[1] | takahiroさんからのコメント(2003年03月17日 00時13分05秒 ) | パスワード |
永井彦熊著「落日後の平家」に以下の記載がありました。
『重盛の室綾子の方種直に拠る』
「重盛は治承三年七月に、四十二歳で薨じているが、熊野に参籠して病更まる
と、綾子の方の身の振り方を考え特に今まで目を懸けてやった、西海道太宰
府小弐筑前守原田種直に後事を託した。内大臣の位を極め忠孝両全の道を完
とうしたとは言え、それは外観上で位人臣を極めれば極める程重盛の悩みは
深かった。
一族の将来一家の安否もさる事ながら、事もあろうに舅父藤原成親が新大納
言の職にあきたらず右大将の位置を宗盛に先にされたことを恨み、法皇、西
光、俊寛、康頼等ろ洛中鹿ヶ谷の俊寛の山荘に集って、平家に対する不平を
謀議した。世に言う鹿ヶ谷の謀議である。単なる語らいや笑いさざめきに過
ぎなかったでもなかろうが噂は大きくなり一徹の清盛が聴いたのだからたま
らない。
其の首魁の成親の娘が事もあろうに重盛の室、綾子の方である。首魁の父を
もった綾子の方に対する平家一門や周囲の眼は冷たかった。猜疑の眼を以て
見られたことは重盛亡きあとはいよいよ厳しかった。遂に京に居たたまれず
千姫、福姫の二人と杢次、秋野の下司を伴い西海に落ち、原田種直を頼って
博多の津に着いた。種直は綾子の方を鄭重に取扱い、近くに五里ばかり離れ
た波呂と言う山里に竜谷寺を建てて住まわせた。
然し平家が滅んで源氏に代り、平家の為に力を尽した種直も、鎌倉方の睨む
所となり、鎌倉へ呼び寄せられ彼地で処断された。一説には赦されて旧領内
糸島郡に帰り、不遇な日を送って一生を過ごしたとも伝えられている。
源氏の天下になり、落人狩りの探索は続けられ、追補の手は竜谷寺にも及び
千姫、福姫の二人も遂に殺された。是を見た綾子の方も今は是迄と程近い谷
へ投身自殺したと言う悲惨な伝説が残っている。この綾子の方が重盛の正室
であるとすれば、維盛、資盛の母であり、年齢も既に四十を越えていたと見
る可きであろう。真実か否かは考証の余地があるが、伝説をそのまま記して
置く。」
とあります。
参考に重盛の室につき、藤原成親との関連を調べてみました。
◇重盛は成親の姉妹(藤原家成の娘)を室とし、清経をもうけている。
◇重盛の嫡子維盛が成親の娘を室とし、六代と女子をもうけている。
◇同じく重盛の三子清経も成親の娘を室としている。
◇(教盛の娘が成親の嫡男成経の室になっている。)
[2] | takahiroさんからのコメント(2003年03月17日 00時19分10秒 ) | パスワード |
また、上記原田種直の室は平頼盛の娘であるとの記録も残されています。
[3] | takahiroさんからのコメント(2003年03月17日 01時00分49秒 ) | パスワード |
上記「綾子の方」の伝説とは、実際に原田種直と関わった平家関連の女性の
源平合戦期の境遇を基とし脚色されたものなのでしょうか。スレッド題名、
「あや姫」に因み、関連はないかもしれないですがここに記します。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2003年03月17日 01時19分39秒 ) | パスワード |
重盛室綾子の方の哀しい半生を書いて頂きましたから
タイトルをちょっと変更させて頂きますね。
[5] | takahiroさんからのコメント(2003年03月17日 01時56分41秒 ) | パスワード |
関連資料として、以下2点付記します。
http://hikoshima.com/bbs/heike/100130.html
「清盛の子重盛の娘は漢の高祖の流れを汲む大蔵春実の子孫・原田種直の妻
となり、種直の弟四郎種光が筑後江上に分家して江上氏の祖になった。大
宰府を中心とした北九州の諸豪族は殆ど平家の一族から恩恵を受けた家臣
であった。」
http://www.tt.rim.or.jp/~kuwano/senju/page002.html
「筆者按ずるに、やはり原田種直の息子のいずれか(千手五郎種宣、嘉摩兵
衛重国、あるいは、賀摩兵衛尉種益)が、平家の滅亡と、秋月庄の拝領に
伴って、十三世紀頃に嘉摩地方に移り住み、千手氏を名乗ったのが始まり
ではないかと思える。種直の妻は清盛の異母弟である平頼盛の娘だったの
で、平氏の子孫でもあることになる。」
[6] | おこじょさんからのコメント(2003年03月22日 12時02分06秒 ) | パスワード |
takahiro様 服部様
詳しい書きこみをしていただき、どうもありがとうございます!
