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 投稿番号:100349 投稿日:2002年08月17日 12時34分37秒  パスワード
 お名前:代理投稿
先祖捜し:松隈氏

コメントの種類 :その他  パスワード

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100217_6.html
の源三どののスレッドをご覧になりました松隈氏より書き込みを頂きましたので
新しくスレッドを立て直しました。


・義氏(弾正少弼★河上社大宮司肥前松隈氏系図)



松隈篤郎さんからのコメント(2002年08月16日 15時23分29秒 )
   E-mail=1aturo@msc.biglobe.ne.jp

パソコンを始めて2月一寸、
何気なく我が姓を検索し本ページにたどり着き
皆様方の勉強ぶりに驚いて、コメント挿して頂きます。

私の4代前に小城藩士松隈享安{医者}の跡目相続後
いまの姓を名乗ってその出は同藩士松田氏次男と迄しか解りません。
{除籍謄本による}代々早折で分家のため殆どいい伝えが無く残念に思います。
古文書などの読み下しは不得手な小生なのでいつかは又よませてください。

皆様の御健精をお祈り致します。



ワタクシからのコメント(2002年08月16日 23時30分19秒 )

松隈さん
初めまして。


松隈氏は私の持ってる資料では
肥前の松隈氏は清和源氏賀茂氏の一族で
筑前の松隈氏も源氏
と出ています。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年08月17日 12時48分47秒 ) パスワード
  

福岡にも「松隈」という名の場所があるのですねぇ。

糸島郡志摩町大字松隈
[2]源三さんからのコメント(2002年10月26日 16時52分30秒 ) パスワード
  

服部・平明子さん御指名ありがとさんです。
よって松隈氏のこと今度書きこみ致します。
[3]松隈 紀二郎さんからのコメント(2012年01月29日 12時05分27秒 ) パスワード
URL=http://matsuguma.web.fc2.com/

私は福岡県嘉穂郡碓井町(現在・嘉麻市)出身の松隈です。
昭和50年頃までは碓井にも松隈姓が多くいました。お寺に行く時に表通りを時折通リますが現在は少なくなっているようです。何故か分かりません。
平成10年頃のNTT電話帳CDがありますが全国で1057名の名前が確認できます。
福岡県に443名、佐賀県に251名、東京都に40名、長崎県に38名、大阪府に32名、神奈川県に30名、熊本県に26名、兵庫県に25名がその内訳です。
少ないですね。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2012年01月30日 02時13分32秒 ) パスワード

珍しい名字ですね。


・もともと松隈に住んでたのか、

・中世時代のどこかで、
   福岡の松隈に土地を貰って赴任して来た一族か、

・明治時代に住んでた土地を名字にしたのか、

のどれかかな?と思いましたが


一瞬、平家系かとも思いました。

小松家の「松」に、平家一門の桓武平氏隈平三兼盛の「隈」を足した名字かな
と思いました。

「隈」というのはモトモト九州にあった名称なんでしょうね。
球磨とか熊襲から?


どこに住もうとも、故郷や出自がハッキリしているって「誇り」ですよ。
[5]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2012年01月30日 11時09分12秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>珍しい名字ですね。
 
松隈姓は3000位(約4,400)で、珍しい苗字でもない。
肥前国神崎郡松隈邑、筑前国志摩郡松隈邑発祥など。
肥前の豪族にあり清和源氏賀茂氏流。筑前の松隈氏も同族の様だ。
河上社大宮司職、原田家臣、小城藩士などに松隈氏。
[7]松隈 篤郎さんからのコメント(2013年05月03日 20時57分15秒 ) パスワード

皆さん いろいろの情報有難うございます 一昨年吉野ヶ里を訪ねましたら地区に松隈(マツグマ)地区と有り バス停も有りました 地区には松隈姓を名乗る50戸程が居住するとか 佐賀鍋島藩分家の際士分の小城藩到着に名が見れます 何かわかりましたら宜しくお願い致します。
[8]鍋島藩士子孫さんからのコメント(2013年05月04日 13時32分06秒 ) パスワード

松隈享安は代々小城藩の藩医だったみたいですね。

小城藩士の松隈享安のご先祖は今から400年前の佐賀藩祖鍋島直茂の時代まで遡ります。
鍋島直茂が藩医(眼科)として召抱えたのが松隈安齋中原玄祐と云い、彼のご先祖は筑前(福岡県)の出となっています。

