【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
 投稿番号:100452 投稿日:2003年02月01日 01時23分34秒  パスワード
 お名前:小林紀子
高知県 越知町の安徳天皇陵参考地

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

はじめまして 東京在住の小林と申します
平家落人伝説について調べていて、こちらのHPを拝見しました
安徳天皇陵というのはあちこちにあるのですね

実家(大原姓)の曽祖父の出身地である高知県越知町にも安徳天皇陵参考地があるようです
「日本の道」というHPの解説によれば

「越知町史記載の「安徳天皇横倉潜幸説」に基づけば,屋島の合戦の折に平家一門によって既に難を逃れられて四国に潜入したとする説.ここから横倉山まで約2年の歳月を要して,険しい四国山地を西へと移動していく.その辿ったとされる逃避路は屋島を出発として

徳島県三好郡山城谷→徳島県三好郡東祖谷山→西熊山→御在所山→土佐郡森村→稲叢山→土佐郡本川村越裏門→椿山→高岡郡仁淀村別枝→横倉山

この横倉山に行宮を造営し,安住の地を得ることになるが,それから13年の時が流れ,正治2(1200)年8月8日,23歳の若さで安徳天皇はこの地で崩御したとする.

この根拠となっているのが,安徳天皇を擁護して落ち延びた平知盛の4代目の孫・平種盛が正和元年(1312)7月に記した「黄表紙」によるもの.既に安徳天皇崩御から120年後に記されたものであるので,どのような形で伝承したかは定かではないが,この中に上記の屋島から横倉山に至るまでの概略が淡々と記されている.」

この横倉山の近くの横畠村(後に越知町)という仁淀川を望む小さな山あいのむらが曽祖父の出身地です。 越知町も平家落人の里といわれているようです。ごく最近知ったのですが、なんだか急に歴史が身近に感じられてきました・・


[1]小林紀子さんからのコメント(2003年02月01日 01時26分25秒 ) パスワード
  

詳しくは「日本の道」HP  http://japan.road.jp/History/Kochi-R33.htm
をご覧ください
[2]服部 明子さんからのコメント(2003年02月01日 02時32分43秒 ) パスワード
  

小林紀子さま

高知にも安徳天皇伝説がありましたか。
祖谷は平家落人伝説で有名な所ですからそこから更に落ちて行った
というのはありえそうですね。

平知盛さま4代の孫種盛という人物は初めてですが
こちらもありえそう。

ロマンの広がる書き込みをありがとうございました。

[3]薩摩節さんからのコメント(2003年02月28日 11時41分56秒 ) パスワード
  

安徳天皇の伝説地・陵墓が全国で9ヶ所もあるというのは、
それぞれが、本家でさえも、影武者ならぬ代理人なのか
そして、それらが本物になりきって、それが伝承されていったのか・
どれも、史実のようで・あるいはまだ隠れた事実があるのか・
まだ幼い安徳帝を死なせたくなかった世論があったのでしょうか
宮内庁も参考地として認めているような・・

平家物語・落人伝説には壮大なロマンがありますね。
私も今、とりつかれたように・去年出かけた場所10ヶ所くらいが
ことごとく、平家伝説の地・それも何も知らないで出かけたほうが多く
あとで、このスレッドなど拝見させて頂き、びっくりというより
因縁を感じる位、気味悪いくらい合致していて・
先祖には、平家の血はないはずですが、混じっているのか
はたまた、敵対の源系なのか
[4]服部 明子さんからのコメント(2003年02月28日 12時48分52秒 ) パスワード
  

薩摩節さま

私の友人の旧華族、薩摩久光公+お由羅さん系の友人によれば
彼女も平家だとおっしゃってました。
蕗だか芋だかの葉っぱに隠れて命が助かったと聞いたような記憶です。
もう10数年も前に聞いたお話なので混乱してるかも知れませんが。
さらに
鹿児島まで私の一族の者が後醍醐天皇の懐良親王に従って行っているそうです。
私の家は宗良親王に従って信州まで行って戻って来ましたが。

わたくしも自分の一族の者が鹿児島まで行ったなんて去年まで知りませんでした。
諫早の小説に服部という武士が出て来るので「まあ、そんなものでしょ」とは思いましたが。

でも事実は本当に奇妙で知らない世界があるのでしょうね。
[5]薩摩節さんからのコメント(2003年02月28日 17時28分50秒 ) パスワード
  

服部明子様

コメントいただいて、恐縮・感激です。
あれだけ平家や・時代を問わず、詳細にご存知でいらして
万分の一でも、勉強しようと、私も各スレッドを読破中です。
でも、読んでいるうちに、これは服部様の血のなせる技もあるのだろうと
妙に納得するところも・・
その知識の中に、心が入りこんでいるような
これは、小説でもお書きになれば、フィクションじゃなく
過去の事実の現れを、その時代に登場した人物そのものの言葉や心の
表現で、正に、その場の臨場感が出てくるのでは・と思います。
ご先祖が信州や鹿児島まで・なにか現代ともリンクが・
不思議な世界ですね。
頼朝から来ているといわれている島津氏にも、平家の血が・
なら、私にも流れていて不思議はないですね。

