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 投稿番号:100338 投稿日:2002年07月23日 09時30分56秒  パスワード
 お名前:
明智系図
キーワード:本能寺の変
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「本能寺の変の真相」スレに「明智系図」の事を書こうと思いましたが、少々長くなりそうなので別スレッドを立てました。
笠之助さんもおっしゃっているように、「土岐系図」の方は信憑性が??ですが、一つの説として面白いので紹介します。

[1]さんからのコメント(2002年07月23日 09時32分28秒 ) パスワード
  

歴史群像シリーズ【戦国】セレクション
俊英 明智光秀 (学研)より

「明智系図と喜多村家」

後世、逆賊とされたからかもしれない。光秀の子供たちについては諸説あり、不明な部分が少なくない。
その中で、比較的信頼度の高いのは、喜多村家に伝えられた「明智系図」である。そこには光秀の子として、次の13人が記されている。

@ 女子、菅沼新八郎(改織部正)定盈妻。実三宅大膳入道長閑斎女。
A 女子、桜井監物家次妻。監物家康公再従弟。実長閑女。
B 女子、織田七兵衛信澄妻。
C 女子、細川與一郎忠興妻。
D 女子、純慶嫡筒井伊賀守定次妻。
E 女子、川勝丹羽(ママ)守妻。
F 僧玄琳、洛陽妙心寺住塔頭。
G 安古丸、天正10年6月13日山崎合戦討死。
H 僧不立、嵯峨天竜寺閑居。於洛東東山音羽川辺横死。
I 女子、井戸三十郎妻。実光秀女。
J 十内、筒井伊賀守定次養子。後改名左馬助。於坂本城自害。
K 自然(じねん)、於同所死亡。
L 内治麻呂、母伊賀国柘植城主喜多村出羽守保光女。天正10年壬午正月朔日於江州坂本城誕生。

この「明智系図」というのは、F玄琳から喜多村弥平衛に送られた土岐明智氏の系譜である。
日付が寛永8年(1631)6月13日とあるように、これは光秀50回忌の追福修繕のために書かれた。

弥平衛とはLの内治麻呂のこと。玄琳は、その後まもなく入寂した。
その死期を悟り、伝来の旧書のなかから主要な部分を抜き書きして末弟に贈り、その系図を代々伝えてくれるよう頼んだのである。

弥平衛が光秀の実子であることは、その生誕直後に光秀が書いた喜多村出羽守宛の手紙があることからも間違いない。
一方の玄琳は、光秀と正室ひろ(漢字が無い)子(同族の妻木氏)の間の嫡男であり、普通光慶と呼ばれる人物であると考えて良い。

弥平衛は、家康とともに江戸に入り、樽氏・舘氏とともに「江戸宿三人衆」として江戸市政に重要な役割を果たした。
その子孫は町年寄の職を受け継ぐが、江戸中期以降本家は、大和郡山城主柳沢氏の家老となって明治を迎えることになる。
[2]さんからのコメント(2002年07月23日 09時33分12秒 ) パスワード
  

光秀は正室ひろ子以外に側室を置かなかった、と信じられている方が少なくないかもしれない。
しかし、それを肯定することはなかなか難しそうである。

喜多村弥平衛の母との婚姻関係は、ひろ子の亡くなった天正4年(1576)11月以降のことと考えられる。
しかし、I井戸三十郎の妻の場合はどうであろうか。
改めて「実光秀女」としていることからすれば、その母はひろ子とは思えない。

実際にひろ子の子と考えられるのは、「明智系図」でいえば、B織田信澄妻、C細川忠興妻、それにF玄琳である。
その他の男子、すなわちG安古丸、J十内、K自然のうち、一人か二人はひろ子の子の可能性がある。

―(中略)―
[3]さんからのコメント(2002年07月23日 09時34分14秒 ) パスワード
  

「明智系図」において、側室の子も含まれると判断したのには、それなりの根拠がある。
それは、熊本駅近くの細川家ゆかりの安国寺に保存されている「土岐系図」である。
その寺は、光秀の子明厳梵鉄和尚が開山したものという。

その系図には、光秀の側室として公家原仙仁の名が挙げられている。
この原仙仁が何者なのか、実はよく分からない。
その側室との関係は、子供の結婚相手の年齢から判断して、光秀が朝倉氏に寄寓していた時代からと推定できる。

その側室の方の子供は、先にあげた「明智系図」でいえば、D筒井定次妻、E川勝丹羽(ママ)守妻それにH不立である。
「土岐系図」ではそのほかに、5人の男子をあげている。

T 長男・松寿丸。「山崎の合戦」後船井郡に蟄居、子孫は明田氏を称した。
U 二男・秀寿丸。三宅藤兵衛を名乗り、その後細川忠興に仕えて肥後に住み着いたという。
恐らく、この人物が明厳梵鉄和尚ということなのであろう。

V 三男・不立=「明智系図」のH。この人物は、岐阜県美山町の光秀伝説(従弟光忠か)にも登場する。
W 四男・於鶴丸。時田十太夫を名乗り、子孫は郷士となったとある。
X 五男・光保。後に服部平太夫、さらに関東に召されて蓑笠之助に改めたとする。
Y 六男・浅野内蔵助。「忠臣蔵」で有名な大石良雄(よしたか)の祖父という。

かなり疑わしいものもあるが、ここは片目をつぶろう。
[4]さんからのコメント(2002年07月23日 09時35分07秒 ) パスワード
  

この側室の系図について、真偽を確かめるのは容易ではない。
しかし、そのなかで女子の二人、D筒井定次妻とE川勝丹波守妻が実在したことは、各種の記録から間違いない。

定次の妻は秀子と呼ばれ、普通信長の末娘と認識されている。しかし、その名前からも実の父は光秀と分かる。
光秀は、信長の正室(濃姫)の従兄である。その関係で秀子が信長の養女として定次に嫁いだのであろう。

定次はその子順定とともに、「大坂夏の陣」で秀頼側に内通した疑いで切腹させられ、筒井家の嫡流は断絶する。元和元年(1615)3月のことである。

もう一方の川勝丹波守というのは継氏の子秀氏のことであろう。
川勝氏は丹波桑田・船井郡内を知行し、光秀の丹波攻めには早くから与力として加わった。
しかし、「本能寺の変」では光秀に味方しなかった。
「関ヶ原の合戦」では西軍に加わり、細川藤孝の篭る田辺城を攻めた。合戦後3,500石に減封されるが、旗本として残った。