あれから、「清盛以前」(高橋昌明著)を読みましたが・・・
ああ、昔のものは難しいですね・・・
私が「あや姫」を探しているのは、先祖探しの一環です。
というのはある裏ルート(霊能者)で私は平家の流れだということがわかりました。
それも、一人の霊能者だけではなく、違う霊能者からも言われたことがありますから
確実なのではないか??と思っています。(こんな霊的なことを信じていただけないかもしれませんが・・・)
ただ私の家は家系図もなく、そのような話しはきいたこともありません。
わかっていることは、祖父母は八女地方の山の中(ある村)の出身で
名前を変えていることくらいです。
ひょっとして落人じゃ・・・とは思っていますが・・・。
八女地方は落人伝説もありますので・・・名前も変えて、詳しい家系の
ことがわからないのは、訳があるのではないか?と。
戸籍も80年くらいしかさかのぼれませんしね・・・。
ただ、霊能者がおっしゃるには、「自分でずっと調べたいと思っていることは
間接的にわかることがある・・・」とそれは、ふとそのことについて本を
手にするとき・・・人の話から・・・
とあるそうです。
漠然とした質問に丁寧に答えてくださって、どうもありがとうございます。
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2003年03月22日 13時24分18秒 ) | パスワード |
おこじょさん
一生懸命知りたいと努力なさいますと
いろいろな意味で分かるようになっていきますから
諦めないで八女の平家伝説などお読みになって下さい。
確かに八女のあたりは平家関連の土地ですから
この平熱でも八女について書かれていますので
検索なさってみて下さい。
いつも気に掛けていらっしゃればいつか御先祖さまのどなたからか連絡が来ますよ。
[8] | おこじょさんからのコメント(2003年03月22日 20時46分33秒 ) | パスワード |
服部様
早速のレスを頂きまして、どうもありがとうございます!!
気長に構えようと思います。
霊感なども全くなく、はたしてメッセージも受け取れるか?!と思いますが・・・
なにしろ、負けた側の歴史ってなかなかわからないですよね。
今後もお世話になります。
[9] | たまねこさんからのコメント(2003年05月18日 00時47分48秒 ) | パスワード |
みなさん、こんばんは。
『風そよぐ〜平家・徳島落人伝説〜』 荒井賢治 撮影/著
に、「春姫と綾姫」の落人伝説が記されています。
春姫については、平国盛(教経)の血縁であるとのことですが、
綾姫については、由来が書かれていませんでした。
以下、上記の本から引用させていただきます。
◎ 田野々神明部落(上勝町)
神明部落は、源平時代から現在に至るまで、すべてが大内家の分家、
また分家ばかりで、たとえ名字が違っていても、元をただせば皆同じ
血胤者ばかりである。大内家の始祖は文治元年(1185年)の源平合戦
の際、平家の能登守教経の配下に属した武将であった。源義経軍と
平家軍は屋嶋で激戦を交えたが、平家軍の戦況不利となり、主従離れ
ばなれとなってしまった。武将は教経の武具を奉持したまま、
わずかな部下を連れて海岸沿いに東の方へ走り、阿波の国に入って
勝浦谷の奥深く分け入り、田野々神明の地に土着した。
大内家の始祖は、主君教経公を崇敬するあまり田野ノ岡に社祠を設け、
『教経権現』と称し、年々祭祀を行ってきた。武具一切は大内家に
保蔵されていたが、火災により古文書などすべてを焼失してしまった。
わずかに武具の切れ端が残り、教経公の貴重品なればと箱に納めて
『神明神社』に奉納し、神明神社の神宝として本殿に安置してある。
時は流れ、旧神明部落の大内家一族の者は、わずかに『東岡正晃』、
『山部倍生』、香川倬真、久鹿喜好、香川宗敬の五軒のみとなってしまった。
また、殿川内には次のような伝説もある。屋嶋の戦いで敗れ、散り散りに
なった平家の一行がこの地に着いた。その中に姫がいて、名を綾姫といった。
綾姫は苦難に耐えかねて、淵に入水した。所持していた傘と下駄が、
七日七夜にわたり淵に浮いていたことから『綾姫の淵』といわれ、
悲運の姫を祀った『綾姫神社』が淵を見下ろすところにある。
淵に流れ込む水の音は鳴り止むことなく、今も往時のことを物語って
いるかのようである。
長くなってしまいました〜。『』部分は、写真が出ています。
綾姫の伝説は、地元では有名なのでしょうか??
