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 投稿番号:100458 投稿日:2003年02月10日 17時59分20秒  パスワード
 お名前:皇竹
服部家イベント:雛祭りTV放送地域限定に
キーワード:服部
コメントの種類 :ニュース  パスワード

愛知県弥富町服部家に於いて「おひなまつり」が開催されます。

期間:3月1日〜4月4日
主に服部家に江戸時代より伝わるおひなさまの展示、
と、随時、石田流華道展,三曲合奏、お茶会。

催し物として
3月1日:PM2時より、PM6時よりの2回
「葦笛の会」特別演奏会、日本の歌、ハンガリ−舞曲など。

3月2日:AM11時より
記念講演「放送と日本語」NHKアナウンサ−榊壽之氏
と、朗読宮沢賢治の「虔+公園林」

3月9日:PM5時より
フル−トとハ−ブの演奏
元N響主席、宮本明恭氏

又、3月1日〜3月16日まで、
日本画家、滝下尚久氏作品展が開かれます。

尚、入館料は1.000円(文化財保護のためご協力下さい)
お問い合わせは
服部家住宅(服部通也)、0567-67-2339

平熱は服部家にかかわりの方が多いので、お知らせします。




[1]服部 明子さんからのコメント(2003年02月10日 22時47分57秒 ) パスワード
  

はい
ありがとうございます。
[2]さちこさんからのコメント(2003年02月15日 16時45分53秒 ) パスワード
  

おひなまつりのお手伝いに来るよう、
ホンヤさんから召集がかかりました。

仕事の関係で平日は無理なので用事のない日曜にはなるべく行こうと思います。
柘植さんお近くなのでいかがですか?

平熱の方でいらっしゃる方がいましたら教えてください。
整形手術をしなければいけませんので。

ホンヤさんの写真がありました。
津島神社関係のものです。
ちなみに70才です。
若い頃の写真はなかなかのハンサムでしたけど。
いかがでしょううか?

http://www.city.tsushima.aichi.jp/comment.htm
[3]川口 信さんからのコメント(2003年02月15日 17時34分02秒 ) パスワード
  

 >服部家は美男・美女系である。

 本当にそうでした。ホンヤさんはやはり上品で格調高いお顔で羨ましい。
 
 私なんか蜂須賀小六同様の草族の出で髭が濃く見るからに夜盗そのものズバリです。 脱帽(笑)

 私の方にはお呼びがかかりませんが、3月3日にさちこさんが内裏様の変わりにおすわりしているなら是非見学に行きたいです。

 冗談はさておき、本当に行きたく思案中です。夜行バス、それとも新幹線、東名を車で(もちろん自分で運転して)などなど。

 行ったとしても手術代は負担できませんので悪しからず。
 それとデジカメを持参してよいでしょうか?。もしなんでしたら平日に行きますが。さちこさんの言うとおりにします。
[4]さちこさんからのコメント(2003年02月16日 17時30分42秒 ) パスワード
  

川口さん。

遠いと思ったからですよ。

明子さんも遠いですが名古屋空港までお迎えに参上しますので。
明子さんがいらっしゃるのなら、
かなりのかたが集まりそうですね。

明子さんホンヤさんに手術代払ってもらいましょうね。
高須クリニック。
これ全国区でしょうか?

夜行バスが一番経済的と思いますが疲れますしね。
車はホンヤさんの所が、
東名阪の弥富ICからすぐ近くなので意外と便利です。
ただ普通の家なので案内の標識がないので、
土地勘がないと少し判りにくいかも。
勿論場所はお教えしますが。

新幹線、バスもそうですが、
名古屋からはJRよりも近鉄が便利と思います。
本数が多く速いと思います。
特急以外でしたら、
急行、準急、普通どれでも止まります。
でも普通は遅いので乗らないほうがいいです。
急行で10分ぐらいです。

JRは乗らないのでよく判りませんが、
名古屋での乗り継ぎは当然JRの方が便利です。
JRと近鉄は少し離れてます。

お好きな方をお選びください。

弥富駅からはタクシーがいいかな?
そんなに料金かからないと思います。
でも弥富駅でタクシーひろえるか???
多分大丈夫です。みかけたことあるような気がします。

私が行ってる日なら当然駅まで参上します。

個人的な目的、
平熱にのせる位の目的ならデジカメOKだと思いますよ。

でも私の写真はやめてくださいね。(笑)
私写真写りは悪いので。。。
[5]川口 信さんからのコメント(2003年02月16日 18時58分04秒 ) パスワード
  

 この機会に是非ホンヤさんのご尊顔を拝したいと思います。

 親切に色々お考えを頂き有難うございます。
 そうですね。夜行バスだと朝までに髭が伸びてしまうし、自動車だと時間が懸かり過ぎるし、新幹線だと東京から1時間30分ちょっとで名古屋まで、余った時間を他のことにも利用できますし。これが一番良いと思っており、来週にもチケットを手配しようと思います。

 津島神社の方にも寄ってみたいし。
 名古屋にお住まいの京都「川口家」の方にもお会いしたし。
 夢が膨らんでおりまして、計画を練っております。

 さちこさんにはご迷惑をお掛けしないようにします。柱の陰からそっと拝見させて頂くつもりです。
[6]服部 明子さんからのコメント(2003年02月17日 04時09分14秒 ) パスワード
  

さちこさん
お手伝い御苦労さまです。

JRで名古屋からですと弥富で降りて
反対側の津島行きに乗り換えて「5の3駅」?とかいう所で降りて?
そこから歩くのですが結構迷子になりますね。

よく似た茅葺き屋根の立派な建物があって、どれか分からないでしょう。


ホンヤさん宅の訪問も公開なさってらっしゃる時でしたらチャンスですね。
[7]さちこさんからのコメント(2003年02月17日 21時32分10秒 ) パスワード
  

ホンヤさんから連絡いただきました。

3月3日、
朝8時から約二十分間ホンヤさん宅から全国へTV生中継だそうです。
ズームイン。
日本テレビ系、
名古屋では中京テレビです。

伊賀の服部家のことも宣伝しておいて下さいとお願いしておきました。

[8]つげとしさんからのコメント(2003年02月19日 06時50分37秒 ) パスワード
  

さちこさん、ご案内ありがとうございます。
ぜひ伺わせていただきまね。

全国放送はよろしいことですね。
文化財保護にもよろしいことでしょう。

テレビは善し悪し含めて、影響が大きいですからね。
実は昨年末、ウチの小学生の子の発明作品がNHK名古屋でほんの1分だけ写されたのですが、なんか自分が撮ったビデオを見ているような錯覚をしてしまい、同時に何万人もの人が観ているなんて実感が湧きませんでした。

詳細未定ですが、万障繰り合わせて参らせていただきますよ。
忍者のように顔を隠して、神出鬼没させていただきましょうか。
[9]さちこさんからのコメント(2003年02月21日 12時51分07秒 ) パスワード
  

忍者装束で行くのが目立たなくていいでしょうね(笑)
顔も隠れるし、整形手術しなくていい。

明子さんホンヤさんに費用出してもらうどころではなくなりましたね。
何しろ全国放送ですから。
ホンヤさんご自身が。。。。
増毛もしなきゃいけないです。

大きな事件がなければいいです。
以前、知人がテレビに出る事になっていたのですが、
阪神大震災の日で当然お流れになりました。

イラクへの攻撃はホンヤさんの放送がすんでからにしてくれと、
ブッシュ大統領によろしくお伝えください。

川口さん
柘植さん

ご遠慮なさらないで下さいね。
また場所など判らない事がありましたら言ってください。

当日どの人が服部さんですかと訊ねても、
「み〜んな服部だがね」
ということになります。
[10]川口 信さんからのコメント(2003年02月21日 19時58分37秒 ) パスワード
  

色々と細やかなお気遣い有難うございます。さすがホンヤさんがさちこさんにお手伝いを依頼する訳がわかりました。

場所(津島神社・弥富)はインターネットで検索し、地図をプリントアウトしましたのでたどり着ける思いますが、念のためホンヤさんのご住所をお知らせくだされば有難いのですが。公開がまずいのでしたらメールして頂ければ幸甚です。
 
さちこさんを探すには明子さん似の美人を見つければ簡単ですので。

なんでしたら3日にテレビ中継の際、Vサインでもして頂ければよいのですが。(笑)
[11]さちこさんからのコメント(2003年02月22日 12時43分51秒 ) パスワード
  

ホンヤさんにお聞きしたところ、
期間中でもできれば電話で事前に連絡してほしいとのことでした。
重要文化財といっても普段の生活の場所ですのでよろしくお願いします。
電話番号はトップに皇竹さんが書かれてます。

催し物も多分当日でも大丈夫だと思うけれど、
事前に電話でお名前を教えて頂いて予約した方が間違いないとのことです。

何しろ全国放送で宣伝しますので(笑)

死ぬほど判りにくいのですが弥富の地図です。

http://www.town.yatomi.aichi.jp/index.htm

上の方の東西の線が東名阪です。
丸い印が弥富インター。
各名所が赤紫の楕円形で記されてます。
インターの上、一番上に二つくっ付いてるのがありますが、
上が柴の森、その下に服部家住宅となってます。

弥富の名所案内です。
他にあまり大したものはありませんが、
ご参考にどうぞ。

http://www.town.yatomi.aichi.jp/bunkazai.htm
[12]さちこさんからのコメント(2003年02月22日 12時48分11秒 ) パスワード
  

マップのアドレスをコピーしたつもりですが、
トップになってます。??

マップの所を見てください。

柴の森ではなくて柴ヶ森でした。
[13]さちこさんからのコメント(2003年02月26日 21時54分04秒 ) パスワード
  

期間中でも連絡が必要と書きましたが、
期間中のみ連絡なしでもOKになりました。
念のため連絡しておいてもいいかも知れませんが。


[14]さちこさんからのコメント(2003年03月02日 17時18分57秒 ) パスワード
  

緊急報告!