初代の松隈享安は松隈安齋中原玄祐の娘(長女)婿で諱(実名)は玄磋と云い、享安とは通名。佐賀初代藩主の鍋島勝茂が1617年長男鍋島元茂を小城へ分地し立藩した期に小城藩の医者として召抱えています。
小城藩では松隈享安玄磋から娘婿の松隈享安意仙、そして意仙の孫の松隈享安玄策と相続され、代々「享安」を名乗っています。

一方佐賀本藩は松隈安齋中原玄祐の娘(次女)婿の玄湖が家督を継いだが、その子供の玄湖(同名)の時に失録し、三代藩主鍋島綱茂は小城藩医だった意仙の子供松隈尚義(甫巷/始名源南)を本藩医として召抱えました。

松隈玄祐(佐賀藩)
(小城藩)−松隈玄磋−松隈意仙−松隈尚義−松隈玄策                           ↓  
(佐賀藩)−松隈玄湖−松隈玄湖‥松隈尚義−松隈尚正

歴史ある名門の家系だと思います。但し、直系よりも他家(藩士のニ男、三男)からの養子が多いのが特徴みたいですね。
[9]松隈 篤郎さんからのコメント(2013年05月05日 09時13分31秒 ) パスワード

鍋島藩士子孫さん 早速詳しい事柄の御教授誠に有難うございます ご指摘の通り直系は少ない様です 我が祖玄高も幕末の頃松田氏から継養子として入り眼科を本領として廃藩後は長子孫が長崎にて続いております

(小生は次男の孫です 去年電話で現医業の当主と話しましたが何も聞き及んでいなくて記録も残っていない様でした)

明治期 衆議院議員を務めた松田正久の家系をご存知でしたら宜しくお願い致したく存じます。

有難うございました。
[14]福岡松隈さんからのコメント(2017年10月06日 13時19分54秒 ) パスワード

福岡の松隈です。 いつか、私の父と何かの営業で来られていた佐賀の松隈さんとどっちがルーツだというようなはなしで盛り上がっていたので、興味を持ち父や松隈家の年配の方に聞いてみました(残念ながら、詳しい本家のおじいさんは亡くなっていました)
又聞きの寄せ集めで信憑性などはわかりませんが、「松隈伊賀は相模の人」という文献が九大かどこかにあると聞いたことがあります。
ここでいう松隈伊賀は戦国時代、福岡の糸島で大友方に属していた松隈伊賀守のことだと思います。
私の先祖になるのですが、福岡市西区にある大友方のコウシダケ城に大内方の原田氏が攻めてきた際、救援に駆けつけ、深手を負い、城の麓で自害したそうで、城があった草場山の麓に墓があります。
 前著で述べた通り信憑性はありませんが、聞いた話を繋げてみると、
どこからか佐賀に渡って来て、その後、福岡の糸島に渡る。
その後、弟さんが佐賀へ戻り、福岡の松隈は伊賀守以降、江戸時代は農家(苗字帯刀はしていたそうなのでいまいち立場が分からないのですが)として、佐賀の松隈は武家として残ったように聞いています。
 
[15]松隈 篤郎さんからのコメント(2018年09月25日 03時51分39秒 ) パスワード

福岡松隈さん この欄を訊ねる事を忘れて失礼いたしました 「松隈伊賀は相模の人」とは初耳です しかも大友方に属して・・・コウシダケ城 大友方…草場山墓が 先に佐賀に来て 大内方 原田氏に攻められ 福岡と佐賀に分かれた・・

私が知るのは 鍋島家に仕え 初代の藩主が隠居小城に長男と分家?その際に家来を連れて来 その中に名前が見えると知ったのです 鍋島藩士の子孫さんに依ると医家として養子で廃藩置県まで続いたようです 数年前に駆け足で尋ね詳しくは出来なかったが佐賀の吉野ヶ里の町に松隈の地名と名乗る家が有る様です 福岡から来たのではないかとは思っていましたが 大友 大内氏など歴史の中の事かと思っていましたが 然も相模から 頼朝まで飛躍 哀しいかな佐賀の松隈は今は判然といたしません 随分遅れましたが 誠に有難うございました 若ければコウシダケ城 尋ねたかったと思いました
[16]福岡松隈さんからのコメント(2018年10月07日 00時48分28秒 ) パスワード

