[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年12月21日 04時28分08秒 ) | パスワード |
当時は複数の妻がいて当然の時代で
平家の公達ですからたくさん妻がいてマタマタ当然で
更に彼は41歳で亡くなったそうなので沢山いたのだろうな
と思います。
『太皇太后宮小侍従』(待宵小侍従)
という女性も忠度と噂になったそうです。
この女性は忠度よりずっと年上だったとか。
昔は源頼政とも噂のあった女性だそうですから。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年12月21日 04時33分59秒 ) | パスワード |
彼女が45で彼が22歳の時の噂だそうです。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2002年12月21日 11時07分10秒 ) | パスワード |
<4>に勘違いした事を書いてしまいましたので削除しました。
忠度は熊野川の「音川」という所の生まれだそうで
その生地という所は今はコンニャク工場になってるとか。
そこに14歳までいて京の都に出て行ったとか。
[6] | そりちゃんさんからのコメント(2002年12月21日 11時25分41秒 ) | パスワード |
そうですか〜、コンニャク工場・・・。
なんだか、トホホですね。
14歳まで熊野にいたということは、溜増の家と
結構接触があったのでしょうか。
そして、溜増の妹を妻の一人にした。
不思議ではないですね。
後に、溜増が源氏に寝返ってしまうのは
忠度が戦死して、平家との「つながり」が
切れてしまったからでしょうか?
確かこの他にも一族の姫だったか、が溜増の寵愛を
受けていて、それで味方についていたものの、
だんだん心が離れてきていて、
最終的には闘鶏神事で平家に見立てた鶏が負けたので
源氏方についた、
という話しもあったように思いますが。
でも実は、鶏のせいにしただけだったりして。
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2002年12月21日 11時44分48秒 ) | パスワード |
誰だって負け色濃い方には付きたくないですよね。
でも熊野の女の子(従姉妹か幼な友達)が妻になってたかも知れない
というのは充分に考えられますよね。
案外初恋の女の子だったかも、です。
その女の子が死んでしまったか何かで歌にのめりこんだとか
想像が走ってしまいます。
[8] | たまねこさんからのコメント(2002年12月24日 21時18分39秒 ) | パスワード |
頼政公が恋敵だったとは、考えにくいのですけれど、
彼の歌人としてのセンスの良さ、才能を尊敬(或いは嫉妬?)
していたのかもしれませんね。
ちょっと、意地悪してやろうか、ぐらいの気持ちがあったかも。
頼政公は、文人として、本当に素晴らしい方だったと思います。
最期は、武人として、立派な死を遂げられましたが…。
こんな所に、頼政公の墓がありました。
http://cat.zero.ad.jp/yamadaya/yorimasajinzya.htm
「源三位頼政は、自刀する際に、従者の下河辺藤三郎清恒に、
「我が首を持ち諸国を回れ。我れ止まらんと思う時、必ず異変が起きよう。
その時、その場所へ埋めよ」と遺言を残した。従者は、諸国を巡って、
下総国古河で休息した。立ち上がろうとしたが、その首が急に重くなって、
持ち上がらなかった。そこで、この地に塚を築いた。これが頼政郭という。
御社は、はじめ古河城内南端の竜崎郭にあったが、明治の末、渡良瀬改修
工事のため、削り取られ、川底になってしまい、現在の地に移転された。」
一度は墓参りにでも、と思っておりましたが、実家の近くにあったとは…。
[9] | たまねこさんからのコメント(2002年12月24日 21時33分24秒 ) | パスワード |
奥様は、そんなにたくさんいなかったのでは?