側室の男子の末裔には、著名な家は出ていない。その長男の松寿丸の子孫は明治になって明田から明智に改姓し今日に至っている。
『光秀行状記』を記された明智滝朗氏は、その末裔を名乗っておられる。

同氏によれば、祖母は津軽藩士明田鉄太朗という能管の名手の娘で、徳川幕府の能役者山階滝五郎に嫁した。同氏はその祖母の家を継いだのだという。
京都市東山区三条白川橋にある光秀の首塚には、その先祖が関係するらしい。

その光秀の首は、秀吉が三井寺で首実験を行った後、京の粟田口にさらされた。
当初、この首は粟田口黒谷通りの東に埋められていた。
しかし、明和8年(1771)にこの地に住む明田利右衛門が、粟田口黒谷の五人組連中からもらい受けて、自宅のこの地に移し菩提を弔ったという。

―(中略)―
[5]さんからのコメント(2002年07月23日 09時35分50秒 ) パスワード
  

それとは別に、光秀の子としてもう一人山岸光重がいる。その母は、最初の妻で従妹の千草とされる。
この関係であろう。美濃側の史料に、光秀の母を山岸貞秀の女とするものがある。
だが、光秀の実母は、「明智系図」にあるように若狭守護武田義統(よしむね)の妹と考えてよい。
義統は、足利義昭の姉婿にあたる。

光秀は弘治2年(1556)、斎藤義龍に居城(可児長山城)を攻め落とされ、美濃を出奔する。
このとき、29歳。千草とは死別していたのであろう。その子は、母方の山岸氏で育てられ、その家を継いだ。

てる子を正室に迎えたのは、若狭・越前の時代である。それは、珠子(ガラシャ)の生年などからも推定できる。
[6]さんからのコメント(2002年07月23日 09時36分45秒 ) パスワード
  

さちこさん、いかがでしょう?

『土岐系図』が作り物だとして、どうしてここで蓑笠之助が出てくるのかな、と不思議に思うのですが。
明厳梵鉄和尚の経歴を飾るためだけの系図にしては、不自然ですよね?
明智光秀は当時逆賊扱いでしたし。
誰がどういう意図で書いたのかな、と思います。
[7]さちこさんからのコメント(2002年07月23日 20時17分20秒 ) パスワード
  

隈さん
どうもありがとうございました。
ご無理を言ってごめんなさい。

よくわかりました。
といいたいところですが、

う〜ん。ますます判らなくなりました。

筒井氏までが絡んでましたね。

服部一族の系図では、
笠之助は光秀の妻の父の従兄弟。
そして家康の側室で二代将軍秀忠の母、お愛の実父(或いは妻の連れ子)
ということになってました。

この笠之助が同人物とは考えられないので。

笠之助というのは本名ではなく、
猿楽師でもあったらしいので芸名のようなものでしょうか?

とにかく今は???です。
服部系図と比べてみて考えてみます。
ありがとうございました。
[8]さんからのコメント(2002年07月24日 18時47分04秒 ) パスワード
  

さちこさん

私もこの件について是非一言書きたいと思っていたのですが、
この春から平日は娘の通園に付き合わなくてはならず(訳あって親子一緒に通っているのです)、なかなか時間が取れなかったのですよ。
使っているパソコンはもともと主人の物なので、土日は基本的に主人に譲っているし。

でも、どうぞお気遣い無き様! 好きで書いてるんですから(笑)


> 服部一族の系図では、
> 笠之助は光秀の妻の父の従兄弟。
> そして家康の側室で二代将軍秀忠の母、お愛の実父(或いは妻の連れ子)
> ということになってました。

> この笠之助が同人物とは考えられないので。

> 笠之助というのは本名ではなく、
> 猿楽師でもあったらしいので芸名のようなものでしょうか?

そのご指摘で、気が付きました。
《笠之助》さんのHP「忍びの砦」に出ていました。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kasan/kasa/kasaden.htm

さちこさんのおっしゃるように、笠之助というのは代々襲名された名前だったそうです。

なるほどお愛殿との関係からいって、
『土岐系図』にある「服部笠之助」は、少なくとも初代笠之助ではあり得ませんね。
可能性があるとしたら、2代目とか。でも、名前が違いますね。

《笠之助》さんがHPに書かれているように、
服部平太夫という同名の別人(甲賀五十三家のうちの服部家)がいて、
それが蓑笠之助と混同されたのかも。


そうそう、服部氏は柘植周辺だけでなく、名張にも居たらしいですよ。

甲賀の服部家は、初めは名張に居たのが、
甲賀に移り住んだという話を読んだことがあります。
私が以前スレを立てて書いた服部要介という人物(甲賀和田の住人。足利義昭のお供をした)も、
もともとは名張に住んでいたそうですし。

服部出羽守の居城は柘植だったかも知れないし、名張だったかも知れない。
もしかしたら両方に拠点があったかも、と私は考えているのですが。

もっとも、素人の憶測に過ぎませんけれど。
自信は無いです・・・ (^^;
[9]さちこさんからのコメント(2002年07月24日 20時44分47秒 ) パスワード
  

下記は以前他のスレッドで隈さんが書かれたものです。

最近、『消された王権・物部氏の謎』という本を読みました。
題名の通り物部氏についての話題が中心ですが、それ以外の古い豪族についても、天皇家とは裏表の関係で、
歴史の表舞台から姿を消して落ちぶれた後も、陰で天皇家&藤原家を操った、と書かれていました。

どうしてそんな事が可能だったか?というと、

藤原氏によって律令体制が整えられ、多くの民がそれに組み込まれた後も、
政争に敗れて『消された』人々はそれに属さず、定住を避けて遍歴漂白の民となったといいます。
すなわち、芸能民あるいは鋳物師、木地屋(盆や椀を作る人)、薬売り等の行商人、それに修験者(神仏に仕える人々)等々、身分的には低いとされた人々です。
身分は低い代わり、彼らは法律に束縛されず、自由に行き来し、同族ネットワークで情報交換しました。

彼らを潰そうとすれば、そのネットワークで逆に消されてしまう。
天皇家にとって彼らは不気味な存在でしたが、彼らの持つ情報は充分利用価値のあるものでした。
例えば天武天皇は、彼らを上手に利用しました。

著者曰く、『この闇の社会を本気で潰しにかかった人物は、歴史上織田信長一人と考えられる。
ただ多大の犠牲を払いながら、野望は完璧に成し遂げられた訳ではない』と。

・・・これって、まさしく忍者のことですよね!?


