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中学1年生の『馬場』君からレスを頂きました。、、、、
文章が作法にかなった立派なものでしたので、感銘を受けまして、、、
余り自信は無いのですが、思うところを書きます。
以前に書きました「鎌倉比企物語」「越前比企物語」「御影比企物語」の中に書き込みましたこととダブル部分がありますが、ご容赦ください。
私は、いつも『主観的な歴史観』を恥ずかしく思った事が無い!と書くようにしています。
学校に行くと、歴史の時間にどうしても「ナクヨ(794)ホトトギス平安京」「イイクニ(1192)鎌倉幕府開設」等と覚える形で歴史に入って行く方が多いように思えます。
私がここで言う『主観的歴史観』とは、中国の友人の自宅を訪れた時の家族団欒の夕食の」席で、体験したことから気付いたお話です。
お婆さんが何代か前のご先祖の方が、時の王様に献上した「料理の一品」の話をされて、今日の食卓の上の一品はその時から我が家に伝わるものであり、お客様の貴方様に食して頂ければこの上ない幸せであると、驚くほど大きな声で明瞭な中国語(私は理解できなかったが、、)でお話になったのです。
私は、馬場君が島津忠久氏に興味をもった動機(モチベーション)が「お父さん」の名前が「忠久」〔偶然かもしれないが?)と言われるので勉強して見ようと志した云々と言う事でした。
私はそのお婆さんの『若々しい顔』が今でも頭から離れません、そしてその日からずっと『中国』という国が好きになりました。
多分そのお婆さんはもうこの世の人では無いと思いますが、歴史はその様にして作られていくと教えられたような気がしています。
いつも、服部先生のスレッド中心の『平家物語』に集まる方々は私の勝手な解釈で恐縮ですが、この『主観的な歴史観を大切にする人々』の集まりのように思えています。
前置きが長くなってしまいましたが、、、、本題に移ります!
私と『丹後内侍』と『島津忠久』、、、(その@)
>学習研究社から、2,001年8月5日第一刷発行の『歴史群像シリーズ:島津戦記』と言う書籍を見つけました。
>その中に、「松尾千歳(ちとし)さん」が書かれている「島津氏」の『名族の起源』という1節がありました。
>頼朝落胤説:
文治元年(1185)、源頼朝は惟宗忠久を南九州に広がる日本最大の荘園島津荘の下司職に任じた。さらに翌文治二年には同地頭職に、建久八年(1197)には薩摩、大隈国守護職に任じ、やがて日向国の守護職も兼任させた。この忠久が島津氏の祖であります。
さて、江戸時代に作成された『島津氏正統系図』には、忠久の父は『頼朝』とあり、その誕生に関し次のような説話が記されています。
『伝え称す、初め比企判官能員の妹丹後局、頼朝卿に幸せられて身はらむことあり。
頼朝妻北条政子は嫉妬して、これを追う。丹後局は害されることをおそれて、関東を出、上方に赴き、摂津住吉に至る。夜旅宿を里人に求むも、里人これを許さず。時に大雨はなはだしく、たちまち産気あり、よって社(住吉社)辺のまがきのかたわらの石上にうずくまる。時に狐火の闇を照らすに会って遂に忠久を生む』
このような説話は、かなり昔から伝えられていたらしく、室町時代の半ばに記された『山田聖栄日記』の中にも見ることができます。
この説にもとづいて、島津家では稲荷神を信仰し雨を吉祥として「島津雨」と称した。又、忠久が惟宗姓を称したのは、後に丹後局が惟宗広言に嫁したからであると説明している。(中略)
建仁三年(1203)に比企氏が北条氏によって滅ぼされた際(比企の乱)、忠久も縁座
してすべての所領を失っており、忠久が比企の縁者であったことは間違いない。
比企氏は、頼朝が伊豆に流されていた時に親身になって世話をした比企尼に連なる一族で、この比企尼の長女に丹後内侍という女性がいる。
『吾妻鏡』から彼女が安達盛長の妻で、頼朝と非常に親しかったことが確認でき、頼朝の弟範頼の子孫吉見氏に伝わった『吉見系図』には、丹後内侍は盛長嫁す前に惟宗広言との間に忠久をもうけていたと記されている。
この丹後内侍と『丹後局』は同一人物とみなしてよいであろう。(後略)
ここまでが、『松尾千歳』さんの説であります。
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