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 投稿番号:100436 投稿日:2003年01月09日 19時56分14秒  パスワード
 お名前:嘉村孝
相知町で考えたこと
キーワード:相知
コメントの種類 :史蹟  パスワード

 忙しいお正月からふつうの生活に戻りつつあります(逆な話しみたいですが)。
 この間博多に行ってきましたがそこで、11月に行った佐賀の相知町のことを改めて感じましたので、書かせていただきます。

 相知町(おうち)の由来は松浦川、厳木川の合流するところという点にあるようで、蒙古襲来の時戦功を立てた相知三郎の名が文書に見えるとおり相当古くからの地名です。そしてこの相知氏、元をただせば松浦党の一流です。
 松浦党は、嵯峨天皇の子で河原の左大臣といわれた源融(みなもとのとおる)をその祖とするといわれ、平安時代に松浦地方に下向してきました。子孫は唐津を中心とした上松浦と平戸を中心にした下松浦とに別れますが、いずれも先祖と同じ一字名が特長です。私のホームページのテーマ「葉隠」との関係では上松浦の波多三河守親が有名ですが、秀吉に潰され、平戸松浦氏が明治に至りました。
 そんな背景を持つ相知町ですが、有名な石像物に鵜殿の石仏があります。四天王や大日如来が岸壁に彫られているのです。
 一体、この石像物はどうしてできたのかはっきりしません。
 私は、戦前の「佐賀県史跡名勝天然記念物調査報告」の記述や町の周囲にある八幡岳、作礼山、そして岸岳城(波多氏の城)といった山々をながめていると、この石仏は韓国との関係深い修験の行者によって彫られたという話が本当のように思えてしかたがありませんでした。前に書かせていただきました八幡信仰は大分県宇佐の新羅からの渡来系の人に関係深いといわれているわけですが、その西には英彦山が、更にその西には大宰府の宝満山が、というふうにいずれも修験の山があって磨崖仏があります。こうした山と磨崖仏との関係は韓国の慶州などとよく似ています。
 国東半島の石仏や白山信仰なども、よくいわれるとおり大陸との深い関係を有するのでは。平家物語の緒方三郎などもそのよく分からない元がこのあたりにあるのではと感じました。
 そう思うと、相知から唐津に入ったばかりのところにある久里双水古墳などにも韓国との共通性を思わない訳にいかないのです。
 もちろん私は全くの素人ですから、以上は正に初夢とさせていただきます。

[1]嘉村孝さんからのコメント(2003年01月09日 19時59分56秒 ) パスワード
  

すみませんホームページのドットが2つ入ってしまいました。
この間もそうだったのでしょうか。
ドット疲れがでました。
[2]服部 明子さんからのコメント(2003年01月10日 01時17分39秒 ) パスワード
  

相知氏
珍しい苗字ですね。
このスレッドで「相知」姓の方が書き込みして下さるといいですね。


松浦でしたら大陸や半島と公的に私的に更には非合法的にも交流があったでしょうね。
[3]三浦義幸さんからのコメント(2003年01月10日 05時32分49秒 ) パスワード
  

鵜殿の石仏は、見に行きました。
温泉施設・体育館の下を相当下っていきました。普通のコースの逆から行った記憶です。右サイド一番奥の洞窟まで入って見ました。 (危険進入禁止まで。)

一番高い位置の洞窟跡が【庵】または、お寺(神仏合体)が、あったのではと、想像して帰った様に覚えています。
看板1つで、パンフレットも無くもったいない史跡ですね。
城跡との説明と、対面に穴のあいた山がすごく印象残っています。
温泉の帰りだったと思います。(花公園・コスモス?)の奥の花のある温泉でした。
自家製のパンを焼く釜があった記憶。 パンフレットが、探すけど無い。
佐里?温泉の帰りでは。 記憶違いだったらごめんなさい。
[4]川口 信さんからのコメント(2003年01月10日 17時28分35秒 ) パスワード
  


 相知町のHPがありました。町の由来が素敵で夢がありますね。

 http://www2.saganet.ne.jp/ouchi/frame/history.html

●相知(おうち)という地名の由来
多くの史跡が残され、ノスタルジックな雰囲気がすてきな相知町。この“相知”という地名には、歴史的な由来があります。古くこの地は「逢う地」といいました。遠い昔、河川を交通手段としていた頃、東西松浦を結ぶ松浦川、佐賀方面へつながる厳木川、それら河川の入り組むこの地は、繁く往来する人々の交通の要地となり、宿場とされてきました。そこで人々が出逢い、親しく語らう処として、いつしか逢う地(あうち)…………相知(おうち)の地名になったのだといいます 。

 自然が残されていて羨ましい町ですね。
 鳥もいっぱい、花もいっぱい、石仏群も指定文化財になっていました。
 
[5]嘉村孝さんからのコメント(2003年01月10日 23時00分06秒 ) パスワード
  

 三浦様のメール、そのとおりコスモスの佐里温泉です。
 相知三郎の文書は平戸松浦藩が家臣から出させたものの中にあったらしいです。
 その意味で萩藩が行った萩藩閥閲録の作成と同じようなことが行われたようです。昔の人の努力にはびっくりします。
 川口様のいわれるとおり、川だけでなく道も逢っているところです。
 松浦川上流の相知、御笠川上流の太宰府、遠賀川上流の彦山、そして大分の駅館川上流の宇佐。それぞれの磨崖仏に服部さんのいわれるとおり古代人の心性と大陸との共通点、そしてかかわりを感じます。
 先日の旅行では名護屋城址から対馬まで見えましたし。あそこから対馬より対馬からプサンの方が半分くらいの距離しかないわけです。
 昔、津軽の今別町から北海道が見えて感激しましたが、日本海は正に内海ですよね。
[6]三浦義幸さんからのコメント(2003年01月11日 07時27分56秒 ) パスワード
  

