[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 05時23分48秒 ) | パスワード |
植本さんへ
平家落人伝説があって南朝方の言い伝えもあるという事は
私は「平家」の子孫で良いと思います。
と言いますのは後醍醐天皇は味方を集めるのに
今は零落してても昔の武士の家、
更に鎌倉幕府に対抗した家に声を掛けている、
という事からです。
特に平家の子孫は後醍醐天皇から召集がかかってます。
いろいろ調べますと後醍醐天皇に従った忠臣で伊賀伊勢近辺は平家がらみが多くて
私自身が戸惑うぐらい平家の一門だった子孫の家です。
当然平家の一門には桓武平氏の他
藤原系の子孫もいらっしゃいますし
源氏系もいたと思います。
若狭については大志万さんのスレッドに私も少し参考になるかも知れない事を書いています。
若狭で花菱紋でしたら連想するのは
花菱は武田の代表紋なので
もしかすると若狭武田の殿さまから拝領したかも知れないですね。
または若狭の武田の殿さまを記念して家紋にしたのかもです。
秀吉に詰め腹を切らされた若狭の武田の殿様の事です。←←←←←←武田元明
この人の妻は京極氏出身で後に秀吉の側室になった女性です。←←←竜子、松丸殿。
家紋で伝わっているという事は何か記念になるきっかけがあったと思いますよ。
米倉家と直接関係があったのかどうかは分かりませんが。
若狭国自体が甲斐源氏武田の「割菱」と「花菱」が多いそうです。
ですから折敷に花菱紋は比較的新しい時代に採用したのじゃないかと思います。
菱紋使用の平氏代表一覧:
大竹、丹羽、津田、城、梶川、川崎、伊勢、平野、玉虫、相馬、長井、秩父、坂部、遠藤。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 05時38分19秒 ) | パスワード |
>菱紋使用の平氏代表一覧:
>大竹、丹羽、津田、城、梶川、川崎、伊勢、平野、玉虫、相馬、長井、秩父、坂部、遠藤。
こういう代表氏名は江戸時代の初めに江戸幕府より諸国の大名小名その他の武士に
出自を申請するようにと命令があって自己申告した結果で
中には徳川幕府に胡麻をすって源氏だったと偽称した家もあったと思いますから
平氏出身だと名乗った家は正直申告したと思います。
事情があって江戸時代に帰農した家で苗字帯刀を許されなかった家は当然ファイルに
名が載っていないので漏れているのは仕方が無いです。
明治時代に苗字を名乗ることが出来た時
日本の殆どの家はヒソカに伝わっていた苗字を堂々と名乗ったと思います。
伝わらなかった家は適当に付けたでしょうし、有名な名をつけたりしたと思います。
いつから「植本氏」を名乗ったのか、菩提寺に記録が残っているかも知れません。
明治の初めのご先祖さまの戸籍謄本で実際の出身地が特定出来るかもです。
普通人間の感情として「負けた方」の子孫とは言いたくないものですから
「平家の落人」と伝わっているという事はそれだけシンピョウ性が有ると思います。
[3] | 植本 大介さんからのコメント(2002年10月14日 00時02分37秒 ) | パスワード |
服部様
大変勉強になるお返事ありがとうございました。
是非本家の菩提寺にいって過去帳など調べて見ようと思います。
しかし、県立級の図書館にある人名辞典等で植本氏の記述が皆無に等しいということはそれほど全国にも少ないのでしょうか。文献にも登場していないようなのですが。
前述の新聞の件なのですが、「植本」という字を指摘したもので、世の中に多くいらっしゃる植木(うえき)氏は皇胤である植本一族に畏れの意を以って「本」から線を一本とった「木」にしたといったものであったらしいのです。
なんか、笑えてしまうような話なのですが、そんなことは実際ありえるのでしょうか?
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月14日 00時53分13秒 ) | パスワード |
「うえもと」氏というのは本当に見当たらないですね。
「うえき」氏は結構いらっしゃいますけど。
地名でも「うえき」というのはありますけど「うえもと」というのは見当たらないですね。
明治の初めの戸籍謄本でしたら江戸時代先祖がどこに住んでたかかなり分かりますから
そこから郷土史をさぐるというやり方で見つけていくより仕方無いですね。
植本家のホンヤさんというのが系図を持っていらっしゃれば良いですね。
[5] | 植本 大介さんからのコメント(2002年10月14日 02時27分21秒 ) | パスワード |
明治初期の戸籍謄本はどのようにして請求すればいいのですか?