 今回、コメントを頂いたことで、「松隈伊賀」をネットで調べてみたのですが、九州大学のレポートのようなもので「怡土・志摩の村を歩く」というものの中の「8、松隈」の中で松隈氏についてかなり詳しく書かれていました。
 見ていただければ早いのですが、
資料によると元々は大友方だったようですが、草場山戦以前の戦で原田氏に敗北し、軍門に下る。草場山戦では伊賀守は原田氏側として攻めたようです。
 しかし、親に聞いてみるとでは、大友方の加勢として行ったというし、伊賀守の墓は代々その土地の所有者の方に守ってもらっているのですが、どうやら、そちらは大友にゆかりがあるようです。(現在でも、お盆の時期に糸島の松隈に住む松隈家(10軒ほど)が先祖供養でお参りをしています)
 九州大学の資料には、戦国時代、大友、大内双方に松隈が分かれて仕えていた時代もあったように書かれていたので、伊賀守が大友方で出征した可能性も高いと思われます。
 資料の中に、伊賀守の弟で原田氏で出世し、秀吉の九州攻めの際城主と共に原田氏の居城、高祖城に立てこもった方がいたそうなので、この方もしくは、その血筋の方が佐賀へ渡ったのかと思い親に聞いてみたところ
 佐賀へ渡ったのは伊賀守の弟ではなく伊賀守の息子の一人だということです。
 伊賀守系の松隈は福岡で松隈姓を名乗ったと聞いているので(九大資料で1300年代に志摩に松隈(先祖?)という人物がいたそうなので、松隈という土地はあったものと思われる)賀茂氏の松隈とは同一かは分かりませんが、
 他の方のコメントで享安の先祖が福岡から来たとあるので、松隈篤郎さんのご先祖様と同一と考えて良いと思います。
[17]福岡松隈さんからのコメント(2018年10月08日 04時58分13秒 ) パスワード

すいません。前のコメントで間違いが多そうだったので、慌てて訂正を入れたのですが、元々、大友とは書かれていませんでしたので、改めて訂正します。
 また、草場の城の名前はコウシヤマ城だそうです。
資料の「8.松隈」は第二章志摩についてのものなので、かなり後ろのほうです。志摩郡七党だの面白いことが書いてあったので、ぜひお読みいただけると幸いです。
 松隈伊賀で出てくる別の九大のもので、松隈城のことも書かれているものが、ありましたので、そちらも、面白いかと思います。
まあ、実際には、城と呼べるような代物では、ないのですが、精々、大きめの住居といったところのようです。
 子供の頃に親戚の誰かに跡地と呼ばれている場所に連れて行ってもらったことがありますが、藪に覆われていましたが、たいして高台というほどでもない場所だったと思います。(住居の柱の下の敷石らしきものがあったような記憶がありますが、子供の頃の記憶なので、あいまいで、関係ない別の記憶と混同している可能性が高いです。)
 現在、松隈家では、伊賀守を初代としていますので、それ以前の事はわからないと思いますが、家に家系図があったはずです。
[18]今回は匿名でさんからのコメント(2018年10月10日 14時32分25秒 ) パスワード

全然関係無いけど

爆問の太田さんの弁護士の松隈さん
すっごく上品な顔をしてますね。

出自が良いのでしょうね。
[19]松隈 篤郎さんからのコメント(2018年10月11日 20時44分22秒 ) パスワード

福岡松隈さん

折角九大の資料の件教えて戴きながら根気啼く最後まで読まず失礼しました 長期の旅行から戻りましたら読んでみます 有難うございました。
[20]松隈 篤郎さんからのコメント(2018年10月11日 20時52分31秒 ) パスワード

今回は匿名で さん

爆問の訴えは知っていましたが 弁護士が松隈さんとは 今後注意して成り行きを見てみたいと思います 有難う御座います。
[21]福岡松隈さんからのコメント(2018年10月22日 23時10分56秒 ) パスワード

度々、失礼します。草葉の城は最初のコウシダケ城であってました。すいません。

 先日、福岡市博物館の学芸員の方による、糸島の中世史「原田氏の隆衰」の講演があったので、聞きに行ったのですが、いくつか、私が書いたものの訂正と気になることがありましたので、記述します。九大の資料も何代か後の人物が書いたであろう、定かでない内容も含まれているようです(松隈代々記とか)。
 今回のものは色々な歴史の資料や東北にあったという原田家の歴史書「原田文書」の内容が含まれています。
CとDが松隈のルーツを知る上でも参考になるのではと思いますので、読んでもらえるとありがたいです。

@コウシダゲ城の戦(1579)の際、原田氏は龍造寺氏に属してした。

A原田氏は大蔵氏の一族で平家物語や吾妻鏡(別の鏡だったかも)にも名を遺す岩戸の種直(原田種直)の家系であり、当時は本姓(大蔵)の他に自身の住む土地の名を名字だか通称だかで名乗ることが多かったそうなので、糸島の原田庄に土地を持っていた種直の名字となったようです。
 この原田氏の傍流の家系の中に波多江(その昔、大陸系のハタ氏が住んでいた海辺の地域と聞いたことがあります)や松隈などがあったそうです。
 ちなみに、歴史家の原田大六氏の家はは江戸時代、波多江を名乗っていたそうですが、明治2年?くらいに何か大きな功績をあげられ、原田の姓を名乗るようになったそうです。

 原田氏は平家についたため、その後没落するものの、平家物語の影響もあり、忠節の者(後の方の一節を聞いてみるとそうでもない気もしますが)として、かなりのネームバリューがあったそうです。(主に地元ででしょうが、全国的に知られた人物(平家物語すごい!))

