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 投稿番号:100451 投稿日:2003年01月27日 23時39分27秒  パスワード
 お名前:服部 明子
平家流系図

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

takahiro さまより教えて頂きました平家の系図のURL 。
平家の御子孫との言い伝えのあるお家の方は是非御覧下さい。

「日本の苗字7000傑」からだそうです。


『桓武平氏季衡流』
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01107.htm


『桓武平氏忠正流』
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01105.htm


『桓武平氏清盛流』
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01102.htm


『桓武平氏経盛流』
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01103.htm


『桓武平氏忠度流』
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01104.htm


『桓武平氏総括』
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01100.htm

[1]服部 明子さんからのコメント(2003年01月28日 04時06分11秒 ) パスワード
  

>【桓武平氏忠正流の服部氏】
>忠盛の弟、清盛の叔父、右馬助忠正孫の長光は母とともに伊賀に逃れ服部を称する。
>後裔は江戸幕臣となる。


という事は長光の母は伊賀の服部から嫁いでいたようですね。
[2]服部 明子さんからのコメント(2003年01月28日 04時13分49秒 ) パスワード
  

知盛さまのお子さま
知章
知忠
知宗【宗氏】【中村氏】【村岡氏】【氏江氏】【北氏】
  

北氏は知忠の子孫と思うのですけど。
[3]takahiroさんからのコメント(2003年01月28日 10時33分10秒 ) パスワード
  

『桓武平氏清盛流』

清盛─重盛─維盛─高清─清重【禰寝氏】【小松氏】

との記載は、おそらく下記が原典であると思われます。

◎『桓武平氏にして維盛の子高清、字六代律師妙覚、その子清重、称清重
  者用清盛之清、興重盛之重也云々、建仁三年七月三家将軍頼家卿補彼
  院(禰寝南俣院)地頭職之旨、賜袖判下文俟、云々、於茲改平氏称建
  部氏者也』

                    「平氏禰寝家系図」より
[4]川口 信さんからのコメント(2003年01月28日 12時57分27秒 ) パスワード
  

 【桓武平氏忠正流の服部氏】

 家伝に、新院蔵人長盛が男太郎三郎長光が庶流なり。保元の乱に長盛其父右馬助忠政とおなじく自殺せしかば長光孤となり、母とともに伊賀国に寓居し、これにより服部を称す。

 上記文、久間家の次のところに記載がありました。(家紋五本矢車 丸に鳩酸草)

 【北姓】

 家伝にいはく、其先権中納言知盛の二男、伊賀守知忠が末流にして、伊賀国北方に住せしより、北をもって家号とす。太左衛門保孝天正十年東照宮伊賀路を渡御のとき郷導したてまつり、これより御家人に加へられ、四代連綿して、清五郎正光にいたる。保義実は溝口氏が男にして、正光が婿養子となる。
 
 上記文は両方とも「寛政重修諸家譜」より
[5]服部 明子さんからのコメント(2003年01月28日 23時37分34秒 ) パスワード
  

ありがとうございます。

私の感じも知忠の子孫です。
馬鹿ですね「私の感じ」>「寛政重修諸家譜」なんて。
すみません。
[6]takahiroさんからのコメント(2003年01月29日 13時55分22秒 ) パスワード
  

『桓武平氏清盛流』

清盛─重盛─維盛─高清──清重【禰寝氏】【小松氏】
            │
            └兼盛【小松氏】【色川氏】【山路氏】

兼盛流小松氏の系譜の原典は以下であると思われます。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
内大臣平朝臣重盛嫡男 三位中将維盛二十代 小松弥助旧盛

一、先祖

  遠祖維盛、元暦元年辰三月廿八日紀州熊野那智之沖ニ而入水之旨披露仕、
  潜居、元久元年子六月卒去、妾腹之男子を兼盛と申候、兼盛与度盛・理
  盛・許盛・致盛・仲盛・長盛・美盛・綱盛・邦盛・弘盛・国盛・影盛・
  満盛・猶盛・保盛・盈盛・宗盛迄十九代相続、上湯川村郷士ニ而罷在候