本家には系図がなく、過去帳しかないのですが、すでに享保年間には現在のところにあったものと思われます。
その集落の区有文書にも、そのすべての家が屋号で書かれており、名字は全く見当たりません。
小浜市犬熊の開発の由来を見たのですが、1195年に荒地だったという内容の記述に始まり、1247年に氏神の創建なのですが、先入観をもって考えてみれば、平家滅亡と時期がそんなに変わらないかな…とも思ってしまいます。
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月14日 03時00分09秒 ) | パスワード |
戸籍謄本を調べるのは簡単ですよ。
遡って申請すれば手に入ります。
お父さまの事はもう分かってますから
お祖父さまの戸籍謄本を取り寄せ
更にそのまたお祖父さまの戸籍謄本を取り寄せれば良いのです。
理由は「先祖供養の為」とでもすれば良いでしょう。
>小浜市犬熊の開発の由来を見たのですが、1195年に荒地だったという内容の記述に始まり
>1247年に氏神の創建なのですが、先入観をもって考えてみれば、
>平家滅亡と時期がそんなに変わらないかな…とも思ってしまいます。
福井県教育委員会または小浜市教育委員会に問い合わせればかなり詳しい事が分かる
と思いますよ。
過去帳の人の名前で通字(=共通する漢字・源氏なら「義」の字)からも
出自が分かるかもです。
平なら平氏でしょうし、藤なら藤原秀郷の子孫でしょうし。
平日に1日お休みが取れたら市役所の住民登録の所で古い戸籍謄本を取りまくって下さい。
昔の戸籍謄本って今のとは全く違ってて面白いですよ。
血族の名がぞろぞろ書かれてます。
「家督相続」なんて言葉が載ってますし。
[7] | 植本大介さんからのコメント(2002年10月14日 03時38分53秒 ) | パスワード |
小生が現在住んでいるのは兵庫県なのですが、戸籍をとるにはやっぱり祖父の本籍地である小浜市役所でとらねばならないのでしょうか?
>過去帳の人の名前で通字(=共通する漢字・源氏なら「義」の字)からも
出自が分かるかもです。
ちなみに、「植本○蔵」とかいうことではないんですよね?
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月14日 03時53分56秒 ) | パスワード |
違う場所に住んでる場合は手数料を払ったりと面倒でしょうね。
この場合は住民課に問い合わせて
明治の最初の人の分まで全部一緒に取ることですね。
そうすると「先祖の供養をまとめてするから」とでも理由を付けることですね。
私は「先祖の800回忌の為」なんて理由を付けました。
通字は上か下か、源氏なら「義」ですし平家ですと「盛」の字ですね。
それから通称「平内佐衛門」とか。
>ちなみに、「植本○蔵」とかいうことではないんですよね?
のこ場合ですと○が通字になりますね。
「蔵」では一般的過ぎて特定が難しいでしょうね。
その家の私的な通字ですから本姓は特定出来ないですね。
平太、平次、平三なんて並んでれば「平氏」出身だってのが分かりますね。
でも梶原景時のように
桓武平氏出身でも子供に「源太」なんて源氏の嫡男の呼び名を付けた人もいますけど。
なにか理由があるのかも知れませんが。
[9] | 植本大介さんからのコメント(2002年10月17日 04時23分59秒 ) | パスワード |
>いろいろ調べますと後醍醐天皇に従った忠臣で伊賀伊勢近辺は平家がらみが多くて
私自身が戸惑うぐらい平家の一門だった子孫の家です。
たとえばどのような姓の武士なのでしょうか?
やはり「平」とつくものが多かったのですか?
あれからネットで全国の植本さんを探してみているのですが、
圧倒的に備後・安芸国の出身が多いように見受けるのです。
それは、平家の証と単純に解釈しても大丈夫なのですかね?
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月17日 04時43分03秒 ) | パスワード |
南朝方の家:
1)ネットで「浪合記」を検索なさいますと、いろいろな苗字が出ています。
2)源氏系・藤原系・平家系その他庶貴族・庶公家系
3)伊勢や伊賀の地名を名乗る家:赤堀・長野など
源氏系で有名でしたら新田や桃井その他「浪合記」にたくさん出ています。
徳川(得川)さんもお仲間です。
それから鈴木・大橋・恒川・服部。
植本氏:
平家はやはり西日本でしょうね。
平氏でしたら坂東平氏という事で関東ですが。
備後・安芸の「植本さん」と連絡を取ってみたら良いと思いますよ。
電話帳でも住所は調べられますが
最近は電話で直接という手もあるのが下の方のスレッド目次の所にあります。
でもこれは高くつきますからお勧めしませんが。
[11] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月17日 04時54分21秒 ) | パスワード |
(良王君)よしたかの君にお仕えした武士の一覧。全てではありません。
桃井大膳亮満昌
大庭雅楽助景平
熊谷小三郎直郷
児玉庄左衛門定政
酒井与四郎忠則 = 大館の末裔、大館太郎兵衛親氏の子である。
大岡忠次郎重宗
鈴木三郎兵衛政長
大草三郎左衛門信長 = 小笠原七郎政季の弟の子である。高林善八郎政頼の弟。
天野民部少輔遠幹
宇津十郎忠照
宇津宮甚四郎忠成
土肥助次郎氏平
長谷川大炊助重行
矢田彦七之泰 =堀田の親戚
