ「北國」と成っています。このような内容の事柄には、まだお目にかかって居りません。ひょっとしたら本邦初公開かも知れませんね。

* 世上に知られた主流ではないものですが、いかがなものでしょうか。

§ 物語の「瀬尾最期の事」には「兼康父子の」梟首とは書かれて無かった様な気がしましたが・・・(うる覚えで、すみません)。さらに、発掘された頭骨は兼康に該当するものだけですから「宗康」の板倉川辺で討死にはやや疑問がつきますね。




[61]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月03日 07時03分37秒 ) パスワード
  

妹尾 久義さま

>[59]に少し私見すぎた所が有りましたの、作り直しました。
構いませんのよ。
イマジネーションというのはナカナカ大切なんです。

私がイマジネーションで書いたのを烏夜啼さんがフォローしてくださったり
そういう凄い情報が得られるかも、ですから。
3人寄れば文殊の知恵と申しますから。


>今のところ、当方から出た物の写し資料には平家物語と異なる部分が少なからず有ります。

平家物語は語り物・読み物ですから
平家物語の記述の方が世間に迎合してるんですから
御安心を。


わたくしの母方の系図が世間に出回ってるのと漢字が違ってたのでウチのが間違ってると思っていたのですが
北朝系は○の漢字を使用し南朝系は◎の漢字を使用する、
という貴重な資料を頂いた経験があります。

ですから「今のところ、当方から出た物の写し資料には平家物語と異なる部分が少なからず有ります」
というのは構わないのです。
それよりも妹尾 久義さま系は「こうなんだ」と胸を張ってください。
その内に妹尾 久義さま系の正当性や合理性が証明されるかも知れませんから。


>我が子はインフル熱で真っ最中^^;す。

お大事に!

子供さんはやっぱり「兼」の字とか「宗」の字を通字になさるのが宜しいかと思います。
すぐに(ああ、あそこの家か)と分かりますから。


私の昔の知人に小林姓で「雅」の字をお使いの人がいらっしゃいますが
小林雅成氏と同系統かも知れないですね。
[62]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月04日 03時20分40秒 ) パスワード
  

別スレッド「原田氏の家紋」から:


>丸に揚げ羽蝶は公家平氏も使っていて、
>日本紋章学の蝶紋の説明をみると
>「雲上明覧」に蝶紋をつかった公家平氏に西洞院、平松、長谷、交野、石井の家があり、
>西洞院、平松、石井が丸に揚げ羽蝶を使っていると書いてありました。


ますます平家系平時忠卿とおいとこさんの家系の関係が臭ってきます。
なにせ時忠卿は「平家にあらずんば人に非ず」なんて豪語してますものね。


普通は政権が引っ繰り返って反対派が権力を握ったら前の派閥のモノは姿を消すと思いますが
それにも拘らず使っていて下さったのでしょうか?
なかなか根性のあるお公家さんだったなあ、と。(嬉)
[63]小林雅成さんからのコメント(2004年02月04日 04時14分52秒 ) パスワード
  

烏夜啼様

からすは、夜、ミカドについて口ずさむという意味深なハンドルネームですよ。

>古琴という楽器の重要レパートリーに『烏夜啼』
感動するということは、その裏になにかあるんですよ。私はそうおもいまっせ。

>三国時代の頃より江南地方
いわゆる揚子江の南部ですから、呉の国ですよね。呉服といえば、服部といえば、ギャンブラーさんに繋がるじゃあ〜りませんか(^^)

>シューベルトの『冬の旅』の中の《烏》
これは、ドイツ語の原文にあたってみないとわかりません。もっともイッヒ・アルバイテンぐらいしかわからん私には無理やけど(笑)

[64]小林雅成さんからのコメント(2004年02月04日 04時33分32秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様、私と同時刻にアクセスされてますね、こっちは真夜中(爆笑)

>リクルートの河野なんとかという女性はワタクシの母の顔にそっくりです。
河野栄子氏ですよね。関係無いけど、マージャン好きみたいですね。実は私の高校、大学時代の後輩が同姓同名です。《栄》というのも複数の氏族では重要な意味の漢字のようです。初めて小生が男女交際(古い(^^;)した相手が河野さんでした、結婚されてもうお子さんは高校生ぐらいかな?

>三和銀行の出来たいきさつ
旧三和銀行のマークは紋章学分類からすると中陰片喰のようですね。片喰紋は大阪ナンバーワンの多さやから、つけたんだろうケド。今はUFJ銀行で、UFOみたいなマークでっせ(^^;;)

[65]小林雅成さんからのコメント(2004年02月04日 04時47分52秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

平熱から秦熱になってしまいますが、、。

>私の昔の知人に小林姓で「雅」の字
いらっしゃるなら、お会いしたいですね。ちなみに小生のご先祖さまの小林雅徐の《徐》は紀元前に秦の始皇帝の命を受け不老長寿の薬?を探しに東シナ海に漕ぎ出して日本にたどりついたという「徐福伝説」の《徐》を使っています。当然、ご先祖様ははるかな昔のことを意識していたのでしょう?、ホンマかいな?

