[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月22日 00時25分05秒 ) | パスワード |
馬緤さん
初めまして。
難しいお名前?ですね。
「うまつなぎ」さんってお読みするのですか?
まず読み方が分からないです。
1番良いのは能登の歴史の本とか風土記などをお調べになると記録されてるかもですね。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月22日 00時31分29秒 ) | パスワード |
「まつなぎ」という地名が珠洲市にありますから
まつなぎさんでよろしいのですか?
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月22日 00時37分04秒 ) | パスワード |
時国家関連で分かりそうですね。
[4] | 馬緤 真伍さんからのコメント(2002年08月22日 12時41分27秒 ) | パスワード |
なるほど、どうもありがとうございます。
[5] | 川口 信さんからのコメント(2002年08月23日 15時28分50秒 ) | パスワード |
以前、能登大谷十二姓の兼政姓について調べた時に書き留めてあったものがありました。
馬緤村には常俊(つねとし)・恒元(つねもと)姓が住んでおり、馬緤姓については記載がありませんでした。能登:大谷・若山荘・清水村・上戸村等々その近辺では実名を苗字にした家々が数多くあります。友貞、真頼、末光、光長、友実等々。
「石川県姓氏家系大事典」の馬緤の項には、能登国珠洲郡馬緤(珠洲市)の土豪に馬緤氏がある。中世の有力名主の系譜を引く土豪で馬緤恒俊の名がある。
ので、案ずるに初めは常俊・恒元姓などを名乗っていたのではないでしょうか。
他スレッド「先祖のルーツ・平時忠公ゆかりの兼政姓」が参考になるとおもいます。
また、「蝉折笛物語」という文章がURLの中に下記のようにありました。(馬緤の由来など)
兄頼朝に追われた義経が弁慶らを従えて安宅の関を通った「観進帳」の話はあまりにも有名です。三崎の須々神社に伝わる蝉折笛縁起によると、義経・弁慶ら主従十二名は船で安宅の関より三崎の沖合までやってきました。ところが運悪くも、大暴風雨が吹きまくり船は今にも難破しそうになりました。義経は三崎権現(須々神社)に向かって「我等の難渋を救い給え。」と心から祈りました。すると、この義経の真心がとどいたのか難風がしずまりました。義経はこれに感謝して、秘蔵の蝉折笛を須々神社に奉納いたしました。また、このほかにも、義経が馬をとめて宿営したので、馬緤(馬緤町)といい、宿泊したところを泊というとか、その時、馬に食べさせた海草を義馬草というなど義経にまつわる伝説は数多く残っています。
[6] | 兼政さんからのコメント(2002年08月28日 13時00分30秒 ) | パスワード |
お久しぶりです。兼政です。
珠洲市立図書館に、若山の古今?という資料や珠洲群史という資料もありますので参考にしてください。
また、兼政についても何か解りましたらご連絡ください。
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月28日 21時36分56秒 ) | パスワード |
珠洲市主催の掲示板もありますから
そちらの方にお問い合わせなさると遠いご親戚のかたより
何か情報が得られるかも、ですね。
分かりましたらこちらにもご紹介願いますね。
[8] | 川口 信さんからのコメント(2002年08月28日 22時14分57秒 ) | パスワード |
兼政さん ご無沙汰しております。
調査を続行中と思いますが、まずは元気でなによりですね。
馬緤さんとはご先祖のお知り合いかも知れませんね。ひとりで調べるより二人で連絡を取り合って調べれば良い結果がでると思います。その地に伝わっていることは遠方の地では調べようがありませんので(地方誌はまず手にはいらない)。
まずはあせらず気を長くもって取り組んでください。
[9] | いつも通りさんからのコメント(2002年08月28日 23時15分37秒 ) | パスワード |
蝉折笛物語 http://www.ishikawa-c.ed.jp/~ootanj/chiiki/c1semiori.htm
ですね。
珠洲市と言えば「珠洲焼」。
http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/intro/PICTURE/H_P51702.gif
「珠洲焼」は平安時代中期より室町時代のもの。
しかも古窯跡が外浦の馬緤周辺に数多くあります。
なので大陸の陶工説を支持したいですね。
須恵器系の「珠洲焼」は5世紀頃に大陸より伝えられたものです。
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月28日 23時29分46秒 ) | パスワード |
http://www.ishikawa-c.ed.jp/~ootanj/chiiki/c2tokitada.htm
こちらに「時忠物語」が出てます。
大谷川の上流で暮らしたのですか。
[11] | 兼政さんからのコメント(2002年08月29日 22時05分34秒 ) | パスワード |
兼政です。
馬緤さんは、珠洲市在住の方ですか?。
