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 投稿番号:100386 投稿日:2002年10月12日 09時23分35秒  パスワード
 お名前:服部 明子
嗚呼!倶利伽羅峠の悲劇

コメントの種類 :人物  パスワード

倶利伽羅峠の戦いで平家方の公達が大勢亡くなりました。

[2]服部 明子さんからのコメント(2002年10月12日 09時31分14秒 ) パスワード
  

池の大納言家では頼盛の息子の為盛が亡くなり

平家の武門を担っていた本姓・藤原家からも若き武将が亡くなっています。
特に景高・忠綱の従兄弟。

景高は宗盛の乳兄弟で
父の景家は息子達が死んでしまったのを嘆き、死んでしまったという事です。


昔の人の名前は通字を使用しているので分かり易いというか混乱するというか
大変な間違いをしましたので<1>は書き直しの上、削除致しました。
[3]takahiroさんからのコメント(2002年10月12日 14時07分19秒 ) パスワード
  

http://www3.ocn.ne.jp/~mh23/heike84.htm

上記URLに
『倶利伽羅谷の源平供養塔』
『倶利伽羅谷の平為盛の供養塔』の画像が掲載されています。
(以下の引用もありました。)

上巻 巻七 八「玄肪の事」より
 上総守忠清、飛騨守景家は、去去年入道相国こうぜられし時、二人共出家
してありけるが、今度北国にて、子ども皆討たれぬと聞いて、その思ひの積
りにや、遂に嘆死にぞ死にける。これを始めて、親は子に後れ、妻は夫に別
れて、嘆き悲しむこと限りなし。
 およそ京中には、家々に門戸を閉ぢて、朝夕鐘打ち鳴らし、声々に念仏申
し、喚き叫ぶ事おびただし。又遠国近国もかくの如し。

<あらすじ>
 上総の守忠清ら2人は、一昨年清盛公が死去された時、連れ立って出家し
ましたが、この度の倶利伽羅谷の戦いで、悉く子供を失い、悲しさの余り、
狂い死にされました。
 これを始めとして、子に先立たれた親、夫に死に別れた妻の嘆き悲しむ姿
は、都のあちこちで数多く見受けられました。都はおろか、遠国・近国でも、
門戸を閉じて読経する声や、喚き叫ぶ声が満ち溢れています。
[4]服部 明子さんからのコメント(2002年10月12日 16時05分29秒 ) パスワード
  

源平盛衰記からの転載:


「源平盛衰記」の巻29

為盛が討ち死にし
火牛の計の後
随分イメージが違いました。

火牛の計の後、平家はなかなか良く戦ってると・・・思うのですが・・・
この時、忠清と忠綱父子、景家も息子・景高と一緒に戦いに出ていたのが分かります。


随分話が違いますね。



先畠山には兼光、先陣仕れと下知すれば、承候ぬとて、

一番樋口次郎兼光百五十騎、元来約束の事也、平家の二人源氏の一人を宛たれば、畠山が三百
騎に、樋口が百五十騎を相具して、押寄たり。畠山は軍構ぞしたりける。鶴翼の軍とて鶴の羽
をひろげたるが如くに、勢をあばらに立廣て、小勢を中に取籠る支度也。樋口は魚鱗のP71
1戦とて、先細に中太に、魚の鱗を並たる様に、馬の鼻を立並ぶ。畠山が三百騎、樋口が百五
十騎をくるりと巻籠たれば、兼光が小勢、重能が大勢を、さと打破て出、出れば巻れ、巻ては
出ぬ、籠ては散ぬ、散ては籠ぬ、討つ討れぬ、五六度までこそ戦けれ。畠山が勢二百騎討れ
て、百騎に成ぬ。樋口が勢百騎討れて、五十騎になる。其後両方さと引。

二番上総守忠清、五百騎にて推寄たり。今井四郎兼平、二百五十騎にて出合たり。寄つ返つ、
追つ追れつ、暫戦て引退。

三番飛騨守景家、千騎にて向たり。楯六郎親忠、五百騎にて寄合す。弓矢を以て勝負する者も
あり、太刀打して死する者も有、引組で腰の刀にて亡も在、暫戦て両方さと引退。

四番越中前司盛俊、二千餘騎にて蒐出たり。落合五郎兼行、千餘騎にて寄懸たり。或百騎或十
騎入組入組、集ては散、散ては集り、一時戦て引退。

五番越中次郎兵衛盛嗣、上総(有朋下P131)五郎兵衛尉忠光、二千騎にて進出でたり。水
巻、石黒、林、富樫、佐見、一門、千騎にて、寄合す。懸れば引、引ては懸、射も有、伐も
在、退も有、進も在、組組れぬ、互に命も惜まず身も資けず、是を最後と戦て引退。

