【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
 投稿番号:100406 投稿日:2002年11月15日 03時59分36秒  パスワード
 お名前:服部 明子
takahiroさまへ

コメントの種類 :その他  パスワード

takahiroさまへ

わたくしの所に随分沢山のメールを頂いておりますことをお知らせ致します。

平頼盛が何故平家一門と決別して京に戻ったのか
「平家物語」からでは読み取れなかった事が
takahiroさまからの「愚管抄」の紹介で分かった、と。

それまでは、頼盛を誤解してた、という方ばかりでございます。
「愚管抄」はタイトルは知ってても実際に読んだ事は無かったから、と。
ここに明快に出ていたのですか、と。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年11月15日 04時06分24秒 ) パスワード
  

頼盛はクーデターの違法性が分かっていたのでしょうね。

後白河法皇を押し込めた罪を兄に直言出来る訳も無く
早過ぎた重盛の死を惜しんだことでしょう。

重盛が生きていたら清盛にそういう乱暴をさせなくて済んだのに・・・

誰も清盛には諌める事が出来ず
自分には政治力も軍事力も持ち合わせていない無力さ。


頼盛は父・忠盛が雅で生きるようにと方向性を示したように
自分は貴族の平家として生きて行くことを決心したのですね。
それで部門の平家とは一線を画す為に平家の赤印をかなぐり捨てたのですね。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年11月15日 04時13分38秒 ) パスワード
  

慈円の立場の難しさ
頼盛の立場の難しさ

だからこそ慈円は頼盛の立場を明らかにしてくれたのでしょうね。
相身互い。

慈円の頼盛に対する友情には涙が出ます。
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年11月15日 04時19分14秒 ) パスワード
  

頼朝を捕らえた宗清。
わたくしの先祖の一族。

宗清は京には戻らず平家と行動を共にしましたが
最近は宗清の心の裡というのが分かる年齢になって来ました。

敵であろうと捕らえた者を虐待しない事、
それはウイーン条約にも高らかに唱われている事。

800年以上も前にそういう感覚の者がわたくしの身内にいたという事、
誇りに思います。
[4]takahiroさんからのコメント(2002年11月15日 10時08分33秒 ) パスワード
  

>わたくしの所に随分沢山のメールを頂いておりますことをお知らせ
 致します。
>平頼盛が何故平家一門と決別して京に戻ったのか、
>「平家物語」からでは読み取れなかった事がtakahiroさまからの
>「愚管抄」の紹介で分かった、と。

そのように言って頂いている方の存在を知ると、心から嬉しく思います。

おそらく慈円は、京に留まりながらも苦しみ続けた頼盛の姿を間近で見て
いての、愚管抄のあの下りであると思われます。本当は明瞭に頼盛の苦し
みをも記したかったのだとも思いますが、都落ち当日の一門内での頼盛の
状況をそのまま記すことにより、言外に後世の読者へ真実の姿を伝えよう
としていたのだと思います。

慈円の言外の訴えを、私は発見し、それを服部様へお伝えしたのですが、
服部様はその慈円の文章を鋭敏に感受され、その為に一つのスレッドまで
立てて頂きました。

その結果、これまで知られなかった一面の頼盛像が、多くの人々に伝わり
ることとなり、その事に非常に喜びを感じています。
 
服部明子様、ありがとうございました。
[5]takahiroさんからのコメント(2002年11月15日 12時00分45秒 ) パスワード
  

他の頼盛スレッドにおける記載を再掲致します。

池大納言家領の一つ、安芸国安摩庄にての頼盛のエピソード。

 「治承3年(1179年)安摩庄の領家、平頼盛は信仰のあまり、その領
  家としての権益(権利と利益)の全部を、厳島神社に寄進(社寺などに
  金銭・品物を寄付すること)として神社の費用にあてることとし、翌年
  の治承4年(1180年)には本家である八条女院も、本家としての権益を
  寄進し、安摩庄は厳島神社領となるのである。」

頼盛は兄清盛、一門とともに、『平家納経』を厳島神社に納めたことはよく
知られていますが、上記のエピソードからみると、更に信神深い人物の姿と
しての頼盛の姿が、浮かび上がります。