徐氏は中国のルーツ辞典を読めばおわかりになりますが、始皇帝と同じ秦の王族です。つまり始皇帝は一族のものに薬探検を指示されたんですね。
[67]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月04日 07時11分07秒 ) パスワード
  

>シューベルトの『冬の旅』の中の《烏》

これは「不吉な烏」ですね。
死肉をつつく烏。
これがしきりとつきまとう、という内容だったか。


ポーの詩の「レイブン」も不吉な大烏のイメージですね。


ヨーロッパは烏は不吉な鳥なのかも。
日本はいつから不吉な鳥になったのか、こういうのが分かるといいですね。
[68]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月04日 07時41分03秒 ) パスワード
  

>徐氏は中国のルーツ辞典を読めばおわかりになりますが、始皇帝と同じ秦の王族です。
>つまり始皇帝は一族のものに薬探検を指示されたんですね。

徐さん(チーさんと発音してました)
私の上司で随分可愛がって頂きました。
血の引っ張り合いというのはやっぱりあるのでしょうかねえ。ちょっと不思議に思いました。
始皇帝の死の前210年からもう2200年も経っているのに。


母の大阪の従妹がやっぱり河野栄子です。
で、この人の顔が母にそっくり。母の従姉から写真を見せて頂いた時、母が写っているんだと思いました。
リクルートの河野栄子さんがテレビに出てるのを見た時、母の従妹が出てるのかと思いましたけど
まさか母の従妹じゃないと思いますけどね。



この河野栄子の姉(母の従姉)の夫は甲賀出身で我が家の服部家と同じ紋なんですよ。
ですからそういう方程式みたいなのが人の世には存在するのかしら?と思ったりします。

私が結婚した人はアメリカ人なわけですが
結婚してから「自分は昔、蟹だった」なんて言い出して
厳島神社に行きたがったり赤間神宮に行きたいと言ったり。
私が母方の先祖を身近に考えたり平家に興味を持ったのは結婚してからですから。

不思議ですね。
[69]烏夜啼さんからのコメント(2004年02月04日 20時55分43秒 ) パスワード
  

シューベルトの『冬の旅』;“Winterreise”

《烏》だの《鵺》だのいうのは‘Die
Krähe’ですね・・・・・・

烏なんだか鵺なんだかよく分かりませんが・・・
まあ、死にたいと思っている人の後をずっとついて来ているトリなので、死を連想させるトリなんでしょうね。

小林さま
そんなに烏夜啼という言葉の意味をよく考えたことはありませんでしたが、古琴曲『烏夜啼』は、烏が夜、帝の間違いを義慶の夫人に告げたっていうことですかね。劉義慶は無実だったのに捕らえられてしまったわけですからね。
そっか、呉の国はギャンブラーさまと繋がってますねーーー
うーーん、なにか感じてしまいますね。

ウチは平家とも秦氏とも関係ないと思うんですが・・・
呉人か??


[70]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月05日 02時32分38秒 ) パスワード
  

別スレッド「原田家の家紋」から転載します:


烏夜啼さんのコメント:

(『平家物語』で信基を時忠の子息と誤記しているところに何か特別な意図があるように感じてしまいます。)


わたくしからのレス:

>(『平家物語』で信基を時忠の子息と誤記しているところに何か特別な意図があるように感じてしまいます。)

>>『平家物語』で信基を時忠の子息と
そうなんですか?
気がつきませんでした。


>>何か特別な意図があるように感じてしまいます。
昔はゆうし(融子?)でしたか
義親子の契りとかやってましたから(義兄弟はもっと多いですよね)
やっぱり信基と時忠が義親子ごっこをやったというのはアリかもですね。

信基にすれば時忠卿の子になっておけばいよいよ天皇家に近くなって「得」ですから。


いやあ〜
いよいよ妹尾家との関係が浮かんできます。
[71]小林雅成さんからのコメント(2004年02月06日 21時19分25秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

徐さんがギャンブラー様の上司だったんですね。河野は中国系で、越出身ではないか?という書き込みを読んだ事があります。徐氏の拠点は私の記憶が正しければ、山東半島の付け根です。

>血の引っ張り合いというのはやっぱりあるのでしょうかねえ。
有ると思います。私の学生時代は、留学生も中国、台湾やマレーシアの華僑と仲が良かったです。

人生の節目に前の妻にそっくりな女性に街で遭遇します。絶対なんかあります(^^)前妻の系図には、親族で秦家がありました。

昔ぴ〜んとくるものがあって付き合った女性は今思うと、秦氏族だったとおもいます。

私事ですが、引越しと東京出張のため書き込みできません、よろしく!
[72]小林雅成さんからのコメント(2004年02月06日 21時28分43秒 ) パスワード
  

烏夜啼様

>烏が夜、帝の間違いを義慶の夫人に告げたっていうことですかね。
だとおもいますよ。

>うーーん、なにか感じてしまいますね。
でしょ!、でしょ!