二、旧盛儀宗長惣領ニ而御座候、先国主方江代々鹿皮献上目見仕、諸役免許
  ニて有之候、元和五未年南竜院様御入国之砌初而御目見仕候処、御年貢
  定米ニ被 仰付、同八戌年与御切米被下置諸役御免被成下候、御在国之
  節々年頭御目見に罷出、寛永十一年戌五月病死仕候 (中略)

             文化七年午九月 小松弥助長盛 花押

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
上記は『清水町誌 史料編』所収、「続風土記御調に付書上帳」が原典で、
私は『平家物語 創造と享受』(榊原千鶴著)より引用しています。
[7]服部 明子さんからのコメント(2003年01月29日 14時13分05秒 ) パスワード
  

takahiro さま

ありがとうございました。
という事は維盛の子孫という方達は結構凄い人口で現代に至るのでしょうね。

昔の人がとにかく子孫をとたくさん残したかったというのが今になってみると
有難い事ですね。

御本人達は御存じないでしょうけど日本中に血は残ってるのでしょうね。
ただいろいろな事情で「平」姓を名乗らず俗姓なのが残念ですが。
[8]takahiroさんからのコメント(2003年01月29日 15時20分59秒 ) パスワード
  

源平政権交代思想というものがあるらしいですが、

平(平家六波羅政権)─源(頼朝鎌倉政権三代)─平(北条氏執権鎌倉政権)
─源(足利将軍家室町政権)─平(織田信長政権)─源(徳川将軍家江戸政権)

と見ますと、北条氏は源家頼朝政権の継承ですので、純粋に「平姓」が政権
を担っていた時期というのは、日本史の中では本当に短期間なのですね。

そのような事情も、

>ただいろいろな事情で「平」姓を名乗らず俗姓なのが残念ですが。

という服部様の見解に、関連してくるのでしょうか。
[9]服部 明子さんからのコメント(2003年01月29日 15時45分13秒 ) パスワード
  

信長は資盛の子孫を称していましたが
それをワタクシは「織田家は藤原姓の筈」と頑固に信長の平姓自称を否定してましたが

母か祖母かそれ以前の女性に平家から嫁いでた女性がいたかも知れませんね。
[10]takahiroさんからのコメント(2003年01月29日 16時06分35秒 ) パスワード
  

私も織田家系図については、源平交代説に合致させる為に「平姓」を名乗った
とも、いろいろと読みました。

すると源平交代思想において、純粋な「平姓」政権とは、六波羅政権のみであ
った事になるのかも知れないですね。

あるいは先に「源平交代思想」というものがあり、後に政権を目指す武家がそ
の思想に囚われていたのかも知れないですね。
[11]服部 明子さんからのコメント(2003年01月29日 16時44分28秒 ) パスワード
  

そうですね。

両方言えるかも知れませんね。
秀吉はこの交代説で足利の名を欲しがっていましたね。
断わられてしまいましたが。

それで藤原姓を頂いたり
豊臣姓を創設したり

秀吉は秀吉で面白い事をやったという印象を持ちます。
本当はどんな出だったのか?といろいろ想像します。
[12]takahiroさんからのコメント(2003年01月30日 15時03分00秒 ) パスワード
  

秀吉本人ではないですが、秀吉正室ねね(北政所)の生家は平氏であるよう
です。

【桓武平氏貞衡流】

  http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01108.htm

 伊勢平氏の流れを汲む平正度の四男貞衡にはじまる流れで、桓武平氏安濃
 津桑名氏族とも呼ばれる。豊臣秀吉の正妻ねね(北政所)の生家杉原氏は、
 桑名氏の分流と伝える。

