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 投稿番号:100457 投稿日:2003年02月09日 16時12分49秒  パスワード
 お名前:はったつ
服部 達哉

コメントの種類 :ニュース
本人によりコメントは削除されました。 2003年05月20日 08時21分28秒
[1]服部 明子さんからのコメント(2003年02月09日 17時38分46秒 ) パスワード
  

頑張ってください。

小幡利城さんともお会いしたりして参考になればと思います。
[2]はったつさんからのコメント(2003年02月10日 06時27分46秒 ) パスワード
  

そうですね。
このサイトに登校されている人たちの知識や情報を総合したら、

リサーチする必要がないぐらいのリアルなイメージができますね。

[3]はったつさんからのコメント(2003年02月11日 12時54分15秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年11月22日 17時46分55秒
[4]さちこさんからのコメント(2003年02月11日 21時45分06秒 ) パスワード
  

はったつさん。

すごいですね。
日本のテレビに出る時はぜひ教えてください。

日曜日長島の博物館で一向一揆の映画をみました。
35分ほどの短いものでした。
一向一揆と思ったら実は忍者映画で(笑)

ストーリーは、
一向宗徒の夫婦がいるのですが、
夫の留守に一人の男が近づき、
近くのものだと言って色々話を親しくしていくのです。

夫はその後戦死。
また男がやって来るのですが、
会話のふとした事で男が土地の者ではないとわかるのです。

「おまえさん土地のものじゃないな。もしかして信長の」

男態度を一変

「今度の戦は勝ち目がない・・・・」

信長がいかに強力な軍事力で次の戦に臨むかを説明。
で白米のお握りを渡そうとするが、

「こんなもん、いらね〜」

「亭主の供養もしてやりたいだろ」

で戦のシーン。
信長に先をよまれ次々に敗北。
そして悲惨な最期。

最後は尼になった女の姿。

こんな感じでした。
市原悦子さんが主演でした。

一向一揆の説明もかねていてまた短いものにしては、
割とよく出来てたと思いました。
少しくさいのはしかたない。

でも派手なアクションの忍者映画よりは、
忍者としてリアリティがありました。

はったつさん、いい作品期待してます。

[5]服部達哉さんからのコメント(2003年05月19日 09時05分20秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年11月22日 17時47分08秒
[6]さちこさんからのコメント(2003年05月21日 00時39分27秒 ) パスワード
  

はったつさん。

服部家を検索していて、
他のBBSでの投稿をみかけました。
凄いはなしですね。
驚きました。
もしかしたら、
はったつさんの服部家は弥富の大服部の関係では?
ぜひ平熱でも書き込んでいただきたいです。

天狗については詳しい事は判りません。
修験道、山伏等を検索されるといいかも。

能の衣装では、天狗は狩衣姿です。
狩衣は能では、身分の高い者、貴族、神職者をあらわすとか。
現在の天狗のイメージの山伏姿とは違います。

鼻の高いのは伎楽面からと言う話もありますが。
能を大成した世阿弥が天狗が身分の高い衣装をというのは面白いかも。
[7]服部達哉さんからのコメント(2003年05月21日 13時12分38秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年11月22日 17時47分32秒
[8]さちこさんからのコメント(2003年05月21日 23時53分53秒 ) パスワード
  

はったつさん。
ありがとうございます。

はったつさんのご親族からのお話しは大変興味深いです。
私のカン違いだったらごめんなさい。
専念寺は弥富の鯏浦(うぐいうら)と思いましたが、
他にも同じ名の寺があるのですか?

四日市の釆女(ウネメ)ですよね。
ここは四日市で秦さんの多いところです。

闘鶏(つげ)御田が雄略天皇に無実の罪で殺されかけたのを、
秦酒公が、(秦酒公は伊賀服部家の先祖と言う説が)
竪琴を弾き命を助けたという話があります。

その罪というのが、
伊勢の釆女に乱暴したという事で。

四日市のウネメはそれに由来してます。
秦さんが多いのもその関係かと思ってました。

今の鈴鹿市から四日市にかけて、
江戸時代には大庄屋の服部家がありました。
今でもその家は続いてるそうで、
調べてみると全く関係ないこともないので一度お訪ねしたいと思います。

