[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年11月17日 04時11分21秒 ) | パスワード |
参照はこちら:
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100291_6.html
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年11月17日 04時31分30秒 ) | パスワード |
あだち氏(足立・安達)は混乱しますが、もとは藤原姓から出ているようです。
足立氏は武蔵国、安達氏は陸奥・福島の豪族だったようです。
足立氏については足立区というのがあるぐらいです。
足立遠元は1159年の平治の乱で源義朝・義平親子に従い待賢門の戦いで名を残し
治承4年(1180年)の頼朝の挙兵後再び歴史に登場します。
遠元の娘が後白河法皇の側近藤原光能の妻となっている、というので分かるように
京に近い家だったようです。
頼盛や一条能保供応の時にも登場する人物です。
足立氏代表人物:
戦国時代は前田利家が美濃との合戦で足立という豪傑と一騎打ちした事で知られ
江戸時代初期加藤嘉明に従って軍功のあった足立重信という人は伊予川を修復し
松山の発展の基礎を作った人として知られています。
[3] | 足立 勗さんからのコメント(2002年11月17日 12時49分44秒 ) | パスワード |
服部さま 早速コメントありがとうございます。その上新たにスレッドを立てていただき恐縮の至りです。
私は足立と安達は同じ藤原姓でも全く別の系統だと考えています。その事はホームページを読んで頂ければ判ります。
先日、遠元の母について書込みをしましたが、出来れば遠元の父遠兼についてかたることが出来れば良いのですが、・・・
私が「丹波足立系図」以外で始めて遠兼の名を見たのは、辻邦生『西行花伝』の中に『北面の中でも歌の道で名のある藤原遠兼殿が義清(西行)の歌を見て、源雅定殿に「とても初心者の歌とは思われない」と語った・・・』というものでした。『西行花伝』は一つの作品であって、歴史的史料ではない、しかし時代的には近いし(1137頃)何か手がかりになるかも知れない、と思い始めたのです。
次に遠兼を見たのは右大臣宗忠の日記『中右記』の大治5年(1131)12月8日の項に
『今夕内侍所御神楽云々、不勘日時云々、主上初渡御、頭中将宗能取御剣前行、関白殿解剣取笏給也、御衣尻、供神膳、有御拝、人長左近府生兼信、笛少将忠基朝臣、篳篥時定、和琴則基、庭火少将公能、末歌貞基、殿上人6人、経定朝臣・公能・宗重外欠、陪従6人、元輔・清仲・重忠・時貞・宗眞・基□、近衛召人、忠方・近方・兼則・資定・遠兼・公方、次第如例、星歌云々、事了給禄』
その前の12月2日の所には女院の熊野詣の門出を見送った近衛舎人遠兼とあります。
この女院は待賢門院璋子で『待賢門院璋子の生涯』によると12月22日に鳥羽上皇と共に熊野より還御。とあります。
すると上に書いた主上とは崇徳天皇のことで、もしこの遠兼が遠元の父であったとすると、藤原光能との縁組みも納得でき、一門に繋がる吉田経房や葉室一族、『平家』の藤原行隆などとの交流がすんなりと理解できるのですが、今一つ決めてとなるものがありません。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2002年11月17日 13時08分54秒 ) | パスワード |
足立さま
HP拝見致しております。
他の資料で「安達家」が藤原氏の出身というのは怪しいというのも見ました。
でも中世の安達氏は鎌倉で大変な力を持ちましたから
安達氏が足立氏より今では有名になってますが
>女院の熊野詣の門出を見送った近衛舎人遠兼
遠元が何故京の都に繋がりがあったのか、この部分で納得が出来ますね。
遠元は文武に優れた武将であった、という事
親子で近衛の武士だったのかもしれませんね。
遠元も大番役で京都にいたのかも知れないですし。
何かで裏が取れると良いですね。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2002年11月17日 13時25分51秒 ) | パスワード |
ちょっと検索してみました:
http://www.melma.com/mag/71/m00020671/a00000028.html
竹内正道氏の足立遠元
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/adati_tn.html
ライバルに部下の刀を貸した足立遠元の人となりが出ています
[6] | 足立 勗さんからのコメント(2002年11月17日 17時51分54秒 ) | パスワード |
武内さんは私と知り合いの仲でして、お寺に時々お尋ねして意見交換をしています。妙法寺というそのお寺は元「丹波足立氏」の初代遠政が入部した時に最初に住み着いた場所にあり、その後岩本城となった城域の中に立てられたお寺で、お寺そのものは天正時代前後の開基の筈です。
妙法寺には神戸市在住であった足立節治氏(故人)が全国の足立を訪ねて調査した膨大な「足立」に関する資料が収められ、それを元に高校校長退官後研究を続けて居られます。私の手元には節治氏主催で昭和46年5月に神戸で開かれた「足立氏の先祖を語る會」の会議録が有りますが、武内氏も節治氏も私とは少し方向を異にしていまして、その趣旨は私の研究と相当の隔たりがあります。と言うのは丹波地方にも足立・安達が結構あり、両氏とも同姓だとの立場であることと、足立節治さんの先祖が、それだけの研究にもかかわらず丹波足立一族と繋がらなかった為、足立氏同好会的な方向に向かったことに有ろうかと思われます。