[13]takahiroさんからのコメント(2003年01月30日 15時24分49秒 ) パスワード
  

杉原氏祖、光平の三代前、右衛門尉維綱は、清盛異母弟家盛の乳母父であった
記述が、『本朝世紀』久安五年三月十五日の項に記されています。

 「是日。法皇自熊野還御。令着鳥羽御。年来例。無殊事之時。令参稲荷御。今度無比事。是日。従四位下右馬頭兼常陸介平朝臣家盛卒。扶病扈従熊野御供。自去十三日殊以更発。今日於宇治川落合之辺気絶了云々。乳母父右衛門尉維綱自京馳向。不耐哀慟忽剃頭了云々。」
[14]takahiroさんからのコメント(2003年01月30日 15時48分55秒 ) パスワード
  

杉原氏祖光平の兄、宗平は三重氏の祖であると『尊卑分脈』にありますが、
頼盛末裔鬼丸系図には、文治五年時の家人の姓に「三重氏」の名の記載が
あり、上記頼盛同母兄家盛の乳母父、右衛門尉維綱との関連からの記載か
と推測しました。
(これまでこの「三重氏」は、同じく小松家家人「大神姓三重氏」との関
 連からの記載かと推測していました。ただ、大神姓三重氏は、明らかに
 文治五年以前より三重氏を名乗っていますが、維綱の系の三重氏は文治
 年間より後に三重氏を名乗っている可能性がありますので、もう少し調
 べてみます。)
[15]服部 明子さんからのコメント(2003年01月30日 23時51分00秒 ) パスワード
  

>従四位下右馬頭兼常陸介平朝臣家盛卒。扶病扈従熊野御供。自去十三日殊以更発。
>今日於宇治川落合之辺気絶了云々。乳母父右衛門尉維綱自京馳向。
>不耐哀慟忽剃頭了云々

悲しみが伝わって来ますね。
名文ですねぇ


それにしましても思わぬ所と繋がっていきますね。
[16]kinoshitaさんからのコメント(2003年02月10日 22時08分58秒 ) パスワード
  

takahiroさんへ

私は広島県福山市在住の木下と申します。

「杉原氏」をテーマとして備後地方の中世史を調べているものです。
この項にある三重氏は、杉原氏と同族であるために興味を持っています。
『鎌倉遺文』の中に建長七年から八年にかけての三重政平と東寺との所務相論
に関する文書が載っています。三重氏に関しては湯山学氏が「ある伊勢平氏の末裔」
(『相模国の中世史』)という論文を書かれています。この論文の中に紹介が
ありますが、政平の孫行政が政平十三回忌に作成した願文が東京国立博物館
蔵で現存しています。刊行本としては二玄社から『日本名跡叢刊』第四四回配本に
世尊寺定成の真筆として収められています。この中には、三重氏が桓武平氏の流
であることが明確に書かれています。また、政平が鎌倉幕府の右筆奉行人であった
ことや娘が中納言(『尊卑文脈』によれば土御門定實)に嫁いだことが書かれて
います。参考になりましたら幸いです。

 一つ教えて戴きたいのですが、頼盛末裔鬼丸系図を刊行本で見ることはできない
のでしょうか。ご存知でしたらご教示をお願いします。
[17]takahiroさんからのコメント(2003年02月11日 00時37分12秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年02月11日 02時42分21秒
[18]takahiroさんからのコメント(2003年02月11日 02時41分53秒 ) パスワード
  