今、ホンヤさんから戻りました。
明日のホンヤさんの放送が中止になりました。
中京テレビと日本テレビの折り合いがつかなくなったとかで。

間にあえば良いですけど、
ここを読む前にテレビをみてしまった方ごめんなさい。

明子さんイラクはいいから、
先に日本テレビを攻撃するようブッシュ大統領にお伝えください。

柘植さんお疲れ様でした。
[15]さちこさんからのコメント(2003年03月02日 17時27分41秒 ) パスワード
  

中京テレビのみ明日の夕方5時45分頃から放送があるそうです。
[16]服部 明子さんからのコメント(2003年03月02日 23時20分32秒 ) パスワード
  

おやおや限定版になってしまいましたか。
[17]さちこさんからのコメント(2003年03月03日 01時16分09秒 ) パスワード
  

ローカルでも、
ビデオ送ります。

ホンヤさんのお雛様は素晴らしいものでした。
これは一見の価値ありです。(ほんと)

お庭番付き雛、あ〜そうかでした。

皆様、ぜひおこしください。
来年はやらないとのことでしたので、
今年を逃したらいつになるやら。
(これは説得しときますけど)
詳しくはまた。
[18]服部 明子さんからのコメント(2003年03月03日 01時52分51秒 ) パスワード
  

よろしく!
ぺこり
[19]つげとしさんからのコメント(2003年03月03日 07時08分00秒 ) パスワード
  

「おひなまつり」、家族で神出鬼没させていただきました。
さちこさん、いろいろとお手数おかけしました。ありがとうございました。

おひなさまは、しばらくの間、徳川美術館にご出張だったそうですね。
おかえりなさいまし、ですね。
ガラスごしでなく、部屋の雰囲気とも一体となって、こりゃもう
すごかったです。それから、ホンヤさん直々のご解説、ごちそうさまでした。

車をとめていると、「重文の服部さん宅はこちらでしょうか?」って
聞かれました。初老の感じの良いご夫婦でした。
(本当はこちらが先に聞こうと思っていたところだったのだが)

今年は年頭に奈良で国宝をきずつけてしまった事件がありましたよねぇ。
テレビも良いですが、おうちをそっくりガラスにいれるとなると
大変なことになります。
興味のある人に口コミのように伝わるような
インターネットのうまい活用ができるとよいのでしょうね。

雰囲気のよいカップルなど、数組の方が見えていました。

たいへん、ありがとうございました。

[20]服部 明子さんからのコメント(2003年03月03日 08時08分17秒 ) パスワード
  

川口さま

画像をHPにアップなさってください。
お願い出来ましたら、
ワタクシがこちらにも転載しますので。

画像をアップするのにhttpアドレスが必要ですので
パクリさせて頂きたいのです。
[21]さちこさんからのコメント(2003年03月03日 20時07分18秒 ) パスワード
  

ホンヤさんの放送が見ました。
3、4分程のものでしたが。
簡単な家の説明、
お雛様を出すところ、お雛様の説明などの内容でした。
奥様やお嬢さんも出てました(やっぱり美形)
ホンヤさん最後には少し涙ぐんでました。
本当にありがとうございますといいつつ色々思うところがあったのでしょう。

何故かBGMに東儀秀樹さんの曲が流れました。
お雛祭りの雅な雰囲気と言う事で選ばれたのかも知れませんが。
それにしても不思議な巡り合わせです。
遠い御先祖様からのメッセージのように思えて、
私も少しウルウルしてしまいました。

昼のまどろみ、という優しい曲です。
この曲が入った東儀さんのCDホンヤさんにプレゼントしようかなと思ってます。

全国放送の件は残念でしたが、
先日ホンヤさんが放送される時間帯にその番組を見ました。
少し???と感じるものがありました。
その日たまたまだったのかもしれませんが。

中京テレビとは一日かかって打ち合わせや、
事前の収録をしたそうです。
内容も決まっていたそうです。

その後の日本テレビからの申し出が、
重文に対しての配慮がなく、
興味本位的なところもあったようです。
ホンヤさんとしてはこれに応じることが出来なっかたと言う事だと思います。

品格の服部家でございますから仕方ありません。

お雛様の記事がのってるものをみつけましたのでぜひ見てください。

http://www.maing.co.jp/maimai/Wagamati/aichi/wa_030208a.html

http://www.chunichi-tokai.co.jp/00/ach/20030225/lcl_____ach_____002.shtml


[22]服部 明子さんからのコメント(2003年03月03日 23時57分32秒 ) パスワード
  

友人からのメール:

夕方のトップニュースで見ました。
すごかった。通也様の「親だと思って」には、しんみりでした。
[23]さちこさんからのコメント(2003年03月15日 21時21分25秒 ) パスワード
  

確定申告の関係でご無沙汰しました。
貧乏暇なしということで。

ホンヤさんは元中学の音楽の先生で校長先生もしてました。
教え子かと思われる方のHPみつけました。
ホンヤさん宅で撮影したものですが。

http://www7.ocn.ne.jp/~iono/p6.html


ホンヤさん所へ行くといつも先生、先生、それは〜せん〜せい〜。
いつも教え子さんらしき方がいます。
生徒さんに好かれていたいい先生だったのです。

私がホンヤさんに遊びにいくと、
同じ服部家だからと珍しいものを見せて下さいます。
「まあ〜今日は特別にワシの自慢のいものを見せてやるは」
ということで。
う〜ん、こりゃ、尾張徳川家の特別の秘密の拝領品??
と思いきや、あらら。。。

「ワシの若い頃の写真だがね〜。いい男だろが」
「はいはい。」

で一番のお気に入りはね、
戦後間もない頃(注:関ヶ原の戦いではない)
愛知県で国体が開かれたそうです。
色々な学校が開会式に参加する事になりました。
ホンヤさんの所の学校も参加する事になって。

色々もめたそうです。
子供たちの並び方、どう順番を決めたらいいのか?
当事はまだ家柄とかもあったし、
成績の順番?背の高さ?

そこでホンヤさん!
「子供たちに順番なんかつけられない、
 お金持ちの子貧しい子
 勉強できる子出来ない子
 運動神経のいい子悪い子
 皆平等なんだ。輪になろう!」

皆で輪になった開会式が結構話題になったそうです。
新聞にものって。
その新聞の記事ホンヤさんの自慢です。
(そうよの〜徳川家の拝領品より大切よの〜。うるうる。)

聖徳太子のなんとやら。
もしかしたら服部家が太子に教えてやったのかもね。。?

明子さん。
ビデオ遅くなってごめんなさい。
もう一度見てからと思いつつ。
火曜日に送ります。
懺悔。
[24]服部 明子さんからのコメント(2003年03月16日 00時13分54秒 ) パスワード
  

さちこさん

ビデオもう数日ぐらいゆっくり送ってください。
理由はメールに書きました。
よろしくお願いいたします。
[25]川口 信さんからのコメント(2003年03月16日 19時18分47秒 ) パスワード
  

今日:3月16日突然思い立って名古屋へ出掛けました。朝6時に起きて山の手線の駅に行きこれから乗れる新幹線の時刻と列車を検索してもらいやっと乗れました。なにしろ行き当たりバッタリ」の性格でしてさちこさんには色々と気を使って頂きながら失礼し申し訳ございません。まず津嶋神社に詣で御札と家内安全のお守りを頂き、禰宜さんに津嶋大橋家の事をお聞きし、お忙しいなか、色々と説明を頂きました。
 それから弥冨に行きついたらちょうど小雨が振り出し、ホンヤさんのお屋敷に到着のころはシトシト雨の中大勢の方々がお集まりになっていらっしゃいました。あいにくさちこさんとはご対面ができませんでしたが、これも連絡もせず伺ったから致し方ございませんが、これが一番残念。
 東京から見学させて貰いにお伺いしたと述べた大変喜んでおられました。
 ホンヤさんのお雛様が飾られているお座敷に上がらせて頂き、小一時間ばかりお雛様や服部家のお話を拝聴することができ感激してしまいました。気さくな人柄で帰りにはワザワザタクシーを手配していただき、心地よいひとときをすごさせてぃただ来ました。有難うございました。
[26]さちこさんからのコメント(2003年03月16日 21時57分34秒 ) パスワード
  

川口様。
申し訳ありませんでした。

ホンヤさんからお電話を頂きました。
本当に残念でした。ごめんなさい。

お心遣いありがとうございました。
どうしてすれちがいになってしまったのか。

また会う日のために、
ご先祖様が時間を下さったのかもしれません。

服部家住宅。
どうしてこの家が四百年の時を経て往時の姿を留めているか不思議です。
建築学的にも興味があるし、
この時代の建物としても美しく芸術的だとも思います。

本当に今回のことは残念でしかたありません。
ホンヤさん本当に良い方です。
もう少し暖かくなってまた一緒にお会いできればいいですね。

服部家にとって大切な家です。
ここを拠点として、
全国、色々な服部家から情報が集ったら楽しいのにと思います。
[27]川口 信さんからのコメント(2003年03月17日 09時58分06秒 ) パスワード
  

 >服部家にとって大切な家です。
 >ここを拠点として、
 >全国、色々な服部家から情報が集ったら楽しいのにと思います

 同感です。何しろビックリしたのが弥冨駅前からタクシーに乗った訳ですがさちこ様から教わった弥冨の服部屋敷の地図を運転士さんに見せたとたんに服部本家さんのところですねと言われた時。また何か機会がありましたら再度お伺いしたものです。(行き方も覚えたし、次回は乗り換えもスムースにゆくと思います)

 またホンヤ様のお屋敷に入り、お雛様の飾り付けられたお座敷に入った時、現代から時代が数百年前にタイムスリップしたみたいに感じられました。お座敷いっぱいにに飾られた赤い毛氈と雛壇に圧倒され、そのまえに正座したら、なにかお雛様と語り合いたいような気持ちになりました。お雛様は高さ45センチくらいもあり、その大きさといい、お顔の気品ある穏やかさには日本古来より伝わる優雅さを漂わせており、我々一般庶民のようなコジンマリしたお雛様とは格段の差でありました。なかでも公家武官が束帯を着て正座したものは初見でした。ホンヤ様のご説明では、束帯衣装の裾(キョ):背中の方に垂らした帯ののようなもの)が正座の為、肩口から前に持ってきており、その色もとりどり、色により官位が違うそうです。
[21]のURLで右大臣、左大臣の下の段に並んでおすわりしておりますのがそうであります。

 なにしろ昼間の興奮が頭に残っておりまして、昨日はなかなか寝付けませんでした。写真の方は撮影は遠慮して下さいととありましたので目と頭の方に焼き付けてまりました。
[28]さちこさんからのコメント(2003年03月18日 00時22分36秒 ) パスワード
  

川口さんありがとうございます。
お彼岸に(21日)お墓参りに行くのでその時にまたお邪魔するつもりです。

服部家=忍者の家。
そういうイメージではないでしょ?
徳川家に仕えていた服部家が忍者系(?)
だったのかも知れないけど、
伊賀の服部家など賤しい身分家康にとりたてられて、
世に出てきたと言うのは違うと思っていただけましたでしょ?(笑)

先日仕事で伊賀に行きました。
帰りに伊賀のドライブインで食事をしたのですが、
伊賀の宣伝のポスターみて少し驚いた。

「歴史を変えた町、伊賀」
(はっきり覚えてないのですがそんなのです。)

今までは伊賀越えで忍者が家康に貢献した位にしか語られなかった様に思うのです。
このポスターには南北朝時代、源平時代にもふれてました。
これは進歩だ!(平熱ももしかしたら少しは貢献したか?)