隈さん
これがすごく気になってて、
本能寺の変に関係してるかもと。

以前読んだ司馬遼太郎さんの対談なのですが
これも気になったので書いてみます。

後醍醐さん南朝方が流浪するのですが、
そのときの経済的基礎はどうなっていたか。
彼らには土地がない、土地は北朝がもっている。
そのころ東シナ海貿易が九州を中心に行われ、
京都にもおよびつつあった。
その経済に土地のない南朝はかかわった。
商業というのはゼニですから。
どんどん入ってくるゼニの上に、
後醍醐天皇はのっかったわけです。
上代的復権を理想する人が大変モダンなものの上に
乗っかっているというのは面白い。

いかがでですか?
南朝に秦氏が絡んでいるとすると納得できますよね。
いかにもユダヤ人という感じです(笑)

当然服部家も南朝系。
織田氏と服部家の対立はもしかしたら、
経済、金の流れの対立だったのでは?
南北朝の頃から、
いえ、もっと以前からの宗教や呪術などと密接な秦氏ネットワーク経済、
なんかそういったものがあったような。

当然近世的思想の信長とは対立するわけです。

NHKのその時歴史がうごいた。
本能寺の変です。
みなきゃ!


[10]さちこさんからのコメント(2002年07月24日 22時42分07秒 ) パスワード
  

みました。
面白かったけど。

少し物足りないな〜。
NHKだからね仕方ないかなんて偉そうなことを。

でも松平アナは面白いです。
桑名の殿様の御子孫だそううです。
私のあてにならない勘では半蔵の血筋が入っているのでは?

本番中に飛ばすらしいですね、ボールペンとか?(手裏剣のごとく)

以前古代史ご専門の、川勝先生がゲストの時は、
白村江の戦いの時だったと思うのですが、
スパイ、忍者の話になってお二人凄く楽しそうだった。
(本能寺ご研究の三重大学の先生は少しつまらなそう?)
松平家、本当は真実を知っているのでしょ?

服部家と松平家はやはり古くからの繋がりかも?賀茂?
[11]さちこさんからのコメント(2002年07月24日 23時10分52秒 ) パスワード
  

隈さん

遅れましたが色々大変ななか、ありがとうございます。

秦熱関連以外のスレッドを見落としがちなので、
申し訳なく思います。

笠之助か〜
本当に実在の人物だったのか、
服部家が何か残したいがために作り上げた人物か?謎です。

世襲制といえば某狂言師宗家争い。
別名、和泉家南北朝時代というそうな。

元彌ママ大橋家の方ですね笑ってしまいました。
確かにTV、マスコミ、ゼニ経済に乗っかってる。
[12]さんからのコメント(2002年07月25日 09時24分53秒 ) パスワード
  

う〜ん、「その時歴史がうごいた」見れませんでした。
再放送、録画しとこうかな。

松平アナって桑名松平家のご子孫なんですか。
へぇ、すご〜い・・・

>> 以前古代史ご専門の、川勝先生がゲストの時は、
> 白村江の戦いの時だったと思うのですが、
> スパイ、忍者の話になってお二人凄く楽しそうだった。

やっぱり秦氏の血が騒いだんでしょうね。うふふ・・・

> 元彌ママ大橋家の方ですね笑ってしまいました。
> 確かにTV、マスコミ、ゼニ経済に乗っかってる。

あぁ、大橋家のイメージがぁ・・・(汗)
え? もともとこういうイメージだった?


> 織田氏と服部家の対立はもしかしたら、
> 経済、金の流れの対立だったのでは?

そういえば、信長は鉄砲の製造・販売権を独占しようとしていて、
堺の商人達にも恨まれていたらしい、という話を読んだことがあります。

なるほど、ゼニがかかっていた訳ね。直接的な理由で、納得出来る。
[13]川口 信さんからのコメント(2002年07月25日 09時37分23秒 ) パスワード
  

 私も見ました。やっぱり物足りないでしたね。新資料があるというので期待して見たのですが。

 本当に元彌ママ大橋家は守銭奴みたいですね。伝統ある家にしては珍しいし、芸を広げると言うよりもゼニ儲けに走っているみたいで、育ち方に問題があるのではないかな?と思います。

 西郷氏於愛の方は秀忠・忠吉の生母である。遠州の住人秋山十郎の女、伊賀者服部平太夫の妹、三州の住西郷弾正左衛門正勝の養女なり。(徳川幕府家譜)
 於愛の方は戸塚作左衛門某の女、西郷弾正左衛門家員の養女で、秀忠を生んだのち、西郷局と号した。(源流綜貫)
 また戸塚五郎太夫忠春の女である。一女於愛の生母は西郷弾正左衛門正勝の女である。於愛は初め蓑笠之助正尚の養女になり、西郷正勝の嫡孫義勝に嫁いだ(寛政重修諸家:戸塚譜・西郷譜)と記したものがある。
 西郷正勝は、初め今川義元に仕え、のち家康に帰属し、三河八名郡西郷庄の五本松城を守り、子元正は月谷城にいたが今川氏真方に攻められ父子共に戦死した。元正の子義勝は幼少であったけれど、叔父清員の請により、祖父正勝の遺跡を相続し、諏訪定久の女を娶り、後に蓑正尚の養女於愛と婚した。義勝と清員等は武田との戦いで討死し、於愛は寡婦となった。天正六年三月、家康は蓑正尚の邸に赴いて於愛の方を浜松に伴い、伯父西郷清員の養女として側近に仕えしめた。等々。

 以上は「家康の族葉」(中村孝也著)より

 蓑笠之助のHPにも同様のことが書かれておりますね。


[14]さちこさんからのコメント(2002年07月26日 20時40分48秒 ) パスワード
  

こんなのがありました。
よく判らないのですが、
本願寺なんとかというゲームソフトの関係?

