株式会社 エミ くりらじ 近藤栄次朗
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 投稿番号:100354 投稿日:2002年08月24日 20時30分56秒  パスワード
 お名前:源三どのの代理
隈さんへ:各姓の服部氏

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

隈さんへ源三どのより:


特集

歴史の語り方
平家物語
市沢哲
平家物語と織田信長 他
1857円
岩波文庫
AERA 8月26号
表紙 建築家 隈 研吾
360円
朝日新聞社。


服部姓
1清和源氏義光流。新羅三郎義光後裔一庸が服部を家号とす。
2同源氏義綱流。陸奥守源賀茂次郎義綱後裔石橋盛行の男盛重が服部をもって家号とす。
(新編日本姓氏辞典・千葉琢穂著・展望社・9500円)
服部氏も平氏、源氏、藤原氏など色々ですね。

[1]さんからのコメント(2002年08月26日 09時12分34秒 ) パスワード
  

明子さん

源三さんに《どうもありがとうございます》とお伝え下さいませ。

> 建築家 隈 研吾

この方のルーツは長崎県だと伺ってます。
ということは、平兼盛(肥前手熊村の地頭)のご子孫でしょうね。


最近服部家については、あまり平氏、源氏にとらわれずに調べてみるようにしています。
そうする事で、良く見えてくるものもあると感じています。

でも住んでいた場所から言って、南朝方だったとは思うけど。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年08月26日 09時54分05秒 ) パスワード
  

私には藤氏服部家とか源氏服部家とかピンと来ないです。
でも
秦氏の服部家の名前が古代は名門だったから名乗ったというのは分かります。


一見親戚みたいで他人というのも面白いのかも。
他人の関係
なんて。
[3]源三さんからのコメント(2002年10月26日 16時40分25秒 ) パスワード
  

服部さん隈さんこんにちは、そのまま貼り付けたんですね、うわー恥ずかしい・・・。
肥前筑後の佐賀藩、柳川藩などの服部家の系譜などをもすこし詳しく書きこみますね。
ではでは。
[4]takahiroさんからのコメント(2002年10月31日 19時06分24秒 ) パスワード
  

戦国期、江戸期の薩摩藩島津家家臣(国分郷)にも、服部姓を見つけましたので
紹介します。

<戦国期>
○服部左近衛門宗重:島津義久家臣。伊賀国移住。

<江戸期>
○服部久兵衛宗俊 :国分衆中(元和五年 国分諸士起請文に記名)
○服部茂左衛門安村:国分衆中(同上)

○服部笑太夫   :国分衆中(寛政六年 同郷与頭)
○服部休左衛門  :国分衆中(文化五年 同郷郷士年寄)
○服部休兵衛   :国分衆中(文政六年 同郷郷士年寄助)
○服部孝兵衛   :国分衆中(文久元年 同郷下井村庄屋)
○服部権次郎   :国分衆中(文久三年 同郷横目)

                    (鹿児島県姓氏家系大辞典より纏め)
[5]服部 明子さんからのコメント(2002年11月01日 01時13分41秒 ) パスワード
  

宗が通字というのは南朝方の服部一族なのかしら?と思いました。
休の字もさちこさんに頂いた服部一族のコピーの中で見たような感じです。


takahiroさま
ありがとうございました。
伊賀からもはるばる薩摩国に迄行っているのですねえ。
矢張り平家という繋がりだったのかも知れませんね。
[6]takahiroさんからのコメント(2002年11月01日 10時39分10秒 ) パスワード
  

>宗が通字というのは南朝方の服部一族なのかしら?と思いました。

国分ではないのですが、同じく薩摩の谷山には、

『当地北西部の丘陵突端は南北朝時代懐良親王が征西大将軍としてとどまった
 地といわれる御所ヶ原で、隣接丘陵には菊池武光が同親王に従って居城した
 と伝える菊池城跡がある。』(角川日本地名辞典・鹿児島県より)

とあります。

南北朝期当時、南九州における南朝方の拠点であった谷山には、南朝方の武士
が、懐良親王に従い多数入っていたようです。

あるいは、服部宗重、服部宗俊とは、その後裔なのでしょうか。

また、

懐良親王の一子に雅良王があり、雅良王は上記菊池武光の妹を生母としていま
す。この雅良王は後、源姓を賜り、後醍院越後守源良宗を名乗り、後醍醐源氏
「後醍院氏」の祖となっています。

そしてこの後醍院良宗から六代孫、義重は、島津義弘に仕えます。

上記、服部宗重が仕えていたのも島津義弘であり、このことから、服部様の、

>宗が通字というのは南朝方の服部一族なのでは?

という推測は、的を得ているもののようにも思えます。もう少し調べてみます。
[7]takahiroさんからのコメント(2002年11月01日 10時43分40秒 ) パスワード
  

[6]訂正
後醍院良宗から六代孫、義重:誤
後醍院良宗から六代孫、宗重:正
[8]服部 明子さんからのコメント(2002年11月01日 10時52分34秒 ) パスワード
  

南朝方+伊賀+親王さんのお共=我が家の先祖と同族のようでございますね。
伊賀守服部宗純の兄弟か従兄弟か叔父一族か
伊賀から薩摩まで行ったようでございますね。

そこで落ち着いて郷士になって決して豊かではなかったでしょうが
代々生き延びて来たのかと思いますと胸に来るものがございます。
[9]takahiroさんからのコメント(2002年11月01日 11時00分10秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年11月09日 13時43分52秒
[10]takahiroさんからのコメント(2002年11月01日 11時16分18秒 ) パスワード
  

服部明子様

 旧薩摩藩においては、郷士とは、武士の別称であり、つまり、鹿児島城下
 に務めていた武士が、藩士であり、藩内113ヶ所の外城に務めていた武
 士が、郷士と称されました。
 
 郷士にも上級郷士から下級郷士まで別れていましたが、服部家は郷におけ
 る最高職、「郷士年寄」を勤める家柄であり、おそらく藩政期の国分郷に
 おいては、「上士」であったと思われます。

 明治維新においては、服部家は、鹿児島県国分士族に列せられています。
[11]服部 明子さんからのコメント(2002年11月01日 12時40分33秒 ) パスワード
  

土佐の郷士は悲惨な目に遭ってたそうですが
鹿児島はまた別のようでございますね。

詳しい説明をありがとうございました。

服部家ホンヤに早速連絡させて頂きます。
[12]さちこさんからのコメント(2003年01月25日 13時08分00秒 ) パスワード
  

服部宗重について。
国分煙草の栽培は伊賀の服部家がはじめたと
服部一族の系図にもあったと思いますが詳しく書いてありました。

http://www.h5.dion.ne.jp/~m.kamiya/118.htm
[13]takahiroさんからのコメント(2003年01月27日 11時43分01秒 ) パスワード
  

桓武平姓服部氏系図、「日本の苗字7000傑」からです。

『桓武平氏季衡流』

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01107.htm

『桓武平氏忠正流』

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01105.htm

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
ここの記載は苗字の分出が分かりやすいです。

『桓武平氏清盛流』

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01102.htm

『桓武平氏経盛流』

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01103.htm

『桓武平氏忠度流』

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01104.htm

『桓武平氏総括』

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01100.htm
[14]服部 明子さんからのコメント(2003年01月27日 16時00分19秒 ) パスワード
  

takahiro さま


『桓武平氏忠度流』
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01104.htm

ありがとうございました。


【桓武平氏忠度流】
忠盛の七男忠度は、武勇に秀でるとともに、
藤原俊成を師として和歌にも優れ、
寿永2年、一の谷合戦で義経の家臣岡部忠澄に討たれ戦死する。

幕臣久間氏は忠度の後裔と称し、もと隈を称しのちに久間に改める。


これはビックリでした。
早速隈さんのスレッドに転載しなくては。
[15]さちこさんからのコメント(2003年02月03日 13時00分16秒 ) パスワード
  

新撰組の服部さん。
播磨赤穂の出身ですが。
赤穂といえば秦河勝。

きっと一族でしょうね。

http://bakumatu.727.net/kodaiji/hattori.htm

今日は節分ですね。
明子さんつらいですね。

服部家では、

服は内〜 オダは外〜

ですね(笑)
[16]服部 明子さんからのコメント(2003年02月03日 13時52分23秒 ) パスワード
  

あ〜
なるほど
[17]小川隆さんからのコメント(2003年07月20日 18時49分09秒 ) パスワード
  

私の母の実家も服部です。戦前四谷で料理教室を開いていました。元々柳川藩の家臣で今も柳川には服部の屋敷跡が残っているようです。継母の子供に家督を譲るため家を出たそうです。色々失敗を重ねたあと料理教室を始めたのが茂一、全国で料理教室を開いていたそうです。茂一の亡き後、茂一に頼まれていた甥の七郎が料理教室を続けましたが戦後はぴったりとやめてしまい区役所勤めをしていました(なぜか戦前服部料理教室で出入り禁止にされていた染谷さんという方が戦後服部料理学校なるものを開いて現在に至っているようで服部の名前を使って欲しくないことと事実と違うことを書かぬよう申し入れをしましたがうやむやにされています)。本筋とは離れてしまいましたが私の服部家は佐々木三郎盛綱を先祖としています。つまり宇田源氏の流れです。家紋は染谷さんの服部料理学校が使っていますが正確には源氏車の中に矢筈というちょっと変わった家紋です。
[18]さちこさんからのコメント(2003年07月20日 22時10分54秒 ) パスワード
  

小川さん。

はじめまして。

よく判らないのですが、
服部料理学校というのは、
テレビでもよく出てくる学長の(?)ところですか?