「源平の時代にも伊賀の忍者服部家の影が」
と言う事でしたが。。。
忍者というの消して名門に書き換えてやればよかったな(笑)

少し朗報です。
伊勢国司北畠氏、
また戦国時代の伊勢は記録も少なくはっきりしたことがわからないそうです。
(何しろ信長にボロボロにされたから)
北畠氏の城についてもはっきりした場所が特定できないそうで、
北畠氏が公家か、戦国大名であったのかそれすらも判らないのだそうです。

で、このたび城の発掘など、
戦国時代の伊勢について大々的に調査されるそうです。
その中心になるのが九州大学の服部教授!
多分、服部英雄氏ではないかと思うのですが(名古屋出身の方です)
北畠氏家臣の会の代表が服部家の人と言うことが、
平熱でも以前話題になりましたよね。
その関係の方かなとも思うのですが。

北畠氏の家臣といえば私の知ってるのでは、
久居七栗城主、服部民部なんとか(いいかげんな記憶)
伊賀服部郷服部城主、服部伊賀守。
だったと思います。これ調べなおします(笑)
いずれも家長の末裔ということでした。

この服部家の子孫から、
本居宣長の門人、服部中庸がでてます。

この服部家、弥冨や長島の服部家よりも、
な〜んか賢そうな気がしないでもないのですが・・??

服部友貞が多気城北畠氏のところで暗殺されているので無縁ではないとは思います。
色々な輪が広がっていけばいいですね。

服部家の親戚は、皆服部家の親戚だ!
日本に広げよう!伊賀の服部家のワッ!

あっ!忘れましたラスベガスもです。
[29]takahiroさんからのコメント(2003年03月19日 01時13分37秒 ) パスワード
  

『伊勢平氏の系譜』(横山高治著)に<北畠家臣帳>からとして、以下の北畠
 家臣の紹介がありました。全員平姓であるそうです。

○安藤将監(一志郡美杉村)
○荒木摂津守(上野市荒木、服部半蔵の一族)
○安西清右衛門(多気・大淀城加番)
○会津八郎左衛門
○岩間刑部少輔(関氏の亀山城代、子孫は幕府旗本や石見・松平家家臣)
○家城主水(一志郡白山町・家城城主)
○伊藤市郎兵衛(多気郡宮川村)
○稲垣安芸守(一志郡白山町佐田、子孫は芸州・浅野家へ)
○臼杵与四郎(久居市谷杣、子孫は松阪衆中)
○大内山但馬守(度会郡大宮町阿曽城主)
○大久保伊豆守(関氏家臣へ)
○落合織部正
○神戸下総守
○加用隼人正(四日市西野城主)
○鹿伏兎左京佐(鈴鹿・加太城主)
○渋谷十郎(松阪市松尾)
○千賀地又左衛門(伊賀、服部氏一族)
○野呂長門守(安芸郡芸濃町雲林院城、子孫は幕府旗本の他、近江の大溝城主、肥後の細川氏に仕官)
○服部伊賀守(子孫は服部半蔵の他、津の藤堂家、津軽藩の家老、松阪城代の与力など)
○堀木九之助(松阪市射和)
○古市与助(安芸郡)
○福地伊予守(阿拝郡柘植城主)
○丸山半蔵(伊賀丸山砦主将)
○本居惣助(松阪市阿坂城加番、子孫に本居宣長)
○湯川庄司(紀州、熊野権現神職)
○横山左馬助光時(一志美杉村)
○吉村半助(一志美杉村)
○朝倉下総守(四日市茂福城主)
○奥田加賀守(松阪)
○金子十太夫(津)
○小林図書頭(一志美杉村)
○平田将監(鈴鹿)
○三浦兵部少輔(一志美杉村、従騎大将)
○村林一族(多気)
○山崎式部少輔(阿曽城代)
○横山仁助(伊賀)
[30]服部 明子さんからのコメント(2003年03月19日 10時17分56秒 ) パスワード
  

takahiro さま

上記全員平姓でしたら皆一族ということですね。
伊勢伊賀は平家の本貫地ですから全員平氏(=平家)であって欲しいのですが
やはりハッキリ<全員平姓であるそうです>とお書き頂いて安堵いたしました。
(^^)
[31]服部 明子さんからのコメント(2003年03月19日 10時19分10秒 ) パスワード
  

takahiro さま

もし「有山」という一族のお名前が出て来ましたらお知らせくださいませんか?
宜しくお願いいたします。
[32]takahiroさんからのコメント(2003年03月19日 11時07分14秒 ) パスワード
  

『伊勢平氏の系譜』からもう少し引用します。

「伊勢平氏の伝説とロマンを求めて、平家一門の栄枯盛衰を書いた。
 …戦国時代に活躍した平家ゆかりの武士を書こう。
 そこで三重県一志郡美杉村多気、南朝悲史に包まれた霧ガ山城趾のふもとに
 ある旧別格官幣社の北畠神社を訪ねた。ここを本拠とした伊勢国司、北畠一
 族は南朝忠臣、北畠親房の三男、顕能に始まり、九代、約二百年にわたり伊
 勢、伊賀と大和、紀伊の一部を支配してきた。
 織田信長の伊勢侵攻で滅亡したが、南北朝時代には最後まで、とことん足利
 幕府と戦い抜き、のち戦国大名となった武門の名流である。当然のことなが
 ら平家ゆかりの武士が旗下に加わった。北畠一族が亡び去ったのちは帰農し
 たり、地侍となったが、多くの者が徳川家や藤堂家をはじめ諸藩に召しかか
 えられた。」

 [29]へ追加

○奥山常陸介(津市小森上野)
○奥山左馬尢(津市小森上野)
○関下野守(亀山城主)
○長井帯刀(多気・佐奈城主)
○羽根掃部佐(名張)
○忍田美濃守(安芸郡芸濃町忍田城主)
○阿曽弾正小弼(松阪阿曽城主)

「こうした平家武士の中で、大名となったのは関氏の一族だけ。八代目の実治
 の時、亀山城主となり、馬上百騎、家来四千人をかかえた。この中には鈴鹿
 市や鈴鹿郡で栄えた神戸、峯、国府、鹿伏登の各氏が与力として仕え、その
 家臣に小川、白木、小野、若菜、野村、岩間、草川、住山、高楠、田名瀬、
 稲積、堀内の各氏がいた。そこかしこに地名が残り、それらの姓を名乗って
 いるお家も多い。」

とありました。

「有山一族」についても何か判れば投稿します。
[33]服部 明子さんからのコメント(2003年03月19日 14時01分39秒 ) パスワード
  

よろしくお願いいたします。
[34]takahiroさんからのコメント(2003年03月19日 18時55分20秒 ) パスワード
  

服部明子様

 有山一族については、

 「伊勢の有山氏 有山主馬助は三重郡川尻城主にして
  永禄十一年信長の為めに亡ぼされる。」

 とあります。
 
[35]さちこさんからのコメント(2003年03月19日 22時49分49秒 ) パスワード
  

takarikoro様。
ありがとう感謝です。

北伊勢に関しては死ぬほどロ−カルでした。(笑)
同級生だった○○ちゃんとこが?
なんて地名続出でした。

でもね〜。
服部といえば半蔵に繋げてるのが少し不満でございます。
服部家の為、あまり細かいことを言ってはいけないと思いつつ、


「半蔵のとこは、松平=徳川家のご贔屓だろが、
 北畠氏にでて来るな!ワレ!わかっとるんカイ。ワレ!」

と申し上げたい心境でございます。

出所がよく判らないものですが、
参考のためということで。

http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake13.3.html


服部民部少捕  平 家長末葉 久居市七栗一色城主 侍所
服部伊賀守  平 家長末胤 上野市服部郷服部城主  


とされているのですが
いつもながら服部家中心で申し訳ないです。
他の家臣もいるのにね。
でも白いのは。

館 薩摩守  平貞盛末枝 四日市市阿倉川城主  
楠 土佐守  橘氏楠木正成末流 三重郡楠城主  

舘〜?
舘ひろしのお母さんの実家四日市阿倉川に近い。
お母さんの実家と言う話だったけど、
舘ひろしのおばあさんの家ということでお母さんの家となってるけど。
もしかしたら、舘家は四日市か?
舘は四日市に多いです。

舘と館、違うじゃないかとお思いでしょうが、タチはタチです。

別スレで石原都知事が実は、
武田氏に仕えた服部家の子孫だったと言うのがありました。

なら石原裕次郎も服部家ですよね。と〜ぜん!
武田家に仕えた服部家が源氏を称するのも仕方ないけど。。
この服部家なら平家だろ!本当はと思います。

あの石原軍団は平家一族か?
正確な情報願います。(笑)

話がずれました。
服部英雄氏についてはこれを。

http://www.rc.kyushu-u.ac.jp/~hatt/gaku.html#1

誰や〜。服部家を美系と言ったの?
凄く期待したいのですが、
こちらの服部家と似たり寄ったりという感じもしないでもないな。(失礼嘘です)

冗談を言って後になりましたが、
戦国時代の伊勢、伊賀は他の地域と違う信長への抵抗があった。
そんな感じがするのです。

天下わけめの関ヶ原!
といっても、実際は近所の百姓が弁当持って見学してたらしい。
そんな余裕が庶民にはあったらしい。

何かテレビでとアメリカのイラク攻撃についてみてる日本人と重なる。
テレビや新聞で報道されないこと、
真実の事、庶民にはわかりません。

でも実際には表面にはでない情報が水面下にあるのでしょう。
歴史に残る事柄は氷山の一角。

忍者の忍の字は、
刀に心と書く。

深いものがございます。


(我が服部家に伝わる祖父の教え)