>ウチは平家とも秦氏とも関係ないと思うんですが・・・呉人か??
内緒で、名字と家紋を教えてくれますか?私ならわかるかも。
[73]烏夜啼さんからのコメント(2004年02月14日 20時22分02秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年02月15日 01時10分33秒
[74]烏夜啼さんからのコメント(2004年02月14日 20時33分32秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年02月15日 01時11分12秒
[75]烏夜啼さんからのコメント(2004年02月15日 01時13分04秒 ) パスワード
  

申し訳ございません。

上記、あまりにも逸脱した内容の為、削除致しました。
[76]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月15日 05時12分57秒 ) パスワード
  

烏夜啼さん


構わないですよ。

ブレイン・ストーミングのように
いろいろな「とんでもない」思いつきからこそ
素晴らしいアイデアが生まれて来るのですから。

枠にはまった、とか
歴史学者に認められた範囲、とかだったらこの世の中はつまらないです。
[77]吉備団子さんからのコメント(2004年02月19日 22時23分58秒 ) パスワード
  

はじめまして。いろいろと興味深い情報を拝見しました。

実は私は母方が妹尾姓(瀬尾)で、一昨年春に、一度、偶然、岡山市吉備津にある鯉山小学校横の妹尾太郎兼康公の御陵墓にも参拝していたので、とても興味ふかくここの掲示板の意見をだいたい拝見しました。

ただ、結論としては、岡山県英田郡作東町の若宮神宮から出たと言われる鏡は、本物のヤタの鏡という結論にはなったのでしょうか?ならなかったのでしょうか?

今週末に一度訪ねて見ますので、当地の概略的な住所をどなたかお教え頂ければ幸いです。よろしく御願い致します。

兼康公は治水事業等の偉業をたたえしのび神社にも祀られています。通称妹尾神社、正式名称は、井神社、という名前だったと思います。総社市の高梁川東岸の高台にあり、対岸は総社市秦というところです、(私の祖母の出生地です)妹尾氏は平家の有力家臣、兼康公に至っては侍大将だったということは、広く知られていましたが、改めて、平家=秦氏というのは充分、ありえる話だと思いました。

妹尾氏はこの吉備では一番というぼとの古くからの豪族です。井神社の位置と秦という集落との位置から、何か感じてしまいました。

なお、私の母方の妹尾は六代前までの墓が、総社から僅かに西に行った、吉備郡真備町のヤタという地名のところにあります。ここのヤタという字は、竹かんむりに前という字にたんぼの田、と書いてヤタです。当然、この辺り、この集落は妹尾姓だらけです。ヤタの鏡とは関係ないとは思いますが、ただ、ここには吉備下道臣という古い時代の役人の公館があつたり、奈良時代の唐への留学・遣唐使・吉備真備公の出生地だったり、また大塚古墳という墓があり、一説には、桃太郎のモデルになった吉備津彦兄弟の弟が埋葬された陵墓だという話もあるそうです。


話がそれましたが、ヤタの鏡が本物かどうかはともかく、出土した鏡は現在、山口県の赤間神宮に奉納されているとのことですが、それでは、実際に伊勢神宮にはヤタの鏡はあったのでしょうか?森有礼文部大臣や矢野祐太郎海軍大佐が戦前、見たら古代オリエント文字が書いてあった、とかいういわくつきの鏡だそうですが、ここでの皆様の感想・所見は、結局、どうなったのでしょうか?
[78]ときおさんからのコメント(2004年02月20日 01時41分02秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様
烏 夜 啼 様

 このスレッドに帰ってきました。このハンドル名が気に入ってしまい使わせていただきます。

 実は先週、私も出張が有りまして出かけてきました。彦島行きバス停の近くに宿泊しました。北九州に行きましたが、帰りに私事でこっそり「赤間神宮に」立ち寄りました。
仕事場の上司には内緒で〜〜す ^^; ・・・。七盛塚まではいけませんでしたが、宮司様にはお目通りがかないました。まさかお会いできるとは考えもしなかったので、上がりまくりの私でした。
 今の水野宮司様はいきなり、「あんたも土居の○○さんか・・・」でした。むむ・・・「ち、ち、ちがいます。」・・・てな言い訳してしまいましたが、繋がりが昔に有ったようですと説明しましたら、なるほどお宅は四国の「菊池一族みたいだな」とおっしゃっておられました。時は経っていても ・・・八咫鏡・・・おそるべし・・・騒動の記憶は生きて居る・・・です・・。

 鏡の奉鎮した当のご本人である春名さんは、事件のほとぼりが冷めてから地元に帰られたそうです。
 鏡のことで、時々見せてくれと言ってくるのがいるけど「当神宮の御神鏡と同格のものです。」と水野宮司様のお言葉でした。ですので、見せてはいないとのことでした。・・・当然といえば当然です・・・。

 もっとも私の目的は「太刀」のことでしたから、そちらの方に話をもっていきました。
「平教経の太刀 伝備前友成作」は切っ先が両刃作りの太刀だそうです。空襲で焼けてしまったので、研ぎ直しをしているとのことでした。どうも「烏丸」とか「小烏丸」の名前ではなさそうな雰囲気でした。たまたま、「備前友成作」が一緒だったのかも・・・でも平家がらみですよね。ギャンブラー様。
 「銘」は分かっていても「名」は伝承されて居ないようすでした。

 また、私どもの先祖と「千種忠顕卿(後醍醐天皇側近)」の下り(元弘3年)をはなしましたら、千種がらみで「越中二郎」の話に繋がり、壇ノ浦からの後のお話(兵庫県の農家に潜んでいた)をお聞きしました。(たしか随分前の歴史読本か何かで、この水野宮司さんが書かれたのを読んだ記憶が有りましたような気がします。)

 とりあえず、ご報告まで・・。
[79]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月20日 04時44分24秒 ) パスワード
  

