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 投稿番号:100483 投稿日:2003年04月12日 07時14分20秒  パスワード
 お名前:林原英祐
私説:竹御所姫君(女+美子、びしと読む)

コメントの種類 :人物  パスワード

私説:竹御所姫君(女+美子、「びし」と読む)論

 或る雑誌社の其氏からレスを頂戴しました。
 「貴殿の比企一族(鎌倉、越前、御影の三部作)を書物にして残す場合は『竹御所』論が中心的なお話として面白いと思います」ということでした。

 ご指導を参考にして、とりあえず「書き流し」で整理してみることにいたします。

 ご参考までに、以前に書きました「3部作の中に、、、書き込みました箇所をあげておきます」
1)服部明子さん「比企一族」[35] 以降に少し詳しく書かれてあります
2)また、別稿である服部明子さんの「源頼家の娘:竹御所:竹の御所:妙本寺」にも少し整理してあります。

 さて、私説:竹御所姫君(女+美子、「びし」と読む)論の主役は「竹御所(鞠子と呼んでいる)」の姫君(実娘)のことです。

 歴史的な事実関係(概略年表)を先に記して、本題の「私説」に入っていきます。

@『竹御所』は死亡年月日から逆上ると西暦1203年(建仁3)春頃の生れと言う事になる。
A同1203年(建仁3)9月に比企の乱で母、『若狭局』を失う。(竹御所1歳)
B翌1204年(建仁4)に伊豆修善寺にて父『源頼家』を失う。(竹御所2歳)
C『竹御所(金吾将軍姫君)』は北条政子(尼将軍)のもとで守り育てられた。
D1216年(建保4)『竹御所』源実朝夫人(坊門)の猶子となる。(竹御所14歳)
E1219年(承久1)1月源実朝、甥の公暁に殺される(実朝28歳)(竹御所17歳)
F同1219年6月、三寅(後の藤原頼経)鎌倉へ下向する。(三寅3歳)
G同1219年(承久1)『竹御所』女児を出産(父:実朝か?…実朝遺児(姫)?)
H1221年(承久3)5月『承久の乱』が起こる。
I1224年6月北条義時死去(62歳)、1225年7月北条政子死去(69歳)
*尼将軍『北条政子』の一周忌の喪に服したのは『竹御所』その人であった。実質的な鎌倉幕府の『カリスマ』は名実共に『竹御所』に集中することになる。
J1226年1月藤原頼経(三寅)4代将軍になる。(摂家将軍の初め)
K1230年(寛喜2)12月竹御所(28歳)と藤原頼経(13歳)が結婚する。
L1234年(文暦1)竹御所、相州亭(北条時房)で死去、難産による。(竹御所32歳)
M1235年(嘉禎元)7月、竹御所の一周忌の喪に服した『竹御所姫君』のことが吾妻鏡に記事として残されている。(当時15歳)
N1235年11月、去る10月に将軍家姫君死去。御他腹、享年15歳也と吾妻鏡に記されてある。

そして、登場人物は、、、、
『北条政子』と『竹御所(鞠子)』と『竹御所姫君(女+美子:びしと読む)』の3人であります。
「はじめに」はこれくらいにしまして、、、、

ご意見、ご感想は大歓迎ですので、どんどん書いてくださいね。


[1]林原英祐さんからのコメント(2003年04月17日 20時09分11秒 ) パスワード
  

1)政子の独り言
 政子はどちらかと言うと『実朝』よりは『頼家』の方が好きであることに自分では気付いていましたが、母親としてはそのようなことは口に出来るものではありません。
 夫の『鎌倉殿(頼朝)』が「武家の棟梁」と「公家の雅(みやび)」の両面を持ち合わせていたことから考えると、二人の子供達には少し物足りなさを感じてはいました。
 それでも、いつも何を考えているのか掴みようのない「頼朝」よりは心に安心感のようなものを与えてくれる二人の子供達にそれなりの満足感を感じていました。
 頼朝が生きている内は、母親としてそんな子供達の存在を幸せなこととして、率直に喜んできました。
 『主人には不満(女性関係)がありましたが、子供達によって随分心がなごまされることが多かった』と親しい女官に漏らしています。
 富士の裾野の鷹狩りで、初めて『猪』を射止めた「頼家」をハシャギ過ぎとたしなめた(有名な挿話)話も決して憎くて叱った話では無くて、私(政子)が親バカのあまり『ハシャイ』でしまったお話です。
 自覚はしていませんでしたが、その頃から「頼家」への肩入れが始まっていたような気がします。
 「頼家」の少し子供(発育不良の…)ぽさは残るものの、単純明解な『男らしさ』には頼もしく感じさせるものがありました。
 武蔵の豪族達や居並ぶ鎌倉御家人達を率いて行く為には、そのような単純な論理が必要であるということを、伊豆の「蛭が小島」から苦労を共にしてきた政子には良く分かっていました。
 一面、他人(ひと)には話したことは無いのですが、自分(政子)が伊豆の下級豪族であった『北条氏』の出であることで、いつも『引け目』を感じてきたことも事実です。
 常々、『政子』は自分の心に潜む二つの『コンプレックス』を意識していました。
 @つ目は『源氏』の血筋への依存心が強すぎると思っていました。
 Aつ目は『京都(朝廷、公家)』への『憧れ』のようなものがありました。
 振り返って見ますと、1177年(治承元年)挿話として残る父:北条時政が用意した『目代山本兼隆』との婚儀に飽きたらず、「頼朝」の元に走った「若かりし日」の行動はいずれもこの『業』に導かれての所業と思うことがあります。
 その事が、その後も永く尾を引くことになり、二人の子供達『頼家』『実朝』の子育てにも影響してしまったと思われる節があります。
 残念ながら、同時に『二つの性格(強と雅)』を植え付けることが出来れば、多くの親達が教育で悩むことがないのですが、不思議にほとんどの子供達は両親の熱い思いとは全く関わり無しに、その『片方』だけを身に付けるものです。それも極端に偏った『片方』を身に付ける場合が多いとされています。
 そんな『子育て論』は今も昔も変わらないように思えます。
 世間の二代目(世継ぎ)の悲劇はそのことに起因して起こる場合が多いようです。
 『頼家』には源氏の血(お坊っちゃん)が出てしまったし、『実朝』には京都朝廷の公家の雅(みやび)が乗り移ってしまったのです。
 「政子」は我ながら、自分が一番隠していた「嫌で恥ずかしい気質」が自分の子供達を通じて鏡に写った気がして、独り苦笑していました。
 そんな自分も、もう「壮年」の域にさしかかっていたのです。
 「政子」が45歳を越えようとしていた西暦1200年頃の話であります。

 具体的には1203年(建仁3)9月『比企の乱(800年前)』が一陣の空っ風のように鎌倉の街を走り抜けることになりました。

 その同じ年、1203年の春先に、この創作小説の主人公である『竹御所(鞠子)』が二代将軍『頼家(通称:金吾将軍)』と『若狭局(別名:讃岐局)』の末っ子(姫)として生誕していたことになります。