戦争をすると儲かるヤツがいるんだよ。(秦氏か?)
[36]さちこさんからのコメント(2003年03月19日 22時59分53秒 ) パスワード
  

刃に心です。忍は、また間違えた。
大切なとこで。
読んでみてあまりのも、タ〜ケなので明日削除致します。
[37]服部 明子さんからのコメント(2003年03月20日 00時00分18秒 ) パスワード
  

takahiro さま

感謝です!
友人に早速知らせました。

また他の有山姓の方のために新しくスレッド立ててお知らせします。
[38]takahiroさんからのコメント(2003年03月20日 23時04分48秒 ) パスワード
  

さちこ様

 服部姓についての御教示ありがとうございます。

 あらためて、北畠家臣一覧を記載します。

○有山主馬助(三重郡川尻城主)
○安藤将監(一志郡美杉村)
○荒木摂津守(上野市荒木、服部半蔵の一族)
○安西清右衛門(多気・大淀城加番)
○会津八郎左衛門
○岩間刑部少輔(関氏の亀山城代、子孫は幕府旗本や石見・松平家家臣)
○家城主水(一志郡白山町・家城城主)
○伊藤市郎兵衛(多気郡宮川村)
○稲垣安芸守(一志郡白山町佐田、子孫は芸州・浅野家へ)
○臼杵与四郎(久居市谷杣、子孫は松阪衆中)
○大内山但馬守(度会郡大宮町阿曽城主)
○大久保伊豆守(関氏家臣へ)
○落合織部正
○神戸下総守
○加用隼人正(四日市西野城主)
○鹿伏兎左京佐(鈴鹿・加太城主)
○渋谷十郎(松阪市松尾)
○千賀地又左衛門(伊賀、服部氏一族)
○野呂長門守(安芸郡芸濃町雲林院城、子孫は幕府旗本の他、近江の大溝城主、肥後の細川氏に仕官)
○服部民部少捕(平家長末葉、久居市七栗一色城主 侍所)
○服部伊賀守(平家長末胤、上野市服部郷服部城主)  
○堀木九之助(松阪市射和)
○古市与助(安芸郡)
○福地伊予守(阿拝郡柘植城主)
○丸山半蔵(伊賀丸山砦主将)
○本居惣助(松阪市阿坂城加番、子孫に本居宣長)
○湯川庄司(紀州、熊野権現神職)
○横山左馬助光時(一志美杉村)
○吉村半助(一志美杉村)
○朝倉下総守(四日市茂福城主)
○奥田加賀守(松阪)
○金子十太夫(津)
○小林図書頭(一志美杉村)
○平田将監(鈴鹿)
○三浦兵部少輔(一志美杉村、従騎大将)
○村林一族(多気)
○山崎式部少輔(阿曽城代)
○横山仁助(伊賀)
○奥山常陸介(津市小森上野)
○奥山左馬尢(津市小森上野)
○関下野守(亀山城主)
○長井帯刀(多気・佐奈城主)
○羽根掃部佐(名張)
○忍田美濃守(安芸郡芸濃町忍田城主)
○阿曽弾正小弼(松阪阿曽城主)
○館薩摩守(平貞盛末枝、四日市市阿倉川城主) 
○楠土佐守(橘氏楠木正成末流、三重郡楠城主)
[39]川口 信さんからのコメント(2003年03月22日 16時33分50秒 ) パスワード
  

 一段落したみたいなので。
前にもどこかで書き込みしたと思いますが、北畠満雅が出てきましたので、正長元年(1428)には伊勢の国司北畠満雅が後亀山法皇の孫にあたる小倉宮(泰仁王)を奉じて挙兵するという事件があった。その時、河口家は一族の大橋家と共に小倉殿に味方し土岐興安を討ったと家譜に書かれてあります。(読売新聞社版・「日本の歴史5及び川口家家譜より」
 ホンヤ様の家のパンフレット:重要文化財・服部家住宅(表紙・裏表紙をも入れ16ページ)カラー印刷:A5判を当日買い求めました。大変良く出来上がっておりますね。特に由緒のページは分かり易く、紋章(家紋)も巧く出来上がっておりますね。これでますます、知名度アップ間違いなし。現代はピーアールの時代ですから。

 それと、ホンヤ様におかれましても、津嶋神社の関係から大橋家及び氷室家についてもご存知でした。たいへん有難い事です。 

 十数年前に亡くなられタホンヤ様のお母上のお話も当日お聞きしました。そのお話も小冊子にテッキリ乗っていると思いましたが、色々と事情がお有になって世間には公表できない事なのでしょうか。
[40]さちこさんからのコメント(2003年03月23日 23時44分39秒 ) パスワード
  

面白いのをみつけました。

http://www.rc.kyushu-u.ac.jp/~hatt/gaku.html#1

雲居寺  北口  興禅寺末  服部伊賀守家継 一四四〇年開山 


雲居寺、(ウンゴウ寺と読む)ゴに、、がなければ〜ぎぁ〜です。
寺の古くの記録では、
服部伊賀守家継になってます。

津島では、一般に服部伊賀守宗純とされてますが。

第65番札所・・・同市北町、曹洞宗「龍寶山 雲居寺(うんごうじ)」。永享年間(1429-41)の創建で、織田家に縁ある服部伊賀守宗純の創建

http://www.town.miwa.aichi.jp/miwatown/html/syakai/shiryo/newpage06-88.htm

一向一揆の後の津島祭りは、
信長へのごますり祭りだったというのはご存知でしょう。
詳しくは省きますが。

無知な私には川口家、大橋家のことはよく判りません。
このことは専門外です。
だから川口さんとは争う気がないです。

服部家に関しては地元の地理をいかして少しは判る。
信長による一向一揆完全制圧が天正二年。
ホンヤさんが今の家を建てたのが天正四年、
津島祭りが復活したのもこの時です。

この事をホンヤサンは信長にワビを入れ許して貰ったとしてますが、
その後、信長の徹底的な伊勢制圧、
天正伊賀の乱(伊賀への虐殺行為)を考慮すると、
伊賀の服部家の頭領としては疑問です。

弥冨の重要文化財の服部家は大切な家です。
服部家だけではなく日本人が守らなくてはいけない家です。
だから私も今後ともお付き合いしていきたいと思ってます。

だからこの古くから残った家をもって服部家の本家とするのは間違い。
天正四年の家だからです。

古くからの津島神社の祭り、
市江車を行っていた黒宮家この辺りの一向一揆大将でした。
服部友貞とともに信長に立ち向かった家です。
一向一揆でボロボロになって、
黒宮家は津島祭りの市江車を再建で出来なかった。
友貞も同じです。

その後の津島衆は信長と共に経済発展してきた。
というか、
津島は戦国時代、貿易港、経済の中心として栄えていた。
この地を信長は制圧したかったのです。

越前からやってきた織田家、
織田家内の闘争もこれは興味深いものがある、
信長自体、織田家の庶流だったのですから。

でも、それらは過去の歴史です。
だから、私は信長好きです。

でも今の時代の日本では歴史をまげてはいけない。
服部友貞も、ホンヤさん所が勝手に系図を繋げていたので(ごく最近のこと)
伊賀の服部家と思ってましたがそんなことは何処にも書いてないです。
勿論、服部家の頭領であったという証拠などない。
(私としては家紋、
 北畠氏の関係からして少なくとも伊賀の服部であったと思いたい)

服部家は歴史の敗者だったから仕方ないかもしれないけど、
なぜ今、重文を武器にしなきゃいけないの?
ここを訪ねたら服部家の本家と言ってもその古さから納得すると思う。
でもそれは卑怯だ!

でも何故か、ホンヤさんとことウチが仲良くしてる不思議。。。?
やっぱり、忍者かしら?

川口様
ホンヤさんの本音は○○庁などクソくらえ!
服部家は恐いぞ(笑)


[41]さちこさんからのコメント(2003年03月23日 23時48分07秒 ) パスワード
  

takahiro様

字を間違えてました。
ごめんなさい。

最近花粉症で目が調子悪くて。
(言い訳)
[42]takahiroさんからのコメント(2003年03月24日 01時24分30秒 ) パスワード
  

さちこ様

 現在京都東山区、高台寺、霊山観音のある敷地には、平安時代から中世に
 にかけて、雲居寺(うんごじ)という寺院が存在しました。

 四条家当主、藤原家成はこの雲居寺の有力な壇越であり、その縁から、こ
 の寺院の北の敷地に四条家の山荘を兼ねた寺院、金仙院を建立しており、
 そしてこの金仙院は、平家と四条家の縁より、建礼門院が最晩年を過ごさ
 れた地となりました。(建礼門院は晩年、大原寂光寺―白河善勝寺―鷲尾
 金仙院と遷御されています。)

 雲居寺、金仙院の東は鷲尾と称される丘になっており、この丘には建礼門
 院御陵が、推定地として伝えられています。 

 この高台からは、南西の方向に六波羅一体が見渡せます。

 さちこ様の「雲居寺」の記述から、建礼門院御陵を想起しました。

>雲居寺  北口  興禅寺末  服部伊賀守家継 一四四〇年開山 

 平家服部家当主開山「雲居寺」と、建礼門院縁りの「雲居寺」は関連する
 のでしょうか。

 花粉症、お身体お大事にして下さい。

 [40]さちこ様の文章、真摯なものを感じました。
[43]takahiroさんからのコメント(2003年03月24日 01時44分58秒 ) パスワード
  

[42]
寂光寺→寂光院

また上記白河善勝寺とは四条家の家の寺であり、四条家当主は「善勝寺長者」
と称されました。

○雲居寺、金仙院について(「平家後抄・下巻」より)

「四条家は、家成いらい雲居寺の大壇越であった。家成は、雲居寺の北に接
 壌した鷲尾に山荘兼寺院を設け、塔を建立し、自らはこの塔に葬られた。
 隆季は、晩年、この寺院に小規模ながら本格的な堂宇を営み、これを金仙
 院と号し、雲居寺の別院としたのであった。<後略>」
[44]川口 信さんからのコメント(2003年03月24日 09時15分12秒 ) パスワード
  

