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 投稿番号:100344 投稿日:2002年08月03日 10時25分48秒  パスワード
 お名前:林原英祐
丹後内侍と島津忠久のこと

コメントの種類 :人物  パスワード

中学1年生の『馬場』君からレスを頂きました。、、、、

 文章が作法にかなった立派なものでしたので、感銘を受けまして、、、
余り自信は無いのですが、思うところを書きます。

 以前に書きました「鎌倉比企物語」「越前比企物語」「御影比企物語」の中に書き込みましたこととダブル部分がありますが、ご容赦ください。

 私は、いつも『主観的な歴史観』を恥ずかしく思った事が無い!と書くようにしています。
 
 学校に行くと、歴史の時間にどうしても「ナクヨ(794)ホトトギス平安京」「イイクニ(1192)鎌倉幕府開設」等と覚える形で歴史に入って行く方が多いように思えます。
 
 私がここで言う『主観的歴史観』とは、中国の友人の自宅を訪れた時の家族団欒の夕食の」席で、体験したことから気付いたお話です。

 お婆さんが何代か前のご先祖の方が、時の王様に献上した「料理の一品」の話をされて、今日の食卓の上の一品はその時から我が家に伝わるものであり、お客様の貴方様に食して頂ければこの上ない幸せであると、驚くほど大きな声で明瞭な中国語(私は理解できなかったが、、)でお話になったのです。

 私は、馬場君が島津忠久氏に興味をもった動機(モチベーション)が「お父さん」の名前が「忠久」〔偶然かもしれないが?)と言われるので勉強して見ようと志した云々と言う事でした。

 私はそのお婆さんの『若々しい顔』が今でも頭から離れません、そしてその日からずっと『中国』という国が好きになりました。

 多分そのお婆さんはもうこの世の人では無いと思いますが、歴史はその様にして作られていくと教えられたような気がしています。

 いつも、服部先生のスレッド中心の『平家物語』に集まる方々は私の勝手な解釈で恐縮ですが、この『主観的な歴史観を大切にする人々』の集まりのように思えています。
 前置きが長くなってしまいましたが、、、、本題に移ります!

私と『丹後内侍』と『島津忠久』、、、(その@)
 
>学習研究社から、2,001年8月5日第一刷発行の『歴史群像シリーズ:島津戦記』と言う書籍を見つけました。
 
>その中に、「松尾千歳(ちとし)さん」が書かれている「島津氏」の『名族の起源』という1節がありました。
 
>頼朝落胤説:
 文治元年(1185)、源頼朝は惟宗忠久を南九州に広がる日本最大の荘園島津荘の下司職に任じた。さらに翌文治二年には同地頭職に、建久八年(1197)には薩摩、大隈国守護職に任じ、やがて日向国の守護職も兼任させた。この忠久が島津氏の祖であります。

 さて、江戸時代に作成された『島津氏正統系図』には、忠久の父は『頼朝』とあり、その誕生に関し次のような説話が記されています。

 『伝え称す、初め比企判官能員の妹丹後局、頼朝卿に幸せられて身はらむことあり。
 頼朝妻北条政子は嫉妬して、これを追う。丹後局は害されることをおそれて、関東を出、上方に赴き、摂津住吉に至る。夜旅宿を里人に求むも、里人これを許さず。時に大雨はなはだしく、たちまち産気あり、よって社(住吉社)辺のまがきのかたわらの石上にうずくまる。時に狐火の闇を照らすに会って遂に忠久を生む』

 このような説話は、かなり昔から伝えられていたらしく、室町時代の半ばに記された『山田聖栄日記』の中にも見ることができます。

 この説にもとづいて、島津家では稲荷神を信仰し雨を吉祥として「島津雨」と称した。又、忠久が惟宗姓を称したのは、後に丹後局が惟宗広言に嫁したからであると説明している。(中略)

 建仁三年(1203)に比企氏が北条氏によって滅ぼされた際(比企の乱)、忠久も縁座
してすべての所領を失っており、忠久が比企の縁者であったことは間違いない。

 比企氏は、頼朝が伊豆に流されていた時に親身になって世話をした比企尼に連なる一族で、この比企尼の長女に丹後内侍という女性がいる。

 『吾妻鏡』から彼女が安達盛長の妻で、頼朝と非常に親しかったことが確認でき、頼朝の弟範頼の子孫吉見氏に伝わった『吉見系図』には、丹後内侍は盛長嫁す前に惟宗広言との間に忠久をもうけていたと記されている。

 この丹後内侍と『丹後局』は同一人物とみなしてよいであろう。(後略)

 ここまでが、『松尾千歳』さんの説であります。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年08月03日 11時15分58秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年08月03日 11時21分45秒
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年08月03日 11時20分10秒 ) パスワード
  

お久し振りでございます。

世界文化社の6月20日発行「日本の古典を見る:平家物語」には
林原美術館の絵がたくさん載っていますが
お手に入れられましたか?


