[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月01日 22時45分22秒 ) | パスワード |
メール続き:
楠木正成ってのは父親の名すらハッキリしないほど、謎の武士ですからね。
もっとも関東武士の大半はそんなもんだったそうだから、
正成がクローズアップされすぎてるんだろうけど。
[2] | albamaximaさんからのコメント(2003年09月07日 00時12分14秒 ) | パスワード |
日大皇学研究所 理事長 竹田日恵氏の著書に楠正成のことに
ついて書かれておりましたのでご参考までに・・・
越中皇祖皇太神宮の神主家の子孫で密命により皇室守護の任務を負って河内の山中に子孫を残したのである。
楠木正成は皇祖皇太神宮神主家竹内宿弥正系一四代目紀竹内真麿と妻の田眼内親王(敏達天皇の皇女)から生まれた三男奈麿を祖先として分かれた楠木氏の子孫であった。
戦前に伝えられてきた様に敏達天皇の御血筋をひく橘諸兄を祖先としているのではなく、敏達天皇の皇女の御降嫁先、竹内家から出ているのというのである。
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年09月07日 01時43分16秒 ) | パスワード |
楠正成は竹内宿弥の子孫?
日本一の忠臣には元祖日本一の人物?
面白いですね。
でも名門の出身というのはやっぱりそうだと思います。
京都って、朝廷って、馬の骨なんか相手にしないですもの。
ですから埋もれていた名家の人物を探し出したというのは本当だと思います。
[4] | さちこさんからのコメント(2003年09月07日 11時56分58秒 ) | パスワード |
楠家発祥の地ではなくて終焉の地?になりますが、
三重県に楠町というのがあります。
そこの町史興味深いことが書かれています。
戦国時代の楠城主が楠正成の子孫で、
織田信長と対立してたそうです。
コピーしたいのですが縦書きなので下記を是非どうぞ。
http://nagata.kanagata.net/ise_shiseki/kusu_jyo.htm
本当に楠正成の子孫かと疑う説もありますが、
楠城主と長島の服部友貞は親戚かなにかで、
服部家が楠城に援軍を出した話を読んだ事があります。
確か長島町史だったと思います。
その頃は楠城主と楠正成を関連して考えてなかったので、
しっかりと覚えてこなかった。
また確認してきます。
服部家との関係からもおそらく正成の本当の子孫でしょうね。
楠の服部家は丸に違い矢でしたが他もあるかもしれません。
電話帳では服部家が62軒、
楠家が1軒です。
[5] | albamaximaさんからのコメント(2003年09月07日 21時46分01秒 ) | パスワード |
もうひとつありました。
大和古流家元 友常貴仁 著作 「大和的」より
もともと当家は橘氏で敏達天皇の後胤 橘諸兄が遠縁 と名乗りをあげる家柄です。古来 故事来歴をはじめ礼法・兵法・剣法・弓術・大和歌道・香道・書道・茶道・和笛などの多くの日本文化を家伝として一人の身心に修めることを定められた家でした。
父はよく「橘」の家についても話してました。
「この古い氏名を大切にしなくてはならない。橘の実は腐らないのだ。この腐らない実を結ぶ橘の氏名に秘められた心こそ大切なのだ。奈良の法隆寺に行ってみない。わが一族が守り抜いた聖徳太子が、物部守屋に攻められた際、太子が身を隠した楠の木がある。そしてその場で戦い守った一族を太子が 楠の一族 と呼ばれたのだ。のちに橘と氏名を受ける一族と同族の敏達系の一族である。おまえの祖先の一人に楠正成もいる。」
聖徳太子を守り抜いた一族ということですから秦氏に関係あるのかもしれません。
さちこさん、三重の楠氏のお話興味深いです。
上述のお家元の香席に招かれた時、織田信長公も手にされたと伝えられる、青磁の香炉が回ってきました。
[6] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年09月08日 03時05分25秒 ) | パスワード |