 そのため、江戸末期、会津藩の家老であった原田氏が糸島を訪れ昔の家臣団に会うというようなイベントがあった際、心付けを持って来て、「先祖は原田の家臣で一緒に戦いました」と書いてもらうなんちゃって家臣も多く出来たようです。(うちは多分、違うと思うんですが)

B…Aの点から、九大の資料にあった1300年代の庄屋の松隈はこの原田氏の一族だと思われます。(平家についた原田氏はこの頃、没落、戦国最末期に返り咲き)
 
 九大の資料の中に松隈伊賀(実際には当時、新田伊賀守だったようですが)の弟(原田家家臣:中老にまで出世)が兄が松隈邑にいたため、松隈を名乗ったというのも、原田氏にちなんだものかもしれません。

 気になるのは、松隈伊賀は新田伊賀として、記載されている(松隈を居としていたので通称では松隈伊賀だったかもしれませんが)ことで、結局のところ、松隈伊賀はコウシダゲ城戦で、大友方だったのか、龍造寺方の原田氏側だったのかが、モヤモヤするところです。

C原田氏は龍造寺氏に属した後、コウシダゲ城は割とすぐに大友方に奪い返されたようですが、秀吉の九州征伐までの10年ほどの間、怡土郡の大半を支配していたようです。
 前に大河ドラマで「黒田官兵衛」があった際、買った本に九州征伐の道のりが描かれた地図が載っていたのですが、軍の一部は島津ではなく、糸島の高祖城(原田氏)に向かっていました。

 九大の資料では、城に籠城したような記述がありましたし、高祖に向かった黒田の記述で、
 田舎侍が、兵力差も考えず、ボロボロの鎧を着て抵抗したため、返り討ちにしてやった。
 といったような趣旨のものが、あるそうですが、どうやら、戦働きと関係のない仕事であったため、少しでも武勲をと後に書かれたもののようです。原田文書や原田氏のこの後の扱いから、実際には、城を明け渡すので、受け取りに行った。というのが、学芸員の先生の見解です。

 秀吉の九州征伐の際、原田氏はいち早く秀吉に恭順の意を示し、秀吉から、本領安堵と新しい領土の約束の書状を受け取っています。(原田文書とともに書状も有り)
 実際は、本領を没収されることになるのですが、代わりに福岡県内(だったと思う)に400町の土地を与えられています。農地だけで400町(一町=1ヘクタールとか3000坪くらい)だったようなので、そこそこの広さであったと思われます。
 立場としては代わりに糸島を領地とした小早川隆景の与力だったそうです。
その後、肥後で無抵抗で従ったいくつかの小勢力の者達と原田氏の土地を入れ替える形で移動させられ、加藤清正の与力となり、清正の勢力として、朝鮮出兵もしていたようです。
 詳しくは聞けなかったのですが、たぶんこの辺りで、江戸時代に突入。
この後、原田氏は、唐津の寺沢広高・堅高親子に仕えますが、堅高の時に出奔し江戸へ出ます。
 江戸で保科正之に拾われ、最終的には会津松平藩の家老として、代々務めることになるようです。

Dさて、ここで九大の資料を見てみると、新田伊賀(松隈伊賀)の祖父(この人も伊賀守)は肥後の加藤清正に仕え、その後、子だか、孫だかが糸島に戻り、農長になったとあります。この農長が私の先祖(松隈家としては2代目?)だと思われますが、最初、なんで急に加藤清正が出てくるのかと思っていました。

しかし、原田氏に当初、付き従っていたとすれば、納得できるところもあるのではないでしょうか。

原田氏:九州征伐後、小早川(糸島)➡加藤(肥後)➡寺沢(唐津)➡江戸➡会津

松隈:糸島➡肥後➡そののち、私の先祖は福岡へ戻り、松隈篤郎さんの先祖は佐賀方面へ

終わり

追伸:原田氏の隆衰の講演の内容が面白かったので、直接、松隈には関係ないですが、こんど、書かせてもらおうと思います。
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