今日、図書館で借りたばかりで、まだ全部は読んでいないのですが、
なかなか良い本ですよ。平家落人たちが辿った季節にこだわって撮影
された、タイトル通りの"風"や、その時代の空気を感じさせる写真集です。
何かインスピレーションを感じられるかも、しれませんよ。
[10] | そりちゃんさんからのコメント(2003年05月20日 12時07分41秒 ) | パスワード |
HPもあるんですよ、
私もときどき拝見しています。
http://www.kenji-arai.com/
とても美しいです。
[11] | たまねこさんからのコメント(2003年05月20日 23時05分32秒 ) | パスワード |
そうでしたか、そりちゃん。
残念ながら、HPのギャラリーには、綾姫の史跡は掲載されて
いませんでした。
もし、おこじょさんにピン!とくるものがございましたら、
写真集を見ることをオススメします。図書館にあるのではないかな?
関係ないけれど、「平家物語歴史館」のロウ人形、見てみたくなりました。
コワそ〜う。
[12] | おこじょさんからのコメント(2003年05月22日 21時14分19秒 ) | パスワード |
こんばんわ。
そりちゃんさん、たまねこさん、詳しい資料、知識をありがとうございました。
仕事で疲れ果てていて、やっと今日レスができます。
かなり詳しいことが分かるのですね。まだまだ漠然としたことしかわからず、
これに関して、私のライフワークになりそうです・・・
地道にさぐっていきたいと思います。
ありがとうございました!!
おこじょ
[13] | 服部さんからのコメント(2004年05月18日 20時48分45秒 ) | パスワード |
八女お嫁に来たのですが、この地区(集落?)は平家の姫が落人として浮羽から山の中の星野村に行きこの土地にやって来たとのこと。何年か前まで地区の人が集まって星野村のご先祖さまの墓参りをしていたそうだ。(そこには一族に関する看板が立っているとのこと)ちなみに集落の苗字はほとんど服部です。この話は市政誌にも紹介されていました。
[14] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年05月19日 00時42分20秒 ) | パスワード |
服部さん
八女は宗清ゆかりの地ですね。
それで今でも服部姓が多いんですねえ。
ちょっとタイトルをいじってみますね。
[15] | さちこさんからのコメント(2004年05月19日 21時27分22秒 ) | パスワード |
服部さんはじめまして。
八女の服部家に関してこの一族なら嬉しいのですが。
http://www.senior-net.gr.jp/arima/tanbou/tachibana/otiudo.htm
八女市平に平隆吉氏宅があり平知盛一族との関連があると言います。
知盛は清盛の第四子、壇ノ浦合戦の平家方の総大将です。
知盛の墓は竹野(田主丸町)にありますが、これは実は伊賀家長の墓です。
「家長は帝をはじめ知盛一行に供をしてきましたが、
竹野まで来たとき草野勢と戦い、知盛の身代わりとなり知盛は宗清と共に帝を守護 して久留米へ落ちた・・・・」と。
(八女郷土史)身代わりの伊賀家長は草野勢と戦い討ち死にしましたが、
田主丸町平にある知盛の墓は実は伊賀家長の墓です。
家長には妻と二人の男子がありました。
これらの家族は下妻郡光明寺(筑後市)に滞在したのち、
上妻郡新庄村今山(八女市)に居住し、
母方の姓、服部姓を名乗りました。二人が成長し弟は力量がすぐれ、
常に荒々しかったので里人は荒人と呼び今山の荒人神社に祭られています。
毎年9月22日、
今山の服部姓の人々は田主丸町竹野に墓参りに行くということです。
八女市平地区には平姓のほかに内田姓、八女市山内には安徳姓、長野に内山姓、北 川内に倉員姓がありますが、これらは平家一門の姓と言われます。倉員は筑後市の 蔵数から移住したともいいます。
星野から矢部へ通ずる石割岳の麓には平重盛の子がかくれたという伝説があり、そ こに岩観音が祭られています。「平家はカッパになり人々をなやます」と言われま すが、上陽にはカッパはいるが星野にはカッパはいない」ともいいます。星野には 平家城あり、岩観音であり親平家の風土があったものでしょう。
八女はお茶の産地でもありますね。
服部家とお茶は関わりが深いと思ってます。
またよろしくお願いします。
[16] | おこじょさんからのコメント(2004年05月25日 11時41分49秒 ) | パスワード |
服部様、さちこ様
はじめまして、こんにちわ!