この学校は丸に並び矢だと思ってましたが。

矢筈と並び矢の服部家に関しては、
何処で分かれてたのか謎でした。

また詳しいこと教えてください。

凄く興味深いお話しですので。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月21日 07時56分17秒 ) パスワード
  

小川さんの母君のお里は佐々木源氏系服部氏ですか。
で紋は源氏車+矢筈?

どういう経緯だったのでしょうね。
頼朝に貰ったのかしら?


永禄4年(1561年)
服部七朗右衛門源安重が武家出陣の料理及び作法を確立。
という事はこの「源氏」というのは佐々木源氏だった?

明治41年(1908年)
服部流家元第13代服部茂一は服部流割烹家元教場を大阪から東京に移す。


私の元華族の友人によると彼女はお料理は服部料理学校流だったと言ってました。
彼女の家は島津家久光さん流なんですが。
[20]小川隆さんからのコメント(2003年07月21日 14時08分11秒 ) パスワード
  

ごめんなさい。名称間違えました。確認したところ源氏車に並び矢でした。丸の部分が源氏車の外輪になっているのが特徴だということです。家紋の本にも載っていかったと叔父がいっていました。
◎暇潰しのギャンブラーさんへ
母に聞かなければ詳しいことはわからないのですが
家を出た後一族郎党である「海老名弾正」のところにいったがていよく追い払われたと聞いています(田舎の母の従姉妹の話ですので海老名弾正の実家が服部とどういう関係にあったのかはわかりません)。
「服部料理教室」のウェブ見てみました。
料理教室は茂一が創設したもので「服部流」などという流派は存在しないと思います。染谷道政さん(出入り禁止にされた人物)が「服部」と「柳川藩」ということで創作したものと思われます。品子さんは茂一の奥さんですが料理はできないので受付を手伝っていたと聞いています。

母の手元に家系図の写しが残っていないので正確だとはいえませんが聞いた話によると(私の場合殆ど母にあるいは母の従姉妹に聞いた話です)服部村というところに流れ住んだときに姓を服部と変えたということでその後柳川に流れて立花氏に拾われたということです。
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月21日 16時37分14秒 ) パスワード
  

昔、伊勢・尾張の南朝方の遺臣の家で後醍醐天皇の曾孫にお正月に出したお料理が現在のおせち料理の原型だそうです。
ですから1430年代前後と思います。

服部茂一氏のお料理は
武家の出陣式のお料理の流れなのか?
それとももっと前のおせち料理の流れなのか?
または全然関係ないのか?
どれだったのでしょうね。


源氏車+並び矢紋は平家の伊賀(服部)家長が弓のコンペで優勝して
六条院から褒美に車一杯の矢を拝領して
それを記念に伊賀の服部家の紋としたそうです。

ですから江戸時代で有名な忍者の服部半蔵の家は源氏車+並び矢です。
この変形もいろいろあって源氏車+矢筈紋も使用しているようです。

要するに<平家の家長の嫡流を名乗る家>はこの紋を使用しています。
(誰が名乗ってもおかしくないので<嫡流>と名乗りたいヒトは使用したい紋だとでも思ってください)


伊賀の服部の一党は後醍醐天皇のお子様達をそれぞれ頂いて日本全国に散りました。
1部は九州にも流れ
私が知ってる人では諫早の西郷家に仕えた服部氏がいますが
西郷家は竜造寺家に負けて滅びました。(薩摩の西郷家との関係は不明)


小川さんの御先祖さまは服部村に行って服部の名を名乗った時に服部家の紋も継いだのかしら?
もともと平家の服部家も伊賀の名家である秦氏の服部氏の名を1006年以降伊勢伊賀に移った時以来名乗ってるのです。


確かに「海老名源八」という人物は保元物語で義朝の家来として名が書かれているそうです。
名前からすると海老名氏は「源氏」です。
でも海老名の弾正かどうかは私には調べようがないのですけど。


御先祖さまは源氏という事で海老名氏を頼られたのかしら?
それで駄目で服部村に行って定着?


服部村も日本全国にありますしね。
伊賀や大坂や岡山の服部は有名ですけど。


柳川の立花氏は戦国時代以降名が出て来た家なので
立花氏に仕えたのは江戸時代あたりなのかしら?


お盆が近いので御先祖さまのことが分かるといいですね。
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月21日 16時45分37秒 ) パスワード
  

海老名源八季定についてちょっと分かりました。

子の右馬じょう能忠の子孫に
雑太郡沢田城に拠点を置いた佐渡の守護本間氏というのがいるそうです。

海老名氏とは凄い力を持ってたヒトのようですね。
[23]小川隆さんからのコメント(2003年07月21日 17時39分03秒 ) パスワード
  

暇つぶしのギャンブラーさんへ
本題から離れてしまい申し訳ありません
私の書き方が悪いようです。茂一は明治〜昭和の人でもともと料理とは無縁の人でした。家を出て頼った「海老名弾正」というのは新島襄のもとで同志社創立に加わったキリスト教の牧師で同志社の2代目か3代目の総長?です。海老名弾正が茂一とどういう関係にあったかはわかりません(一族郎党と聞いていますのでこの場合は姻戚関係だったのかと思います)。
ですから、服部の料理は武家とも関係なく、長い歴史などはありません。このことを服部料理学校側に茂一や、品子の名前を使ったり事実と異なることを書くなと申し入れたわけです。

服部村というのは近江の服部村だそうです。叔父のところの家系図の写しと九州にいる叔母の話が聞ければもう少し詳しくわかると思います。もっとも浪々の人物が偽家系図を作らしたという話はよく聞きますのでなん百年か前に作られた偽家系図なのかも知れませんが。

源氏車に並び矢の話は初めて聞きました。ありがとうございます。
WEBで検索して見てみた「源氏車」の部分が大きく異なっています。でもバリェーションなんでしょうね。
[24]さちこさんからのコメント(2003年07月21日 22時08分09秒 ) パスワード
  

小川さん。
難しい話しになりました、
私にはよく判りませんがまた詳しく教えてください。

新島襄ですか?
今日は用事があって浜松に行きました。

伊勢湾岸道路を通り、
伊勢湾の船を見ながら父と密航者の話をしてました。(笑)

新島襄は強引に中国の上海に渡り、
殆ど、不法侵入でアメリカへ行ったそうです。

>WEBで検索して見てみた「源氏車」の部分が大きく異なっています。

 何桁の輪か教えてください。
 源氏車といえば八桁と思ってましたが、
 七桁、六桁の車輪もあります。

もしかしたら大切な事かもしれません。
よろしくお願いします。
[25]さちこさんからのコメント(2003年07月21日 23時11分34秒 ) パスワード
  

明子さん。

>江戸時代で有名な忍者の服部半蔵の家は源氏車+並び矢です。

この件に関してだけは反論(笑)
半蔵家は矢筈です。
テレビや映画等では半蔵家が並び矢になってるかもしれませんが。

桑名藩半蔵家を世襲してる服部家は、
源氏車に竪並び矢筈です!細かいけど。。ごめん(気を悪くしないで)

今は平田、平田なので、(笑)

おやすみなさい。
[26]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月22日 00時31分36秒 ) パスワード
  

小川さん

「海老名弾正」って最近の人物でしたか。
(驚)

確かに柳川出身で「海老名弾正」 という思想家がいますね。
安政3年生まれで昭和12年に亡くなっている。
享年81歳、でいいのかな。


「海老名弾正」と名乗っているということは相模の海老名氏の末裔みたいですが。


さちこさん
正式名称「源氏車に竪並び矢筈」ですか。
ありがとうございます。
[27]さちこさんからのコメント(2003年07月22日 00時40分23秒 ) パスワード
  

小川さん。

寝ようと思いましたが眠れないほど気になる話でね。

茂一さんのこと、
できたら詳しく調べてみてください。

世田谷に車輪に並び矢の服部家があったと思うのです。
赤提だったか?
平貞盛を祖としている服部家です。

近江という話は信憑性があるかも。

アホ質問ですが佐々木三郎盛綱というのは、
佐々木信綱とどういう関係なのでしょうか?