これで「橘姓」出身の「楠氏」というのが納得出来ました。
[7] | albamaximaさんからのコメント(2003年09月15日 21時50分00秒 ) | パスワード |
また見つけました。最近、楠正成づいてます。
ご参考まで・・・
天野仁「忍者のラビリンス」より
久保文雄の論文「世阿弥出生に関する一考察」
彼が1956年、上野市浅宇田地区の旧家上島吉久氏所蔵の資料を整理した際に発見したものである。
上島家は特異な郷族で南都興福寺別当一乗院に勅旨した家柄で数多くの能面を所蔵していたらしい。
久保は次のように書いてある。
世阿弥の母が「河内国玉櫛庄橘入道正遠女」であること、橘正遠に同姓同名人がなかったとすれば、橘朝臣正成即ち正成の父であり、世阿弥の母は正成の姉妹になる訳である。
上島家に「世阿弥が座を立てた後、故あって母の素性を明かさなかった」と書かれた記録が存したというが、世阿弥が足利義満に愛されたことから、全くこの間の事情を物語っているのではないかと思う。
また上島家文書は楠氏が伊賀の猿楽集団と通婚する間柄であったとはっきり示している。
[8] | 平雅盛さんからのコメント(2003年09月15日 23時22分39秒 ) | パスワード |
楠家のナゾ
河内国(大阪府)の楠の一派は、◎×■なんだよね。みんな菊水使っているけど。
お隣の紀州にいけば、橘姓の家は○△だし、秦宿禰の後裔らしい家や、紀直の子孫とも通婚しているようだから、現代ではるつぼ状態なんだね。こんなこと簡単だよ、田舎までみにくればいいんだよ。中央の歴史学者は、飛行機や新幹線でいけるとこしか調べないけど、この掲示板見ている人はきっとわかってくれて、見に来るよね。JRの赤字ローカル線で、1時間に一本ぐらいしか列車が走っていないところに、案外歴史のうもれた部分が残されているんだよ。
楠氏のうちの一派は、、、だよ。みんな戦国時代以降の新しい歴史にとらわれずにもっと名字の本源をみていこうよ。
話は変わって
「伊賀には、呉服の神社があるんだってね?」
「えっ、じゃあ服部さんはくれはとりで中国江南地域に居た扶余の子孫なんだね!?、だから、服部さんの先祖が作った服は呉の国の服で呉服なんだぁ(^^)」
「扶余って満州の辺にいたんでないの?」
「それが、中国語の辞書には江南にも扶余が居たとなっている、ナゾだね。」
「伊賀上野は平家の残党だらけってウワサ聞いたけど、、。」
「通婚により現代ではるつぼ状態だね、だけど丹羽先生によると伊勢平氏のほとんどは古代豪族がドロンと化けているらしい」
「ではホントの伊勢平氏は?」
「それがこれがまた他の氏族にドロンと化けているらしい」
「たぬきときつねの化かし合いですね(^^;)」
「対立する清和源氏はどうなんですか?」
「これがまたドロンが多くて(爆)」
「日本中化かし合いですね(^^;)」
「まぁ、学者の指摘するのはそんなところです」
「ギャンブラーさんの家は?」
「その実、真実に近いのかもしれぬ、系図をみるまではわからぬ」
[9] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年09月16日 03時41分13秒 ) | パスワード |
系図って、難しいですねえ。いっつもこれ系のスレ見る度に、頭が混乱してしまいます。皆様よくお調べになる。凄いわあ、といつも思って拝見しております。
そうなのか。楠家は伊賀の猿楽座と通婚する間柄だったのか・・・・・・
以前、観世文庫所蔵の観世家の系図を見た時のことだったかと思うのですが(あ、違うかも、また夢の中のことだったら、ごめんなさい)、「杉の木」とか、「太田の中」とか、これが名前なのだろうか、と大変わけの分からない思いをしたことがあって、観阿弥は楠正成の甥、とか聞いていたのに、なんなのだろうかと物凄く悩んでしまったのでした。ああ、でも、そうだったのですか。
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