kinoshita様

 桓武平姓杉原氏同族三重氏についての興味深い御示唆をありがとうござい
 ます。
 
 御質問についてですが、現在現存している方へのプライバシーにも関わり
 ますので、直接メールにてお答え致します。

 よろしくお願いします。

 この度は貴重な情報をありがとうございました。
[19]川口 信さんからのコメント(2003年02月11日 08時41分18秒 ) パスワード
  

杉原姓については私も大変興味があります。

 先日桓武平氏国香流系図(千葉琢穂著:展望社)を借りてきました。それに伊勢平氏の系図が詳しく載っております。

 正度の子貞衡は安濃津三郎―同貞清―清綱(桑名富津次郎)―惟綱(桑名三郎)―良平(同八郎マタ丹後)―恒平(従五下攝津守 文治五奥州征伐参加)―宗平(従五下大和守 住大和三重)とあります。弟の光平が杉原姓を名乗った訳ですが、
 「尊卑分脈」杉原系図に、「光平が男五人、長男左衛門尉邦平、次男四郎兵衛尉宗光、三男貞平、四男四郎忠綱、五男玄蕃恒清とす。いわゆる貞平は員平と字体相似たり。もし同一人ならば、恒清をもって兄弟とすること疑うべし。官本系図の光平の子邦平、員平、宗光と、すべて三人、員平が男(子)所見なし」とある。

 杉原氏については関係系図および杉原恒清から幕臣杉原吉五郎正英まで三十人ばかり少しずつですが事跡が書いて(14頁ほど)あります。
[20]kinoshitaさんからのコメント(2003年02月11日 14時04分42秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年02月11日 14時08分09秒
[21]kinoshitaさんからのコメント(2003年02月11日 14時13分43秒 ) パスワード
  

杉原氏について調べていることを書きます。

 このスレッドにもありましたように、杉原氏の属する伊勢平氏
貞衡流は平忠盛の家人であり、鷲尾維綱は清盛の異母弟・家盛の
乳母夫(「めのと」と読みます。)でした。現代では「めのと」という
と単に主人の子供に乳を与えると役目いうイメージが強いですが、
当時は自分の家で主人の子供を養育する重要な役目でした。子供の
養育のための経済的な費用も全て負担するので、かなりの財力
を持っていないと出来ない役目でした。つまり、維綱は忠盛の
重臣だったと思われます。維綱が家盛の急死に対して、悲しみの
余り出家したという行動は、自身の子供と同じように養育してきた
家盛に対する愛情のあらわでしょう。

 杉原氏の家系・貞衡流は、以前、話題になっていた平宗清の家系
と姻戚関係にあります。『尊卑文脈』によれば維綱の娘は、宗清の
側室になっています。宗清の家系と維綱の家系は平頼盛に仕える
同輩であったと思われます。この関係から姻戚関係を結んだと推測
されます。

 今、私が興味を持っていることは、伊勢平氏である杉原氏が備後
に所領を持つことになった契機です。備後地方では杉原氏は備後
生抜きの武士で石清水八幡宮領杉原保の保司から身を興した家系
というのが通説となっています。私はこの通説に疑問を持っています。
杉原氏は伊勢平氏に属する家系で、平氏の備後地方進出を契機に
備後に来住したのではないかと思っています。平氏の備後進出とは
備後国大田庄を後白河上皇へ寄進したことを指します。大田庄の
寄進に合わせて平氏は瀬戸内の要港・尾道を大田庄に組み込みこます。
これは、大宰府と福原を結ぶ瀬戸内海航路の整備の一環だと考え
られます。南北朝の初期に杉原氏が尾道に所領を持っていたこと
が確認できるため、尾道水道の安全を保障するため、重臣であった
杉原氏ともう一つ、水道の対岸・向島(当時は歌島)には姻戚で
あった柘植氏を派遣したのではと思っています。確定的な証拠は
ないのですが、『吾妻鏡』に鎌倉時代初期の歌島の地頭として「家清」
という人物が現れます。残念ながら、姓が書かれていないので
断定できないのですが、宗清と維綱の娘の間にできた子息・家清で
はないかと想像しています。このように考えている時に、このHP
で向島に宗清の子孫を名乗る家系があることを知って、
ひょっとしたら推測が当っているかもと思い始めたところです。

 尚、伊勢平氏については高橋昌明氏が書かれた平凡社選書
「清盛以前―伊勢平氏の興隆―」という本に詳しく述べられて
います。
[22]太郎さんからのコメント(2003年06月25日 05時43分28秒 ) パスワード
  

おはようございます。系図を見ましたよ。
すると、家継が二箇所に出てきますねえ。

貞季流では、
季房━家貞━家次(平田氏)、貞能、家実
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01106.htm

