[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月26日 09時12分19秒 ) | パスワード |
平家の小烏丸と抜丸の太刀を捜していたら源家の宝物に行き合いました。
[2] | 川口 信さんからのコメント(2002年11月02日 09時29分11秒 ) | パスワード |
「平家物語」剣の巻にも源家の宝物・剣についての文章がありました。同じ剣でも色々な名前が付けられており、来歴を知らないと同一の剣とは解らないですね。
満仲大きに悦びて、二つの剣にて有罪の者を切らせて見給ふに、一つの剣は、鬚を加へて切りてければ、「鬚切」と名附けたり。一つをば膝を加へて切りければ、「膝丸」とぞ号しける。満仲、鬚切・膝丸二つの剣を持ちて天下を守護し給ひけるに、靡かぬ草木もなかりけり。
「あな怖しや。鬼の手といふ物はかかる物にてありけるや」と言ひてさし置く様にて、立ちざまに「これは我が手なれば取るぞよ」と言ふままに恐ろしげなる鬼になりて、空に上りて破風の下を蹴破つて虚に光りて失せにけり、それよりして渡辺党の屋造りには破風を立てず、東屋作りにするとかや。綱は鬼に手を取返されて、七日の斎破るといへども、仁王経の力に依て別の子細なかりけり。この鬚切をば鬼の手切りて後、「鬼丸」と改名す。
これより膝丸をば「蜘蛛切」とぞ号しける。 頼光の代より出羽守頼基の手に渡る。天喜五年、頼光の弟河内守頼信の嫡子伊予守頼義、奥州の住人栗屋河次郎安倍貞任舎弟鳥海三郎同じく宗任兄弟謀反の由、その聞えありければ、彼の討手に下さるる時、兼陸奥守になし源氏重代の剣、鬼丸・蜘蛛切、頼基が許にありけるを宣旨にて召し出だされ、頼義朝臣に賜ひてけり、頼基曰く、「この剣は祖父多田満仲より三代相伝の宝なり、嫡々相承の剣にて候へば、争でか身をば、放ち候ふべき」と申しけれども、御用ひ無ければ、力及ばず出だしけり。頼義これを賜ひて奥州に下向し、九箇年が間戦ひつつ終に軍に打勝ち、貞任をば首を取り、宗任をば虜りて上洛す。
抑々為義が伝へ持ちたる二つの剣終夜吼ゆ。鬼丸吼えたる音は獅子の音に似たり。蜘蛛切が吠えたる音は蛇の泣くに似たり。故に鬼丸をば、「獅子の子」と改名し、蜘蛛切をば「吼丸」とぞ号しける。
尾張の熱田の大官司は、頼朝が為には母方の祖父なり。それまでこの太刀を持ち下り、申さるべき様は、頼朝はしかじかの所に深く忍びて候へども、終には遁るべきに非ず。縦ひ頼朝こそ殺さるるとも、この太刀失はじと存じ侯。然るべくは、熱田の社に進らせ置きてたび侯へ」と宣へば、庄司尾張に下り、大官司にこの由を申しければ、即ち宝殿に納めてけり。 さる程に、清盛の舎弟三河守頼盛は、平治の合戦の勧賞に尾張守になりにけり。然る間、侍の中に弥平兵衛宗清、目代にて下りたりけるが、上洛の時、兵衛佐隠れておはしけるを聞き附けて、さがし取りて上りにけり。頓て宗清預りにけり。死罪に行なはるべかりしを、池尼御前の手に申し請けて、伊豆の北条蛭小島へぞ流されける。二十一年経て、三十四と申しける治承四年夏の頃、高倉宮の令旨並びに一院の宣旨を賜はつて、謀反を発されける時、熱田の社に籠められし鬚切を申し出だして帯しけり。
(あちこちの剣に関する文のところだけの抜粋です)
http://www.cometweb.ne.jp/ara/ken.htm
(「平家物語」 剣巻)
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2002年11月02日 10時41分05秒 ) | パスワード |
>同じ剣でも色々な名前が付けられており来歴を知らないと同一の剣とは解らないですね。
本当にややこしいですね。
髭切〜鬼丸〜獅子の子?