屋島は4回ほど、(7−8年前に1回)
祖谷は1回、遥か昔に訪ねたことがありますが
記憶には何も残っていません。なにしろ小学生。
越知町にも出かけてみたいですね。
[6]服部 明子さんからのコメント(2003年02月28日 18時44分13秒 ) パスワード
  

薩摩節さま

ありがとうございます。

書きたい事はたくさんありますが言葉に出来なくて溜め息になってばかり。
もうどのぐらい書いては削除を繰り返していることやら。

>ご先祖が信州や鹿児島まで・なにか現代ともリンクが・
>不思議な世界ですね。

はい。
ある人物の名字と特徴を書けば薩摩節さまとわたくしが繋がるのでは?と恐くなります。
日本人は皆繋がるのかも知れません。
それで書きたい事はたくさんあるのに溜め息をついて書いては消しをしております。
[7]薩摩節さんからのコメント(2003年02月28日 21時32分48秒 ) パスワード
  

服部 明子様

ありがとうございます。
服部様の文章を拝見し、いっぱい書きたいのに・消して書いて・
ちょっと予感を感じてか、ブルブルッときて、
頭を冷やすつもりで、別のスレッドを読んでいたら、
逆に、頬の毛が逆立ち・
私は、霊感もなんもない、ただの凡人のはずです
私の勘違いか、あるいは、別なところの繋がりかもしれませんが
日本人は皆繋がるとおっしゃった服部様の言葉
これでないかと・
先祖のある一部で桓武平氏流れが・見たような気がします。

行き来のなかった父の従兄弟の子・お互いの祖父は兄弟「当たり前」
その上の、曽祖父は二人とも同じ人になっちゃうのだから・
県別の名前を調べて行けば、氏素性も何となく解明されるのが・
繋がりも・分かるような気がします。

[8]服部 明子さんからのコメント(2003年03月01日 03時32分58秒 ) パスワード
  

薩摩節さま

で、ございましょう?
みんな繋がっていってしまう恐ろしさ。
でもそれが以心伝心で済むという住み易さにもなります。

我が家のホンヤによれば
服部家が定着し始めたのは1434年。
以来定住でございますから
バス停降りて家に着くまで実はみんな親戚になる家ばかりでございます。

でも親戚付き合いはしてないので知らなかったのですが
周りは親戚になる家ばかり。または同じ村出身者とか。これも結局は親戚に繋がりますよね。
ただの同姓で全くの他人だと思っていたら父の従兄弟の子供だったなんて事もございました。
確かにその家の男の子の母親が私の成績に一喜一憂してましたから
向こうはライバル意識を燃やしてたのでしょうね。

我が家はみんな近くにまとまって住んでましたから
3代だけの付き合いで
祖父母が亡くなれば代替わりという事で付き合いを縮小していく方式なのです。
でなかったら大変な数の親戚付き合いをしなくてはなりませんから。


服部家のホンヤという人がきさくな人で
今は位階なんて無い時代なんだから
と馬の骨のわたくしにもきさくに話してくれますが
我が家にとっては今でも雲の上の殿様です。

近所の人もホンヤさんホンヤさんと言って慕っています。
でも馬の骨の服部の中にはホンヤさんに対する感謝を忘れて「ホンヤさんって?」という人もいます。
こうして人は自分の家の由来を忘れていくのだなと思います。

仕方無いですよね。
上記の「ホンヤさんって誰?」と言った馬の骨が我が弟なのですから。
兄弟は他人の始まり。
それが我が弟にも言えたなんてと呆れるやらなさけないやら「これが時代だ」とも思います。

それよりもさちこさんの存在に「血は水より濃し」というのを感じますし
大橋家も4名スレッドに登場なさっていらっしゃるし
家名の重さというのを改めて認識しました。


御自分の御先祖さまが知りたいのに全く分からないという方には同情します。
どこかの代の御先祖さまで切れてしまったという事でございましょう。
どんな理由だったのかお考えだったのか事情があったのか
その御先祖さまに敬意を表します。


日本人はやっぱり繋がると思います。
源氏だ平家だ
追った追われたの他にも

「その時我が家の先祖は弁当持って戦いを見物に行ってた」
という人もいたでしょう。
かわいそうだった面白かったというその時の記憶がDNAに刻まれて今に伝わってるのじゃないかしら?と。

だから古典は今読んでも面白いのでは?と。
「血沸き肉踊る」というのは遺伝子のなせる業では?と。
日本人って世界から見ますとかなり特殊な民族だと思っております。
[9]小林紀子さんからのコメント(2003年03月02日 16時52分43秒 ) パスワード
  

