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 投稿番号:100362 投稿日:2002年09月17日 09時14分55秒  パスワード
 お名前:服部 明子
古代日本に栄えたロマンな一族:秦氏3

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

秦氏のスレッド<その3>をご用意致しました。

新しい話題はこちらへどうぞ。

[1]秦義則さんからのコメント(2002年09月17日 22時39分13秒 ) パスワード
  

明子さん新しいスレッドありがとうございます。
さちこさん、そりちゃんさん、たまねこさん、ほとんど核心に近くなりましたね。
日本の古代史、これが正解に近いと、僕の中では思います。
「香具山は 畝火雄々しと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔も 然るにあれこそ うつせみも 嬬をあらそふらしき」
この歌はね、香久山の耳、饒速日命が耳成山の耳、長髄彦命の妹と結婚していながら、畝傍山の耳、溝咋の孫娘を欲しいと言ったことから、王位継承権に問題が起こり、神武天皇が介入したという史実や、高句麗、百済、新羅の関係や
魏、呉、蜀の三国志の関係も理解した上で読まれた歌ではないのでしょうか?
平清盛は西日本を平家が関東を源氏が東北を奥州藤原氏が治める体制を考えていたという説があるようですよ。
平安時代までは三島体制の考え方が残っていたようです。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年09月18日 00時39分58秒 ) パスワード
  

「三島体制」

これは新しいスレッドに立てさせて頂きますね。
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年10月01日 22時03分46秒 ) パスワード
  

静岡県の服織関係のHPをご紹介致します;

ハトリワールドURL
 http://www.hatori-jh.com  
[4]服部 明子さんからのコメント(2002年10月01日 22時07分34秒 ) パスワード
  

上記静岡県服織中学のHPは10月27日一般公開の予定です。
楽しみに待ちましょう。
[5]桜井俊秀さんからのコメント(2002年10月02日 09時42分23秒 ) パスワード
  

はじめまして、静岡市立服織中学校ホームページ委員会の桜井俊秀と申します。
お気づきと思いますが、静岡市西北部にある服織(はとり)という地にある中学
校です。
今年度、ハトリワールドという学校・PTA・生徒会ならびに地域のサイトを統合
したホームページを開設する運びとなり、地域の方にもおしらせできるよう、来
る10月27日に開催予定のPTA祭の場でスタートすることになりました。
地域のページには、この服織の歴史や文化にまつわる話題を提供していく予定で、
その第一弾はすでに掲載されています。
服織部に関わる地名とか、「森はこがらしの森」と枕草子に書かれている木枯らし
の森をはじめ、いくつかのスポットを紹介しています。
この度、私が検索エンジンで「服織、機織、秦」などのキーワードで検索していて
偶然出会った、この「平家を熱く語る」のサイトで常に発信をされている、服部
明子さんに突然のメールを差し上げたところ、このスレッドにご紹介をいただい
た次第です。
まだ準備中ではありますが、ハトリワールドをご覧いただき、服織にまつわる
エピソードや情報をお教えいただければ幸いです。
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年10月02日 10時01分49秒 ) パスワード
  

桜井さま

こちらでは初めまして。

服織という地名は帰化一族の秦氏の末裔がまさに永きに亘って住んできた所ですね。
4世紀5世紀の古代日本の氏姓をそのまま現在に至るも使用とは驚きですが
秦氏解明にも是非服織中学のHP楽しみにさせて頂きます。

[7]秦義則さんからのコメント(2002年10月30日 00時00分16秒 ) パスワード
  

秦という漢字自体が子供の頃から不思議で、この字には「音」だけがあって、意味の無い字なのです。
漢和辞典を引いても意味不明なのです。
漢字は象形文字ですから普通、意味があるはずなのですが?

大陸から渡ってきた秦一族の始まりは秦の徐福に有ります。
秦の始皇帝の命令で不老不死の薬草を求めて日本に渡ってきます。
その後、朝鮮半島からも秦を名乗る王族達が何度も日本にやってきます。
スサノオノミコト、アメノヒボコ、ツヌガアラヒト、クレハトリ、アヤハトリ
日本はそれだけ魅力の有る土地だったのでしょうか?

秦の始皇帝陵と兵馬庸、古墳と埴輪
古墳が急に巨大化する背景に渡来人を助けた大王に対する礼儀が合ったように思います。
埴輪は須恵器ですがそれを作った人たちを土師氏。
そう土師氏とは秦氏だったのです。
三輪氏と賀茂氏の祖は土師氏なのです。
古墳を巨大化させたのも秦氏でした。

秦氏の皇子である「天日矛」その孫である「田道守」(但馬王国の王)は橘の苗を全国に伝えます。「橘」に何か霊的な力が宿っていたかもしれません。
当時のシャーマニズムに必要だったのでしょう。

神社の前の唐獅子と狛犬。
ライオンと狼(大神)、紀州犬など犬と狼の混血が人為的にされてゆきます。
後に忍者犬にも使われます。
これも秦氏の役目。

しかし、秦氏は日本では差別されてゆきます。
秦氏は名を様々に変えてゆきます。日本語の名前のように二文字以上の名前に。
差別されながらも、日本と大陸との交渉に当たります「小野妹子」のように。
彼は滋賀県の秦氏です。

西域から中国大陸、朝鮮半島から日本にやってきた民族。
日本に何かを隠しているような気がしてならないのです。
それを大陸から隠し通してきたのかもしれません。
日本はそれにふさわしい国だったのかもしれません。

行基も良弁も最澄も空海も法然も秦氏に繋がります。

日本に何があって、秦氏は何を隠してきたのか気になる所です。

戦前まで日本には「サンカ衆」という差別され続けた人々がいます。
独自の言葉を持ち闇の歴史を伝えてきた人々。この中に何か隠されてはいないでしょうか?
[8]さちこさんからのコメント(2002年11月02日 13時00分17秒 ) パスワード
  

ここのところパソコンの調子が悪く、
せっかく書き込んでも投稿出来なくてご無沙汰してました。
今日は大丈夫かしら?

面白いものHPをみつけましたのでご報告。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/jun.htm

一部抜粋。

 伽耶というのは古代南朝鮮の六つの国の連合体で、六伽耶と呼ばれていた。その一
 つが多羅なのだが、ダイダラボッチのダイダラとは多羅に美称の「大」を付けたもの だ。

 そればかりではない。多羅の「多」が「大」と交換して「タイ・ラ」となり、「平」 になるのである。これが「平氏」の始まりであり、坂東平家のルーツは多羅だという ことだ。


多羅とタイラ以前から気になってました。
三重県では泰羅とかいてタイラさん、
多羅(なんて読むか判りません。)という名字を時々見かけます。

父の田舎ではタイラはタァ〜ラといいます(笑)
タァ〜ラの清盛。

マァ〜タャ〜ラといえば
摩多羅神ではなく松平なんですけど??

時間がなくなったのでまた。ごめんなさい。
[9]さちこさんからのコメント(2002年11月02日 20時13分54秒 ) パスワード
  

平=多羅と決めつけるのは無理がありそうですが、
伊賀にも多羅尾という地名があったようです。
しまなみ海道、大三島を繋ぐ橋が多々羅大橋。
タタラというのは鍛冶師と関係あるみたいですが。
タタラについては下記を参考に。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwif4861/tatara.htm

秦さん
小野妹子も秦氏だったのですか?
唐に渡って日本に戻れなかった阿倍仲麻呂などは和歌で有名ですが。
安倍というので秦氏と関係ありではと思ってます。

秦氏は日本に帰化しても大陸との関係は密接だったのでしょうね。
当時仏教は最先端の文化だったでしょうし、
僧に秦氏が多いのも納得できます。

今年は東大寺大仏開眼1250年で色々な行事があるみたいです。
そのせいか新聞にもよく関連のある記事がのってます。
開眼供養の時には新羅からの使者200人を招いたともありました。

小学館の週間日本の美「正倉院」おすすめです。
当時がいかに国際的であったかよく判ります。

伎楽面ものってます。
伎楽は百済のミマシが呉で学んだものを秦氏に伝えたとされてます。
あやはとり、くれはとりは、呉から百済人に案内され日本にきたとされてますから、
服部家とはルーツは同じではないかと思います。

観、世阿弥が能を大成させたのも元はここに始まるのでしょうね。

今日の新聞には平城京遺跡から立ちション禁止の木簡が見つかったとのってました。

「此処不得小便」

だそうです。(笑)
解体作業をしていた労働者への立て札のようなものらしいです。
当時労働者階級でも字が読めたということになるそうです。

わざわざ立ちション禁止の立て札を書くということは、
そこで立ちションしていたヤツがいるということですよね。
当時建築作業をしていたのは秦氏が多かったのではと思うのですけど。
犯人は?

ローカルな話題ですが、
次の伊賀町長戦に中柘植の服部氏が出馬とありました。




[10]秦義則さんからのコメント(2002年11月02日 22時26分56秒 ) パスワード
  

「篁神社」は滋賀の志賀町の小野郷にも京都市内にもあります。
小野篁はの妻は「小岑」といい、その娘を「落葉姫」といいます。
彼女は朱雀天皇の第二皇女で、紫式部の『源氏物語』に登場しています。
妻の小岑は畑(秦)蝉丸の娘です。
(小野姓真弓家之系図より)
堀川沿いの寺に紫式部と小野篁の墓が並んでいるといいますが、両者の関係にまた秦氏が絡んでいるのかもしれません。
惟喬親王の重臣であった秦氏の末裔が小野篁の墓を建立しています。
小野氏の中に確実に秦氏の血が流れているようです。
第二次遣唐大使の小野妹子と共に留学生として海を渡った弁正も秦氏の出身です。
やはり外交に秦氏を使っていたと思われます。

小野氏がいた滋賀県は渡来人が多く住んでいた土地でもあります。

もともと小野氏は山背国愛宕郡小野(現在の京都市左京区上高野のあたり)に本拠地を持つ古代の豪族でした。また、志賀町小野の北には和邇という土地があり、ここには小野氏と深い交流のあった古代豪族和邇氏の本拠地がありました。志賀町小野へは妹子の生まれる前に、小野氏の一部が移住、もしくは和邇氏に小野氏の男が婿入りして住み着き、小野妹子が誕生したと考えられています。
この和邇氏は製鉄に従事する渡来集団という説があり、その配下の真野氏や小野氏も同族という事になります。
鉄生産に従事するする渡来集団とは、新羅系秦氏だったようです。
秦氏も真野氏も小野氏もタタラと関係しているのです。

[11]そりちゃんさんからのコメント(2002年11月12日 16時25分02秒 ) パスワード
  

最近「臣籍降下」についてふと思ったのですが、
皇族でありながら身分を落とされた方々の血筋は
やはり「渡来系」であったり、身分が低い母から産まれた者で
あったりした訳ですよね。
でも、桓武帝自身母親の新笠は「百済系」。
なのに、臣籍降下で生まれた「平氏」とは・・・。
百済と敵対していた「新羅系」の血筋と考えてもおかしくない?
美しい娘であれば、養子にして後宮に送りこんだりしていたでしょうしね。
しかし、本当に調べても調べても「秦一族」はゆらりゆらりと
影を垣間見せるだけで、はっきりとした足跡はなかなか探せませんね〜。
最近黙々と本を読むのみ、です。

秦さん、サンカ衆について別冊歴史読本の
「禁断の古史・古伝」(たしか)のなかに「ホツマツタエ」という
書について記載があり、最後のサンカ衆の青年についての
ことが載っていましたよ。
[12]秦義則さんからのコメント(2002年11月12日 22時07分49秒 ) パスワード
  

うん、
そうなんです!!

秦氏とサンカ衆とが重なって見えてきているのです。
今、ずっと調べているのですが・・・・

サンカ衆と山岳信仰や忍者ともかかわっりと・・・
密教とサンカ衆・・・

ミステリアスです!
[13]そりちゃんさんからのコメント(2002年11月22日 15時39分06秒 ) パスワード
  

ニュースにありました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20021122-00000209-mai-int

「犬の起源は狼でルーツは東アジア」

なんとなく、秦氏を連想してしまいました。
日本では犬養部(いぬかいべ)ですね。

彼等のルーツも大陸で、その技術を伝えたのはやはり・・・!

そうそう、「桃太郎」の猿・鳥・犬について、
猿と鳥(酉)は鬼門封じに関係があり、
犬については吉備津彦が「鬼」を退治に行ったときの
お供に犬養某という人物がいたそうです。

ここでいう「鬼」はどうやら朝鮮半島から戦乱を逃れて
やってきた渡来人のことで、岡山の「鬼の城」からは
製鉄釜の跡がたくさん発見されているそうです。

古代は「鬼」=「隠(オン)」であった。
渡来した人々が山奥に「隠れ」ていたからなのか。

「今昔物語集」で
「聖徳太子、法隆寺を建てたる語」と
「秦の川勝、はじめて広隆寺を建てたる語」は
本文欠になっています。

どうも意図的なものを感じてしまいます。
考えすぎ?
[14]服部 明子さんからのコメント(2002年11月22日 16時55分31秒 ) パスワード
  

>どうも意図的なものを感じてしまいます。
>考えすぎ?

去年の暮れのモックンの「聖徳太子」で
当時朝廷では半島の言葉を話すようにという方向があった
というシーンがありました。
[15]そりちゃんさんからのコメント(2002年11月22日 20時38分34秒 ) パスワード
  

>去年の暮れのモックンの「聖徳太子」で
>当時朝廷では半島の言葉を話すようにという方向があった
>というシーンがありました。

そうなのですか!
では、やはり
「聖徳太子は十人の言うことをいっぺんに聞くことが出来た」
という伝承の真の意味は、
「聖徳太子は十ヶ国語を聞くことが出来た(理解できた)」
ということと解釈できますね。

別名 豊聡耳太子と称せられる由縁がわかった気がします。

でも、それでは半島の言葉で書かれていたため
捨てられてしまったのでしょうかねぇ?
[16]秦義則さんからのコメント(2002年11月23日 23時11分21秒 ) パスワード
  

大陸の文化を伝えた渡来人の一派は源日本人「まつろわぬ人々」と混血し闇の中に消えていったようですね。
また別の渡来人一派は日本の表舞台に立ち権力を振るったのでしょうね。
古事記や日本書紀には書かれていない闇の歴史があるようです。
表と闇が一対となって長い歴史を作ってきたのだと思います。
出雲国は闇へと沈み代わって大和朝廷が君臨する。
国譲りが象徴していると思います。
スサノオノミコトは秦氏の神であるとともにサンカ衆の神でもあったのです。

大和朝廷が意図的に封印してきた歴史があったのだと思います。

大江山の鬼も渡来人かサンカ衆だったのでしょうね。

聖徳太子そのものが渡来人だったという説まであるのです。

[17]さちこさんからのコメント(2002年11月25日 13時07分22秒 ) パスワード
  

高円宮様が雅楽について書かれたものです。

http://tokyocinema.net/takamadonomiya.htm
[18]たまねこさんからのコメント(2002年11月26日 01時10分44秒 ) パスワード
  

「雅楽と皇室との縁は深い」…その通りでしょうね。(ご冥福をお祈りします。)

記紀万葉を正確に読み解ければ、古代史や古代氏族の謎が解けると思います。
もっとも、原文を日本語だけで解釈すると、無理があるようですが。

李 寧熙の著書『もう一つの万葉集』で、天智・天武時代に流罪になった皇族”麻続王”の歌について書かれているのですが、そこで、ハタ!と気付いたことを、一応、書き記しておきます。

麻続王=麻績王(おみ、又は、おおみのおおきみ)は、罪を犯して因幡に流され、一子は伊豆の島、一子は血鹿の島に流されたというのですが、どのような人物で、罪の内容についても定かではないようです。この時代は、何らかの形で、天武天皇の反感を買って、処刑された者も多かったのでしょう。

ところで、麻続(おうみ)は、韓国語で「機織」を意味しているそうです。
ということは、麻続王=機織王。古代において、機織は高級な重要技術だったので、
機織集団勢力を有していたと見られる、麻続王の政治的影響力も相当のものであっただろうと考えられます。流された時に歌った歌には、皇族から賎民に身を落とした悲哀も伝わってまいります。因みに、歌には、新羅の方言が混じっているようです。

麻続王は、秦一族の拠点であった「近江」が勢力圏であったようですし、この人物
の失脚を境に、秦氏一族も表舞台から消えた??