川口様。 岸岳城は、縄張り図があるのですね。曲輪が残っている・・・。
1度は、登って見たいです。最近はあまり山も遠ざかり、城登り?でもと安直になってます。 堀切・石垣見たいです。
相知(おうち) 会う・出会いの、名ずけは、ロマンがありますね。
下関市にも、阿内(おうち)と読む地があります。 音としては、オオチです。
相知はオウチですか、オオチですか?
大内の支配化から、毛利の支配代えで、大内を偲んで、阿内と漢字名前を変更と、
言い伝えがございます。こちらも、歴史的ロマンがあります。

嘉村孝様 佐里温泉ですか。 記憶があることの確認は、この年になると、うれしいです。日曜の遅い訪れで、ゆっくり露天を楽しませていただきました。
隠れ里にしておきたいですね。 パンフレットを、メールを打って確認です。
[7]三浦義幸さんからのコメント(2003年03月01日 01時45分26秒 ) パスワード
  

サライ、今週号に鵜殿の石仏が良く掲載されています。
奥の院までは、掲載が無いのですが、東北の石窟庵が、原型に想像できます。
空海の像のいくえが判らないと記載あり。 庵の崩壊時に、どこかに持ち出されていると思われますが。
[8]嘉村孝さんからのコメント(2003年03月01日 22時59分28秒 ) パスワード
  

三浦様
 
 読みは「おうち」なんです。厳木(きゅうらぎ)川と松浦川が会うところという意味だったと思います。
 確か相知三郎といったと思いますが、それ名義の文書が平戸松浦家にあり、東の松浦党の一派です。
 この文書が平戸にあるのは西の松浦党の後裔である松浦藩が江戸時代に家来から各家に伝わる文書を出させたことによるようで、萩藩閥閲録と同じようなことが行われたようですね。

 空海さんのことはちょっと調べます。一部どこかへ行った話があったような。
[9]嘉村孝さんからのコメント(2003年03月23日 20時44分43秒 ) パスワード
  

三浦様

戦前に出た「佐賀県史跡名勝天然記念物調査報告」には以下のようにありました。

釈迦の坐像にして高さ8尺幅4尺のものは相知の妙音寺に持ち運ばれ安置しあり。
・・・縁起によれば僧空海入唐して大同元年帰朝の際、松浦の里に着岸鵜殿の霊場に感じて三尊を岸壁に刻み1日にしてなせり。時に1異人現れ来たり、仏天いくたの像を加刻せしはふしぎなりしとぞ。

以上でして、空海の像は本当にあったのかな?と思います。空海は、一応、彫った側になっていました。


[10]嘉村孝さんからのコメント(2003年04月16日 00時02分44秒 ) パスワード
  

 肺炎をものともせず?中国の四川省に行ってきました。

 そして、楽山市にある世界最大の楽山大仏という磨崖仏(唐の玄宗皇帝時代に彫られたもの)にお参りしてきましたが、最大の感心であった「大仏様の後ろの山が釈迦の涅槃像に見えるか」という問題が、正にそのとおり、という結果になって感激しました。
 阿蘇の五岳も北から見ると涅槃像に見えますが、正にそういう感じです。
 もちろん、それは昔の人の一種の遊びともいえないではありませんが、大自然を法身と見立て、そこにおける小さな人間と大きな自然を考えて、法身の象徴としての仏を彫った、という、より深刻なことがやはり言えそうな気がしてきました。
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月29日 07時40分15秒 ) パスワード
  

今朝のNHKニュースで相知町の蕨野?の棚田が映りました。
実際には1050枚あるそうです。
[12]相知修一郎さんからのコメント(2004年12月01日 04時51分57秒 ) パスワード

家族から先祖は松浦藩の家老だったと聞いたことがあります。
今は実家は北松浦郡にあるのですが、本家は平戸にあります。
もしかすると相知町と関係あるかもしれないと思うとなんだか面白いですね。
[14]田中愛造さんからのコメント(2005年03月10日 15時57分40秒 ) パスワード

相知修一郎様

 松浦を調べて居ましたら、相知に遭遇し一筆啓上。先に嘉村先生の言葉と重複致しますがご勘弁下さい。
 肥前国松浦郡松浦荘西郷相知村(佐賀県東松浦郡相知村相知)発祥、松浦党の一。上松浦党、本来の松浦氏と松浦党化した出自を異する諸氏がありますが其の一つとして相知氏が存在致します。
 嵯峨天皇ー源融(従一位・河原左大臣)−昇(正三位河原大納言)−仕(武蔵守)−宛(無官、箕田源二・渡辺)ー綱(源次別当・内舎人、源頼光四天王)−久(源二、源別当)=高俊(養子)−納ー教ー勝ー比(相知氏称)−連ー秀。
 と続く。上松浦の松浦高俊からは、黒岩・向・牟田部・築地・佐里、各庶氏家が輩出されました。
[15]相知政司さんからのコメント(2005年07月15日 09時30分28秒 ) パスワード

初めまして、相知政司(おおちまさし)と申します。名字のふりがなは、親にこのように教えられ、小学校から、このように書いてます。

実家は、今でも、平戸にあります。現在、自分は、仕事でアメリカに来ております。本日、偶然にも佐賀大学の宮島先生が書かれた松浦党に関するホームページを見ておりました所、興味がわき、いろいろ調べた結果、この掲示板が出てきました。

平戸には、私が知っているだけでも、4〜5家族の相知家があります。

相知のルーツについて、興味があります。



[16]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年07月15日 22時48分29秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

