小川もこ 近藤栄次朗 くりらじ
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 投稿番号:100351 投稿日:2002年08月23日 02時55分30秒  パスワード
 お名前:嘉村さんの代理
脊振村史の後鳥羽上皇脱出伝説

コメントの種類 :その他  パスワード

以下は嘉村さんの書き込みより


脊振村史から後鳥羽上皇の伝説を引用します。
「昔この地は絹巻の里と呼ばれ、後鳥羽上皇の陪臣西川左衛門大輔源家房の領地であった。
承久の乱によって隠岐の島に流された上皇は、ひそかに遷幸を希望されたという。
家房は.鎌倉・六波羅へはばかりながらも、後難を恐れず、左金入道等とともにひそかに船を仕立てておつれ奉った。
そして、信教寺(現・善信寺)を補修して仮の宮とした。
上皇は、延応元手〈1239年)2月22日、60歳で崩御され、
宮のうしろの丘に葬られたが、その場所を後鳥羽院の山陵.俗に「塚」という。」

と、以上でして、上皇が脊振(以前は背振)へ来られた時、
読まれたのが「かくばかり」の歌です。


今も西川さんはいて、私の遠い祖先にもいます。
話は飛びますが、このあたり、徳川さんなんて多くて、多分将軍家より古いはず。
鎌倉時代にやってきた新田の分かれでしょう。
天野遠景などもたしか鎮西奉行でしたか、やってきてますしね。
 

瀬野精一郎先生に「鎮西御家人の研究」というのがありますが面白くてしかたありません。

[1]嘉村さんの代理さんからのコメント(2002年08月23日 03時00分29秒 ) パスワード
  

嘉村さんの代理:


後鳥羽上皇ですが、全くの伝承ですが、
神埼町の北、もちろん神埼の荘の一部脊振村鳥羽院の山の上に土饅頭があり、
隠岐を脱出してきた上皇が村人の進めたヒエを食べて感激。

「かくばかり身の暖まる草の名をなどてか人はヒエというらん」
と読まれたとか。
[2]源三さんからのコメント(2002年10月26日 16時48分21秒 ) パスワード
  

嘉村うじこんにちはお初です。嘉村うじの歴史など、また書かせていただきます。
佐賀藩士にもいますし。関東から下向したいきさつなども書きたいしね。
この後鳥羽上皇のいきさつも書きたいし。
服部さんついに最後の将・歴史探偵・源三が動き出しました。なんて
冗談いっちゃいます。出羽出羽。いけねっ!では違いですね。あほらし。
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