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 投稿番号:100427 投稿日:2002年12月19日 04時48分04秒  パスワード
 お名前:服部 明子
道場山宗清寺:平家落人・坂梨氏

コメントの種類 :書籍・文献
本人によりコメントは削除されました。 2004年07月01日 12時04分39秒
[1]川口 信さんからのコメント(2002年12月19日 08時04分01秒 ) パスワード
  

ちょっと詳しく書いたURLがありました。その中の文章から。  

 筑後市鶴田村に宗清寺というお寺があります。ここでご住職をされている速水良致上人を尋ねてみました。ご住職が出された「當寺創起畧記」というお寺の由来が書かれた書物には「治承年中右大臣宗盛公筑紫九州之地征鎮之〜」と書き出されており、このお寺が治承(1177)4年5月7日道場山(八女の里市の塚)に平宗清(宗盛)によって開基されたことが記されています。またこの書物を何度も読み返すと、平家一族が西海において没したことを宗盛がどういう思いであったのかがしみじみと伝わってきます。ただこのお寺は、鶴田村に移された後も2度ほど火災にあったらしく、平宗盛のものと思われる遺品は現在残っていません。
また、開基より中興まで380年程の間は、このお寺が誰によって、どのように開かれてっいたのかは全く不明であり、由緒あるはずのお寺の歴史もなぞのままです。またここにあるご仏像は、鑑定の結果室町時代のものらしく、江戸時代、享保(1716〜)に書かれた「當寺創起畧記」のみが、お寺の歴史を書き伝えているわけです。

 http://www.sunc.jp/otera/column.12.html

 まだ見つけたばかりでよく読んでいないのですが。後でゆっくりと読んでみます。
[2]川口 信さんからのコメント(2002年12月19日 08時07分53秒 ) パスワード
  

 八女と平家に関係する文章。前記URLの続きより。

 さて、時代は変わって平家の平安時代末期、八女はふたたび歴史の転換期に舞台となります。平氏と源氏の戦いは、山口県壇ノ浦で終ったというのが我々が知るところですが、その後平氏一族の残党は、幼い安徳帝を奉じて筑後路に落ちてきます。
小森野(子守野)は安徳帝が育った場所であり、久留米の日輪寺に行けば、帝がご崩御されたと伝わる古墳があります。
一方、大将平知盛(清盛の子)は、八女市八幡区 平に住みついたそうで、この他にも平家の残党は、八女郡立花町白木など、八女周辺にばらばらに定住したようです。今でも各地に平家の末裔ではないだろうかと言われる人がいるそうです。


特に知盛の叔父、平宗清は、源頼朝がまだ幼くして捕えられた時に、慈悲を持って京都の六波羅まで護送した人であり、この宗清がいたからこそ、後の源頼朝が存在し得たという平家にとってはまこと皮肉な結果を生じることになるわけです。
筑後市鶴田村に宗清寺というお寺があります。ここで住職をされている速水良致上人を尋ねてみました。ご住職が出された「當寺創起畧記」というお寺の由来が書かれた書物には「治承年中右大臣宗盛公筑紫九州之地征鎮之〜」と書き出されており、このお寺が治承(1177)4年5月7日道場山(八女の里市の塚)に平宗清(宗盛)によって開基されたことが記されています。またこの書物を何度も読み返すと、平家一族が西海において没したことを宗盛がどういう思いであったのかがしみじみと伝わってきます。ただこのお寺は、鶴田村に移された後も2度ほど火災にあったらしく、平宗盛のものと思われる遺品は現在残っていません。
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年12月19日 08時46分39秒 ) パスワード
  

川口さま

ありがとうございました。

筑後市にあるお寺なのに
私の中の先入観では八女になってて
どうしても八女という先入観が消せませんでした。

私の身体を流れる血の中のDNAのせいかと確信出来ました。

久留米ーー八女ーー筑後
平家の落人が移動した場所だったようでございますね。
本当にありがとうございました。
[4]服部 明子さんからのコメント(2002年12月19日 10時30分04秒 ) パスワード
  