六番飛騨太郎左衛門景高、五百騎にて懸出たり。信濃国住人、根井小弥太行近、二百五十騎に
て押合す。互に追つ返つ、五六度まで戦けるに、景高が勢、三百騎討れて二百騎になる。行近
が勢百騎にP712なる。猶退かず戦に、景高が勢百騎になり、行近が勢五十騎に成。猶不
(レ)退戦けり。景高が勢十五騎に成、行近が勢七騎に成。源平目を澄してぞ見たりける。尚
不(レ)退死生不(レ)知に戦けるが、後には行近景高只二人にぞ成にける。行近十四束を取
番ひ、能引て放ける矢に、景高が馬の腹射させて駻落さる。行近馬より飛下て、太刀を抜て打
て懸る。景高大音揚て云けるは、骨をば苔の下に埋共、名をば後代に傳ぬべし、人なよせそ、
勝負は二人と云ければ、行近子細なきとて切合たり。両人は好處なれば、源平人をば不(レ)
寄けり。打と切ばはたと合せ、はたと切れば丁と合す。一時が程戦けるに、景高脛巾金より太
刀打折て白砂に落。行近云けるは、爰を切べき事なれ共、互に組で勝負也とて、太刀を捨てぞ
組だりける。根井は四十計の男也。景高は二十五也。上に成下になり、弓手へころび、妻手へ
ころぶ。根井(有朋下P132)終に上に成、景高を押へて切られにけり。敵も味方も惜み
つゝ、各涙を流しけり。

七番権亮三位中将維盛已下、宗徒の大将一味同心に三萬餘騎馳出たり。木曾亦轡並て押合て、
互に指詰々々射るも在、馳合々々切るも在、馬は足を休る時もなく、人は手から助くる隙を失
へり。


角て安宅の城にて、暫し支て戦けれ共、平家負軍に成ければ引て落。源氏勝に乗て続て追。長
並、一松、成合までぞ責付たる。自先立者こそ助りけれ共、返合る者の遁はなし。成合にて平
家返合て暫し戦、両陣乱合て、白旗赤旗相交、天に翻る事夥し。馬〔の〕馳違音、矢叫の声、
雲も響地も動らんと覚えたり。蹴立のほこり空に充満て、朝霧の立が如く也。
[5]takahiroさんからのコメント(2002年10月12日 22時35分10秒 ) パスワード
  

源平盛衰記からの転載

倶利伽羅峠:知度、為盛討死の事
「頼盛」スレッドにも既に転載されていますが、こちらにもさせて頂きます。

「源平盛衰記」の巻29より

 去程に夜明日出る程に成にけり。参川守知度は、赤地錦の直垂に、紫すそごの冑に、黒鹿毛なる馬に乗て、西の山の麓を北に向て、五十餘騎を相具して、声をあげ、鞭を打て、敵の中へ懸入ければ、右兵衛佐為盛、魚綾の直垂に萌黄匂冑に、連銭葦毛の馬に乗て、同連て蒐入けり。此両人、倶に、容貌優美也ける上、冑毛直垂の色、日の光に映じて耀計に見えければ、義仲是を見て、今度の大将軍と覚たり、餘すな者共とて、紺地の錦直垂に、黒糸威の冑に、黒き馬にぞ乗たりける。眉の毛逆に上りて、目の尻悉にさけたり。其體等倫に異也。二百餘騎を率して、北の山の上より落し合て押圍み、取籠て戦けり。知度朝臣は馬を射させてはねければ、下立たりけるを、岡田冠者親義落合たり。知度太刀を抜て甲の鉢を打たりければ、甲ぬけて落にけり。二の太刀に頸を打落てけり。同太郎重義続いて落重る。知度朝臣の随兵二十餘騎、おり重て彼を討せじと中にへだたらんと(有朋下P125)す。親義が郎等三十餘騎、重義を助んとて、落合つゝ互に戦けり。太刀の打違る音耳を驚し、火の出る事電光に似たり。爰にてぞ源平両氏の兵、数を盡て討れにけり。知度朝臣は難(レ)遁かりければ、冑の引合切捨つゝ、自害して伏にけり。兵衛佐為盛は岡田小次郎久義に組んで、木曾が郎等樋口兼光に頸を取られたり。