季衡流では、
家房━家貞━家継(平田氏)、家長(服部氏)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01107.htm

という風に。
池宮「平家」では家貞の子供が四人出てきて、家実・家継・貞能・家長でした。
それはまるで、この二つの系図を合体させたような形ですねえ??
これは謎です。

この系図のホームページか、池宮氏か、どちらかが間違っているのでしょうか??
[23]太郎さんからのコメント(2003年06月28日 14時28分46秒 ) パスワード
  

池宮平家の下巻に、家貞関係の系図が載っていることをひそかに楽しみにしていたわたしでしたが、残念ながら載っていませんでした。

上記URLの一つ目を見ると、
「忠盛の郎等家貞や伊豆目代山木兼隆は、この(貞季流の)後裔である」
と書いてありますね。
しかしそうすると、家長にはじまる服部氏は、忠盛の郎党家貞の子ではなく、三日平氏の家継の弟でもないように見えてしまいますね。

秀衡流の中に家貞、家継、家長とあることが、ことをややこしくしているようにも見えます。。。

少し大胆な仮説ですが、系図の上での、家貞・家継の引っ張り合いでしょうか??
[24]太郎さんからのコメント(2003年06月28日 14時31分41秒 ) パスワード
  

上記23五行目の訂正:「家長にはじまる服部氏」→「服部氏の祖である家長」
[25]川口 信さんからのコメント(2003年06月28日 15時00分39秒 ) パスワード
  

太郎さん、読むのが早いですね。私なんか、読むのが遅く、読んでいるうちに前の部分は忘れてしまう。(笑und涙)
 
 >季房―家貞―家次(平田氏)、貞能、家実
  >家房―家貞―家継(平田氏)、家長(服部氏)・・・[22]URL

 「源平盛衰記」には家長はハッキリと家貞の子と書いてあります。

 http://j-texts.com/seisui/gs001.html
 
同URLから引用。
【家貞は布衣下に、萌黄の腹巻衛府の太刀佩、烏帽子引入袖纈て、殿上の小庭にあり。子息平六家長は歳十七、長高骨太して剛者、度々はがねを顕して逞き者】

だが、尊卑分脈脱漏平氏の系図には下記の通りになります。
季房(進三郎大夫)―家貞(使 筑前守従五位下)

―家継(平田冠者)
―貞能(使 筑前守従五位下)
―家實(二イ 四郎)
上記三段は兄弟 などとあります。

 作者がどれに重きをおいて、底本として作品が出来たかがこれで解ると思いますが。


 ちなみに私の家は平貞能の末裔と称する「大橋家」から養子に入っております。
[26]太郎さんからのコメント(2003年06月28日 16時10分02秒 ) パスワード
  

う〜ん。
家長が家貞の子とは、「源平盛衰記」に載っていたのですね。
この間も、那須与一が射殺した武将は家員という家貞の息子だったとギャンブラーさんに教えていただき、それは「源平盛衰記」に載っているとtakahiroさんに教えていただいたばかりです。
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/100243_101.html の中で。)

「源平盛衰記」は必読!!という感じですね。
でもわたしは古文で書いた同書を最初から最後まで読んで100%理解できる自信はまったくありません。
本屋さんで聞いた所、「平家物語」はたくさんの人が現代語訳なり小説なりを出しているが、「源平盛衰記」の現代語訳本はひとつも出ていない、との話でした。
大河ドラマ「義経」を記念して?誰か出してくれないかな〜〜!!