さちこさん、争うなんてちょっとも思っておりません。同じ後醍醐天皇の子孫を守護したきた同士として、何百年も続いおられます、服部家のホンヤ様には尊敬しております、憧れさえ感じております。母上様の話とは服部左京亮に関することです。
 第65番札所・・・同市北町、曹洞宗「龍寶山 雲居寺(うんごうじ)」。永享年間(1429-41)の創建で、織田家に縁ある服部伊賀守宗純の創建。または下記URL
によれば、服部伊賀守家継の創建とあります。同じ伊賀守を使用している事を見れば繋がりがあると想像されますが。

(津嶋の寺)http://nagoya.cool.ne.jp/yomagi/tsusimanotera.html

 大永年間(1521〜1527)に津嶋四家七苗字党と尾張清洲の城主織田彦五郎信友と領地の境論にて合戦があった時、勝幡城の城主織田弾正忠信秀が中に入り家臣の坂井右近政尚をもって和睦させ、信秀の嫡女「於蔵の方」(一説には信秀の父・信定の時代とも言われており)美濃薮田(現岐阜市)の小嶋日向守信房の養女として大橋源左衛門重一の嫡男清兵衛重長のところに嫁がせ、これにより縁者となって織田信秀に従ったという事です。織田信秀が主家の大和守家を凌いで頭角を現わすことが出来たのは武将的才能もさる事ながら、その頃尾張の港町として、津嶋神社の門前町として栄えていた商業都市津嶋を味方につけたからとも言っても過言ではないと言われております。だからと言って従属したと言う事ではないのです。またそれにより、津嶋神社の紋、木瓜紋を織田家が使用し始めたとも言われております。


[45]takahiroさんからのコメント(2003年03月24日 09時57分17秒 ) パスワード
  

追記2

何度も話を外し申し訳ないですが、『平家後抄』の角田文衛氏は、鷲尾雲居寺・金仙院について、次のようにも記されています。

「いまもし鷲尾の墓地が平安時代に遡るとし、一方では四條家が平安時代から鎌倉時代にかけて特定の墓地を所有していたとすれば、雲居寺の最有力な檀越(だんおつ)であり、かつ鷲尾荘=金仙院をもっていた関係から言っても、鷲尾の中腹部−現在もまばらに墓がある−にこそ四條家の墓所があったと想定されよう。更に臆測を進めると、四條家の家成と極めて親密であった平忠盛の一家−六波羅家−の墓所もこの辺に所在したのであろう。

 建礼門院が鷲尾に葬られたと言う所伝は、いささか唐突に聞えるけれども、四條家、また恐らく六波羅家の墓所が鷲尾に存したと言う想定によって真実性を加えるし、また逆にこの所伝は、右の推測の信憑性を増大さすものである。想うに女院は、早く歿した最愛の妹−隆房の妻−の近くに葬られたのではなかろうか。と仮定すれば、鷲尾の中腹の稜部−現在、伏見城より移建したと伝えられる重要文化財の時雨亭と傘(からかさ)亭が建っているあたり−に家成の三重塔があり、それに近接して女院の陵(みささぎ)が営まれたと推定されよう。

 これまで建礼門院・平徳子の消息は、『大原御幸』の後は、頗る曖昧模糊としていた。しかし延慶本や四部合戦状本の『平家物語』が伝えている簡単かつ断片的な史料に他から照明を与えてみると、女院の後半生の輪廓は、朧気ながら闡明(せんめい)されるのである。」

角田氏は、平家一門六波羅家の墓地自体が、雲居寺・金仙院の墓地にあったのではないかと推測されています。

地理的には、この雲居寺・金仙院の西に位置する八坂の塔は、琵琶法師が平家物語を唱し始めた発祥の地とも伝えられていますので、六波羅家墓地、建礼門院御陵を背に、当初琵琶法師は「平家」を唱し始めたとも推測できるかも知れません。

津島の雲居寺からやや話が外れました。
[46]takahiroさんからのコメント(2003年03月24日 10時05分29秒 ) パスワード
  

平貞能が都落ちの際、主忠盛の遺骨を求めに戻った墓地は、この鷲尾雲居寺・金仙院の墓地であったのでしょうか。
[47]さちこさんからのコメント(2003年03月25日 00時06分53秒 ) パスワード
  

川口様。

昨今、何かとテレビ新聞等の影響で言葉が不適切でしたらお許しを。

弥冨のほんやサンと言ってますが、
ホンヤさんとこは、元は市江村の庄屋だったのです。
これが半分に分かれて、
明治になって、佐屋町と弥冨に合併された。

弥富には弥富の本家があったのです。
弥富、鯏浦(うぐいうら)の大服部。
今はこの家は残ってません。
でも弥富の服部家にとってはこの家が本家です。

あの家は市江村のホンヤであって、
弥富の服部家の本家でもない。
400年の歴史とは別問題なのです。(笑)
弥富の服部家の本家でもないのに全国の服部家の総本家てか?
嘘こけや〜。

町内の服部家の同士のケンカだがねコリャ。
なのに何故か、
町内ゲンカに織田信長、徳川家康、南朝、平家などがでて来る。
これが伊賀の服部家の謎です。

南朝遺臣、服部伊賀守宗純に関しては我が家の寺でも子孫として、
寺の石版にヘブライ語で服部伊賀守源宗純後也と彫ってありました。
なんで〜源なの〜ォオオ?(これ判らん?)

市江村のホンヤさん、
めんどくさいのでホンヤさんにしとくけど。

少し文句言ってやろと思うのですが、
ホンヤさんに遊びに行くとね。
体調の不良、家の維持のための財政難を武器にします。
これには弱い。。。ワタクシでございます(泣)
卑怯ぞよ〜(笑)

まあ〜何とでも言ってくれや。
宇宙中の服部家の大本家とでもな。

でも家紋に関してですが、
矢筈と並び矢羽では少し違うのです。

矢筈=黒いべったり塗った矢
矢羽=矢の羽の部分です

あの家が使っている家紋は源氏車に並び横矢筈。
矢筈系の服部家は半蔵系、
または伊賀の忍者屋敷に似た家紋です。

家紋の違いについてはよく判らないです。
何しろ服部家の系図に残ってるのは矢筈系の家紋の服部ばかりだから。

服部伊賀守家継と宗純、
同系だと言うのは賛同です。

でも少しこだわるとすれば、
家長の子孫とする服部家は多数あれど、
私の知ってる限りでは服部家の関係では「家」の字を、
通し字にしてる服部家はないのです。
(徳川家康を除いてはな。。)
この家継がもしかしたら本当の家長様の子孫?
そんな気がして。
今、消し去ってしまってはいけないと思うのです。

takahiro様。

雲居寺についてありがとうございました。
気になったので検索して調べました。

ま〜びっくらしたの何の!
平家どころか北京に曹洞禅の寺として、
雲居寺がありました。

京都東山の雲居寺。
八坂神社にあったのですね。
八坂神社はスサノオノミコト、牛頭天王の神社です。
祇園祭が有名ですが。
津島神社の市江車は祇園祭りのコピーです。
牛頭天王信仰で、
西の八坂神社、東の尾張津島神社とされてます。
これは偶然ではないです。

こんなのもありました。

http://www.webslab.com/shinchaku/ohara/kgt0101.htm

「雲居寺という寺は承和4年(837年)、

桓武天皇の菩提を弔うため建立された。 
本尊の如来は東大寺の大仏と並び称されたが、

応仁の乱で焼失、廃寺となった。
その跡に建てられたのが秀吉の正室ねねが剃髪して住んだ高台寺である。

先日、高台寺を訪ねてみた
いかにも女性の住居らしい、やさしく美しい
寺であったが、雲居庵という非公開の茶室があるだけで、
雲居寺の跡を偲ぶものは何もなかった。

今は廃寺となった雲居寺は鎌倉時代、
花月のような半僧半俗の喝食たちの本拠地であったらしい。」


八坂の塔は聖徳太子の建立ということですが。
観阿弥も雲居寺が舞台の謡曲を残してます。

自然居士です。

然居士とは人の名前で、禅寺に仕える修行中の僧。いわばインターン生です。行動力、正義感に富んだ自然居士が、人買いに買われた少女を助ける交換条件に見せる芸づくしや人買いとの激しい会話の応酬が見どころです。 世阿弥の父、観阿弥の作で、ストーリーは現在進行形で展開します。冒頭から観客を説法に集まった聴衆に見たてる手法や、後半の芸づくしでは、中世流行の「曲舞(くせまい)」「簓(ささら)」「羯鼓(かっこ)」を劇中で見せるなど、知らず知らずのうちに引き込まれます。


とありますが。。。わから〜ん?です。(涙)

琵琶法師と服部家何か関係があったか?
そんな気もするのです。がっ?
[48]川口 信さんからのコメント(2003年03月26日 17時54分10秒 ) パスワード
  

 >家長の子孫とする服部家は多数あれど、
 >私の知ってる限りでは服部家の関係では「家」の字を、
 >通し字にしてる服部家はないのです。

そうですね。それでふと思いついたのですが、服部家長の弟は家継です。

 家と言う字は古来より、宗とよく間違えられております。毛筆でくずして書くとよくにております。それで家長、家継の系統の服部家の子孫が何時の時代に読み違え、それから代々、宗の字になってしまった。
 宗清も「続群書類従第五巻上」の尊卑分脈脱漏平氏系図(136頁)に見えるがこれは「家清」となっているが「宗清」の誤写といわれている。

 一考察ですが、こんなふうにも考えられます。

 誰か考証する人が出てくるのを祈るだけです。(涙)
[49]さちこさんからのコメント(2003年03月26日 23時42分07秒 ) パスワード
  

川口様。

>誰か考証する人が出てくるのを祈るだけです。(涙)

本当にそうです(涙U)

「伊賀の服部家は平家物語で家長が伊賀としているので、
 平氏と称しているにすぎない。」
そんなことがよく書いてあります。

服部家の過去の記録は少ない。
現存するものとして、
伊賀者大由緒記なるものは、
家長が屋島の戦いの後伊賀に逃れ、
保長に改名、その子が保清で伊賀の服部家に分かれた。
家紋は矢筈。

こんなの信じるヤツいるか!
と、怒ってましたが、
まあ。屋島の戦いの後逃げた服部家もいるよな。(笑)

でも私の微力でまだまだ研究中で未熟ですが、
まあ、手前味噌で恥かしながらですが。
あの。。。
もしかしたら平家一族の繁栄は伊賀のおかげではございませんでしょうか?