まあここだけではなく、
北勢では有力者の服部家がけっこうあったみたいです。

色々あってよく判らないのですが、
江戸時代には結構取り立てられ、
江戸幕府とともに明治になり落ちぶれ組の服部家も多いみたいです。

あの時計で有名な服部一族も、
もとは名古屋の貧乏でどうしよもなっかたらしいですから(笑)
並び矢紋だそうですので、同じ一族でしょうね。
今となっては・・・。雲の上の服部家です。
華族になったのですよね。
何しろ今だ天皇家からの縁談が。。

服部○○さんが皇太子妃だったら、
半蔵門から出てくる度に大ウケできたのに!残念。

うちの親戚から考えても服部家は浮き沈みの激しい一族です。
あまり過去のことにとらわれず先祖の事等は無関心です。
私もそうです。
「服部家の御先祖様は〜」
なんて言われても、それがどうした!以前はそんな感じでした。

私はそんなだったので、
今さら寺へ行って先祖のことを教えて欲しいというのは凄く憚られるのですが。
やはり一度行ったほうがいいかなと思ってます。

はったつさんも是非調べてください。
はったつさんとは何処かでつながりそうです。

海賊坊主これは当たり〜!
そんな感じです。

服部家についてリンクしときます。

長島一向一揆年表

http://hp1.cyberstation.ne.jp/histry/nagashimanenpyou.html


鯏浦(うぐいうら)城跡
 永禄年間、あの織田信長によって築かれたのが鯏浦城。
 城主には弟の信興が配されたが、
 元亀元年(1570年)に服部左京亮に攻め殺された。
 これを期に長島の一向一揆殲滅戦が展開されたという…。
 
http://www.wai2.jp/~nohmin/uguiurajo.html
[9]服部達哉さんからのコメント(2003年05月22日 07時25分44秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年05月28日 12時09分11秒
[10]さちこさんからのコメント(2003年05月23日 00時11分50秒 ) パスワード
  

はったつさん。
凄い情報と思い感謝です。

私の家の服部家は平凡(?)になってしまって残念です。

はったつさんの持ってる服部家ネットワーク気になります。
何かあるんですよね(笑)
何となく判るな。

鬼、天狗、河童、キツネ等と言われた連中を、
ぎゅうじってきたのが服部家かなとも感じるのです。
「ぎゅうじって=(牛耳ってと書くのがみそ?ですか?)」
教えていただきたいこと沢山です。

>水夫や傭兵や技術者を各地に派遣して、
 お金を稼いでいた痕跡があるらしいです。

う〜ん。現在の人材派遣会社みたいですね。
忍者やスパイ等も派遣してたかも?

服部左京亮については明日また、(眠くなりました)
服部家はそんなに悪い家柄ではないですよ。
藤原氏なんぞよりも由緒正しいのです(笑)
高天原に最初に降りた天御中主命から系図を繋げている服部家、
天照大神の子孫の天皇家よりも系図上は歴史ある家柄です。

よ〜わからん(笑)

また色々教えて下さい!



[11]服部達哉さんからのコメント(2003年05月23日 08時53分27秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年11月22日 17時48分13秒
[12]さちこさんからのコメント(2003年05月23日 23時47分21秒 ) パスワード
  

こんばんは、はったつさん。
お話し凄く面白い。

服部家が集ってとんでもない事する時、
何て言うのは今の段階では想定不可能ですが大変心強いです。感謝です(笑)
服部家=秦氏のネットワークというのが、
昔は身分や貧富の差を越えてあったのではないかと感じるのです。
天皇家から貴族、僧、庶民、賤民に至るまで。

家柄なんて数代で浮き沈みするものでです。
元は同じ一族だ。
この情報ネットワークが服部家=忍者にしたのかしら?


>盛田さんに呼ばれてる気がする(←幻聴かな?)

イヤイヤ幻聴ではないかも?
私のイトコが(母方が服部家)
S○NYに勤めていてやめたと前にも書きましたが、
何故か盛田氏のお気に入りでした。
嫁を紹介してもらい仲人までして頂いたのです。
やめた理由は知りません。

そういえば、
石原慎太郎氏が石原家は服部家から養子に入ったと言っていた。
というのが他のスレでありましたが、
以前、石原氏と盛田氏の対談がベストセラーになりましたね。
「NOといえる日本」
何かのご縁でしょうか?