本多正信もかなり怪しいと思いませんか?
葵の紋は賀茂神社の紋らしいのですが、
この本多家は賀茂神社神官の家柄でた立ち葵の家紋だそうです。
家康は何故かこの葵紋を使いたがり、
正信に頼みデザインを変える事を条件に、
葵紋を使用することになったという話があります。
真偽の程は判りません。

それから岡崎の伊賀八幡宮というのがあるのですが、
松平4代親忠の時に伊賀から移したとか。何故?

http://home.freegate.co.jp/~hachiman/



松平家の領地は元々賀茂神社の荘園だったという話もあります。
[15]さちこさんからのコメント(2002年07月26日 20時43分40秒 ) パスワード
  

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Domino/6182/bushouretuden.htm

友貞がのってるのは上記です。
忘れてました。服部家は必見(笑)
[16]笠之助さんからのコメント(2002年07月26日 21時49分40秒 ) パスワード
  

>よく判らないのですが、
>本願寺なんとかというゲームソフトの関係?
「信長の野望」というゲームの本願寺関係の人物を紹介したサイトみたいですね。
そういえば、このゲームの新しいバージョンのものには、「喜多村弥兵衛」という忍者が登場しているようです。
シブサワコウというプロデューサーが、このゲームを作っておられるのですが、「喜多村弥兵衛」を忍者にするには、服部出羽守の存在を意識しないと出来ないと思うのですが.....。それとも、他に「喜多村弥兵衛」という忍者が実在したのでしょうか?
[17]さちこさんからのコメント(2002年07月27日 12時27分26秒 ) パスワード
  

スレッドとは関係ないですがおもしろかったので。
元ヤン、
岐阜の可児市から新宿まで
世紀の大移動成功だそうです。

http://www.zakzak.co.jp/top/t-2002_07/2t2002072701.html


なんでも遅刻するモトヤ見たさに人が集まってくるとか?
ここまでくるとご立派!
大橋家万歳!


川口様どうぞ生暖かく見守ってあげてください。

和泉流派尾張徳川家のお抱えだったらしいです。
大橋家とは昔から何かご縁があったのでしょうか?

笠之助さん

どうもありがとうございます。
ゲーム関係は疎いので(笑)

また後ほど。
[18]さちこさんからのコメント(2002年07月27日 23時53分39秒 ) パスワード
  

少し頭を切りかえて、
光秀怪しい!

あっ!光秀は元々怪しいというか真犯人でした。
光秀の身辺、波多野氏(ママが人質にとられ殺された)
長宗我部氏も秦氏です。

後妻が服部家(北村OR喜多村)う〜ん怪しい。

明子さんの静御前のスレッドをみて、
つい気になった光秀関連。
例の連歌会なのですが???
こじつけなのはごめんなさい。
でも気になったのです。

http://osaka.yomiuri.co.jp/in_event/ind_rekishi.htm

以前本能寺関連のスレで、
光秀の句と宗清の和歌が似てるのでは?
なんて支離滅裂説を述べましたがこれをみてやはり?
なんて思いました。


 『国盗り物語』(司馬遼太郎)などの歴史小説でも、威徳院での連歌会は、光秀の心理がにじむ場面としてたびたび登場する。そこでは、光秀の発句に対して、連歌師紹巴が第三句で「花落つる流れの末をせきとめて」と、「謀反」をうち消そうとする。 


連歌会、私はよくわかりません。
がっ!

柘植の野にこしつる花を植えおきて我がいく末をいわふべき哉(宗清)


時(柘植)は今あめがしたしる五月哉  (光秀)

花おつる流れの末をせきとめて(連歌師?)


比べてくださいあまりにも同じ語句が多くありませんか?

花おつる=柘植の野の花も悲しくも散ってしまった。
流れ=今の世の流れ
末=宗清の和歌にかけ、信長の世の末
せきとめて=せき止めて=信長を殺れ!

と私は感じました。
連歌会のことよく判りませんので無茶な推理ですが。

でも母の細川氏経由で私には光秀の血筋が入ってます。
私の中の光秀の遺伝子が囁くのです。

「本能寺の変の真相?それは・・伊賀の服部家の妻が美しすぎたから。」

ドッカ〜ン!自爆!!あははっ!
はいはい。もう帰ります。おやすみなさい。
[19]さちこさんからのコメント(2002年07月28日 22時20分24秒 ) パスワード
  

上記の説は、
何で皆、宗清の和歌しってんねん。
皆知ってたら信長も知ってるやろ。
信長はタ〜ケで知らんにしても周りの連中しっとるやろ!
ばればれヤンケ!

はいはいそうでございます。
少し反省。

それにしても関西弁は変換が〜。ややこしいというか。
関西弁差別されてる?
関西弁変換、名古屋弁変換できるようにして欲しい。


笠之助さんへ

今日久し振りに服部家系図を見てみました。
個人的な偏見というかよく判りませんが、
以前から服部保家、
矢筈車系の服部家、名張系?
な〜んか違和感あるなと思ってました。
おつくり話が多いというか。

服部一族の系図読んでいただけましたよね。

保清=これは保家の祖だったとのでは?
家長が屋島より逃げ延びて保長と改名しその子が保清。

服部家の系図をみると(他家もそうですが)
代々名の文字をとっています。保の続く家、宗の続く家など。

家長が保長と改名し、
子孫が保清というのは無理があると思います。
保の字は平家と結びつかない。
清盛、宗清の清としても???です。

それも保清の子孫が南朝遺臣服部宗純となったと言う説。
矢筈車の政家。これは絶対変!
南朝遺臣は並び矢か、並び矢筈。
絶対とは言い切りませんが、
保系の服部家の系図は怪しいです。


でも同じ服部家どっかで繋がってるからな、
大雑把な性格の私はまっいいじゃないのなんて思ってました。

でもね。
何か変です。
笠之助さん。
服部平太夫正尚。
兄弟の成重その子成次。

半蔵正種ー正成ー正重。
笠之助、私はどう考えても半蔵一族だと思うのですが。

笠之助さんが忍者サミットとでご指摘のとおり、
半蔵正成は保長の子ではない。

私は系図など??
頭??で眠くなるタイプで集中力なしなので。

笠の助さん!
お得意の系図研究でぜひ服部家の真実を解明してください。

私の資料は少ないですし、正しくないかもしれません。
また協力させていただきますのでヨロシクお願いします。
[20]さんからのコメント(2002年07月29日 18時22分06秒 ) パスワード
  

さちこさん

> 半蔵正種ー正成ー正重。
> 笠之助、私はどう考えても半蔵一族だと思うのですが。

なるほどね。通し字の事、見落としていました。

私も服部系図を見て、服部保長・正成が親子であることには疑問を感じていました。
正成の父の名が正種、というのなら分かるのですが。

だから、笠之介さんが服部保長と正成は親子ではないのでは、とおっしゃったとき
《ああ、やっぱり》と思いましたよ。

保系の服部家(名張系?)。
私も以前から、何となく引っ掛かるものがありました。
何となく・・・うまく言えないのですが、何かを感じるのです。
私の先祖にも繋がるような。

平氏ではなく、秦氏ってこと?