 この「金吾将軍」の妾(しゅう)であった『若狭局』が『頼朝』の乳母の一人『比企尼』の養子『比企能員(よしかず)…頼家の乳父』の娘であったことが、その後の鎌倉を不吉な嵐に巻き込む事になるのですが、誰もがそのことを知る由もありません。

 建仁3年9月の比企の乱(通称…一説に北条の乱)が「政子」と「鞠子(後の竹御所)」との出会いの日であったと言いますのが創作小説『竹御所姫君の悲話』の「はしがき」なのです。
歴史の皮肉がこのような形で起こるのも不思議と言えば不思議な話です。
 「政子」はことのほか「鞠子」に執着した後年の人生を送っています。
 1203年1歳の乳飲み子「鞠子」が母親(若狭局…比企の乱で滅ぶ)を離れて、難を逃れたことが不思議な話の第一であります。
通説では『北条政子の館』に預けられていて「難を逃れた!」とあります。
 その『母』が比企能員の娘『若狭局』とされ、北条家の宿敵『比企筋』の娘であることから考えますと、『鞠子』が「政子」からも、北条一族からも疎んじられこそすれ、守られるはずの無い『姫』でありましたのに、1203年9月の比企の乱を「政子」の邸で庇われたとしたら不自然な話だと思いませんか?
 まして、史実(吾妻鏡記事)によれば、比企の乱への政子の関わりは相当なもので、積極的な加害者の筆頭とされている主人公であり、いよいよ不思議さが深まるばかりでございます。
 それにもかかわらず、「鞠子」は「政子」お祖母さんによって難を逃れ生き残ったのであります。
 「政子」はこの『姫(鞠子)』を産まれる前から手元に置く考えで固まっていたと考えられませんか、特に『姫(女性)』を条件に、自分の後継者(カリスマ…妹)を描いていたのではないかと想像いたします。
 結果的に1226年7月「政子」死後一周忌の喪主を勤めた姫は孫娘「鞠子」その人であったのですから、歴史を逆上って考えると、「政子」の思いがその辺りに有ったと想像しても何等不思議ではないと思います。

 このようにして、「政子」の孫娘「鞠子」(後の竹御所)が不吉な過去を背負いながらも、鎌倉の街に登場したことになります。

 「政子」側からの論理(独り言)でお話を進めますと、『比企の乱(比企一族の族滅)』が悲惨なものであればあるほど、この『鞠子(姫)』に寄せる「不憫さ」は大きく、自分(政子)の最愛の息子(頼家)への思いが重なって、『鞠子溺愛』のスト−リ−が出来上がっていったのでございます。

 この辺りまでは、多くの歴史家、小説家の方々も異論は無いものと思いますが、ここから私(林原)の考えは急激な飛躍を生むことになるのです。
 謙虚に創作小説『竹御所姫君(女美子)の悲話』と名付けましたのは、その「いやらしい飛躍」が皆様のご不興をかうことを恐れての仕儀でございます。

 それでは、続きは次回にいたします。
[2]林原英祐さんからのコメント(2003年04月20日 04時48分23秒 ) パスワード
  

2)『竹御所(ごしょ)』の謎

 竹御所(現妙本寺跡)は辺りが一面の杉林で『杉御所』では?といわれる勉強家はいらっしゃいますが、なぜ『御所(ごしょ)』なのか?という問いかけに答えた学者さんはいません。

 鞠子の母親(若狭局)が『壱幡』とともに居た頃に比企ヶ谷の比企邸脇に小御所(二代頼家)として呼ばれていた場所があったそうですが、鞠子が成人した頃(比企の乱後)にその不吉な比企邸跡が『竹御所』と呼ばれたのはなんとなく不自然な話だと思います。

 竹御所が本当の女将軍に匹敵する位を表した『女帝:4代将軍』であったとしたら、野口実先生の『方違え』の回数(多い)の謎が解けるのですが?????

その辺りに焦点を絞った話を進めてみたいのです。

 歴史上の竹御所には二つの名前が付されています。ひとつは『鞠子』でもうひとつは『女+美(び)子』であります。事実関係は定かではないと「但し書き」がされてあります。

 私は、この二つの名前を採用させていただいて「政子」の孫娘『竹御所』に『鞠子』を、そしてその「鞠子」の子『竹御所姫君』…実はこの貴いお方が今回の主役なのですが、解りやすくする為に、別人『女美(び)子』の名を与えて使うことにしました。

 話を飛躍させて参ります、、、

 さて、私の大胆な推論にすぎないのですが、「政子」は頼家なき後の『鎌倉』の中心に『鞠子(竹御所)』を常に意識していたように思えてなりません。

 1204年(建仁4)伊豆修善寺に幽閉されたまま、淋しく死んでいった二代将軍頼家でありますが、当時竹御所は僅か2歳であり、余りにも幼すぎたため、直ぐに、父親の跡を継がせる形には無理があり、政子の暫定措置としての三代将軍実朝が実現することになったのではと考えます。

 政子は実朝が将軍職になるような器の子供でないことを一番よく知っていたとおもわれる節が多々あります。

 万一にも、仮に実朝将軍が実現したとしても、実朝が『女人』を近付けない性癖があり、潔癖で「鬱」が激しい気質で、政子としては悩みの種であったと考えます。

 そのことは現在の時代に想像する以上に致命的な問題(お家の世継)でありました。

後継者(子孫繁栄)については半ば諦めの状態にありました。

 1204年(元久1)、京都から坊門信清の娘(坊門姫)を正室として迎え、『子』を成してくれればと祈るような気持ちでありましたが、これだけは如何ともし難く、その期待も空しく過ぎて参ったのでございます。

 そして、1216年(建保4)政子の計らいで『竹御所(鞠子)』が実朝夫人(坊門姫)の猶子(養子)として事実上三代将軍実朝の『嫡女』として位置付けられたのであります。

 竹御所(鞠子)が14歳(当時の女性の成人式の歳)の出来事であります。
 参考までに、その時実朝は24歳で10歳年上の伯父さん(父:頼家の弟)であったと言うことです。

政子自身が積極的に猶子(養子)の計らいをしたのですが、半分以上の気持ちとして実朝と「鞠子」の人間的な近付きを期待していたと考えるのです。
現実は、政子お祖母さんの考えとは全く関係なしに進んでいくのですが、、、
 鞠子は『実朝』伯父さんに出会ったことで、その人生に大きな転機を迎えることになります。

 竹御所(鞠子)が「大人」の仲間入りを始めた、言わば反抗期(節目)のまっただ中にありました。
そのことで前にも触れました実朝の屈曲した人生観が鞠子にとって「清涼剤」のように爽やかに写ったのです。
鞠子の心は釘付けにされるのでした。

 毎日のように、お暇な実朝(義父)通いが始まりました。

 人一倍感受性の発達した「実朝」は何となく、鎌倉御家人衆からも北条一族からも疎んじられていることには気付いていました。

母「政子」についても表向きは優しそうな振る舞いをして見せるのが良く解るのですが、心の底には冷たいものを感じていました。

『母』は「自分(実朝)」のことは好きではない。

兄(頼家)が生前の時から母が自分には何となくヨソヨソしいのが解っていました。
 
一方、鞠子(竹御所)は政子の溺愛の孫娘でどんなことでも思うようにならないことは、何一つないような毎日をおくっていたのでございます。
 欲しいものをおねだりすると「政子」お祖母さんは、まるで何か『弱み』でもあるかのように何でも与えてくれたし、何不自由無しに過ごして参ったので御座います。

