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佐賀の武士道書といわれている「葉隠」をあちこちから視点を変えて見ています。
それで、平家物語で安徳天皇を助けたことで有名な原田種直と葉隠に、わずかな関係がありますので、書き込みさせていただきました。
中国からの渡来を打ち出している葉隠の武人を取り上げてみたいと思います。それは神崎の江上一族もその一部であるいわゆる大蔵一族です。
この一族の代表は平家物語で有名な太宰の少弐原田種直。
「原田系図 」によりますと、彼らの先祖は後漢霊帝の曾孫阿智王。つまり溯れば漢の劉邦の末裔であるということになります。阿智王は三国時代の魏の興隆によって朝鮮半島の帯方郡に移住しましたが、応神天皇の20年、親族党類を率いて日本に帰化し、大和の国高市郡檜前村に本拠を定め、東漢使主の姓を賜り、15代春実に至って大蔵朝臣の姓を与えられました(播磨の大蔵谷に代々居住したため、ともいわれます。)。
そして、春実は940年、天慶の乱を起こした藤原の純友による太宰府襲撃を追討するため博多に下向。翌年、大将軍小野好古を助けて純友と海戦を行い、これを打ち破って伊予に敗走させました。
こうした活躍によって大蔵春実は太宰の少弐に補され、筑前御笠郡すなわち太宰府の近くに領地を得ました。そして、天慶7年、い城の麓、原田に築城し、原田氏を称するようになったのです。更に名を春種と改めて、以後代々「種」を通字としています(以上の記述は主として廣渡正利「大蔵姓原田氏編年資料」によります)。
そして、その末葉は江上、秋月、美気、原、三原、高橋、小金丸、波多江、筑紫などに分れます。
平家政権の時、原田種直は先述のとおり太宰の少弐に補されました。清盛が太宰の大弐ですからいわば実質的な長官であり、相当な権力を振るい、特に平家の海外貿易に大きな力を発揮したことでしょう。住居は佐賀県東脊振村・坂本峠の北側、今の福岡県那珂川町のあたりであったようです。
畿内を追われて九州に逃げてきた安徳天皇をかくまったことでも有名で、その御所は今の那珂川町・安徳小学校のあたりともいいます。彼が最終的に源氏に破れ、鎮西奉行として新たに太宰の少弐に任じられた武藤資頼は、種直の所領3700町歩を与えられたというのですからやはり大したものだったのでしょう。頼朝の咎めは被ったものの、筑前・伊都の荘に何とか領地を確保しました。
こうして種直の影響は大きく、例えば、博多の櫛田神社は佐賀・神埼の櫛田宮が元であるという説がありますが、それはこの種直が、平家と関係深かった神埼の荘と博多とを結ぶルート沿いの両方に置いたのではないかとする説が有力です。
つまりはこの大蔵一族は古来より大陸を含めた国内・海外貿易に深く関わっていたのであり、竜造寺家の主家である少弐冬尚を最後まで庇護したのが神埼の江上一族であったのも、その本拠・神埼が、佐賀県の城原川や博多側の室見川を通じ海外までの貿易ルートに当たっていたこと、少弐氏は太宰府の長官の職名を持ち、その貿易のいわばシンボルのような存在であったことが重要ではないかと思われます(だからこそ、少弐氏の宿敵・大内氏は太宰の大弐の職を得たのです)。
竜造寺隆信が五国・二島の太守になったのも、山内の領主神代勝利、長良父子と戦い、かつ福岡・油山の麓にある安平城を攻略して三瀬峠越えの博多へのルートを確保したことによるものでした。
こうして、少弐、大内、大友、竜造寺と、北部九州の有力戦国大名は全てこの朝鮮、中国へのルートをめぐって争い、興亡していきました。
江上氏も結局竜造寺隆信と和し、江上武種は隆信の子家種を養子とし、家種もまた朝鮮の役で卒去。その子は佐野、勝山と姓を改めます。ただし勝山大蔵は、後、竜造寺の再興を画して竜造寺伯庵ともに会津に流され、再び江上勝種と名乗ったとか。また、佐野右京亮の強力の話が葉隠に出てきます。
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