麻続王と海人について、面白そうなものがありました。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ominoookimi.htm

「3.鳥と酒」のところで、秦氏について書かれてますね。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/sake-tori-kai.htm#amatorikai

海人は「三」を好んで使用したようですし、スサノオ、アマテラス、ツクヨミの話も比較的新しい創作だったのでしょう。
私は、大国主命なども、実在した自分たちの祖先なんじゃないかと思っていますが。
天から降ってきたというよりは、船を漕いで海を渡って来たのではないかと。

さらに、人麻呂=聖武天皇=聖徳太子=御美努王=麻続王?という、面白いHPが。
http://homepage1.nifty.com/shoumu/0100a.htm

http://homepage1.nifty.com/shoumu/index.htm?page=0106.htm

因みに、朝鮮語で読み解くと、人麻呂の歌は新羅の方言、額田王は高句麗の方言まで読みとれるそうです。
[19]そりちゃんさんからのコメント(2002年11月28日 23時25分55秒 ) パスワード
  

イ・ヨンヒさんには、もう脱帽です。
もう衝撃でフラフラ、ノックアウトです。

さて、大神神社でセミナーが始まるそうですよ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20021128-00000003-mai-l29

行きたいな〜。

秦は古代韓国語で「バダ」であったそうです。

なんでも天皇に献上した絹が肌に心地よかったことから、
「波陀」の姓を賜ったとか{古語拾遺}。

1988年に韓国慶尚北道の蔚珍郡で「波旦」の地名のある石碑が
見つかったそうです。新羅の首都である慶州の近くに「波旦」が
あったことから、その地の出身者が日本に渡来して、
出身地の地名をもって氏族名としたのではないかとの
説もあります。

さて、古代の倭人と渡来人の比率は
1対9もしくは、2対8という説があるそうです。

たしかに、飛鳥・奈良時代って、平安時代とは異質の文化ですよね。
本当に中国風。それまでの大和をリードしていたのが、
蘇我氏・物部氏。
蘇我氏は娘を天皇に嫁がせることで「統治権」を、
物部氏は「祭祀権」を担った。

しかし、それは百済人・新羅人・高句麗人の野心の前に
崩れていく・・・。
天皇家は万世一系というのは、蘇我氏側から見た「言い分」なのでは。
婿はどこの家の者でも関係ない、と。
天智は百済王子説もあるし、天武は高句麗の大宰相の説もあります。

古代の天皇も怪しげな人物ばかり。

神武天皇の父・ウガヤフキアエズノミコトの
ウガヤは古代の大伽耶=上伽耶(うがや)の出身だからなの?

清寧天皇(第22代)は生まれつき白髪だったそうだけど、
やはり渡来人なの?
征夷大将軍坂上田村麻呂も「目は青く、ヒゲが黄色かった」と
いいますが、彼は東漢氏の血をひいています。

他にも「タラシ」のつく天皇達や
「ワケ」のつく天皇達、
「サザキ」のつく天皇たちがいます。

渡来人が天皇家(蘇我氏の女性)に婿入りしていたとすれば、
三島体制って、百済・新羅・高句麗のこと?

蘇我氏の蘇我は古代韓国語にすると「鉄研ぎ」の意味だそうです。
入鹿のまたの名は「鞍作」といったそうです。
古代の馬具作り=鉄作りのことだったそうです。
蘇我氏は製鉄技術を握って権力を振るっていたのか。

絶対的な権力を持っていた蘇我氏が滅亡してしまい、
物部・藤原の世になって、
秦氏は尚一層用心したのでしょうね。
そして、政界ではなく、経済界を握ることにしたのでしょう。
語学にも堪能な人々であったのでしょうね。
[20]さちこさんからのコメント(2002年12月04日 18時26分13秒 ) パスワード
  

能関係の新スレ立てると言いつつなかなか。。

実は中国からのお客様でバタバタしてました。
十数年前父が中国に行った時知り合った学生さんなのですが、
今回島根大学の講師として招かれたそうです。
スケジュールの合間をぬってこちらまできてくれたのですが、
歴史民俗学が専門でしかも島根大学なら秦氏関する情報が?
と思って私も観光案内等をすることになりました。

でも残念ながら中国南部の少数民族に関する研究が主で、
秦氏に関しては判らないそうです。
秦という姓は中国北部に多いそうです。

彼自身もベトナム近くの少数民族だそうです。
雲南省はよく日本文化の原型が残っていると言いますが、
家の造りが神社に似てたりと確かになんか懐かしいようなそんなところです。
少数民族といってもルーツがさまざまで、
沢山の民族がいて文化もそれぞれ違いますが、
日本人との共通点をおおまかにあげると。

魚、海老、貝、生ものを食べる習慣がある。

中国人は冷たい食べ物を嫌うが彼らはあまり気にしない。

寿司、納豆に似たものがある。(なれ寿司だと思います)

漢民族は一階建ての家に住むが二階建ての家を好む。

道具などをあげるときりがないそうです。

彼はシャイで謙虚なおとなしい人です。
中国人いうと何でもストレート押しが強いイメージがあるのですが、
日本人に何か似てるなと性格のせいもあるかもしれませんが思いました。

割勘というのを中国人は好まないようで、
神社のお賽銭をと思って財布を出そうとしたら、
「私が払います」と言って私の分も出してくれました。(笑)
彼の払ったお賽銭の半分は私のですので、神様よろしく。

少数民族のHP

http://www.16congress.org.cn/ri-shaoshu/index.htm

ヤオ族が日本人に似ていると言うことでした。
[21]たまねこさんからのコメント(2002年12月04日 22時00分22秒 ) パスワード
  

HP見てきました。
少数民族って、こんなにたくさんあるのですか〜。

中国人が割勘を好まないというのは、初めて知りました(笑)。

[18]で紹介した、万葉集のHPをやってらっしゃる秋山さんに、
「秦氏を怪しいと思ったことはありませんか?」と質問しましたところ、


・「聖徳太子」=【大津皇子の諡号】、彼の別名が「秦 河勝」です。

・大津皇子の父は天智系の弘文天皇で、「秦の始皇帝の末裔」から、
「秦」氏⇒「新羅(秦羅・辰羅)」です。

・秦氏の天智系は薩摩隼人なのです。人種的には「突厥」=【トルコ人】です。

・全ては【言語復原史学】から解明出来ます。

という御意見を頂きました。
私一人だけで感心しているのは勿体ない?ので、みなさんに御報告いたします。

そういえば、製鉄の始まりは、ヒッタイトだったと思いますが、今のトルコ
あたりにあった国、でしたっけ??
[22]服部 明子さんからのコメント(2002年12月04日 22時10分51秒 ) パスワード
  

雲南って稲作の始まりの場所だったような記憶です。

この場所は三国志で孔明が孟獲を7回捕らえて7回放したという
戦争をやった所ですね。

すごい山の中の細い道をアメリカ軍が武器を運んで日本軍を退治に行った、とか。

そんな事を思い出しました。


アメリカは「モン族」とかいう少数民族が結構来ています。
[23]秦義則さんからのコメント(2002年12月04日 23時59分32秒 ) パスワード
  

こんばんは!

そりちゃんさん、三島体制は、百済・新羅・高句麗のことであり、
魏、呉、蜀のことでもあったと思いますよ。
それを日本を治めるのに使ったのでしょう。

たまねこさん、秦河勝が聖徳太子だったのですか?チョット驚きですね!
聖徳太子が渡来人だという説があったり、
聖徳太子といわれる秘仏がペルシャ系の顔立ちだったりするのが
理解できるように思われますが、
本当なら、仏教界がひっくり返るような事ですね。

雲南省で思い出したのですが、
タジマモリ(田島守)が垂仁天皇のために不老長寿の霊力の有る橘の実を常世に探しに行き、
見つけてもって帰った時には垂仁天皇は崩御されていたという話があります。
橘は聖徳太子と切っても切れないものですし、
また秦河勝の家の庭にも橘があり、それが紫右近の橘となっています。
タジマモリが探しに行った常世とは?
実際には雲南省にまで行ったとか?

有田みかんのルーツはこのタジマモリにあるようなのですが、
本来の橘は日本固有の種らしいのです。
すごく謎が多いのですね。

タジマモリは字のごとく但馬王国の王だったのですが、アメノヒボコの孫とされ
秦氏一族だったと思われます。
日本と大陸との架け橋として行き来していたのかも知れません。

不老長寿というと、タジマモリ以外に秦の徐福が思い出されます。
どちらも秦氏とかかわりが深く、やはり日本には不老長寿の何かがあったのでしょうか?
徐福は始皇帝の命を受け日本にやってきますが、ついには国に戻りませんでしたね。
日本で何かを発見しそして封印し大陸の目から遠ざけてきたのでしょうか?


[24]さちこさんからのコメント(2002年12月05日 20時01分10秒 ) パスワード
  

20で少数民族は二階建ての家を好むと書きましたが、
ふと気が付きました。
多分高床式のことをいいたかったのだと。(何しろ言葉が・・)

東南アジアの少数民族もそうなのですが、
伊勢神宮や弥生時代の建物ににています。

タイのヤオ族、アカ族の村の様子です。
アカ族の家の前には鳥居がありよくみると家に千木のようなものがあります。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/kmtthai/KMT2.html

ヒッタイト私も気になってました。
ヒッタイト=HITTITES
ハッティ=HATTI

http://homepage1.nifty.com/endow/all_turkey/all_hittaito/all_hittaito_htmls/hittaito_01-01_zougo.html

 今日の私たちが呼ぶ「ヒッタイト帝国」とは、当の「ヒッタイト人」が自称していた国名ではありません。紀元前16〜紀元前13世紀の粘土板から、
彼らは自らを「ハッティ人」と呼び、首都名と国名を「ハットゥシャ」と呼んでいた、と推測されています。

だそうです。(大笑)

ヒッタイトの歴史です。

http://homepage2.nifty.com/owl_popo/html_cont/hatty.htm



[25]さちこさんからのコメント(2002年12月05日 20時21分01秒 ) パスワード
  

中国のお客さんのことで思いだしました。
食事をしながら自分の苗字を中国語読みをすると何と発音するかという話になって。
訓読みする名が多くて、
中国語にすると全然違う読み方になって皆で大ウケしていたのですが、

「服部は?」

「フクブ」

私の場合そのまんまでした。
[26]川口 信さんからのコメント(2002年12月05日 20時57分35秒 ) パスワード
  

 さちこさん カードを見て下さいましてありがとうございます。

 ではとっておきの秦王国のURLをさしあげます。

 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/4875/yamato/ymt2.html
 
 このほかにも色々なことが書いてあります。秦氏の件は奥が深いですね。
[27]服部 明子さんからのコメント(2002年12月06日 00時08分05秒 ) パスワード
  

さちこさん


台湾?の人は「服部」を「フーブー」と読んでました。
[28]秦義則さんからのコメント(2003年01月12日 12時43分55秒 ) パスワード
  

皆さん、ずい分遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。

今年も「秦氏」をヨロシク!

と言うところで、
「マイナーな八幡神社」のスレッドから戻ってまいりました。
初詣、豊中の服部天神に行きました。
何でもありの天神さんなのですが、ここで、秦氏と菅原道真が繋がってゆくのです。

服部から能勢街道を北に行くと池田市に入るのですが、池田で僕は生まれました。

この池田市はずい分歴史の古い町で早くから渡来人たちがやって来て住んでおりました。
伊居多神社(綾羽神社)、呉羽神社を始め、茶臼山古墳、五月丘古墳、鉢塚古墳
絹延、呉羽の里、紀部、宇保、細川、など秦氏関連の地名が多く残っています。

また多田は清和源氏の発祥の地、成和源氏の末裔の池田氏
摂津池田氏の家紋はなぜか僕の家の家紋と同じでした。
豊能高山の高山右近と細川がラシャ。豊能には隠れキリシタンの村も存在しています。
まずは地元の歴史から出発しました。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/s_iked_k.html  池田氏のHP
http://inoues.net/yamataikoku/osaka/ikedasi_bunkazai.html  池田市の文化財
http://www.tadajinjya.or.jp/   多田神社のHP
http://www.apsara.ne.jp/hattori-tenjingu/index2.html  服部天神HP




[29]さちこさんからのコメント(2003年01月13日 16時20分48秒 ) パスワード
  

細川家は秦氏なのでしょうか?
なんか日本は秦氏だらけ。。。

能勢家はどうなんでしょう?
能勢家の家紋は矢筈十字、服部家も矢筈を家紋にしています。
服部家とは何か関りがあったのか?
波多野氏とはこんなことが書かれてました。

http://www.city.sasayama.hyogo.jp/yakami02.html


波多野家の家紋は、九州島津家の家紋によく似た丸に十の字の“出くつわ”。紋のイメージから見ても、城主秀治がその昔から隠れキリシタンであったのではないかーとの説もある。だが、同族会の本家筋はこの説を真っ向から否定して「家に伝わる佩刀には観音、勢至、不動の梵字が彫ってあり、仏教に縁は深くても、キリシタン信者出会った資料はない」といっている。しかし秀治の養父の秀経の親、秀範の奥方は摂津の能勢氏の娘。能勢氏は当時高槻城主だった高山右近との交友が深く、“十字の先に筈の切り込み”を加えたものを家紋にしているほど。係る関係から波多野氏は秀範のころからキリシタンの信奉者ではなかったかと思われ、能勢氏の家紋と共に禁制で丸や切り込みを付けてのカモフラージュともとれる。

明智光秀の母が人質になっていて、
織田信長の裏切りで母が殺されたという八上城の波多野氏です。
これが本能寺の変のきっかけになったとかこれは俗説とか色々な見解がありますが。
本能寺の変の当時光秀の妻は伊賀の服部家の人だったのは間違いないようです。

光秀の妻は美濃妻木家の煕子で側室はもたなかったとされてますが、
煕子は本能寺の変以前に病死したそうです。
で服部家(北村、喜多村ともありますが服部家一族です)の娘と再婚したらしい。
実は側室もいて川勝家へ嫁いだ娘もいます。

[30]秦義則さんからのコメント(2003年01月13日 22時47分46秒 ) パスワード
  

丹波の波多野氏は今で言う神奈川県秦野市の出身だとか。
神奈川県の秦野氏も秦氏が古くから養蚕を持ち込み開けた所とか、
秦野市のHPです。
http://www.city.hadano.kanagawa.jp/sisi/welcome/3b-4.html#1

ところが池田市にも秦野という地域があります。
波多野氏も秦氏の流れを汲んでいるように思います。
八上城、秦氏は「八」という字が好きですよね。
丹波から亀岡、京都に至っては秦氏の本拠地なんですから。
丹波と丹沢、何か関連があるのでしょうか?