吉備団子さん
ときおさん

面白いお話が沢山出て来ましたね。

「箭」弓矢の関係なので平家だとすぐ思いましたが八咫の安徳天皇関係でしたか。
何重にも秘密を隠しているんですねえ。


>私どもの先祖と「千種忠顕卿(後醍醐天皇側近)」の下り

南朝方ですね。
平家ですとやっぱり南朝方なんですね。
平家で北朝方だと肩身が狭いでしょうね。


>「越中二郎」

確かに壇ノ浦から脱出して頼朝暗殺を企んでましたね。
逃げたところは兵庫の農家だったんですか。


ロマンがいっぱいでワクワクしますね。
[80]ときおさんからのコメント(2004年02月21日 01時02分22秒 ) パスワード
  

みな様へ


美作土居の「八咫之鏡発掘記念碑」について

 赤間神宮の水野宮司様も寄附を要請されて、寄附をされたとのこともお聞きして、額入りの写真も拝見していました。

 この鏡については、今の土居妹尾の関係各家では「南朝説」で主張されているようですので、他の人・はたの人(秦の人????)が祭り上げてる・・・と言う状態ではないでしょうか???。


「八咫尺之鏡発掘記念碑を移転したとの情報を得ました。」

・『下記のHPに有ります』
         
「八咫尺之鏡発掘記念碑移転」           http://www.town.sakuto.okayama.jp/yakuba/pdf/1505/p10.pdf
           「広報さくとう2003(H15).5月号 10」



・『下記のHPの「御鏡騒動記・・・・・・吉政 実夫」』にも面白い話が出ています。
 このスレッドの立ち上げ者の川口様の記述と同じ部分もありますが・・・。



http://bunka.boo.jp/bunka/bunkasi29.htm
作 東 の 文 化 第29号 平成15年10月15日発行
編   集 作東町文化協会

「下記の様に、かなりの魑魅魍魎の世界が見えますよ・・・ちょっと怖いロマンかも?。」

「古く黒くすすけた木箱が有ったそうで何か書いてないか調べて居たところ県警の鑑識課の紹介を得て調べたところ、 安徳天皇御衣と書いてあり・・・云々」

「お鏡の発掘の聖地天皇谷は国道一七九号線の万の峠の 頂上より三百メートル南にあり現在の国道は大正時代初期に開通して開けた所で当時は夜は追いはぎがでるし、 大蛇も出没するし、狐の踊り場と言う伝説もあり、・・・・・・・明治以前の天皇谷は人々は恐れおののいて 立ち入り近づかなかった所の様です、大蛇は平成五年頃に死んでおり実在のものであったようです。年代不明ですが、 出合池の頭に蛇塚が築かれ大蛇退散の加持祈祷が行われた跡地もあります。」

*「作東町土居 八咫鏡」の検索でも出て来ると思います。

[81]吉備団子さんからのコメント(2004年02月21日 20時32分09秒 ) パスワード
  

陽気の良さに誘われて、本日、早速、岡山県英田郡作東町の土居地区にある、八咫鏡の出土地に行ってきました。

当地は、ここ一年も経たない最近に綺麗に整備され、碑が建立され、由来の看板まで建っていました。二つある碑のうち、右側は、八咫鏡発祥之地と書かれ、
http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kyoiku/shidoka/hurusato/www97/b4_aka09.htm とほぼ同じ文面。ベンチまで二つ設けられ、さながら公園の様相。ただ、もともと山を切り開いて宅地に造成したため、隣には民家が建ち、妙な違和感がありました。

ブラブラしていると、ほどなく真ん前を一台の車が通過。話を伺うことができました。この地区は妹尾姓と春名姓が多く、その方も春名姓の方でした。

もともと春名義雄さんが鏡を掘り当てた経緯は、この家に代々伝わる南朝からの古文書の記述を裏付けたもので出るべくしてでたいわくつきのものらしく、ここの掲示板の上にも紹介されているように他にも安徳帝ゆかりの品が継承されていたことからしても、それなりに信憑性はある、と地区の人も多かれ少なかれ思っているとのこと。

ただ、当の本人の春名さんが掘り当てた後に、町内で皇大神宮まで建立して祀る話が具体化していたにもかかわらず、お金に目がくらんだのか(当地の人は皆そう思っている)、赤間神宮に奉納してしまい、以後は、ご存知のとおり、長い裁判の末、結局、勝てず、という経緯に終わり、かなり冷めてしまっている感じでした。(そのくせ<この土地はここ一年以内に整備され、公園のようになったとかいう話ですが、碑の建立や整備にかかる費用捻出の筆頭寄付者はほかでもない下関の赤間神宮になっています。町を挙げてのもくろみが崩れ去り、当地では随分とひっそりと祀られている印象でした。一方の赤間神宮も、全国的には、公にほとんど知られていず、誰も作東で出土した八咫鏡がそういう経緯を経て、赤間神宮に納まった、ということを知る人もほとんどいないのでは、という感じ。

それよりも、自分は、この鏡は多かれ少なかれ、平家の侍大将・妹尾太郎兼康公に直接的なつながりがあるとは思いますが、偶然、私の先祖の妹尾は岡山県中南部の吉備郡真備町ヤタというところの出ですが、(付近は妹尾姓ばかりです)、この地は開発が前回話したように古く、桃太郎のモデルの吉備津彦兄弟にまで関係している地なので、妹尾太郎兼康公と何らかのつながりがあるから、そういう地名が後世に付いたのでは、という気がしています。

なお、妹尾太郎兼康公の当地の治水事業の業績をたたえて祀る神社・井神社は岡山県総社市井尻野の高梁川沿いの丘の上にあります。

また、妹尾太郎兼康公の御陵は立派な供養塔とともに岡山市吉備津の鯉山小学校の校門隣にきれいに整備されてあります。数年前に、埋葬されている人間の人骨が鑑定され、ほぼ時代と年齢からして、兼康公に間違いない、と言われています。http://homepage2.nifty.com/mike1203taiyo/horoki5/horoki6.html

ところで吉備津という地名のとおり、ここは吉備津神社のすぐ近く。目と鼻の先です。また鯉山、というのは実はこの吉備津神社と吉備津彦神社のある吉備の中山という霊山の別称です。(鯉に形が似ているからです)

兼康公が当地に埋葬されていた、というのは特別な意味は別にないんでしょうか?


