[1] | 平信浩さまの代理さんからのコメント(2003年01月20日 06時22分46秒 ) | パスワード |
平信浩さんからのコメント(2003年01月20日 00時00分38秒 )
平家落ち人伝説異聞
プロローグ
バブルのはじける前のことです。
私は茅ヶ崎のチベットと呼ばれる遠藤、大庭、駒寄、滝ノ沢一帯に造成された新興住宅地に移りました。住宅公団が売り出すマンションを抽選で当てたのです。初めて家をもった妻は喜びました。頭金と月々の支払いを計算し、ここでやっていく決心をしました。決心する前に茅ヶ崎に何度か足を運びました。夏、焦熱の東京から降り立ってみると思いの外涼しい風が吹いていました。私は、
「これだ!」
と指を鳴らす思いでした。
引っ越して数ヶ月は何もなかったのです。ところが駒寄に新しいマンションが建つ頃から、 奇妙な胸のざわつきに襲われ始めたのです。
マンション予定地を業者が掘ってみると、そこから中世の民家の跡と思われる遺跡が出てきたのです。マンション建設は中止されました。藤沢市役所の文書課と東京大学中世研究室がその発掘に当たりました。
私はなんどかその発掘現場におもむきました。どんな物が出てくるのか興味があったのです。研究員か市役所の職員かは分かりませんが何人かの現場の人に話しかけてみました。
「人が生活しとった跡でしょうな。便所や柄杓が出てきますよ」
と発掘現場にいた男性が笑いました。しかし、それは貴重な発掘だったのです。当時の人は、どんな物を食べていたかなど、生活の一部が分かるはずだからです。
「良い成果をお祈りします」
そういましたが男性の反応は鈍かったのです。それには理由がありました。
遺跡のおかげで都市計画が大幅に遅れることになったのです。この問題はどこの自治体でも抱えているといいます。
建設予定地から奇妙な物が出るのを極力関係者は畏れています。人骨など出れば格好の研究材料で、それこそ何層にも掘り起こされ、建設予定は見通しが立たなくなるからでした。
やはり、この地もマンション完成予定が二年延長になったのです。
[2] | 平信浩さんからのコメント(2003年01月21日 14時34分43秒 ) | パスワード |
お詫びがございます。失礼なことをしてしまいました。皇竹さんのスレッドに許しも得ず、書きこみをしてしまいました。
こちらに「平家落ち人伝説異聞」を書かせてもらいます。みなさまよろしく。
平信浩
2
と、ある夕べでした。湘南一帯を雷が襲いました。天が割れる。そんな気がしました。真上で稲妻が光ったかと思うと、もうガッと雷鳴がとどろいていました。
そして停電です。家内と子供はおびえていました。それでも集会所で子供達の集まりがあるというので停電の中、出かけていきました。帰りは九時頃になるという。ワープロも電話も使えなくなった部屋で、私はゴロリと横になりました。いつしか眠ってしまったようでした。
胸が苦しく目を覚まそうとしました。と、私の耳に、
「目を開けるな。目を開けてもお前には見えぬ。そのまま瞼を閉じていればわしの姿は網膜に映るはずだ。声をだそうとするな」
という声が響いたのです。言われるままに瞼をきつく閉じました。
私の瞼に写ったのは年老いた武将でした。顎がしゃくれ、歯が抜けていました。顔の右片側しかこちらに見せない。左半分は焼けただれているのです。つけている武具から戦国時代以前の人物でしょう。
「あなたは?」
と私は声にだしました。私のふくらはぎが痙攣しています。
「おいおいに分かる。力になってもらいたい。たいそうなことではない。これから何人もの我らの仲間が、こうして現れるだろう。話を聞いてやってもらいたいのだ」
「それはかまわない。どんな話ですか?」
「話す者によってそれぞれがちがうだろう。しかし、願いの筋は一つだ。それは我らが怨念を公にして欲しいということだ」
「怨念?」
「さよう。まずそれがしのことをもうしのべる。名は志摩宗佑、平維盛の庶子といえば理解してくれるな」
私は自分の胸がさらに圧迫されて行くのを感じていました。平家物語によると、平維盛には二人の子供がいた。しかし、庶子がいたとは書かれていない。維盛は妻を愛し、子を愛した平家の臣とある。
「それもおいおいに知る。我らの願いは我が一門の怨念を晴らすことだ。我が一門につながる者どもに平家の世の到来を願っておる」
