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 投稿番号:100454 投稿日:2003年02月01日 16時48分45秒  パスワード
 お名前:嘉村孝
川崎・横浜にある鎌倉時代の城

コメントの種類 :史蹟  パスワード

 私の住む川崎市にも鎌倉御家人に関係する史跡がありますので、ちょっとご紹介ということで、書きこみさせていただきます。
 先日、近くの桝形城を散策しました。川崎市向ヶ丘遊園(現在は遊園地停止中)そばにあります。
 この城は戦国時代の小田原北条氏が多摩川のラインまで進出したことを示す城といわれていますが、鎌倉時代の御家人稲毛重成の館跡との説もあり、私はそれが大いに理由あることと思っています。
 江戸幕府の「新編武蔵風土記稿」などには否定的な記述もあり、確かに余りにも規模が大きくて鎌倉時代の土木技術や人員からは疑問もありますが、その一部である広福寺が重成の館跡ということについては大いに可能性のあることと思っています(つまりは、あとで拡張したということです)。
 その理由は城の構造にもあります。その命名の由来について、頂上の削平地が桝形だからという説がありますが、それでは余りにも矮小的で、むしろ向ヶ丘遊園まで取り込んだ周囲4,5キロの馬蹄形(それは多摩川をはさんだ東京方向に向いています)の底に府中から鎌倉へつながる道を囲繞して幹線道を防御したもの、つまり、一般の江戸時代の城における門、即ち「桝形」の規模の大きなものと解釈すべきではないかと思っています。
 そうなりますと、例えば重成の従兄弟にあたる畠山重忠などは、本拠地秩父から府中をとおり、今の府中街道を通って鎌倉街道の上の道即ち町田方面の道から、中の道つまり国道246号線に抜け、その途中、この枡形を通ったと思われるのです。
 彼はその後、横浜線の十日市場から横浜の二俣川を通って鎌倉の山ノ内に抜ける道を利用したかと思われますが、この二俣川で北條義時に討たれています。
 九州や山口もそうですが、関東にも中世の城跡がいっぱい。一国一城などという観念を是非打破すべきではないでしょうか。
 ちなみに、もう一歩小田原に近いラインである早渕川に面した246沿いには荏田城があって、鎌倉街道は今もその下を通っており、物見台や本丸跡がよく残っています。
 この城も戦国時代との説が強いのですが、先日訪ねると、鎌倉時代とおぼしき石塔の残欠が重ねてありました。鎌倉自体、「鎌倉城」と見る説が強まっている今、改めてその他の城についても見なおしが必要かと思います。

[1]川口 信さんからのコメント(2003年02月01日 18時18分50秒 ) パスワード
  

先週の日曜日、娘の住んでいる登戸(向ヶ丘遊園地)の一つ手前(川崎寄り)に行った折、ちょうど遊園地の話が出、観覧車はもう壊したかそれともまだ残っているか話題になりました。こんな近辺に中世の城跡が残っているとは全然知らなかったです。1月15日には鎌倉に行き若宮大路を歩いた時、鎌倉時代の武士達もこの道を闊歩したかなと思ったりもしました。千葉県の方では城跡の空掘など見て微妙な傾斜など感心したことがあるのですが。嘉村様、是非もっと色々とご紹介ください。

 上記、稲毛重成関係のURLがありました。

 http://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/stop/dokuhon/t0602.htm
 (広福寺)

 http://www.city.kawasaki.jp/25/25koho/home/youran/data01/
 (川崎市市勢要覧2002)
[2]嘉村孝さんからのコメント(2003年02月02日 00時55分20秒 ) パスワード
  

川口様のホームページ拝見しました。徳川家の正に三河以来のお家のようですね。
 徳川で思い出すのは群馬県尾島町の長楽寺を中心とする「得川」氏、つまり新田の分かれですが、実は佐賀県の山の中にも徳川さんがたくさんおり、これは鎌倉時代に西遷した関東御家人の子孫ではないかと思っています。

 多摩川沿いには八王子城を基点に、片倉城、平山城、この枡形城、夢見が崎城などたくさんの城跡があります。関東の特徴は関西のような石垣がないことですが、八王子城などは、安土城の影響かと思われる石垣を持ち、虎口の備えは厳重です。
 これらは多くが小田原北条氏時代のものですので、このサイトにふさわしい平安末から鎌倉の城をまた書かせていただきます。
 それでみますと、三浦半島の衣笠城あたりが代表でしょう。三浦大介義明が頼朝のために奮戦して討ち死にした城で、これまた今でもしっかり残っています。
[3]嘉村孝さんからのコメント(2003年02月02日 01時02分31秒 ) パスワード
  

それと、広福寺の観音菩薩、正に宋の影響を受けて髻を高く結い上げた鎌倉的な観音様と思います。御家人稲毛重成との関係は十分考えられそうですね。
[4]服部 明子さんからのコメント(2003年02月02日 01時35分32秒 ) パスワード
  

>鎌倉時代の御家人稲毛重成

「いなげ」やさんにはよく買い物に行きます。

関東の有力者だったのは想像でも簡単でしたが
畠山重忠の従兄弟でしたか。
これはちょっと知らなかったです。
[5]嘉村孝さんからのコメント(2003年02月02日 14時17分07秒 ) パスワード
  

安田元久先生の書かれたものによりますと、重忠の父重能の弟小山田有重の子が稲毛重成です。重成は一の谷の合戦には重忠とともに参加しますが、重忠誅殺に役割を果たし、そのためかえって北条氏に滅ぼされました。北条氏の陰謀はすごいです。頼朝の落馬にも関係。
なお、彼らの先祖平良文は村岡良文を称し、三浦氏の先祖でもありますが、今昔物語にも出てきます。その子孫は佐賀に下り、現在、村岡屋、村岡総本舗さんなどの有名菓子メーカーになっておられます。
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