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 投稿番号:100387 投稿日:2002年10月13日 03時35分30秒  パスワード
 お名前:服部 明子
本姓藤原飛騨守俗姓伊藤景家没年の謎

コメントの種類 :人物
スタッフによりコメントは削除されました。 2013年08月30日 22時03分07秒
[1]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 03時38分06秒 ) パスワード
  

服部さんへ
10月 7日(月)15時12分13秒

気になる記事を見つけたのでお知らせします。

平凡社刊「太陽」1971年2月号p69
五味康祐「葵の風」
知盛の入水の場面で共に入水した郎党に「大弼景家」
なる武者が出てきます。
平家の本文にはなかった名だと思います。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 03時45分01秒 ) パスワード
  

ありがとうございます。

現在ネットで「源平盛衰記」をざっと流し読みしていますが
「大弼景家」の「弼」という字があったような記憶です。

また読み返してみます。


*以仁王の首を取った人なので、源平盛衰記の章で見たのだと思います。
*平家物語<角川文庫>では上巻219ページですが大弼とは書かれていません。
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 03時47分25秒 ) パスワード
  

川口さまよりの情報:


 大弼とは弾正台の次官の位で従四位下で守より上位である。
 案ずるに平家物語には飛騨守景家という名がよく登場しますが、この人でしょうか?
    
   http://hishiki77.infoseek.livedoor.com/2-2shushi/seimei/ito-motonobu.htm

    ◎藤原藤成━━━村雄━━━○秀郷━━(七代略)━━━┓
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
     ┗○基景━━━伊藤基信━━━景綱━━┳忠清━━━平景清
                       ┣景家
                        ┗大日坊 


わたくしより:

景家は倶利伽羅峠で息子達が死んでしまったのを悲しむ余り死んでしまったそうなので
景家の息子が入水したのでしょうね。

でも実際は生きていたのかも。
[4]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 03時50分45秒 ) パスワード
  

紆余曲折を略す
[5]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 03時58分34秒 ) パスワード
  

景清についての質問:



忠清の縁戚関係で平家になったんでしたっけ?
元は藤原ですけど、梶原というのも聞いたことがあります。
結局彼自身はどの姓を称していたんでしょうか?



景清の名乗り:
平家物語<角川文庫:下巻187ページ>

「遠からん者は音にも聞け。近くは目にも見給へ。これこそ京童の呼ぶなる上総悪七兵衛景清よ」

と名乗り捨てて御方の楯の陰へぞ退きにける。
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 04時05分45秒 ) パスワード
  

本姓藤原・俗姓伊藤氏の出について:



いろいろ説がありますよね。
伊藤氏は「佐藤氏」の子孫というのもどこかで見ました。
ま、同じ藤原姓の内ですが。

下記では伊藤6が景家になってますが
伊藤6って保元の乱で矢に当たって死んだと思ってましたが。
伊藤5(忠清)は矢が当たって怪我をした、と書いてありましたが。


伊藤 基景
平将門の乱に平貞盛と協力して功のあった藤原秀郷(俵藤太)の七代の子孫。
伊勢の守となって当国に居住した。


伊藤 基信
基景の息男。員弁郡志知村(桑名市)に居住して平正盛(12世紀初頭)の郎従となった。
平景清居住という南浦館は曽祖父伊藤基信の館の訛伝か。


伊藤 景綱
基信の息男。伊勢守、白子古市の住人。伊藤武者という。
上総介忠清(伊藤五)、飛騨守景家(伊藤六)の父で平悪七兵衛の祖父。
伊勢三郎義盛の川島領を横領した。


平 景清(〜1196)、悪七兵衛
上総介忠清(伊藤五)の息男。平氏の侍大将。
叔父大日坊を殺したため悪七兵衛と呼ばれた。 寿永2年(治承7、1183)平維盛・知盛に従い
源義仲・行家と戦い、
のち一門と共に西走して各地に転戦、
平家滅亡の後建久6年(1195)源頼朝に降ったが、断食して亡くなった。
平家によく従ったため平と称される。
志知の南浦館(桑名市)や丹生川久下の景清屋敷など各地にその伝承地は多い。
南浦館は曽祖父伊藤基信の居館であった。
[7]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 04時07分52秒 ) パスワード
  

橋合戦の段で景家の子は飛騨太郎判官景高とありました。
知盛と入水したのは景高ということになるのでしょうか?
[8]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 04時18分03秒 ) パスワード
  

いいえ、景高は倶利伽羅峠の戦いで討ち死にしています。

壇の浦に行った景家の子供達は、確か「景俊」「景経」兄弟だったと思います。
でも「景俊」は壇の浦から逃げたのだったかしら?