頼盛の子息為盛は、清盛五男知度の元、倶利伽羅に出陣していたようです。
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 00時36分24秒 ) パスワード
  

http://www3.ocn.ne.jp/~mh23/heike82.htm

こちらにここで平家が軍事をこらしたと伝わる平らな石のテーブルがあります。
[7]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 02時33分02秒 ) パスワード
  

倶利伽羅峠の戦い後、斎藤実盛も討たれました。その後のお話↓



S3002 平氏侍共亡事
平家は棟と憑み給へる真盛討れて大に力落、成合を引て篠原宿に著。源氏同押寄たり。平家不
(レ)堪して山に入、極楽林、小野寺林、須河林に乱入ければ、源氏続てひら責に攻む。福
田、熊坂、江沼辺をも責越て、浜路迄こそ追懸たれ。平家並松と云所にて返合て、暫し支て戦
けり。源平互に乱合、両方より射違たる矢は降雨の如也。是にして平家三十(さんじふ)余騎
(よき)討れて並松を引。源氏勝に乗て余すな/\と追懸、余に手繁追ければ、平家の大将軍
に、参河守知度と云は入道の子也。口惜事哉、御方に思切者共がなければこそ直責には攻られ
て大勢は討るらめとて、返合て散々(さんざん)に戦給へる程に、筒に矢十二射立られて、討
死して失給(たま)ひぬ。連く侍には、飛騨の大夫判官(たいふはんぐわん)景高、是は大臣
殿の乳母子(めのとご)にて若の事あらば一所にて手取組んと契深かりしか共、参河守の討れ
給(たま)ひける悲さに、散々(さんざん)に戦て、(有朋下P143)是も一所に討れにけ
り。越中権頭範高、我一人と戦けるが、矢員射尽て、敵に頸骨射させて自害して臥にけり。

越中二郎判官盛綱、洲浜判官高能、上総介忠清(ただきよ)、子息太郎判官忠綱(ただつ
な)、尾張守貞安、摂津判官盛澄等も、思々に戦て所々に臥にけり。武蔵三郎左衛門(さぶら
うざゑもん)有国は、手勢P0721三百(さんびやく)余騎(よき)にて戦けるが、大勢に
被(二)取籠(一)て半時ばかり打合程に、有国馬を射させて歩立に成、右には太刀、左には
長刀を持て切合ける程に、太刀打折て後は長刀を十文字に持て開き、大勢の中に走入、先馬の
足を薙ぐ。主が馬よりはね落さるゝ処を、落しも立てず頸を薙、弓手に走、妻手に走、四廻五
廻切廻かとすれば、敵三十(さんじふ)余人(よにん)切伏て、我身も痛手を負ければ、新中
納言殿(ちゆうなごんどの)の侍に、武蔵三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)有
国と名乗て、腹掻切て失にけり。巣山兵衛高頼も、手の際戦て討れにけり。東国の者には、ま
しほの四郎と伊藤九郎も、此にして亡ぬ。河に流海に入て死ぬるは不(レ)知、安宅、篠原、
並松の間に、竿結渡して、切懸たる首三千七百六十人とぞ注たる。虜には兼康(かねやす)、
斉明計也。此斉明は林、富樫と同心に、木曾に腹黒あらじと起請書たりし者が、燧城にて返忠
して源氏を背き、忽(たちまち)に冥罰を蒙るとぞ覚えたる。

去四月下向には、平家十万余騎(よき)なりしに、燧、長畝、三条野、並松、塩越、須河山、
長並、一松、安宅、松原、宮越、倶梨伽羅、志雄山、竹浜(有朋下P144)所々の合戦に亡
つゝ、七万余騎(よき)は失にけり。可(レ)然人々も馬にも乗らず、物具(もののぐ)を捨
て、北国の浦伝、仙道の山伝して、今六月の上洛には三万(さんまん)余騎(よき)には過ざ
りけり。