>ご住職のお話しだと、平家の残党は、原や坂亡などに名字を変えて
(要は、たいらであるという意)、
お寺の周辺に住みついたそうです。

はらさん
さかなしさん
という名に変えたのですねえ。
[5]さちこさんからのコメント(2002年12月19日 13時02分58秒 ) パスワード
  

もしかしたら以前に紹介されているかもしれませんが。

http://www.senior-net.gr.jp/arima/tanbou/tachibana/otiudo.htm

八女郡の黒木町にスサノオ神社があり、
懐良親王の植えたとされる藤が残ってます。

http://www.ne.jp/asahi/oda/kaze/igyo/kurogi.htm

何故か今年の春ニュースステーションで、
東儀秀樹さんがここからの中継で出演してました。
何故ここで演奏するのかという久米さんの問いに、
判る人には判りますと答えてましたが。

黒木瞳さんがここの出身だそうです。

白木は新羅と考えていいみたいです。
親戚にいます。(笑)
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年12月19日 13時10分33秒 ) パスワード
  

伊賀の服部一族は
ホンヤさんの筋は宗良親王に従って長野まで転戦しましたが
また別な筋は懐良親王に従って鹿児島まで下だっています。

>懐良親王の植えたとされる藤が残ってます。
>判る人には判りますと答えてましたが。

そうですね。
分かる人には分かります。
[7]川口 信さんからのコメント(2002年12月19日 13時22分53秒 ) パスワード
  

平(坂梨)姓についての文章がありました。また福井県上中町無悪(さかなし)という所もありました。

九州の平家落人伝説のURLに坂梨姓に関する文章。

 壇ノ浦から九州に落ちのびた平家一門は、筑後の山門清水寺の僧兵や郷土の雄田尻氏の加勢を得て、
筑後と肥後の境にあたる飯江障子ケ岳の麓、要川
(★待居川:源氏を待ち受けた平氏の側に立って命名された名前といわれる。)
で文字通り最後の決戦に挑んだ。
しかし、琴平山に大物見を設け源氏の軍兵を待ち受ける平家武将の中で、
勝てるという見込みを持った者はおそらく一人もいなかったと思われる。
必敗の勝負に挑む将兵が物見から見つめていたものは、時の運に見放された平家一門の歩んできた道であった。
そして、平家は、雲霞のごとく押し寄せる源氏の大群の前に勝つ術もなく、中原の戦いで決定的な敗北を喫した。
川原は平家武将の屍で埋まり、要川はみるみる血で染まったと伝えられる。
 平家の姫君たちは、もはや逃げることも叶わず四方を断崖に囲まれた中原の奥深くの森に分け入り、
今を限りと瀧に身を投じた。これが「七霊の瀧」のいわれであり、そばに「七霊宮」がひっそりと立つ。
里の人は、姫君たちが鯰に変身したと信じた。
 また、落武者となった五人の平家武士は肥後の山奥の五家荘へ、また六人は柳川沖の端に逃れ永住した。
今も、柳川北原白秋記念館のすぐそばの「六騎」という地に、
浦河・難波・若宮・是永・加藤・鳴神の各家が残っている(注:山川町谷軒に平家の血を引く「加藤」家がある)。
 さらに、落ちのびることもできず、山の中に隠れ住んだ一党は、
数年の間昼は森に潜み、暗くなると食べ物を探しに山を降りるという生活を続けた。
おそらくは、田尻氏の配慮を得ての逃避生活であったであろう。
やがて、追っ手の姿が見えなくなると里の人とも言葉を交わすようになった。
しかし、名前を正直に言うこともできずに、平姓を「坂無」という名に秘した。
現在、高田町亀谷地区に「平」テーラという集落があり、二十戸のうち十八戸が坂梨姓である。
「現人神」を祀り、毎年四月十六日に法要を営んでいる。

 http://www.kyu-teikyo.ac.jp/~nakai/hkom.htm
[8]服部 明子さんからのコメント(2002年12月19日 14時14分54秒 ) パスワード
  

悲しいお話ですね。
でも坂梨姓の由来がちゃんと残っててアイデンティティが分かりますから
その分いいですね。

ありがとうございました。
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