立場上、兄弟やその一族から”お古”をいただいた
こともあったかもしれませんね。
私は、奥方よりも、忠度の母方の一族が気になります。
どんな一族だったのだろうか?と。
義経の母や、清盛の母と同じような一族だったのではないかと。
[10] | 川口 信さんからのコメント(2002年12月24日 22時06分51秒 ) | パスワード |
資料がないため良く分からないのですが、検索したら次のような文章がありました。
『平家後抄』(角田文衛著)によると、熊野別当家には内紛があり、湛増の父の十八代熊野別当、湛快の死後、母の鳥居禅尼は新宮の行範と再婚して行快(二十二代別当)等を産み、行範は十九代別当となったが、本宮の湛増は自分を捨てた母親に反感を持っていたらしく、行範と行快が源氏寄りなのに対し、積極的に平家に接近して、その恩恵を受けていたという。源為義の末子の行家を匿まっていたのは新宮の行範達である。平忠度の妻となった湛増の異母妹は初め行快の妻で、尋快(後の二十八代別当)という子まであったのに、引き離して平忠度の妻にしたのは湛増だったという。
また違うURLには忠度の配偶者欄には修理大夫藤原宗兼の娘、陸奥守源信雅の娘、大宮権大夫藤原家隆の娘などとあります。
一番最初に出ている宗兼の娘となると頼盛の母と同じ出で、二番目の娘ですと経盛の母と同じ出で、三番目の娘ですと教盛の母と同じ出となり、どれが正しいのかわかりません。それぞれの母親の家の下の妹を娶ったと考えれば、考えられますが。それも三人ともとはちょっと出来すぎですね。
ありがとうございました。 マロより
[11] | そりちゃんさんからのコメント(2002年12月25日 00時20分50秒 ) | パスワード |
皆さん、いろいろ調べてくださって
ありがとうございました。
今更ですが平家の方々について、一人一人調べていたのですよ。
そして、ふっと気になったことであったのですが、
忠度の母が祇園女御や常盤御前たちと
同じ一族であったとすれば清盛が忠度を可愛がっていたと
いうのも、単に頼盛へのあてつけだけでは
なかったのかもしれませんね。
忠度の母もいろいろな説がありますよね。
丹後守藤原為忠娘
熊野新宮の娘
鳥羽法皇女房
仙洞御所女房
など、いろいろ・・・
真相はいかに?
[12] | 阪本敏行さんからのコメント(2004年10月13日 10時00分21秒 ) | パスワード |
二年前の御投稿なので,今さらどうかと思いますが。
『吾妻鏡』という鎌倉幕府の正史の中に,三河国の竹谷・蒲形荘の没収問題を巡って,平忠度の妻(この女性は21代熊野別当湛増の実妹にあたる人物) がこれを必死に取り戻そうと,元夫の22代熊野別当行快に頼んで頼朝(行快の従弟)に働き掛けた結果,取り戻すことに成功したという話が載せられています。
まことに残念ですが,今までコメントされてきたことの多くは間違った認識に立って書かれています。できれば,最近出版された地元の『田辺市史』第一巻か『本宮町史』通史編を参考にしていただければ,伝説ではない真実に近い歴史についてわかっていただけると思います。
なお,角田先生の『平家後抄』は名著ですが,川口信氏が引用された部分は角田先生が間違って書かれたもので,正しい歴史にもとづかれた記述とはいえません。残念ですが。
[13] | 烏夜啼さんからのコメント(2004年10月14日 14時19分44秒 ) | パスワード |
忠度という方はナゾの多い方ですね。
嘉応2年から治承元年頃まで、どこで何をやっていたのか。
宮廷に出仕していなかったみたいで、史実の忠度像はあまりよくわからないです。伝説が多いのはその為でしょうか。
忠度というと、平家歌人として有名ですが、実は歌壇活動の時期はとっても短かったらしいです。
年下に違いない経正が若手として活躍していた頃、忠度はまだ歌壇活動を開始していなかったようです。彼のデビューは経正よりもはるかに遅かったと推察されます。
夫人のこともよくわかりませんが、彼自身のこともあまりよくわからない。
若い頃、いったいどんな生活をしていたのでしょうね。
[14] | 管理人の代理人さんからのコメント(2005年01月08日 02時45分39秒 ) | パスワード |