[82]吉備団子さんからのコメント(2004年02月21日 21時40分59秒 ) パスワード
  

ときおさんの紹介部分。なかなかうまく開かないので、コピペしておきます。

なお、本日、上のカキコで書いたように、私が偶然、碑のある公園前を通りがかりをつかまえてお話した春名さんという地元の人から、国道179号をそのまま西に戻り、途中左手側の『ENEOS』のガソリンスタンドの主人が、この鏡騒動に直接大きく関わった家で詳しい、と伺いかえりに立ち寄りました。実はそこが吉政さんというお家で、厳密には、その方のお兄さんが、下記の文を書いた方では、と思います。もう八十を超えた高齢の方です。


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御鏡騒動記・・・・・・吉政 実夫

 八咫の鏡を発掘された春名義雄さんは蓮華寺村の生まれで、少年時代から勉強家で国鉄に入り因実線の加茂駅長を最後に昭和三十年頃に退職され、土居の町に住み郷土史の研究に没頭されて居られた。加茂の妹尾家の古文書により万の峠の天皇谷の八咫の鏡が隠し祭られていることを知られ、昭和三十三年七月十三日友人三人とともに発掘されました。
 この鏡の処置について同年九月頃に土居で祭ってほしいとの相談があり、宮司沖田年雄先生、 区長岩崎茂氏に相談したところ区員、宮総代、有志多数、役場の二階に集まり土居で祭ろうということに 満場一致で決まりました。事務所は岩崎区長宅に看板をあげ、名称は美作皇大神宮と決まり、 その後上田町長も出席されて町民大会も開かれ、着々と準備が整って行きました。ところが、 どうした心変わりか春名さんは鏡を山口市の赤間神宮に奉納すべく新聞社や役所回りをしているとの情報が入り、 土居の連中はびっくり仰天、岩崎区長外有志七名、上田町長にも協力して頂き岡山へ急行いたしました (当時春名さんは岡山の親戚におられました)。ところが少しの手違いで本人を捕まえることが出来ず騒動は 山口の方へと移っていきます。
 神宮のほうでは奉還式をすべく準備をしていたところでしたが、取り延べとなり談判すること十時間、 その結果お鏡は赤間神宮に仮安置となり岡山と山口両県知事の調停に任すということに決まり誓約書が取り 交わされひとまず散会となりました。
 その後鏡の所有権をめぐって裁判となり土居地区としても弁護士を立てて裁判に加わり私も数回津山の 裁判所に傍聴に行きましたが、弁護士の事務的なやり取りと裁判長の次回とすると言う程度の進展でらちがあかず、 その後十四年に及ぶ長期裁判で有志の方も次々と亡くなられ費用の面でも耐えられず裁判を放棄せざるを 得ぬこととなりました。これ程の宝物を掘り出しながら考えれば考えるほど残念無念、やるかたなしの 土居地区民の嘆きは今も消えることは有りません。この度、有志により史跡保存会が出来、私も世話役の 一人に加えさせてもらい当時の事をしる者として思い出を書いてみました。
 八咫の鏡は日本国の象徴であり皇大神宮に祭られており、歴代天皇の御物として三種の神器の一つです。 衡鏡は千年以上皇位継承の宝物として皇居に神殿を造りお祭りしてあります。史書によれば皇居が二回火災が ありお鏡も焼損して居ります。この度御鏡は壇ノ浦で崩御された安徳天皇の御物の中から、妹尾氏によって 運ばれたとの説と、南朝の植月御所から土居の妹尾氏によって運ばれたとの説があります。私の聴いていることで 今は亡き妹尾居郷さんのお父さんに与喜治さんという人があり、妹尾さん方には永年、家宝じゃと言い伝えられた 古く黒くすすけた木箱が有ったそうで何か書いてないか調べて居たところ県警の鑑識課の紹介を得て調べたところ、 安徳天皇御衣と書いてあり与喜治さんはこんな大切な物を家に置いていてはならんと老体なので家族の付き添いで 赤間神宮にお参りし奉納されたそうです。この話は春名さんからも聴いておりこれが真実とすれば壇の浦の詰も 信憑性を帯びてまいります。
 最後に発掘場所について書き加えさせていただきます。お鏡の発掘の聖地天皇谷は国道一七九号線の万の峠の 頂上より三百メートル南にあり現在の国道は大正時代初期に開通して開けた所で当時は夜は追いはぎがでるし、 大蛇も出没するし、狐の踊り場と言う伝説もあり、現在のように自動車も通らず寂しい所でした。現在は住宅団地が 出来て沢山の方が住んでおり将来はまだまだ栄える事と思います。明治以前の天皇谷は人々は恐れおののいて 立ち入り近づかなかった所の様です、大蛇は平成五年頃に死んでおり実在のものであったようです。年代不明ですが、 出合池の頭に蛇塚が築かれ大蛇退散の加持祈祷が行われた跡地もあります。何れにしましてもこのロマンに満ちた 史跡の真実は今後皆さんの研究に御任せすることとしたいと思います。
 この度の史跡保存事業につきましては地区内の大勢の方々の御協力を得て作東の史跡や日本の史跡として 残すことができるのは私ひとりの喜びでなく作東町民の誇りであり宝であると思います。この度の事業趣旨に 賛同下さいました方々に心からお礼申し上げます。