また美濃と言えば斎藤家なんでしょうけど、
摂津池田氏の姻戚関係に美濃の池田氏があります。
光秀の前妻が美濃出身
後妻が伊賀の服部家だとしたら、秦氏と繋がるんですね。
中部地方と近畿が結構近いんですね。
伊勢から愛知にかけても渡来人の多いところ。
愛知県に良くある「豊」という字が付く地域が気になります。
僕が今住んでるのが豊中、池田に有る豊島、豊能
愛知県の豊田
豊田のトヨタと池田のダイハツも何かの因縁でしょうか?
ダイハツにはトヨタの資本が入ってます。


[31]秦義則さんからのコメント(2003年01月13日 23時06分44秒 ) パスワード
  

「嵐山文学」と言うHPで面白い記事を発見しました。
以下は抜粋です。

[ 1999.2.8 NO.001 池田市の秦氏のこと]

( 序文 )

池田市は亀岡からも通じるところで妙見山と秦氏は深い関係にあります。すべて勢力圏な訳で
丹波丹後の至る処にゆかりの地名も残っています。
妙見山への信仰については柴田さんからも以前次のようなコメントをいただいていました。
「妙見信仰と畿内帰化人との関係ですが、奈良時代末期・称徳天皇のころ、河内国安宿郡内
に妙見菩薩を祀るお寺が造られました。現在の大阪府南河内郡にある天白山妙見寺とのことです。
妙見信仰は帰化人によって伝えられた、道教・仏教思想に基づく信仰で、帰化人との結びつきが
顕著に見られるものです。」
東の山麓に亀岡市があり西の山麓に池田市や能勢町があります。京都には愛宕山が古くから
広く強く信仰されていましたから遠慮したものと考えられます。詳しく調べれば京都市内にも
残っているかもしれません。河川の氾濫に苦しむ処かならず秦氏の関与があります。そうした
線から少し調べてみたいと思います。

( 地形的考察 )

秦氏が桂川の治水工事に成功した後滋賀県の愛知川と大阪淀川北部平野の開拓を命ぜられた
ようです。共に京都の場合と地理的状況が類似しているのは驚きでありました。
淀川北部平野で言いますと猪名川ー神崎川が桂川で、千里の東側から注ぐ川が鴨川ないしは天神川
に相当します。武庫川と淀川という捉え方も出来ますがこれはちと荷が重過ぎる。当面やはり
猪名川下流が治水対象になると推理します。とすれば池田市の位置は京都における秦氏の拠点
太秦が対照地なわけです。
妙見山は亀岡市と池田市のほぼ中間に位置する山で京都での愛宕山に相当します。
ここで不思議な一致があります。左右の河川に挟まれた平野部であることと、その西側の河川を
治水することが一致します。吉備の総社市・土佐南国市については二世紀後になりますから
分かりませんが多分考え得ると思われます。
先に妙見信仰について触れましたが帰化人との関係についての私なりの裏付けは目下とれません。
能勢妙見の創設者は11世紀に源満仲の子孫が成したと書かれたものがありましたがどうも
創設者かは信じられません。

古代・平安の池田は、秦氏・坂上氏といった渡来系一族が大きく関わっているとのこと。
社会教育課(пA54-6295)歴史民俗資料館で詳しい市史が刊行されています。

( 観察 )

依頼主さんから貴重な観察情報ありました。駅前に織物のオブジェが聳えているとのこと
秦部の町だったのです。秦氏は秦部を管理する任に当って勢力を広げました。五世紀のこと。

( 資料分析 )

源満仲のこと少し調べました。10世紀後半の人で祖父が経基。源経基は関東で平将門と事を
起して都に戻った人さしたる武勲は成していないが、源満仲は清和源氏・多田源氏などの祖と
なる。つまり始めて武士らしく居を構えた人で多田とは池田の北にある川西市のこと。
ですから能勢妙見の創設者として子孫が建造し直したのだと思います。妙見開祖ではないでしょう。
しかし源氏は北摂を支配していたとは初耳でした。平家が舟や南大阪に向かって逃げた理由が
分かりました。

( 新たな推理 )

足利尊氏と明智光秀が共に亀岡を天下狙う起点にしました。秦氏も亀岡から丹波・丹後に
その勢力の地盤を固めました。豊臣以降はと言えば、桂小五郎が逃げたのが丹後で、大本教
弾圧があった亀岡市位でしょうか。逃げる道が幾つもあること、攻撃の入口は一つであること
それは大事を決する上で大いに作用したと考えます。奈良・京都はその点攻め易い地です。
が逃げ易くもある。天智天皇が近江京に遷都したのは唐を意識しての防御策とありました。

ここでひとまず資料収集待ちということで一旦終らせていただきます。

追記1999.4.20

全国で自治体の池田連絡会というのがあります。地名からの繋がりですが、私が今取り組んで
いる歴史研究で少し分かった事があります。福井・池田町、岐阜・池田町、大阪・池田市
岡山・池田町、徳島・池田市、長野・池田町に関しては継体天皇ー秦氏と関わりがあることが
確かになりつつあります。
[32]さちこさんからのコメント(2003年01月15日 15時32分44秒 ) パスワード
  

継体天皇というと高槻市の今城塚古墳。
宮内庁は太田茶臼山古墳を継体天皇陵としているため、
昨年発掘され話題となりました。
多分こちらが本当の継体天皇陵だろうということです。

http://inoues.net/yamataikoku/ruins/keitai.html

最大級の埴輪が発掘され並んでいる位置も大体復元できたみたいです。
支配者であろう人の装束がズボンに靴。
騎馬民族的な特徴だそうです。



その700メートルほど離れた所にあるのが闘鶏(ツゲ)山古墳。

http://www.keyton-co.jp/gensetu/tugeyama/doc1.htm

近くに神服神社、服部連塚などもあります。
ツゲとハットリが並んでると伊賀との関連が気になりますが。

明知光秀は土岐氏ですが、
この土岐氏は闘鶏(都祁とも書きます)からではないかという話があります。
伊賀の柘植氏も同じではないかと思うのですが。

伊賀氏というのがありますが、
これが土岐氏と関りが深いようです。
伊賀光宗が鎌倉時代岐阜城主をしていたこともあります。
あまり伊賀氏については判らないのですがこの人は北条系?
光宗の娘だったかが北条家の後妻入り、
夫を毒殺したと藤原定家の日記に書いてあったとか記憶してるのですが。
詳しくご存知の方教えてください。
伊賀氏は通し字に光を使ってます。

平宗清は美濃で平治の乱の後頼朝を捕まえてますし、
柘植姓は三重と岐阜に多いとも聞いてます。
[33]さちこさんからのコメント(2003年01月16日 12時59分32秒 ) パスワード
  

今城塚古墳についてこんなことも書いてありました。

古墳を利用して築城した人物に関すること:

 (1) 戦国時代に三好長慶がこの古墳を利用して出城を築いたといわれていたが、
   調査の結果、築城に際し大規模な工事を行える人物であること、
   鉄砲隊を組織していた武将であることなどから、
   織田信長が三好長慶を攻めた永禄11年(1568年)の摂津侵攻に際し、
   信長がここに築城し陣地とした、と考える方が妥当である。

 (2) 継体天皇陵を破壊したのは、織田信長である可能性が大きい。

このバチあたりもの。
でもそのおかげで天皇陵であろう古墳が発掘出来たとも考えられますが。
1568年といえば服部友貞が(明子さんや私の先祖になる人)
信長のターケに暗殺される前の年ですね。
友貞、信長のこういうところが嫌いだったのかも?
[34]たまねこさんからのコメント(2003年01月16日 20時14分32秒 ) パスワード
  

>光宗の娘だったかが北条家の後妻入り、
夫を毒殺したと藤原定家の日記に書いてあったとか記憶してるのですが。

伊賀光宗(いが みつむね) 1178〜1257

政所執事。妹が北条義時の後妻となったことから重用されたが、伊賀氏の変により流罪となったらしいですね。北条政村の母は伊賀朝光の娘です。
[35]さちこさんからのコメント(2003年01月17日 13時00分41秒 ) パスワード
  

たまねこさんありがとうございました。

少し気になってきて、
調べてみたらこんなのがでてきました。

http://www.uzumap.com/column/omori_07.htm

.醜い相続争いを鎮めた温和な泰時
   (父親義時、後妻に毒殺される)

 17歳の時、父時政と共に頼朝挙兵に参加して以来、45年、北条氏による執権体制をつくりあげ、幕府設立事業を大成させた後、承久の大乱をみごと勝ちぬいた義時が、元仁元年(1224)6月11日、62歳で急死する。だが、大政治家義時の急死は多くの波紋を呼び起こした。『吾妻鏡』では病死とされているが、奇々怪々な異説がいくつか伝えられている。そのひとつを紹介しよう。

 承久の乱後、行方をくらました二位法印等長は、1年後、逮捕されて六波羅探題に連行された。
その際、「義時が妻の伊賀氏に飲まされた毒薬で早く俺を殺せ」と叫び、武士たちを驚かせたという。

 これは、藤原定家が日記『明月記』に書きとどめた話だが、これによると、義時は後妻に毒殺されたことになる。

 確かに、義時急死直後、北条家では後継者間題が持ち上がる。京都にいた六波羅探題長官泰時は相続権者第一候補として鎌倉に戻ると、義時の後妻伊賀氏(泰時の継母)を中心とする陰謀が待ち受けていた。


伊賀氏と服部家との関係はよく判りませんが。
後鳥羽上皇の寵姫も伊賀局といいました。
ややこしいな。


秦さんそういえば愛知県に豊川市もあります。
豊川稲荷で有名です。



[36]秦義則さんからのコメント(2003年01月18日 14時08分05秒 ) パスワード
  

秦氏と「豊」という文字とは深い繋がりがあるようで、
大陸から渡来してきた人々が九州は豊の国(大分)周辺に多く住んだ事から始まり、
古くから「豊」という地名がついている地域は秦氏と関係が深いと思われます。

豊の国の神々と言うHPです
http://www.kamnavi.net/toyo/

朝鮮半島を渡って九州、出雲、丹波、摂津、ヤマト、伊勢から尾張、関東から東北へと、
まさにシルクロード(絹の道)の終着点であることを実感しました
[37]さちこさんからのコメント(2003年01月20日 12時37分13秒 ) パスワード
  

面白いものをみつけました。

鬼の作った国日本。
長いので抜粋しようかと思いましたが何処を選んでいいか判らなくて。
服部家はやはり鬼だなと実感(笑)
服部家、秦氏に関心のある方には、
少し長いけれど是非読んで頂きたいです。
鬼が日本の歴史を支えてきたのかも。
天皇家は鬼の親玉だそうです。
そう考えると権力者が変わっても日本人が天皇制をまもってきた理由が判ります。

http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buakf907/books084.htm

21世紀は鬼の本拠地がラスベガスになるのですね。
[38]服部 明子さんからのコメント(2003年01月20日 13時45分09秒 ) パスワード
  

そうなの?
[39]秦義則さんからのコメント(2003年01月20日 22時04分05秒 ) パスワード
  

やはり、都合のいいときは権力者に利用され、
平和な時代に鬼とされた人々が居たのでしょう。
それも相当な技術を持っていたがゆえに鬼とされてしまったのではないでしょうか。

鬼を探していて「ももたろう伝説の悲話」というHPを見つけました。
http://ww1.tiki.ne.jp/~my_friend/higeki.htm

またやはり「サンカ衆」との関わりも否定できなくなってきました。
サンカ衆を題材にしたHP「闇の歴史から光へと」です。
http://www.kumanolife.com/History/index.html

日本の真の歴史が何であったのか?
歴史の教科書では分からない裏の歴史があるように思います。
[40]さちこさんからのコメント(2003年01月21日 13時01分39秒 ) パスワード
  

明子さん
スミス家プラス服部家。これぞ鬼に金棒!

秦さん興味深いHP紹介していただきありがとうございました。
隅さんが岡山の服部家の血筋なのも、
きっと何かご先祖様からのメッセージだったのでしょうね。
[41]服部 明子さんからのコメント(2003年01月22日 11時19分50秒 ) パスワード
  

>隅さんが岡山の服部家の血筋なのも、

隈さんの入力ミス?
ふふふ
[42]さちこさんからのコメント(2003年01月22日 12時49分32秒 ) パスワード
  

>隈さんの入力ミス?

そうです。
隈さん失礼しました。
[43]秦義則さんからのコメント(2003年02月11日 14時57分55秒 ) パスワード
  

大阪府八尾市の大聖勝軍寺の由来に、
聖徳太子が、渋川の阿刀の館にいた物部守屋を滅ぼすにあたり、信貴山
の毘沙門天に祈願して四天王をまつり、その加護により守屋を討って戦勝
を得ることが出来たので、ここに一寺を建てて勝軍寺と称したとあります。
そして太子の四大臣をその四天王になぞらえています。
そのおのおのの頭髪の中に、白膠木をもって作った四天王像をおいて戦ったことによるものと伝え、
持国天(小野妹子)、多聞天(秦河勝)、広目天(迹見赤檮=トミノイチイ)、増長天(蘇我馬子)の四体が境内に鎮座しています。
迹見赤檮=とみのいちい
物部氏の祖先と言われるのは「ニギハヤヒ」という神話上の人物です。
このニギハヤヒは、日向に降臨した天孫である二ニギノミコトを追って、神武天皇に先立って大和入り(大和に降臨)していました。
それまで大和の国は「ナガスネヒコ」という人物(馬族)が率いる土着民族(まつろわぬ人々)が暮らしていたのですが、ナガスネヒコの子孫が迹見赤檮=トミノイチイといわれています。
小野妹子は渡来人、小野氏一族。秦河勝も言うまでもなく新羅系渡来人。
蘇我馬子は百済系渡来人と言われています。
聖徳太子自身渡来系ではなかったかとも言われ、一度に10人の言葉を聞くことができたと言うのは、当時の10ヶ国語を話せたという説もあるほどです。
太子一族は不遇な末路をたどり、小野氏も秦氏も蘇我氏もあたかも歴史上から消え去ってゆくように見えます。
しかし、まつろわぬ人々の記憶の中にしっかりと残っていたようです。
秦氏と同じ神を持つ山の民「サンカ」
太子信仰を奉じ、近世には 箕作り・塩木流し・筏流しなどを業とし、
農地を持たず、河川や海のほとりの舟着き場や湊などに住み着いた川の民で、
農民たちから卑賤視され差別をこうむった「タイシ」と呼ばれる人たちがいたのです。

[44]そりちゃんさんからのコメント(2003年02月11日 16時18分52秒 ) パスワード
  

秦さん、ご無沙汰しております。
物部氏もどうやら「物部氏」という一族ではなくて、
秦氏のように「物部」=物具(兵器)を作る民のことだったようです。
そして、そのモノノベ衆の代表が「物部連」であったようです。

秦氏が物部衆の鍛冶仕事によって得る利益(金や銀の採掘)を
妬み、滅ぼした。
そして、交易の利益を牛耳るために、財政を担当していた
蘇我氏をのちの藤原氏と協力して闇に葬った。

奥州の安部氏・清原氏・藤原氏の影に金を売る「金売り吉次」の
存在がありますが、吉次は何人もいて、金のバイヤーだったそうです。
そして、彼等は物部氏であったと。

安倍宗任が九州に配流されたときに着いて行った吉次の一族が
います。

ですが、平泉炎上後、鎌倉幕府には物部氏は協力しなかった。
彼等は山奥や流浪の身となったといいます。
山岳信仰は古くは鍛冶神と一体でした。

「サンカ」には数流あるのかも。
[45]さちこさんからのコメント(2003年02月11日 21時04分29秒 ) パスワード
  

滋賀県の東側では山に住んでる人の事を、
ハトさんと言います。

秦氏の多い所だったのでハタさんのだったのではないかということです。
[46]そりちゃんさんからのコメント(2003年02月12日 17時24分57秒 ) パスワード
  

こんなニュースがありました!