まったく時代の違う人なので判りませんが、
佐々木信綱という人は明治時代の国学者で、
鈴鹿の石薬師の人です。

石薬師と言えば鈴鹿で古市さんの多いところです。

小川さん、
私には参考になる答えが出来ないかもしれませんが、
戦後のどさくさにまぎれて系図を乗っ取る家はあると思います(笑)
[28]さちこさんからのコメント(2003年07月22日 20時14分48秒 ) パスワード
  

小川さん。

学園のHP見てきました。
あの家紋で源氏はいけませんね(笑)

初代が服部安重となってましたが、
これは小川さんのご先祖と考えていいのでしょうか?

これ一つでは判断出来ないですが、
安の字は能の金春流の通字です。
服部家やその関連で安の字が使用されてる場合、
金春流と関係していると推測されるものが多いです。

服部家ではないけど、
大久保長安も金春流その一人です。

佐々木といえば近江が発祥の地だそうですが、
狂言の和泉流が佐々木源氏としてるように、
佐々木氏と能楽はゆかりが深いです。
その関係で佐々木盛綱が先祖という事になったとか?
調べてみましたが私の持っている資料には柳川藩関係は載ってませんでした。
系図が判れば代々どんな字を使用していたか教えてください。

近江で服部村だとしてら、
おそらく今の守山市だろうと思います。
甲賀とはお隣同士です。
守山市に服部遺跡というのがありますが、この辺りの遺跡からは、
考古学の常識を覆すものがどんどん発掘されてるそうです。

弥富の服部家の事とはちがい、
ワイドーショーネタにもなりかねないお話しなので、
慎重にとは思いますが、

今の校長は本名ではないのでしょうか?
それとも違う系統の服部家が茂一さんの子孫に成りすましていると言う事ですか?

染谷さんが出入り禁止になったそうですが、
これは非常に引っかかります。
このあたりに、何か原因が隠れてそうな気がしますが。
[29]HAZUさんからのコメント(2003年07月22日 21時12分00秒 ) パスワード
  

 柳川立花家の家臣については、『柳河藩享保八年藩士系図』というものがあります。
 その本に源姓の服部家が1家ありました。
 立花鑑虎公のときに仕えた服部勘兵衛安義から始まる家です。享保年間までしか書かれていないため、その子の左吉安泰で終わっています。二人とも、役は助頭役ですね。やはり料理とは関係なさそう(^_^;
 紋は車内矢筈です。

 柳河藩にはもう1家服部家がありますが、こちらは本姓平氏ですね。

筈衛
[30]小川隆さんからのコメント(2003年07月23日 00時13分18秒 ) パスワード
  

さちこさん、HAZUさん、色々教えていただいてありがとうございます。たまたまとれた休みにこのサイトを見つけて書き込んだのですが来月10日杉くらいまで仕事が忙しく、朝出勤して帰りは最終電車と現状でしばらく調べる時間がとれそうもありません。今現在私の知っているのは佐々木三郎盛綱を祖とする系図の写しと柳川藩で禄をもらっていたこと、家紋が源氏車に並び矢であること(近江の服部村で姓を服部に変えたというのは系図に書かれていたと聞いている)くらいで、時折来る母の従姉妹と九州にいる母の従姉妹に聞ければ(当然叔父のところの系図の写しも)詳しくご報告できると思います。
はずれた話の方は彼はおそらく本名ではないと思います。どこかに養子に入って変えれば別ですが(ちなみに彼の父親の道政さんの本名は「染谷栄」さんだそうです。道政さんのお父さんは戦前台湾で警察官をしていたと聞いています。
[31]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月23日 11時24分58秒 ) パスワード
  

服部安重という人が実在したのか
そこが分かれば面白いですね。

公家の料理法に対して武家の料理法があって当たり前なのですから。

それに高家が幕府の儀式指南であったように
幕府の料理指南がどの家だったのか。


私は上記のおせち料理の件で南朝方武士の家から始まったように理解してたのですけど。
それで(なんで源氏なんだ?!)と思ってたのです。
徳川家に追従したのか源姓を下賜されたのかと。


うちの甲賀の親戚も並び矢なのであっちは並び矢が多いのだろうと。
もともとは伊賀も甲賀も同じ国だったそうですから。
[32]さちこさんからのコメント(2003年07月23日 21時07分16秒 ) パスワード
  

>立花鑑虎公のときに仕えた服部勘兵衛安義から始まる家です。
 享保年間までしか書か れていないため、その子の左吉安泰で終わっています。
 紋は車内矢筈です。

HAZUさんありがとうございました。

安重とは同じか、同系の服部家でしょうね。
家紋は車内矢筈。

小川さん。
家紋の件ですが、矢筈と矢羽を混乱なさってませんか?
もし矢筈であれば小川さんお話し大変つじつまがあうのです。
こちらも確認してみてください。

あちらの服部家は家紋がHPでは丸に並び矢羽になってました。
安重もおそらく車に矢筈を使用していたものと思われます。
安重の直系の子孫の家紋が丸に並び矢になる可能性はないように思います。

学校の運営など複雑な事情もあるだろし、
第三者が口出しする問題ではないとした上で。
家紋から判断すると、
別系の服部家が入ってる可能性大です。


[33]小川隆さんからのコメント(2003年08月12日 17時58分28秒 ) パスワード
  

昨日やっと仕事が一段落しました。
叔父に家系図の写し(家伝書)を借り受けみてみたもののはっきりしないところがあり、結局柳川まで巻き込んでの調査になりました。
家紋は源氏車に並び矢で間違いありませんでした。佐々木三郎盛綱は頼朝より近江以西を与えられたというのは歴史に詳しい方々ならすでにご存じのことと思います。それで佐々木姓ばかりになると不都合も生じるのでそれぞれ郷の名前を姓にしたらしいです。
HAZUさん
「服部勘兵衛安義」は1661〜1713年にいた方で「勘兵衛」というのは幼名で成人後は「六郎右衛門」だそうです。安義は次男で長男は安永といって江戸詰めだったそうです。服部家は柳河に残った安義が継いだそうです。
「服部七郎右衛門安重」は立花氏再入城のおり小姓としてですが破格の禄高で召し抱えられといいます。というのも立花氏は地方の豪族だったので「源姓」をもつ服部氏は立花氏には必要だったようです。

今回みなさまから色々ご指摘を受け、私が伝え聞いていたことが間違いであったようにも思えましたが、お花等立花家ゆかりの方々から色々教えていただき、さらに百年以上も前に分かれた本家の方々とお話を聞く機会を得たことを感謝いたします。

なお本物の服部家の系図は本家にありますが伝習館にコピーがあるようです。
本家の方とのお話でも「服部料理学校」の話が出ましたが本家の方でも立花家から歴史的に時代があわないがと聞かれたそうです。再度申し上げますが「服部料理学校」の歴史は染谷栄(服部道政)氏もしくはそれ以降に作られた話です。服部家と「服部料理学校」とは全く関係ありません
[34]服部 誠さんからのコメント(2003年08月29日 03時45分50秒 ) パスワード
  

はじめまして。服部 誠と申します。

どこにコメントするべきか悩んだのですが、タイトルに「服部」が有ったので、ここへ。メールIDはスパム防止なので、@x.ne.jpを@nifty.ne.jpにしてください。

祖母が亡くなり、実家に帰って親戚一同と話をしている内に、先祖の事等が気になりだし、色々調べておりましたらこの掲示板にたどり着きました。
博識な皆様からすればまったくの無知で恥ずかしい限りですが、よろしくお願いいたします。