服部伊賀守家継創建 雲居寺
曹洞宗の寺です。
北京近郊の雲居寺、曹洞禅の寺という。
ここは日本からの留学僧の多い寺で、(唐だか宋だか隋だか忘れた)
ユネスコの世界遺産に推薦されてると言う事です。

平家と宋との貿易、そして秦氏なにか夢が広がります。

弥富近辺の服部家紛争。
これはま〜。気にしないで下さい。

昔の権力者が過去の歴史を塗り変えたと言うか、
系図を都合の良いように書きかえたという事はあるでしょう。

徳川家康の源氏。
藤原氏の中臣氏。

で、ま〜きわめつけは。。。。
天照大神の天皇家だわな。

そんなのが怪しいといえばきりがないことです。
(しかし個人的に藤原氏はな、というのがあるのでこれは徹底抗戦するぞ!秦熱で)

過去に御先祖様が残された系図、
これは誰に何といわれようと守っていくもの。

浪合記に書かれたこともきっと大切なことが残っている。
何百年前のものが議論できる価値あるものだと思う。
正しいことと間違いはこれから研究していく事だと。

浪合記は伊賀の服部家が名を残した(忍者以外で)
貴重なものです。

権力者が武力で嫡流の名、
過去の有名な権力者に無理やり系図をつなげていった。
それは、当時としては仕方のないこと。
勝者は勝者です。
これは誇るべき先祖の遺産です。

今の時代どう言われても何百年続いてきたものです。
これは大切なものだ。

でも今の時代に歴史を変えて欲しくない、
服部家の嫡流やホンヤつくったり。
服部友貞一族が信長に詫びをいれたことにするな!
友貞は怒っているぞよ〜。

服部左京亮友貞。
マイナーな人物なのですが、
私の調べた所、1546年、
信長が12歳の頃より織田家と対立してました。
信長のとーちゃん信秀の頃からでしょうね。
記録に残っているよりもっと前から対立してたと思う。

織田家、信長打倒に一生を捧げたヤツだな(笑)
あげくのはて、信長に暗殺されて。。。ドジなヤツ。

でも正月に伊勢国司北畠氏に年賀中の暗殺だったのです。
お正月というと日本人にとっては今でも特別な日です。

クリスマスやイスラム教のラマダンに奇襲攻撃をかけたそんな感じです。
信長の卑怯者!
でも私としては嫌いなのは滝川一益。
信長様はトップとして、
ニッチモサッチモどうにもブルドッグ状態のような??(古いか?)
指導者とはそんなもんです。


桑名にも長島にも木曽岬にも大橋さんはたくさんいらっしゃいます。
まあ、田舎者だけどその地その地での有力者が多いです。

な〜んか我家と気の合う大橋さん、
ご縁のある大橋さん。

大橋家と服部家これは戦国時代以前の関係、
南朝系だったか、信長派だったかそれ以前のことだと感じます。
やはり、平家の流れというか。

あれから少し忙しくホンヤさんへは行ってません。
川口さんとおあい出来たなら、
長島の叉木茶屋へおつれしたかったです。

長島町営の喫茶店みたいなものですが、
色々な農産物、海産物も売っていてそれは生産者の名前入りです。

大橋さんのものが沢山ありました。
長島で服部家と一緒に農業や漁業にたずさわってきたのだと思うのです。

大橋家のジャガイモや大根売ってるお姉さんが美人で可愛くて、
名札みたら服部と書いてある。
ほんとだって〜。

機会があればまた是非お越しください。
今後ともよろしくお知恵をかして下さい。
[50]takahiroさんからのコメント(2003年03月27日 01時53分24秒 ) パスワード
  

川口様の御説への補記

>家と言う字は古来より、宗とよく間違えられております。

『本朝世紀』においても、川口様の御説が当てはまる箇所があります。

久安三年十一月十四日項に記載されている、

◇常陸介従五位上平朝臣宗盛 とは、
◇常陸介従五位上平朝臣家盛 が正しいという説が通説となっています。

また『忠盛集』(平忠盛私家集)に収められている、

 実成朝臣みまかりたりけるころ、小大進こにおくれたりとききて 忠盛
 なみだがはわれはせきあへぬこのみちを君よりほかにたれかしるべき

の、「実成朝臣」とは「家盛朝臣」の事であるとの考証もなされています。

川口様の御説のように、毛筆でくずして書くことにより、このように誤っ
た伝わり方が起こっているのだと思います。


さちこ様

雲居寺が桓武天皇の菩提寺であったとの事実、初めて知りました。
また元祖「雲居寺」は中国大陸に存在したのですね。

私ももう少し雲居寺関係、調べてみます。
[51]川口 信さんからのコメント(2003年03月27日 08時46分05秒 ) パスワード
  

takahiro様心強い補足、有難うございます。

 >な〜んか我家と気の合う大橋さん、
 >ご縁のある大橋さん。

 >大橋家と服部家これは戦国時代以前の関係、
 >南朝系だったか、信長派だったかそれ以前のことだと感じます。
 >やはり、平家の流れというか。

 さちこさま、その言葉を長いこと待っておりました。有難うございます。

 「角川日本姓氏歴史大辞典23:愛知県」を借りて来ました。その中に、服部姓関係を抜き出してみます。
尾張国海西郡(のち津嶋(津島市)弐は吉野から良王に従って津島にきた津嶋七苗字の一人に服部伊賀守宗純がいた。同じ系譜を引く氏は、津嶋牛頭天王社の神官・神楽方・神子方にもあった(尾張志)。
 海西郡では、鯏浦村(弥冨町)の城主に服部左京将監がおり、荷之上(弥富町)の一向徒服部左京は、桶狭間の戦いで一向宗徒を率いて武者船数十隻で大高城に兵糧を運び松平元康(後の徳川家康)に力を添えたという(尾張志。
荷之上にはほかに、信長・家康に仕えた服部権大夫、宅跡の残る服部三郎右衛門政家がおり、政家の子孫・同族は江戸期にあった(同前)、また正保三年には、同村の服部弥兵衛の先祖が新田を開発したという(尾張志)。などなど
現在県内に八、三四三件あり、うち名古屋市中川区に五四三件、同市港区に三五九件、稲沢市に三〇六件、海部郡弥冨町に三〇〇件、名古屋市の千種区・北区・西区・中村区・昭和区・南区・緑区、一宮市・春日井市・津嶋市で二〇〇件以上、名古屋市の東区・中区・瑞穂区・熱田区・守山区・名東区・天白区、瀬戸市・犬山市・尾西市・小牧市・海部郡佐屋町・同郡蟹江町・豊橋市・岡崎市・豊田市で一〇〇件以上を数える。また、豊田市に九三件、岩倉市に九一件あり、郡部でも、愛知郡・西春日井郡・丹羽郡・中島郡・海部郡・知多郡に多くあり、尾張地方に多い。なお、三河では、幡豆郡一色町に七一件ある。
 何かお役に立てば良いのですが。

[52]さちこさんからのコメント(2003年03月28日 01時06分00秒 ) パスワード
  

川口様。

ご理解いただいて嬉しいです。(涙V)
この地方には有力者の服部家が沢山います。

私が何故平熱に上記の事を書いたか御理解ください。


観阿弥の母が楠木正成の姉妹であったといううことで、
物議をかました上島家の系図。
伊賀の服部家と楠木正成の関係は当然と今では思いますが。
当時は衝撃だったらしい。

真偽の程を専門家が色々調べたらしいけど、
細かい事を除けば信ぴょうせいのある系図だそうです。

世阿弥親子の親戚に宗系である服部家の名前が残ってる。
宗系の服部家の伊賀守宗純が全くの架空でないのがわかるのです。

ましてや賤しい猿楽師親子であった観、世阿弥親子が、
何故貴族的教養を持っていたか謎とされてますが、
親王様にお仕えする宗系、服部家なら当然のことだと思うのです。

服部家については服部友定、友貞、左京、左京進等。その他もろもろ。
色々あって、同一人物か別の人物かわかりません(帰ってきた泣U)
川口さんからの情報は、大変参考になりました。
やはり、服部家は横の繋がりが大切だと感じました。
これはゆっくり読み返して調べます。

>takahiro様。

雲居寺。
これは私にしては珍しくの大発見だったかも?
伊賀の服部家がこの時代に、
津島に痕跡を残し経済発展してたと考えられるからです。
これが平家や、桓武天皇に繋がるのなら。。。
ぜひよろしくお願いします。
[53]takahiroさんからのコメント(2003年03月28日 19時34分42秒 ) パスワード
  

「京都・山城 寺院神社大事典」から抜粋

雲居寺
 菅野真道が桓武天皇の冥福を祈って八坂郷の地に「道場院一区」を創建、八坂寺
 (法観寺)に接していたため、「八坂東院」とよばれたことが知れる。これが
 雲居寺の創始で初め天台宗、後に浄土宗を兼ねる。寺号は中国河北省房山県にあ
 った臨済宗の寺、雲居寺にちなむものか。

金仙院としては、雲居寺の寺中の院として、[42][43][45]で記載したのと同内容の
事項、藤原四条家の菩提寺としての説明がなされています。

雲居寺・金仙院とは、四条家と平家の密接な関係から、平忠盛を初めとする平家六
波羅一門の菩提寺でもあったのではないか、との角田文衛氏の説を踏まえると、服
部伊賀守家継創建 津島雲居寺と京都東山雲居寺の接点とは、やはり平貞能ではな
かったかと思われます。

平家都落ちの際、平貞能が京都へ戻り、忠盛の墓へ詣でたとの記録が残されている
事から、もしこの時貞能が詣でた墓地が東山雲居寺・金仙院であったなら、その際
忠盛の遺骨か何かそれに類するものを譲受けた可能性もあると思われます。

その由緒が同じ一族平伊賀守家長末裔、服部伊賀守家継に伝えられ、東山雲居寺に
因み、津島雲居寺を開山するに至ったのではないかとも推測されます。

あるいは貞能に接点を求めなくとも、平家一門平伊賀守家長の末裔、服部伊賀守家
継が、京都時代の平家菩提寺東山雲居寺に因み(桓武天皇菩提寺に因み)、津島に
同名の寺院を開基したとも推測されます。