秦氏テーマに街づくり 京都市西部史跡ツアー、学会も
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030212-00000016-kyt-kin

とうとう秦氏の復活か!?

[47]秦義則さんからのコメント(2003年02月12日 22時35分28秒 ) パスワード
  

なんか、えらい事になってますね〜
僕のせいじゃ、もちろんないですからね。

実際の所、秦氏はいいことばかりしてきたわけではないでしょうからね。


>秦氏が物部衆の鍛冶仕事によって得る利益(金や銀の採掘)を
>妬み、滅ぼした。
>そして、交易の利益を牛耳るために、財政を担当していた
>蘇我氏をのちの藤原氏と協力して闇に葬った。
なんて事実がわかったら、町おこしにならないかも?

まあ、日本人なんて、ほとんど渡来人でしょうからね。

縄文人が進化して弥生人になったわけでもなく、
南方系モンゴロイドの縄文人たちが縄張りとしていた日本列島に
大陸から北方系モンゴロイドが渡来してきたわけですから。

その第一陣の百済系のニギハヤヒたちは南方系モンゴロイドとの融和政策をとっていた。丹波からヤマトの日下(日のもとの草香=日本と言われるようになった?)に本拠地を置いていた。
秦氏一族は新羅の辛国から宇佐の地や出雲に進出、そこでも縄文人との混血が行われていた。
高句麗系のナガスネヒコも、
しかし、神武をはじめとする新しくやってきた百済の王族は武力で縄文人たちを征伐していったと考えられないでしょうか?

中国では諸葛孔明が唱えた「国家三分の計」により、魏、呉、蜀が
朝鮮半島では高句麗、百済、新羅が。

日本でも高句麗、百済、新羅系の渡来人たちがバランスよく縄文人たちのリーダーとして国家を形成しようとしていた所へ、純粋な百済人が天下を取るのだと唱え始めたのではないでしょうか?
ナチスドイツのユダヤ人の迫害のように。(何故か秦氏と言えばユダヤが付いて回ります)

そして、一旦政権を握ると独立国家として、よそ者を排他し
過去の歴史を改ざんし、
朝鮮半島の王族が本家であるにもかかわらず、
自分達は神の子であるとして、この地に降臨したような神話を作り上げてきたのでしょう。
そのような時代に翻弄されながらも地下に潜った人々がいたのでしょう。
秦氏も物部氏もサンカもタイシもその流れを汲むのかもしれません。


[48]さちこさんからのコメント(2003年02月13日 22時53分17秒 ) パスワード
  

そりちゃんさん。

いち早く情報ありがとうございます。
秦氏が注目をあびるのも、
もしかしたら、
此処の秦熱が少なからず影響していたのではないかと思う今日この頃です。

そりちゃんさんのスレッドへ、
平家と秦氏のの関係なんてお尋ねして、
一年半になりました。

あれから色んな事がわかりました。
平熱にめぐり合えてよかったなと思ってます。

秦氏復活は嬉しいけれど、
確かに今の国際情勢など考えると不気味ですね(笑)


秦さん。
百済でしょ?
私も百済はな〜。
何というか好きになれないというかそんなのがあります。

藤原家=百済系。
とは言い切れませんが、
それに近いものを感じます。
何しろ平安時代は秦氏は表向きには姿を消したのですから。

新羅に滅ぼされた百済。
新羅系の秦氏を百済系藤原氏が排斥したかも。

前もいったかもしれませんが、
白村江の戦いの後多くの百済人が難民として日本に来たのに、
彼らは日本人になって、
それ以前から日本にいた秦氏がいつまでも帰化人なのか、
これが疑問なのです。

とにかく秦氏が注目される時代は大歓迎です!
秦河勝も泣いて喜んでます。

鬼の目にも涙てか?
[49]そりちゃんさんからのコメント(2003年02月14日 12時45分28秒 ) パスワード
  

さちこさんへ

>あれから色んな事がわかりました。
>平熱にめぐり合えてよかったなと思ってます。

私もですよ。平熱のお陰で本当にこの年になって
真剣に歴史の勉強に取り組んでいますもの。

教科書には載っていなかったことや、近年の研究や発掘に
よって新にわかったことも多いですし、
日本人として「国の成り立ち」を知ることは
大切ですよね。

藤原氏は確実に渡来系で百済人であったと思います。
天智天皇はかなりの「百済贔屓」であったし、
壬申の乱後、日本各地に四散し潜伏した百済の貴族達の
伝説が残っています。天武は「新羅派」で、
天智とは母は同じで父が違うとか、新羅系の武人だったとか
(当時の人にしては珍しい槍を武器としていることから)
いう話もあります。
そういう経過や祖国・百済が滅びた経緯を目の当たりにして、
鎌足は「血を残すこと」を第一に考えた。
そして、自らを他の木に巻きついて繁殖する「藤」に例えて
「藤原」という姓を考えて、箔付けのために天皇から
賜ったという形にした。
そして、裏から朝廷を操り、外の家が力を付けてくると
謀略を巡らして潰し、結果、一族は繁栄した。

一方、そんな状況を見ていた秦氏は政治の権力をもつことは
あきらめ、財政を担うことで交易権や全国を股に掛ける
情報力、そして身分を落とされたことにより、山の人々とも
接触し、日本の鉱山権を握れたのでは?
な〜んて、考えています。

実際は秦氏のほうが藤原氏より「底力があった」から
藤原氏も「身分を落とさせた」のではないでしょうか。
秦氏の陰の力を充分に理解していて、畏怖していたと。

秦氏も「経済力」を選択する当り、やはり商人気質で
ユダヤの血が出てしまったのですかね(^^)。

[50]秦義則さんからのコメント(2003年02月15日 21時26分46秒 ) パスワード
  

鎌足って嫌な奴ですね〜

本当に僕には秦氏の血が流れているんだろうかと思うほど、
商売が下手です。ユダヤっぽい顔もしてないし!

修行が足りないのか、ご先祖さんも力を貸してくれないようです。
また、パニック障害という病気も持っていて、生きて行くのも辛くなる時があります。
祟りかな〜と思います。
若い頃は不思議な体験もよくしたんですけどね!

会社のHPリニューアルしたので感想聞かせてくださいね!
[51]秦義則さんからのコメント(2003年02月24日 21時08分50秒 ) パスワード
  

そりちゃんさん
今日はHPに立ち寄っていただきありがとうございました。
今後もよろしくお願いします。

そうそう、うちに来てくれている看護婦さんの旧姓が「伊福」さん
というのですが、昔から平家の落人と言われているそうです。
宮崎県出身だそうです。
伊福氏についてご存知の方いらっしゃいますか?
[52]さちこさんからのコメント(2003年02月25日 12時48分51秒 ) パスワード
  

秦さん。
HP拝見しました。
色々な病気があるのですね。
現代人は誰でも何かしらの心の病を持っているのかも知れませんね。
明るくて凄く元気な人を見ると、
逆に何か悩みでもあるのかしらと近頃思います。(笑)

伊福さんについてです。

日本武尊が伊吹で討ち果たした「伊福」氏がいたことでも知られている。これを闇の日本史に載せたところ全国の「伊福氏」から多くのメールを頂いたのには驚いた。
伊福氏は伊吹(いぶき)から来ているとわれ、製鉄に関係する一族であった事が知られている。(メールを頂いた何人かの伊福さんは現在でも鉄に関係する職にあるのには、さらにびっくりした)

http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/sei_0wp.htm

http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/tai_2_03.htm

闇の日本史より、
服部家関連もあって前にも紹介したかもしれません。

伊福氏、
地名ではやはり岡山がひっかかってきます。
弥富の近く七宝町にも伊福があります。
九州に伊福神社があったように思います。

旅の手帖、
3月号は出雲、飛鳥、岡山の特集です。
古代史???の私でもよく判るように記事がのってます。
よかったら立ち読みでもしてください。




[53]秦義則さんからのコメント(2003年02月27日 22時22分45秒 ) パスワード
  

さちこさん、ありがとうございます。
パニック障害の患者さんはすごく多いんですよ。
100人いたら2人くらいはパニックですね。
症状や発作の頻度や患ってからの期間もまちまち、
パニック障害って病名も最近付けられたもので、
以前なら自立神経症の中に入れられていました。

伊福氏についてありがとうございました。
平家とも関わりあるのでしょうか?
鉄生産に関わりがあるというなら、秦氏とも繋がるのでしょうか?
[54]さちこさんからのコメント(2003年03月01日 13時03分37秒 ) パスワード
  

何年か前、母の友人が体の不調で病院で診てもらったのですが、
自律神経失調症ということでよく治療をして貰えなかったと言ってました。
でも本人は明らかに変なので不満だったそうです。
パニック障害なのかは判りませんが、
精神的なものからくる病気だったのかもしれないです。

なのに自律神経で簡単にすまされてしまい、
一段と症状が悪化したそうです。

今は少しずつでも精神的な病気が解明できるようになったのですね。
秦さんご自身も大変だと思いますが、
それだからこそ患者さんの気持ちが理解できますよね。
一人でも多くの方を助けてあげることが出来ればいいですね。
頑張ってください。

伊福氏ですが平家との関りは私には今のところわかりません。
伊福氏は尾張氏、海部氏と同系で出雲系になるそうです。

天武天皇の乳母が尾張の海部氏だそうです。
壬申の乱のときは伊賀の阿拝国(伊賀の服部家の前身か?)は天武天皇側でしたが、
尾張氏、海部氏も当然天武です。
つづきはまた。
[55]秦義則さんからのコメント(2003年03月02日 16時31分51秒 ) パスワード
  

さちこさん、ありがとうございます。
パニック障害については、最近になって分かってきた事なのですが、
脳の器質異常といわれ始めています。
脳内のシナプスとシナプスの間にあって恐怖や危険を伝達する物質である
アドレナリンとセロトニンの量が人より多いらしいのです。
それだけでは発症しないのでしょうけれど、育ちや経験、環境やストレスなどが絡まって発症するのだと思います。
ただ、僕の家系は従兄弟同士の結婚などが多く、その中には同じような症状の者がいます。
症状としては、
普通の生活の中で突然、脳内に危険信号が灯り、
この場から逃げなければならない、というような状態になるのです。
呼吸は速くなり、動悸がし、いてもたってもいられない状態です。
自分が自分でないような感覚で、昔で言うと神がかり的な状態なのでしょうか?

昔、戦乱の世を渡ってきた先祖の血が濃く残っているのでしょうか?

[56]さちこさんからのコメント(2003年03月04日 13時04分52秒 ) パスワード
  

医学とは関係ないかもしれませんが、
色々な恐怖症があってそれは前世の死んだ時の記憶だとか。

例えば高所恐怖症は高いところから落ちて死んだ。
とがった物が恐い人は刃物でさされて死んだ。
働くのが嫌いな人は過労死だったとか(笑)

私は閉所恐怖症ぎみです。
獄中死だったのかしら?

三歳までの子は前世の記憶があるとか本当でしょうか。

尾張?海部?
明子さん引っかかるでしょ?
服部家ホンヤさんが海部郡にあるのです。
伊賀とこの海部郡あたりは昔から繋がっていたのかも。

服部伊賀守宗純が後醍醐天皇の宗良親王の孫と海部郡に移り住んだそうです。
ホンヤさんが祭りをおこなってる津島神社に珍しい神楽があるのでご紹介。

http://tsushima.hp.infoseek.co.jp/jinjya/04.01.html

スサノオノ命が詠んだ日本最初の和歌で舞うというのがいいですね。
[57]秦義則さんからのコメント(2003年03月23日 22時18分55秒 ) パスワード
  

僕が生まれた池田市の歴史については以前にも触れたことはあるのですけど、
調べるうちにずい分古くから歴史的にも重要な所である事が分かってきましたし、
大陸からヤマトに通じるシルクロードにも関係しているのですから!
この4月から、僕の会社がグンゼさんとも取引する事になったのですが、すごく縁を感じます。
丹波や丹後は古代より養蚕の中心地の一つでもあり、明治になっても富国強兵と殖産興業というのが唱えられ、京都府何鹿郡(現京都府綾部市)の方針(是)は養蚕を中心に産業を興すことだったのです。これが社名の郡是「グンゼ」の由来です。創業者は波多野鶴吉(秦氏の末裔だとおもわれます)です。
波多野氏は応仁の乱で細川勝元方に属し、各地を転戦し、勝元の死後、政元から丹波多紀郡を与えられました。丹波八上城の城主でした。ここで池田の細川との繋がりが出てきます。
池田市の名前の由来は当然、池田氏から来ています。家紋は木瓜紋、ぼくの家と同じですが、三木瓜です。尾張池田氏と摂津池田氏は同じ出所のようです。尾張池田氏が揚羽蝶の紋ですが、摂津池田氏はなぜか木瓜紋です。
池田氏の三つ木瓜についての記述です。
「1391年(明徳2)に山名氏清の乱が起り、時の城主池田佐正は室町幕府の命で出陣し、これを鎮圧します。その功で時の幕府より、「三ッ木瓜紋」と「采地」を得ると記録にあります。「木瓜紋」は、公家徳大寺家が始め車や衣服の文様に使っていたものを家紋にしたものです。個人的には、池田氏の系図中で、紀氏も関係していることから「三ッ木瓜紋」を賜ったのではないかと考えています。「木瓜紋」は数ある家紋の中でも「桐」や「橘」等と同じく古く、由緒のある部類とされています。同じ家紋を使うところでは朝倉氏も同じ三ッ木瓜紋を使用しています。また、織田氏も朝倉氏と姻戚関係にあった頃、「木瓜紋」を朝倉家より使用を許されたといわれています。余談ですが、織田信長はその六代後にあたり、なんの因果か朝倉家を滅ぼすことになります。
 家紋は、ひとつの家で複数持つ事が多かったので摂津池田家の場合も同様のようでした。佐正のように武功を立てたり、縁組みをすることで拝領するといったことが多かったからです。池田氏の場合、八坂社や牛頭天王、キリスト信仰により「十字架」を使用したり、尾張池田家の関係で「蝶紋」を用いたりと様々だったようです。」
とあるように、ここでもキリスト教との関連や八坂社や牛頭天王という記述からすぐに秦氏関連と想像できます。
摂津池田氏についてのHPです。
http://www.ikedaya.com/wagamachi.html
池田は古くから呉羽の里と呼ばれ、京都から西に下る重要な地点で、西国街道が池田市の南部を京都から神戸に向かって延びています。平家が落ちてゆくのも、源氏が追って行くのもこの地を通過しました。池田の西には猪名川が流れ、昔、呉服部と綾服部の二人の姫が大陸からわたってきたと伝えられている地点です。その川に橋がかかっていますが、これを巡礼橋(現在の呉羽橋)といいます。
巡礼橋の袂に昔、呉羽座という芝居小屋が合ったのですが、これも何かの縁か、現在、愛知県は犬山の明治村に移転されています。
そのHPです
http://www.asahi-net.or.jp/~PU7T-KMR/aki945.htm

