[1] | 川口 信さんからのコメント(2002年12月04日 10時34分01秒 ) | パスワード |
その中から。
承安三年正月六日、平宗盛の子が四歳で従五位下に叙されて人々を驚かせました。しかも更に翌四年正月廿四日には五歳で侍従に至り、承安四年十二月十五日の除目で摂政基房がその子隆忠の任少将を望んでいたところ、平重盛の子資盛が少将となり基房は腹を立てて除目の途中で退席してしまいました。
承安五年四月廿三日基実の子基通の任中将拝賀の際に、院・建春門院・兼実・皇嘉門院八条院と巡って右大将重盛邸にあいさつをしました。兼実はこのことを筋違いとして非難し、自分の子供にはこのような真似は絶対させないと憤慨しています。
このような平家の勢いはやがて清盛の有名な摂関家領の処分となって端的に現われます。それは、平治の乱後四年長寛二年四月十日清盛は娘盛子を摂政近衛基実に嫁せしめました。その三年後にして基実は二十四歳の短い生涯を閉じ、清盛としては良いパイプラインを失ったわけです。清盛は藤原邦綱の言を聴き基実の相続領のうち、所謂殿下渡荘のみを新関白基房に伝えて他は近衛家にとどめ基実未亡人たる白川殿盛子の手に委ねてその子たる基通の成長を待つ事となりこの事によっても摂関勢力の失墜を自覚させられた一つとなったことは間違い有りません。
政権の座を保持するため、清盛にとって多少の強引な事柄の進め方は止もう得なかった処置でしたが、もう一方では、公家の諸勢力との協調体制を構築することも失わずにしていました。
清盛は多くの娘を公家貴族に嫁せしめて結びつきを強めようと努力をしています。花山院兼雅・藤原隆房・藤原信隆などを女婿として、また近衛基通にも嫁せしめて近衛家との姻戚関係を深め、これらの事からも清盛が柔軟な手段をもって貴族に接近してこれを手中にする努力を続けていたのです。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年12月04日 10時50分51秒 ) | パスワード |
ありがとうございました。
少しずつ拝見致します。
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