私事で恐縮ですが、私の先祖は、馬緤地内に住んでいたという情報があります。
馬緤地内にホンコウジというお寺は現存していますか?。
何か情報がありましたら、ご連絡ください。
私も馬緤姓について、情報がありましたらご連絡したいと思います。
[12] | 馬緤 真伍さんからのコメント(2002年09月01日 03時54分50秒 ) | パスワード |
どうもいろいろありがとうございます<(_ _)>昨年、馬緤町までは行ったのですが、お寺は発見できませんでした。とりあえずこちらも気長に調べます。
[13] | 兼政さんからのコメント(2002年09月01日 08時44分55秒 ) | パスワード |
兼政です。
馬緤さんは、珠洲市在住ではないのですね。
お互い、資料不足で何かと苦労しますが、がんばりましょう!。
[14] | 川口 信さんからのコメント(2002年09月09日 14時36分44秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2002年09月09日 19時17分02秒
[15] | 川口 信さんからのコメント(2002年09月09日 19時35分15秒 ) | パスワード |
すみません。文字を書き間違えましたので改めて。
以前兼政姓の所に書き込みした「若山荘馬緤浦四坪薬師寺の写経」願主平兼基と共に僧及び馬緤浦内恒利の名前も(2件)ある。
本光寺の文書に、この写経が始まった貞治2年(1363)より14年前の貞和5年(1349)に、秦左近が若山庄の領家から名主職に補せられ、7年後には友宗(荘官か)から「はやし」という土地を譲りうけた文書がある。
少し時代は下るが大永8年(1528)、馬緤町春日神社随身像(木像)の脚部裏の墨書、銘に「馬緤浦秦恒利左衛門□□」とあることによって知られる。
同町本光寺(曹洞宗)の日牌は開基だけであるが、それが恒俊である。南北朝時代に創建され、中世末期天正時代に中絶していた本光寺が、慶長10年(一説には17年)に、能都町の万年寺八世観洲瑞察によって、曹洞宗として再興された時の日牌と思うが中世名主職保有者であった伝統的力のしからしむものと考えられる。ちなみに恒俊初期九十石近い高と二三人の小廻りや下人を所有していたが、寛永年間欠所となった。(奥能登の研究:和嶋俊二氏著・平凡社刊)より
[16] | 服部 明子さんからのコメント(2002年09月12日 06時52分23秒 ) | パスワード |
凄い情報が出て来ましたね。
平兼基・・・
何者でしょうね?
そして馬緤浦内恒利とどんな関係だったのでしょうね?
[17] | 服部 明子さんからのコメント(2002年09月12日 06時59分33秒 ) | パスワード |
平兼基について兼政さんのスレッドに川口さまの書き込みがございますが
こちらにも書いてある方が良いと思いましたのでコピーさせて頂きます。
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馬繋さんの方に書き込みを入れて置きましたので見に行って下さい。
「奥能登の研究」:和嶋俊ニ氏著に平兼基について書かれた個所がありましたので。」
それによれば時忠と関係のありそうな兼基を考えてみると、藤原忠通の子の基実の妻は平清
盛女盛子、基実の子基通の妻は清盛女「ゝ子」または「寛子」、その子に家実、道経、兼基等
がいる。道経は母平信範で妻が時忠の娘であり、北小路とある。
信範は時忠の父時信の弟であり、その孫の時兼は右京大夫、従三位で、時忠卿の子となる。
時忠の子となったため時兼になったのではないか。その子が兼親で、その後、子孫に「時」を
つける者がいないことから、時忠の配流後、源氏をはばかり名を兼基に改めたのではないか。
とある。いずれにしても八幡寺の大般若経六百巻の写経の願主は、近衛家につながる平氏ゆか
りの者であったと考えられる可能性が大きい。とある。
本光寺は大谷と馬繋のちょうど真中ぐらいの所にありました。
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[18] | 馬緤 真伍さんからのコメント(2002年10月11日 23時00分15秒 ) | パスワード |
重ね重ねありがとうございます。<(_ _)>
[25] | 政さんからのコメント(2008年12月23日 00時27分42秒 ) | パスワード |
ここ、もう誰も見てらっしゃらないんでしょうか…?
わたしの家は元々珠洲の兼政姓でした。4代前の時に「兼」の字を取り、「政」だけになりました。(珠洲市保管の戸籍謄本には残っていました) 何かあったんだと思いますが…(汗) それから北海道に移住したみたいです。
おそらくこちらでコメントなさっている、兼政さんと遠戚かと思います。
お話したいので、ここに皆さんが戻ってきてくださることを祈りつつ… 失礼しました。
[26] | 室谷さんからのコメント(2010年11月11日 00時08分47秒 ) | パスワード |
私は室谷という名前ですが、祖父が養子に入る前までは兼政という名前だったそうです。
祖父は富山県の能登半島出身でご先祖様は平家で能登に逃げてきたとゆっていました。父は巻物もみたことあるとゆってましたよ。
兼政さん、親戚なのかな?
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