 そんな二人が奇遇にも『政子』お祖母さまの計らい(猶子)で『政子』お祖母さま自身の『悪グチ』を話し合うことで次第に心を開いていったのですから、これ又人生の皮肉というものではございませんか。

 竹御所(鞠子)に、本当の父親である悲運の2代将軍頼家のことについて、詳しく話して聞かせてくれたのが、実朝であったこと。

 又、そのことをひたすら隠し続けた「政子」お祖母さんが父(頼家)の死に深い関わりがあったこと。

 又、実朝はそのことには触れませんでしたが、側近の官女から耳にした話では、竹御所の実の母親は『若狭局』亦の名を『讃岐局』と言って、ことさら美しい姫で金吾将軍(頼家)とは熱烈な恋愛の関係(妾)であった。その愛の結晶として深い愛に育まれながら生誕したという鞠子の生い立ちの言われや。

父:頼家が蹴鞠の達人であり、その凛々しい頼家にひかれた若狭の仄かな話、、、、そして自分(鞠子)の存在、、、
 年頃(思春期)の女性がどうしても必要とするルーツ話がそこにあったので御座います。
 
その日から、この話が頭から離れなくなりました。

 『実朝』伯父さまと一緒にいると、お父様(頼家)とお母様(若狭)が何時もほほ笑みかけてくれるのです。こんな形で両親と初めて出会う鞠子であったのです。

「政子」お祖母さまには口が裂けても話せない秘密を『実朝』伯父さんがくれたのです。その日が竹御所(鞠子)の本当の成人式であったと思います。


それでは、続きは次回にいたします。

[3]林原英祐さんからのコメント(2003年04月23日 21時44分11秒 ) パスワード
  

 歴史家が言うように実朝は歌詠みに優れた才能を持っていたとされていますが、その意味では、当時まだ存在しなかったと思われる鎌倉の歴史書(吾妻鏡…北条家の歴史書と言われる)以上の本当の「源氏3代の歴史」を竹御所に語って聞かせたに違いないと想像します。

 もちろん、伊豆蛭が小島に流された初代鎌倉殿『頼朝(お祖父さま)』は武蔵の国の比企尼(乳母の一人)に支えられて成人し、北条一族の力を借りて挙兵し、「政子」お祖母さんと共に、1192年鎌倉幕府を開設したこと、頼朝お爺さんの兄弟である『範頼』『義経』等の悲運の最後、そして梶原、畠山、比企、和田、、、と続く鎌倉御家人の粛清(殺戮)の連続、そして呪われた「竹御所」のお母さん「若狭局」の里『比企一族』のこと等々 ………

 『実朝』伯父さんの所を訪れるといつも半日は釘付けにされてしまいます。
でも、伯父さんもこれといったお仕事もないようで、私(鞠子)と話している時が一番生き生きして楽しそうに思える日が多くなりました。
 
そんな話のなかで、私の頭に一番残った話が北条家の天敵である『比企一族』の血が自分の身体の中に流れているということでした。

 『比企尼』の長女であった『丹後内侍』という方が『頼朝』お爺さんと良い関係になり胎内に子供を宿したのですが、「政子」お祖母さんの病的な嫉妬(嬰児を殺させる!)を恐れ、西(摂津の国)に逃れ、その途中に臨月を迎え誰も助けて貰えない状態で、今の住吉神社の岩の上で独り『島津忠久(薩摩の祖)』を生み落とした。
雨の中での出来事であったと言うお話。

 又、別の比企の本家の姫(名前を「姫の前」と言う)比企藤内朝宗の娘のお話、『姫の前』が頼朝の官女として仕えていたころに、好色家の頼朝の手が付き、これも「政子」の嫉妬を逃れるために、北条家の嫡男義時(政子の弟)の正室として偽装結婚をさせられたらしい。

そしてその後も頼朝の渡りが続き『名越流北条朝時』『極楽寺流北条重時』を産んだらしい。

その北条家の得宗(本家)に次ぐ主流の家の『祖』的な存在であったにも拘らず、1203年の比企の乱以降は「行方知れず?」の状態にあり、墓標すら定かでない最期をとげている。
 俗に言う頼朝が北条義時から『決して別れたりしません!』と言う「起請文」を取り付けて結婚させたというエピソ−ドの残ったお話等を聞きました。

 いつも、話の最後は「政子」お祖母さまの恐ろしい気性についての話になりました。そして『実朝』伯父さんの口癖が、「くれぐれも、お祖母さんには口が裂けても言わないように!」という優しい助言だったのです。

 少なくとも、鞠子(竹御所)にとって、母『若狭』に直接手を下して殺させた政子お祖母さんが許せないと思えてなりませんでした。

 このような『血の流れ…』の中から伝わってくる話は、始末が悪いものでして、一度火が付くと燃え盛るようにメラメラと拡がり、自分では落ち着いて理性を働かせて打ち消そうとするのですが、努力すればする程、火に油を注ぐ形になり…自分ではどうしようもない状態に陥っていくのです。

 世に言う『天の声』は200年、300年いや800年の永きに渡り人の心を捕らえて放さないのです。

 『実朝』伯父さんが私の心に火を付けました。

 そんな、実朝伯父さんが忘れられない大切な人になってしまったのです。

『伯父さん』の話には娘心をしっかりと捕らえて放さない真実が感じられました。

伯父さんは女性を余り近付けない人と女官達が噂しているのを耳にしたことがあり、坊門姫とも男女の関係は皆無であることが最近少しずつ分かりはじめていた鞠子は伯父さまが痛々しく思えることがよくありました。

淋しそうで可哀相な伯父様を何とかしてあげたいと考えるようになった頃には、すっかり母性(政子)に取って代わった存在になり始めていたのです。
 
いつしか、二人きりで「政子」お祖母さんの悪口を言い合っている時が一番生き生きした時間になっているのに気付かされることがありました。

 そんな気を許し合った二人だけの時間が多くなりました。

そんな時、恐ろしく気丈になっている「鞠子」はもうすっかり『女』を感じさせる大人に成長していたのです。

 優しく、鞠子側から実朝に手を添えるような形で二人の男女の関係が始まったとしたら、それはいたって自然な流れであったと想像するのであります。

 実朝は終生幸せの薄い少年でありました。多くの歴史家や小説家が彼の物静かな欲の小さい気質を三代将軍像として描いています。

 色欲も薄く、政子の心配をよそにして、意にも介せず歌詠みに専念して…、毎日を隠遁生活のようにすごしていたようです。

 しかし、1219年正月(実朝が公暁により鶴岡八幡宮の石段の露と消える!)より逆上ること3年間『竹御所(鞠子)』との短い期間は実朝にとって総天然色の薔薇色の人生であったのではと思っています。

 どのような幸福の薄い人も一生に一度は満開に咲く時があると聞いたことが有ります。

 又、後世の結果論ですが、訪れる不幸が大きい程咲く花も鮮やかなものだそうです。

 ことの真相は定かではありませんが、そんな2〜3年があって1219年(承久1)正月鶴岡八幡宮の石段の上において、実甥『公暁』により、「父親(頼家)の敵!」と叫ばれて落命することになるのです。(これは皆さんの良くご存知のおはなしですから…)

 その時、それもごく近い(前日かも知れない?)時間に実朝の種が鞠子の胎内に宿っていたことは余り知られていない話であります。

 とにかく、同年1219年秋、密かに、誰知られず竹御所(鞠子)は『姫』を出産しています。(吾妻鏡にも欠落している記事、余程内密に処理されたのか??)