池田は芝居や画などの芸術も進んでいたようで、丸山応挙の弟子、松村月溪(呉春)もこの地にいたようです。
呉春という名ももちろん呉羽の里にちなんだものです。
呉春のHPです。
http://www.city.ikeda.osaka.jp/sisetu/rekisi/kaiga/pbaintx.htm
このHPにでてくる馬場仲文(馬寅)は呉羽神社の宮司で、現在も馬場氏が宮司をつとめ、現在の宮司の息子さんとは中学時代の友人です。
僕が池田に生まれたのも凄い縁だと思います。
[58]秦義則さんからのコメント(2003年04月01日 23時27分49秒 ) パスワード
  

「天の川」という名の川が生駒山系に端を発し星の町、交野市を通り枚方市内を流れ淀川に注いでいるのです。以前枚方市に行く機会があり、天の川という名前の川を発見したのですが、
その名前の由来を調べてみると、
あるHPに次のように書かれていました。

「古代、枚方の中宮の地に、朝鮮の亡命政権である百済王一族が、天皇より領地を与えられました。
平城京(東大寺)と平安京の真ん中の重要地で、禁野(皇族以外の狩猟を禁じた野原)狩猟区でした。
後に、百済王一族の母方の子孫である桓武天皇も、一度、都を移し片鉾に宮を建てる計画するも断念。
枚方の藤阪には漢字を伝えた王仁(わに)博士、楠葉には、右大臣藤原継縄由来の地名もあります。
日本初の別荘といわれる渚の院も惟喬親王(文徳天皇の皇子)により、御殿山の渚元町に建造され、
中国や朝鮮から、大陸文化が伝わり始めた頃の枚方は、朝廷にとって重要視されていた場所でした。

この地に、渡来人のもつ豊かな文化と風習も伝わり大陸から伝来した七夕伝説が広まっていったのです。

夜空に、北極星、天の川、それと織女(こと座のヴェガ)と牽牛(わし座のアルタイル)があるように、
百済王一族が建立した百済王神社(大阪で2つだけの特別史跡の一つ、もう一つは大阪城)を
北極星として、上流の交野市には織姫を祀る機物神社(はたものじんじゃ)、天の川をはさんだ対岸に中山観音廃寺跡
(彦星に因んだ牽牛石があります)を設け、夜空の天体そのものを、枚方・交野の地に作りました。
そして、それぞれの寺社のちょうど中央地点の天の川に逢合橋(別名かささぎ)という名の橋が作られ、
この橋で年に一度七夕の夜に彦星と織姫が愛し合うというロマンチックな話が七夕伝説の始まりなのです。

平安時代初期の藤原時代には、たくさんの歌人が渚の院で歌を詠んでいます。当時、藤原一族以外は
優れていても出世は望めず、文徳天皇の第一皇子の惟喬親王を慕って和歌や狩りをしに沢山の人が
この地に訪れました。渚の院には、千本の桜の木が植えられ、宴会・歌会が盛んに行われたようです。
そのなかでも、在原業平の作品が有名で古今和歌集には、                             
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
世の中に、もしも桜の木が無かったら、雨・風が来ても花が散ることを心配しなくていいので
春の喧騒の中でも、人はのんびりと過ごせるのに・・・

伊勢物語では、「狩り暮らし棚機津女に宿からむ、天の河原に我は来にけり」
と呼んでおり、平安時代には、この枚方の地で七夕伝説が定着していたことを教えてくれます。

その百済王神社横を流れる天の川付近には、天津橋(天の港)かささぎ橋(七夕伝説では、
七夕の夜、鵲(かささぎ)が翼を連ねて橋を架けたとされる)や星と名のつく地名がたくさんあります。
私達の住む枚方市が「七夕伝説の発祥の地」であると世間・後世に伝えていきたいということで・・・・」

このように、確かに交野市や枚方市は星に関係が深い町だと分かりますし、渡来人の拠点の一つでもあったのでしょう。

[59]さちこさんからのコメント(2003年04月02日 01時05分38秒 ) パスワード
  

秦さんありがとうございます。

尾張津島の天王祭りも原点は星の宮なのです。
池田市の星の宮とはどう繋がりがあるのか?

今の津島祭りは信長の乗っ取り祭と単純なものでなく、
今の津島祭りの原点は市江車。
これを今も服部家が行ってます。
規模に関してはショボイものの京都の祇園祭りと同系です。

その市江車の前に、
星の宮に参拝するならわしがあった。

尾張津島の天王まつり。
祭りには色々な順序があって。
地味だけど星の宮に神楽を奉納するのが一番なのです。

星の宮といえばやはり池田市ですね。

星の宮
池田と関わりの深い伝説の織姫たち、
穴織姫と呉織姫が織殿で、機を織っていたら、夜空から七つの星が降ってきてその手元を照らしたという言いつたえがある旧跡です。

ここも一昨年行きました。
荒れ果てたとこだなというのが正直な感想です。

この時の少し前、
池田市の小学校での事件がありました。

大阪の箕面市に用事があり急にいきました。
私としてはそんな事件は勝手ながら気にとめずに、
地元の方に○○学校はどこ?
なんて聞きまくりました。

とにかくお話しを聞くと、
「学校の前の少しいった所になんとがあって」
よく調べてなかったので??でした。

池田警察もいきました。
これがあのTVで有名な。。思わず記念写真を!
でも、不謹慎なのでやめました。

こういった時でも、
池田市民も不安な時、
アヤハトリとクレハトリの神社探してるというと、
見知らぬ私に親切にしてくれました。
今になってみると本当に感謝してます。

でも池田市のHP等をみると少し復活してるのでは?
また詳しく教えてください。

余談ですが。
伊賀の上忍と名乗り伊賀の研究をなさってる方に、
池田さんという方がいらっしゃいます。
はっきり覚えてないのですが、
子どもの頃から忍者や伊賀が好きで大阪から伊賀に移り住んだそうです。

伊賀に関しては、
フィクションと事実が入り混じり事実が判らないのが現実でしょう。
そんな中、
地道に伊賀の研究をされてる方だと文面等にも好感を感じます。

池田と服部のご縁こんな所にも感じます。
 

 



[60]秦義則さんからのコメント(2003年04月03日 21時33分51秒 ) パスワード
  

さちこさん、こんばんは!
池田市へこられた事があるんですね、
もし次回こられる時はご連絡くださいね。
市内観光しましょうね。

池田市の市章はね、糸巻きを図案化されたもので、機織の発祥の地という意味がこめられています。
中国の蘇州(池田の姉妹都市)からクレハトリとアヤハトリが秦氏とともにやって来て、猪名川の唐船ケ渕にたどり着きました、星の宮で星の光を浴びながら機を織っていました。「灯火もつけず夜遅く機を織っていたところ、7つの星が降りてきて明るくした。」という伝説がのこっています。
織った布を満寿美町にある染殿井(そめどのい)で染めて、猪名川の絹延で川にさらして、絹掛けの松にかけて干しました。昔は五本あったのですが、今では1本だけ残っています。
クレハトリとアヤハトリは139歳で池田で亡くなった事になっています。
それぞれの古墳の後に、呉羽神社と伊居多神社が建っています。
星の宮では北斗七星を信仰する妙見信仰との関わりも考えられます。

池田市では毎年8月24日に「がんがら火祭り」が行われます。
このお祭りは、「家内安全」と「火難厄除け」を願って、
徳川家光の時代(1644年)ごろから続いてるそうです。
同じ日に建石町では、「星の宮」でご神火をもらい、
その火で五月山で「大文字」に点火されます。
子供達は、点火後の火を星の宮に収める為松明を手に鐘をならしながら下山します。
城山町では、大一文字を点火します。
京都の大文字より古くから続いています。
ローカルで地味なお祭りです。
[61]さちこさんからのコメント(2003年04月16日 21時42分44秒 ) パスワード
  

秦さん少しご沙汰でしたが貴重なお話しありがとうございます。
今度池田市に行く時はよろしくお願いします。
「星の宮」
こんなところに服部家の原点がと感じましたが。。

でも太秦にしても伊賀にしても、池田市も。
服部家関連の場所は何か寂れている、正直なところそんな想いです。(涙)

今年秋のNHK朝の連続ドラマ、
大阪、池田市が舞台なのですね!
今朝の新聞で知りました。

万歳〜。
何か少しずつ一族復活の気配が?


池田市といえば、私にとっては、
クレハトリ、アヤハトリ。
実際に住んでいらっしゃる方にはどうなのでしょう?
あまりご存知ないことなのでしょうか?

呉服神社(クレハ神社)などが、TVにでればいいなと思いますが。

まあ、ロケ地などはもう事前に決まっているかもしれませんが。
秦さん服部家宣伝のため、よろしくお願いします。
[62]つげとしさんからのコメント(2003年04月16日 23時39分31秒 ) パスワード
  

4月13日の日曜日に愛知県犬山市にある「明治村」に行って来ました。
呉服座が池田市から移築されています。
明治になってから、「呉服座」と命名したのですから
やはり、地元ではクレハにたいして思いがあるのでしょうね。

しっかりと「くれは」とふりがながふってありました。
普通に読むと、呉服屋さんの「ごふく」と読みますものね。

池田市の渋谷中学校の生徒さんが、呉服神社や呉服座を
調べたページがありました。雰囲気もふくめて大変よくわかりました。

http://www.school.ikeda.osaka.jp/shibutani-jhs/kaidou/ringo/rinngoame.htm

http://www.school.ikeda.osaka.jp/shibutani-jhs/kaidou/ringo/kurehaza.htm

[63]秦義則さんからのコメント(2003年04月17日 21時31分56秒 ) パスワード
  

さちこさん、つげとしさんこんばんは!
池田に古くから住んでいる人はクレハトリ、アヤハトリの伝説は知っている人が多いと思います。
夏祭りに時期には栄町商店街に、
渡来人とともに二人のお姫様がやってきたという伝説を元に、復元した船に鏡などを持ったお姫様を乗せて飾ります。

僕は子供の頃より、先祖は渡来人だと教えられて来ました。
当時は気化人と呼んでいましたが。
まあ、弥生人そのものが渡来人だと思いますが。
皆さん、ぜひ一度池田でお会いいたしましょう!
服部家の原点です!

秦氏の足跡は全国にたくさんありますね。
一度秦氏マップを作ってみたいものです。
九州の秦王国、宇佐、出雲、吉備、赤穂、小野、三田、丹波、丹後、京都、滋賀、奈良、摂津、敦賀、能登、伊勢、伊賀、美濃、から東北に至るまでたくさんあります。ね。
[64]さちこさんからのコメント(2003年04月18日 00時03分10秒 ) パスワード
  

>太秦にしても伊賀にしても、池田市も。
服部家関連の場所は何か寂れている、正直なところそんな想いです。(涙)

と書きましたが、太秦、伊賀、池田市が寂れてるということではなく、
あくまでもそこにある、服部家関連がの場所が寂れてるといううことです。
誤解があってはいけないので。

何しろ帰化人なので今だに日本語が苦手で(笑)

池田市ではけっこう知名度あるのですね。
NHK連ドラ、これなら一度ぐらいは主人公が呉服神社にという設定ありそう。
楽しみです。

柘植熱の話題ですが、
NKKの柘植恵水アナ必ず柘植につげと字幕に必ずかながふってあります。
当たり前みたいに柘植をツゲと読んでましたが。
普通は読めないのかしら?読めないですね(笑)

やはり柘を植えたという事に意味があるのでしょうか?


少し面白いので読んでください。
鎌倉幕府を滅ぼした山伏たちの情報網 (情報伝達)

http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/yamabushi.html

この時代まで続いていた秦氏一族のネットワークを感じます。
やはり横の繋がりが大切ですよね。




[65]秦義則さんからのコメント(2003年04月19日 21時28分22秒 ) パスワード
  

さちこさん、皆さんありがとうございます!
NHKの連ドラの事知らなかったです!
どんなストーリなんでしょうね?
楽しみです。
僕は市立池田中学に通っていました。その横に秦氏の古墳、茶臼山古墳がりました。
初恋の人とはじめてのデートの場所だったのですが、
胸がドキドキしたことだけ覚えてますが、
ご先祖様の墓の上だったんですね!
呉羽神社は僕の同級生の家(神社)
中学の時、伊居多(綾羽)神社の狛犬を描いて校内に貼り出されました。
生まれたのは木部(紀部)。前が猪名川。
絹延橋を渡って銭湯(絹延湯)に。
小学校は細河小。(細川家と関係あり)
中学に通うのに綾羽町を通って、「呉春」の酒蔵の前を通って行きました。
今考えると、歴史の宝庫だったのですね〜

そうそう、山伏の装束って、ユダヤ教徒に似てるってほんと?
[66]さんからのコメント(2003年04月25日 15時40分31秒 ) パスワード
  

どうも秦熱の皆さま、お久しぶりです。(^^)/

この一年なかなかカキコ出来ませんでしたが、
秦氏の事はやっぱり気になっていて、時々関連書物には目を通していました。
といっても、他のスレッドで書いたように少々遠回りしてはいますが・・・

秦氏の直接の?ルーツといえば新羅ですが、最近こんな本を見つけましたので、
ご紹介致します。

「ローマ文化王国−新羅」 由水常雄 新潮社

新羅の文化は百済や高句麗とは違う、西方系であるという話は以前「秦熱」でもありましたが、
古代の一時期、本当に彼らがローマ文化の影響を直接受けていた事を示す遺物が
現地のの古墳から大量に発見されているそうです。

この本に掲載された遺物の写真を見てホントにびっくりしました。
金ピカで、まるっきりスキタイ系。
王冠なんて、バクトリアで見つかった大月氏王族のお墓から出てきたのとそっくり。

しかも、6世紀になるまでほとんど中国との交流もなかったそうで、
ローマの暦を使用し、王朝の交替は各地方(小国)の代表が話し合って決めていたそうです。
ローマングラスを作らせるため、シリアから直接ガラス職人を呼んでいたらしいとか。
じゃあ、ユダヤ人が新羅に来ていたとしても不思議じゃないってことなのね。。。

おまけに、ソグド人が遺した壁画に、新羅人使節の絵が書かれている・・・
一体どこから来たんだ新羅人。ますます怪しい(笑)。


秦さんへ

> 山伏の装束って、ユダヤ教徒に似てるってほんと?

というのは、これのことでしょうか?

http://www.israelembassy-tokyo.com/mag/series/judaica/950601_01.html

ユダヤ教徒が頭に付けるこれ。正しくは、「テフィリン」ですね。
昔は白装束でこれを付けていたので、山伏そっくりだったって。
[67]秦義則さんからのコメント(2003年04月25日 21時10分19秒 ) パスワード
  

隈さん!久しぶりです〜
「テフィリン」のことありがとうございました!
似てますね〜

山伏と秦氏と関連があるように思いますし、
秦氏の特異性がやはり新羅から来たものだとすると、
秦氏の血は遠く西域からローマまで繋がっていたのでしょうか?