石原氏と言えば、
東京都のホテル税案を批判した某県の知事に、
「恥をかくのはテメ〜のほうだ。」
と暴言を吐いたり。

北朝鮮の拉致問題では、
「私が総理なら戦争をしてでも拉致被害者を連れ戻す!」
などと言っておられました。過激〜。

あらら気がついたらこんな時間。
シンデレラなのでそろそろ帰ります。

友貞のことはまた。。。ごめんなさい。
本当に色々教えていただきたいです。
名古屋にいらっしゃる時には是非弥富までお越しください。
時間があればお目にかかりたいです。
[13]服部達哉さんからのコメント(2003年05月26日 01時17分44秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年11月22日 17時48分32秒
[14]服部達哉さんからのコメント(2003年05月27日 08時28分16秒 ) パスワード
  

本当に、弥富に寄るときは、どうすればさちこさんにあえるんでしょうか?

あの重要文化財のおうちにすんでらっしゃるんですか?

[15]さちこさんからのコメント(2003年05月27日 22時27分48秒 ) パスワード
  

末広というのは弥富ですか?
それなら鍋田だと父が言ってました。
伊勢湾岸道弥富インターのところです。
木曽岬とは隣になります。
木曽岬にはまだ土地が残っているのですが、
うちからも凄く近い所です。

鍋田へは父の叔母が嫁に行ってます。(服部家ではないですが。)
意外とあそこなら知ってるという事になるかも?
何しろ田舎なので。
木曽岬にも専念寺の檀家の服部家がありますし。

確かおばあさんがだったかが加藤家ではなかったですか?
うちの木曽岬の墓にある加藤家は、
丸に並び矢の服部家と同じ家紋を使ってます。
専念寺の檀家になるそうです。
木曽岬の他の寺の加藤家は全部調べた訳ではないのですが違う紋です。

佐屋町にも庄屋だった服部家があるのですが、
ここから加藤家に養子に入った人が加藤高明という総理大臣だそうです。

白子にも服部家が何軒かありますが、
お寺の服部さん、伊勢型紙の服部さん。
となりの若松だったかな?
海岸に面して随分広い敷地の立派な服部家がありました。
多分、立地からして元漁師さんではないかと思いますが。
でも鍋田にしてもそうですが私の知ってる限り闇のルートとか想像できません。

はったつさんの服部家のネットワークとはなんでしょう?
ワクワク。

私が重文の服部家に住んでいるわけではないです。
重要文化財になっている貴重な服部家なので時々紹介させて頂いてますが(笑)
重文の家を維持するために随分ご苦労があるようです。
事前に連絡が必要ですが、気楽に見学に行かれるといいと思います。
メール頂ければ私から連絡しておきます。
日曜日ならはったつさんにあわせて私も行きますので。
その時にお会いしましょう!







[16]さちこさんからのコメント(2003年05月30日 22時25分16秒 ) パスワード
  

今日木曽岬の町長さんが我家へいらっしゃいました。

時々用事のついでに来てくださるのですよ。
いまだに。。何故か。

木曽岬のある服部家がお手上げして、何処かへ行ってしまったそうです。
(不景気だからな。)
かなりの土地を所有していたとかでその跡地の問題もあって(笑)

昔は親戚だった家だと思います。

はったつさん。
この家、もしかしたら、そのうちにそちら側へ行くかも知れませんが、
その節はよろしくお願いします。(笑)

ご自分のことや家を下品だとか品がないなどとおっしゃってますが、
本当に品のない人間は、
そんなことは気づかないものです。

よけいなお世話かもしれませんが、
父の話では、はったつさんの御親戚関係のいる所、
特別な場所ではありません。
弥富や白子もそうです。

だからどうなんだ?
それがどうした?