平家一門の中では、重盛と双璧をなす信神深い人物であったのではないかと、
個人的にですが、私には思われます。

以前、服部明子様より、メールにて、頼盛が一門の京都都落ちに従わなかっ
た訳の理由を、推測して頂きました。

 1。宗盛達にとって頼朝を助けた自分達は歓迎されない存在かも知れない
 2。系統が違う(忠盛の後妻の系統)
 3。京都を空にするわけにはいかなかった
 4。後白河法皇となんらかの話があった
 5。自分達は藤原氏貴族系であるという事

すべて的を得た推測であると私も考えます。
そして私は上記の推測に、

 6。その信神深い性癖よりこれ以上の戦いを望まなかった

という推測を加えたく、安摩庄でのエピソードを読むと思えます。
[6]takahiroさんからのコメント(2002年11月15日 12時50分23秒 ) パスワード
  

◇平頼盛の厳島二十度参詣
(<平家納経の研究>小松茂美著 講談社より)

「権中納言平頼盛奉免状」(芝藩通志巻十八・厳島神社文書)

『右、伊都岐島権現は本朝無雙の霊神にして、當國一の鎮守なり。神徳を
 萬人に施し、霊威を一天に振う。現當の求むる所満足せざるは無きなり。
 是れを以て千萬里の波濤を凌ぎ、二十度参詣に及ぶ。丹心是れ深く、玄
 應何んぞ疑わんや、…

        治承三年十二月廿七日 正三位権中納言平朝臣(頼盛)』           

 上記は平頼盛にかかわる事項であり、ここに彼の熱烈な悲願が見事に吐
 露されている。「千萬里の波濤を凌ぎ、二十度参詣に及ぶ」というのは、
 当時、かなりの不安を伴った内海航路を思えば、まことに驚異というほ
 かないではないか。保元元年に頼盛が安芸守となってから、この年、数
 えて二十四年目になる。年に一回ずつの厳島社参とすれば、ほとんど累
 年、それを欠かさなかった都合になる。あるいは、仁安の無届参詣事件
 を契機として、急激に足繁く参詣の旅行を重ねた、とも考えられるので
 ある。が、いずれにしても、頼盛は平家一門、厳島信仰において一頭他
 を抜いた一人であったことは疑いない。


以上は、小松茂美氏の上記著からの頼盛に関する抜粋です。

ここでも、「平家物語」からは伺い知れない平頼盛の人物像の一面が、推
察されるように思われます。

「平家納経」の内、『紺紙金字法華経 巻第一』というものがあります。
この巻第一の奥書きには、嘉応二年、巻頭の10行までを清盛自身が書写
し、以下を弟の頼盛が書きついだとあります。

この清盛、頼盛両人による書写につきましては、清盛から弟頼盛への提案
という説が為されていますが、あるいは逆に、頼盛からの、兄清盛への恭
順の姿勢の現れとしての提案でなかったかとも、私には思われます。

清盛は清盛で、非常に篤い厳島神社への信仰をもっていましたので、この
厳島神社を媒介とし、自身信仰の篤い頼盛は、両人書写納経により、兄清
盛との一体性の具現を為そうとしていたのではないでしょうか。

清盛も頼盛も、異母兄弟とはいえ、共に平家の繁栄を厳島社に悲願してい
た事には変りなかったはずです。

清盛、頼盛共同書写である納経が、現代に残っていることは、強力な一門
一体性を誇ったころの平家栄華の証左であると思われ、非常に喜ばしい事
です。
[7]服部 明子さんからのコメント(2002年11月15日 13時20分52秒 ) パスワード
  

>この清盛、頼盛両人による書写につきましては、清盛から弟頼盛への提案
>という説が為されていますが、あるいは逆に、頼盛からの、兄清盛への恭
>順の姿勢の現れとしての提案でなかったかとも、私には思われます。


>清盛も頼盛も、異母兄弟とはいえ、共に平家の繁栄を厳島社に悲願してい
>た事には変りなかったはずです。


20度でございましたか。
矢張り<父・忠盛>や<兄・清盛>そして自分自身が安芸守であったから
平家の守り神に対して平家を守ってくれるようにと真剣に祈っていたのでございますねぇ。