 鞠子(竹御所)が最愛の伯父(実朝)を突然失って、誰にも打ち明けられずに失意のどん底で独り出産したのだと考えると、かっての『丹後内侍』の摂津国住吉神社の雨の日(独りで岩の上に島津忠久を産み落とした件を、、、)を思い出します。

 その時も『政子』にだけは知られたくない(政子の嬰児殺しの怖い話は伯父さんから聞かされていた)、娘心と母性で必死に隠し通したと考えます。

後に、歴史上少し顔を出す『竹御所姫君』『将軍家姫君』がこの姫のことであります。

私はこの姫をわかりやすく(竹御所と区別するために、、)するために「鞠子(竹御所)」と別に「女美子(びし)(竹御所姫君)」の名をあたえることにしました。(女+美と子の名前は歴史家が竹御所の名前であったと書物で書いてあるのを見たことがありますが、、、)

 金吾将軍(頼家)の蹴鞠好きから、愛しいわが子(竹御所)に「母:若狭局」が鞠子と命名し、身体が不自由な児であったが「透き通るような美しい肌」の乳飲み子(竹御所姫君)に「母:竹御所」が「女美子(びし)」を命名した。と申しますのが私の筋書きなのです。

 私はこの『姫』が気になって仕方がないのです。
重要人物(歴史の鍵を握る人)であると思えてならないのです。

これも以前書きました『天の声』(血の流れ)のようなもので、枕辺に立つ「姫の霊」のようなものを強く感じています。

 『竹御所姫君(女美子)』は次章で述べると致しまして、とにかくそのころ竹御所(鞠子)は竹御所姫君(女美子)出産(実朝遺児か?)、源頼朝の実孫、頼家の実姫と言う威厳と良血をバックに尼将軍「政子」お祖母さまに正面から対座し始めていたのでございます。

 もう以前の弱弱しかった頃の竹御所の面影はどこにも見つからない状態になっていました。

 「政子」お祖母さまの忠告も素直にきかないぐらいに強烈なカリスマ性(妹:いもと読む)を現し始めていたのでございます。

 次第に周囲を取り巻く、名越流北条氏(北条家の反主流派)の面々、足利氏、京都朝廷の公家衆、藤原三寅側近などが竹御所(鞠子)を祭り上げようとし始めていたのでございます。

 もちろん、その背後で怨念に燃える『比企一族の残党たち』が武蔵国に密かに領地を与えられ再起し始めていました。

 一番に気を揉んでいたのは「政子」お祖母さんだったとおもうのですが、まさか「あの幼かった鞠子が、、」ここまで強い存在になるとは想像もしていませんでした。

 毎日のように、北条一族(得宗本家筋)の面々が政子を訪問して来て、苦情を言って帰ります。

政子が「竹御所」の実質的な擁護者であることは誰しも認めておりましたから、言い逃れも出来ず、のらりくらりとした対応を決め込んでいました。

それでは、続きは次回にいたします
[4]服部 明子さんからのコメント(2003年04月25日 17時44分44秒 ) パスワード
  

林原さま

まだですか?
続き
早く読ませてくださいませね。
[5]林原英祐さんからのコメント(2003年04月26日 00時46分11秒 ) パスワード
  

服部先生!ご無沙汰いたしました。どこかへお出かけでしたか?
800回忌の法要のことが気になりまして、、
テーマを竹御所姫君(女美子:びし)に致しました。
枕辺に立つ、比企尼には一番相応しい姫のような気が致しまして、、、


話を続けます。

 1221年(承久3)5月京都を中心に、所謂『承久の乱』が起こるのですが、私は『承久の乱』は政子と竹御所の戦いでもあったと考えています。

 なぜなら、鎌倉における『反北条勢力』はこの竹御所(鞠子)を中心にして集まっていたように思える節があるからです。

 そして、尼将軍『北条政子』の大演説(鎌倉結束)=「承久の乱」北条氏大勝利が史実として残ったのですが、、、

 1224年6月の北条義時(執権:政子の弟)死去(62歳)
そして丁度2年後、後を追うように、、、、

 1226年7月の北条政子(尼将軍と言われた)死去(69歳)
と、引き続く『北条家』の不幸が、流れを変えることになるのです。

1226年7月『北条政子』の一周忌の喪に服した鎌倉の「妹(いも)」は竹御所(鞠子)であったのです。

そのことは内外(京都を含む)に鎌倉幕府の実質的なカリスマが「竹御所(源氏の血)」に集中したことを表した儀式であったと考えられます。

そして又、再び『反北条一族』の流れが出来上がりつつあったと考えています。

「政子」「義時」亡き後の北条家は俗に有名な「武州北条泰時」「相州北条時房」を中心にして、「名越流北条朝時」「極楽寺流北条重時」の集団指導体制で進められていました。

後の私のいやらしい想像事件に関係しますので、この4人の北条首脳陣の関係に触れておきますと、
『泰時』と『朝時』の位取りは有名な挿話が沢山残っていますが、どちらも『鎌倉殿(頼朝)』の「ご落胤」の噂が絶えません。

少し話しがそれますが、、

『泰時』の母は「系図纂要」の注記に「官女:阿波局」と記されています。どのような女性かは不明とされていますが、1183年生まれで、「官女:頼朝の女?」、確か「義時」の妹に「阿波局」と言う女がいた(別人とされる?)など、謎を呼びます。

一方『朝時』は1193年の生まれで、「官女:姫の前」と『北条義時』の娘?です。これも『頼朝』の落胤説が絶えない存在の人ですから、、、

「重時」は明らかに2代執権「北条義時」の子供であろうと考えられますが、「時房」は『義時』の弟だから、『重時』の伯父にあたることになる。

四人の重臣達の年代表を上げておきます。

二代執権「北条義時」1163:1224(62歳)義時死亡時点「62歳」

    「北条時房」1175:1240(66歳) 「50歳」(泰時の参謀)
三代執権「北条泰時」1183:1242(60歳) 「42歳」
    「北条朝時」1193:1245(53歳) 「32歳」
    「北条重時」1198:1261(64歳) 「27歳」(朝時の参謀)