「願ってどうするのですか?」
「栄華をとりもどすのよ。ために政権の中枢に人を送り込む」
「平家の血筋のある者をか」
「さよう。我ら一族は世にでなければならぬ。今からすこし前、藤原康正という文部大臣がでた。あれは我が一門の血を引く者だった。しかし、つまらぬ贈賄事件で失脚した。今すこしのところで天魔の妨害に遭っ……たのだ」
「天魔の妨害? それにつぶされたのですか」
「いかにも。藤原康正に隙があった」
「隙?」
「和歌、俳諧に酔った。そんなもの夢の片割れ。壊れてあぶくとなる。藤原は歌読みにうつつを抜かした。それが命とりとなった」
「藤原は文人ということですか。私は文人政治家こそ日本に必要だと思うが」
「政に文は要らぬ。要るのは力だ。文の道は、文読む者にまかせるのじゃ。あれはその任ではなかった」
「藤原康正も見くびられたものですな」
と私は金縛りの身ながら勇気を奮い起こしていってみた。
「よういうた。政治力の前には文など要らぬ。だがのう、我らの思いを、人の世のむごさを書き残しておきたいとも思う」
声に愁嘆の色が浮かびました。
[3] | 平信浩さんからのコメント(2003年01月22日 23時13分50秒 ) | パスワード |
「今、おきている事件と何か関わりがあるのですか」
「源氏の生霊が現れた。やつらが悪さをすれば、大きな厄災が日本におきる。それも我らが滅びて後、八百年の世だ。それはもう目の前だ」
物の怪は何かを考えるようでした。私の息がまた苦しくなりました。
「私に何を」
「我らの話す言葉を文に書きとり、お前の言葉になおして世に問え」
胸がいっそう締めつけられます。私は首を振りました。
「お前は……縁者なのだ。お前の母親はどこにいる? 知っておるのか」
物の怪は訊いてきました。私は自分のもっとも触れられたくない問題をつかれたのです。
「知らない。生まれてすぐに別れたままだ」
「母の名は末乃。M県W郡N島町で生きている。ただし、ボケが進行して、お前を息子だと判断できないであろうがのう」
私を育てた母は別に男と住んでいる。実母でないのを知っている。実の母はとうの昔に死んだ。そう聞かされている。今更なんだ。ムカッと反発する気がおきる。
「この仕事を引きうけよう。母の所在を教えてくれた礼に報いよう」
そこまででした。私は深い墜落感に襲われました。どこまでも落ちて行く。とどまることのない失落。轟音を立てて墜ちる。そこで私は気を失いました。気を失った耳に、網膜に、脳の端くれに、そそぎ込むようにある物語を刻み込んでくれました。
[4] | 平信浩さんからのコメント(2003年02月03日 04時40分09秒 ) | パスワード |
あやか・炎上
平信浩
プロローグ
道を踏み迷うことはこの山で生まれ育った老人にもよくあった。狐や狸にだまされたのなら許せる。だが、そうではなかった。間違いなく道は正しい。二度来た道を通らぬように枝を折っておく。だが、どこかで道を踏みまちがうのだ。これを古老達は「迷い落ち」と呼んだ。
「迷い落ち」とは平家の落ち人を追いかけた源氏の兵が、山奥で道に迷い、ついに京や鎌倉に帰れなかったことをいう。
吉田音吉が、山道に迷って死んだのは、八十七歳の時だった。里人は誰もそれを悲しがらなかった。もちろん年齢のこともある。もう一つお先祖様のお呼びがあったと思ったからだ。死体は翌春、山芋掘りの青年たちによって発見された。山の冷気のおかげで腐敗が進まず、仏様はきれいなまま遺族の手に帰った。しかし、よく見ると体のあちこちに傷を負っていた。噛み傷があったことだ。
「山犬の仕業だろう」
ということで警察は納得した。もう少し発見が遅れたら、腹の空いた山犬や狐や狸が出て、爺さんの体を食いちぎったろうと警官達は噂した。一応、警察医が呼ばれた。警察医も冬の間、山に放置されていたことを考察し、
「多少、損傷があるも、厳冬の山で放置されたことを考えれば不自然ではない」
と不審死の疑いがないのを確かめ、そう報告した。
しかし、この死に畏れを抱いた者がいた。他ならぬ、吉田家の者達だった。
「太股に残る傷跡は、咬まれたものだ。きっと山の神犬の仕業だ」
と吉田家の当主清三がもらした。それはざわとした噂話となって村中に広がった。「山の神犬」とは何をさすのか。それは村人の誰も語らなかった。
