[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年09月23日 00時45分52秒 ) | パスワード |
上横手さんの「虚構と真実」
私は本屋さんで手にとってパラパラ読んでみましたが
買いませんでした。
私の知りたい情報が無かったので。
内容は難しいでしょうね。
学識的だったと記憶しています。
清盛=悪者という世間の評判は「平家物語」からの派生であって
清盛の実態は
なかなか優れた政治家・経済家・美術愛好家・建築家・土木家・国際感覚者など
更に家庭を大事にする人でした。
現在は武士の政権は頼朝からと考えられていますが
その過渡期を作ったのが清盛なので
武士政権の実質創始者は清盛です。
「おごる平家」という言葉も清盛に集約されますが
「平家にあらずんば人にあらず」
と言ったのは清盛ではなく清盛の妻の兄だったそうです。
源頼朝の父・義朝を暗殺した長田忠致が恩賞を「尾張に」とおねだりした時
「主人を殺しておいて、よくもヌケヌケと、あんなの殺してしまえ」
と言ったのも清盛ではなく、
清盛の祖父の時代から仕えていた家貞(わたくしのご先祖さま)だったそうです。
こんな風に話を面白くするために清盛という人物はかなり歪められて語られました。
平家は軍事に下手クソだったというイメージが世間にありますが
これもかなりの嘘です。
実態は後白河法皇という化け物によって平家は軍事行動を制約されたからです。
丁度ベトナム戦争の時にベトナムで戦争やってる人の作戦を遠くワシントンにいる国会議員達がいちいち議会にかけて作戦を遂行出来ないように妨害したのと同じように。
源頼朝が武士政権確立に成功したのは
後白河法皇や貴族の住む京都から遠く離れた鎌倉で
自分達の・自分達による・自分達のための
国を持てたからだと思います。
(徳川幕府もそうでしょうね)
あなたのご名字の「伊藤さん」は
平家の一門で部門を担当していた本姓藤原・俗姓伊藤氏につながるかも知れません。
あなたのお家の歴史そのものが、もしかすると、平家の歴史かも知れません。
ご先祖さまの事でもありますから
この機会にしっかり「平家物語」をお読みになって
世間に出ているいろいろな「平家」関連の作品もお読みになって下さい。
もしかすると御先祖さまからメッセージが来るかもですよ。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年09月23日 01時12分22秒 ) | パスワード |
結局源氏が平家にとって替わって
しまった!
と後悔したのは後白河法皇であり
京都の朝廷にウロウロする貴族達でした。
こんなはずじゃなかった!
頼朝が平家から政権を奪ったので
平家後自分達に転がり込む筈の土地が鎌倉武士に渡ってしまい
後白河や貴族達はホゾをかんで悔しがったことでしょう。
自分達が好きなように平家を困らせておいて源氏に勝たせ
結果は後悔する事になりました。
源平合戦や奥州討伐を見てた巷の人々にとって
本物の「わがままな人々」は後白河であり貴族達でした。
でも面と向かって嘲笑する訳にはいきませんから
この経緯は「平家物語」という美しいお話になりました。
後白河法皇や貴族によって裏切られ手カセ足カセを填められて源氏に滅ぼされた平家の人々の霊を鎮魂する為に、そして政治の世界とはこんなに醜いという事を忘れたりしないように、今日まで語り伝えられて来ました。
政権を取った源氏方にこんなに長く読まれ続けた物語があるでしょうか?
平家の人々は「美しき人々」であったからと思います。
これが「文化」なのです。
こうして「平家物語」は日本文学の最高傑作となりました。
その効果を狙う為に虚構性が必要でした。
書いてる本人もよく分かってないのですけどね。
(爆)
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2002年09月23日 05時27分23秒 ) | パスワード |
>平家の一門で部門を担当していた本姓藤原・俗姓伊藤氏につながるかも知れません。
担当してたのは<{軍事}部門>です。
平家の一門で<軍事>部門を担当していた本姓藤原・俗姓伊藤氏につながるかも知れません。
です。
[4] | 伊藤 美樹さんからのコメント(2002年09月23日 06時23分40秒 ) | パスワード |
わかりやすいご説明ありがとうございます!!