相知氏は田中愛造さんが述べられている様に、
肥前国松浦郡相知邑発祥、嵯峨源氏松浦党の一族である。
綱から相知氏に至る系は、
○綱(渡辺源次)−久(松浦小源太)=高俊(松浦太郎、実安倍高任男)−納(松浦源太郎)−教(牟田部四郎)=勝−比(称相知)

○綱(渡辺源次)−久(松浦小源太)−広(神田五郎)−高−純(神田五郎)−勝(牟田部四郎教の婿となる)

※松浦党の出自は異説として安倍氏説があり、安倍宗任−俊任−高任の系が暗示している。

宗任が肥前松浦に土着したことは「筑後地鑑」、「筑後国史」等に見えることから、松浦党と安倍宗任の関係が密接だったことがうかがえる。
[18]相知義文さんからのコメント(2007年05月03日 11時45分52秒 ) パスワード

私の本家は岡山県高梁市川上町にあります。名字の読みは「そうち」です。お会いする人ごとに、「珍しい名前ですね」と言われています。本家は江戸時代より庄屋で名字帯刀を許されていたと聞いています。
前々から「相知」のルーツは?と考えており、佐賀県に相知(おうち)町という地名があると知り、検索していましたら、このページを見つけました。
平戸には「相知」姓の方もいらっしゃるとのこと。遠縁にあたるのでしょうか。とても心温まる気持ちです。
[20]峯 まゆみさんからのコメント(2013年03月25日 23時26分44秒 ) パスワード

私は、相知町で生れ育った者です。
と、申しましても成人してからは、福岡〜東京で仕事をしていたので、約20年間相知からは離れておりました。
昨年末、東京から地元の相知に戻り、今まで全く興味がなかった郷土史が、突然気になりだして、ネットでいろいろ調べておりましたら、こちらにたどり着きました。
最後のコメントが、2007年なので、今、機能しているかどうかわかりませんが、コメントせずにはいられませんでした。
相知という地名は珍しいと思っていましたが、その姓があることは、初めて知りました。

ちなみに、私自身の姓は、「峯」と申しまして、嵯峨源氏の流れを汲んでおります。子供の頃に祖父に見せてもらった家系図には、はっきりと嵯峨天皇の名から始まっており、子供心に衝撃を受けたことをはっきりと覚えております。

上の相知義文様に、「庄屋で苗字帯刀を許されていた」と書かれておりますが、峯家も、なぜか、上に命じられ、江戸時代に唐津で庄屋をしていたようです。
現在でも、庄屋としての様々な記録が書かれている「峯家文書」という、膨大な古文書が残されており、相知町内で毎月研究会が開かれております。

[45]相知健児さんからのコメント(2021年03月28日 00時24分15秒 ) パスワード

相知修一郎様・政司様・義文様他相知に関する事に色々と関心や興味を頂いております方々、ご健勝であられますでしょうか?私は佐世保に住んでいます、相知健児(おおちけんじ)と申します。五年前にこのコーナーを発見しましたが、なかなか意見を発信出来ませんでした。が、私的に「相知」という名字に何となく近づいて来たのかと思い、相知家方々のご意見を賜りたくコメントさせて頂きました。
まず、「相知」とは?「おおち」と、なぜ読むのか?なぜ相知町付近に住むことになったのか?なぜ各地に相知さん達が住んでいるのか?なぜ色々な、名のり方があるのか?なぜ私の住んでいる所に相知姓が多く住んでいるのかなど私的に調べました事を(まだ、不足していることもありますが)一族で不肖者の私ではありますが語ってみたいと思いますが、いかがなものでしょうか?

[46]相良四郎さんからのコメント(2021年03月30日 23時59分34秒 ) パスワード


相知さん

準備不足で今日になりました
いきなりですが枚方を思わす川について
私はかなり拘っていて
さらに蔵田というか棚田(私の手元では)
まだ確認がたりません
また調べてみます
[47]相良四郎さんからのコメント(2021年03月31日 00時23分47秒 ) パスワード

やはり間違いがありました

こちらですと古宇→古字になっていたりで

だれか親切に教える識者がおらぬかと
思ってしまいます

そういえば古い知人は肥前でした
相知が邑知だとすると大蛇が出てくるのですが
これは一体..
[48]相知健児さんからのコメント(2021年04月03日 01時27分53秒 ) パスワード

相良さん!コメントありがとうございます。
すいません勉強不足で、いや勉強嫌い人間で本当はこんな所でコメントなんぞ出来もしない者で、相良さんのコメントがピンと来ずにすいません。
ただ、先祖様が「○○の港から此処に揚がって来た」また、ある人からは「追手から逃げてこの地に住み着いた」や、この家の周りの相知さんは親戚ではない、などの状況から疑問が出てきて色々と調べてみました。まだまだ情報不足で時代考証等していませんが、この十数年間だらだらとなり止まったりして調べていたので、調べを進めてほかの方の意見を聞きながら出来るだけご先祖様の動向を垣間見てみたいと思い、このボードを拝借いたしました。
全くもって勝手な話で意思混同してしまうかも知れませんが、宜しくお願い出来ればとおもいます.
[49]相良四郎さんからのコメント(2021年04月05日 18時36分13秒 ) パスワード

突然ですが
犬隠は知っていますでしょうか
葉隠と近いものを感じます
わざわざ書いたものの
私の言いたいものはこの部分の他にあるのですが

先祖の地域の特定は微妙なラインと思うとはいえ
思わぬタイミングで伝承が追加されるのは可能と
考えているので気を長くしてアンテナを張っておられればと
それで確かに私の趣味が出たとはいえ
蔵田のワードに驚いたのですが
また此れは次回に
[50]相知健児さんからのコメント(2021年04月10日 09時23分54秒 ) パスワード