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[83]秦宿禰薀蓄垂麻呂さんからのコメント(2004年02月21日 21時49分49秒 ) パスワード
  

ときおさんへ

>今の土居妹尾の関係各家では「南朝説」で主張されているようです
時代が鎌倉〜室町間なのは妹尾系図を見れば、一目瞭然(^^)

>他の人・はたの人(秦の人????)が祭り上げてる・・・
《端:はた》と《秦:はた》を一緒にしたらいや〜ん(笑)
もしかして、ときおさんは坂東平氏の末裔?坂東平氏はほとんど朝鮮系の渡来人が平姓を冒しているという説もありますよん(^^)

[84]ときおさんからのコメント(2004年02月22日 00時08分38秒 ) パスワード
  

秦宿禰薀蓄垂麻呂様

>《端:はた》と《秦:はた》を
 ・つい、よろしくない脱線をしちゃいました。すぐ、謝る私です。以前のレスに春名さんは、秦氏ってのが有りましたので。
・昔、関東の田舎で木彫りで5〜6センチの「蘇民将来」のお守りを手にいれまして、いまだにあります。(関係無かったかな・・。)何か、おかげを受けているのでしょうか??。

>時代が鎌倉〜室町間なのは妹尾系図を見れば、一目瞭然(^^)
 ・私的にも、左様に理解しているつもりなのですが、立派な記念碑まで建立されていますね。後世にはどのような評価が為されるのでしょうかね。

>ご先祖
  ・・分かりません・・・・何せ遺伝子を其処爰から頂いて居りますので、自称混血児です。(-_-;)m(_ _)m 。

[85]秦宿禰薀蓄垂麻呂さんからのコメント(2004年02月22日 00時44分19秒 ) パスワード
  

ときお様(時尾家はあぁ、、)

>つい、よろしくない脱線をしちゃいました。
ほんとうによろしくなければ、管理人さんがでてくるから(^t^)

>以前のレスに春名さんは、秦氏ってのが有りましたので。
美作国英田郡発祥の伝赤松国頼後裔。赤松氏は、秦氏族とも播磨国造の子孫ともいう。系図上は村上天皇に継ぐ。

>「蘇民将来」のお守り
もろ中国系(笑)

>立派な記念碑まで建立されていますね。
市町村合併までにやりたいことをやっておく(爆笑)

>自称混血児です。

日本人はほとんど混血です。(^t^)人類はみな兄弟。モーターボートでギャンブル!
[86]ときおさんからのコメント(2004年02月22日 04時02分49秒 ) パスワード
  


吉 備 団 子 様
ギャンブラー様

「箭田地名」について

 以前は関東の「やつ・やち」地名と同じ様にの小谷や湿地からきたものかと考えていました。八田郎女の御名代部の「やたべ」の転訛・約化の「やた」も考えられますね。
もっとも、全国的にみられる「やた」地名は御名代部の「やた」とともに矢竹の多い土地が「やた」地名となっていることが知られています。

 当地「箭田」はたしか、竹とタケノコの名産地ではなかったでしょうか。


>兼康公が当地に埋葬されていた、というのは特別な意味は別にないんでしょうか?

・ 兼康公の館(鯉山小学校地)が在ったことに由来しているのではないでしょうか。
想像でしかありませんが、墓地とお寺の創建者である家臣の陶山左衛門道勝が館での留守居役・兼康の子供の養育役かあるいは国家老的な立場の人物で在ったのではと思います。(兼康公の梟首と着衣を盗み出したのが陶山左衛門道勝ですから)

・ 兼康公が北国へ出陣した時点で、兼康公の息子二男(七歳)と孫娘二人は陶山左衛門道勝に伴われて「館」を出たようです。兼康公没後十三回忌法要をこの吉備津の宮内吉野でしていることまでは分かっています。

・ 箭田の氏は上記の娘の子孫であることが分かっていますね。
 
・ 「篠迫・福隆寺縄手」の合戦の後、板倉川の辺の合戦の地までたどり着いたのは「吉備津の宮内に在る館」を目指したのではないでしょうか。
   平家物語でしたか・・・「屋島を目指してと」ありましたが。まずは、肉親の居る自分の館の方を目指したが正解ではないでしょうか。両地点間は4〜5キロしか離れていませんから。

*吉備団子さん、早速に記念碑の当地を訪問調査をされたのですね。行動力に乾杯です。
[87]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月22日 15時23分43秒 ) パスワード
  

>墓地とお寺の創建者である家臣の陶山左衛門道勝

陶山氏は平家物語やその後の日本史の合戦上で何度もお目にかかってましたが
そうでしたか
>兼康公の梟首と着衣を盗み出したのが陶山左衛門道勝


私は陶山氏には何か引っ掛かるのです。


吉備津兄弟というのも知らなかったのです。
知らないだけで
日本の歴史を知るといよいよ自分のアイデンティティが深まります。


みなさんが色々書いて下さると「ここでも繋がる」「ここでも繋がった」と感動します。
[88]吉備団子さんからのコメント(2004年02月25日 00時05分53秒 ) パスワード
  