[4] | takahiroさんからのコメント(2002年11月02日 17時43分05秒 ) | パスワード |
『太平記』 ○直冬上洛事付鬼丸鬼切事 S3207
に於ては、以下の記載がありました。「鬼丸」部分につき抜粋しています。
おそらくこの「鬼丸太刀」は、後鳥羽上皇御鍛冶番、粟田口国綱作の「鬼丸」
であると、思われます。「鬼丸太刀」というものは、何刀かが伝わっている
のでしょうか。
源平累代の重宝に鬼丸・鬼切と云二振の太刀を取給ひたりしを、将軍使者を以て、「是は末々の源氏なんど可持物に非ず、急ぎ是を被渡候へ。当家の重宝として嫡流相伝すべし。」と度々被仰けるを、高経堅く惜て、「此二振の太刀をば長崎の道場に預置て候しを、彼道場炎上の時焼て候。」とて、同じ寸の太刀を二振取替て、焼損じてぞ出されける。此事有の侭に京都へ聞へければ、将軍大に忿て、朝敵の大将を討たりつる忠功抜群也といへ共さまでの恩賞をも不被行、触事に面目なき事共多かりける間、高経是を憤て、故高倉禅門の謀叛の時も是に与し、今直冬の上洛にも力を合て、攻上り給ひたりとぞ聞へける。抑此鬼丸と申太刀は、北条四郎時政天下を執て四海を鎭めし後、長一尺許なる小鬼夜々時政が跡枕に来て、夢共なく幻共なく侵さんとする事度々也。修験の行者加持すれ共不休。陰陽寮封ずれ共不立去。剰へ是故時政病を受て、身心苦む事隙なし。或夜の夢に、此太刀独の老翁に変じて告て云く、「我常に汝を擁護する故に彼夭怪の者を退けんとすれば、汚れたる人の手を以て剣を採りたりしに依て、金精身より出て抜んとすれ共不叶。早く彼夭怪の者を退けんとならば、清浄ならん人をして我身の金清を拭ふべし。」と委く教へて、老翁は又元の太刀に成ぬとぞ見たりける。時政夙に起て、老翁の夢に示しつる如く、或侍に水を浴せて此太刀の金精を拭はせ、未鞘にはさゝで、臥たる傍の柱にぞ立掛たりける。冬の事なれば暖気を内に篭んとて火鉢を近く取寄たるに、居たる台を見れば、銀を以て長一尺許なる小鬼を鋳て、眼には水晶を入、歯には金をぞ沈めたる。時政是を見るに、此間夜な/\夢に来て我を悩しつる鬼形の者は、さも是に似たりつる者哉と、面影ある心地して守り居たる処に、抜て立たりつる太刀俄に倒れ懸りて、此火鉢の台なる小鬼の頭をかけず切てぞ落したる。誠に此鬼や化して人を悩しけん、時政忽に心地直りて、其後よりは鬼形の者夢にも曾て見へざりけり。さてこそ此太刀を鬼丸と名付て、高時の代に至るまで身を不放守りと成て平氏の嫡家に伝りける。相摸入道鎌倉の東勝寺にて自害に及ける時、此太刀を相摸入道の次男少名亀寿に家の重宝なればとて取せて、信濃国へ祝部を憑て落行。建武二年八月に鎌倉の合戦に打負て、諏防三河守を始として宗との大名四十余人大御堂の内に走入、顔の皮をはぎ自害したりし中に此太刀有ければ、定相摸次郎時行も此中に腹切てぞ有らんと人皆哀に思合へり。其時此太刀を取て新田殿に奉る。義貞不斜悦て、「是ぞ聞ゆる平氏の家に伝へたる鬼丸と云重宝也。」と秘蔵して持れける剣也。
[5] | takahiroさんからのコメント(2002年11月02日 19時15分40秒 ) | パスワード |
川口信様より紹介頂きました[2]について
源家重宝の方の「鬼丸(鬚切)」が、頼朝が伊豆に流されている間、尾張熱田神宮
に秘匿されていたという事は、初見でした。
貴重な資料の御教示ありがとうございました。
平氏重宝の方の「鬼丸」は、上記「太平記」では、初代佩刀者は、伝説的に北条時政
となっていますが、史実的には、北条時頼が、後鳥羽上皇御鍛冶番であった京都の粟
田口国綱を鎌倉に招き、作刀させたとされています。粟田口国綱の生没年は不詳なの
ですが、46歳の時鎌倉に下ったと伝えられています。上記、夢に出現する鬼の首を切
落したので、鬼丸と命名する云々の伝説は、所有者が北条時政でなく、後鳥羽上皇で
あったバージョンでも伝わっていますので、私はもしかすると、この方の「鬼丸」の
初代所有者は、後鳥羽上皇ではなかったかとも、推測しています。(この推測につい
ては、他スレッドでも述べています。)もう少し考察してみます。