参考文献を引っ越しの為、荷造りしてしまいましたから
壇の浦に行ったのは
記憶では「景俊」「景経」兄弟だったと思います。


彼らの兄の「景高」は倶利伽羅峠で討ち死にしています。
それで父の景家が悲しみのあまり死んでしまった、そうです。
この景家は死んだと言われてますが
やはり生き返って壇の浦で入水したのでしょうか?

しぶといな・・・・


*景家が死んだという話が<平家物語>角川文庫の上巻331ページにあります。

平家物語巻7ー8玄<日方>の事←←漢字が無いです

上総守忠清、飛騨守景家は、去々年入道相国コウぜらし時、2人共に出家してありけるが、
今度北国にて、子ども皆討たれぬと聞いて、その思ひの積もりにや、
遂に嘆死にぞ死ににける。
[9]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 04時20分21秒 ) パスワード
  

景家・忠清はかなりの歳だったんでしょうね。
「嘆き死にした」とあるくらいだからいつ死んでも
おかしくなかったんでしょう。
景高、読み返していたら、ちゃんと?倶利伽藍峠で忠綱と共に
谷底に落ちて死んでました。
[10]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 04時23分40秒 ) パスワード
  

「源平盛衰記」の巻29で 火牛の計の後 景高が討ち死にしています。
倶利伽羅峠の戦いに景家は息子景高と一緒に戦いに出ていたのが分かります。


先畠山には兼光、先陣仕れと下知すれば、承候ぬとて、

一番樋口次郎兼光百五十騎、元来約束の事也、平家の二人源氏の一人を宛たれば、畠山が三百
騎に、樋口が百五十騎を相具して、押寄たり。畠山は軍構ぞしたりける。鶴翼の軍とて鶴の羽
をひろげたるが如くに、勢をあばらに立廣て、小勢を中に取籠る支度也。樋口は魚鱗のP71
1戦とて、先細に中太に、魚の鱗を並たる様に、馬の鼻を立並ぶ。畠山が三百騎、樋口が百五
十騎をくるりと巻籠たれば、兼光が小勢、重能が大勢を、さと打破て出、出れば巻れ、巻ては
出ぬ、籠ては散ぬ、散ては籠ぬ、討つ討れぬ、五六度までこそ戦けれ。畠山が勢二百騎討れ
て、百騎に成ぬ。樋口が勢百騎討れて、五十騎になる。其後両方さと引。

二番上総守忠清、五百騎にて推寄たり。今井四郎兼平、二百五十騎にて出合たり。寄つ返つ、
追つ追れつ、暫戦て引退。

三番飛騨守景家、千騎にて向たり。楯六郎親忠、五百騎にて寄合す。弓矢を以て勝負する者も
あり、太刀打して死する者も有、引組で腰の刀にて亡も在、暫戦て両方さと引退。

四番越中前司盛俊、二千餘騎にて蒐出たり。落合五郎兼行、千餘騎にて寄懸たり。或百騎或十
騎入組入組、集ては散、散ては集り、一時戦て引退。

五番越中次郎兵衛盛嗣、上総(有朋下P131)五郎兵衛尉忠光、二千騎にて進出でたり。水
巻、石黒、林、富樫、佐見、一門、千騎にて、寄合す。懸れば引、引ては懸、射も有、伐も
在、退も有、進も在、組組れぬ、互に命も惜まず身も資けず、是を最後と戦て引退。

六番飛騨太郎左衛門景高、五百騎にて懸出たり。信濃国住人、根井小弥太行近、二百五十騎に
て押合す。互に追つ返つ、五六度まで戦けるに、景高が勢、三百騎討れて二百騎になる。行近
が勢百騎にP712なる。猶退かず戦に、景高が勢百騎になり、行近が勢五十騎に成。猶不
(レ)退戦けり。景高が勢十五騎に成、行近が勢七騎に成。源平目を澄してぞ見たりける。尚
不(レ)退死生不(レ)知に戦けるが、後には行近景高只二人にぞ成にける。行近十四束を取
番ひ、能引て放ける矢に、景高が馬の腹射させて駻落さる。行近馬より飛下て、太刀を抜て打
て懸る。景高大音揚て云けるは、骨をば苔の下に埋共、名をば後代に傳ぬべし、人なよせそ、
勝負は二人と云ければ、行近子細なきとて切合たり。両人は好處なれば、源平人をば不(レ)
寄けり。打と切ばはたと合せ、はたと切れば丁と合す。一時が程戦けるに、景高脛巾金より太
刀打折て白砂に落。行近云けるは、爰を切べき事なれ共、互に組で勝負也とて、太刀を捨てぞ
組だりける。根井は四十計の男也。景高は二十五也。上に成下になり、弓手へころび、妻手へ
ころぶ。根井(有朋下P132)終に上に成、景高を押へて切られにけり。敵も味方も惜み
つゝ、各涙を流しけり。