はい、そうです。
難しいです。

おやすみなさい。

[17]川口 信さんからのコメント(2003年05月31日 07時47分22秒 ) パスワード
  

横はいりレス(です)。
 
尾張群書系図部集(続群書類従完成会発刊)を購入読んでいるところです。
 それは尾張国の旧家に所蔵されている系図を主として編纂し、私見を試みたものとあります。
 服部家が四家ほど記載されております。
 1:服部氏(旧姓織田・赤見)弐羽郡大赤見(一宮市大赤見町)
 2:服部氏・愛知郡石仏村(名古屋市昭和区石仏)御器所村に居住し、佐久間右衛門信盛に仕え、後浪人し、愛知郡石仏村に隠居する。
 3:服部氏・愛知郡御器所村(名古屋市昭和区御器所)東脇城主
   服部将監・佐久間大学に仕え、その子某(源左衛門)福島左衛門大夫正則に仕える。
  4:服部氏・津島(服部小藤太裔孫)
    小平太と小藤太は兄弟として書かれており、<参考>のところに菩提寺は龍吟山雲居寺(永享十二年(1440)八月、服部伊賀守家継法名蔵叟道珍庵主創建)とあります。
服部三郎右衛門のところには伊賀平内左衛門尉家長末裔、服部伊賀守家継(宗純)六世とあり、子の小平太のところには弟と称して津島坂口に隠居。
 などとあります。その子孫冶郎兵衛(多郡半田、小栗伯圭三男恒助)は大橋家の女と婚して服部家を再興する。その子孫は中島郡祖父江に居住する。
 なにか参考になればと思いまして、あまり良く理解出来ないのですが書き込みました
[18]さちこさんからのコメント(2003年06月05日 13時50分40秒 ) パスワード
  

川口様

大変お礼が遅くなってしまいました。
いつも色々調べてくださりありがとうございます。

1に関して。

大赤見城        
一宮市大赤見字西堀田神明社の南あたりが城跡であった。
現在、赤見二丁目五番地の玉腰家にその石碑が建っている。
織田家の祖である織田勝久、その子久長の城と伝わる。
「尾張志」には、織田与七郎居住とある。
永禄の頃、服部小平太一忠も城主だったようである。
小平太は、織田家の親族であって与七郎と由緒があったという。

大赤見城
一宮帝大赤見西堀田
織田勝久 
勝久の子信久は服部姓に改む、城址は神明社から南一帯にわたる。

参考URL

一宮城跡

http://members.tripod.co.jp/twt/shiroato/ichinomiya.htm

愛知の城跡

http://members3.tsukaeru.net/penguink/owari_mikawa/owari_aichi/owari_aichi.html

堀田神明社というのはよく判らないです。
でも引っかかります。
もしかしたら堀田家はこのあたりの出だったのでは?
な〜んて気がしないでもない。(笑)

2について

御器所村三ヶ所城有之
御器所村には5つの城館があったと言われている。
服部氏、佐久間氏がそれらの居住者で、
江戸幕藩体制下で大名・旗本として組み込まれるまでこの地域に土着していたのである。
両氏は密接な関係にあり、共にこの地域での権益を守っていたのであろう。



御器所東城跡
〜常盤村字東脇

城の北西は二重堀と竹藪で守られていた。(昭和区の歴史)
城主服部将監。
現御器所3〜4丁目付近か。
近年作製されている資料ではこの城の位置は不明であるとされているが、
愛知県教育委員会による「中世城館跡調査報告I」では、
その位置は字東脇から字中屋敷に明確に示されている。
この指摘は間違っているのであろうか。
地籍図を見る限り大きく外していないように見えるのだが。
明治17年の御器所村地籍図78と現在の地図を、
位置のはっきりとわかっている西城、
久松寺、宗圓寺を基準としては当てはめると、
おおよそ御器所3丁目28〜29番地、
御器所4丁目7〜12番地を含む地域であることは疑う余地がないと思われる。
もっとも同地は完全なる宅宅地で、城跡を窺わせるものは何もない。
右の画像は、城跡中央あたりにあるお堂。住宅以外のものはこれしかない 。

服部屋敷跡
宗圓寺と西城とにはさまれたあたりにあったと想像されている。
西城の縄張りがはっきりしないので単なる想像に過ぎないが、
ひょっとしたら西城の堀を隔てた削平地がこれにあてはまるのでないだろうか。
北市場というのはそれほど広い地域ではないので、
隣接していたのではないかと思う。

http://homepage1.nifty.com/s_tendo/fudoki/gokisoshiro/gokisocastle.html

弥富うぐい浦の服部将監とは別なのか同じなのかはわからないです。
多分違うでしょうね。

こんな事も書いてありました。

御所屋敷跡


塩尻、張州府誌、尾張徇行記にその記載が見られる。
伝説によれば、
萩中納言の息女が秀吉を生んだとあるがこれはフィクションに過ぎない。
となるとこの「御所屋敷」とは何か。
地位あるものが住居していたか、秀吉の母、大政所が若かりし頃住んでいたものか。