そういえば、伊賀越えに従った服部要介保次は服部宗清の子孫を名乗っていて、
最初は宗次と名乗っていましたね。
どうして改名したんでしょうね?

この辺にも何か事情がありそう・・・
[21]笠之助さんからのコメント(2002年07月29日 21時05分41秒 ) パスワード
  

服部一族は、「保」という字も好きなよわうですね。
服部正就の孫には、図書保元というのがいますし、伊賀服部の本拠地荒木出身の荒木又右衛門(幼名:服部丑之助)保和もいます。
千賀地出身の藤堂采女元則は、藤原氏の服部です。
笠之助は、平太夫の名前からすると平氏ですが、藤原氏も称していたようです。また、『寛政重修諸家譜』には足利支流仁木氏になっています。
でも、ときの権力者によって、先祖の出自などは簡単に変えてしまうのが常みたいなので、はっきりした事はわかりません。

甲賀の服部氏も藤原のようです。南伊賀は、藤原服部が隆盛だったのでしょうか?
[22]さちこさんからのコメント(2002年07月29日 22時24分26秒 ) パスワード
  

藤原氏の服部家ですか?
どの藤原なのかご存知ないですか?

他のスレで藤原氏が話題になってたので関心があるのですが。

隈さんは名張系の服部家ではないと思いますよ。
北伊賀です。多分。

名張と北伊賀では昔から何となく対立していたというか、
一族ゆえひがみから足の引っ張り合いをしてたのかも。

昨今市町村合併の話題が多いですが、
伊賀でも上野市、名張市、阿山郡、(後どこかありましたが忘れた。)
合併して伊賀市にという話になったのです。
普通なかなか新しい市の名前が、
各市町村の言い分が食い違い(自分の町の名を残したい)なかなかまとまらない。
そんな話はよくあります。

でもさすが!
いち早く伊賀市に決定!
早速、伊賀市発足の準備をというときに、
なぜか名張だけは合併に難色。

名張は関西の通勤圏だし財政がいいのかなと思ってたら。
伊賀の人に尋ねると、
名張は昔からな〜とか名張の連中はとかいうのです(全部ではないけど)

昔からと言うのは壬申の乱の昔から?

市町村合併その後は名張も話し合いには応じてるらしいですが詳しくは知りません。

でも三重県人にとっては名張一番マイナーな市です。
名張って三重県?上野市名張町じゃないのとか。(名張のみなさんごめんなさい)

そうそううちの両親の仲人が北村さんといって名張出身なのですよ。
これも平熱名物?

だから私は北村といえば名張というイメージがあるのですが。
でも近江の北村だから地形的には柘植関連かなと思ったり。

[23]さちこさんからのコメント(2002年07月31日 22時41分46秒 ) パスワード
  

隈さん
去年から要介怪しいとおっしゃってましたよね。

笠の助さんからいただいた服部家の系図をみて、
思わず叫んでしまいました。


保次
(初宗次 要介 小平太)

伊賀守宗純の末裔
義輝(足利)に仕え服部家の惣領職相違いないと賜り、
後に織田氏に仕え桶狭間の戦いで戦功をなす。

服部小平太=保次
だったのでは?

隈さん要介は名張でしたよね。

小平太尾張の服部家ではなかったのです。
うらぎりものではなくて、
もとから系統の違う服部家。

家長が屋島より逃げ帰り保長と改名、
保長の子、保清が伊賀宗純の先祖。
この説は信長の家臣の服部家を嫡流とし、
友貞に対抗するためにつくられたのでは?

信長に仕えてた服部家は名張系?
そういえば保系の服部家、
揚げ羽蝶や平蝶などの家紋が多い。
大江氏が蝶の紋を使ってると大志万さんのところでありましたが。
南伊賀の大江氏もそうでしょうか?
[24]さんからのコメント(2002年08月01日 09時55分12秒 ) パスワード
  

服部系図には、後に三河に移り住んだ服部家には事跡の混同がみられるとあり、
私は別人だと思っているのですが・・・

以前こんなページを見つけました。

http://www.orange.ne.jp/~hosoeone/hosoe/history/history4.htm

ここで殺されたのは、今川義元を討ち取った服部小平太ではなく、服部要介保次の方だと思います。
寛政諸家譜(たまたまおととい、図書館でコピーしました)にも天正15年刑部村(現静岡県細江町)に死す(62歳)とあります。

今川義元を討ち取った服部小平太一忠は、後に豊臣家に仕えて伊勢松阪城主になってましたよね。後に秀頼に荷担したとされて、切腹しています。

http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/hattorikazutada.html


ただ、北村氏の事は私も最近気になっています。

名張には「北村酒造」ってあるらしいですね。
電話検索してみたら、今も伊賀上野周辺と名張の両方に北村姓が多いようです。
[25]さちこさんからのコメント(2002年08月01日 12時35分19秒 ) パスワード
  

私もあとで服部一族の系図をみてやはりおかしいなと思いました。(笑)

それにしても保系の服部家の系図は・・・・。
多分保次=要介ではないですね。
小平太と要介はやはり尾張系?

保次の墓が近江にあるとも書いてありました。



[26]さんからのコメント(2002年08月01日 14時38分15秒 ) パスワード
  

> 保次の墓が近江にあるとも書いてありました。

えっ、服部系図に? どこにどこに?(驚)


私は、あるいは、足利義昭に仕えた要介と、徳川家に仕えた要介保次は別人では?
などと考えたりしたのです。

「足利義昭に仕えた服部要介」は、初めは名張に居て、近江和田に移り住み、
そこで義昭にお供するようになったそうです。
で、足利義昭に仕えたのが永禄8年。

一方、「服部要介保次」が徳川家康に仕えるようになったのも、永禄8年。

さては同姓同名か?と思ったのですが。

「保次」の墓が近江にあるということは、やっぱり保次=要介??