[12] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月17日 05時14分08秒 ) | パスワード |
ちょっとコピーしますね。
いずよし親王は上記良王君(よしたかのきみ)のお父上です。
応永四年、世良田弥次郎満義の子、世良田大炊助政義は、桃井右京亮宗綱とはかって妙法院
宗良親王の御子、兵部卿尹良を上野国に迎えた(原注:桃井宗綱の実父は三河国額田郡吉良弥三
郎有信の子で、母は桃井駿河守義繁の娘である)。
尹良親王は、遠江国飯谷の館で生まれた。母は、飯谷井伊介道政の娘である。これより先の
延元元年、飯谷井伊介道政は、尹良の父、宗良親王を主君とあがめ奉り、遠江国に迎えて旗を
揚げ、京都の将軍に挑戦したことがあった。
尹良は大和国吉野で育ち、元服の後、正二位中納言一品征夷大将軍右大将兵部卿親王におな
りになった。元中三年八月八日、源の姓をお受けになった。その後、新田、小田、世良田、桃
井を初めとして、遠江、三河の宮方に味方する者が相談して、桃井和泉守源貞識(さだもと)を
使者として吉野から上野国に迎え移し奉った(桃井貞識は、桃井伊豆守貞綱の二男である)。
吉野から供奉して来た武士
大橋修理大夫定元 岡本左近将監高家
山川民部少輔重祐 恒川左京大夫信規
(あるいは朝祐)
この四人を、新田家の四家という。
吉野から供奉して来た公家庶流
堀田尾張守正重 平野主水正業忠
服部伊賀守宗純 鈴木右京亮重政
真野式部少輔道資 光賀大膳亮為長
河村相模守秀清
この七人を七名字と号する。
宮方の武士は、これら十一家を吉野十一党と呼んだ。これらの人々が、二心無く尹良様を守
護したてまつったのである。
[13] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月17日 05時22分15秒 ) | パスワード |
浪合記は
後醍醐天皇の皇子宗良親王の子尹良(ただよし)親王の事績を中心に、
子良王(よしよき)や彼らを奉じる南朝遺臣の事績を記した軍記。
尹良親王は1424年(応永三一)八月に信濃国伊那郡浪合で最期をとげたとされる。
我が家では尹良(いずよし)親王
良王は良王君よしたかのきみとお呼びしています。
そう教わりました。
[14] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月17日 05時39分38秒 ) | パスワード |
こういうのもありました。
「応永四年、上野の宮方、世良田、桃井、新田、小田並びに四家七苗字(大橋修理太夫定元、岡本左近將監高家、山川民部少輔重祐、恒川左京太夫信矩、この四人を新田家の四家という。)七苗字(堀田尾張守正重、平野主水正業思、服部伊貿守正純、鈴木右京亮重政、真野式部少輔道資、光賀大膳亮為艮、河村相模守孝清この七人を七苗字という。)遠州の諸氏と謀って尹良親王を上野に移さんと云々」。又、宇都宮、宇佐美、開田、野々村を加えて十五家ともいう。」とあります。
私が何かの本で見た時は
5名家・7名字・11名X
と書かれて名前が出てました。
「浪合記」は伊勢・伊賀・尾張・三河あたりの武士が書かれているので
植本さんの場合は若狭国の南朝方の軍記物に載ってるかも知れません。
神戸の旧家に上記宗良親王の歌をまとめた物が蔵にあったという話を聞きました。
数年前の話です。
若狭の旧家にも同じような話があると思うのですが。
また尾張あたりの南朝方武士の家は秀吉(+織田信孝)と家康(+織田信雄)が戦った時
家康方についたので戦後処理で秀吉に追放などの罰を受けたそうです。
その後家康が天下を取ったので復帰出来たのは当然でした。
[15] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月17日 08時42分07秒 ) | パスワード |
この「浪合記」には伊勢の名門の本姓藤原・俗姓伊藤氏の名が書かれていませんが
こちらは伊勢の大守・北畠の方に出て来るのでしょう。
そちらで赤堀や長野・平野などが出て来るのかも知れません。
[16] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月17日 09時12分59秒 ) | パスワード |
日本の「おせち料理」の始まりと言われています。
永享七年十二月二十九日、良王、津嶋天王の神主の家に渡御。七名字の者共が神楽を奏し
た。この吉例を末代まで行うようにとのことであった。
同八年正月元旦、雑煮を良王に差し上げる。魚無し。伊勢蛤をあつものとする。御飯は、半
白米であった。汁物は、尾張大根の輪切り。なますは、小鰯の干したものに大根を削ったもの
を入れて差し上げる。この年以降、御流浪は無し。
[17] | 植本大介さんからのコメント(2003年03月17日 03時07分24秒 ) | パスワード |
おひさしぶりです。
先日、若狭のほうで読んだ書物に書いてあったのですが、
前述の犬熊浦の裏山を越えたところの熊野という集落に、
『壇ノ浦合戦のあと、平重盛の残党が対馬海流に乗って犬熊浦に漂着した』
との記述があったのです。(『国富郷土史』)
その頃には重盛も没しており、よくわからないのですが、
その方面に詳しい方いらっしゃいませんか?
ちなみに犬熊浦が正式に文献に登場するのは建久六年(1195)です。
件犬熊野浦者、嶮岨山野之地、相 僅参町許也、
平地荒畠壱町余、浜南北壱町余、東西壱町歟、
随則当時依為猪鹿之栖、无居住海人
↑(一部抜粋)
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