実は我が家にいくつかの姓に関し、その歴史的な概略、家系図などを記した本がありまして、その中に服部の姓に関しても書かれている章があり、さらにこの部分をまとめたのが私の祖父であると言うことも手伝って、祖先の事に関しては少し興味が有ったのですが、ちらちら読んで「ふ〜ん」程度でした。まぁはっきり言って難しくて良く解らないのですが・・・(恥。
で、その中に観世流も服部と関連のある家で、へぇ〜と言う感じで調べだしましたら、ここに至りました。
この本、服部以外に、秦、三上、長曽我部、大西等に関しても書かれております。とは言ってもA5版で300ページ足らずのものですので、詳しく書かれている部類には入らないかも知れません。さらに1974年に書かれたものなので、情報としては既に古い部類に入っているかも知れません。なお、発行元は日本家系協会となっていますが、自費出版と思われます。

もし皆様方がこれに関してご存知なく、何かお役に立つような内容で有ればと思い、余計なお世話を承知でしゃしゃり出てきました。もっとも何か訊かれて、答えられる程の能力があるのか?と言う心配もありますが・・・。

今後、この本の内容をテキストにし、HPなど立ち上げようかとも思っております。いったい何時完成できるのやら皆目検討も付きませんが・・・。

なお、当家は伊賀上野の出で、祖父の代に京都に移り住んでおり、家紋は源氏車に並び矢羽(縦に二枚)となっております。
別に、当家の15代前からの系図を記した物もあるのですが、残念なことに上記の本の家系図とは繋がりが取れていないと言うことらしく、本当の意味でのルーツは今のところ不明です。

しかし・・・、興味を持ったときには尋ねるべき相手が既に亡くなっており、まったくもって「しまったぁ!!!!!」と言う気持ちです。釈迦に説法とは思いますが、皆様も尋ねる相手が居る内に精一杯訊ける事を訊いておきましょう!

ところで、時たま登場する服部ホンヤとは何の事でしょうか?
[35]さちこさんからのコメント(2003年08月30日 14時25分26秒 ) パスワード
  

服部 誠さん。
はじめまして。

色々と情報ありがとうございます。
家紋は八桁の源氏車ですか?
それなら我家と同じです。
必ずしも家紋が同じだから近いところで系図が繋がるとは限りませんが、
やはり親しみを感じます。

平熱ではおもに尾張の服部家や、
戦国時代長島で織田信長と対立していた服部家の話題が多く、
何故ここが伊賀と関係があるのかと思われてるかも知れません。

後醍醐天皇の孫にあたる親王にお遣えし尾張津島に移り住んだ、
服部伊賀守宗純の話が時おり出ますが、
宗純(或いは家継)創建の寺が津島にあります。
雲居寺というのですが、
こちらの檀家の服部家も源氏車に並び矢羽を使用してます。

こちらの服部家は皇極天皇の末裔としてるそうです。
皇極天皇といえば天武天皇の母で、
秦河勝とも同じ時代を生きた人なので大変興味深いのですが、
なかなかご住職がお急がしようでお話しを聞く事ができません。
九月にはお訪ねする事ができるのではないかと思いますが。

我家の菩提寺は桑名の長禅寺というところですがもとは長島にありました。
源氏車に並び矢の服部家が多いようですが、
源氏車に違い矢、丸に並び矢、丸に違い矢そして丸に抱き茗荷の服部家があります。

誠さんがお持ちの系図の本は家紋のについても書かれてますか?
服部一族という1984年家紋協会発行の系図のコピーがあります。
詳しく書かれているものの、
殆どは矢筈の家紋の服部家です。
並び矢系は二件あるだけです。

ここに書かれている矢筈系の服部家は信長に仕えた後家康に仕えてるようです。

車輪に竪並び矢の服部家は、
伊賀越えで功績のあった服部貞信系のものでした。

誠さんがお持ちのものはいかがですか?
できれば詳しく教えてください。
そちらの服部家は信長と対立してたのでしょうか?
その辺りも是非お願いします。

長島の信長との対立と伊賀は連動していたかどうか、
この当時の伊賀の服部家と長島の服部家の関係等が解明できるといいと思います。

これからもよろしくお願いします。

>ところで、時たま登場する服部ホンヤとは何の事でしょうか

こちらの家は愛知県弥富にある重要文化財のいえです。
旧市江村の庄屋で、
津島祭りの市江車を長島の一向一揆のあとから継承してる家です。
尾張徳川家とは親密で八代将軍宗勝公を養育しました。

是非いちどご見学にいらしてください。
こちらの家も詳しいことは調査中ということだと思います。

[36]さちこさんからのコメント(2003年08月30日 23時06分08秒 ) パスワード
  

  ↑
 訂正。です。

八代将軍宗勝公ではなくて、
八代尾張藩主宗勝公です。ごめんなさい。
[37]服部 誠さんからのコメント(2003年08月31日 01時53分48秒 ) パスワード
  

さちこさんこんにちは。

私のHPアドレスは「服部」には全く関連ありません。単なる呼び込みです(笑。

>家紋は八桁の源氏車ですか?

そうです。
<a href="http://member.nifty.ne.jp/nazozen/NekoS/Kamon.gif"> これです</a>いいかげんに作ったので、ちょっと不正確ですが。

>必ずしも家紋が同じだから近いところで系図が繋がるとは限りませんが、
>やはり親しみを感じます。

ですね〜。今後ともよろしくお願いいたします。

>戦国時代長島で織田信長と対立していた服部家の話題が多く、
>何故ここが伊賀と関係があるのかと思われてるかも知れません。

いえ、手元にある本にも相当広い範囲に服部が広がっていると書かれていますので、それ自体は違和感はありません。
が、Webの中でこんなに服部に関してさまざまな考察がなされていることがちょっとしたカルチャーショックです。ログを見れば5年程前からでしょうか?その当時ここを存じ上げていれば、祖母存命の内に色々きいておくきっかけになったと思います。つくづく残念・・。

>雲居寺というのですが、

今回、ついでに祖母の旧姓でも検索をかけてみたんですが、そのときに京都の雲居寺にヒットしました。関連があるのでしょうか。現在は高台寺になっているそうなんですが、これが鷲尾(わしのお)と呼ばれる場所に建っていて、これが祖母の旧姓なんです(わしお)。なんか因縁っぽいですね。

>なかなかご住職がお急がしようでお話しを聞く事ができません。
>九月にはお訪ねする事ができるのではないかと思いますが。

皆さん精力的にあちこちに調査に行かれているようですね。なかなかそこまでパワーが出ません。

>我家の菩提寺は桑名の長禅寺というところですがもとは長島にありました。

私の方は三重県阿山郡阿山町西湯舟の平泉寺です。ずら〜っと墓が並んでます。数年に一回くらいしか行けてないんですが・・・(当方現在神奈川在住です)。

>誠さんがお持ちの系図の本は家紋のについても書かれてますか?

最後のページに服部一族主要家紋と言うことで、図柄で12、名称だけで40程挙げられています。
図柄で

六つ矢車、源氏輪に並び切り竹、源氏輪に並び矢、根笹、右隅卍、片喰、三つ追い柏、蔦、揚羽蝶、左三つ巴、?十文字(字がわかりません。まるで島津の紋です)、丸に二つ引き

と挙げられており、不思議なことに源氏車に矢筈は名称のみになっていました。自分のところが矢羽なので差別しちゃってるのかも知れません(笑。
ところで、源氏車と源氏輪はどちらが正しい表記なんでしょうね?

>そちらの服部家は信長と対立してたのでしょうか?

ちょっとそこまではわからないのですが、先祖の墓の古いものに、「四国道西居士」と彫られている物があり、これが家康か、秀吉に関連してつけられていると聞いていたのですが、詳しくはわかりません。
何かご存知でしょうか?
また、自分の直系の先祖に関して書かれた系図が今手元になく、当家がどのように他の服部家と繋がるのかまだわかりません。

手元の本ですがなかなか読み進みません。そもそも歴史に全くと言って良いほど疎いもので、出てくる人物の関連すらわからず、まだまだ系統だってとらえる事ができません。
個々の内容に関してはある程度は判るかと思いますので、もし何かの事件に関わる部分や、人物に関する事が記載されていないか?などのご質問がございましたら、ご遠慮なく。

>こちらの家は愛知県弥富にある重要文化財のいえです。

おお、由緒あるお家なんですね。

弥富町HPの町の文化財のトップに載っている家のことでしょうか?すごい!