ところでさちこさん、もう一つ平熱名物を。

私が北村家に拘る理由として、
最近私自身がやたら「北村(喜多村)」という名に出会うことが多い、という事情がありまして。

今まで知り合いに北村さんは一人もいなかったのに。
主人の知人とか、ふと目にした看板とか。

偶然かなぁと思っていたら、
今日、娘と通う園に、新しい親子が仲間入りしました。
先生がご紹介されて、「北村さんとおっしゃいます。」

思わずギクリとしてしまいました。

ご縁があるとしか思えません。仲良くしましょ(笑)
[27]さちこさんからのコメント(2002年08月01日 22時34分30秒 ) パスワード
  

大江氏との家紋の件カン違いしてました。
何かが大江氏と保系の服部家と繋がっていた筈なのですが、
大志万さんのところで混乱したみたいです。
どこで何をみたかも忘れましたが、
家紋が繋がってるという記憶だけはあるのですが。
記憶力が悪いくせにメモをしない性格でごめんなさいね。

保次の墓の件、
服部一族ではなくて笠の助さんから頂いた、
寛政重修諸家譜巻という系図です。
昨日書いたのはそれを要約したものです。

天正十五年四月近江国にをいて死す。
年六十二。近江国刑部村に葬る。

とあります。

実は保系の服部家を好きになれない家庭の事情があって。
不思議なんですが半年ほど前から何故か、
服部 保宛ての郵便物が届いたり(うちにはそんな人いません)
ダイレクトメールのようなたいした物ではないのですが。
服部タモツさんのおたくですか?と電話があったり。
そんなヤツ知らんといってるのに服部タモツの電話番号教えてくれとか。

父の古い友人に服部ではないけど保という人がいるので
同窓会名簿か何かで混乱したのかなと思うのですがあまり気持ちよくない。
そんなこんなで保の字をみると・・・。ついイライラと。

ただやはり服部家の名前の連続性を考えると、
要介と保次の件は判りませんが、
保系の服部家が宗純の子孫とするのは無理があるかと。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_hato.html

このページの下に家系図があります。
この系図だけで判断してはいけませんが、
代々保の服部家、
宗のつく服部家があります。
南朝遺臣の宗純はこの系統だと思うのですが。
この系図は柘植家のものと似ています。
宗清の子孫の服部家というのはここからかなと思ったりしますが。

柘植氏の系図

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tuge_k.html

宗純の子孫が代々保字を使うとはなんとなく思えなくて。

下記に南北時代の伊賀悪党について書いてあります。
服部保忠が大江氏と共に黒田の悪党となってます。
北伊賀の服部家、柘植家と南伊賀の悪党との違いなど興味深いことが書かれてます。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tuge_k.html

勿論これだけのことで保系の服部家と北伊賀の服部家は別系とは言い切れませんが。

[28]さちこさんからのコメント(2002年08月01日 22時39分23秒 ) パスワード
  

http://users.hoops.ne.jp/kuno1min/iga/akutoh.html

柘植の系図を2回書いてしまいました。
悪党はこちらです。ごめんなさい。
なにしろ秦バテですので。
[29]さんからのコメント(2002年08月02日 18時28分07秒 ) パスワード
  

> 保次の墓の件、
> 服部一族ではなくて笠の助さんから頂いた、
> 寛政重修諸家譜巻という系図です。

あ!すみません、私が図書館でコピーしたのもそれです。
《寛政諸家譜 × 寛政重修諸家譜巻 ○》
名前が間違っていました。失礼しました。

ということは、近江国刑部村→遠江国刑部村でしょう。
なるほど納得。


> 実は保系の服部家を好きになれない家庭の事情があって。

そうだったのですか・・・
何だか、私が何度も「北村」姓に出会うのと連動してるみたい。

私達のご先祖様、両家に関して何か言いたい事でもあるんでしょうか?

さちこさんが載せていた文献、少し前に私も見つけて読んだのですが、
まさかこんな形で繋がってくるとは思いませんでした。

確かに、柘植系=北伊賀、服部保系&大江氏=南伊賀で対立していたようだ、とありますね。

しかしこれを書いた人、どうせなら最後まで載せて欲しかった・・・
「面白くなく」たって、「事実とは限らなく」たって、何が参考になるか分からないのに。


服部宗系と服部保系は別系統では、というさちこさんの説、
私も確かに一理あると思いますよ。

それで、ええと・・・

北村家は柘植氏系=服部宗系で、北伊賀。
服部保系は南伊賀。
・・・本能寺の変で、初めて両家が一致団結した??

いかん、私も頭が混乱してきた・・・(実は整理整頓は私も苦手なのです)
私も服部氏の系図を見ながら、ちょっと頭を整理しなくては。
[30]さちこさんからのコメント(2002年08月02日 22時32分48秒 ) パスワード
  

隈さん。

私確かに細かいこといってるような感じがしました。

他のスレと関連してみると!
保系の服部家怪しい!(良い意味で)

違和感のある系図なのです。
でも引っかかるのが何かです。
くすぶるものがあって。
保系の服部家が幕臣となってるのに、
うちは農民、そんなひがみかしら(笑)

対立することはあってもいざとなれば結束?

保系の服部家気になりますね。
笠の助関連で(私の考えでは半蔵系=笠の助)

宗系、半蔵系、保系が繋がれば?