私が個人的に関心を持っていますのは「北条時房(相州)」についてであります。

確かこのひとは『五郎』と言って、北条一族の中で唯一源頼家(金吾将軍)の近習として仕えた人であったと記憶しています。

裏返しに申し上げますと比企家にとっては「修善寺物語?」の裏切り者(北条のスパイ)の首謀者であったのではと考えられる節があります。

その後も長生きをしまして、北条時房と北条重時が北条家の参謀として得宗(本家)主導の執権政治の基盤を不動のものにして行きましたことは歴史上の事実であります。

見事に『北条時頼』『北条時宗』の時代へとバトンを繋いだ立役者になったのですから、、、

少し話しが反れますが、この4人衆(泰時、朝時、重時、時房)の中で、比企筋の呪われた「血の流れ」を持っていますのは以前に書きました比企本家:藤内朝宗の娘『姫の前』の子供(頼朝の子?)である「名越流北条朝時」と『極楽寺流北条重時』の二人であります。

私は主流の『泰時』(参謀「時房」)と反主流の『朝時』(参謀「重時」)として対角線上に『三代執権:北条泰時時代』を解りやすく見ています。

その政治的な縮図の中で政子(尼将軍)のカリスマ(妹:イモと読む)が竹御所(鞠子)に引き継がれたのですから、、、、
特に、鞠子の心の奥底に「遺伝子」と実朝の「洗脳」によって植え付けられた「比企筋の怨念」は表立って表現できない『本音』世界を築いていったと想像するのです。

具体的には、「名越流北条朝時(光時)」「源氏足利氏一族」「時房後の京都守護職(北条重時)」「九条頼経随行一派」「鎌倉御家人筆頭の三浦一族」が『承久の乱(京都敗北)』後も鎌倉の町を騒がせ続けるのです。

その真只中に竹御所(鞠子)が中心人物として存在したのです。

一方北条一族の得宗(本家)執権政治を不動のものにしようと言う『武州(泰時)』と『相州(時房)』にとっては政治的な危機状態にあったのではと考えます。

またまたいやらしい想像ですが、密かに『官僚的な参謀(時房と重時)』の密談が鎌倉幕府を揺るがすことになるのです。

もはや、竹御所(鞠子)は鎌倉にとって『危険人物』である!!

彼女と『九条頼経(三寅)』との婚儀は尼御台(政子)の遺言であったが、鎌倉の将来にとって良くないことである。

すなわち『京都摂家将軍』がもたらす一番の危惧、京都(朝廷)の発言権が強くなることだけは避けなければならない。

折角の『承久の乱』の勝利が元もこも無くなってしまう。との考えで意見の一致を見たのでした。

私の好きでない「比企家の鬼門男:五郎(時房)」が又とてつもない奇策を思い付いたのです。

『そうだ!竹御所姫君(女美子)がいる!彼女を傀儡(九条頼経)将軍の正室にしよう!』

年齢的な関係だけでいいますと、歴史上の有名な話であります:竹御所(鞠子)と頼経とが15歳の「年上女房」になりますが、頼経と竹御所姫君(女美子)とは2歳年下の丁度良い適齢であると相州(時房)は力説するのでありました。

幸い、表立っては余り出ていない話ですが、『女美子(びし)』は生まれたときから身体が弱く、不自由な体の持ち主で、そのことが『三代実朝』のご落胤説(竹御所との間の血族結婚:伯父と姪)として噂を呼んでいました。

相州の言うのには『将軍家姫君』としてはっきりとした立場で頼経と婚儀をさせるよう計らうべきと主張するのでした。(事実上の頼経が竹御所姫君の「入り婿」としての位置づけ)

相州(時房)はこのような悪知恵を働かせることに関しては驚く程才たけたものを持っていました。北条家は彼の策で何度となく危機を乗り越えてきたのです。(頼家や実朝や御家人の粛清は彼の策によるものが多いと、私は想像しています)

それでは、続きは次回にいたします
[6]林原英祐さんからのコメント(2003年04月26日 20時10分23秒 ) パスワード
  

昨日の続きを書きます!


「相州(五郎)」には過信がありました。

竹御所(鞠子)が自分の言うことを全幅の信頼で聞き入れてくれるとの自信があったのです。

わが子(竹御所姫君)への母親としての思いが、将来を4代将軍(頼経)の正室として約束されることで。「二」の返事で了承されると高をくくっていました。

『五郎(相州)』は金吾将軍を裏切ったと言う自覚は持っていなかったのです。

 むしろ竹御所(鞠子)の唯一のよりよき保護者と自負していたきらいがあります。

 参謀や、官僚や、シナリオライターは本来の影の主役を忘れてしまって、自分が歴史の主人公であるのではと言う大きな思い違いをしてしまうムキがあります。そのことで身を滅ぼしてしまうことがよくあります。

そのように、人は自分の論理で相手のことを考えてしまう不便な動物のようです。

ある日、相州(北条時房)はこのことについて竹御所に持ち掛けるのでした。ほとんど拘りの無い状態で自然な会話であったのですが、竹御所(鞠子)の心の中には既に恐ろしいまでの『北条抗体(憎し北条一族!)』が出来上がっていました。

鞠子も無意識の状態で出来上がった「北条抗体」は瞬時に相州(時房)の悪巧みを見抜いてしまったのでした。

結果的には、そのことが「竹御所(鞠子)」「竹御所姫君(女美子)」の不幸を呼ぶことになるのですが、「女の直感」が歴史を変えた例は沢山たくさん存在するのでございます。

「鞠子」はその日から、、、

表向きは相州(時房)の考えに賛成の立場で積極的に動き始めるのです。

女性が一度自分を偽って行動的になる時ほど恐ろしいものはございません。

その日から、三寅(頼経)の竹御所(現妙本寺)通いが『吾妻鏡』に多見されるようになります。随行者に『北条泰時』『北条時房』が目立つのもその頃の特長です。
意識的に夜を選んで「竹御所邸」を訪れているきらいがあります。

後世に歴史家は「鞠子」通いと称しているのですが、私は「姫君(女美子)」通いであったと考えています。

皆で「三寅」と「女美子」の『幼馴染』を画策したのであろうと考えます。

北条政子が死去した時点(1225)での年齢関係を明確にしておきますと、、、

「鞠子(竹御所)」が23歳、「三寅(頼経)」が8歳、「女美子(姫君)」6歳であります。

歴史書にある、「竹御所」と「三寅(頼経)」の結婚が1230年(5年後)であすから、そのときの年齢は、、、

「鞠子(竹御所)」が28歳、「三寅(頼経)」が13歳、「女美子(姫君)」11歳と言うことになります。

これで「鞠子」と「時房」と「泰時」の『幼馴染』の画策が少し理解できると思います。

しかしながら、ことは意外な展開の方向に進むことになるのです。

それが史実にある「三寅(頼経)」と「竹御所」の結婚ストーリーなのですが。
それは「竹御所(鞠子)」の裏切りによるものです。

竹御所を取り巻く「反北条勢力」は想像以上に強固なものに成長していたのです。

相州(時房)と武州(泰時)の思惑(竹御所姫君:女美子のかつぎ出し)は噂となって鎌倉の町に拡がったのでございます。

又そのことが「竹御所(鞠子)」の権力集中を危惧しての北条得宗家の意向であることが「鎌倉御家人衆」の気持ちを不安定なものにしていったのでございます。

反北条勢力、「名越流北条」「源氏足利一族」「三浦一族」「九条頼経の随行者」「京都朝廷公家衆」「比企一族残党」などは密かに「竹御所(鞠子)」を訪れて、口々にこれまでの「北条一族の陰謀」の数々を話すのでした。