このような本を見つけられたら理解しやすいのにと思ってしまいました。
上横手さんの本は本当に難しく、私のような初心者が
読んで理解できるものではなさそうです。
平家物語については書こうと思いますが少し内容を
変えようかなと思っています。
意外なところでご先祖さまを見つけられることもあるのですね(笑)
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2002年09月24日 05時19分04秒 ) | パスワード |
参考書籍:
読む本として面白かったのは
日本経済新聞で連載中の池宮彰一郎「平家」と
村上元三の「平清盛」でした。
池宮平家は経済上から
村上平家は政治的な
解釈でした。
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2002年09月24日 05時24分29秒 ) | パスワード |
平家物語では
清盛=悪人のイメージで
重盛=善人のイメージで書かれているので
重盛の子の資盛が当時の大臣藤原基房と「殿下の乗り合い事件」を起こした時
怒って基房に仕返ししたのは孫可愛さの清盛になってますが
実際は重盛という話を聞きました。
当時は勧善懲悪思想なので
人間を描くのに良い人悪い人を分けたがってたのです。
更に高倉天皇でも
最愛の女性は小督のように描いていますが
高倉天皇と徳子はいとこ結婚だし
それぞれの母が姉妹なので仲は良かったはずです。
この天皇は20歳で亡くなっていますが
子供の数は7人です。
順番に
男子は
安徳天皇(徳子の子供)
守貞親王
後鳥羽天皇
維明親王
女子は
範子内親王(小督の娘)
功子内親王
潔子内親王
です。
これをみれば20歳で7人のパパになってるなんて
どこが小督のみを愛した男と言えるでしょう?
小督の親も調べてみれば
彼女がただ泣いてるだけの女だったかどうか
よく分かりますよ。
なかなか政治的にしたたかだったのじゃないかしら?
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2002年09月24日 05時41分08秒 ) | パスワード |
当時の朝廷の政治でもかなりの嘘がありますね。
例えば女性の存在。
元来日本史では日本女性は政治には口を出さなかったとされていますが
保元の乱の原因となった美福門院の存在。
政治の蔭に「女」ありです。
天皇なり上皇なり法皇の「女」は政治的に力を持ってました。
この伝統?は後醍醐天皇の寵姫だった阿野廉子に至るまで
(その後も日野富子なんて有名な女性が出ますが)
日本の乱れる素に女性の存在がありました。
平家の時代にも
頼朝の日本平定の時代にも
朝廷には怪しげな女性が寵愛をカサに暗躍します。
平家物語の虚構と真実を追及していくと
日本の歴史そのものの虚構と真実に目が醒めてしまいますね。
(笑)
政治は男の玩具みたいだったけど
なにがなにが!
女性もしっかり暗躍しています。
日本人の家庭を覗けば分かる事かも?
家庭の中で実権を握ってるのはホントは誰?
(爆)
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2002年09月24日 07時03分14秒 ) | パスワード |
小督局:こごうのつぼね
この女性は高倉天皇の女房の1人ですが
実は
ホントは
内緒の話ですが藤原隆房と恋愛関係にあったそうですよ。
隆房がそう「艶詞」に書いているそうです。
隆房の家は父の代以来平家方で
確か妻の1人が清盛の娘だったような記憶です。
だから婿2人が小督に取られたと清盛が怒ってたような記憶です。
徳子の子と小督の子のどちらが男子で皇位を継ぐか
これは当時の宮廷の人々には凄い関心の的でしたから
女子を生んで負けた小督に同情する人達によって
清盛が彼女を宮廷から追い出した
という悲しいお話にしたのではないでしょうか?
小督の
祖父は信西です。
保元の乱で死刑を復活させた人物。
後に政敵によって自殺をせざるを得なくなりました。
なかなかのワルです。
父は藤原成範。
この人は清盛の娘婿でもあります。
娘婿の妻違いの娘が徳子と同じ時期に同じ男によって妊娠するなんて
清盛でなくとも
娘の父親なら面白くないはずがありません。
「可愛い顔してあの子なかなかやるじゃん」という女性が小督だったかも。
でも世間は小督を悲劇の女性に仕立て上げたのでしょうね。
ま、得な女性です。
彼女の実態はアバズレ?!