ちなみに、川口さんのお話から、上記季房流の系図は尊卑分脈脱漏平氏の系図だと考えられますね。
それでは上記家房流の系図はどこから来たものなのでしょう?
家貞ー家継、家長と続く名前を見ていると、こちらも郎党家貞の系図のように見えますね。
[27]川口 信さんからのコメント(2003年06月28日 16時35分50秒 ) パスワード
  

〔26〕のURL現在は開く事が出来なくなっておりますね。

 電子図書で検索するとみつかります。

http://www.j-texts.com/
 
源平盛衰記(国民文庫)全巻 (1〜48巻)


 本は一冊うん万円もするので全巻揃えたら身上潰してしまいます。
 電子図書をこまめに開いて読んでは如何ですか。
[28]太郎さんからのコメント(2003年06月28日 17時17分16秒 ) パスワード
  

そ、それもそうですね。。。
できれば現代語訳で読みたいのですが。。。
[29]川口 信さんからのコメント(2003年06月28日 17時31分14秒 ) パスワード
  

それは無いものねだり。

 太郎さんみたいに早く読めて理解力のある若者ならすぐ読みこなせます。

 一日1巻読んでも48日かかります。

 下記にURLを持ってきましたので騙されたと思って読んでみては。

 http://www.j-texts.com/seisui/gsznb.html

 『源平盛衰記』(国民文庫)より1〜48巻
[30]川口 信さんからのコメント(2003年06月28日 18時44分52秒 ) パスワード
  

 同URLより引用

 巻1

 爰に忠盛朝臣の郎等に、進三郎大夫季房子、左兵衛尉平家貞と云者あり。本は忠盛の父正盛の一門たりしが、正盛の時始て郎等職と成りたりし、木工右馬允平貞光が孫也。備前守の許に参て申けるは、今夜五節の御出仕には、僻事いでくべき由承候、但祖父貞光は、乍(レ)恐御一門の末にて侍りけるが、故入道殿の御時に、始て郎等に罷成候けりと承、貞光には孫也、季房には子也、親祖父に勝るべきならねば、其振舞を仕る、殿中の人々、我も\と思輩は、かず多くこそ侍らめども、加様の実の詮にあひ奉らん者は、類少こそ候らめ、御伴には家貞参べし、無(二)御憚(一)可(レ)有(二)御出仕(一)と申ければ、忠盛然べしとて召具す。家貞は布衣下に、萌黄の腹巻衛府の太刀佩、烏帽子引入袖纈て、殿上の小庭にあり。子息平六家長は歳十七、長高骨太して剛者、度々はがねを顕して逞き者、これも布衣下に、紫威の腹巻著て、赤銅造の太刀佩て、無官なれば徐々として、左右の手を土につきて、犬居に居て、雲透に殿上の方を伺見て、親の家貞あゝといはば、子息の家長も、つと可(二)打入(一)支度也。
[31]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月28日 22時33分36秒 ) パスワード
  

平家物語も盛衰記もいろいろ流れがあるようで
全部
というのは無理ですね。

それに昔はコピー機無いですから
うっかり書き間違えたのが孫写しされ
それが定着しますから。

秀という字は季と間違えられたりしますし。
こちらは素人ですから逆に辿ってどこから間違えたのかを調べる術はとても無いですし。


―家継(平田冠者)
―貞能(使 筑前守従五位下)
―家實(二イ 四郎)

これによると家実は4郎でしたか。
家継が次男か3男だったろうというのは平田家を継いだことから想像出来ますが。
一体貞能は嫡男だったのか?次男だったのか?3男だったのか?運良く家督相続した人だったのか?
[32]太郎さんからのコメント(2003年06月30日 15時35分33秒 ) パスワード
  

宮尾本「平家物語」第二巻には、家貞の子として家継と貞能が出てきますが、貞能は次男となっています。
[33]太郎さんからのコメント(2003年06月30日 15時37分15秒 ) パスワード
  

池宮「平家」では、貞能は三弟と書いてありましたが。
[34]西海大寺さんからのコメント(2004年03月28日 19時06分05秒 ) パスワード
  

誰か教えてください。
我が家はつい最近まで佐賀県の小城町にありました。
過去の事をある程度調べた結果、現在の円通寺という寺の寺侍で、
その寺が出来たころ、そう、分かっているだけでも、1000年以上前
からいたそうです。寺浦廃寺とか、西海大寺とかそんな名前だった
そうです。
苗字は井上です。
家紋は梅鉢紋。
なにせ、あのへんは平氏、千葉氏、大友氏、竜造寺氏、鍋島氏と
領主が変わりすぎていて、真実がつかめません。
宜しくお願いします。
[35]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月29日 01時44分50秒 ) パスワード
  