はっきりとは判りませんが秀吉の幼少期は、
あまりこの辺は縁がないように思うのですが。
秀吉、信長につかえる前は堀田家に仕えていたそうですが。

また参考になる事がありましたら是非教えて下さい。




[19]川口 信さんからのコメント(2003年06月06日 08時15分45秒 ) パスワード
  

さちこさん、尾張城址のURLのご紹介ありがとうございます。

 『日本城郭全集(愛知県岐阜県版)』という本は持っておりますが、画像で見ると臨場感がありますね。大変参考になりました。

>弥富うぐい浦の服部将監とは別なのか同じなのかはわからないです。
>多分違うでしょうね。
 
上記本によれば、御器所東城の服部将督監が居城したというが、その年代、事跡も失われ、わからないが、かって、ここの村長に文之右衛門という人がおり、服部党を称していたというから、将監の支裔であろうと言われている。とあります。鯏浦城のところには{尾張誌]に城主は服部左近将監と伝えられており、城址は「城の腰」にあるという。


 話は違いますが、堀田が出てきたので。
 自分の宅地が堀田城の跡だと言う家(稲沢市堀田町の川口家)があります。宗派・紋形から推察すると稲沢市井ノ口の川口家(当家)の分かれではないかと、いう本がありますが堀田家との関係はわかりません。

 また別の話ですが、津島神社の関係者の話によれば、南朝系の(大橋家か堀田家か)だけではやっていけない(対外的か・内部的か)ので、北朝系をも入れたと言う。これも時代の趨勢ですかね。

 今年の天王祭りは7月第4土曜日 平成15年7月26日だそうですね。

 さちこさんの出番ですね。情報を楽しみにしております。

 「お前の話はつまらん」というコマーシャルがありますが、そう言われないよう頑張ります。
 達也さんには悪く思っておりますが、他に服部家に関するスレがないので、ご容赦ください。

[20]さちこさんからのコメント(2003年06月06日 22時55分22秒 ) パスワード
  

川口さん。

いつも詳しく服部家に関する事、教えて頂き感謝してます。
こんなのありましたよ(笑)


川口化石博物館
 中学生の頃から約50年かけて集めた化石の数々。
 少年時代の好奇心と探究心をいまも持ちつづける館長のコレクションは圧巻。
 特に、象の牙、スッポンの化石は必見です。

【住所】伊賀町山畑1164
【代表】川口 貢
【開館・予約】往復はがきで要予約
【交通】名阪国道・下柘植ICから車7分

http://websearch.yahoo.co.jp/bin/query?p=%c0%ee%b8%fd%a1%a1%b0%cb%b2%ec&hc=0&hs=0


もしかして遠い御親戚になるかも?

愛知県の鳳来町(三河ですね)
秦の始皇帝の命で日本に来たという徐福の子孫を称している大橋家があります。
何代目だったかは忘れたけど八十代目とか、(それぐらいだった。大雑把)
とにかく何代か続いてる家だそうです。

この大橋家がある所、昔は服部郷といったそうです。
今でも服部神社というのが残ってるそうです。

徐福なんていうあまりにも伝説めいた話ですが、
大橋?服部?と繋がると・・・。
大橋家と服部家はこんな昔から?
という妄想も感じますが。

鳳来寺=ほうらい=蓬莱
とも読めますね。

ブッポウソウの鳴き声で有名なお寺です。

>また別の話ですが、津島神社の関係者の話によれば、
 南朝系の(大橋家か堀田家か)
 だけではやっていけない(対外的か・内部的か)ので、
 北朝系をも入れたと言う。これも時代の趨勢ですかね

これは黒宮のことですか?



[21]川口 信さんからのコメント(2003年06月06日 23時11分26秒 ) パスワード
  

 もう寝ようと思っていたところですが。ちょっと覗きにきたら。色々ありますね。

 黒宮が関係しているか全然わかりません。

 黒宮で検索しようとしたら、黒みゃになってしまいました。
 尾張だから、みゃになってもしょうがないのかも。

 そこで検索したら
 中世的武士集団黒宮党. ... 鯏浦の服部も東保の黒宮も尾張の守護斯波氏から認められた土豪であり、その意味において新興勢力の信長とも同列の存在であったのです(立田村史p.71)。特に服部と黒宮では所領の大きさから ...
 『黒宮7で』
 
 不具合かURLには繋がりませんでした。残念。

 ではお休みなさ〜い !!
[22]さちこさんからのコメント(2003年06月07日 00時27分59秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2007年09月21日 21時04分29秒
[30]エディさんからのコメント(2015年02月17日 21時48分24秒 ) パスワード