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2002年11月03日 02時33分31秒 ) | パスワード |
takahiro さま
面白くなって来ましたね。
こうして「伝説」になって行くのですね。
箔が付く度に。
歴史って「夢」ですね。「ロマン」と呼んでもいいですが。
こうしていろいろ語り合うのが楽しいですね。
[7] | takahiroさんからのコメント(2002年11月03日 06時17分15秒 ) | パスワード |
服部明子様
>こうして「伝説」になって行くのですね。
>箔が付く度に。
そうですね。上記登場しました「刀」はどれも、所有者が移り変わり歴史を
重ねる度に神秘性を纏い続け、結果「刀」という実用性を越えた、ある「シ
ンボル・象徴」としての性質を帯びるに至っているのですね。
「源氏嫡伝の象徴」、「平氏嫡伝の象徴」、あるいは「時の権力保持者の象
徴」といった具合に。
重複になりますが、粟田口国綱作「鬼丸」の初代所有者・後鳥羽上皇説、
こちらのスレッドにも貼付致します。
<鬼丸太刀由来について>
「鬼丸太刀」:後鳥羽上皇の御番鍛治、粟田口国綱の作で、北条氏から新
田義貞、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の手を
経て、明治天皇に献上され、現在御物。天下五剣の一。
◇この「鬼丸太刀」について、平頼盛末裔「北白川鬼丸」に居住したことに
より称したという「鬼丸」姓の一系譜には、次のような、やや一般に流布
されているのとは異なるバージョンの「由縁」が伝えられている。
『幼少のころ、私の父はよく就寝のころになると、面白い話をしてねむりに
誘いこんでくれました。昔、後鳥羽上皇のころ、上皇は毎夜、深更になる
と、宮城の西の空から暗雲が漂って来て、それが宮中の上に来ると、今迄
おやすみの上皇が、急に胸を圧えられ、もがき苦しんで目ざめられるとの
ことでした。それは恐い鬼が夢の中に現れ、お痛めするとのことでした。
それが、1回や2回ではなく、永く続くので、そこで枕元に一振りの刀を
置いて、御やすみになりました。いつもの通り鬼が現れると、この刀はひ
とりで鞘を離れて一刀のもとにこの鬼の脳天を割ったそうです。それから
は上皇はよく御眠りになりました。そして、この刀はいつの間にか、鬼割
から鬼丸と云われる様になり、宮中に今も名刀として現存します。』
(この話は現在80歳を超える御高齢の方から採取したものです。)
『太平記』にお詳しい人でしたら、気付かれていると思いますが、この鬼丸
家に伝わる伝説の、「後鳥羽上皇」を「北条時政」に、「宮中」を「鎌倉」
に入替えれば、それが、一般に『太平記』を元に流布されていいる、「鬼丸
太刀」の由来記になります。
ここからは完全な試論ですが、
◇「鬼丸太刀」は元々は、後鳥羽上皇の御鍛冶番・粟田口国綱が、後鳥羽上
皇の為に作ったのではないか。そして暫くは宮中に蔵されていたのではな
いか。それが、承久の乱を機会に、鎌倉の北条氏の手に渡ったのではない
か。その上で、「鬼丸」の制作者として、北条時頼は粟田口国綱を鎌倉に
召したのではないか。
そして、その由来記が『太平記』等に記されているように、後鳥羽上皇か
ら北条時政に、移りかわったのではないか。
当初、御所にて後鳥羽上皇の元に蔵されていたものが、北条氏を初め様々な
時の権力者の手を渡り、そしてまた現在、再び皇室に戻り御所にて蔵されて
いるのが「鬼丸」ではないか、というのが私の「鬼丸太刀」後鳥羽上皇・初
代所有者説です。
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2002年11月03日 06時34分09秒 ) | パスワード |
ありがとうございました。
これで検索しに行かなくて済みますね。
赤間神宮や厳島神社の宝物展や源平展の時に
こういう太刀もゆかりの宝物として出品されたら良いですのにね。
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