>是非いちどご見学にいらしてください。

普通に一般公開されているのでしょうか?
[38]服部 誠さんからのコメント(2003年08月31日 01時55分23秒 ) パスワード
  

すみません、リンクの指定が間違っていたようです。

これで良いのかな?

http://member.nifty.ne.jp/nazozen/NekoS/Kamon.gif
[39]さちこさんからのコメント(2003年08月31日 22時47分44秒 ) パスワード
  

誠さん!

そうそう!
この家紋です!

我家では源氏車に竪矢(たち矢)といってました。

正確には源氏車ではなく、輪というのが正しいのかもしれません。
源氏車の輪の部分なので。

長島や木曽岬には多くある家紋ですが、
伊勢では珍しい家紋になるそうです。

>おお、由緒あるお家なんですね
>弥富町HPの町の文化財のトップに載っている家のことでしょうか?すごい!

弥富の重文の服部家、事前に連絡しておけば見学可能です。
伊賀の服部家であるのは間違いないので、
機会があれば是非おこしください。
ここの家紋は源氏車に並び横矢筈です。

矢羽と矢筈、
この家紋の違いが判りません。
元は同じ服部家と思うのですが。。。
どこでどう分かれたのか。
ご存知のことがあれば教えて下さい。

以前伊賀ののイベントへ行ったことがあります。
伊賀といえば忍者で忍者関係のイベントでした。
忍者関係に関しては知識がない私には難しいものでした。
ここに集る方は殆ど忍者の研究家のかたで、
忍者に詳しくない私は肩身の狭い思いを致しました(泣)

そんな中で、
(忍者関係で実際、伊賀出身の方はいませんでした。。おそらく)
上野市の観光協会でお土産売ってるお兄さんとか、
そんな地元の方と少しお話ししました。

お兄さん。
 「服部さん家紋は何ですか?」

私。
 「源氏車に並び矢」

お兄さん。
 「並び矢って白い矢ですよね。
  黒いベタ〜とした矢では(矢筈のこと)ないですよね」

その後うちの祖母の家が服部家で並び矢羽だったとか、
服部家ではないないけど並び矢羽だったという話になりました。

上野市では忍者屋敷に代表されるように、
矢筈紋が忍者、服部家の家紋とされてるみたいです。

お土産ものやのお兄さんは、
矢羽を=白い矢
矢筈=黒い矢といってました。

「うちはは白い矢です」
「伊賀で白い矢なら苗字違っても先祖は同じ服部家!」
そんな感じでした。
  
誠さん、
矢羽と矢筈の服部家の違いもしわかることがありましたら教えてください。

伊賀の服部家の神社、小宮神社。
こちらも丸に並び矢の紋の神社です。

http://www.genbu.net/data/iga/omiya_title.htm


[40]服部 誠さんからのコメント(2003年09月01日 00時52分55秒 ) パスワード
  

取り急ぎ、家紋について。

さまざまな家系図が書かれており、この注釈に家紋の事も書かれています。ただし、全てではない所が困ったことなんですが・・。
で、これらには車もしくは丸に矢筈となっています。ほかにも向かい蝶、右二つ巴なども併記されています。

別に各地に分散した服部氏と言う部分があり、ここに家紋の事も少し(これも全部ではない)書かれているのですが、これによると山城、尾張の服部だけが車輪竪二本矢とか、源氏車並び矢等とされています。
山城の服部の方はもともと伊賀呉服明神の神職であった服部氏が天正の乱で山城国宇治田原に移った物。
尾張の方は伊賀守宗純(こちらのほうは源氏車に矢筈)の系統では無いとの事で、この部分を引用すると、

<略>南朝遺臣の後裔が山田荘石佛村にある。石佛村は、昔は長根荘御器所村の中那栗原といった<略>海部郡の服部氏と同族であるかと思われる。佐久間信盛の縁から織田氏に仕えたが、後浪人として尾張に住み着いたと言う。これが左源太滿善で<略>
出でて尾張の徳川氏に仕えた家もあり、石倶町を中心に広く反映した一族である。

となっており、家紋にはほかに丸に並び矢羽も記されています。
[41]小川隆さんからのコメント(2003年09月02日 22時09分27秒 ) パスワード
  

服部誠さんのおっしゃる本、最近手に入れて眺めていました。
その中に「暇つぶしのギャンブラー」さんが書かれていた
「源氏車+並び矢紋は平家の伊賀(服部)家長が弓のコンペで優勝して六条院から褒美に車一杯の矢を拝領してそれを記念に伊賀の服部家の紋としたそうです。」
という記述に似た文章がありました。
「〜七十九代六条院より真羽の矢一千を手車に積みて宣下あり、家長自他の面目是に過ぎず、是よりして矢筈車の紋を平氏服部一族の惣紋と為せり」
この本はなかなかおもしろいですね。是非ホームページの立ち上げがんばってください。もっとも私どもの「服部」は書かれていませんでしたけれども(笑)
[42]川口 信さんからのコメント(2003年09月03日 08時09分02秒 ) パスワード
  

さちこさん お元気でしたか。 鹿児島の方へ行ったそうですね、お土産話を聞きたいです。

矢筈と矢羽については下記URLに書いてありました。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/ya.html

 矢羽・矢筈について、古くは「羽継原合戦記」(長倉追罰記)に「矢はすくるまは服部」と書かれており服部氏の定番紋となっております。

矢を良く見ると、鏃(やじり)・矢柄・矢羽・矢筈の四つの部分より出来ております。家紋として使用するにはそのままではまとまらず、図案化しなければ出来ない。でもそのままの姿:鏃から矢筈まで一つとして紋に使用しております家が、大田氏です(同羽次原合戦記)。以上のように古い物として矢筈、後世になってから矢(上下に節が出ている)になったように思いますが。時代とともに洗練されてか?。

 大別して:並列(並び矢羽・横矢筈・)
 交叉したもの:(違い鏑矢・違い矢柄・違い矢羽)
 車の幅状の中に配列したもの:幅(スポーク)の数を変えバリエーションを持たせ、他家と区別。

矢筈。本来は矢の後部にあたり、矢羽の先にある部分で筈巻、矢羽となります。矢が弦からはずれないようにした切込み(M型)であるが、家紋として簡略し矢羽をも矢筈といい、混同しております。

幕臣の服部家では八桁車の内矢筈二とか十六桁矢筈車、矢筈車、車輪竪二本矢、源氏車の内矢筈十六桁車の内横矢筈とかと記載されており、矢羽とは書かれておりません。
その源氏車の内矢筈を使用している家なのですが、服部左京亮が矢筈車、その子供信成(妻が川口家と婚姻)、直系の信解、弟の家の信親、共に母親が川口久助宗次で、何故源氏車と称しているのか分かりません。
 他の服部家では車を使用していますが、源氏車とは称しておりません。

服部氏について。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/90-100/hattori.html

服部誠さん 初めまして。家系調査を高尚な趣味と考えている私にとって、お仲間が増え喜んでおります。

>貴文中の服部家に関する記載のある本(発行元は日本家系協会となっていますが、自費出版と思われます。)
 
これについてはちょっ気になることがあります。それと言うのは、1974年(昭和四十九年)から同五十年頃、日本家系協会は各姓氏について約500姓氏の本を連続出版しております。「服部一族」の本は見たことがありませんので、どうのこうのと言えませんが、同じ頃出された「川口一族」を持っております。

これは出版にあたり案内書をその氏名の家に送り、資料をお持ちの方はお知らせ下さいと呼びかけをしたもので、内容は「姓氏家系大辞典」および「寛政重修諸家譜」など地方史誌をまる写したものやちょっと手をくわえたもの(活字でなく手書きのもの)で内容に関しては目新しいものはありませんでした。購入希望者を募り、限定発売したもので、申し込み者以外は求められない。川口一族は頁数が少ないので(百頁足らず)、和綴じになっております。でも色々な文献から集めたものでその意味ではあちこち見なくて済むので重宝ですが。

多分貴服部様のお持ちの本も同じ手順で作成したものかもしれません。もう一度ご確認ください。
 貴服部家の十五代の家系と本の系図が繋がらないとのこと、それは上記のようなことで幕府や藩の武家の系図はちゃんと整理・整頓されており、繋ぎようが無い訳です。