神仏に祈る姿。
母の池の禅尼から禅宗に傾倒してたのかしら?とは思いましたが
厳島神社に何度も行ってるのですから
神にも仏にも平家の安泰を祈っていた姿が浮かびます。


珍しい記事をありがとうございました。
[8]takahiroさんからのコメント(2002年11月15日 14時53分44秒 ) パスワード
  

<頼盛厳島二十度参詣>

頼盛の厳島参詣は、治承三年において既に二十度ですので、その後生涯にお
いては二十数度に及んでいたとも思われます。

安芸の国に鎮座する厳島神社にして二十数度ですので、同じく平家の氏神で
ある紀伊の国に鎮座する熊野神社へは、頼盛は果たして幾度の参詣を為して
いたのでしょうか。

史料があるなら、一度調べてみたいです。
(久安五年二月から三月に掛けての熊野参詣においては、共に参詣の路につ
 いていた嫡子、家盛の死に、参詣の途路、計らずも立ち会う事となってし
 まいます。)

また上下賀茂神社も、当時平家の氏神的役割を果たしていましたが、この地
元京都に鎮座する社への頼盛の参詣は、如何なるものであったのでしょう。

実は、六波羅の池殿町は京都でも有名ですが、現行行政地名にて、上賀茂神
社すぐ南側の地も、池殿町と呼称されています。またこの地に流れる明神川
にかかる橋の名は池殿橋であります。

この上賀茂池殿町と、池殿平頼盛の関連は未だ調べていませんが、一度調べ
てみたく考えています。

上賀茂神社と頼盛を結ぶ、何らかの屋敷が存在したのでしょうか。この上賀
茂池殿町の東隣接地は、上賀茂南大路町であり、この地には上賀茂社神主、
藤木(賀茂)重保の屋敷が存在し、当時「別雷歌会」の会場となり、平家一
門の参加も記録に残されています。

http://homepage2.nifty.com/hirao-machi/furuimatiB/kyoutofu/kamigamoG2.htm
(当時の面影を残す、現在の上賀茂池殿町、南大路町の町並み)

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kazuoy/nishimura.html
(当時、上賀茂社神主、藤木重保社家)

また何か判明しましたら報告致します。
[9]takahiroさんからのコメント(2002年11月15日 15時13分25秒 ) パスワード
  

おそらく平安末期に生を享けていた人々は、現代人には想像も及ばぬくらい、
精神生活における神仏への傾倒は大きかったと思われます。

平家物語においても、清盛の厳島社、熊野社への精神的傾倒を伝える逸話は、
多く鏤められています。

その中でも上記参照していますと、やはり頼盛の神仏への傾倒は、同時代人
の中でさえ、他を抜いていたと思われます。(同一的な精神的傾向を一門で
有していたのは、平重盛くらいでしょうか。)

頼盛と厳島社との関係をもう少し詳細に調べたく思い、またその中から、頼
盛と清盛、一門との関係も考察できればと考えます。
[10]takahiroさんからのコメント(2002年11月15日 15時31分59秒 ) パスワード
  

[8]訂正

藤木重保の社家の所在地
中大路町:正
南大路町:誤
[11]服部 明子さんからのコメント(2002年11月15日 16時07分16秒 ) パスワード
  

>六波羅の池殿町は京都でも有名ですが、
>現行行政地名にて、
>上賀茂神社すぐ南側の地も、池殿町と呼称されています。
>またこの地に流れる明神川にかかる橋の名は池殿橋であります。

>この上賀茂池殿町と、池殿平頼盛の関連は未だ調べていませんが、
>一度調べてみたく考えています。


そうですね。
何故2ヵ所あるのか?