かつて、「鞠子」が「実朝」伯父さんから聞いた「ストーリー」の正に再現であったのです。

「鞠子」はそのとき鎌倉歴史の全事実を我が物にしたと言っても過言では無いと考えます。

 当時の鎌倉を支配する反主流の大人たちの全員から、本当の鎌倉の歴史を冷静(主流ではないと言うことで、、)に学習したと言うことです。

後にも先にも、この話の内容が本当の「鎌倉歴史」であったと考えることがあります。

しかし残念ながら、記録には残らなかったと言うことで鎌倉歴史が北条歴史に塗り替えられてしまったのです。

そして、その瞬間から、鞠子の恐ろしくかつ厭らしい復讐が始まるのです。
すなわち、15歳年上の姉女房が出来上がるストーリーなのです。
それは1230年春先の出来事です。

1230年12月9日(寛喜2)28歳の竹御所は営中に入り13歳の将軍頼経の御台所となりました。竹御所(鞠子)の意思による、娘(女美子)からの「頼経」横取り結婚であったのです。

それは、竹御所(鞠子)の相州(五郎)への挑戦だったのです。
見たことの無い、美しいく若く散った両親(金吾と若狭)への想いが一度に噴出したのでした。

鞠子は「五郎」のような「小ざかしい」生き方をする人は大嫌いであった。

実朝おじさんから聞いた、単純明快なお父さん(頼家)のことも好きだし、物静かな実朝おじさんも優しくて大好きでした。しかし、「五郎」は何を考えているのか解らない。
彼は悪い人間である!鞠子にはそう思えた!

続きは又書きます。

[7]服部 明子さんからのコメント(2003年04月30日 01時03分52秒 ) パスワード
  

>女性が一度自分を偽って行動的になる時ほど恐ろしいものはございません。

ふふふ
本当に!
女性は恐ろしい存在となります。
(笑)


改めて以上を読みなおしまして

<1>
北条氏のライバル粛清には、頼朝の女癖の悪さが原因ではないかと思い始めました。
日本史上最大の英雄の女癖の悪さは公然の秘密で
教科書には書かれていないけれど
実は頼朝は部下達の妻にちょっかいを出しまくっていたのでは?と。
(出自の悪い秀吉は、そこの所=女癖の悪さ=はあからさまに語られていますが
頼朝の場合、出自の良さから、秘密にされているのでは?と)

ですから北条氏はライバル達を粛清しまくったのかしら?と。


<2>

三寅と鞠子の結婚
女性って意地を張り出しますと大変な行動をします。
「北条」のいいなりになるものか!
イヤがらせで三寅と自分が結婚した?
こういうの考えられます。


面白いですね。
続きが早く拝見できますように。


女性が意地を張ったり偽りの行動を取るという面に光を当てますと面白いですよね。
ふふふ
人間的、あまりにも人間的で、読んでてワクワクします。
「桔梗」さんもニヤッとわらった感じがしました。
[8]林原英祐さんからのコメント(2003年04月30日 20時11分29秒 ) パスワード
  


3)竹御所姫君(女美子)の祈り

この「鞠子(竹御所)」と将軍頼経との結婚をもって、私が気にかかる竹御所姫君(女美子)は史実から抹殺されてしまう結果になるのですが、その前日まで、北条得宗一派には中心的な『姫』であったと考えているのです。

話を続けます。

鞠子と頼経の結婚から3年後(1233年の冬)鞠子の懐妊が鎌倉の街に明るいニュースとして伝わりました。

特に、『竹御所(鞠子)』を中心に集まる反北条得宗派閥の人々や鎌倉御家人衆にとっては公武合体の世継の誕生を心から期待したように思われます。

しかし、依然として面白くないのは『相州(五郎時房)』と『三代執権武州(泰時)』を中心とします『北条得宗家の面々』でありました。

『竹御所(鞠子)』に鎌倉の権力が集中することが一番問題であり、その為には『竹御所(鞠子)』の失脚を画策し、代わりに竹御所姫君(女美子)を頼経の正室として、傀儡化した摂関将軍を作ることが『執権政治』の確立には必要不可欠な流れであると信じていたからであります。

『相州(時房)』と『武州(泰時)』の密議は続きました。

京都朝廷の鎌倉幕府への影響力をこれ以上強くすることは、鎌倉幕府の存立そのものを危なくすることであり、特に『源氏の血』が絶える状態で『北条一族』の執権政治を維持することは大変な問題である認識は一致していました。

私はこの頃の重要人物に、これまで名越流北条朝時の参謀としてきました、『極楽寺流北条重時』をあげたいと思います。重時が相州と武州に加わったのです。

彼(重時)のこのときの働きで後に息子『長時』を6代執権に推挙される(5代時頼と連署政村から)ことになります。

もとより『北条得宗家』以外からの『執権』は最初でありました。

1234年(文暦元年)3月1日の御着帯の儀があり、
同7月26日に竹御所(鞠子)は産所と定められた「相州邸(北条五郎時房の館)」に入ったのでございます。
 
この産所の決定に携わったのが、相州、武州、そして北条極楽寺流重時であったとされています。
 
そして、その決定が「竹御所(鞠子)」の生涯を決めたのでは、、、
と考えますのが私の厭らしい創作なのであります。

 私はかって、1203年9月2日鞠子の祖父「能員」が北条時政(政子の父)に薬師如来像の供養を口実にして名越邸(時政の館)に誘い出され、入り口を入った瞬間に待ち伏せ暗殺にあったことを思い出します。
 
私は、史実にある竹御所の高齢出産(難産)と死産、産後の回復が悪くして死亡のストーリーを余り信じてはいません。
 
「五郎の館」に入った瞬間に殺されたと信じています。

竹御所(鞠子)が薬殺される瞬間(次第に身体が痺れて、意識が朦朧として、、)に頭をよぎったことが何であったかを考えます。
 
母親として、身体の不自由な姫(女美子)の行く末が不憫でならなかった。

相州五郎が画策した「姫」と「頼経」との婚儀を自分が「身体」を張って阻止(娘の夫を奪った!)ことが、その証(胎児)と共に身を滅ぼすことになろうとは、、、、

もし、自然に五郎に騙されて、娘の婚儀を祝ってやっていたら、、、
姫(女美子)も幸せになれていたのではと思うと涙が止めどもなく、頬をつたうのでした。

そのようにして、源氏最後の血と騒がれた「竹御所(鞠子)」の血が絶えることになったのでした。

『関東の貴女(竹御所と号す)去月27日夭亡す。難産によってなり。

在京の武士ことごとく以って馳せ下りおわんぬ。』

と文暦元年8月2日の『百錬抄』に書かれてあります。

それから、しばらくは鎌倉の町は静けさを取り戻しました。

密かに、竹御所姫君(女美子)の担ぎ出しが囁かれていましたが、女美子(びし)の病弱な身体は如何ともし難く、御所の奥深く床に着いたり、元気になったりの繰り返しであったと聞きます。

翌1235年(嘉禎元年)7月の吾妻鏡の記事に『竹御所姫君』が登場します。

「竹御所姫君於相州御亭。有除服之儀」と記されています。

この相州邸(時房)で竹御所の一周忌の喪に服した姫は誰か?