FUTAMURA氏より管理人に送られた阪本さんへのメールでございます。
(不都合がございましたら削除しますのでお知らせください)
阪本敏行さん、私は貴方を知りませんし、このwebを初めて閲覧した者ですが、
貴重なご意見を賜り、感謝しています。
私は、愛知県蒲郡市に住んでいます。
蒲郡の地名は、明治初年に蒲形と西郡をあわせて作った地名です。
蒲郡市が50年前に発足した時には、蒲郡町が周辺の町村と合併したのですが、
その町村の一つが塩津村でした。
塩津村は、かつて塩田があったのですが、その跡地が蒲郡競艇場です。
地元の地名なので、分かりにくいと思いますが、競艇場は竹谷町です。
蒲郡市が、三河国竹谷蒲形両庄の歴史を負うた土地であることが分かっていただけたでしょうか。
吾妻鏡によると、
藤原俊成(華族冷泉家の先祖)が三河守であった時代に(久安年間)に、
この地を開発して、熊野山に寄進したことになっています。
実は、これが曲者で、俊成が国司たりといえども、京都に活動の拠点があったのは確かで、
久安百首や各種の歌合せに参画していることから,遥任でした。
実際に赴任し、在任中に不正を働き,私財を蓄える受領の代表として尾張守藤原元命は有名ですが、
まだ二十代の若い国司に誘惑がなかったかどうかは分かりません。
俊成は名誉の歌人で、千載集を勅命を受けて編纂しました。
蒲郡市の観光名所に竹島がありますが、
ここの祭神弁才天は、俊成が竹生島から勧請したと伝わります。
竹島には、俊成を祭る千歳神社があり、冷泉家とゆかりの華族諸氏が大正から昭和にかけて多数参拝しています。
吾妻鏡には「散位俊成」なのですが、歌人として大出世した俊成と同一視してよいものか、やや曇りがあります。
新古今集に、西行の「末の世もこのなさけのみ変はらずと見し夢なくばよそにきかまし」の歌があり、
詞書の「別当湛快三位俊成に申すと見はべりて」に私は注目しました。
吾妻鏡の記事に出てくる役者が見えます。
湛快の女子が、同じ別当一族の行快と結婚し、後に平忠度に嫁いでいるのです。
忠度が熊野育ちの大力と表現されるのは、
院政時代に盛んになった熊野詣が、
源平相克の時代になって、
別当の抱える水陸の軍事力を我が傘下に置きたい平家の友軍獲得政策で、
平家が頼りの熊野山だからこその現象であり、
京都出生よりも更に母方の実力を感じさせてくれます。
忠度と女子の結婚は、平家の意を受けた湛増(田辺に拠点があった)の思惑によると考えてよいでしょう。
田辺の新熊野権現で,闘鶏によって源氏に就くことを決めた故事がありますが、
政権の勝利者(与党)に身を寄せたい苦肉の策で、
それまでの様々な源氏つぶしを糊塗する芝居です。
以仁王の打倒平家の動きを二重スパイで平家に密告した罪は、闘鶏で清算できたのでしょうか。
私は、熊野詣でを約10回経験しましたが、そこここに残る平家の伝承を大切にしたいと思っています。
話を神戸市に置き換えます。
神戸市は、阪神淡路大震災によって多大な人命と財産の損害を受けたことに、まず哀悼の気持ちを表します。
神戸市長田区に、忠度の腕塚堂があります。
一谷の戦いで、源氏の範頼と義経の率いる大軍が、須磨海岸に陣営を置く平家を襲いました。
平家の大将である忠度は、勇戦して源氏軍を苦しめましたが、
武蔵住人岡部六弥太忠澄のために右腕を落とされ、
死を覚悟しました。
首を取った後、「旅宿の花、ゆきくれて木の下かけを宿とせは花や今宵の主ならまし」の短冊を見つけ、
惜しい大将の命を奪ってしまったと落涙する話があります。
腕塚堂と忠度塚は、やや離れています。
どちらも震災で被害を受けました。
腕塚堂には、地元の人が忠度を慕って奉納した石碑や仏像、位牌に慰められました。
しかし、ここも石造五重塔が倒れて、建物が一部損壊しました。
忠度の最期について、いろいろな文献を調査しました。
明石市の漢学者橋本海関氏の「明石名勝古事談」が最も詳細で感心しました。
「武蔵の国人岡部六弥太忠澄十余騎にて追駈る。忠西を指して馬を早む。
熊王丸源二源三其中を塞きて戦ふ。
熊王丸敵一人を斬りて後に死す。
熊王丸は童主なり。