 以上のように、自費出版されたものではないかもしれません。もう一度お確かめしてからHPなどは作製されたほうが懸命かと思いますが。念のため老婆心からですので、お気を悪くしないでください。また調べた結果などコメントをお待ちしております。もし見当はずれのことでしたらご容赦のほどを。

 小川様 初めまして、色々とコメント拝見しております。ご研究でお分かりのことなど是非、ご披露ください。お待ちしております。

[43]服部 誠さんからのコメント(2003年09月03日 12時02分57秒 ) パスワード
  

小川隆さんこんにちは。

>服部誠さんのおっしゃる本、最近手に入れて眺めていました。

親族以外で持っておられる方は初めてです(笑。
てっきり自費出版物と思っていましたが、日本家系協会に確認してみましたら、やはり川口さんが言われる様に、通常の出版物でした。
まさかこのようなものが商業出版物として成り立つとは思っていなかったのと、家族から聞いていたことから、自費出版とばかり思っていました。でも、色々Web等を検索してみて初めて知りましたが、こういった物を求める方って想像以上に居られるようですね。
こうなると服部一族部分を書いたのが祖父ってのも、なんだか怪しいなぁ。
日本家系協会に電話したときに聞いたのですが、今では服部一族だけの本が出ているという事でした。これの著者はぜんぜん知らない方でした。100ページ程のものでしたが7000円もしたのにはちょっとびっくりしました。というか、このくらいじゃないと成り立たないんでしょうね。

川口 信さんこんにちは。

全くお恥ずかしい話ですが、矢筈ってのは矢羽を簡略化した図案だとばかり思っておりました。別の部分だったんですね。
おまけに、自分の家が矢羽だったもので、こっちが本流、矢筈の方が分流だと思っていました。ぜんぜん逆ですね(笑。

http://www.iga-web.com の郷土史あれこれにある、第八十三国立銀行のところに、

>服部家の家紋は、能楽の観世家と同じ矢筈車紋で、かつて数多くの能面が所蔵されていたが、大正時代の経済界の変動でつぎつぎと姿を消していったという。

とあるのですが、服部家という意味では矢筈で合っているのかも知れませんが、ここに書かれている服部甚蔵康盛は私の曽祖父に当たりますので、矢羽が正解。このようにして混乱が広がっていくんだなと、変に納得しています。

ちなみに、

>大正時代の経済界の変動でつぎつぎと姿を消していったという。

要するに銀行が潰れて色々な物をうっぱらってしまったって事です(笑。当時はお金持ちだったかも知れませんが、今は見る影もありません(泣笑。

> 以上のように、自費出版されたものではないかもしれません。もう一度お確かめしてからHPなどは作製されたほうが懸命かと思いますが。念のため老婆心からですので、お気を悪くしないでください。また調べた結果などコメントをお待ちしております。もし見当はずれのことでしたらご容赦のほどを。

気を悪くするなど、とんでもございません。ご忠告ありがとうございます。
[44]さちこさんからのコメント(2003年09月04日 00時11分22秒 ) パスワード
  

>以上のように古い物として矢筈、
後世になってから矢(上下に節が出ている)になったように思いますが。
時代とともに洗練されてか?。

川口さん。
これは違うのでは?
誠さん信じてはいけません。(笑)

時間がある時に詳しく書きますが、
幕臣になった服部家というのは伊賀越えで功績があったりとか、
織田家に仕えた服部家です。

誠さんのもってる系図と、
私の元にあるのもおそらく同じようなものと推測されます。

徳川家(松平)の家臣になった服部家、
確かに矢筈系ばかりです。

よく考えてみてください。
桶狭間の戦いの時、
大高で服部家は千艘の船で今川軍に協力し、
織田信長をはさみうちする作戦でした。

江戸時代に書かれた尾張志だったかには、
服部家の船が20艘になってしまってますが。(泣)


服部友貞(左京亮)の名が記録に残る頃、
急激に尾張に勢力をもって織田軍を反撃してます。
当時尾張四郡を支配していた織田家、

桶狭間の前、
尾張四郡のうちの一つ河内を奪還してます。

そして今川と手を組み桶狭間で信長軍を攻め滅ぼすはずでしたが。。
今川が奇襲攻撃にあい義元が討ち取られる。
服部軍は出る幕がなく敗退。

当時の服部家の勢力を考えれば、
今川軍と合流すれば織田軍など赤子の手を捻るようなものであったのではないでしょうか?(ワッハッハ!)
それが判っていたからこそ織田信長は今川に奇襲攻撃したのでは?

家康はその頃今川の人質で、
服部軍のいる大高で兵糧運びをしてました。
大高で使用していた家康の甲冑が残ってますが、
給食のヤカンをつぶしたみたいな粗末なものです。
桶狭間の時点では誰も家康が後に天下をとるなど考えてなかったと思います。

で何がいいたいかといえば、
家康の家臣などになる服部家が由緒正しい服部家だとは思えないのです。
 
 (時を経て徳川の家臣であった服部家の御子孫の方は、
  うちなどと現在も立派なお家柄であることは間違いないので、
  これは誤解なきようお願いします。)

矢筈車が服部家の総紋とあり、
観世家の家紋にもなるそうですね。

天下の大観世。
現在では立派なお家柄で誰もが認めるところです。
(スキャンダルおおいけど。。)

でも観世家が使用してるからこそ、
矢筈が服部家の嫡流紋ではないこと明白なのではないですか?

世阿弥の登場で猿楽と言われていた物まね芸能が、
急に高貴な身分の人々にも観賞する芸術的なものになりましたが。
またこれについては私の私見を書いてみたいですが。








 
[45]さちこさんからのコメント(2003年09月04日 23時54分52秒 ) パスワード
  

夕べは矢筈紋が古く、
後に矢羽になったと言う説で桶狭間までぶっ飛んでしまって失礼しました。

39
でリンクした伊賀の小宮神社は伊賀服部家の惣社。

くどいけどもういちど。

http://www.genbu.net/data/iga/omiya_title.htm

旧阿拝郡からあった服部家の神社です。
丸に並び矢が神社の紋です。
伊賀の平氏系服部家の本拠地であったと思われます。

源氏車があるかどうかは、
その後の権力者(金があったか、武力があったか?)
の都合かもしれません。

伊賀服部家の家紋の原型は並び矢羽です!

赤穂の秦河勝の墓がある大避神社も矢羽を使用してます。
八本矢車、違い矢羽など、矢筈ではなく矢羽です。

>誠さんのリンクより。


 第一国立銀行は、この銀行制度の模範となるように、
 政府勧奨のもとに東京に設立 された。
 土地の人に「はっさん銀行」として親しまれた八十三銀行は、
 現在の阿山町西湯舟の旧無足人家で「かせ甚」と呼ばれた素封家・服部甚蔵康盛を 頭取に、上野市万町の士族・菊本保有を支配人としてスタートした。   
 資本金は五万円であった。
 服部・菊本両名の名前が記載されたハイカラな紙幣が発行され、   
 服部は「銀行の紙幣へ頭取・服部甚蔵の姓名を記載し、 
 皇国一円に流通させる事となったのは不肖康盛の歓喜とするところ、  
 家慶も之より大なるは無い」と自らの一代記にその感動を記している。
 服部家の家紋は、能楽の観世家と同じ矢筈車紋で、
 かつて数多くの能面が所蔵されていたが、
 大正時代の経済界の変動でつぎつぎと姿を消していったという」

http://www.iga-web.com/kyoudosi.htm

服部甚蔵氏は実は源氏車に並び矢の服部家だったのですね!

不思議なことなのだけど、
私の祖父も何故か政治経済に明るい人でした。

うちが住んでいた木曽岬というのは今でも田舎で、
祖父の時代は、
電気もない、
新聞もない勿論電話もありませんでした。


今でも農協や郵便局はあるけど銀行はなく、
信号も町中に三つあるかないかの名古屋に近いながらもとんでもないところです。

そんな田舎ながら祖父は株や先物取引に詳しく、
実は大もうけしてました。
株で儲けた金で土地を買い、
安く買った土地を高く売り、
また株を買って。。。
そして土地を買う。
どんどんと土地を広げました。
まさしくバブルな我が服部家の時代でした(笑)

昭和二年の大恐慌のときは大損したみたいですが、
めげずに株をかってました。(らしい。)

いったい何処でそんな株やらの情報を祖父が得てくるのか不思議で、
田舎では危ない一族とされてました。

約80年前、
木曽岬で服部御殿なるものを建てたのですが、
伊勢湾台風で全て流されました。

祖父は戦時中、結核でなくなりましたが、
太平洋戦争が始まりまだ日本が戦勝モードの頃祖父は、
どこから情報を得たのか。

「この戦争は日本に勝ち目がない、
 日本は負ける。」

「戦争に負ければ、日本の株の額面は0に近くなる。
 その時が株の買い時!」

等と言って、
日本が戦争に負けるのを待って金儲けしようという、
とんでもない、じーさんだったみたいです(笑)
(やはりユダヤ人か?)