『吾妻鏡』の編纂時の錯簡なのだろうか?   と野口実先生は『武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか』新人物往来社の中で結ばれています。

私には、この姫(竹御所姫君:女美子)が頭から離れない『天の声』の主人公なのです。

その年の11月、さる10月28日に『将軍家姫君御他界(御他腹15歳也)』と僅か一行の「吾妻鏡」の記事を見付けました。

源氏最後の血として名実共に認められた「竹御所(鞠子)」の一周忌の大任を相州邸で見事に果たした「竹御所姫君(女美子)」はなぜか、その為(母:竹御所の後始末)にのみに生き続けたような、執念のようなものが伝わってくるのです。

15歳の比較的長きにわたって、将軍家姫君を演じ通した「女美子(びし)」にしては余りにも影が薄い存在に思えませんか。

竹御所(鞠子)の本当の「影絵」のような一生に思えてなりません。

そして、死ぬ瞬間まで、苦しみ続けた実母「竹御所(鞠子)」の悩みを、、、

お母様の成した「頼経」との横取り結婚を恨んではいません!と叫んでいるように思えてくるのです。

私はこの身体が思うように自由にならなかった物言わぬ姫:「竹御所姫君(女美子)」の母親への後始末(一周忌の喪)を見事に果たしたことに力いっぱいの拍手を贈ってあげたいのです。

私は「女美子(びし)」の最期は枯れるように静かな自然死であったと想像しています。

だって、かの「尊き姫」ほど何も悪いことをしていない姫はいないんですもの!
神や仏が実在するなら、例えあの殺戮の連続であった呪われた鎌倉にあっても、日蓮上人がお許し下さると考える次第でございます。

そして、この人こそ源氏最後の血を受け継いだ人であったと断じたいのです。

もう、800年前のことですから、、、時効にして頂いて、、

祖父:源頼朝 祖母:(北条政子)

父:源実朝  母:竹御所(義祖父:源頼家 義祖母:若狭局)

血筋は「源氏三代の血」と「比企尼の血」を受け継いでいます。
忌まわしい「北条の血(本当は政子の血が流れているのですが?)」だけは受け継いではいません。

と枕辺で申すのです。

800周年(西暦2003年9月)の法事の日の夢話なのです。

皆さん安らかに眠ってください。無事に800年の法要を済ませたのですから、、、
合掌。

あの世で母「竹御所(鞠子)」に逢ったら、私(源氏と比企の血筋)は北条得宗の人々に毅然として、勝つことが出来ました」と御報告するのです。、、、

[完]

[9]服部 明子さんからのコメント(2003年04月30日 22時27分10秒 ) パスワード
  

林原さま

北条への怨み。
北条との死闘。

凄いどんでん返し。
思わず息を呑んでしまいました。


NHKの執権時頼の毒殺説を思い出しました。
当時は日本でも暗殺って頻繁だったのでございましょうね。

女性の場合、お産で死んだ、というのは誰でも信じますよね。
暗殺されても「お産で死んだ」と片付けましたら(そうかも知れない)と世間は簡単に信じます。


林原さまの800年供養
凄い啓示を頂いたのでございますねえ。
御先祖さまが何をおっしゃいたかったのか
800年間の遂げられぬ思いが晴れましたね。
良い御供養になりました。


北条に対する源氏と比企氏の怨み。
やっと北条に勝てた!
良い御供養になりました。


政子ー鞠子ー女美子
女3代
歴史に顕われた形は違うけれどそれぞれの激しい気性

林原さまのお書きになりました「女性の想い」
なるほどねぇ〜
としみじみ感じ入ってしまいました。


鎌倉時代
特に北条得宗時代って暗黒が渦巻いてて分かり難いのですが
女3代の怨念が見え隠れして
(NHKの桔梗さんも良かったですけど)

平家の女性の場合は哀しさで集約できてしまいますが
鎌倉時代の女性の場合政治の舞台で翻弄され翻弄し
政子おばばさまを起点に女性の本性が描けますね。

ふふふ
政子おばばさまは800年後比企の尼の御子孫にこういう形でうっちゃりを喰わされるとは思っていなかったでしょうね。
[10]林原英祐さんからのコメント(2003年05月01日 19時20分25秒 ) パスワード
  

 いつもながらの、心のこもった「伴奏」をありがとうございました。

 熟読のあとが、くっきりと感じられて、これに勝るものはありません。

 本当にありがとうございました。

 きっと立派なお家が出来ると信じます。

 パソコンの話ではありませんが、ハードよりはソフトの時代ですから、服部先生は立派なソフトの持ち主ですから、、、きっと、きっと
 じゃあ又
[11]のりかさんからのコメント(2005年05月31日 21時54分29秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2005年05月31日 21時58分19秒
[12]林原英祐さんからのコメント(2007年05月21日 00時08分46秒 ) パスワード


しばらくのご無沙汰でございました。

久しぶりに、竹御所姫君(小生の云う、女美子ービシ)のことを考えていました。

 尊い姫君の謎は、、、
 前にも紹介しました『吾妻鏡』の1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未) 11月14日 癸酉  の記事に出会ったことからです。、、、、

 11月4日『京都の使者参着す。去る月二十八日将軍家の御姫君(御他腹、御年十五と)御卒去と。 』
 
の一節であります。

 http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/123511.html

 疑問@はこの使者の主語が明確でない!(京都の誰が何故、将軍家の御姫君の消息を、、)

 疑問Aは去る(多分10月だろうが?)17日間も前の訃報を、、、

 疑問Bは将軍家の御姫君で15歳といえば1219年の生まれで、藤原頼経(四代将軍)の11歳の年である。源実朝(三代将軍)は1219年1月27日に討たれているので可能性は?

 疑問Cは『御他腹』の三文字が、、一番光を放っている。普通は言わない!

 疑問Dは将軍家姫君(当年15歳)など、本当に実在したのか?