相良さんコメントありがとうございます。名字の語源を探していただいているのですね。ありがとうございます。私も色々と調べているんですが中国からの言葉が近いかなと思っています。次回に投稿してみたいとおもいます。今回は…

私の先祖がどう流れてきたのか、簡単に語ってみます。
もちろん相知町の話です…。城主波多氏の重臣相知氏は、波多氏の跡目相続の争いで本妻と後妻の争いに巻き込まれ、波多一家の戦いになりました。しかし、後妻派の家老やほか重臣達の勢力が強く、本妻に加担した相知氏は本妻と子を連れ日高氏青山氏などと壱岐へ(その当時波多家の領地があった) 逃げることとなりました。
時が過ぎ相知町へ帰ろうとしたが、まだ後妻の勢力が強く相知へは入れなく追手まできてしまい、相知氏は平戸藩へ向かう組と大村藩へ向かう組とに分かれました。
大村藩へ向かった組はその当時大村の領地となっていた針尾氏の下へ行くことを勧められ(参考資料「壱岐」には時津に行ったと記してある) 針尾に来た相知氏はいくらかの土地をもらい田畑を耕作し(私の家には農業のやり方を記した大福帳のような古い帳面がある) 生活したようである。(参考資料 続松浦党・続松浦党戦旗・壱岐・佐賀県の歴史・壱岐対馬と松浦半島・他) 断片的話も多く、少し話が違う部分もあるので本当かと言われると問題もあると思いますが、多くはこんな感じです。(次回は、なぜ相知(おおち)と言う名前に)
[51]相良四郎さんからのコメント(2021年04月10日 19時40分44秒 ) パスワード

相知さん、おいでになっていましたか

相良四郎は仮の名前です

秘めるつもりでしたが
私は滋野や橘を調べている身です

心当たりがあるのですが、どうしても見れないものがありましたので
とりあえず返事だけさせて頂きます
[52]相良四郎さんからのコメント(2021年04月13日 16時49分07秒 ) パスワード

相知さん
歴史を把握したいとき私としても比べていき

人によればそれで解釈がずいぶん分かれるかもなのですが..
私としては三十番神社なる話題を現在でも
追っています
それで普通は相知からすると外ですが
本音は触れづらいながらも
もう1つ頼りたい神社もあります
とにかく相知の境目近くには目を向けはじめています
私が言えることではないようにも思いますが
今後の研究に期待すれば、飛び地ということであってほしいですが
二度いいますが三十番神社についてはときに形を変えながら伝承は
まだ存在しており
仮説がたてられるならば相知の領内でもお寺さんになるのかもしれないですが
その辺りは尋ねたかった部分です

おおち  の読みからそう考えさせて頂きました
[55]相良四郎さんからのコメント(2021年04月13日 19時48分59秒 ) パスワード

すいません
もう一回書き直します


針尾氏ですが

本を持っておられるなら
針尾氏の分布と照らし合わせができますね

東海道にもおられ
私も個人的に調べてみようと思います
上記の神社は

相知さんの意見を聞いていませんので
現在は全く持って趣味ですが
時折、肥前を調査ている身からは拘りたいのです
[56]相知健児さんからのコメント(2021年04月19日 00時42分13秒 ) パスワード

相良四郎さんコメントありがとうございます。
心当たりがあってどうしても見れないもの?何か謎々みたいで気になりますね。
三十番神社各地にあってしらべれば面白い話がありそうですね。私もいま、七郎神社を私のご先祖がこの地に連れて来られたのでは(何か気にかかる部分があり)ないのか調べてみようとしているところです、何か相知町か松浦党に関係しそうです。
話が変わりますが、相良さんとは仮の名と言われましたが、なぜ相良さんだったのでしょうか?私の会社の社長が相良なので、もしや親戚ではと勘ぐっていました。
(チョット、ホッとしました)
また何かおもしろい話がありましたら宜しくお願いします。
[57]相知健児さんからのコメント(2021年04月19日 01時01分10秒 ) パスワード

それでは、相知という名になったのか?(チョット、長くなりましたが大丈夫でしょうか)
相知名字の始まりは、松浦党の中国との貿易によると思われます。 
ネットで中国相知と検索すると、多くの相知が出て来ます。意味を調べると親友・知己・よく知り合う・深く理解し合うなどと書いてあります。そして、日本にも中国から漢詩も持ち込まれ、その中に王安石の「人生楽在相知心(この世で、私の気持ちをよくわかって、私と心を通じる友人がいれば、楽しい人生になる・なったであろう)」という詩が持ちこまれたとします。そして、その時『この漢詩は宋の国の王妃(王昭君)の心を王安石と言う詩人が詠んだ詩です』 と、紹介したとします。この詩が伝わっていくうちにいつの間にか「相知心」が、この漢字で「おおひのこころ」と言われるようなった事と、中央政権で何らかの関係〈長崎県相知文書より〉があり何かの職務に付く事が決まっており、それを相知行(あいちぎょう)といい(相知行(旗本・諸藩、家臣の基本的知行形態【知行】事務をとること。職務を行うことと。平安時代・知行国を与えられ、国務を執り行うこと)それがあるため、知が「ひ」が「ち」と使うようにしたのかもしれません。これで、「相知=おおち」となったのではないかと一つの考えだと思います。(おおち=おうち・おおひ=おうひ、の話は後にいたします) また、 親戚で親しい波多氏と「人生楽在相知心」を実現させてほしいと付けたのでは、とも思います。
この、考えに及んだ参考資料は、ある詩吟の会七月号の会報に王昭君の話の中に出てきた話から他と。この時代、松浦氏・波多氏の兄弟家一族であり、平戸・松浦・壱岐を拠点として貿易にも携わっていたので中国語で相知意味は親友・知己・よく知り合う・深く理解し合う、などの意味合いがあるので、貿易の時はうってつけの名前ではなかったのではないでしょうか。(私は勝手にそう思っています。次回はおおち=おうち話をしてみたいとおもいます)
[58]相良四郎さんからのコメント(2021年04月24日 10時05分38秒 ) パスワード

