コメントの種類 :史蹟
パスワード
私の住む川崎市にも鎌倉御家人に関係する史跡がありますので、ちょっとご紹介ということで、書きこみさせていただきます。
先日、近くの桝形城を散策しました。川崎市向ヶ丘遊園(現在は遊園地停止中)そばにあります。
この城は戦国時代の小田原北条氏が多摩川のラインまで進出したことを示す城といわれていますが、鎌倉時代の御家人稲毛重成の館跡との説もあり、私はそれが大いに理由あることと思っています。
江戸幕府の「新編武蔵風土記稿」などには否定的な記述もあり、確かに余りにも規模が大きくて鎌倉時代の土木技術や人員からは疑問もありますが、その一部である広福寺が重成の館跡ということについては大いに可能性のあることと思っています(つまりは、あとで拡張したということです)。
その理由は城の構造にもあります。その命名の由来について、頂上の削平地が桝形だからという説がありますが、それでは余りにも矮小的で、むしろ向ヶ丘遊園まで取り込んだ周囲4,5キロの馬蹄形(それは多摩川をはさんだ東京方向に向いています)の底に府中から鎌倉へつながる道を囲繞して幹線道を防御したもの、つまり、一般の江戸時代の城における門、即ち「桝形」の規模の大きなものと解釈すべきではないかと思っています。
そうなりますと、例えば重成の従兄弟にあたる畠山重忠などは、本拠地秩父から府中をとおり、今の府中街道を通って鎌倉街道の上の道即ち町田方面の道から、中の道つまり国道246号線に抜け、その途中、この枡形を通ったと思われるのです。
彼はその後、横浜線の十日市場から横浜の二俣川を通って鎌倉の山ノ内に抜ける道を利用したかと思われますが、この二俣川で北條義時に討たれています。
九州や山口もそうですが、関東にも中世の城跡がいっぱい。一国一城などという観念を是非打破すべきではないでしょうか。
ちなみに、もう一歩小田原に近いラインである早渕川に面した246沿いには荏田城があって、鎌倉街道は今もその下を通っており、物見台や本丸跡がよく残っています。
この城も戦国時代との説が強いのですが、先日訪ねると、鎌倉時代とおぼしき石塔の残欠が重ねてありました。鎌倉自体、「鎌倉城」と見る説が強まっている今、改めてその他の城についても見なおしが必要かと思います。
|