キーワード:服部 コメントの種類 :ニュース
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私の住む町にも服部(ハトリ)という地名の処がある。
尾張国海東郡服部村(現在名古屋市中川区富田町服部)である。
富田町史によれば、
織布に従った部氏がいたので、そこより村名か゜生まれたといわれている
「地名考」には、「服部の二字を波登利とよむことを義割にして正字にあらず、
正字は機織部の義なり、部は郡の約也とぞ」とある。また、「本国の麻績村、服部村は往昔伊勢国より移りたる因縁に
出る地名なるべし、かくて、松下、服部村の辺は中古の時海浜なるべく覚えて、、さのみ古村とも見えざる地也、
後世室町の時、津島藩士服部平左衛門は服部村の地頭ながら、是は南朝の残卒七氏の内なれば、氏と知行所相に会たる
ものなるべし」とある。とくに麻績、服部が天白とともに、伊勢から流されてきた部族であることを指摘していることには
注目に値するものがある。
さらに、付言に、「谷川土清日く伊賀国服部に呉服、漢服の二流あり、格酒公の末流なり、服部平左衛門家長より盛になるといへり」
とある。
私の住む町戸田にはかつて戸田城があり、「張州府志」、「朝野群載」などに大膳少進平季政の名がみえ、
平氏の一族が住んでいたことがうかがえる。。
また、「海道記」(貞応二年-1223)には桑園が広がっており、養蚕に忙しいことが記されていて、服部との関係が深いことが知れる。
七宝焼きの由来<中川区の歴史>
七宝焼の祖として有名な梶常吉は父の旧知行地であるこの服部村に移り住み(文政五年六月・19歳か)、鍍金業に従事していた。
常吉は元亀元年(1570)に書かれた古書から、七宝は珊瑚、瑪瑙、琥珀、及び水晶などから作ることを知り、長い間研究をした。
しかし七宝焼きは抄本に書かれているようなそんな簡単なものではなかった。
そして天保三年(1832)、名古屋末広町の骨董商から、オランダ船が持って来た一枚の七宝皿の美に魅せられ、これを譲り受けた。
これを自宅で粉砕しその原料を分析研究した結果、問題はその成分となる薬剤あることをつきとめ、出来たのが径五寸の小鉢である。
時に天保4年(1833)のことであった。これが後に所謂「泥七宝」と呼ばれているもので、今日の尾張七宝の始まりである。
この梶常吉も遠く祖先は、ハイテク技術集団として渡来した秦氏まで遡るのであろうか。
鍛冶--→梶 金属鍍金にはるか祖先のDNAを受け継いだのであろう。
日本各地に存在する服部郷(町や村)について書き込んで頂ければと思い、新しいスレッドを立ち上げました。
今回より皇竹を伊勢平氏に改めたいと思います。
というのは、
少年の頃、目と耳のどちらかが、左右の大きさが違っていたみたい、
それで「平氏の子、平氏の子」といわれよくからかわれたものです。
今は両方とも同じですが・・・・。
要するに、伊勢の子はほとんど片目、片耳であったみたい。
そんなことが今は懐かしくて、伊勢平氏と改めます。
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