もっと後でお書きになるのだと
思っていましたが蓮賀さんは名前を出してもいいですか

私も漢籍をマスターしておけばと思いました

七郎神社は玄関のように感じます

とりあえずここまでにします
[59]相良四郎さんからのコメント(2021年04月24日 21時52分57秒 ) パスワード

相良四郎という名前も書物にあるのですが
以前おられた方の真似みたいですが

私が知った当時は謎の残る人だったと

相知ですけれど
詩ですと王安石でしたか

片田舎の袁姓のご夫婦を思い出しましたが位置が違ったらすいません
旦那さんの名前は忘れました

四川がどの辺りかはきちんと覚えてないです
ご夫婦の村は長の方が王姓でした

山間の地方と思いましたが
[60]相良四郎さんからのコメント(2021年04月29日 23時06分21秒 ) パスワード

相知さん

相知氏は  おおち/おおひ との言葉からすると
樋口清之氏の話が垣間見えた気がします

青山氏は気にしていましたが
日高氏はこちらのサイトで発見できればいいのですが

続きをお願い致します 
[61]相知健児さんからのコメント(2021年04月29日 23時58分27秒 ) パスワード

相良四郎さん毎回お気にかけていただきありがとうございます。
樋口清之氏とは、どういう方なのでしょうか?それと、四川とは中国に行かれた事があるのでしょうか?
勝手してすいませんが、おおとおうについて発言させていただきます。
最初はネットで「おお」と調べたとき過去に「大きい」と「多い」の「おお」以外は「おう」と仮名を付ける時があった。という情報があったので単純にその時に戸籍が関係したのかなと思っていたのですが、しかし平安時代から続く歴史的仮名遣いから現代を読み解くとそんな単純な問題では無かったのです。この事を書き始めるとながーくなるので、出来るだけ簡単にと思いましたが‥…。文書能力の無さ故長くなり(結論は簡単ですが)お許しください。つづきます
[62]相知健児さんからのコメント(2021年04月30日 00時03分30秒 ) パスワード

言葉の発音は時代と共に変化します、仮名を書くと昔の人が書いた綴りと違ってしまうことが起こり始めます。書物は手書きで元の書き方が後世に残ることは期待できません、仮名書きは少しずつ混乱していきます。もともと違う音であったものが楽な方へ発音は似たようなものになっていきました。大阪(おほさか)の「ほ」又は、十(とを)の(を)が長音で表示されたものは「おお」でそれ以外は「おう」である。仮名遣いは鎌倉時代の藤原定家が最初で平安時代には、『下官集』で「を」と「お」の仮名でアクセントの高低によって高音を「を」[wo]に、低音を「お」[o]に当てて使い分けた。又アクセントに関わりのない変体仮名の「越(お)」をいずれも使える仮名にした。この事は社会全体に広まった事ではなかった。その後仮名遣いの用例を人々が要求するようになり。14世紀後半には、行阿が『仮名文字遣』を著し、その中の「嫌文字事」をもとにして「を・お・ほ」、「わ・は」、「む・ふ・う」の諸例を大幅に増補した。また言葉の複合語などアクセントが変化、それまでの仮名遣いとは食い違うようになり、「を」「お」をあアクセントで使い分る方法は完全に混乱する。江戸時代になると国学者の契沖が『和字正濫抄』を世に出し国学者の間で広く支持され、明治政府が学校教育で採用するまで続いた。社会全体で統一的な仮名遣いが行われるようになるのは、明治になってからである。しかし、明治政府が策定しようとした歴史的仮名遣いは必ずしも受け入れたわけではなかった。
現代仮名遣いの規定では、ア・イ・ウ・エ列の長音はそれぞれの仮名に「あ・い・う・え」を添える。オ列の長音は「う」を添える。となっておりオ列だけは何故だか「う」になっていますが、ただし書きがあってオ列の長音については昔「ほ」や「を」を使っていたものに限って「おお」となる(例、「頬」は昔「ほほ」だったので今は「ほお」と書く。数字の「十」も「とを」と書いていたので「とお」と書く)。
他と違ってオ列の長音は、オーと発音しても「お」ではなく「おとうさん」のように「う」を添えて書く決まりになっていますが、同じオ列でも「多い」は「おおい」と書きます。
これは歴史的仮名遣いで「おほい」と「ほ」が続いたり、あるいは{を}が続く点で他と違うからだとされていて、旧仮名遣いの影響がここにも見られ「狼・仰せ・公・氷・こおろぎ・憤る・覆う・凍る・通る・滞る・催す・いとおしい・大きい・遠い」等も同様です。
平戸へ行った相知さんも「おおち」だったので発音は「おおち」で間違いなかったのではと思い、例えば王様を歴史的仮名遣いにすると、「をうさま」現代仮名遣とすると、「おおさま」で「おおち」になり「おお」の長音は「おう」にするとの事で「おお」と「おう」の仮名遣いが出てくると思います。結局簡単に言うなら「戸籍の届出時におおの長音の仮名が「おう」と書いて「おお」と読みますので「おう」と書いて下さい」ってとでしょうか?
次回、何故私の地区に相知姓が多いのか?を書かせていただきたいと思います。
[63]相良四郎さんからのコメント(2021年05月06日 13時20分52秒 ) パスワード

相知さん

四川などの話はまだ早かったようです

樋口氏は故人ですが洒脱と評された学者です

我が先祖は「おお」が付きますのでシンパシイはあります

私からすぐでないですが越智の話もあります


[64]相良四郎さんからのコメント(2021年05月11日 17時04分20秒 ) パスワード

埼玉苗字辞典より

永 ナガイ 日高に存す。エイ参照。


日高氏はこのあたりが起こりでしょうか

相知さん

今さらですが平戸には心当たりがあると
書きたかったです、禁句のような気もしますが

しかし肥前にも手野があったりします?