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2002年09月28日 06時59分18秒 ) | パスワード |
「平家物語の虚構と真実性」について追加:
「平頼盛次男・為盛覚え書き」スレッドより。
「愚管抄」のこの下記の部分、「平家物語」と随分異なりますね。
その中(なか)に頼盛が山しなにあるにもつげざりけり。
かくと聞(きき)て先(まづ)子(こ)の兵衛佐為盛(ためもり)を使(つかひ)にして
鳥羽にをひつきて、「いかに」と云ければ、
返事(へんじ)をだにもゑせず、心もうせてみゑければ、
はせかへりてその由云ければ、
やがて追様(おひざま)に落ければ、心の内はとまらんと思ひけり。
頼盛一行が何故京にとどまる事になったか
実は宗盛率いる平家一族の冷たい仕打ちがあったから
そこに原因があったようでございますね。
「平家物語」では
池の大納言頼盛の卿も、池殿に火かけて出でられたるが
鳥羽の南の門にて、「忘れたる事あり」とて、
鎧に付けたる赤印どもかなぐり捨てさせ、
その勢300余騎、都へ帰り上られけり
随分様子が違いますね。
この後、平家物語では越中の次郎兵衛盛継が頼盛軍の動きに腹を立て
「矢をかけて脅してやろう」
と言いますが宗盛が止どめます。
資盛は資盛で八条院の女院におすがりしてなんとか打開策を計ろうとしますが
取り次ぎもして貰えず
諦めて都落ちの一行に加わります。
宗盛一行の平家と
資盛に代表される重盛系平家の立場と
清盛の腹違いの弟の家(池の大納言家)の場合の
3つ立場が対照的に描き出されていますね。
みんなそれぞれの事情があって去就を決する難しさ。
よく描かれていますね。
(涙)
「平家物語」では頼盛一行が京に戻ったのを卑怯な行為と読んでしまいますが
「愚管抄」では何故京に戻らざるを得なかったか?が書かれています。
随分違いますね。
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月01日 00時44分09秒 ) | パスワード |
上記に
重盛=善のイメージ
清盛=悪のイメージ
で平家物語が書かれている以上
重盛の実態を暴くことは日本人の感覚には合わないと思います。
更に<9>で書きました宗盛は
平家物語では「暗愚な人物」として描かれていますが
<9>のようになかなか温厚な常識ある人物のようです。
でも宗盛は弟の知盛との対照で<暗愚>と紙一重の描かれ方をして気の毒に思います。
[11] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月01日 01時18分58秒 ) | パスワード |
頂いたメールへのレス:
重盛は素晴らしい人間性を備えた
大政治家の資質を備えた
清盛の嫡男として描かれていますが
日本人の性向としては
こういう暴き方というのは
国民的に好まないので
横暴な人
わがままな人とされる
清盛は
祇王や祇女の出身地である土地が水に困っていると聞き
水を確保する土木工事を行なった良い人
という方向で書くのが良いのでしょうね。
[12] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月01日 07時19分01秒 ) | パスワード |
別スレッドでご紹介の「平家物語紀行」は
平家物語の虚構と真実について大変良い参考書になっています。
著書:本宿<糸卓>保:もとしゅくのぶやす
発行所:文芸社
値段:1200円+税金
ISBN4-8355-3928-1
新しい本ですから手に入り易いと思います。
特に「殿下乗合」事件について詳しいです。
史実はどうだったか?
誰が時房卿に仕返しを命じたか?
本当に親切な書き方です。
[13] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月14日 02時22分36秒 ) | パスワード |
謎の人物本姓藤原飛騨守俗姓伊藤景家の場合
平家物語の倶利伽羅峠の合戦の後こう書かれています。
上総守忠清、飛騨守景家は、去々年入道相国こうぜられし時、二人共出家してありけるが
今度北国にて、子ども皆討たれぬと聞いて、その思ひの積りにや
遂に嘆死にぞ死にける。
死んだと書いてあるのに、その後の平家都落ちの時には生き返っていた?
源平盛衰記:巻31より
飛騨守景家(かげいへ)も、御伴にとて出立けるが、三歳になる孫に遺を惜つゝ、如何がせんとぞ悲ける。其孫と云は、北国の軍に討れし飛騨太郎判官景高が子也。其妻は夫に後れて深思に沈、此少者をかゝへてのち如何がせんと歎し程に、積思に堪ずして、此世空く成にけり。父にも後れ母にも別て、孤なりけるを、祖父飛騨守景家(かげいへ)が、我懐に拘抱て、常は口説言して、哀果報なき身となれる悲さよ、懸る忘がたみを残置、我さへ物思ふ事の無慙さよとて、鳥の雛を■(あたたむる)が如孚ける程に、平家都を落ければ、景家(かげいへ)も出立けり。東西もしらぬ稚者を、宿定めなき旅の道に具せん事も叶ふまじ、