七月の半ばになると、それまで長梅雨でうっとうしかったのが一変した。日本列島に一滴の雨も降らなくなったのである。
うだるような暑さの中、紀州新宮の旅館「銘水荘」で、小さな会合がもたれた。会合が始まるや、
「神戸の須磨、三宮あたりにいた志摩宗山の『草』は今どうしているか知らぬか」
と訊く者がいた。志摩宗山の「草」とは、宗山の娘、あるいは宗山の女、という意味だ。
会の名前は「龍竈会」。奇妙な名称だ。「龍竈会」は三重県度会郡の海辺に散在する平家落人村の組織である。一族の組織「龍竈会」は八百年の昔から今日までつづいている。存続したのは、一族に、「いつの日か都に上るのだ」という政治的掟があり、それを一族は忠実に守ったからである。
「宗山を、さがし出して欲しい。宗山の『草』が、今、阪神地方にいる我が一門の者は居を関東か九州に移せといっている。もっと詳しいことが知りたい」
と先の男がつづけた。
志摩宗山と聞いて会合に出席していた者たちは一様に緊張した。みんなは小さく経文を唱えた。それは経文というより、「節」に近いものだった。先祖から伝わる俗謡である。彼らはこれを唱えることによって彼らの宿敵「天魔」にうち勝とうとする。「天魔」とは仏道の妨げをなす第六天の魔王のことだという。しかし、座の誰もが「天魔」を第六天などと思っていない。彼らに刃向かう者や、自然災害、疫病、人災など、みんな「天魔」であった。
「節」が終わると、みんなしばらく黙っていた。誰も宗山の消息を知らなかった。
「宗山の『草』がいうには、入道殿のお怒りがおさまらず、地が鳴動する。来年早々に阪神にむかう者があれば、とりやめるようにというてきた。これは入道殿のお怒りだ。何がおきるや知れん」
とつづけて先刻の男がいった。座はどよめいた。どよめきは一門が抱いている、
「平家滅びて後、八百年、一門の再興ならざりし折りは、入道殿の怒り天を突き、日本国中、天変地異にて山を崩し、野を焼き、川を氾濫させ、入り江を覆し人を埋め殺める」
という言い伝えのためだ。「銘水荘」の座敷の空気がにわかに張りつめた。
総勢は十一人、これだけ集まったのはめずらしい。集まった人たちは、おたがいを出身村に「根」をつけ、赤松竈の「根」とか、小松竈の「根」などと呼び合っていた。
「根」とは彼らの仕事名である。「龍竈会」には一村に一人、区長として「契」がいる。「根」は「契」の補佐役で一村に二名いる。一名は在村し、もう一名は村外にいてもよい。これを「外根」という。
「根」の下には三人の「幹」がいる。無役の村人を「枝」あるいは「草」と呼ぶ。「枝」は男の力役、「草」は女の下役である。彼らは「根」のために下働きをする。「契」や「根」は世襲ではない。その時代時代に、力量を見て村人が推薦した。外「根」が採用されたのは村々に過疎化現象がおきたからである。
彼ら一門には独自の言葉がある。周辺では山言葉といわれている。聞き慣れてしまうとなんでもない。「契」や「根」という植物名を役職名に使っているだけである。昔は、平安時代の古い言葉も使っていたという。しかし、今は廃れた。
平家が壇ノ浦に滅んだのは一一八五年(文治元年)で、以後、頼朝の鎌倉時代になる。そして室町時代、戦国時代となり、織田豊臣から徳川の世とつづく。だが、彼ら一門の平家再興への願いは消えなかった。
明治に入って彼らも国家の範疇に組み込まれた。それでも、平家一門の「栄華を再び」という願いは生きていた。
数年前、大きな期待を担って海辺の村から政治家がでた。自民党の藤原康正である。しかし、藤原康正はつまずいた。ある収賄事件に連座して葬られてしまったのだ。
「天魔にやられた」
とそのとき集まった「契」や「根」は口々にいい、「天魔」の仕業だと呪った。
[11] | ともさんからのコメント(2007年03月30日 13時33分03秒 ) | パスワード |
続きは・・?
[14] | 平 泉さんからのコメント(2015年02月03日 16時28分21秒 ) | パスワード |
M県W郡N島町のM竈の新任区長です。
藤原康正はもう亡くなりました。5区代議士ですね。
平信浩さんは現在お元気でしょうか。
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