笠之助さ〜ん。
大変なことになってきたかも?(妄想にちかいけれど)

是非御協力お願いします。
[31]川口 信さんからのコメント(2002年08月03日 09時40分24秒 ) パスワード
  

保系の服部家について。

 明智光秀の妻については2説があり、大井蒼梧著「細川忠興夫人」によると、光秀妻は志州鳥羽城主服部出羽守保益の女とし、「線考輯録」では、妻木解由左衛門範ヒロの女ヒロ子とある。
 服部出羽の娘は伏屋姫と呼ばれ、美人のほまれ高く、十六歳で光秀に嫁したが、祝言間近に疱瘡にかかり、容色をひどくそこねた。父保益は一計を案じ、美しさ姉にも勝る妹娘を身代わりにたてた。花嫁が被衣を脱いだ顔を見て、光秀は伏屋姫ではないことを知り、保益に理由をただした。一部始終を知った光秀は、たとえあばたで不器量になったとはいえ、自分が望むのは伏屋姫であると、妹娘を返し、姉を娶ったという。(「柳営婦女伝」)

 俗説かもしれませんが「柳営婦女伝」に書いてあるということは、何かがあるのかもしれません。
[32]さちこさんからのコメント(2002年08月03日 21時54分05秒 ) パスワード
  

川口さんありがとうございます。

秦氏が気になって古代史研究というか趣味で調べてますが。
古代を調べる時あまり細かい点にこだわらず。
(系図の家系とか調べると頭ぐちゃぐちゃになります)
何か大切なものは要点として何か伝えたい物として残っていた?
そんな感覚でいるのですが。

妻木氏は美濃でしたよね、
妻木と服部家の関係が判れば、
このへんの伝承がはっきりするような。

服部出羽守保益、保はどれも同じです。
でも鳥羽ですか?あれ〜。?

でもこの話、神話的に考えると、
疱瘡の妻というのは作り話で、
要するに光秀にとって良くない条件の妻をもらったということかも?
[33]川口 信さんからのコメント(2002年08月03日 22時25分31秒 ) パスワード
  

 そうですね。徳川幕府が作った「柳営婦女伝系」ですから。

 蓑笠之助さんのところには

 服部出羽守保章のところに
 保光。のち喜多村(北村)氏。服部平太夫の従兄弟。伊賀柘植 (一説に名張)城主。娘は明智光秀の後妻で、天正10(1582)年一月には坂本城 で光秀の末子(内治麻呂)を出生している。天正伊賀ノ乱で恨みを抱いた出羽守が、 明智光秀を唆し本能寺で信長を襲わせたのではないかとも考えられる。徳川家康 の神君伊賀越えでは、柘植城で家康一行を迎えて謀殺しようとしたが、 従兄弟である服部平太夫に見抜かれて未遂に終わった。この為に柘植城を追われ、近江国北村に隠れ棲み北村(のち喜多村)と改姓した。他に明智光秀の後妻となったとする伏屋姫の伝承があるが、父親の名を服部鳥羽守としている。鳥羽守という呼称は、国司の官位名としては誤伝(あるいは鳥羽一国という見方があるのか?)のような気もするが、出羽守と同一人物を指すのかは不明である。服部出羽守の出自については不明であるが、伊賀の地誌などから推測できる。
 とあります。来週にでも図書館で「柳営婦女伝系」を借りてきて詳しく調べてみます。
[34]川口 信さんからのコメント(2002年08月08日 09時23分15秒 ) パスワード
  

 図書館に行ったら、お目当ての本は出張中でした。

 光秀で検索していたら下記のようなHPがありました。
 
 http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide072.htm

 「本城惣右衛門覚書」と題して、本能寺の変に従軍した光秀配下の本城氏が書いた記録です。内容は「信長記」などで伝えられている攻防戦があった「変」の様相とはずいぶん違うことがわかります。
 他に、光秀生存説や光秀という男、天海は光秀だったのか、「変の真実」等々結構読んで楽しめます。

 「天海は光秀だったのか」の一部から

 一、天海は没後、諡号(しごう)を慈眼(じげん・衆生を慈悲の心で見る仏・菩薩の眼の意)大師とされたのだが、これと同じ号を持つ京都府の慈眼寺(北桑田郡京北町周山)には光秀座像と表に「主一院殿前日州明叟玄智大居士神儀」、裏に「順逆無二門大道徹心源五十五年夢覚来帰一元」と記された光秀の位牌が祀られている。
 一、光秀と妻の熙子(ひろこ)及び明智一族の墓は天台真盛宗西教寺(滋賀県大津市坂本)に祀られている。
 一、天海の口利きによって、本能寺の変の大功労者で山崎の合戦に敗れて斬首された光秀の家老、斎藤利三の遺子於福(おふく:後の春日局)が重用された。
 など。ここでも「周山」が出てきました。
こちらはHPなので「マクラ」にはなりませんが。
[35]さちこさんからのコメント(2002年08月08日 13時04分22秒 ) パスワード
  

川口さん

「まくら」どころか。
今昼休みで平熱チェックして昼寝でもと思ってました。(何しろ暑いので)
でも眠気がふっ飛びました!
時間がなくてほんの少ししか読めませんでしたが。

なるほど、まさに暗殺という感じだったのですね。
光秀信長の指示で実は家康を暗殺するはずだった。

トンでも説ですが面白い。

時間がないのでまた。
[36]さちこさんからのコメント(2002年08月09日 00時19分41秒 ) パスワード
  

先ほどは失礼しました。
訳判りませんでしたね。ごめんなさい。


川口さんおすすめのHP。
トップページが判らなくて今もさまよってるのですが(助けて!)
ドラマ、小説等で語られる本能寺の変と随分様相が違うことが判ります。

信長は光秀を使い家康を暗殺しようと計画し逆に暗殺された。
トンでも説なんですが。
妙につじつまがあってるような。

http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide07.htm

うちの先祖、服部友貞が正月に信長に暗殺されてることを考えると。
家康暗殺、信長ならやりかねん!と思います。
今の歴史では友貞と家康全然身分が違うだろうと考えがちなのですが、
当時ではそうでもないと思うのです。

信長が友貞を暗殺した時、一向一揆宗徒は信長最大の敵だった。
伊勢でその元締めの友貞を暗殺することによって、
勢力の弱体化を狙ったのでは?
友貞の死と水軍の裏切りについては詳細は判りません。
でも友貞の死によって、長島の軍に不安は拡がったことは間違いない。

家康の正室、嫡男を殺したこと、
そして三方ヶ原の戦いを考えると、
(武田勢に対しての信長の援軍が少なく家康は見殺し状態だった?)
信長は家康を快く思ってなかった。

天下統一直前の信長、
家康が後に敵になると考え、
家康暗殺を命じても不思議ではない。
家康の暗殺が成功し、
もし信長が天下をとっていたら、
家康など後の権力者の都合で名を残すことがなかったかもです。