跡に憑もしき者もなければ、誰に預べし共覚えず、思侘てつく/゛\是を案じ出して、冑の袖に懐きつゝ、母の八十有余(いうよ)に成けるに具し行て、此子預け奉る。御為には曾孫也、景家(かげいへ)西海の浪に沈み候(さうらふ)共(とも)、生し立て御形見共御覧候へとて、打預けつゝ落行けり。景家(かげいへ)が母老々として、庭に杖つき走出て泣々(なくなく)申けるは、我身縦若く盛なりとも、懸る乱の世中に如何にしてか育べき、況や八十に余て今日明日とも知ぬ命也。行末遥々(はるばる)の少き者を、何とせよとて捨預てはおはするぞ、縦情なく、老たる母をこそ振捨て出給ふ共、恩愛の別の悲さに打副て、歎を重給ふ事こそ心うけれ、如何ならん野末山の奥へも具し行給へとて、嬰児の手を引、鎧の袖に取付て、門を遥(はるか)に出たりけり。弓矢とる身の哀さは、人に弱気を見せじとて、かなぐり棄て出けれども、涙は先にすゝみけり。
[14] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月14日 10時20分59秒 ) | パスワード |
読売新聞の「ときめき歴史散歩」2001年版にかっこうの記事がありました。
詳しくは↓へ。
http://osaka.yomiuri.co.jp/rekishisanpo/2001/010209.htm
「上原まりさんと平清盛の虚と実」
*時代を読んだ優しい武士
一族で政権を牛耳って、強引に都を京都から神戸に移したり、
対立する東大寺や興福寺を焼き打ちにしたり、横暴さを示す逸話には事欠かない清盛だが、
語るうちに見えてきた像は、
「本当は心優しい武士だったんですよ。
母に乞(こ)われ、敵方の大将の子、幼い源頼朝の命を助けた話はよく知られるが、
鎌倉時代の説話集「十訓抄」にも、寒夜、警護する侍を自分の衣の裾(すそ)で寝かせ、
起こさないようそっと出ていったとある」
「一番すごいのは、時代を見る目を持っていたということ。普通の物差しでは測れない
器の大きさを持っていたんじゃないかしら」
貴族たちが朝廷内の政争に明け暮れた時代に、貿易の重要性に目を向け、
瀬戸内海の航路を整えた。
「八百年前の話でも、人の生き方や考え方は今と変わらない。
時代を読んで一族を率いる。そんな姿が、企業戦士の胸を打つんだと思います」」
横暴とは、逆に言えば、自由奔放ということかもしれない。
「きっと、いい男だったんじゃないかしら」。
深く思い入れた口調から、型に収まらない生き様を慕う気持ちが伝わってきた。
*悪人のイメージに 無常感迫る老人像
「清盛公は兵庫津からすれば大恩人であり現代の繁栄の基礎を築いた偉人でもあります」
「清盛さんがいたから、今の兵庫区がある」
当時、「福原」と呼ばれた兵庫区一帯は、晩年の清盛と深い縁がある。
貴族政権と対照的に力を入れた貿易の拠点とした大輪田泊、
病をきっかけに出家した能福寺。
その後移り住み、都にもした。
遺骨は同寺境内に埋められ、堂宇が建った。
「出家後をここで過ごしたのは閉鎖的な貴族社会がいやになったんでしょう。
海に面して明るく温暖な気候が清盛のおおらかな気性に合ったのだと思います」
と、熱烈な清盛ファンを自任する能福寺住職の雲井世雄さん(62)は言う。
だが、強大な権力者の記憶をぬぐおうとしたかのように、
その痕跡はほとんどない。
墓は源氏に破壊されたらしい。
よすがは、一九八〇年に再建された墓と、鎌倉時代に建てられた「清盛塚」、
二つの十三重の石塔があるだけだ。
*なぜ、清盛に<悪人>の印象が張り付いたのか。
京都市歴史資料館館長の村井康彦さん(70)(日本文化史)はいう。
「平家物語によって作られた虚像という要素がある。
芸能として面白くなるよう手が加えられたのでしょう」
さらに、「厳しい身分制社会も背景にあった」と指摘する。
貴族が都に住む朝廷の官僚だったのに対し、
地方に定着し農作業にも携わった武士は、おとしめられる存在だった。
仏教思想から殺人を犯す罪深さも意識された。
その代表である清盛が中央政界にのし上がったことに貴族社会はアレルギー的反応を起こし
悪人のイメージを強めたらしい。
六波羅蜜寺に一体の木像がある。経を読む老人。
鎌倉時代に作られた晩年の清盛像と伝えられる。
その姿からは、権力欲に取りつかれた様子はうかがえない。
うつろな目が、貴族との権力闘争に疲れたようにも映る。
宝物館で展示されている所蔵品の中に、約二百個もの素焼きの塔を見つけた。
約三十年前の大修理の際、本堂の地下から出土した約八千個の泥塔の一部だという。
住職の川崎純性さん(46)によると、
当時、願掛けのために素焼きの塔を寺に納める習わしがあった。
天皇に嫁いだ清盛の娘が男子、後の安徳天皇を身ごもった時、
一族で大掛かりに安産を祈ったと平家物語にある。
展示品にはそのころのものもあるという。
どれも同じ形で高さ約七センチ。
中に一つだけ、三十センチほどの大形の塔がある。
それらがすべて別人の手で作られたられたことが指紋でわかっていると川崎さんはいう。
「職人に大量生産させたのでなく、一族あげて手作りしたかもしれない」。
とすると、ひょっとして大きいのは清盛の作……?
聞いてみると「可能性は否定できませんな」と笑った。
孫の誕生は、もちろん、天皇の外祖父という強固な地位を得る政治的な意味を持つ。
だが、素朴な塔を見ていると、
土をこねる老いた姿が浮かんで、健康な孫を願う一人の祖父の純粋な思いが
見えてくる気がする。
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