いったい秦氏って何者なんでしょうか?
[68]そりちゃんさんからのコメント(2003年04月26日 10時26分49秒 ) パスワード
  

隈さん、秦さん、こんにちは!
山伏とユダヤ教の接点、非常に驚きです。
と同時に、やはりという思いもあります。

最近各地の伝説・伝承を収集することに時間を費やして
いるのですが、日本の黄金伝説に金売り吉次のほかに
山伏が出てくるのです。
彼らは良質の金・銀・銅などの出る山々を「神の山」として
崇め、だいぶ早いうちから霊山として一般の人が立ち入ることを
禁じていました。
山伏がどうして「山」を重要視するのか、
よく大陸の宗教からの流だと言われていますが、
私はどうしても「シナイ山」のモーゼが神ヤハウェから
十戒を授かったことを想像してしまいます。
同時に製鉄製錬の技術は、中世「錬金術」などが
のちに幻の技術とされたように、古代においては
当時最重要機密=奥義だったのかな、なんて考えてしまいます。

昔話においては黄金の仏像は大体山中や水の中から発見されますが、
これも「製鉄」を匂わせます。(水は製鉄には必ず必要です)

しかし、本当に秦氏ってどのような歴史を辿ってきた
民族なのでしょうね〜。
[69]そりちゃんさんからのコメント(2003年04月26日 10時34分54秒 ) パスワード
  

こんなページがありました。
ご参考までに。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5614/usi4.html
[70]秦義則さんからのコメント(2003年04月27日 14時49分48秒 ) パスワード
  

隈さん、服部さん、そりちゃん、さちこさん、つげさん、たまねこさん、みなさんこんにちは?

隈さん復活で、シルクロードの話題までとびでして・・・
僕の心の中にいつも、どこかで引っかかっていた、ユダヤと秦氏なんです。

トンデモ本によく取り上げられる話題なもんで、飛躍しすぎと否定しても、
そこに行き着いてしまうんです・・・

シルクロード「絹の道」の終着点は日本ですよね!
日本より東は海だから、西の文化の終着点は日本にあるはずなんですよね。
そう思うとユダヤの文化が日本にあっても不思議じゃないですよね。

機織をもたらしたのは、アヤハトリ、クレハトリとともに来た秦氏など渡来人なんですから、絹織物は秦氏が持ち込んだとすると、
シルクロードの立役者は秦氏ってことになる。

聖徳太子が建立し法隆寺やシルクロードの宝物を治めた東大寺の正倉院、良弁上人も秦氏なわけですから、西の文化を日本に伝えた秦氏。

秦氏イコールユダヤ説も浮上してきます。
[71]たまねこさんからのコメント(2003年05月01日 21時28分48秒 ) パスワード
  

みなさん、お久し振りです。
このところ、有害な電磁波を避けるため、白装束を着て、
車上生活していたもんですから…な〜んちゃって。
パソコンの調子が悪かったので、読書にいそしんでおりました。

認知神経科学の本を読んでいるうちに、自分が共感覚者だったと
わかって、ゲッ!となってしまいました。普通の人って、毎日、
色の付いた鮮明な夢を見ないのですね。知りませんでした(涙)。
共感覚者は、予知夢や既知夢、直感(啓示?)などの神秘体験を
することが多いのだとか。X染色体が遺伝に関与しているらしく、
女性に霊能者が多いのも頷けます。超能力者も、コレなのかも。

類似の症状に側頭葉テンカンも挙げられますので、古代の巫女さん
はテンカン持ちだったのかも?脳神経損傷や薬物依存症、狂人も
同様の幻覚や幻聴を体験するようですが(笑)。

これって、パニック障害の親戚?(一緒にするな!とお叱りの声が
聞こえて来る〜)パニック障害の方、結構多いのですね。
私の知る限りでは、知的で思慮深い方に多く見受けられます。

トンデモに輪をかけるようですが、「秦氏=ユダヤ人説」
は支持したいですね。夢が広がって、面白いから(笑)。

日本人とユダヤ人の祖先は同じだと主張する「日ユ同祖論」。
ユダヤ人同祖論は、中国、インド、中東、アフリカ、南米、
北米インディアンと、世界中にあるのですね。

日本人の祖先は、アメリカ・インディアンだったという説
もあります。その根拠は、インディアン語に由来する地名が
日本語で解読できるから。
テキサス=敵刺す、オハイオ=おはよう、カンザス=関西…
こういうのが、正真正銘のトンデモ理論ですね(笑)。
歴史やロマンを微塵にも感じさせない。

それにしても、なぜ、秦氏は「帰化人」のレッテルを貼ら
れることになったのか?それが私の最大の疑問です。
「天孫」と「帰化人」。秦氏を読み解くと、日本人の心の
奥底にある「本音」と「建て前」の二重構造が見えてくる
ような気がするのですが…。
[72]秦義則さんからのコメント(2003年05月01日 22時09分09秒 ) パスワード
  

こんばんは、たまねこさん!
ユダヤ人でパニック障害の秦です。

僕も総天然色、フルカラー、ハイビジョン、液晶画面の夢をしょっちゅう見ます。
ねえ、他の人が見る夢は、カラーじゃないんですか?
てっきり、夢はカラーだと思っていました。

嫌な夢もカラーで見ますし、すごくリヤルで、夢の中で夢だったらいいのにって思うことがあります。

殺される夢って見たこと有ります?
僕は時々見るんです。色んな殺され方します。
ほんとにドキってしますよ。
前世で殺された記憶かなって思います。

昔のシャーマンたちが神がかり状態になるのと、パニック発作などと似ているのかもしれません。

秦氏が帰化人ってレッテルを貼ったのは、天孫族が正統性を認めたかったからだと思います。
どちらも朝鮮半島から渡ってきたのに、一方は神として高天原から降りてきたなんてね。
それに秦氏は政治家が少なくて、技術者とか商人は軽く見られたからかもしれません。
または、朝鮮半島由来の民族じゃなくて、ユダヤ人だったからかも知れませんね。
岩手県だったかな?キリストの弟(イスキリ?)の墓があるとか、一戸だとか八戸だとか言うのは、ユダヤ人がやってきた所だとか言われていたりしますよね。
伊勢神宮の灯篭にダビデの星が描かれているのは有名ですしね。

もっと、ユダヤとの繋がりのあるものがあったら教えてくださいね。
[73]さんからのコメント(2003年05月06日 15時15分42秒 ) パスワード
  

たまねこさん、どうもご無沙汰しております。復帰間もない隈です。

「共感覚者」という名称は初めて聞きましたが、
カラーの夢を見る人間は案外少ないらしい、という話は聞いた事があります。
一説によると、女優さんに多いとか(何故!?)

実は、私もカラーの夢は結構見るんです。
鮮やかな空の青とか、きれいなピンクや青紫の花の色とか、
時には鮮血の赤とか(これは痛そうで見たくない)、目覚めた後も覚えていたりして。
以前ここでも書いたかも知れませんが、たま〜に予知夢も。。。

そうか〜ここに集う人達ってやっぱり特異体質だったんだ。。。(^^;

おそらく我達は視覚記憶が強いタイプなんでしょうね。左脳より右脳使って生きてるタイプ。
ということは、直感的というか、やっぱり霊感強いというか(笑)


そりちゃんさんへ

ユダヤと日本の共通点についてのページ紹介、参考になりました。
これだけあると、やっぱり不思議ですよね。。。

そこで私は最近、ユダヤと日本の間に同じ様な習慣を持つ民族がいないかなぁと思って、探していた訳です。

ユダヤ人は新年、マツァ(発酵させないパン)を焼いて神前にお供えするようですが、
紀元前にギリシャ人の歴史家グノーシスが書いた著書(断片)に、
普通のパンを食べずに、「マザ」と呼ばれる大麦パンを食べる種族の事がチラッと書かれています。
大麦は、イースト菌を入れてもほとんど膨らまない、つまり「発酵できない」らしいです。
今は日本でもよく知られている、中近東の「ナン」に近いものだと思いますが。
(但し、ナンは小麦でつくられます)
この種族、バクトリア(現在のアフガニスタン)からインドにかけて住んでいたそうです。
彼らがどの種族に該当するのかはっきりしませんが、場所から考えて現在のパシュトゥン人かな??
一部の噂では、パシュトゥン人も先祖はユダヤ人っていわれてるらしいけど!?
まぁ、この辺は私も詳しく分かりませんが。


ついでに、今私が注目しているソグド人について、ちょっと補足させて下さい。
古代から度々他民族の侵略を受け続けたソグド人は、
徐々にトルコ系民族等との混血が進んで、ほとんどその姿を消してしまいました。
別スレッドで述べたヤグノーブ人を除いて、現在最もその血を受け継いでいるのは
タジク人(ウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタンに住んでいる)です。
彼らはすっかりイスラム化されていて、ソグド人が自分達の祖先であるという自覚もないようです。

ただ、タジキスタンには今でもソグド人の遺物をおさめた博物館があります。
ソグト人の風習・生活を知る数少ない資料です。
ルーダキー博物館というそうですが、そこに展示されているソグド人の衣装は、
何故か日本の着物にそっくりだそうです。
中には「能衣装としか思えない」ものまであるとか・・・!
(NHK出版のシルクロードの本にそう書いてありました。)


脱線ついでにもう一つ、私が気付いたちょっとトンデモっぽいこと。

例のラビ・トケイヤー氏が著書「失われた十部族」の中で、
古代イスラエル人独特のヘアスタイル「ペイオト」を今でも続けている部族が
アフガニスタン・パキスタン国境に居る、と書かれています。
このペイオト、現在イスラエル国内では、
「超正統派」と呼ばれる厳格な宗派のユダヤ教徒のみが続けています。
頭全体は短く刈り込んでいるのに、もみ上げだけは10cmぐらい伸ばして、カールさせるそうです。

最近気付いたのだけど、ソグド人が自らを描いた壁画の中に、
もみ上げを長く伸ばしたように見える人がいるんだけど。。。(^^;
気のせいかな?あれって耳飾りなのかなぁ??
だったら普通、耳たぶから下がってるよねぇ???
頭のてっぺんがどうなっているかは、帽子を被っているので分かりません。
一枚は男の人で、もう一枚は女の人でした。

皆さんもソグド人の壁画を目にする機会があったら、よ〜く目を凝らして見て下さい。(^^)


話を日本に戻します。

先日教育テレビで、72年に一度だけ行われるという、
茨城県の金砂神社の大祭礼の模様を見ました。
これも名前からして、山伏との関わりの強そうなお祭りです。

http://www4.ocn.ne.jp/~daisai15/

二つの山の上にそれぞれ東金砂神社と西金砂神社があって、
神輿の行列が各神社を回った後、山を降りて海まで行くものです。
結構距離が長くて、確か3日程かかります。
この祭列を先導するのは、猿田彦命です。

番組の中で、この祭りはもともと熊本方面から海路移り住んだ渡来人が始めたものであろうと語られていました。
[74]そりちゃんさんからのコメント(2003年05月06日 22時57分59秒 ) パスワード
  

隈さん

こんばんは!
うちも子供と「ややこしや〜」、やってますよ!
金砂神社の大祭礼、実は私も楽しみにしていた
一人です。最近なんだかすっかり修験道・伝説の世界ばかりを
旅しているのですが、幼稚園のお迎えの時間を忘れそうになるほど
(オイオイ)夢中になっています。

ユダヤ人についてですが、隈さんの貴重な情報を拝見してから
私も西から東にくる間に、同じ様な習俗をもつ民族って
いないのかな?っと思っていました。
ウロ覚えですが、たしかブータンって日本と非常に似ていたと
思うのですが。言葉や着物や相撲をしたりしていたと。
(間違っていたらスミマセン)
そうすると、モンゴルも入るのかな?(相撲つながりで)

その他アジアの国境の山岳地帯に住む少数民族の人々など、
調べていったら意外な共通点があるかも知れませんよね。
たしか、神話を調べていた時に、ほとんどの民族に
同じような伝説・伝承が伝わっていたと記憶しています。

ユダヤのソロモン王の秘宝が安徳天皇の伝説の残されている
四国の剣山というのも、偶然なのでしょうか?
青森の戸来村(ヘブライむら)のイエス渡来説も、
往古のユダヤ人たちが東の最果ての国に移り住んでいたと
したら、わざわざ渡ってきたのも頷けますが。

最後に、「ダビデの星」というと私は「かごめかごめ」
を思い出します。昔から多くの人がその歌の真意に
迫っていますが、決定的な答えはでていません。

安倍清明はなぜあの紋を使用したのか、単なる呪符のため
だけであったのか?

そして、なぜこんな東の小さな島国に地球の反対側の
人たちがわざわざやってきたという伝承が残っているのか、
ますます伝説の世界にはまりそうです。

ちなみに、私もよくカラーの夢をみますが、最近疲れているのか
なんだかモノトーンで音声オフ状態の夢を見ている気がします。

[75]さんからのコメント(2003年05月07日 11時14分53秒 ) パスワード
  

昨日のカキコ、一つ訂正します。

> ラビ・トケイヤー氏の著書「失われた十部族」

正しくはラビ・トケイヤー氏の著書「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史」でした。

後で正しい題名を確認しようとして、忘れてました。m(__)m


そりちゃんさんへ

ブータンとかチベットの人々って、顔も日本人に似てますよね。
平均的な日本人の顔は、韓国人よりもブータン・チベット人に近いっていうし。
日本人の先祖の一部は彼らの先祖とも繋がっているのでしょうね。

いわゆる古代羌族と呼ばれた人々の一部が、きっと日本に渡ってきたと思います。

四川省の少数民族・イ族の酋長さんの写真を見た時、びっくりしました。
さちこさんが言うところの「服部顔」ってこれじゃないのかなぁと思います。
色は浅黒いのですが、なかなか男前でしたよ。
精悍な顔付きというか、目鼻立ちがくっきりしてて面長でした。


ちなみに私も忙しかったり、考え方が煮詰まって疲れてくると
あんまりはっきりした夢を見なくなるみたい。
子供の頃は良くも悪くも結構リアルな夢を見ていたので、
起きてから夢の中に出てきた街の風景とか、地図を描けるぐらいだったんですけどね。

疲れた時は一休みして、古典芸能鑑賞に浸るのも一興かも知れませんよ。(^^)
[76]秦義則さんからのコメント(2003年05月07日 20時52分48秒 ) パスワード
  

隈さんのコメント、
>ユダヤ人は新年、マツァ(発酵させないパン)を焼いて神前にお供えするようですが・・・

マツァってどう書くんだろう?mathua?
日本人は新年にモチを神様にお供えするよね!
mothi

マツァってモチの事かな〜
ますます不思議です!