調べてみます
[65]相知健児さんからのコメント(2021年05月12日 00時52分01秒 ) パスワード

相良さん樋口清之氏の話はどんな話だったのでしょうか?
どんな方かと思ってチョット覗いてみました、考古学者・歴史作家・教授など色々とされた方なんですね、「梅干しと日本刀」とか何か読んでみたい気がします。それと、我が家の古い本(平安絵巻の様な絵と変形文字が書いてあります残念ですが私は全く読めません、表紙と裏も無くなっています)を解読していただきたかったです。また、四川の話で早かったと言う話も気になります。日高氏も調べていただき有難うございます。中々相知町他氏を調べる余裕がまだありません。まだ、相知の歴史資料の時代考証等してなく見切りで投稿してしまい、何か申し訳ない気もします。この投稿を焦ってしまったのは、ある投稿欄に国語学者の方だと思いますが、「おおちをおうちに、読みをしてしまいたい」と書かれていたので私の名字を蔑ろにするのかと怒ってしまいました。ので、ずっと昔に見たこのサイトを思い出しヨクヨク見ると「このサイトの前書きにユニークな仮説、自分一人では解決出来ない問題点などを気軽に書きこんでください」とありました、思わず投稿してしまった次第です。平家物語との関係はと言われると心苦しい気はしますが、読者様・管理者様には今までの文章が削除されていない所をみますと、我慢できる範囲であると勝手に思って感謝しております。「ありがとうございます」また、相知名字の方々にも意見を頂き、歴史・何かを感じて頂ければと思います。(学の無い文章で長々とすいません)
相良様も色々と情報方々毎回ありがとうございます。
[66]相知健児さんからのコメント(2021年05月12日 00時54分15秒 ) パスワード

私の住むこの地域に相知姓が多いのでしょうか?
この地域におられる相知さんは、今は、6軒あり(5年前は8軒ありました)。しかし、私の親戚は現在一軒もありません。なぜ?でしょうか!
8軒の内3軒の方(親兄弟)は、私の親から聞いている事はこの地で小作人をされ、そして平民苗字許可令が出たときに相知の姓を貰われたとの事です。
神社のすぐ前に住んでいた方は、私が思うに神社を守り相知の影武者的存在でそのまま相知を名のられたのではと思います。
隣部落(昔は敷地の西の端だったと思います)の方は、今は親戚ではありませんが昔は親戚であったと思います(家紋が一緒その他で思うところがあります)。
隣の2家族の方は(兄弟です)色々な事から察するに波多家の子孫の方だと思います(昔から相知であったと思っていらっしゃいますが、いくつもの周りの状況が物語っていると思います)。
それで私の親戚はと言いますと、各地に佐世保市内・大阪・愛知・三重・私も前は熊本に11年おりました。他家の方も広島・東京などにおられます。昔、私の父はココに長屋を作り皆で一緒に住みたいと生前言っておりました。正に「相知心(心通ずる親しい仲間と一緒に楽しく暮らしたい)」という事で、昔は親しかったのだと思います。それで名字を付ける段階で、ご先祖様も仲が良くてこの地域は相知姓を皆付け増え、この地に多いのだと思います。また岡山や京都の方も、歴史を調べると昔は親戚であったと思われます。
(次回は相知の名が付く物や場所など)
[67]相良四郎さんからのコメント(2021年05月17日 18時24分35秒 ) パスワード


危宿ですが書いています

相知心は会得するものだと思うことにしました

相知さん
やはり邑智でしょうか、勿論おおちと読むことにしています

それでも意宇については大変でした
今頃になって納得しています
それで大根村です
泗水など引合に出したい気もしますが

難関ではと感じますので
経津主神の名をようやく記すことにします

しばし休憩です
[68]相良四郎さんからのコメント(2021年05月20日 23時35分41秒 ) パスワード


前に佐賀はサルダヒコと言っていましたが
肥前とするべきだったでしょうか

相知さん

「青石」 これをずっと探し回っていました
後は「女山」 これも必然のような

予測変換されておらず恥ずかしいです

私に近くなるかはさておき
佐仲という人がいたそうですが
まだ途中です

梅干しと日本刀は
芭蕉の意外な面が出てきますから面白いです

青の読み換えが可能であるか
お聞かせ下さい、その部分は苦手です
相知町の本来の側面が見えそうな..

今回はこの辺までにします
[69]相良四郎さんからのコメント(2021年05月21日 20時34分28秒 ) パスワード


ここにお出でになられている方々の伝承については

感慨深く思うところあり
私としては
いきなりではありますが「ドリル」の話をしたいと思います

これは有松絞りの方でなく掘削のドリルです

今は未だ言えませんが
私個人としては尾州三州だけは守備範囲にと
(仮に武将の立場であったとしても所望してたと思います)

我が家だけの伝承とすると厳しいものがありますが
家族が三州と言っていましたので含みは感じていました

ここからは会議の範疇になりますので

相知さん 的を得ておらず申し訳ないのですが
もう暫くお待ち下さい
[70]相良四郎さんからのコメント(2021年05月21日 20時37分12秒 ) パスワード


訂正: 祖先がドリルに関与していたと云う話です
家族からの話です
[71]相良四郎さんからのコメント(2021年05月21日 20時49分13秒 ) パスワード


ドジりました
雲斎織がドリルですね


有松を言いたいだけになってしまいました
名古屋は何度も訪れていますが
[72]相良四郎さんからのコメント(2021年05月23日 23時52分10秒 ) パスワード