 以上5点の疑問は小生が『私説:竹御所姫君(女+美子ービシと読む)』を書いてからずっと頭の中に靄になっていました。

 今でも、小生の嫌らしい想像の産物に対して、恥ずかしさが尾を引いています。(正直な小生の心境であります)

 その後の「小生の思考」の遊びの一部を紹介しますと、、、

 疑問@の『使者の主語』は京都の西八条の邸を寺にして夫(実朝)の菩提を弔いながら余生(82歳ー 1274年)を過ごした「坊門の姫(実朝正室)」である。
 と考えます。ということは、、、

『竹御所姫君(女美子)』は残された唯一の肉親(母:竹御所の義母)である「坊門の尼」を頼って既に出家していたのではないかと考えます。

 疑問Aは京都の尼寺で静かに世を去った「竹御所姫君(尼)」の訃報が鎌倉に届いたのが17日後であったのは物理的に当然の話です。

 疑問Bは「将軍家姫君」という表現は『三代将軍実朝』以外は、これも物理的に存在しません。

 それで、疑問Cの『御他腹』も、坊門の尼」からの使者が口にしたとすれば、至って自然に聞き取れます。タダ、実朝には「妾(しゅう)」は生涯存在しなかったとされていますので、かえって、北条政子の殊更熱心な骨折りで竹御所(14歳)が坊門姫の養女縁組をしたことが意味深であります。

 最後の疑問Dは「吾妻鏡」の1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未)の記事 、
 7月27日 戊子 晴  
 『竹の御所の姫君、相州の御亭に於いて御除服の儀有り。』

 http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/123507.html
 
 の「竹御所の姫君」とは誰なのか?
 まさにこの『姫』こそ翌年10月、15歳の若さで京都の西八条の「坊門の尼」に見守られながら独り静かにこの世を去った、『将軍家姫君(御他腹)15歳』と同一人物であろうと断じたいのです。

 又、夢の続きをみましたら、書きます。
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年05月21日 01時21分24秒 ) パスワード

林原さまの御先祖さまの(歴史の闇に葬られた)謎がだんだん明らかにされていきますね。



>「竹御所の姫君」とは誰なのか?
>まさにこの『姫』こそ翌年10月、15歳の若さで京都の西八条の「坊門の尼」に見守られながら
>独り静かにこの世を去った、『将軍家姫君(御他腹)15歳』と同一人物であろうと断じたいのです。
>又、夢の続きをみましたら、書きます。


同一人物の記述がどこかに見つかりますように。


一般読者に事情がちょっと分かるよう
以下をみつけましたので引っ張ってきました:


文暦は天福の後、嘉禎の前。1234年の期間を指す。
この時代の天皇は四条天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。



藤原頼経  建保6年1月16日(1218年2月12日) - 康元元年8月11日(1256年9月1日))
鎌倉幕府4代将軍。
五摂家のひとつ、九条家出身の摂家将軍で九条頼経とも呼ばれる。

九条道家と西園寺公経の娘・りん子(りんは手篇に侖)の子として生まれる。生まれたのが寅年・寅月・寅日だったので、幼名を三寅(みとら)と言った。

建保7年(1219年)に源実朝が暗殺された後、
鎌倉幕府の執権である北条氏は皇族を将軍に迎えようとしたが、
後鳥羽上皇に拒否される。

そのため源頼朝の妹の曾孫である頼経が鎌倉に迎え入れられた。
その時、2歳。
6年後の嘉禄元年(1225年)に元服し、頼経と改名。
2代将軍・源頼家の娘で15歳年上の竹御所を妻に迎える。

翌年幕府の四代将軍となる。
実朝暗殺からそれまでの間、鎌倉幕府には将軍が不在であった。


当初は北条氏の担ぎ挙げた傀儡将軍であったが、
歳を重ね官位を高めていくにつれ、
北条氏に反対する勢力が接近するようになり、
幕府内での権力基盤を徐々に強めていく。

また、父の道家と外祖父の西園寺公経が関東申次として
幕府・朝廷の双方に権力を振るい始めた事も深刻な問題と化してきた。

特に北条氏との関係に配慮してきた公経が死去し、
北条氏に反感を抱く九条道家が関東申次となると道家が幕政に介入を試みるようになってきた。

そのため、執権北条経時と険悪な関係となり、
寛元2年(1244年)、悪夢を理由に将軍職を嫡男の藤原頼嗣に譲る。
その後も鎌倉に留まるが、名越光時ら反北条氏勢力による頼経を中心にした執権排斥の動きを察知され、建長3年(1251年)京都に送還される。

藤原(九条)頼経と藤原(九条)頼嗣の二代を、摂家将軍と呼ぶ。



名越さんも顔を出してきましたね。笑
懐かしい!


鎌倉幕府内での暗闘
京都を絡めた暗闘

鎌倉幕府の秘密がチラッチラッと姿を見せては隠れますね。
[14]mino阿弥さんからのコメント(2007年08月11日 11時52分06秒 ) パスワード

最近、投稿しすぎて気が引けますが、図々しく。

「鎌倉・南北朝期の河野氏と美濃国」美濃河野氏源流小考
              伊予史談283号1991年10月
 石野弥栄氏論文(道後湯築城資料館長)の中に
「諸家系図纂」所収河野系図があり
この系図は、奈良興福寺の一条院門跡坊官内侍原(梨原)氏の所蔵本を「諸家系図纂」の編者である水戸徳川家(家臣佐々宗淳か)が貞享元年(1684)に書写したものである。
河野四郎通信−女子 美乃局 母北条時政女 関東竹御所御母儀也
          美濃国二木郷、肥後国砥河、木崎両郷本主也
通信女(美乃局)は北条時政女を母とし竹御所の母であったという。・・その母はふつう木曽義仲女ともいわれている。通信女とする所説、比企能員女とする異説もあって不明瞭なところが少なくない。・・・
河野四郎通信女が竹御所の母であったという前述の所説は、にわかに信じがたいが、それにしても鎌倉末期に河野氏支流(政氏)が地頭職を有した二木郷が、かつて竹御所の立願によって鎌倉大慈寺内に建立された新阿弥陀堂の寺領となっているから河野氏と竹御所を結びつける因縁の糸の存在を想定できる。・・「明月記」文暦元年八月二十六日条に引く「関東出家輩交名」は、その推測の手がかりを与えてくれる。・・・
「裏書云、関東七月廿九日戌時葬送 時房(北条)、泰時(北条)、義村(三浦)・・・美の殿方スノマタ刑部・・・」とあり、竹御所卒去の後、その葬送に加わった幕府要路の武士をはじめ、所役の武士・僧侶その他が見える。その際出家した武士中に「川野九郎左門」と「同又太郎」という者が見えるが、いずれも河野氏とみられる。
前者は当時の伊予河野氏惣領通久、後者は先述の美濃河野氏の始祖とみられる政氏(通政の子、通称又太郎)に比定される。その比定が正鵠を射たものとすると承久の乱後、河野氏惣庶ともに竹御所に近侍する立場(近習)であったことになろう。・・・当時彼女(美乃局)が竹御所と近しい関係ー竹御所の母というのは信用に値しないとしてもその乳母ないしは侍女ーにあってかって二木郷地頭であったとすれば、所領内墨俣の在地武士等が竹御所の葬儀に加わり、出家をとげたとしても不自然ではなかろう。ただし、この通信女は、他の確実な史料の裏づけがないから、先の筆者の解釈はあくまでも想像の域を出るものではない。ともかく、政氏流河野氏が美濃国二木郷地頭職を獲得した契機は、竹御所との親密な関係に求められよう。・・・

二木郷には、南山士雲が住持でもあった法蔵寺(臨済宗東福寺派・廃寺)もあり、現在の岐阜県大垣市墨俣地区です。
南山士雲の法蔵寺住持就任は、「北条貞房下知状」延慶ニ年(1309)五月八日付けに、はっきりと書かれており、群書類従などにも若干記述があります。
ご参考まで。




 
 
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