皆様方、大変、よくご存知で参考になりました。

実はあまりスレッドが長すぎて、じつくりとは読んではいなかったのですが、改めてよく読んでみて、とても参考になりました。ただ、ここで活発な情報交換が行われているのは、半分以上はここ一か月のものなんですね。NO.19から今年の分ですか、それ以前は昨年8月まで遡っています。

いずれにしましても、ここの掲示板はよく拝見させていただきたいと思いますので、また興味深い発見・意見等、皆様、ぜひお聞かせください。
[89]吉備団子さんからのコメント(2004年02月28日 01時33分44秒 ) パスワード
  

皆様 せっかくなので、先週土曜日に岡山県英田郡作東町の土居の鏡の出土地に行った時の写真をインターネット上にアップして、若干紹介してみようかな、と思っています。

もし、本当にサイトを作るとなると、これまでの事の推移の経緯を文章説明しなくてはならないかとも思いますが、私は詳しくはないので、ここでの掲示板での紹介なり、説明なり、補足なりをそのまま一部使わせて頂ければ、とも思います。

つきましては、ここの掲示板にこれまでに書かれた皆様の、一部転用並びに引用の許可を頂ければ幸いです。当該部分を書かれた方においては、別途、メールにて御願いするかもしれませんが、何卒よろしく御願い申し上げます。

なお、冒頭に貴重な事の推移経過を紹介されました、川口信 様、メール並びに個人管理なされていますサイトへのアクセスが繋がらなくなっております。この場を借りて、一部引用の許可を頂ければ幸いです。

(サイトそのものは写真はあまり制度のよいものではないので、加工もしづらいですが、すぐにできると思いますので、完成しましたら、またここでも紹介したいと思います。もっとも、皆様にお教え頂いた内容がすべてですので、当地の写真以外は何も新しい物はないとは思います)

以上、よろしく御願い申し上げます。
[90]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月28日 02時47分31秒 ) パスワード
  

吉備団子さん
私はまったく構いません。
むしろ光栄に思います。
[91]川口 信さんからのコメント(2004年02月28日 08時19分54秒 ) パスワード
  

 吉備団子さん

 私も明子さま同様いっこうに構いません。

 私のは数十年前の新聞記事をそのまま転載したもので、その旨「新聞記事」の文を入れれば、何処からも苦情は来ないと思いますが。

 此の頃は地元ならではの詳細で熱心なコメント、興味深く拝読しております。

 吉備国は古代より栄えた国で、巨大は古墳群もあり、興味尽きないところですね。

 平家関係の方々は皆様コメントにも温かみがあり、感謝申上げております。

  吉備団子さまがHPを立ち上げるとの事、是非頑張って下さい。

 最後にメールはウイルス防止の手段やイタズラや変な勧誘や広告が頻繁に来る為、
 
 またHPのメールも何処からの情報でたどり着くのか調査のため連絡不能にしております。度々のご迷惑をおかけまして、すみませんでした。
[92]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月28日 11時06分03秒 ) パスワード
  

そうですよね
情報源を明らかにしておけばという事ですよね。
私も「詳しくはURLを見て頂戴」と書いてますし。
私達は素人ですから。


本当にウイルスや変な勧誘や広告や果ては名前やアドレスを悪用されるのが困りますね。
これはネットの宿命だと諦めてます。
吉備団子さんも掲示板やメール住所は気をつけないと大変な事になりますからくれぐれも防御なさってくださいね。
[93]吉備団子さんからのコメント(2004年02月29日 01時02分01秒 ) パスワード
  

川口様、暇つぶしのギャンブラー様、皆様、どうもありがとうございます。

実は今日もフラッと吉備津神社と吉備の中山の山頂に在る吉備津彦命御陵(宮内庁管轄の前方後円墳)に行って素材用の写真を撮ったついでに、妹尾太郎兼康公の墓にも参ってきました。クダンの鏡はどうやら南朝説で展開されていて、それでほぼつじつまが合う様子なので、そちらん゛メインですが、ただ、いずれにしても、妹尾一族の末裔と安徳帝のつながりがあること、土居・妹尾氏に継承された文書より実際に鏡が出てきたこと、など、なにか、より包括的な奇妙な幾重にも重なり合った不思議な縁を感じます。

妹尾様には直接、メールを送らさせていただいて許可をいただければ、と思います。よろしく御願い致します。

サイトは一日で明日中にも仕上げてアップしたいとは思っています。ただ、もともとサイト管理・作成をビジネスでもやっていますので作成はすぐにできるのですが、空いているサイトがないので、とりあえずの 「間借りサイト」を他人から借りての運営となります。大変ですから、掲示板は作れないと思います。アドレスはたくさん持っているのですが(6つあります!!)、多分、Hotmailが無難ですので、それで行きたいと思います。とにかく、ここのサイトに初めて来て、一ヶ月足らず、初めて作東町土居の現地に行って1週間、ですので、また、ここのサイトも年が明けて俄然、静かな盛り上がりを見せていますので、できれば、少しだけ、センセーションでも皆様と起こしましょうか!?それはともかく.......、