[7] | 足立 勗さんからのコメント(2002年11月17日 19時18分23秒 ) | パスワード |
服部さま、氷上郡佐治町小倉の妙法寺の開基は、武内さんから頂いた本に依りますと天文22年(1553)でした。開基当時の壇越足立基則は1583年1月18日、亀山で自刃したと有ります。ただし足立家系図に基則という名は見つかりませんが
遠元が大番役で京都にいたかどうかは疑問です。[足立左衛門尉遠元]ー[遠元の母]を見て頂ければ遠元が平家に被官していなかっただろう事が判ります。
私のHPでの売りは、[九郎判官義経]ー[義経の謎 その3]と[畠山次郎重忠]ですが御覧いただけましたか、ここに取り上げた(義経の系図)は私が探し出した未公開の系図で、その信憑性を確認中のものです。
いま、『平家物語』を少々手がけています。丹波足立系図の朝頼の脚注に書かれた
「吉田中納言・勧修寺人々の先祖」に拘り、同族といわれる吉田経房・藤原行隆や光能の書簡が何故多く取り上げられているのか、或いは『平治物語』に遠元の挿話が入れられたのは何故か・・・作者の比定、とまでは行かないかも知れませんが
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2002年11月18日 00時24分54秒 ) | パスワード |
>私のHPでの売りは、[九郎判官義経]ー[義経の謎 その3]と[畠山次郎重忠]ですが
>御覧いただけましたか
はい、拝見致しました。
以前丹波の大志万家の事を調べていた時に「赤井」氏に滅ぼされたという情報を得
足立さまのHPの系図にも出ていましたのでニヤリとしておりました。
近衛の召人・遠兼という人物が足立遠元の父でしたら朝廷との関わりがすんなり
受け入れられますね。
状況証拠はあるけれど・・・ですね。
[9] | 足立 勗さんからのコメント(2002年11月19日 12時34分49秒 ) | パスワード |
HPに『遠元の父』を追加しました。
太治五年に遠兼が近衛府に勤めていたという前提で推論を展開。
どなたか反論してください。
[10] | 足立 勗さんからのコメント(2004年02月29日 21時18分21秒 ) | パスワード |
平将門と武蔵竹芝
足立遠元の母の家系について最近興味ある記録が見つかりましたので紹介します。
これは遠元が足立を名乗ったこと、足立郡を領掌したことと大いに関係があります。
『将門記』に竹芝は武蔵国足立郡での武蔵竹芝と興世王との紛争にさいし、「竹芝は我が血縁ではないが彼の窮地を救わん」と将門が調停に乗り出し、結局失敗に終わった話として出てきます。
じつは、40年ほど前、足立家のルーツを調べ始めた頃『姓氏家系大辞典』をひもとき、その足立の項に、
角井系図に「竹芝の女子、社務相承、武蔵介菅原正好の妻、その子菅原正範・外祖父の跡を継ぎ氷川社務司となる。この子行範・足立郡司」とある如く、菅原あるいは籐氏と血縁関係を結び、ついにその系を冒すに至りし事もとより無きを保し難し。
とありますが太田亮氏はそれ以上の根拠を示していません。
角井家は武蔵国造家の流れで、東西に分かれ今有名なのは西角井家であり、先祖は天穂日命で出雲国造の一族です。
氷川神社は出雲の氷の川の上流にある杵築大社を移したものといわれ、埼玉県に集中し、その中でも昔の足立郡に密度が高く、その中でも最も大きいのが旧大宮市の台地に武蔵国一の宮として鎮座しています。
昨年の秋、あるサイトから武蔵竹芝には今一人の娘がいて、秩父六郎平将恒の妻になっている事がわかりました。将恒の父は忠頼、祖父は村岡次郎良文で忠頼は将門の従兄弟に当たります。そして将恒の子孫が豊島一族で遠元の母へと続くわけです。
『坂東の中世』豊島氏系譜考の中で守屋利幸氏は「将恒は頼光の四天王の一人平忠通の女を妻として武常を生む」(『続群書類従』第138・第146)と書いていますが、調べてみてもそういう記録は見つからず、逆に奥州相馬系図に「忠頼、村岡次郎良文子、継将門が跡」とあり、なお調べていくと、第143千葉系図別本に良文の跡を将門が相続し、その傍注に「良文為に甥たるに依りて養子に成家督相続、其の以後嫡子忠頼跡譲」と書かれています。
國香が将門を攻めた染谷川の合戦では、國香の弟良文は義によって将門に助太刀し國香を滅ぼしていますが、若くして鎮守府将軍であった父を亡くした将門を叔父の良文が扶余していたのかもしれません。染谷川の戦いは将門の父が國香に預けていた領地を國香らが横領したことにも原因があったわけです。
このようにみてきますと、将門と秩父平氏の良文・忠頼との関係はよほど密接であった事と思われます。将門・将恒という通字の上からもそのことはうかがえるわけです。一方、自分の介入で逼塞を余儀なくされた武蔵竹芝を将門が庇護し、秩父一族に預け、そしてその娘の一人を将恒に嫁がせた事もあり得たのでは無かろうかと思います。
そして氷川神社の社務職は菅原正好に、足立郡の郡司職を秩父氏に渡し、豊島氏に継承して豊島康家から外孫の足立遠元に譲られたと考えればつじつまが合うのではないでしょうか。
しかし残念ながら、今のところ武恒の母が竹芝の娘であったかどうかは不明です。
高望王┬國香─貞盛
│
├良将─将門 ┌武基─武綱─重綱─重弘─重能──重忠
│ ↓ │ │
├良文─将門─忠頼─将恒┴武恒─常家─康家─女子 │
│ ├足立遠元─女子
┌女子 藤原遠兼
武蔵竹芝┤
└女子
├──正範
菅原正好
[11] | 足立 勗さんからのコメント(2004年02月29日 21時31分02秒 ) | パスワード |
:系図の罫線がうまくいかなかったようです、ごめんなさい。
津将恒の嫡男が武基、重忠の妻は遠元の娘、竹芝の女子は将恒と菅原正好に嫁ぎ足立遠元の母が康家の娘という関係です。
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