17 に関して

No2 と No3 は同じかと思います。

私の母方が御器所、服部家の子孫でして、服部家の家系図によると、

御器所石仏から、瑞穂競技場付近に至るまでが、領地と表記されています。

瑞穂区のほぼ全てが領地。佐久間家と東西半分ずつ。

佐久間家との関係は、家系図には「筆頭家老」とあります。

そして、家紋は「二つ矢」 

もう、間違いないですね^^

ちゃんと、檀家寺の古文書にあるそうです


私個人の見解ですが、いつの時代も情報が全て。
特にこの戦国時代においての服部家の役割が重要となり、
地方へ行き同じ家紋があれば、そこでお世話になり、情報を共有する。
なくてはならない関係ですね 


さて、ず〜〜と 後の近代の服部家余談です(明治時代の初頭)

瑞穂区の山崎川の桜並木が名物ですよね??

いまではライトアップされ、夜も素敵。

春の行楽日和には欠かせない名古屋の名所の一つです。。。。

どうやら、服部家の当主とその他2名の発起人で桜を植えたんだとか。



でも、考えてみれば、服部さんが「自分の領地」にある山崎川に植えたものなんだよね〜
 
地元に愛されているのを、ご先祖さんも見ていることでしょう。

その後、農地解放あり、また、相撲を名古屋に呼び、地元を盛り上げようとタニマチとなり、地域の皆様の為に財産をはたいた とか・・・

そして、大須観音の地域へ移り住んだあと、いまでも名古屋駅あたりに住んでいます 
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月17日 22時45分01秒 ) パスワード

エディさん

初めまして。


御器所というと、清盛が忠盛から相続したいくつかの土地の1つで、尾張国内領ですが
そのあたりの時代からの住人だとロマンがありますね。


また御器所というと秀吉の母上の出身地ということで
これまたロマンです。



川口さまの書き込みより:

尾張群書系図部集(続群書類従完成会発刊)を購入読んでいるところです。
 それは尾張国の旧家に所蔵されている系図を主として編纂し、私見を試みたものとあります。
 服部家が四家ほど記載されております。


 1:服部氏(旧姓織田・赤見)弐羽郡大赤見(一宮市大赤見町)

          これは分からない

          丹羽郡、ってことでしょうか?
          そして  旧姓が織田?
          びっくり


 2:服部氏・愛知郡石仏村(名古屋市昭和区石仏)御器所村に居住し、
   佐久間右衛門信盛に仕え、後浪人し、愛知郡石仏村に隠居する。


          御器所ねえ


 3:服部氏・愛知郡御器所村(名古屋市昭和区御器所)東脇城主

          ここも御器所
   服部将監・佐久間大学に仕え、その子某(源左衛門)福島左衛門大夫正則に仕える。


          福島といったら元「鬼頭」さんですね
          名古屋で鬼頭加藤は太閤さん以来の名家と言いますね
          秀吉の遠縁ですから



  4:服部氏・津島(服部小藤太裔孫)


          服部小藤太とは信忠と一緒に討死したあの服部小藤太でしょうかねえ?


    小平太と小藤太は兄弟として書かれており、<参考>のところに
     菩提寺は龍吟山雲居寺(永享十二年(1440)八月、
     服部伊賀守家継法名蔵叟道珍庵主創建)とあります。


          津島の雲居寺うんごうじは  服部宗純がらみが建てたという記憶ですが
          家継は子孫になるんでしょうね
          知らなかった
          
              

服部三郎右衛門のところには伊賀平内左衛門尉家長末裔、
服部伊賀守家継(宗純)六世とあり、
子の小平太のところには弟と称して津島坂口に隠居。


 などとあります。

その子孫冶郎兵衛(知多郡半田、小栗伯圭三男恒助)は
大橋家の女と婚して服部家を再興する。



      大橋と服部はもともと平家時代に兄弟ですからね
      南朝方としても一緒に命運を共にしているし


その子孫は中島郡祖父江に居住する。

      祖父江さんも南朝方だった記憶



そして!
コーワの創始者と言って良いのかな?  服部兼三郎(興和紡績を興した人) は祖父江にも関係します。


でも服部兼三郎は元は静岡県の人のようです。
旧姓  堀尾  だったかな?