平家今度は数を尽して被(レ)下けるに、角討れぬるこそ無慙なれ。尽(レ)流漁、多雖(
レ)得(レ)魚、明年無(レ)魚、焼(レ)林狩、多雖(レ)得(レ)獣、明年無(レ)獣云
本文あり。されば後を存じて、壮健ならん兵をば少々都P0722に可(二)残置(一)ける
者をと云人も有けり。内大臣(ないだいじん)も棟と憑れたりし弟の参河守も討れぬ。高橋判
官長綱も討れぬ。一所にて如何にもならんと契給(たま)ひし乳母子(めのとご)の大夫判官
(たいふはんぐわん)景高も討れぬ。旁大に力落てぞおぼされける。。飛騨守景家(かげい
へ)が申けるは、相憑つる子息の景高に別ぬ。今は出家の暇給(たまひ)て、彼が後世を
吊侍ばやと申けるこそ哀なれ。有国、兼康(かねやす)、真盛なんども不(レ)帰、此者共こ
そ、野末山の奥にても、一人当千(いちにんたうぜん)と憑もしく思召(おぼしめし)ける
に、大底亡にければ、内府も心弱ぞ思はれける。凡今度討たる者共、父母兄弟妻子眷属等が泣
悲事不(レ)斜(なのめならず)、家々(いへいへ)には門戸を閉、声々に愁歎せり。彼村南
村北に哭しける雲南征伐も、角やと被(二)思知(一)(おもひしられ)たり。五日北国賊徒
の事、院(ゐんの)御所(ごしよ)にて議定あり。左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣(ないだ
いじん)実定、皇后宮大夫実房、堀川(ほりかはの)大納言(だいなごん)忠親(ただち
か)、梅小路中納言長方、此人々を被(レ)召けり。兼実忠親(ただちか)両人は不(二)参
給(一)。

右大臣は大蔵卿(おほくらのきやう)泰経を御使にて、只よく/\御祈祷(ごきたう)(有朋下
P145)あるべき也、東寺に秘法あり、加様の時に被(レ)行べきにやとぞ被(レ)申たる。
左大臣経宗公は、不(レ)叶までも関々を固らるべきかと被(レ)申たり。
[8]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 03時13分13秒 ) パスワード
  

倶利伽羅峠の戦いで討ち死にした景高に3歳の子供がいました。


源平盛衰記:巻31より

飛騨守景家(かげいへ)も、御伴にとて出立けるが、三歳になる孫に遺を惜つゝ、如何がせん
とぞ悲ける。其孫と云P0757は、北国の軍に討れし飛騨太郎判官景高が子也。其妻は夫に
後れて深思に沈、此少者をかゝへてのち如何がせんと歎し程に、積思に堪ずして、此世空く成
にけり。父にも後れ母にも別て、孤なりけるを、祖父飛騨守景家(かげいへ)が、我懐に拘抱
て、常は口説言して、哀果報なき身となれる悲さよ、懸る忘がたみを残置、我さへ物思ふ事の
無慙さよとて、鳥の雛を■(あたたむる)が如孚ける程に、平家都を落ければ、景家(かげい
へ)も出立けり。東西もしらぬ稚者を、宿定めなき旅の道に具せん事も叶ふまじ、跡に憑もし
き者もなければ、誰に預べし共覚えず、思侘てつく/゛\是を案じ出して、冑の袖に懐きつゝ、
母の八十有余(いうよ)に成けるに具し行て、此子預け奉る。御為には曾孫也、(有朋下P19
0)景家(かげいへ)西海の浪に沈み候(さうらふ)共(とも)、生し立て御形見共御覧候へと
て、打預けつゝ落行けり。景家(かげいへ)が母老々として、庭に杖つき走出て泣々(なくな
く)申けるは、我身縦若く盛なりとも、懸る乱の世中に如何にしてか育べき、況や八十に余て
今日明日とも知ぬ命也。行末遥々(はるばる)の少き者を、何とせよとて捨預てはおはする
ぞ、縦情なく、老たる母をこそ振捨て出給ふ共、恩愛の別の悲さに打副て、歎を重給ふ事こそ
心うけれ、如何ならん野末山の奥へも具し行給へとて、嬰児の手を引、鎧の袖に取付て、門を
遥(はるか)に出たりけり。弓矢とる身の哀さは、人に弱気を見せじとて、かなぐり棄て出け
れども、涙は先にすゝみけり。
[9]今井四郎さんからのコメント(2003年02月16日 22時51分33秒 ) パスワード
  

「富山県」のコーナーにて、「倶利伽羅の場面」に長門本を追加しました。
これで、大増補系3本が揃いました。
長門本は、春よりJ−TEXTSにて、順次公開予定です。
[10]服部 明子さんからのコメント(2003年02月17日 04時00分08秒 ) パスワード
  

今井さま

ありがとうございました。
[11]淺井真衣さんからのコメント(2003年04月30日 13時44分09秒 ) パスワード
  

平家物語協会のホームページの「富山県」のコーナーにて、「倶利伽羅の場面」の長門本を増補しました。
巻第十三全部とその前後を公開しました。

J−TEXTにて巻第三を近日公開します。
[12]服部 明子さんからのコメント(2003年04月30日 22時45分26秒 ) パスワード
  

http://www.cometweb.ne.jp/ara/HE07K.htm

拝見いたしました。
ありがとうございます。
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