西海大寺さん

1番確実なのは郷土の教育委員会の歴史編纂所に問い合わせることと思います。
西海大寺さんの場合は佐賀県や小城町の属する行政下の教育委員会ですね。


私の場合は膨大な資料を送って頂いた経験があります。
水戸も凄かったし今治や大分も。

さすが専門に研究なさっていらっしゃる所は凄いなあと思いましたよ。
[36]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月29日 01時45分32秒 ) パスワード
  

その地の図書館にもそういう資料が置いてあるそうですよ。
[37]小林雅成さんからのコメント(2004年03月29日 19時28分07秒 ) パスワード
  

西海大寺さんへ

>苗字は井上です。
>家紋は梅鉢紋。
清和源氏頼季流でしょう!
[38]西海大寺さんからのコメント(2004年04月02日 18時04分38秒 ) パスワード
  

暇つぶしギャンブラーさん、小林雅成さん、どうも有難うございます。
して、小林さん、清和源氏頼季流の根拠はいかにみるものでしょうか?
[39]小林雅成さんからのコメント(2004年04月02日 19時25分37秒 ) パスワード
  

西海大寺様

昨年、佐賀県へ家紋調査・取材で飛行機を使ってまいりました。

1、有明海にそそぐ川が幾筋も流れ、そじょうできること
2、広いたんぼはほとんど干拓地であること、つまり、すぐそばまで昔は海だった。

3、梅鉢は佐賀県、熊本県では非常に多い紋ですが、形状は五つ星紋(海洋系部族(妙見信仰)の使用する紋)との類似から、海洋系統と見なしました。

4、清和源氏頼季流は、一応源氏ですが、南北朝期に代表的な家の村上氏が、後醍醐天皇のサポートにまわり、南朝崩壊後瀬戸内海、西海に拡張して水軍化したという伝承があります。

無論、1.以前は別の名字を名乗っていた、2、家紋を途中で替えたなどの歴史上の経緯がある場合は小生の推論は該当しません。

吉野ケ里と繋げたいというなら、むりやりできなくもないですが、かなり脱線しますでしょう(^^)

小林雅成
日本家紋研究会関西支部長
[40]西海大寺さんからのコメント(2004年04月04日 19時16分29秒 ) パスワード
  

小林さん、有難う御座います。
付加情報として、私の家は円通寺という寺の寺侍の職にありました。
代々天皇家からの勅使を迎える役を受けており、戦後までは家のすぐ横に
仁王門がありました。
しかし、それらの歴史的背景には、この円通寺が九州千葉氏の統治下にあった
頃の面影が根強く残っており、それ以前の歴史的背景があまり注目されずに
現在に至っております。寺の住職に過去帳をみせて貰うように頼む事もできますが、
我が家と正伝院(円通寺内)との付き合いは互いに1000年以上の歴史を歩んできている
と双方確信しており、その確信を覆す可能性もなきにしろあらず。
それより、なにより、そのような事を尋ねること自体が両家において愚問とされております。
しかし、私は千葉氏との関係もそうですが、あの円通寺という寺が如何なる経緯で何時
建立されたのかが知りたく、又、その寺が過去何度も宗派を改宗しているという疑問と当時の
政的圧力との関係を知りたくおもっているのです。
隣の神埼郡には源氏の縁とは裏腹に平家一門の荘が存在しており、その関係にも興味があります。
又,小林様は歴史にお詳しい方と存じますが,興味深いことに、あの小城郡から望む天山という山
は韓国に正に文字を同じくする天山が在り、しかもその天山と麓の住民の氏神である天山神社も存在
し、奉られている神の名が酷似している(おそらく同じ神を意味する)事、さらには、佐賀の天山の
麓には多久という街が御座いますが、その街の名までもが韓国のそれと酷似しているとの事です。
もしかすると、小林様のおっしゃる清和源氏頼季流の先祖は朝鮮半島のその地より渡来し、九州に上陸後、数々の血縁者を各地に残しながら清和源氏という一族に形成されていったという推測は出来ないものでしょうか? あの小城という地は千葉氏下にあった時も朝鮮半島とは盛んに交易しておりました。また、鍋島統治下において形成されたという葉隠れの精神とやらも、良く考えると朝鮮の「風流道」(儒教、仏教、道教を全て混在させた中に産まれる精神的指針)に似ているような・・・
花郎の戦士の如く人格形成に挑んだ結果が「葉隠れ」として後に完成されたものではと推測するのはやはり無理があるでしょうか(笑)
今はそれより、小林様がもし清和源氏頼季流と九州千葉氏の関係などについてご推測でも御座いましたらお聞きしとうございます。
[41]小林雅成さんからのコメント(2004年04月04日 21時14分38秒 ) パスワード
  