この兼三郎が豊田佐吉にお金を貸したりして
今のトヨタがあります。

で、豊田家ももともとは静岡の人なんですって。
拳母の出身とばかり思ってましたが。




で、コーワのおぼっちゃまは、名字はM氏ですが、現在ハワイ在住で、
頭脳超明晰としか言えない学業優秀な方でいらっしゃいます。

服部家には他にも世界的な超優秀な人がいますが
コーワのおぼっちゃまも「世界的な」レベルで超優秀です。


これは堀尾?兼三郎の血なのか?そこの処は分かりませんが
   という情報があるわよ
あたりのハナシとして読んでください。


メールにしようかと思いましたが画面からメールができないのでここに書きました。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月18日 07時46分47秒 ) パスワード

魚拓してきます:



[18] さちこさんからのコメント(2003年06月05日 13時50分40秒 )

1に関して。

大赤見城        
一宮市大赤見字西堀田神明社の南あたりが城跡であった。
現在、赤見二丁目五番地の玉腰家にその石碑が建っている。
織田家の祖である織田勝久、その子久長の城と伝わる。
「尾張志」には、織田与七郎居住とある。
永禄の頃、服部小平太一忠も城主だったようである。
小平太は、織田家の親族であって与七郎と由緒があったという。


大赤見城
一宮帝大赤見西堀田
織田勝久 
勝久の子信久は服部姓に改む、城址は神明社から南一帯にわたる。

参考URL

一宮城跡

http://members.tripod.co.jp/twt/shiroato/ichinomiya.htm

愛知の城跡

http://members3.tsukaeru.net/penguink/owari_mikawa/owari_aichi/owari_aichi.html

堀田神明社というのはよく判らないです。
でも引っかかります。
もしかしたら堀田家はこのあたりの出だったのでは?
な〜んて気がしないでもない。(笑)



2について

御器所村三ヶ所城有之
御器所村には5つの城館があったと言われている。
服部氏、佐久間氏がそれらの居住者で、
江戸幕藩体制下で大名・旗本として組み込まれるまでこの地域に土着していたのである。
両氏は密接な関係にあり、共にこの地域での権益を守っていたのであろう。



御器所東城跡
〜常盤村字東脇

城の北西は二重堀と竹藪で守られていた。(昭和区の歴史)
城主服部将監。
現御器所3〜4丁目付近か。
近年作製されている資料ではこの城の位置は不明であるとされているが、
愛知県教育委員会による「中世城館跡調査報告I」では、
その位置は字東脇から字中屋敷に明確に示されている。
この指摘は間違っているのであろうか。
地籍図を見る限り大きく外していないように見えるのだが。
明治17年の御器所村地籍図78と現在の地図を、
位置のはっきりとわかっている西城、
久松寺、宗圓寺を基準としては当てはめると、
おおよそ御器所3丁目28〜29番地、
御器所4丁目7〜12番地を含む地域であることは疑う余地がないと思われる。
もっとも同地は完全なる宅宅地で、城跡を窺わせるものは何もない。
右の画像は、城跡中央あたりにあるお堂。住宅以外のものはこれしかない 。



服部屋敷跡
宗圓寺と西城とにはさまれたあたりにあったと想像されている。
西城の縄張りがはっきりしないので単なる想像に過ぎないが、
ひょっとしたら西城の堀を隔てた削平地がこれにあてはまるのでないだろうか。
北市場というのはそれほど広い地域ではないので、
隣接していたのではないかと思う。

http://homepage1.nifty.com/s_tendo/fudoki/gokisoshiro/gokisocastle.html

弥富うぐい浦の服部将監とは別なのか同じなのかはわからないです。
多分違うでしょうね。

こんな事も書いてありました。

御所屋敷跡


塩尻、張州府誌、尾張徇行記にその記載が見られる。
伝説によれば、
萩中納言の息女が秀吉を生んだとあるがこれはフィクションに過ぎない。
となるとこの「御所屋敷」とは何か。
地位あるものが住居していたか、秀吉の母、大政所が若かりし頃住んでいたものか。

はっきりとは判りませんが秀吉の幼少期は、
あまりこの辺は縁がないように思うのですが。
秀吉、信長につかえる前は堀田家に仕えていたそうですが。




[19] 川口 信さんからのコメント(2003年06月06日 08時15分45秒)

  