頼朝は島津忠久が誰の子か1番言いたくない人でしょう。
政子は絶対認めないでしょうし。

現代でも認知はなかなか大変な家庭問題ですし
一旦認知すれば財産継承問題が起きますから
ことが日本国の相続問題ですから婚外母子は泣き寝入り。
昔からそう決まっています。

政子が自分の子や孫を廃してでも源家の血を受け継ぐ者に譲らなかったのですから
頼朝の子である忠久の存在は絶対無視を決め込んで
周りも政子の顔色を窺って無視を通したでしょうね。


頼朝にとって比企家の女性と結婚出来なかったのが不運ですね。
イギリスのチャールズ王子とカミラさんの関係を連想してしまいます。
誰と結婚するのが幸せだったか?
比企家の女性に最初に子供を生ませなかったのが1番の不幸だった
ということでございますね。


昔はこういう拝領妻の悲劇というのはよくあったようでございますね。
家康のお祖母さまも母親もあっちに嫁に行かされこっちに行かされ
たまたま家康が超有名人になったから悲劇も正しく伝わったでしょうけど
殆どは歴史の闇に消されたのでしょうね。
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年08月03日 11時32分00秒 ) パスワード
  

頼朝という男性は・・・
妻の政子には許せないオトコだったでしょうね。


政子が意地でも実家に実権を渡した背景には
比企の血を引く忠久を頼朝の血を引いてるから将軍にという話を出させない為にも
自分の孫でも将軍職にはつけないとしたのかしら?
と想像が飛びます。


絶対比企には将軍職は行かせない!って。
「認知問題」
奥が深いですね。
[4]林原英祐さんからのコメント(2002年08月08日 21時47分25秒 ) パスワード
  

馬場君からご丁寧な礼状を頂戴しました。
その中で、ご落胤説について触れられていましたが、、、
 『鎌倉比企物語』の「竹御所の供養」の中で小生が引用しました文章を再度載せます。


>> 宮尾登美子さん執筆の、宮尾本『平家物語』1巻(青龍之巻)を一気に読みました。

>宮尾さんにかかると『平家物語』もこんなに『華やか』になるのだなあと感心させられました。

「テンポ」の速さもさることながら、良く勉強されているなあと感銘しました。

彼女が今を代表する『女性作家』であることは誰しも認めるところですが、特に女性の虐げられた中から、強く逞しく生きる『粘っこいしたたかさ』のようなものを書かせたら右に出る者はいないと何時も感心させられます。

 今回は少し趣を異にした『華やかな』男世界を書き下ろしていらしゃるのですが、

 日本文化(女性蔑視)を史実に基づき認めながらも、『物申す!!』を代表する大作家(平成の紫式部)だと思います。

話は本論に移りますが、
『白河院』のご落胤としての『平清盛』を紹介する下りがある。
平忠盛(清盛の養父)が鶴羽(白河院のお手付き)を貰い受けることを、友人藤原為忠の表現として…

 『古女頂き(ふるめいただき)』と言って、貴い方より女性を頂くのは、よくある話で平安時代、鎌倉時代には『出世の常道』であった。と明言している。

 『白河院』等は行き先の解らない子供(及び女性)がたくさんいたと言われている。

 『ご落胤』の好きな小生としては是非、この『古女頂き(ふるめいただき)』と言う言葉を頂かねばと思いここに記します。(竹御所とは直接関係のない話ですが、)

 私が『頼朝のご落胤』とする『島津忠久』『安達景盛』『北条朝時』にかかわった『丹後内侍』も『姫の前』もいずれも、源氏の棟梁『源頼朝』の『古女(ふるめ)』であったのではないかと考えたのです。

『古女頂き(ふるめいただき)』の多くは、お腹に妊娠した状態で配下の信用の於ける者に下げ渡すのが常であったそうです。

 考え方としては、子供を養子として『養父母』に育てさせる考え方なのですが、願わくは『実母』連れで、守られながら、育つ事が望ましいとの、父親の思いからそうしたと考えられます。

貰い受けた『配下』の側は、その尊き女性を『床の間』に飾り「手を付ける事無し」に大切に扱うのが常で、人によっては『後』にも、元の主人が『お渡り』になることがあったとされる。

その場合は『次の子供』も『ご落胤』と言うことになる。
 その考え方によれば、惟宗広信が『古女頂き』後の、島津忠久の弟『若狭忠季』と…

北条義時が『古女頂き』後の、北条朝時の弟『北条重時(極楽寺流)』が怪しいと見なければならない。『北条政子』の目を盗んで、子造りに励んでいたのではないか???

 と想像すると…
 『頼朝』も本当は『政子』のことが既に『嫌』になっていたのかもしれない。

とにかく、古女頂きについて、宮尾先生の一説を紹介します。
馬場君には少し難しいかな?でも貴方の文章を読んでいると、思わず書いてしまいました。
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