七番権亮三位中将維盛已下、宗徒の大将一味同心に三萬餘騎馳出たり。木曾亦轡並て押合て、
互に指詰々々射るも在、馳合々々切るも在、馬は足を休る時もなく、人は手から助くる隙を失
へり。


角て安宅の城にて、暫し支て戦けれ共、平家負軍に成ければ引て落。源氏勝に乗て続て追。長
並、一松、成合までぞ責付たる。自先立者こそ助りけれ共、返合る者の遁はなし。成合にて平
家返合て暫し戦、両陣乱合て、白旗赤旗相交、天に翻る事夥し。馬〔の〕馳違音、矢叫の声、
雲も響地も動らんと覚えたり。蹴立のほこり空に充満て、朝霧の立が如く也。
[11]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 04時28分20秒 ) パスワード
  

源平盛衰記では忠清の子の忠綱が死ぬのは斎藤実盛の後になっています。
[12]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 04時30分36秒 ) パスワード
  

源平盛衰記の都落ちで景家が生きてました。
(景家のママも80を超して生きてました!)
景家、景高の子を懐に抱いて都落ち?!

源平盛衰記:巻31より


飛騨守景家(かげいへ)も、御伴にとて出立けるが、三歳になる孫に遺を惜つゝ、如何がせん
とぞ悲ける。其孫と云P0757は、北国の軍に討れし飛騨太郎判官景高が子也。其妻は夫に
後れて深思に沈、此少者をかゝへてのち如何がせんと歎し程に、積思に堪ずして、此世空く成
にけり。父にも後れ母にも別て、孤なりけるを、祖父飛騨守景家(かげいへ)が、我懐に拘抱
て、常は口説言して、哀果報なき身となれる悲さよ、懸る忘がたみを残置、我さへ物思ふ事の
無慙さよとて、鳥の雛を■(あたたむる)が如孚ける程に、平家都を落ければ、景家(かげい
へ)も出立けり。東西もしらぬ稚者を、宿定めなき旅の道に具せん事も叶ふまじ、跡に憑もし
き者もなければ、誰に預べし共覚えず、思侘てつく/゛\是を案じ出して、冑の袖に懐きつゝ、
母の八十有余(いうよ)に成けるに具し行て、此子預け奉る。御為には曾孫也、(有朋下P19
0)景家(かげいへ)西海の浪に沈み候(さうらふ)共(とも)、生し立て御形見共御覧候へと
て、打預けつゝ落行けり。景家(かげいへ)が母老々として、庭に杖つき走出て泣々(なくな
く)申けるは、我身縦若く盛なりとも、懸る乱の世中に如何にしてか育べき、況や八十に余て
今日明日とも知ぬ命也。行末遥々(はるばる)の少き者を、何とせよとて捨預てはおはする
ぞ、縦情なく、老たる母をこそ振捨て出給ふ共、恩愛の別の悲さに打副て、歎を重給ふ事こそ
心うけれ、如何ならん野末山の奥へも具し行給へとて、嬰児の手を引、鎧の袖に取付て、門を
遥(はるか)に出たりけり。弓矢とる身の哀さは、人に弱気を見せじとて、かなぐり棄て出け
れども、涙は先にすゝみけり。
[13]服部 明子さんからのコメント(2002年10月14日 01時48分00秒 ) パスワード
  

景家は一体どういう人物だったのでしょうね?

保元の乱で矢を射られた伊藤6は景家?
死んだような感触でしたが。

倶利伽羅峠の戦いでも嘆き悲しんで死んだ感触ですが。

息子の景高も大きく取り上げられているので
親子ともども当時は人気があったのでしょうか?