思いがけない地元のお話、どうもありがとうございます!
その土地の人しかご存知内ないことが多々あるんですね。
アンテナをはっていますが、なかなか・・・。
貴重なお話をして頂きまして、どうもありがとうございます!
[17] | くらちゃんさんからのコメント(2004年10月11日 03時39分31秒 ) | パスワード |
はじめまして。
くらちゃん(倉員)といいます。
最近ひょんなことから、自分の姓について興味をもちルーツを探るという
ほどの大げさなものではありませんがいろいろと調べております。
このページへは検索エンジンの「倉員」「いわれ」というキーワード
でたどり着きました。
平家とのかかわりは今までの調べで何となくわかっております。
>八女市平地区には平姓のほかに内田姓、八女市山内には安徳姓、
>長野に内山姓、北 川内に倉員姓がありますが、これらは平家
>一門の姓と言われます。倉員は筑後市の 蔵数から移住したと
>もいいます。
私は北川内のとなり、黒木町の出身です。
黒木にも倉員姓が10件ほどあります。
これからもっと調べて行きたいと思います。
そうですか・・・八女は平家の里なんですね。ふるさとを離れて
27年、初めて認識しました(笑)。
平家物語を読んでみようと思いました。
ではでは。
[18] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月11日 07時14分18秒 ) | パスワード |
くらちゃんさん
本当に珍しい御名字で良かったですね。
(笑)
[19] | 倉員さんからのコメント(2009年02月14日 13時48分28秒 ) | パスワード |
同じく別の 倉員です
うちの親父からは、倉員は平家に仕えていた医者の子孫だと聞いています。
だからかな?
珍しい名字のわりに、ネット検索すると医者の数が多いような、、、
[23] | 服部宥ノ輔さんからのコメント(2018年11月12日 15時14分27秒 ) | パスワード |
さちこ様、おこじょ様
はじめまして、熊本の 宥ノ輔 と申します。
昨年、6月に投稿しましたが
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101596.html
私の父が他界したことを機に、自分の戸籍を辿ってみると、
現在の、八女市新庄(旧:八女郡八幡村)に、在りました。
その後、いろいろと調べて、八女の服部と平神社の繋がりを知ったので、確認のため久留米市田主丸町の平(知盛)神社へ行ってみたところ、付近の住民の方が、毎年9月22日に平神社の例祭をしているという事を伺い、今年の9月22日にお邪魔させていただきました。
例祭は、毎年、付近の住民の持ち回りの当番制で(たぶん近くの神社の)神職さんを呼んで、その後、直会をする小さなお祭りでしたが、ずいぶんと昔から伝承されてきたお祭りなのだろうと感じました。
ちなみに、知盛の墓の約10北側の裏手に、伊賀平内左衛門家長の墓もあります。
例祭の後、八女市新庄の私の本家(私の家はここの分家の分家になります。)を訪ねて、平神社のことと新庄今山の伝承を話したところ、今山の昔「桶屋」をしていた服部さんは昔、親戚だったと言われたので、今山の荒人神社へ行きました。
近所の方へ訪ねてみると、荒人神社は昔桶屋をしていた服部さんが管理をされているということで、住所を聞くとすぐ近くの家出したので訪ねてみました。
私の本家との繋がりは確認できませんでしたが、定期的に田主丸の平神社には参りに行っているということで、この伝承を確認できたことには驚きました。
荒人神社の境内には古い絵が飾られていたので、また改めて詳しく調べて報告したいと思います。
この伝承は、久留米市の水天宮の伝承にも繋がるのではとも思っています。
http://www.geocities.jp/tsurufs/ginnshieisonn-2.htm
は、久留米の安徳天皇生存説についてまとめてありますよ。
【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る 】 |
|
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇ DB-BBS-system V1.20 by Rapha. |