でも現代でも1軒の家庭が家を1つだけ所有してるのではなく
何ヵ所も家作を持ってるということが有り得ます。

もしかしますと池の禅尼宅と、その子頼盛宅、または頼盛の子供の家、
そんな風に池殿のお屋敷というのがあちこちに複数あった事は想像に難くございません。


でも実際に
池の禅尼がどこにいらっしゃって
池の大納言がどこに本宅をお持ちで
また子供達がどこに屋敷を構えていたのか
そういう事が分かりますと想像が広がって面白うございますね。

またはどちらかは池殿にお仕えする侍達が住んでた所かも知れませんし。
本当に分かりますと良いですね。
[12]takahiroさんからのコメント(2002年11月16日 19時52分51秒 ) パスワード
  

◇平頼盛の代表的な居住屋敷としては、

 ○六波羅第<池殿>
 ○八条烏丸第
 ○御池烏丸第

 の三ケ所が比較的知られています。

 それらの場所は現在京都市内で、以下のように変貌しています。
 (かろうじて当時の面影が残るのは、六波羅蜜寺が営まれている「六波羅
  地区」のみのようです。)

 ○六波羅第「池殿」:現在>六波羅蜜寺の南隣接地
  http://www.rokuhara.or.jp/
  
 ○八条烏丸第:現在>京都駅ビル
  http://www.mediawars.ne.jp/~m921320/a_map/map_of_kyoto_04.htm

 ○御池烏丸第:現在>新風館
  http://www.shin-puh-kan.com/light/lighttop.html

 *上賀茂池殿町につきましては、頼盛と関連があるのか今後調べてみます。

  なお、頼盛と賀茂社の関係は、私の史料の範囲では、父忠盛が1119
  年に、兄家盛が1147年に、それぞれ「賀茂臨時祭」において、「舞
  人」を務めています。

  また頼盛の二男為盛末裔を伝える鬼丸家の氏神として、厳島大明神(安
  芸国)、熊野大権現(紀伊国)と共に、賀茂大明神(山城国)として伝
  えられています。
  
  なお、上記、平頼盛の生涯における「厳島参詣」は二十数度と記しまし
  たが、このような事は比較しても意味のない事かも知れないですが、後
  白河天皇(法皇)の生涯における「熊野参詣」は三十四度に及んだとの
  記載を見つけました。

   後白河天皇(法皇):1127〜1192
   平頼盛      :1131〜1186
[13]takahiroさんからのコメント(2002年11月16日 20時04分19秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年11月16日 20時05分13秒
[14]服部 明子さんからのコメント(2002年11月17日 03時27分05秒 ) パスワード
  

六波羅蜜寺とは醍醐天皇のお子の空也上人ゆかりでしたか。
尾張の国分寺で、というお話は知ってましたが
わたくしの印象では「漂泊する僧侶」でございました。

空也像と清盛像
どちらも貴重な歴史上の美術品。
その他にも沢山残されているのでございますねぇ。

六波羅には平家一門の家が5200も軒を連ねていたのですか。
という事は数万人が住んでたという事ですね。
凄い賑わいだったのが感じ取れます。
[15]takahiroさんからのコメント(2002年11月18日 18時50分10秒 ) パスワード
  

上賀茂池殿町につき、上賀茂神社にお伺いしましたところ、頼盛との関連をお聞き
することはできませんでした。ただ、現在学説上では出自未詳とされている、清盛
の母、祇園女御とは、上賀茂社の神官の娘であった旨の伝承が伝わっているとの事、
平家と上賀茂社の関係として、お聞きすることが出来ました。当方、祇園女御につ
いては何の下調べもしていませんでしたので、それ以上深くお話を伺う事はできな
かったのですが、また機会がありましたら、準備をした上で、清盛母祇園女御と上
賀茂社の関係を、お伺いしに上がろうと考えています。
[16]服部 明子さんからのコメント(2002年11月19日 00時04分23秒 ) パスワード
  

祇園女御
謎の女性でございますね。

正盛・忠盛+白河法皇・祇園女御
1113年以来の関係じゃないか、と。

実は賀茂神社の娘という説もあるのですか。
そうすると身分の低い女性説というのは飛びますね。
それか身分の低い女性が白河法皇に寵愛されるに及んで賀茂神社の神官の養女に?

やはり謎でございますね。
私の場合「祇園=花町」というイメージからでございますが。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.20 by Rapha.