源平盛衰記の一の谷後、早くアップになりますように!
[14]服部 明子さんからのコメント(2002年10月26日 11時37分38秒 ) パスワード
  

川口さまより教えて頂きました別スレッド「現代語訳保元の乱」に
伊藤6は忠直とありました。
これで伊藤6が景家でない事がハッキリしました。


[上巻・第十二章…白河殿に義朝が夜討する事]


安芸守(清盛)は、二条川原の川より東、堤の西を、北に向かって待機した。その軍勢の中から五十騎ほどが、先陣に進んで押し寄せた。「ここを固めなさるのはどなたか、お名乗りください。このように申すのは安芸守(清盛)殿の郎等で、伊勢国の住人、古市の伊藤武者景綱、同じく伊藤五(忠清)、伊藤六(忠直)」と名乗った。八郎(為朝)はこれを聞いて「お前の主人の清盛でさえ、物足りない敵だと思うぞ。平氏は柏原の天皇(註2)の御末裔であるが、長い時代に成り下がってしまった。源氏は誰が知らないだろうか。清和天皇から為朝まで九代である。六孫王(註3)から七代、八幡殿(義家)の孫、六条判官為義の八男、鎮西八郎為朝であるぞ。景綱であるのならば引き退け」と仰った。景綱は、「昔から源平両氏は天下の武将として、勅命に背いた奴らを討つ際に、両氏の郎等が大将を射ることは互いにある。同じ郎等ではあるが、(私は)公家にも知られ申している身である。そのわけは、伊勢国鈴鹿山(註4)の強盗の張本人、小野の七郎をからめとり申し上げ、副将軍の宣旨をお受けしたのが(この)景綱であるからだ。下郎の射る矢が、(あなたのような大将に)立つか立たないかご覧になるがいい」といって、よく引いて射たけれども、為朝はこれをものともしないで、「物足りない敵だとは思うが、お前の言葉の風流さに、矢を一つ下そう、受けて見るがいい。一方では今生の面目、また一方では後生の思い出にもしろ」といって、三年竹の節が寄っているのを少し押しみがいて、山鳥の尾でもって作ったの〔弓?〕に、七寸五分の丸根の、矢柄の中ほど過ぎて鏃が差し込まれたもの〔矢〕をついで、しばらくためてからひょうと射る。真っ先に進んでいる伊藤六(忠直)の胸板を射とおして、(勢い)余る矢が伊藤五(忠清)の射向けの袖に、裏をかいて立った。伊藤六(忠直)はやにわに落ちて死んでしまった。

伊藤五(忠清)はこの矢を折りかけて、大将(である安芸守清盛)の前に参って、「八郎御曹司(為朝)の矢を御覧下さいませ。凡夫のやったこととも思われません。六郎(忠直)はすでに死にました」と申し上げると、安芸守(清盛)をはじめとして、この矢を見る武士たちは、皆大変驚き入って恐れた。景綱が申し上げるには、「彼の先祖八幡殿は、後三年の合戦の際に、出羽国金沢の城で、(清原)武則が申したには『あなたの(射る)矢に当たる者は、鎧、兜を射通されないという事はない。あなたの弓の勢いを、確かに拝見したいものだ』と望んだところ、義家はよい革の鎧を三領重ねて、木の枝に懸けて、裏表六重に射通しなさると、鬼神の変化かと恐れられたそうです。これ以来武士たちはいよいよ帰服したとか、申し伝えて聞くほどである。眼前にこのような弓の力量がございますとは。ああ恐ろしいことだ」と怖気づく。
[15]服部 明子さんからのコメント(2002年11月08日 11時29分33秒 ) パスワード
  

源平盛衰記41章(藤戸の戦い>に景家登場!



S4107  盛綱渡(二)藤戸(一)児島合戦附海佐介渡(レ)海事

同(おなじき)十八日(じふはちにち)に、九郎判官義経叙(二)従五位下(一)、検非違使(けんびゐし)如(レ)元。平家讃岐屋島に乍(レ)有、山陽道を打靡し、左馬頭(さまのかみ)行盛を大将軍として、飛騨守景家(かげいへ)以下侍を相具して、二千(にせん)余艘(よさう)にて備前国児島著。参川守範頼も、室泊に有けるが、舟より上、同国西河尻、藤戸渡に押寄て陣取。源平海を隔て引へたり、海上四五町には過ざりけり。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2013年08月30日 22時04分47秒 ) パスワード

ウッカリ自分のコメントを消してしまいました。
大恥


友人より「景家が壇の浦で知盛と共に入水した」と知らされました。

景家は息子達が倶利伽羅峠の戦いで討ち死にしたのを嘆き悲しむあまり
死んでしまった筈なのに。

その経緯とやりとりの一部始終。


思うに景家という人物は源平盛衰記の中で情けある人として愛されたという事でしょうか?
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