特に新しい情報はなかったですが、纏めて記載しました。
[54]takahiroさんからのコメント(2003年03月28日 19時52分35秒 ) パスワード
  

◎角田文衛氏の「雲居寺・金仙院」に関連する記述(建礼門院に因んで)

http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/tunoda-bunei-nyoinnodosei.htm

http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/tunoda-bunei-kenreimonin.htm
[55]takahiroさんからのコメント(2003年03月28日 20時02分21秒 ) パスワード
  

上記角田氏記載より。

@善勝寺は、顕季流一門の氏寺で、法勝寺の西に位置し、一門のうちで第一の公卿が長者となって管理していたこと、
A善勝寺には、六人の供僧が置かれていたが、寺が炎上した後も彼等は寺の敷地や菜園を知行していること、
B但し、善勝寺の仏事は金仙院で行われていること、
C金仙院は、雲居寺の北に在り、家成卿(39)の創建にかかること、
D金仙院には、現在、住僧がいないので、元応寺(40)の僧が日常の仏事を行っていること
E金仙院の宝蔵には、紺紙金泥の一切経が納蔵されていたこと、
F善勝寺の本尊は(当時は金仙院に移置されていたらしい)、正和年間(一三一二〜一六)以来、ひどく損傷していたこと(恐らく火災の時、取出した際に痛んだのであろう)、
G右の本尊は、永享六、七年頃、一門の勧進によって修理されたらしいこと。

 とりあえず重要なのは、顕季流の氏寺である善勝寺が法勝寺の西南に接して所在したことである。そして当時の長者たる隆房の妻室は、女院の妹であったのである(42)。

 一体、顕季流と武門平氏との水魚の交りは、家保と忠盛いらいのことであり、一朝一夕のものではなかった。清盛の若い頃の昇進などは家成の援護によるところが多かったし、隆季の権大納言昇進は、清盛の推輓に負うていた。清盛が娘を隆房の妻とし、重盛の正妻に家成の娘・経子を迎えたのも(43)、両家の親交によっていたのである。
[56]takahiroさんからのコメント(2003年03月29日 16時26分15秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年03月29日 16時27分16秒
[57]takahiroさんからのコメント(2003年03月29日 16時26分29秒 ) パスワード
  

[53]訂正がありました。

平伊賀守家長→伊賀平内左衛門家長
[58]さちこさんからのコメント(2003年03月31日 00時04分39秒 ) パスワード
  

takahiro様

詳しくありがとうございました。
本当に感謝致します。

でも恥かしながら私は平家のことは判らないのです。
雲居寺については秦氏関連で面白いことがあったのでご参照下さい。

今日は桑名の九華公園に行きました。
花見です。桜がきれいでした。

うちの家は伊勢湾台風の被害で木曽岬という所で、
一族ほとんど全滅状態になりました。

だからお守をしていかなくてはいけない墓や、寺が沢山あります。
先日のお彼岸の墓参りで、こりゃ草刈せねば。。

んっで。今日行ってきました。
つかれた〜。
秋のお彼岸はもっと大変です。

まあそれは愚痴です(笑)

うちの父、知ってるなら知ってるでなんか言えよ。
祖父の事も。
だまっているのですよ。何故か。
明子さんのお父様もそうではないですか?
娘、何ぞには本当の事をいえんとか?

桑名の船着場の近くに服部表具店というのがあって、
ここは、親戚関係で昔から家を建てたりするのに世話になったそうです。

詳しく聞くと、
桑名春日神社の前にバナナ屋があってそのバナナ屋が、
私の従兄弟の何とかで〜???
桑名城近辺の服部家とは親戚というのです。

桑名城といえば松平家。
服部半蔵家が筆頭家老をしてた家です。

桑名城跡の桜きれいでした。。。
昔ここで桜見をしたような記憶が。。

江戸時代、
木曽岬村の服部家御一行様、
花見に桑名城にやってきた、
城の堀の桜がきれいで、
「ここが、え〜がね。」

で、桑名藩士たち、
「そこの百姓!勝手にここで弁当ひろげるな!」

んで、我が先祖、
「もんくが、あったら家老の半蔵家呼んでこい!ワッハッハッ!」

そういうイメージが広がるのですけど?
これは空想です。(ごめん)

宮本武蔵が大河ドラマになってますが。
柳生流の里は伊賀、甲賀に近いのですよね。

父の話では、
柳生巌長(がんちょう)という、
尾張藩の剣術師範の子孫が祖父の友人で、
名古屋から、木曽岬のうちへ来て釣りをして遊んで、
昼ご飯食べては帰っていったらしい。

今となっては遠い親戚だったのか、
祖父一代の付き合いだったのか謎です。


戦中、戦後。
うちは田舎なので食べるものには贅沢をしなければ困らなかった。
何しろ働き手がないので、漁をする人がいない。

天然鰻は手づかみ、蛤ごろごろ、海辺は蟹で真っ赤になってたそうです。
柳生さんにはそういう時も支援してあげたそうで、
とても感謝してくれた、
お礼に掛け軸やら、、、色々な貴重な品を頂いたそうです。
でもすべて伊勢湾台風で流れました。
記録は何も残ってないです。

柳生家と服部家、
少し話がずれました。
でも家紋が服部家の蓑家?
笠の家紋が同じではなかったかと思うので、
気になるのですが。。
ご存知の方情報お寄せくださいませ。

雲居寺のことは秦熱に書こうと思いましたが眠いので、
ついでに簡単に、
秦恒平という小説家が、
初恋(雲居寺跡にて)というのを残してます。
それについて何故か河野氏の書かれたものですが。
偶然というか色々な因縁はあるものです。
つくづくね。。。(笑)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/emag/data/kono-hitoaki01.htm

これは見逃してはいけないのではと感じるので、
また秦熱もコメントします。
[59]takahiroさんからのコメント(2003年03月31日 02時22分05秒 ) パスワード
  

さちこ様

 興味深いURLの御紹介、ありがとうございます。

 秦恒平氏の「洛東巷談・京とあした」は、<電子版・湖の本エッセイ>とし
 て下記で読めるそうです。

 http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/e_umi_essay9.htm

 秦恒平氏は、 

 「それに何より私は、血こそ承(う)けていないが、現在「秦さん」の一人
  である。「平安京」を語って秦氏を措(お)くわけには行くまい、そもそ
  も平安京が成るについて、わが秦氏、相当な発言権は持っていた。…」

 として、京都について、秦氏について、興味深い記述を為されています。
 
 秦恒平氏自身は自己紹介として、下記のように記されています。

 「お断りしておく、私は太秦(うづまさ)に近い左京区西(さい)院で生ま
  れたらしく、やがて四歳の夏までは他人手(ひとで)を転々のあげく南山
  城当尾(とおの)の里の父方祖父の家で育った。祖父吉岡誠一郎は往年の
  京都府視学などを勤めたという人だが、その後、事情あって私はまた祖父
  母の手から京都市内、今度は鴨川より東の知恩院新門前通(ちおいんしん
  もんぜんどおり)のラジオ屋へ貰い子されて行った。現姓の奏家であり、
  上京就職するまでほぼ二〇年を私はこの東山区の、三条通からも四条通か
  らも中ほど、かつてはしーんしんと静かな、「異人さん」相手の古美術商
  が並んだなかなか面白い、佳い町筋で暮らしたのである。」

 「洛東巷談・京とあした」は長いエッセイですので、徐々に読み進めようと
  思います。
[60]さちこさんからのコメント(2003年03月31日 23時43分00秒 ) パスワード
  

takahiro様。

雲居寺が、
ここまで広がるとは本当に考えませんでした。
ありがとうございました。

今、私も全てを読んで理解したわけではなく。
本当に時間をかけて調べる身分になりたいです。

58の私のコメント>海辺は蟹で真っ赤になってたそうです。

という父の話を書きましたが、
よく考えると蟹はゆがいてから赤くなるのではないか?
この辺の海ではゆがいた蟹が歩いていたのか。。。

こうゆう話は誇張があるものです。(笑)
誇張ついでに。。

うちでは卵を産ませるため庭で鶏を何匹が飼っていたらしい。
たまには、
「あいつ、食うたろか」
ということになり。

例の柳生巌長!
柳生流剣術で
逃げるニワトリの首をスッパ!とはね落とす!

ニワトリは首のないまま、
トットッとしばらく歩きつづけ、そしてバッタと倒れたそうです。
この話しはあまり鵜呑みにしないでください(笑)

津島神社は藤で有名なところです。
ゴールデンウィークには見頃です。
一昨年前のこの時にいきました。
この日偶然、特別に公開されてる重文の掘田家にもいきました。
川口さんがおっしゃるように今の、
津島には何も特別なものは感じませんでした。

平熱だけの秘密の話ですが、
信長の腰巾着は堀田家ではなかったのかと感じてます。
堀田家は津島市の公式HPにも、
(このへんは区別つかないところがあるので、事前に誤りかもとしときます)
「現存する堀田家はここが本家となる」
としてました。

そんなの嘘こけよ〜。
全国に堀田家が何軒ある?

そんなもん何で決められるの?