そういえば聖徳太子は日本人じゃないって説があり、何処かのお寺の聖徳太子象は西アジアの民族に似ているそうだとか・・・

カラス天狗の顔も猿田彦の顔も日本人離れしているし、酒天童子なんかもそうだろうし、西アジアの人たちが日本に来ていたのでしょうね。
ヤタガラスなんかももっと西からやってきたのでしょうね。エジプトにもあるというしね。
[77]たまねこさんからのコメント(2003年05月14日 23時41分33秒 ) パスワード
  

こんなのがありました。『ユダヤに見る古神道』。
トンデモ理論の一つかもしれませんが(笑)。

http://www4.justnet.ne.jp/~hinomoto/

年越しの"マツァ"と"モチ"など、似たような風習があるものなのですね。
[78]秦義則さんからのコメント(2003年06月08日 22時50分39秒 ) パスワード
  

僕には時々不思議な体験をしてしまう事があるのです。

よく、周りの人に、「僕は後1週間しか生きられない、死んでしまうよ」って言う事があるんです。
すると、大体1週間ほどすると、知り合いの誰か亡くなったって知らせが届くんです。
昨日の朝は突然ビーダマのようなものを飲み込んで喉が詰まって息苦しい夢を見ました。
昨日の夕方、子供も頃、よく遊んでくれたおじさんが亡くなったと連絡が入りました。

夢の中で、人を殺す夢も殺される夢も見ます。
先日は、おなかに怪我を負った落ち武者の白いさらしに血がにじんで行く夢を見ました。

今日、「あずみ」を見に行ったのですが、その時の夢の情景がより具体的に鮮明に重なり合って、思わず目や耳を塞いでしまいました。

転生輪廻ってあるんでしょうか・・・夢はいつもカラーなんです。
[79]さちこさんからのコメント(2003年06月08日 23時57分06秒 ) パスワード
  

秦熱ご無沙汰してました。

私も夢はバッチリとカラーです。
白黒の夢を見るなんて信じられない。

私は夢の中では冷静なタイプで、
不思議な夢をみると現実か夢か、
夢の中で考えてます。

夢のタイプにも色々あるみたいで、
完全に夢の中に入ってるものは自分ではコントロール出来ないみたい。
深層心理や過去の記憶でしょうか?

眠りにはレム期やらノンレム期などがあると昔聞いた事がありますが、
深い眠りと浅い眠りがあるのかな?

朝方の夢は正夢になると言いますが、
浅い眠りで自分自身でコントーロールしてるかも。
金縛りにあってしまうのも私は朝方が多いです。

だから夢に関しては冷静なつもりのですが。
初めてといううか白黒の夢を見た時は驚いた!
二年ぐらい前だったかな?
夢で現実ではないと判断したものの、
闇の世界でぼ〜と白い。

よく見ると輪郭から自分の家の柱や壁、階段だとわかるのです。
すると誰かが死んだらこの世がこんな風に見えるのだよと教えてくれて。
ふすまとか家具とか細かい事は見えなかったです。
人も見えないです。
ただ柱とかは判る、
ここは壁で行けないのだと思っていくとフッと抜けていくのです。
仏間に辿り着くと仏壇は見えるのです。白黒だけど。
でもお供えしてあった花だけははっきり色がついて見えました。

あ〜。死んでも人の心は判るのだ。
夢の中でそんな事を感じてました。

多分心理学的に考えると、
常々、仏さんの御花代高いよなと常々思ってた自分の邪悪な心と
良心との自分の葛藤であったと思うのですが?

よきアドバイスくださいませ。

あ〜!シンデレラ、タイムリミット。

「もうこれやめや〜」

はい。
[80]たまねこさんからのコメント(2003年06月09日 21時44分45秒 ) パスワード
  

そういえば、[75]で、隈さんが御紹介の本、

ラビ・マーヴィン・トケイヤー著
『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史』
〜失われた十部族の謎〜
に、八咫鏡の裏に何が書かれていたのか、詳しく書いてありました。
「秦氏と天皇家」の話も。もう、既にみなさんは読まれていると
思いますが。何だかいつも、立ち読みばかり。

私は田舎の映画館のように、一回三本立ての夢を見ることが多いです。
最近は、予知夢ばかりで、今日もマズイものを見てしまいました。
視覚だけでなく、嗅覚・触覚・味覚もバッチリです。
目が覚めると、曲が出来上がっていたりすることもあります。
ひょっして、みなさんは左利きでは?右脳と左脳が交互に使われている?

催眠と睡眠は類似していますが、全く異なるものです。
催眠は潜在意識が解放された状態で、超能力?が発揮される
のも、この時に多いようです。感覚が敏感になっています。
夢を見ている時は、意識と無意識の間を行ったり来たりしている
状態なのかしら?だから、熟睡していないってことですよね。
悪い夢を見ることで、日常生活とのバランスを取っていることも
ありますし。願望が夢に表れるのは、周知のことで…殺したい
ほどニクイ奴がいるとか(笑)。仕事でお疲れモードかも〜。
[81]さちこさんからのコメント(2003年06月10日 00時05分32秒 ) パスワード
  

>たまねこさん。

アドバイスありがとうございます。
右脳と左脳これは面白いです!

語学関係を司る脳と何とか、
男女の脳の違いとかありますね。
よく判りませんが。

でもちょっとバランスをくずした時が人の、人生で一番面白いかも。
色んな発想が出来ますから。
天才なんて人はこんな時に出てくるのかも?

不景気の日本。
治安的には一応、平和だけど。。。
昔と違って食べることには最低限困らない。
昔は食べていけるかどうかが争いだった。
当然、殺し合いもあった。

食べ物に困らない現代社会では、
日本人同士、精神的に殺し合いをしている時代かもしれないです。

>秦さん。

悪い夢を見るというのはいい人、優しい人だと思います。

私は一応、右利きですが、
雑巾を絞ったり、
腕、指を組んだ時、左利きです。
習慣的には右利きで、本来は左利きかな?
[82]さんからのコメント(2003年06月10日 15時06分39秒 ) パスワード
  

え〜と、またまたお久しぶりです。

う〜ん、みなさんの見る夢って、本当にリアルですね。
私の夢も大抵カラーだ(と思う)けど、たまねこさんみたいに嗅覚や味覚までは分からないです。
夢の内容も、たまに物騒なもの(流血物!?)はあるけど、
何処か遠くを旅行していたり、昔住んでいた場所を訪れている事が多いみたい。
で、「わぁ、いい景色」とか思ってたりして(私がお気楽だからか?(^^; )。
だからそんな時、色を意識してることが多いですね。

さちこさんのコメント;

> 私は夢の中では冷静なタイプで、
> 不思議な夢をみると現実か夢か、
> 夢の中で考えてます。

> 夢のタイプにも色々あるみたいで、
> 完全に夢の中に入ってるものは自分ではコントロール出来ないみたい。

そういえば、私も小さい頃はよく夢をコントロールしてました。
夢の雲行きが怪しくなると、「これ、夢だよね〜、よぉし空飛んで逃げちゃおう」みたいな事、やってました(笑)
そういえば、子供の頃はしょっちゅう夢で空飛んでた。
大人になったらやらなくなりました。抑圧された子供時代だったってこと?(^^;

ちなみに、レム睡眠の「レム」って確か眼球運動の事で、
レム睡眠の時は眠りが浅くて、自然に目が覚め易いんですよね。
だけど疲れが溜まってたりして体のリズムが狂うと、
ノンレム睡眠で夢を見てる時に目覚めてしまって、
頭は起きているのに体が休んでいるので重くて動かない。
これが「金縛り」なのだという話を何処かで読んだ事があります。
(違ったっけ?もし違ってたら誰か訂正して下さい)

たまねこさんのコメント;

> ひょっして、みなさんは左利きでは?右脳と左脳が交互に使われている?

は〜い、私、左利きです! (^^)/←左手を挙げてる。
小さい頃にペンだけ右に直しましたが、それ以外は全部左手を使います。
そのうえ利き足も、利き目も、利き耳も左です。
でもパソコンは主人の物なので、マウスは右手を使ってますけど。

左半身の動きをコントロールするのは、右脳。
右脳は空間認知も司っているので、夢をリアルに見れることとも関係していそう。
私って右脳優位人間なのかな?でもその割に数学が苦手なのよね。。。

一方言語を司るのは、通常左脳。
でも、左利きの人間の一部は、例外的に言語中枢が右にあるそうです。

ちなみに左脳と右脳を別々に動かすのは、どちらかというと男の人の方が得意らしいですけどね。
霊感の強い人は、寝てる時は右脳だけ動いてたりして。。。
[83]たまねこさんからのコメント(2003年06月10日 21時08分53秒 ) パスワード
  

さちこさん

>私は一応、右利きですが、雑巾を絞ったり、
>腕、指を組んだ時、左利きです。
>習慣的には右利きで、本来は左利きかな?

私もそうです。隠れ左利き、ってやつですか。
両手で同時に字を書くと、鏡面文字になってしまいます。
数学は、超・苦手で数が数えられません。方向音痴です。
左利きは遺伝ですから、家族に左利きがいるのでは?

隈さんは、左利きでしたか。勘が鋭いタイプですものね。

夢の中で、敵を流血させて、ストレス解消を図る。
良い試みです(笑)。
日常生活では、「敵は生かさず、殺さず」
これがの基本です。クックックッ。
[84]さちこさんからのコメント(2003年06月11日 00時31分33秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年06月17日 22時38分13秒
[85]秦義則さんからのコメント(2003年06月11日 21時13分29秒 ) パスワード
  

さちこさん、こんばんは!

服部セイコーの創始者、時計王「服部金太郎」の記述があったので紹介します。

1860年11月21日 〜1934年3月1日  
貧しい家庭に育った服部は13歳で東京京橋の八官町の洋品問屋に丁稚奉公に出て修行中、近くの小林時計店の繁盛ぶりに目をつけ、15歳で時計商を思い立った。日本橋区上槇町の亀田時計店へ移り、2年間丁稚奉公ののち下谷区黒門町の坂田時計店に入り、この2店で修理と販売の技術を覚えた。
明治14年(1881)服部金太郎はいよいよ個人経営で時計小売業 服部時計店(現 セイコー株式会社)を開業した。

長田くんのニュースは悲しいですね。
どんな事件でも、何故そのような行動をしたのか、事件の背景にあるものを検証する事が大事だと思います。
線路にブロックを置く事はしてはいけない事。
これは当たり前です。
でも、どうしてそのような心になったのでしょうか?
高校のころに受けた傷かもしれませんね。
事件を起こした人は罰せられるけど、その背景にいた人たちのことはどうなんでしょうね?
そんなこと、いつも思ってしまいます。


[86]さちこさんからのコメント(2003年06月11日 23時17分13秒 ) パスワード
  

秦さんありがとう!

新聞やテレビで実名が出てますが、
84は近いうちに消すつもりでいます。
後に名が残ったら可哀想ですから。

でも生き方なんて色々です。


お金がなくてドロボーに入った男、これは普通の話ですが。
実は逮捕されればご飯が食べれるのが目的だったとか変な話が多いです。

早寝早起き規則正しい日常生活、軽作業。
勿論、お酒、煙草抜き、
麦飯や低カロリーの栄養のバランス取れた食事。
健康のため時々、ムショに入ってます。
何てヤツいたな〜。
[87]さんからのコメント(2003年06月17日 13時44分23秒 ) パスワード
  

たまねこさん

> 隈さんは、左利きでしたか。勘が鋭いタイプですものね。

そんな事言ったら、うちの主人が笑いそう。。。
この世の事象に関しては、いたって勘が鈍いもので。
でも平熱に来るようになってから、各メディアで情報がリンクするのはもう、しょっちゅうあります。


さちこさん

> 隈さんの投稿があると、とても嬉しくなります。

そう言って頂けると、私も嬉しいです(^^)

見ましたよ、東條さんのSEIKOの広告。それもさちこさんのコメントを読む直前に。
読売新聞に載ってました。

それで東條さんのお顔を拝見しつつ、
「なるほど、見事に通った鼻筋・・・さすがユダヤ系!?」などと考えたりして(笑)。

最近私気がついたんですが、テレビにユダヤ系の人が出てくると、
妙な親近感を覚えてしまう事がある。
「なんかどっかで見たような・・・??」
よく考えたら、私の父に似てる(爆)うちの父もカギ鼻なんですよね。。。
父の顔は、父の母譲り。
父の母の先祖(山藤氏)は、摂津高槻藩士。
高槻といえば、三島。
藤原系っていうより、秦氏の血が濃いんじゃ。。。

やっぱり私、相当秦氏の血が濃い!?
[88]さちこさんからのコメント(2003年06月18日 00時54分47秒 ) パスワード
  

隈さん。

賞味期限の切れた王子様もおっしゃってましたが(誰のこと?)
お子さんのこと喜んでます。

シルクロードの謎の民、
どの民族、どの時代とは特定できないけれど、
日本へ西方の文明を伝え続けた人たちがいる。

仏教東漸、伊勢、伊賀そして東へ。
四日市にこの展示があったのは驚きました。
スッレド立ててほりっぱなしだけど、(ごめんなさい。)
飛鳥時代、
平安時代、
今考えてるより国際的な時代だった。

伊賀というと今では文化的地盤沈下してる所だけど、(失礼!)
昔は文化の発信地だった。
三重県人の手前味噌的な部分もありますが、
戦乱の時代、
いつも戦火にあってきたところです。
もし全てが焼かれずに残っていたら。。。

「伊賀は秘蔵の国なり」

藤堂高虎の言葉として残ってますが。
決して忍者の里という意味ではないと思う。


他のスレッドで薩摩関係があったので、

島津製作所創業者  
  初代島津源蔵[しまづげんぞう]  
  (1839〜1894)  
  1839(天保10)年5月15日、
初代島津源蔵は、醒ヶ井魚棚(現在の堀川六条付近)で仏具三具足の製造をしていた父・清兵衛の二男として生まれる。1860(万延1)年21歳のときに、父に従って家業を修め仏具三具足の製造を始める
その頃初代源蔵が居を構えた木屋町二条では勧業場、舎密局等が開設され、京都の殖産興業の一大拠点となっていた。初代源蔵は、舎密局が開設されると足繁く通い、わが国の進むべき道は科学立国であるとの理想が芽生え、1875(M8)年3月31日、京都の木屋町二条南で、理化学器械製造の業を起こし島津製作所の始まりとなる。1894(M27)年逝去。

島津源蔵の祖先は、井上惣兵衛尉茂一といい、1500年代後半に播州に住んでいた。薩摩の島津義弘公が、京都の伏見から帰国の途上に、豊臣秀吉公から新たに拝領した播州姫路の領地に立ち寄った際、惣兵衛は、領地の検分などに誠心誠意お世話をし、その誠意に対する感謝の印として、義弘公から“島津の姓”と“丸に十の字(くつわ)の家紋”を贈られたと伝えられており、この家紋は現在でも島津製作所の社章となっている。


そして。。


■島津製作所社長に服部氏 矢嶋氏は会長に 2003.04.29

 島津製作所は28日の臨時取締役会で、矢嶋英敏社長(68)が代表権のある会長に就任し、後任社長に服部重彦常務(61)を昇格させる人事を内定した。6月27日の株主総会後の取締役会で正式決定し就任する。

 服部氏は技術畑を歩み、ノーベル化学賞を昨年受賞した同社フェロー、田中耕一さん(43)と同じ分析計測機器事業に長く携わった。矢嶋氏1998年6月に社長就任。希望退職などリストラを進め、今年3月期の連結純損益は3年ぶりに黒字化する見通し。


 京都市内で記者会見した矢嶋氏は「02年度から3カ年の中期経営計画が順調に進んでいるため、明朗快活でリーダーシップのある服部氏を選んだ」と説明。服部氏は「成長のシナリオを引き続き描き、幹部一丸で頑張る」と抱負を語った。


 服部 重彦氏(はっとり・しげひこ)山梨大卒。64年島津製作所。
取締役を経て97年6月から常務。津市出身


今ではもう関係ない人事かも知れませんが、
友人の話によると島津家のこの一族、
京都山城に住んでいて、
おじいさんが伎楽面のような顔をしてるそうです。

こんな顔
  ↓

http://japan.park.org/Japan/DNP/MTN/MN/shin-gigaku/gigakumen.html


曹洞宗、繋がりは気になります。
世阿弥の菩提寺は、
私の気にする奈良の田原町(?)の曹洞宗の寺でした。

補巌寺だったかな?