源二源三も亦敵二人を殺し亦多く敵兵を傷つけ三人一所に亡ぶ。
忠度夫人なし。
熊王丸は忠度が妾腹の子なり。
時に忠度も亦岡部の為に右の片腕を斬落とされて遂に自滅す」
の名文を参考にしてください。
これは、平家物語ではなく、源平盛衰記から引用した考証です。
そして、明石市天文町に腕塚神社と忠度塚があることも覚えておいてください。
敵将の岡部もまた、菩提心ある武士でした。
本領である埼玉県岡部町に普済寺がありますが、
遠くない深谷市萱場の清心寺に忠度の首を埋葬して供養しました。
京都から妻がたずねてきて、墓前に植えた桜が成長して忠度桜という銘木になりました。
これは、湛快の女子ではないと思いますが、熊王丸の生母だったのでしょう。
そして、蒲郡市竹谷町の上田酒店には、山伏塚があって、
忠度ゆかりの山伏が平家の供養をした伝承があります。
蒲郡市では、市制50周年を記念して能「忠度」を来年2005年2月26日に上演します。
明石市の腕塚神社でも、祭礼に謡曲を奉納しているそうです。
蒲郡市の戦国時代の領主の一つに鵜殿氏というのがあって、熊野別当の一族の子孫となっています。
最近、私は、神戸市中央区に鵜殿家があることを知りました。
歴史は千年たっても続いている気がします。
長文で、失礼しました。参考意見をお知らせください。
[15] | 阪本敏行さんからのコメント(2005年01月13日 21時40分56秒 ) | パスワード |
管理人の管理人様,FUTAMURA氏からのメールを取りついでいただきありがとうございました。最近,この掲示板を覗いていなかったので反応が遅くなり申し訳ありません。
歴史の流れとそこに登場する実在の人物や一族の動向を的確におさえたFUTAMURA氏のご意見に感心しました。
神戸市へは時々行きますが,蒲郡市へはまだ行ったことがありません。できれば一度行き,熊野と関係する寺社や伝承などに関して色々と調べてきたいと思っています。
竹谷・蒲形庄は熊野別当家と繋がりが深く,行快の息子たちと関係があっただけでなく,熊野別当家一族の鵜殿氏(行快の弟範命の子孫)も後に関係を持つようになり,さらに承久の乱後の行忠(行快の弟行詮の長男)の逃亡先にもなっています。何やら関係がありそうです。
お会いして話ができれば楽しいでしょうね。
[16] | 阪本敏行さんからのコメント(2005年01月14日 09時11分16秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2005年01月17日 01時03分45秒
[17] | 阪本敏行さんからのコメント(2005年01月17日 01時41分27秒 ) | パスワード |
書き忘れたことがありますので,書いて置きます。
平忠度については,和歌山県熊野川町音川に生誕地伝説があります。
なお,『新古今和歌集』に「法橋行遍」という名前で和歌四首が収録されている僧侶歌人がいます。この行遍は,実は熊野別当家の出身者で,行快・範命の弟で,行詮の兄に当たる人物です。この人物の子孫は,後世,宮崎氏を名乗り,鵜殿氏と並んで熊野水軍のリーダーの一翼を担うようになります。
ところで,F氏は湛増を二重スパイとよんでおられますが,それはちょっと違うと思います。
湛増は,元来,平氏の御師でしたので(平氏の家人だと言う説もあります),当初は親平氏派だったのですが,途中から源氏に味方するようになり,しかも熊野別当に補任されたため,全国の動向に左右されることになりました。
その結果,最終的に源氏方として出陣することになったわけですが,最後の決戦のため瀬戸内海に船出するに際し,湛増も悩んだ末に,熊野のすべての人々を納得させるため,熊野の神の意志を確認するという名目で闘鶏を行い,源氏側の鶏に勝たせることで,衆議一致して源氏方として出陣しました。
裏切り者といえば裏切り者といえなくもないですが(私はそうは思っていませんが,説明すると夜が明けてしまいますので止めて置きます),いずれにしても二重スパイではなかったようです。
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