ところで、ホームタイトルは今からこうするつもりです。「幻の八咫鏡ミステリー」と。とりあえず、明日一日で作ってみます。まだ文章もレイアウトも写真構成も何も考えていませんが。できましたらぜひご意見をいただきます様、皆様、よろしく御願い申し上げます。 
[94]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月29日 02時53分57秒 ) パスワード
  

6つも!!
これまた管理が大変ですねえ。(笑)


>「幻の八咫鏡ミステリー」

面白そうですね。
楽しみにしております。


このタイトルでこちらにも新しいスレッドをお立てになってURLをお知らせください。
そうすればこちらからも吉備団子さんのURLに行けますから。
[95]小林雅成さんからのコメント(2004年02月29日 10時41分54秒 ) パスワード
  

岡山市に引越し落ち着きました小林です。

また新しいスレッドになるんですか?
ADSLにしたので、少々重くても平気ですよ。

>「幻の八咫鏡ミステリー」
だれか明智探偵になってください。私は小林少年しますので(^^)

[96]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月29日 11時55分25秒 ) パスワード
  

サーバーに負担がかかるそうなんですよ。
本来はレスが20ぐらいが調子が良いらしいです。
[97]吉備団子さんからのコメント(2004年03月01日 23時48分36秒 ) パスワード
  

【幻の八咫鏡ミステリー】サイトの作成、途中経過

皆様、テキストさえ書ければ、レイアウトもすぐ考えられるのですが、(シンプルにして、あまり凝ったサイトにはしないつもりですが)、どうも肝心のテキスト内容が今ひとつ、といったところで、やや停滞して作成が大幅に遅れております。私自身が、あまり国内の中世の歴史に詳しくなく、当初は、妹尾太郎兼康公かその次男そしてその部下家臣が落ち延びて途中、作東に埋めた鏡が、この鏡だと思い、血縁からそれにロマンも感じていましたので、、、、、、、実際には゜それからさらに150年以上後の南朝関係からの絡みがある様子ですね。

ただ、まず第一に、私は南北朝の分裂過程でどういうように推移して、どうなったかはおよそのことしか知りませんが、この鏡は【南北朝正閏論】による、広く明治以降の時代に認知された、南朝正統説を裏付けたものとは思いますが、具体的にそれを支えるどういう古文書なり文献があり、それと今回の鏡がどう結び付き、補完し合い、補助説明となりうるのか、どなたか詳しくお教えいただけませんでしょうか?その点がどうも希薄です。

腰人的には、ここで皆様が書かれたことのみそのまままとめ上げ、紹介するだけの形のサイトにした方が、広く認知され関心も呼び、一方ではロマンを残したままでよいかな、とも思ったりしています。

そもそもネット上にもこの鏡騒動の情報のことはなぜか全くと言ってよいほど載っていませんので。あまり深い考察はしない方がよいのでは、とも思っています。皆様はどうお考えですか?

もっとも、ときお様がおっしゃるとおり、当の土居・妹尾氏一族や、裁判の原告側弁護士も兼康説は否定して、完全に南朝説での鏡の正当性を主張されていたようで真偽だけ論じるなら、そちらでほぼ決まりでは、とは思いますが。問題は証拠が希薄、文書などの伝承の論拠が希薄という点だと思います。
[98]八咫鏡さんからのコメント(2010年04月01日 19時30分41秒 ) パスワード

八咫鏡は兼康の次男がもっていて、子孫が土井の天皇谷に埋めた言う説と後南朝の植月御所に関係して、兼康の子孫が埋めた。との説があり本当のところはわかりません。
私は、土井の妹尾(表屋)本家で兼康直系の子孫です。
川口氏のコメントに出てくる妹尾登代根は祖母です。
[99]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月02日 02時28分42秒 ) パスワード

今朝は友人よりメールを頂いてから、このスレをずっと読んでいるのですが

<77>の
兼康公は治水事業等の偉業をたたえしのび神社にも祀られています。
通称妹尾神社、正式名称は、井神社

を読んでビックリ!


つい最近「井真成」とかいう遣唐使の学生の墓誌が中国で発見されたというニュースがありましたよね。


それで、「「「「ん?」」」」と、ものすごい話に繋がりました。
やはり妹尾氏・瀬尾氏というのは
岡山の日本の古代からの超有名豪族だったのだな、と。



これ以上はワタクシが書くのは身分不相応と思い、遠慮しておきます。
分かるヒトには分かりますから。


なるほど清盛が妹尾太郎兼康を頼りにした、『八咫鏡』を託した、というのが実感になりました。


両輪の片方の難波家にも非常に関心があります。
[100]空の青海のあをさんからのコメント(2011年04月02日 02時53分04秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100700.html

[遣唐使 「井 真成」 遥か西安に没す]というタイトルです。
井真成の出身は畿内になっていますが
それは分からないわよね。

なんせ日本人が知らなかった人物なんですもの。

でも「77」の書き込みでひょっとすると岡山の出身だったのかな?と思いました。


もし続きをレスなさりたい方がいらっしゃいましたら新しくスレを立ててください。
100を超えて重くなりましたから管理人さんがお気の毒ですから。
よろしく

うまく繋がるようにわたくしが調整いたします。
[102]管理者Aさんからのコメント(2011年08月03日 00時53分00秒 ) パスワード

100を超えましたので
続きは新しいスレッドを立ててください。
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