最近物忘れの多いシンデレラでした。



 
 



[89]秦義則さんからのコメント(2003年06月18日 21時37分29秒 ) パスワード
  

さちこさんこんばんは!
奈良県田原本町の事ですね。
たわらもとマップの中に補厳寺(ふがんじ)も記載されています。
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/4.rekishi/-map_rekishi.html
です。
補厳寺は能楽観世流の世阿弥ゆかりのお寺です。
田原本には聖徳太子の法楽寺や秦河勝の秦楽寺などもあって歴史の宝庫です。

島津氏は秦氏の末裔とも言われ、そんな島津製作所の社長に服部氏が就任するのも何かの縁ですね。
[90]さちこさんからのコメント(2003年06月18日 23時01分41秒 ) パスワード
  

秦さんいつも助言くださりありがとうございます。

そうです奈良県の田原本町です。

聖徳太子の時代、
百済のミマシが呉から伎楽を秦氏に桜井の地に伝え、
後に秦氏楽戸郷がおかれたのが田原本町です。

村屋坐弥富都比売神社。

以前弥富と服部家を検索して出てきた時は驚きました。
ご先祖様もしかしたらインターネットの時代が来ると知ってたのかしら?

秦氏楽戸の子孫が四天王寺系楽師。
東儀家もその一つです。

隈さん。
東儀さん鼻この系統でしょ?
昔はお面なしでやってたのかしら?

友人から七月に京都で東儀さんのイベントがあると誘われてたのですが、
場所を教えてもらってびっくり!伏見だって!
[91]さんからのコメント(2003年06月19日 10時59分33秒 ) パスワード
  

先日の私のコメント、東儀さんが「東條さん」になってましたね。
失礼致しましたm(_ _)m

東儀さん、伏見でイベントですかぁ。。
彼なら直接、秦河勝様が所縁の地へ引っ張っていってくれそうですね。

それで思い出したけど、昔私が京都に住んでいた頃、
友達の自宅に泊めてもらった事があって。
それが桂川沿いに建つ高層マンションで、
泊まった翌朝窓から外を見ると、森に囲まれた大きな神社が正面に見えた。
屋根が朝日を浴びてきらきら輝いて、とても澄んだ印象が残ってた。

あれから10数年。
秦熱が盛り上がった時に「もしや、あの神社は」と思い、
京都地図を広げてびっくり。

件のマンションの位置は、ちょうど桂川が大きく蛇行したカーブの内側。
そしてその対岸、真正面にあったのは、かの松尾大社。

私って昔から秦氏に引っ張られていたのね。。と、鳥肌が立ちました。


> 東儀さん鼻この系統でしょ?
> 昔はお面なしでやってたのかしら?

な、なるほど・・・素顔でやれるってすごいかも(笑)

しかしうちの父の顔、東儀さんより伎楽面に似てる。。。(爆)
特に「酔胡従」の、下から二番目の面。(大笑)
要するに、鼻先が下がってるんですよね。
でも私も父似だから、あんまり人の事は言えない。。。(自爆)

因みにここで言う「胡人」はペルシャ人の事ですが、シルクロード研究家達の間では
これらの面のモデルは、ソグド人ではないかといわれてるそうです。
東洋に現れた「ペルシャ人」の多くはソグド人だったとか。
(ソグディアナはかつてペルシャ領に含まれていました)
彼らはシルクロードの交易を牛耳ってましたから。


しかし本当に平熱、来る度に繋がってきますねぇ。

最近は、私自身の先祖に繋がる情報をお寄せ下さる方々もいらっしゃって、
本当に有難く思ってます。


最後にもう一つ、岡山関連で面白い物を見つけたので、ご紹介します。

http://www.asahi-net.or.jp/~BH3H-SMJY/rekisi/oosake.htm

大避神社の神紋って、矢車だったのね。。。
[92]さちこさんからのコメント(2003年06月19日 23時04分26秒 ) パスワード
  

隈さんありがとうございます。

赤穂の大避神社二年前に行きました。
私が行ったのは一番大きな有名な大避神社だけですが。
他にもたくさんあって、
違い矢紋の神社ももあるのですね。

赤穂市は電話帳で調べたら、
服部は少なかったか、なかったに近いという記憶です。

隈さんのお顔。。
そういう系統でしたか(笑)

酔胡徒下から二番目、
鼻の形は少し違いますが、父に似てます。
顔の輪郭そのマンマです。

父の祖父は養子で、
親戚の服部家から嫁をもらったといううことですが、
こちらの系統は鍵鼻ですね。(笑)

私は酔胡徒の一番上、
笑うとこの目になります。
これが父方でもないし母方でもないし、
親戚にも見かけないのです。
どこから出たのか判らないでです。

ピンクレディーのミーちゃんの目に似てる何て言われたこともありました。
(これ自爆同然?)

母の祖父の実家が敦賀ですが、
敦賀の人は鍵鼻が多いです。
[93]秦義則さんからのコメント(2003年06月24日 23時17分24秒 ) パスワード
  

平安期以降ほとんど秦氏の存在を知せるものが無くなるのですが、秦氏の存在がどうしてこのように、抹殺されたのか?それはやはり大和政権の樹立時の怨念に近いものがあるように思うのです。

以前に大和の三島体制について、
*畝傍山=鳥族=卑弥呼=天照大神=神武天皇=鏡=ヤタガラス=呪術
*香具山=牛族=大国主命=素戔嗚命=大物主命=饒速日命=鉱山=草薙の剣
*耳成山=菟族・馬族=月読命=農耕=長髄彦命=勾玉
と紹介した事があります。また、聖徳太子は馬族だとも。
ここで、饒速日命=天日矛という説があります。

秦氏は大陸から渡来し卑弥呼の時代に大分に秦王国を築き出雲、吉備、但馬、大和へと秦氏の勢力は東へ東へと拡大されてゆきます。
一方、大陸からいち早く大和に入り政権を治めた饒速日命を追って神武が東征してきます。饒速日は嫁の兄であり、土着の倭人と友好的な長髄彦命と連合して戦って敗れて行くのですが、下のHPのように、
http://www.dai3gen.net/hahaya.htm

もし饒速日命=天日矛ならば、饒速日命は秦氏の祖先と言う事になり。戦いに勝った鳥族、神武系の子孫が後々災いになる、秦氏一族と長髄彦命の子孫、聖徳太子一族を抹殺していったとは考えられないでしょうか?
秦氏は生き残る手段として、政権の表舞台から去り、闇から日本を動かそうとしたのかも知れませんね。
[94]さちこさんからのコメント(2003年06月25日 22時46分51秒 ) パスワード
  

上記URLに

天の羽羽矢
天日矛=天稚彦=饒速日、等とありました。

今の段階では断言はできませんが、(そして全てではありませんが)
羽や矢、この字が残ってる地名は、秦氏、服部家と関係ありと思うのです。

呉はとり、呉羽とかく場合もあります。
東北の出羽三山、(でわさんざん)ですが。
出羽は、イデハ、とも読みます。
私は服部が出るぞ〜と言う意味に感じました。
[95]秦義則さんからのコメント(2003年06月26日 22時21分46秒 ) パスワード
  

饒速日命=天日矛ならば、饒速日命は秦氏の祖先と言う事になるのですが、
饒速日命は物部氏の先祖というわけで、
にわかに物部氏と秦氏との関係が怪しくなるのです。
物部とは、物を作る集団を表したものなら、
秦氏もその中に含まれるのでしょうか?

東大阪に石切神社というのがあって、
御祭神は饒速日命なんですが、この石切、「イシキリ]は「イスキリ」のなまったものとも言われ、
イスキリとはイエスキリストの弟だというのです。

青森県には下のような伝説が残されています。
http://www.actv.ne.jp/~yappi/mystery/001-christ 's%20tomb.htm
[96]さちこさんからのコメント(2003年06月29日 22時05分03秒 ) パスワード
  

秦さん。

他のスレッドで宇佐八幡宮や、
神功皇后の三韓征伐等の話題があります。
ぜひコメントお願いします。

http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/100526_4.html

[97]秦義則さんからのコメント(2003年06月30日 23時38分14秒 ) パスワード
  

さちこさん、こんばんは!
ひにゃさんのスレッド行ってきたよ〜

全国の八幡神社は後の大和朝廷が秦氏の霊力や怨霊を静めるため、作るのを認めていったのかもしれないな〜と思います。
菅原道真を祭った天神さんに似ているような気がするんです。

稲荷神社の拡大の背景には空海が絡んでいたようですし。

大避神社は秦の始皇帝まで祭っているし、古代史ってミステリアスですね。

そうそう!石切神社の境内周辺は一種独特な世界があるよ!不思議な世界!
[98]さちこさんからのコメント(2003年07月01日 00時18分08秒 ) パスワード
  

秦さんありがとうございます。

物部氏と秦氏と必ずしも対立してきたわけではないですよね。
これ本当ですね。

石切神社?
又教えてください。

明日は京都伏見にいきます。

例の東儀秀樹氏のイベントです。
七夕にちなみ、
ひこ星(東儀氏)へ織姫(ファンから)の質問コーナー?
等もあるらしい。

ここはひとつ、はーい!と手をあげて。

「東儀家は奈良時代から続く、
 由緒正しい雅楽の家だそうですが、
 1300年、本当に雅楽だけでメシ食ってきたのですか?
 実は裏家業があったのではないですか?」

こんなこと質問したら会場からつまみだされるな、私。。
でも、東儀秀樹氏本人はオオウケだと思います。多分(笑)
[99]秦義則さんからのコメント(2003年07月01日 23時09分35秒 ) パスワード
  

さちこさん、いってらっしゃ〜い!
気をつけてね!
そして楽しんでください!

東儀家の裏家業、忍者かもね!
[100]秦義則さんからのコメント(2003年07月06日 21時16分25秒 ) パスワード
  

明日は七夕、七夕といえば仙台が有名ですが、
池田の星の宮、呉羽神社、伊居多神社、
http://www.wombat.zaq.ne.jp/sugane/sanpo13.html
それに交野、枚方地域に古来から伝わる七夕伝説があります。
枚方市・交野市の地域は古くは交野ケ原と呼ばれ、実際に「天の川」が流れています。
交野市の倉治には織姫(天棚機比売大神)を祀る機物神社「はたものじんじゃ」昔は秦者神社と呼んだそうです。
天の川をはさんだ対岸の中山観音廃寺跡には牽牛石があります。
そして、ほぼ中央の天の川に逢合橋という名の橋が架かっており、この橋で年に一度七夕の夜に織姫と彦星(牽牛)が出会うというお話しです。
また、天の川の上流の磐船渓谷には饒速日命が天上より天の磐船で地上に降臨したという伝説をもつ磐船神社があります。この地域は、物部氏が領有していたとのことですが、機物神社が秦氏ゆかりの神社であることより、物部氏と秦氏との間に血縁関係が有ったのかもしれません。
星田妙見宮というのもあって、妙見というのは北斗のことです。あるとき天から七つの星が、この星田の村の三つの場所に降ってきました。一つは、星田妙見宮の山頂に、そして、あとの二つは、星の森と、村の中にある光林寺というお寺に降って来たという伝説があります。
天の川の源流は生駒山、秦氏は生駒参上に登り、交野ケ原を眺めては故郷の伝説に思いを馳せていたのかもしれません
交野ヶ原に狩りに訪れた在原業平は
「狩り暮らし 棚機津女(タナバタツメ)に 宿借らむ天の河原に 我は来にけり」
(狩りをしていたら日が暮れてしまった。今夜は織姫様に宿を借りよう。天の川のほとりに来たのだから) 
と歌に詠み、古今和歌集や伊勢物語に収録され、平安貴族に広く知られたということです。
旧暦の7月7日は晴れる事が多いでしょうけれど、
現在の暦では梅雨の真っ只中、
明日が晴れるといいのですが・・・
[101]さちこさんからのコメント(2003年07月06日 23時30分00秒 ) パスワード
  

妙見信仰ですか。。
平田篤胤を調べていてこんな事が書いてありました。

  天御中主神とは?
 全国の妙見信仰が明治の廃仏毀釈で大きなダメージをうけました。
 日本三妙見の一つ、八代妙見も誠に残念なことに、 
 明治の廃仏毀釈によってに真言、天台のお寺が全て取り壊され、
 本尊も妙見大菩薩から天御中主神に変更されて妙見菩薩の信仰(妙見信仰)が無く なってしまいました。
 しかも八代妙見宮」から「八代神社」と名称も変えられてしまいました。
 そこで天御中主神とはどんな神様なのか歴史的、文献的に解説します。
 天御中主神とは、古事記、日本書紀にただの一度だけ記されている神です。
 明治以降、妙見大菩薩の代わりに祀られるようになりましたが、
 それは、幕末の平田篤胤という国学者によって、
 神としての性格が理由づけられ、 
 そして後世に大きな影響を与えたのです。



 司馬遼太郎氏も著書のなかで、
『「明治以前には平田篤胤みたいな人がいましたが、
 彼はたしか「天御中主神」という不思議な、
 なるほど古事記、日本書紀に一度しか出てこない神を
 神々の世界を統治する最高神”ゴッド”の位置においてきました。
 しかし国家神道では「天御中主神」というあまり抽象性の高いものははずされて、 具体的な「天照大神」になってしまう。・・」』と考察しています。

平安時代の、
新撰姓氏録では、
服部家は天御中主神の子孫となってます。
けっこう意味深いかも?

東儀さんのイベント行ってきました!
裏家業の事、質問したわけではないのに、
「宮内庁時代には、六本木の警察に摘発されるような店に入り浸っててました。」
と言う話を告白してました。
後で照明が暗いと言う理由で等でと言い訳してましたが、
照明が暗いと言うだけで警察から摘発されるのでしょうか?(笑)

あくまでも、その店で演奏される音楽に興味があったというお話しです。
裏家業とは関係ありませんので念のため。

でも三年前沖縄サミットの時、
東儀氏。
晩餐会で演奏をしたのです。

その時クリントン大統領がどうの、
ブレア首相がどうのという話もありました。(秘密)
その後はシラク大統領に気に入られたのか、
フランス親善大使となりました。。。

雅楽忍者隊・・・。使えるかも?

秦さん。
在原業平!
出ましたネ!
忍者でしょ?この人?
・・・ではなくて、秦氏や伊賀とゆかり深い人物です。

明日晴れるといいですね。
 

[102]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月06日 23時48分49秒 ) パスワード
  

<古代日本に栄えたロマンな一族:秦氏4>を立てました。
続きは
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100531.html
にどうぞ。
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