西海大寺様

>円通寺が九州千葉氏の統治下にあった
宗旨宗派替えしていても寺名が変わっていないのであれば、同名の寺を全国あたれば、2つや3つはあるはずです。

ご指摘の件、まず日本人は血液の遺伝子のレベルでみれば、ほとんど渡来人であるという科学的前提に立ちましょう。

倭の国は、九州北部から朝鮮半島南部にかけて広大な版図を有していたという点からすれば、潜水して、あわびをとったり、体に刺青を入れていたと中国の古代書に著された倭の国の末裔が歴史の途中でジェノサイド(大量殺戮)されてないかぎり、現代では、数十万から数百万人単位で生存している勘定になりましょう。その人たちは、どこに住んでいるのかといえば、これは北海道という回答する人はほとんどいないと思いますが、九州です。

>清和源氏頼季流の先祖は朝鮮半島のその地より渡来し、九州に上陸後、数々の血縁者を各地に残しながら清和源氏という一族に形成されていったという推測は出来ないものでしょうか? 
管見によれば大筋ご指摘の通りと思います。

日本家系図学会の機関誌『旅とルーツ』71号から高井房雄氏の論述を引用しますと、
「高句麗系渡来人は卓越した馬術をもって重く用いられ、信濃国高井郡を中心に(中略)信濃武士と呼ばれた彼らが弓馬の術にたけていたのも、その伝統を考えたら当然(後略)」
(引用者註)高井郡は頼季流の村上氏などの拠点。

蛇足になりますが、高句麗系統の洞窟信仰が、長野県北部でも存在したのは事実のようです。古代から馬の生産が盛んで牧が多く存在し、現在でも馬の肉の刺身を食します、長野県の場合。

管見によれば、大雑把過ぎるかもしれませんが、新羅経由で渡来した氏族は源氏を称し、百済経由で渡来は平氏を称するとみていいかと思います。日本に来てもやはり争うのをやめなくて源平の合戦に武力を使ってしまうのです。
[42]小林雅成さんからのコメント(2004年04月05日 23時13分46秒 ) パスワード
  

西海大寺様

追加です。

>円通寺が九州千葉氏の統治下にあった
岡山県倉敷市玉島柏島に良寛さんの修行した円通寺というお寺があります。
[43]吉 富 正 和さんからのコメント(2006年02月24日 18時10分14秒 ) パスワード
URL=http://www3.ocn.ne.jp/^yositomi/

 嬉野市 久間村生まれの吉富正和と言います。

頼朝と友にし、鎌倉御家人で 千葉・三浦一族 土屋貞包新左衛門尉、少弐豊後守貞包で、 久間の冬野に上久間に墳墓が500年より何基も在ります。

最後は、久間城主に先祖は仕えました。
 宜しくお願い申しあげます。

          2006-2-24
横浜市港南区港南3-17-18
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