会議進んでないですが

大樽 大滝 石央 私としてはこの3つは構わないと思っています

話が全く変わってしまいましたが
私は伏線は残したつもりです

川頭=川津と考えていますので
その辺りは今後も繰り返させて頂くと思います

実は小さき使者が この頃せわしなく来るので
はて と思いましたが
一度も交わしたはずのない球磨弁を言い放つと
帰っていきました、知らぬ間に覚えていました

あれからほぼ8年です、同苗というだけで
何故コメントしていたのだろうと今でも思いますが

こうして相知町の話をしていながら肥後が出たのだなと思い
とりあえず今日は締めくくります
[73]相良四郎さんからのコメント(2022年04月09日 11時24分16秒 ) パスワード


相知さん    です
先に言うべきでした

多分このレスは消すと思います
[74]相良四郎さんからのコメント(2022年04月09日 14時52分08秒 ) パスワード


改めまして久しぶりです

大 オオ 梁書・百済伝に「邑を檐魯と謂ふ。中国の郡県を言ふが如し。其の国、二十二檐魯あり」と見ゆ。百済のクはオオ(オホ)、ダラは檐魯(たんろ)で、クダラは「大邑、大国」を表す。日本書紀・雄略天皇二十年条に「百済記に云はく。狛の大軍来りて大城を攻めること七日七夜にして、王城陥いり、遂に尉礼国を失ふ」と。三国史記に慰礼城と見え、神功紀に意流村と見ゆ。大城(古代朝鮮語のコニサシ)のサシは都の意味。王都(漢城、今の広州)は尉礼(いれ)、意流(おる)と称した。ヲル、ヲリは大の意味である。古事記に「天之冬衣神、此の神、刺国大神(さしくにおほのかみ)の女、名は刺国若比売を娶りて、生みし子は大国主神、亦の名は大穴牟遅神と謂ふ」と。大国主神は、刺国すなわち大城(尉礼城)の大ノ神の子である。また、日本地名学研究・白鬚考に「白鬚に非ずして韓音のクダラ也」とある。すなわち、白鬚(しらひげ)は百済神である。白髭(しらひげ)とは朝鮮語のクナルでクナラ、クダラと同じ意味である。クは「大きな」、ナラ、ダラは「村、国」で、「大の国」は百済(くだら)を云う。白髭・白鬚・白髯・白髪社等は新羅人居住地の新座郡には無く、高麗郡に多くあり、高麗人及び百済人は同族にて共に夫余族なり。

一 大族の居住地 古代朝鮮半島南部は、北方から韓族(夫余族)が南下し、大ノ国(後の百済)の原住民は最大規模の集団で我が国へ渡来して来た。彼らを率いて来たのは大ノ国の大王である大国主神(代々の襲名)であった。渡来集団の居住地は、出雲国意宇郡、大和国十市郡飫富郷、同国式上郡小夫郷、遠江国磐田郡飯宝郷(今の於保村、大之郷)、甲斐国南巨摩郡飫富郷(飯富村)、下野国安蘇郡意部郷(佐野市)、上総国望陀郡飫富郷(於布と註す。袖ヶ浦市飯富)、下総国相馬郡意部郷(取手市)等である。また、大野郷、小野郷、及び大河原、大沢、大島、大田、大塚、大山等も同じである。また、人と逢(あう)ことをオオタ、オウタと云う。オオ(オホ)の古代朝鮮語はウと称し、宇野、宇羅、浦、浦部も同じ。大族の集団を大部と称す。アベ、アラ、ウツミ、オオベ参照。

二 大族の東国移住 肥前国杵島山の鹿島(後の鹿島牧)の大族は大(多)臣が支配管掌し、其の一族は、同族の居住する常陸国鹿島の地へ移り、さらに陸奥地方の大族を支配したのが大臣である。肥後国阿蘇郡との境に豊後国大野郡(於保乃)あり、大族の居住地である。肥前国杵島郡杵島郷(きしま


ここまでが限界でした
[75]相良四郎さんからのコメント(2022年04月09日 15時26分33秒 ) パスワード




石岡は書きたかった訳ですが
またご意見を聞かせて頂きたいところであります
丁子紋ならとはおもったのです
少し石見人の真似をしてみました
[76]相良四郎さんからのコメント(2022年04月09日 16時03分47秒 ) パスワード


やはり枚方は外せないのですが
[77]山口 浩さんからのコメント(2022年11月10日 20時24分13秒 ) パスワード

相知健児様へ
 南北朝時代、上松浦の在地武士として名高い相知氏は波多家の内紛により壱岐にのがれ、平戸松浦氏の家臣となりました。分家の向氏、牟田部氏等は相知に子孫がいます。
 貴家の家紋を教えてください。向家と同じではないかと思いますので。

          山口 浩

[78]相良四郎さんからのコメント(2023年02月18日 22時09分15秒 ) パスワード


久々に見させていただきました。
[79]相良四郎さんからのコメント(2023年02月18日 22時16分28秒 ) パスワード


信州巧者について延享年間のことが出ておりました。
宜しければお伝えしたいと思います。

[80]相知健児さんからのコメント(2023年05月20日 02時58分14秒 ) パスワード

相良四郎さん、ご無沙汰しております。また、音信不通となり誠に申し訳ございません 。それと、相良さんのありがたいお話についていけない自分がおります。小さい頃より勉強が苦手で歴史なんてどうでもいいと言う感じでしたので、大変不愉快だったのではと、思います。(大切なコメント欄にすいません)
ただただ私の名字がどこから、来たものか調べたかったものです。もし、相知町の歴史の言われの通りに、地形の凹地から名が来たとしたら「おおち」「おうち」という読みが、漢字の「相知」を使うことになったのか?不思議でなりません。