それ以前から戦争が始まりそうになると、
造船株や、鉄鋼株等を買って儲けてたそうです。

百姓仕事などやめや〜。
という祖父と違い。
祖母はせめて先祖の土地を百姓しとらな世間体が悪いと、
一生懸命働いたそううな。

戦後になって祖母が百姓していた土地以外は、
すべて没収!

祖父は戦時中に亡くなりました。

祖父の教えでこの時株やら、
経済の波に乗ったら大儲けと父は思ったそうですが、
祖父が亡くなり祖母から株や先物取引禁止令が我家にでたそうです。

それ以来平凡な日々です。

昔はなにかネットワークがあったのかしら?
[46]小川隆さんからのコメント(2003年09月07日 18時59分01秒 ) パスワード
  

先祖を追う、系図を追う、歴史を追う面白さを教えてくれたのはこのサイトです。
訂正を行いませんでしたが私の先祖調べに協力していただいた
「…さらに百年以上も前に分かれた本家の方々…」は実は約三百年前に分かれた服部家(「筈さん」が調べてくださった『柳河藩享保八年藩士系図』に載っている「服部勘兵衛安義」の直系で、私の方はその兄「安永」の系統)でしたが言葉にはできぬほどご親切に教えてくださいました。時間空間が一挙に飛んでしまった気がしました。まるで近い親戚のような気がしました。また、別件「料理」の方も「安義」さんのほうでもひどく怒っておられ、これはこちらの家系で起こしてしまった問題なので私がS(H?)氏のところへメールしました。結果は「いけない家紋」のホームページをみて推察してください。このことについては以降コメントは控えるつもりです。

矢羽根と矢筈さえ間違えて書いたわたしですがさちこさん、筈さん、暇つぶしのギャンブラーさん等にアドバイスをいただいて調べる面白さを知ってしまいました。
誠さんのおじいさんが関わったという本をみて書かれていることの裏付け(無論断定にはつねにいたりません)をとったりネットサーフィンしたり。

歴史というやつは本当のことはいつも藪の中です。だからあれこれ推察する楽しみがあるのでしょう。言い伝え、歴史書、物語の矛盾、小説よりも奇なること…。色々な材料がありそれをそれぞれが調理する、できあがったものは百葉で味も見栄えも各々に好みがありどれが一番とはいえないと思っています。だから自分が至った結論こそが一番なのではないでしょうか。

「筈さん」が調べてくださった『柳河藩享保八年藩士系図』この材料は結構パンチがありました。これがなかったら時間に追われていることをいいわけにしてそれ以上調べなかったかもしれません。当然今回親切にしていただいた服部さんとも知り合うことは無かったと思います。
享保元年に安永がなくなり安永の長男は出奔(本当の出奔なのかどうかはわかりませんがわが服部家の歴史からは消えました)、次男早世と跡継ぎ問題が解決されてなかったんだろうと思います。とりあえず安祥が相続したのを確認出来ました。「家紋の源氏車に並び矢」これは資料館の館長から「『柳河藩享保八年藩士系図』は柳川市の編纂したものでしょ」といわれてしまいました。ですから伝わっている通り「源氏車に並び矢」を信じることにしました。この紋はさちこさんや誠さんと同じものです。昭和40年代には家紋の本には載っていなかったと思います。またこの紋については九州の叔母(正しくは母の従姉妹)から女紋だったと聞いたことがあるような気がすると不確かなコメントがありました。*紋には定紋以外に裏紋とか女紋とかあるようです。裏紋や女紋がいつのまにか定紋にかわることは考えられます。

小宮神社のホームページ見ました。見たことで出てしまったくだらないどうでもよい疑問がひとつ
 「本殿の幕には、鷹の羽の紋がついていた」とあるのですがこの紋は何を示しているのか誰か知っていたら教えてください
小宮神社は伊賀服部氏の惣社ですが平系伊賀服部宗純系は伊賀服部氏とイコールですか? 伊賀呉服明神神職であった服部氏(定長系)が天正の乱の時に山城国宇治田原に移ったようですが貞永系は車輪竪二本矢が多いようです。

 六条院のコンペの話。多分これは伊乱記からのものだと思うのですが六条院は1165年〜1168年(二条院と書いてある書物もあるそうです。二条院は六条院の前)なのでこの話は私には後々作られた話に思えてなりません。壇ノ浦から生還した家長(この話は真であれ偽であれ私は好きだからいいのです)は服部の郷に入って初めて服部氏になるのでしょうから。
[47]さちこさんからのコメント(2003年09月07日 22時25分53秒 ) パスワード
  

>「本殿の幕には、鷹の羽の紋がついていた」
 とあるのですがこの紋は何を示しているのか

鷹の羽と並び矢はよく似てるので見間違えたということではありませんね。

こちらのHPも小宮神社のものです。
その幕らしきものが写ってます。

http://www.kamnavi.net/en/mie/omiya.htm

矢に見えるようにも思いますが。。。
確認してみないと判りませんね。

何故鷹の羽かあくまでも私の推測ですが。
小宮神社は伊賀の二ノ宮です。
一宮は敢国神社のちに服部家が私的な祭りを行ったとされますが、
元はアベ一族の神社だったそうです。
アベ一族が鷹の羽の紋を使用してるのでその関係も考えられますが。

敢国神社は大彦命を祀ってるのですが、
他のスッレドで大彦命を祖とする家が、
鷹の羽を使用しているとおしえていただきました。

六条院のコンペの話、
私も後世に作られた話だろうと思います。
でもこれは伊乱記からより以前からあった話かもしれません。

明子さんのいう源氏車+並び矢というのは何から引用したものですか?

家長の末裔とする服部家が多いのはやはり、
平家物語に登場し名が残っているからでしょうね。
必ずしも伊賀服部家の祖が家長であるということではないでしょうし。
服部家以外にも家長を祖としてる家もあるみたいですし。

でもこれらは今となっては調べようがないですね。

これとよく似た話というか、
服部伊賀守宗純というのも浪合記という南北朝時代の終わりの話の古典に、
名が残っているので、
尾張あたりの服部家は宗純に系図を繋げてる場合が多いです。

宗純の何代か後の子孫の津島の地頭服部平左衛門が、
足利氏に伊賀の服部家の頭領間違いなしとの文書を下賜されたという話が、
以前は何かに書かれていたのかその部分を引用した話がよく書かれてます。

だから系図を作るさいに飛びつくのだと思います。

頭領云々の話ですが、
誰からも伊賀の服部家の頭領とみとめられる家であれば、
何もわざわざ当時の足利氏から文書を下賜してもらう必要などないのではないか?
と思いますので尾張の服部家が伊賀の服部家の嫡流などと主張しませんので、
他の地域の服部家の皆さん誤解なきようお願いします。

でも室町時代から戦国期津島で勢力のあった服部家というのは間違いなさそうです。
この宗純が創建したお寺が津島にあることを書きましたが、
宗純が一族の菩提寺としてそうけんしたそうです。
ここの檀家がやはり源氏車に並び矢の家紋を使用してます。

おそらく宗純の家紋であっただろうと推測してます。

まが書きたいことがありますが今日はここで。



[48]服部 誠さんからのコメント(2003年09月07日 23時52分21秒 ) パスワード
  

こんにちは。

>これは違うのでは?
>誠さん信じてはいけません。(笑)

え〜っと・・・。これほんとに笑ってていいのでしょうか?(笑

>家康の家臣などになる服部家が由緒正しい服部家だとは思えないのです。

これとか、

>矢筈が服部家の嫡流紋ではないこと明白なのではないですか?