薩摩様 服部様

久しぶりにHPを拝見しました コメントありがとうございます

その後、安徳天皇陵についての書籍を探し、伊藤加津子著「平家秘史」関西書院(平成6年、現在は絶版ですが図書館にありました)を読みました。平家落人伝説については、山間民の貴種への憧れを高野聖が膨らませたもの、という説もあるようですが、この著者は単なる幻想ではなく、実際に平氏の影武者や安徳天皇の身代わりが各地に散らばり、伝説を残したのだろうとしています。また、越知町の知盛末裔とされる織田家に伝わる家系図と、伊予の平家方豪族であったの新居氏の系図に一致する箇所があることを根拠に、越知町の天皇陵が本物であろうと結論づけています。四国各県には「日ノ浦」という地名が30箇所もあり、落ちのびる際の暗号として使われたのではないか、と推測するなど、真偽のほどはともかく推理小説のようで面白いので機会がありましたら是非お読みください。

越知町の安徳天皇陵がある横倉山のそばの山間の村に曽祖父の代まで住んでいたようです。ひょっとすると一緒に落ち延びてきた名もない下級武士だったのかな?と楽しく想像しています。皆様のような名家の出身でなくてお恥ずかしいですが、自分のルーツ探しは楽しいものですね。特に東京に住んでいると根無し草のようになってしまいますので・・ 先祖が武士でも農民でも山賊でも、日本人としての自分のアイデンティティーに誇りを持つことが大事なのではないか、と最近考えるようになりました。

私は霊感も繊細さも持ち合わせないきわめて現実的な人間ですが、なぜか昔から、前世では広い野原で馬にのり、笛が好きで、誰かに仕えていたような気がしていました。社会人になってルーツを探しに越知町を一人で訪ねたとき、不思議に懐かしく感じたことを覚えています。

服部様がおっしゃるとおり、日本人はみな親戚のようなものですね。ブライアン・サイクスというオックスフォードの教授が、「イブの七人の娘たち」という本のなかで、ミトコンドリアDNAを調べ母系をたどると、ヨーロッパ人はみな7人の母から生まれていることを証明しています。これによると日本人の95%は9人の母から生まれているそうですよ。
[10]服部 明子さんからのコメント(2003年03月02日 23時41分00秒 ) パスワード
  

小林紀子さま

>日本人の95%は9人の母から生まれているそうですよ。

そうでしたか。
9人の女性とは誰だったのでしょうね。

日本人は8代遡るとみんな親戚と聞いたことがございます。
9人の女性説で一層納得してしまいました。


イブにたくさん子供がいた事は学校の神父さんから聞いた事がありましたが
娘は少なくとも7人はいたのですねえ。
[12]足立 勗さんからのコメント(2015年08月26日 10時07分36秒 ) パスワード

服部さんご無沙汰しております。足立勗と申します。

久しぶりに当サイトをおとずれました。

最近、安徳天皇について二つの伝説に出合いましたので書き込みします
1つは、ある遺書『北摂能勢の安徳天皇傳承』という本。
この本の存在はWebサイトを閲覧していて偶然見つけた物です。
 安徳天皇は壇ノ浦で亡くならず、二艘の舟に別れて一方には安徳天皇・源の典侍・藤原経房・原田種長が乗り、もう一艘には建礼門院・大納言局・安房内侍・勾当内侍・少将基道・郡司景家の6名が乗り込み、密かに戦場を脱出し、その後従者に守られて山陰から但馬・丹波を経て摂津の奥、今の大阪府豊能郡能勢町の天王に辿り着いた。
そこで天皇は文治二(1186)年5月まで生存、都まで2日のこの能勢の里で崩御された。この内容は從者の一人、藤原経房が死ぬ前に息子宛に書いた遺書によってこの世に初めて知らされた。この遺書は竹筒に密封され民家の屋根裏に隠されていました。発遣されたのは江戸末期の1817年、その民家の茅葺きの屋根の葺き替えの時でした。
その後、藤原経房を調べたが現在も不明とのことです。吉田経房ではないかとも考えられましたがそれでもないようです。この遺書の研究者の一人、野木圓之助氏が私にとって縁の有る人でした。私がかって源義経の子孫を捜していた時、たまたま丹波からこの能勢にかけて義経の子孫と言われる三組の系譜を見つけました。そのうちの一つ摂津源氏の一族野瀬氏の中に義経の子孫があると称えたのが野木氏でした。もちろん圓之助氏は1800年代の人かその一人の子孫でしょう。私は義経の子孫を捜す道半ばにして安徳天皇の伝説に遭遇したわけです。

今ひとつは、兵庫縣神埼郡神河町川上という部落に伝わる伝統行事です。毎年8月23日の地蔵盆になると寺の境内にある地像さんに村中が競って「壇ノ浦地像」「安徳地像」と云って花団子を作って供えるのだそうです。ちなみにそこすは私の母の生家のある村で母の里は藤原と云います。ここは『平家落人部落』の傳承もあり、この村の奥に砥峰高原という有名な高原かあります。ここでNHK大河ドラマ『平清盛』の冒頭部分が撮影され、また映画「ノルウェーの森」が撮影されたことでも有名になりました。このむらの安徳天皇の傳承は寺の火災で焼け、藤原家の古文書も寺に預けていたため灰燼となってしまい、今は村の伝統行事のみが受け継がれています。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.20 by Rapha.