山口 浩さん回答遅くなりましたが、(木瓜紋)五瓜紋の中に抱き茗荷です。私のご先祖様は、壱岐よりこの地へ逃げてきておりますので、この紋が本当に相知家の紋なのかわかりません。追手がかかっているので、身分等分かるものは処分してるようですが、古い帳面が二冊あり一つは農業のやり方を書いたもの。もう一つは物語を書いたものだと思いますが(挿絵か゜あり烏帽子などをかぶってる人なと゜か゜書いてあります)古い障子紙みたいな物に書かれています。表紙が無くしてしまっているので何が書かれているのか?

何か!支離滅裂なこととなりましたが、こういう人間みたいですのでお付き合いくださる方は、ご理解いただき失礼をお許しください。
[81]相良四郎さんからのコメント(2023年05月20日 13時41分31秒 ) パスワード


山口様。相知様。
まずは返事をさせていただきます。

旧事により私は歴史探究を辞めざるを得ない状況にあったもので現在回復まとめ直し中でございます。
ただ未だこちらで伝えるべき事があるようでしたのでその時はまた尋ねさせていただきます。
個人的には神社や相知町そのものに関する人物で初代について興味があります。
支離滅裂というのは酩酊した人のことと思っていますのできちんと文章を作られていると思います。
紋についても不思議なもので相知町の方々と全くに同じとはならず触れるのは畏れ多いですけども
細かなところで驚いております。
[82]相良四郎さんからのコメント(2023年06月22日 20時20分46秒 ) パスワード


痕跡が残ってはいるものの詳しい人が肝要の部分を忘れているということはあると思います。
ただ私にしてみれ松浦党についてだけは肝要の部分がピタリと当てはまっていたということになります。

おそらくは皆様が期待している話について直ぐは無理であるのですが
それにしても冠とはどのようなものでしょうか。
烏帽子についてでしたらどうしても拘りはあります。

[83]相良四郎さんからのコメント(2023年07月23日 11時53分50秒 ) パスワード


川津は分かって頂けてるものと思い少々推し気味で書いておりました。
ただ今後とも宜しくお願いします。
個人的に荻ノ入という名が気に入っています。
ではまたのコメントお待ちしております。

[84]相良四郎さんからのコメント(2023年07月24日 15時55分54秒 ) パスワード


重ねてではありますが
過去の記事についても目を通させて頂きますことを記します。

[85]山口浩さんからのコメント(2023年09月26日 21時22分47秒 ) パスワード

相知健児さま

唐津の向家の家紋は抱き茗荷です。ありがとうございました。
[86]相良四郎さんからのコメント(2023年10月05日 15時33分02秒 ) パスワード


沢山の話をくださいましたことに心から謝意を表します。
さて経堂の話を宜しければしたいのですが
またこの場を借りさせて頂いてもよかったでしょうか。

[87]相良四郎さんからのコメント(2023年11月04日 18時52分01秒 ) パスワード


伊福の発言は実は私がさせていただきましたが
川津と相知町ということで関係するのかというときに
私は間接的にもあるのではと現在思っております。


[88]相良四郎さんからのコメント(2023年11月09日 15時34分57秒 ) パスワード


川津の説明がありませんので、伊豆です。
通常ですと河津と書きます。
[89]相良四郎さんからのコメント(2023年11月09日 16時43分31秒 ) パスワード


それで蔵春寺のことは申し訳なかったです。
本音としては他の話もあるのですが
とにかく件の寺については思わぬ出来事があり良かったには違いありません。
[90]相良四郎さんからのコメント(2023年12月10日 19時08分47秒 ) パスワード


白髭神社の話がありました。
駿河国内のです。
まずはご紹介までとさせていただきます。
[91]相良四郎さんからのコメント(2023年12月11日 09時05分15秒 ) パスワード


上に併せ浙江庵についても書いておくことにします。
[92]相良四郎さんからのコメント(2023年12月13日 00時04分09秒 ) パスワード


実を言いますと遠祖と武田氏は切っても切り離せないということになります。
ですのでこの事を相知町のこの掲示板で書いていいものであろうかと言わずじまいになるところでした。
針尾氏以来思ったように話を繰り出せず引き延ばしておったことを申し訳なく思います。

それと聞き覚えのある家紋の話を頂けました。こちらでは他複数見れます。再度詳細をお願い致します。

[93]相良四郎さんからのコメント(2024年01月17日 12時52分40秒 ) パスワード


あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

歴史をフラットに見たいとするとき
私はまず口之津そのものに惹きつけられていたということでありました。
いずれにしましても平戸に心当たりあることに違いなくそのあたりまたご意見伺いたく思います。
[94]相良四郎さんからのコメント(2024年03月14日 13時36分01秒 ) パスワード


好きこそ物の上手なれと言った物ですが

いずれにしても松下 松島においてもあのままということが不憫でなりません。
[95]相良四郎さんからのコメント(2024年03月14日 13時52分34秒 ) パスワード


ここ最近は不躾なでありました。失礼致しました。
閉伊川について見ておりました。

ご説明の相知氏の紋についてでございますがかなり親しみを持たせていただいております。
[96]相良四郎さんからのコメント(2024年03月14日 15時10分59秒 ) パスワード


一行阿闍梨について繰り返し読んでいるところでありました。
しかしその続きの部分 果たして相知はそういう意味でもあっただろうかと思っているところです。
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