これは、説得力がありますねぇ。

ところで、前回記述しました、服部甚蔵(曾曾曾祖父でした(笑))が残した自伝のようなものがありまして、これの最初に、

「当家遠祖、伊賀平内左衛門尉、平の家長公より二十有余代の後胤、中興の祖、服部菊之介平康近公より、今、康盛の代に至るまで十有一代。」

と記されていました。服部菊之介平康近は当家の一代目として家系図に記されている人物です。
どうしてこの人が一代目になっているのか?などの事情は全く書かれていません。
本文中にも、家長から、康近までの繋がりは全く不明とも書かれているので、結局はっきり判りません。

また、

「中興の祖、服部菊之介康近公、<中略>豊臣秀吉公、四国出馬の御時、属兵となり出軍されたが<後略>」

となっており、さらに、

「当家の家格は天正〔西一五七三〕年度以前には湯舟庄五地頭と言い、岩田、服部、三つ矢、田名瀬、杉本の五家で当村一体を分領した。<中略>。ところが天正年度、伊賀国大乱の際、五家は織田信長に降った。」

と記されています。つまり、信長->秀吉の流れで、とすればやはり矢筈?
なんか頭の中が混乱しております・・・。

>不思議なことなのだけど、
>私の祖父も何故か政治経済に明るい人でした。

当家では曽曽曽祖父から曽祖父までは商才が有ったのかも知れませんが(結果的に銀行を潰したので商才は無かった?)、それ以降は全く(笑
祖父も父も叔父も学校関係が多く、私も普通の会社員。

とりあえず、服部康盛が書いた自伝および、それを編集した祖父の書いた部分から、家系や家紋に関して述べている部分だけを抜き出してみましたので、何かの参考になれば幸いです。
本からOCR処理したものですので、推敲漏れはご容赦を。

http://member.nifty.ne.jp/nazozen/NekoS/IntoroPage.html

こちらは当家家系図です。もしかすると最近の方に関しては問題があるかも知れないので、曽祖父の代までです。
どなたかと繋がったら面白いですね。

http://member.nifty.ne.jp/nazozen/NekoS/Kakeizu.html
[49]服部 誠さんからのコメント(2003年09月07日 23時54分40秒 ) パスワード
  

あ、先ほどの家系図ですが、私のところではIEで文字サイズを大か小にしないと配置が崩れました。
[50]川口 信さんからのコメント(2003年09月08日 07時18分17秒 ) パスワード
  

 服部誠さん おはようございます。

 >誠さん信じてはいけません。(笑)

 >家康の家臣などになる服部家が由緒正しい服部家だとは思えないのです。


 >矢筈が服部家の嫡流紋ではないこと明白なのではないですか

一番と二番はそうです。幕臣だけが服部家ではありません。服部家にはもっと歴史があり裾野は広いです。

三番目もそうです。嫡流紋かどうかは、もっと旧家が自分の家の由緒を公開して論議すれば良いことです。
 
 貴ご先祖様の由緒を記述したURL大変に勉強になります。早くホームページを立ち上げて展開してください。そうすれば、読者からの反応も掴め、研究も進むと思われます。我々一般庶民は公に出版された本とかHPの知識かないので片寄った見方しか出来ないわけで、公開する家々が増えれば増えるほど、正確さが増すわけです。

 矢羽紋が応仁・文明時代(矢筈紋初見)以前に使用されていた事実がわかれば、解明するのですが。今後の展開が待たれます。

 
[51]小川隆さんからのコメント(2003年09月13日 19時27分29秒 ) パスワード
  

川口さん、仰るとおりだと思いますが結構難しいですね。人の意見を否定するには否定しうる根拠を出してあい戦わせるというのが本来のルールであることは間違い有りません。独断と偏見それもある程度許されると思います。前にも書いたように歴史は藪の中です。だから少しでも材料を出し合おうじゃないかというのはもっともです。最終的には個々の判断に委ねられるとしても。南北朝、下克上、戦国時代と系図を追うにはかなり難しい時代がありました。第二次大戦、天変地異これも史料を紛失させただろうと思います。江戸以前の史料で正しい正しくないは別として参考に足るものはおそらくお公家さんの家に伝わるものとか紛争に巻き込まれず、災害にも遭わなかった旧家、寺社のモノくらいだろうと私は思っています。とはいえ言う以上どこで突き当たるにしろ検証していくしかないんですよね。切れ切れになっていたものがつながって新たな根拠になることだって有るかもしれませんし。
ということで時間の許す限りネットで調べてみましたが見つけることはできませんでした。社寺の紋は社寺の創建がいつだったからというのはおそらく根拠にはなり得ないでしょう(残っている史料の時代が解明できるものは別です)。合戦図ものぞいて見ましたがよく分からないものばかりでした。「東山殿御紋帳」を見られないかと検索したがなく、『諸家紋尽』(新井白石の筆写したととある)に行き当たりました。そこに矢羽があります。三十三張りの日奉氏流田村氏の紋が矢羽です。なお『諸家紋尽』にはいわゆる矢筈紋はありません(三十張りに日和佐氏の紋があるが矢筈というよりは切り竹にみえます)。文書としては『羽継原合戦記』に「矢はつくるまは服部」というのがあります。時代的には1435年のことを書いてあるのですが作られたのは江戸初期という説もあるようです。もし日佐和氏の紋が矢筈なら矢筈は今のような形ではなく切り竹だったかもしれません。能勢氏の位牌にある切り竹矢筈十字というのが手がかりになるかもしれませんね。川口さん、不勉強な上検索もあまり上手くないので申し訳有りませんが「応仁・文明時代(矢筈紋初見)」というのはどんな史料だったのでしょうか?教えていただけますか。
あと二つどなたか知っていたら教えていただきたいことがあります。自分で調べてはみたものの自分を納得させる根拠にぶち当たらなくて…。
 「近州」と「江州」。殆どのものが「江州」ですが「近州」という表記もあるようです。「近州」イコール「江州」なのか、地域にずれがあるものなのか?
 「伊賀守」について。「伊賀守宗純」とよくでてきますがこれは称したということで任官されたわけではないというのが私の持論です(江戸時代の名乗りみたいなもの)がひょっとして任官されたという根拠をお持ちのお方がいれば是非教えてください。
[51]稲守 正博さんからのコメント(2006年04月26日 15時15分12秒 ) パスワード

はじめまして、私は服部姓ではありませんが、先祖代々の墓(江戸時代以後)が四谷の西念寺という寺にあり、その寺の開祖は服部半蔵正成で、生前使用していた大槍や墓もあります。ちなみに我が家の家紋は、矢筈車、丸に二矢筈、などを使用していて、先祖は、伊賀忍家と聞いています。室町時代後期より服部家との関係を持っていたようです。本能寺の変の時に、徳川家康の伊賀越えに助力した伊賀200家の子孫が、この西念寺の檀家となっているはずです。
[52]アキノリハラさんからのコメント(2006年05月31日 15時12分05秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年06月10日 20時53分35秒
[53]さちこさんからのコメント(2006年06月04日 22時20分48秒 ) パスワード

アキノリハラさん。

はじめまして。

西念寺は浄土宗です。
桑名にある半蔵家の墓は現在日蓮宗です。

笹寺に関しては判らなかったので調べました。
笹寺は曹洞宗ですね。
正式には長善寺。

http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/tam/tama/tjo/j013/j013t.htm

長島にあった服部家の寺も曹洞宗です。
我が家の菩提寺で現在は桑名にあります。

字が違って長禅寺というのですが読み方は「ちょうぜんじ」同じですね。

四ツ谷の長善寺は天正3年開山とのことですが、
天正3年は長島の一向一揆が長年にわたる織田信長との対決の終止符の年。
もしかしたら関係あるかも知れません。
ぜひご協力ください。

>同心名は服部、羽鳥、富田、原、高野、和田、杉浦、平山等

羽鳥以外は親戚知人すべてにありです。
縁のある姓です。

富田、高野、平山は縁戚関係になるかな?

和田、杉浦は小学校の同級生。←関係ないか?

一昨年、隠岐に行ったのですが、
隠岐に渡る船や島根県あたりは原サンが多い苗字だった記憶が記憶があります。

原家と出雲は関係深そうです。

我が家が親しくしてるのは山口県の原さんだけど、
結構三重県にも多い苗字です。

>わたしは曹洞宗です。家紋は、たたらの出雲族とわかる亀甲紋です。

他の家の家紋特に服部家、羽鳥家などが判れば教えてくださいね。

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