もしかしたらホンヤさんもその兼ね合いで見栄をはっていた、
そして弥富の服部家と仲悪くなったのか?
そんな単純な思いもしたことあります。
でも、もっと複雑なものがあるのかも。

ホンヤさんを一見こけ下ろにしたのも、
身内だからこそなんですよ。明子さん。
日本は複雑です。

藤の季節以外に、雲居寺にお話しを伺ってきます。
[61]川口 信さんからのコメント(2003年04月01日 09時04分34秒 ) パスワード
  

[51]の続き角川日本姓氏歴史大辞典より。
 佐屋町、時代が前後しますが、佐屋宿は{三里の渡し}という特殊な船路の宿場で、舟蕃所が置かれ、第二四代内閣総理大臣加藤高明の父服部一郎、祖父の服部作助がこれに所属したことによって知られる。佐屋川沿い最大の新田開発は、犬山成瀬家の家臣服部茂左衛門が、成瀬家の内意と援助により正保四年(1647)、開発に着手し幾多の苦難を耐え抜き万治元年(1658)完成し、茂左衛門は同新田の一町歩の田畑を与えられた。天保期(1830〜44)の自然災害による世相悪化を見るに及び、同憂の荷之村服部弥兵衛等が藩に廻村教諭請願を懇願し許され、四回の廻村教諭が茂左衛門宅で行われた。大きな役割を果たし、村人に感謝された。茂左衛門は幕末期にも藩の御用金にこたえるなど藩用を勤め、明治維新後も戸長に任ぜられた。

 天正二年(1574)織田信長が市江島・鯏浦・海老江島・前ケ須・五明などをはじめとする長島の一向一揆を平定した際、兵火にかかり、住民は離散または皆殺しとなり当地一帯は一時無住の地となった。その後天正四年(1576)焼け野原となった荷之上に服部弥左衛門が帰り、百姓を招き寄せて村を再興した。などと記載されております。

 先頃訪れた時は冬場の水田は見えたのですが、感じた事は佐屋地区は広大な穀倉地帯と思い、あの辺を支配すれば莫大な資産になる、財産が出来る。織田家が狙うのが良く解りました。

 今度御地を訪ねる時は田圃が青々とした時、または黄金色になって稲穂が頭を垂れる頃に訪れたく思います。

 そうです。堀田家が今は津嶋神社の重要な部分を占めておりますが、最初は尹良親王(征夷大将軍)が永享八年(1436)六月十五日伺大幡大明神、是尾州津嶋牛頭天王若宮也。
 堀田正泰は津嶋神社正殿の傍に高良明神を造営。「津嶋町史」には、『大己貴命、竹内宿禰を祀る』。創立年代は未詳であるが、南朝の忠臣堀田弥五郎正泰が正平元年(1346)七月十三日、夢想によって復興せるもので、願主の名によって之を弥五郎殿と称せると伝える』と記せる。正泰の孫以後堀田氏は、対馬地方に土着して四家七苗字の諸家と津嶋神社を中心に支配的勢力となった。宗良親王の孫良王の後は長子神王丸が大橋家を継ぎ、二子良新丸は神職として氷室氏を名乗って共に臣籍に入った。十一党の長であった名門大橋家も漸次勢力を失い、財力に富んだ堀田氏が次第に十一党の首領格になっていった。(佐倉藩の子孫:堀田正久氏著「堀田三代」より。
 (文中の正平元年の復興は疑問:川口)

 そんなことで、津嶋神社のパンフレットには大橋家の事は、何も触られておりません

 教訓:「泣く子と地頭、及び金持には古来よりかないません」





[62]さちこさんからのコメント(2003年04月02日 23時28分52秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年04月03日 09時59分50秒
[63]さちこさんからのコメント(2003年04月03日 10時12分03秒 ) パスワード
  

上記の発言、
読み返してみてまたホンヤさんバッシングかと誤解されそうでしたので、
削除しました。

全然別件の事について書くつもりでした。

桶狭間についてはまた書きます。
[64]さちこさんからのコメント(2003年04月03日 22時30分00秒 ) パスワード
  

突然ですが、
今度の日曜日、
ホンヤさんと津島、雲居寺に行くことになりました。

ホンヤさんと2人きりでデートするのです。うっふふ。。。
(織田家の奥様に殺されない事を願う、南無阿弥陀仏。)

服部家ってさ〜。一体なんなのとお思いの方へ。
市町村の色々な利害関係があっても、
服部家は服部家そんな関係があるのです。

江戸時代津島の有力者の堀田家。
津島神社の神官から系図をつなげてはいるが。。。

(堀田家の御子孫の方へ:ここは平家一門のボヤキの場です、
 お気にとめないで下さいませ。)

戦国時代、津島は商業、経済、流通の中心地だったのです。
織田家は元は越前から進出してきた家です。

簡単にいえば信長のじーさんの頃から、
尾張の有力者となり、津島に進出してきました。
この、津島の利権が欲しかった。

これ以前、この地で栄えてたのは(これは本当に調べなくてはわかりません)
平家一門を引き摺る南朝系の一族ではなかったか?

川口様の書き込みで、
服部家が津島神社の神官というのがありましたが、
大橋家と同じなのですです。
本当の南朝遺臣は平家を引き摺るこの一族ではないでしょうか?
四家七苗字については詳しくは判らないです。
浪合記も。
明治になって偽書とされたらしいですが、

これは江戸時代になって繁栄していた者が怪しいという事で、
それ以前の事は??

長島、織田信長と激しく対立していた所です。
ここは服部家も多いですが、
大橋家も多いのです。(数は詳しく調べます)

私事ながら、
桑名から長島の大橋さんとはご縁があって。
これは地縁、血縁というものでしょうか?

でも、堀田家とのご縁はないのです。

今は人口の出入りではっきりとは判りませんが、
昔は木曽岬には一軒も堀田家はなかった。(これホント)
調べないと判らない事なのですが、
長島の昔からの堀田さんはいないのではというか、
少ないと思う。

断言は出来ないけれど、
大橋家、服部家は津島での有力者だった。
織田家が津島に進出し、
服部家も大橋家も織田方につくかそうでない者と分かれた。

津島を守るか信長に譲るか。
色んな考えがあったと思う。

でも、一部?或いは大半の大橋家、服部家は信長に抵抗した。
それが長島の戦いに繋がって行った。

堀田家が古くからの津島の有力者であったなら、
長島で信長に抵抗していた筈だと思う。

まあ、昔のことだから(笑)

桶狭間忘れてました。
これはまたね。

デートに誘われたのでもう寝ます。
[65]川口 信さんからのコメント(2003年04月04日 08時02分15秒 ) パスワード
  

 ホンヤさんと津島、雲居寺に行くことになりました。
 良かったですね。行った事の感想などまたコメントなどを是非お待ちしております。
 二人でデイトなどと、本当は父と娘が行くような感じだと思いますが。これは失礼、でもホンヤさんはさちこさんのことを自分の娘のように思っているとおしゃっておりましたので。

 今日でお雛様の公開もおしまいですね。ホンヤさんにおかれましてもお疲れ様でした。さちこさんもお疲れ様でした。公開、本当に有難う御座いました。
[66]さちこさんからのコメント(2003年04月04日 12時33分36秒 ) パスワード
  

川口さんこそ遠方よりお越し頂きありがとうございました。

雲居寺の事はホンヤさんもご存知なく驚いてました。
お天気も今のところよさそうですし、
お弁当もって花見もしてきます。

>本当は父と娘が行くような感じだと思いますが
おじいさんと孫です。(笑)
援助交際に見られたらどうしよう?

また、ご報告します。

[67]さちこさんからのコメント(2003年04月15日 21時56分16秒 ) パスワード
  

ご報告が大変遅くなりましたが、
雲居寺行って来ました。

残念ながら午前中はお留守、
午後は寺で法事があってお忙しく御住職にはゆっくりお話しを伺えませんでした。

ホンヤさんと津島神社を参拝して、
天王川公園でお花見をしてきました。

神社を参拝してイズヨシ親王の祠があるというので、
そちらもお参りしてきました。

そうしたら今から神楽があるというこで。もしかしたら?
そうなんです!
以前秦熱でご紹介した八雲舞が、
偶然にもホンヤさんと参拝したすぐ後に始まったのです。
いつもこの時期に行われるそうですが、
もし雲居寺の御住職がいらっしゃったらこの時間にいかなかったでしょうし、
不思議な巡り合わせでした。

八雲舞については下記を参照してください。

http://tsushima.hp.infoseek.co.jp/jinjya/04.01.html

寺の裏にお墓があって、
墓参りに使う檀家さんの桶がおいてありました。
それに苗字と家紋がかいてあるのですが。

丸に抱き茗荷の大橋家
丸に抱き茗荷の真野家
源氏車に並び矢の服部家のものがありました。

由緒書きには、
服部伊賀守宗純が良王君家の近くに住み、
一族の菩提寺としてこの寺を創建したと。
九代目の服部平左衛門が一族を率いて信長に仕え、
平左衛門の長子が服部小平太とかいてありました。
う〜ん。

津島では服部家が信長に仕えたということになってるそうです。

ほかに資料を頂いて興味深いこともありましたのでまた続きを書きます。

あっ。
八坂神社の祇園祭と津島神社の市江車とは同系の祭りではないかと書きましたが、
八坂神社からもコンタクトがあったそうです。

祇園祭の山車にはこんなのもあります。
バグダットだそうです。

http://www7.plala.or.jp/k-pri/kyoto/gion/date17/date17-02/date17-02.html

この他ペルシャやインド、中国の絨毯などが飾られてるそうです。
平安時代からの祭りに何故?

もしかしたら服部家の市江車には、
嘆きの壁やシナイ山が。。。?

実はバグダットは昭和になってから、
他ものは安土桃山時代位に公家に変わり財力を持った町衆が、
南蛮貿易によってもたらされた品を飾りお金持ちぶりを自慢したそうです。

応仁の乱の時に随分焼失したそうですが、
信仰にかかわる事なので急にペルシャやインドのものを飾ることもないのでは?
昔からそういう慣わしがあったのかもしれません。
もし詳しい方がいらっしゃれば教えてください。


伊賀にも陽夫多神社という八坂神社と同じ紋の神社があります。
八坂神社より古いのですが。
昔の阿拝国です。

http://www.genbu.net/data/iga/yabuta_title.htm
[68]大江崇之さんからのコメント(2006年05月06日 18時12分17秒 ) パスワード

江戸時代末期の人で館長兵衛なる人物について調べています。もしおわかりでしたら、是非ともご教示下さい。宜しくお願いします。
[70]大江崇之さんからのコメント(2006年05月06日 23時22分33秒 ) パスワード

桑名の人としかわかりません。
[72]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月07日 08時35分59秒 ) パスワード

桑名でしたら
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100897_4.html
を参考になさってください。

アカコッコさんが詳しく説明してくださっています。


桑名でしたら伊勢平氏の舘さんで良いと思いますよ。
[73]大江崇之さんからのコメント(2006年05月07日 10時52分47秒 ) パスワード

ありがとうございました。
[74]有山 理恵子さんからのコメント(2007年08月13日 06時25分24秒 ) パスワード

主人の本家は、三重県四日市市川尻町「有山」です。何かそちらのことが話題になっているようでしたので…。平家の関係であることは、四日市市の市の歴史資料にも載っていると聞いています。
[75]たかやんさんからのコメント(2013年03月02日 23時21分53秒 ) パスワード

おひな祭りに是非・・・

フルートと琵琶と語り=Heikemonogatari(平家物語)演奏会より。

なんか悠久の昔の歌声とか、宇宙の叫びみたいのが聞こえるような演奏会でした。ご紹介まで。

 
  Heikemonogatari ↓
 http://www.youtube.com/watch?v=hlHMvLFvM9M


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