さちこさん、尾張城址のURLのご紹介ありがとうございます。

 『日本城郭全集(愛知県岐阜県版)』という本は持っておりますが、画像で見ると臨場感がありますね。大変参考になりました。

>弥富うぐい浦の服部将監とは別なのか同じなのかはわからないです。
>多分違うでしょうね。
 
上記本によれば、御器所東城の服部将督監が居城したというが、その年代、事跡も失われ、わからないが、かって、ここの村長に文之右衛門という人がおり、服部党を称していたというから、将監の支裔であろうと言われている。とあります。鯏浦城のところには{尾張誌]に城主は服部左近将監と伝えられており、城址は「城の腰」にあるという。


 話は違いますが、堀田が出てきたので。
 自分の宅地が堀田城の跡だと言う家(稲沢市堀田町の川口家)があります。宗派・紋形から推察すると稲沢市井ノ口の川口家(当家)の分かれではないかと、いう本がありますが堀田家との関係はわかりません。

 また別の話ですが、津島神社の関係者の話によれば、南朝系の(大橋家か堀田家か)だけではやっていけない(対外的か・内部的か)ので、北朝系をも入れたと言う。これも時代の趨勢ですかね。

 今年の天王祭りは7月第4土曜日 平成15年7月26日だそうですね。




[20] さちこさんからのコメント(2003年06月06日 22時55分22秒 )

  


川口さん。

いつも詳しく服部家に関する事、教えて頂き感謝してます。
こんなのありましたよ(笑)


川口化石博物館
 中学生の頃から約50年かけて集めた化石の数々。
 少年時代の好奇心と探究心をいまも持ちつづける館長のコレクションは圧巻。
 特に、象の牙、スッポンの化石は必見です。

【住所】伊賀町山畑1164
【代表】川口 貢
【開館・予約】往復はがきで要予約
【交通】名阪国道・下柘植ICから車7分

http://websearch.yahoo.co.jp/bin/query?p=%c0%ee%b8%fd%a1%a1%b0%cb%b2%ec&hc=0&hs=0


もしかして遠い御親戚になるかも?

愛知県の鳳来町(三河ですね)
秦の始皇帝の命で日本に来たという徐福の子孫を称している大橋家があります。
何代目だったかは忘れたけど八十代目とか、(それぐらいだった。大雑把)
とにかく何代か続いてる家だそうです。

この大橋家がある所、昔は服部郷といったそうです。
今でも服部神社というのが残ってるそうです。

徐福なんていうあまりにも伝説めいた話ですが、
大橋?服部?と繋がると・・・。
大橋家と服部家はこんな昔から?
という妄想も感じますが。

鳳来寺=ほうらい=蓬莱
とも読めますね。

ブッポウソウの鳴き声で有名なお寺です。

>また別の話ですが、津島神社の関係者の話によれば、
 南朝系の(大橋家か堀田家か)
 だけではやっていけない(対外的か・内部的か)ので、
 北朝系をも入れたと言う。これも時代の趨勢ですかね

これは黒宮のことですか?





[21] 川口 信さんからのコメント(2003年06月06日 23時11分26秒 )

  

 黒宮が関係しているか全然わかりません。

 中世的武士集団黒宮党. ... 鯏浦の服部も東保の黒宮も尾張の守護斯波氏から認められた土豪であり、その意味において新興勢力の信長とも同列の存在であったのです(立田村史p.71)。特に服部と黒宮では所領の大きさから ...
 『黒宮7で』
 
 不具合かURLには繋がりませんでした。残念。

[33]エディさんからのコメント(2015年03月12日 21時27分33秒 ) パスワード

母方の服部家(尾張)の家系図には、
服部将監がご先祖とあり、それ以前も、
それ以降も脈々と子孫は継続しております
御器所石仏から南は全て領地と寺の古文書に
ありますよ 間違いなく、2.と3は同じです

[34]エディさんからのコメント(2017年06月23日 11時51分48秒 ) パスワード

明治維新後の農地開放により領地の田畑を手放したのと、昭和初期の名古屋への相撲誘致にタニマチとして尽力し、名古屋場所を支えたが、結果、莫大な散財?笑 をしてしまったとの事です。

服部将監(尾張服部)一族は侍だったと現在に口伝されていますが、伊賀出身なので笑 


戦国時代は名字と家紋こそが、頼るべき一族であり、旅の寄宿を頼ると共に見聞した世間の情勢を伝え聞ける唯一のものであることこそが、忍びの情報網。

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