光秀、家康、信長。この御三方。
世間では知られてない伊賀の服部家繋がりです。
これは侮れないな。

その当時、服部家の女は何してたのでしょう?
まったく判りませんが、
じっと夫の帰りを待ち内助の功ではないですね!
[37]さちこさんからのコメント(2002年08月09日 00時32分05秒 ) パスワード
  

追伸

少し考えがぶっ飛びすぎですね(笑)
もう少しよく読んでみます。

川口さん

系図の件よろしくお願いします。
[38]川口 信さんからのコメント(2002年08月10日 07時45分59秒 ) パスワード
  

[31]の文は上総英郎著「細川ガラシャのすべて」・(細川ガラシャの出自と系譜)にも乗っております。

 お尋ねのトップページは「本能寺の変2」のなか「創られた光秀」というタイトルです。

 http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide01.htm

 なかなか読みでがありますね。服部家ホンヤさんもURLを作ってもっと世間にアピールすればと思います。ホンヤさんの邸宅の写真は良く見ますが、もっと隠された真実を世の中に。さちこさんがお勧めすれば。
 系図の件は承知しておりますが、貸出し期間が最高1ヶ月もありますので、気長に待ってて下さい。
[39]さちこさんからのコメント(2002年08月12日 00時10分08秒 ) パスワード
  


ありがとうございました。
こんな所に目次があったのですね、見落としました。
系図の件、催促したみたいで申し訳ありません。
急ぎませんのでよろしくお願いします。

ホンヤさん宅は今歴史の先生たちが、
つい最近まで門外不出だった服部家の古文書を研究中だそうです。
もしかしたら日本史が変わるかもしれない!
と、いうことらしいですが、ホンヤさんも詳しくはご存知ないそうです。

学者さんたちはこっそり調べて自分の功績にしようとするるからな(笑)

ホンヤさんのURLは明子さんが作ることになってます!(らしい?)
[40]笠之助さんからのコメント(2002年09月04日 22時30分25秒 ) パスワード
  

 別冊歴史読本『伊賀・甲賀忍び衆のすべて』(仮称、新人物往来社刊)という本が9月25日に発売される予定です。
 その中で、「服部半蔵父子の栄光と野望」と、「蓑笠之助」の項目について執筆を担当させて頂きました。
 「服部半蔵父子の栄光と野望」については、今までの忍者関連本では引用されていなかった史料を紹介し、服部半蔵の事績について新しい記事が多く含まれています。さちこさんから頂いた史料も、大変役立ちました。ありがとうございました。
 「蓑笠之助」については、明智系図の話しも載せております。「忍びの砦」の内容と比べ、取り立てて目新しいものではないですが、写真も満載ですので、ぜひご覧下さい。
[41]さんからのコメント(2002年09月05日 09時40分21秒 ) パスワード
  

笠之助さん

どうもご無沙汰しております。

本のご紹介、どうも有難うございました。
服部半蔵に関する原稿をまとめられていると伺って、楽しみにしていました。
是非とも読ませて頂きます。
[42]源三さんからのコメント(2002年10月26日 16時34分10秒 ) パスワード
  

隈さんこんにちは僕の住む近くの旧村の招提村なるところには明智姓が二十数件
あります。洞ヶ峠の近くですし、どうも近江の住人たちが戦国末期に移り住んできた村
だそうです。近江といえば明智光秀は近江坂本を領していましたし、そいいう
つながりがあるのでしょうかね。とにかくこの村は近江ゆかりの姓が多いし。山崎の合戦では
明智方についてあとで秀吉にえらいめにあったそうです。

あと隈さんの家のことを肥前隈氏と筑後隈氏し
分けて近々簡単な系図付きで書きこみますね。
けっこう長文になるとおもいます。
筑後の僕のすレッドはあまり参考にならなかった
みたいですいませんでした。僕のポリシーは歴史も
あらゆることも客観性知識(からが)大事と考えまして
どんなこともそんなふうに展開しております。本丸攻め
はそれからですし。本丸がなくてもその前の段階でだいだい
決着してしまいますしむしろそっちを大切にしております。

[43]柘植華絵さんからのコメント(2002年11月02日 23時39分30秒 ) パスワード
  

私の主人は代々徳川の家臣です。伊賀の柘植家が発祥なのですが、家康から柘植伝二朗と名を与えられ、頼宣が紀州に行く時、お供しました。それ以来、紀州徳川の家臣です。和歌山の感応寺が菩提寺ですが、初代の墓はどういう訳か、お万の方です。祖父は15代目でした。源家康と書いた書状もあるそうです。徳川実木記にも載ってます。一体・なんなのでしょう?
[44]服部 明子さんからのコメント(2002年11月03日 05時35分56秒 ) パスワード
  

柘植さん

初めまして。
家康から名を与えられたということは
1番簡単な理由は家康の伊賀越えで働きがあった?
2番目がお万の方の(複数いたっけ?この名前の側室)警備に付けられた?

頼宣の生母ってお万の方でしたか?
その関係じゃないでしょうか?


家康との関係はその前から伊賀は徳川家(松平家)に仕えてたので
何かの時に名を頂いたのでしょう。
もしかすると人質の家康に従って今川にもついて行ったかも知れませんし。


でもとにかく頼宣に従って行ったというのは信頼があったという事なので
名誉だと思います。


私は母方先祖に紀州平田家から嫁に来た人がいるそうです。
伊賀でも紀州でも私と華絵さんは繋がってるかも知れませんね。
[45]さちこさんからのコメント(2002年11月17日 17時29分19秒 ) パスワード
  

先日北陸の温泉に行きました。
泊まった旅館から見えるお蕎麦屋さんがありました。
次の日なんか気になったというかお蕎麦が食べたくなってその店に入ったのです。
そしたら何と、
「和泉流二十世宗家 和泉元彌」
とかかれたサイン色紙が飾ってありました。

何のために此処にいらしたのかは判りませんがきっとお母様も御一緒でしょうね。
大橋家とはやはり引き合うものがあるのねと思いながらお蕎麦をいただきました。
もしかしたら同じ旅館に泊まってて私と同じく前の日から目をつけてたりして(笑)

前和泉流宗家元秀氏と節子さんは、
昔大垣藩の家老を勤めていた家の紹介でお見合いしたそうです。
昭和43年に尾張徳川家の媒酌で結婚したそうですが、
大橋家の関係ではなく和泉流の関係だと思います。

この頃はまだ堀田家が徳川家を継いでなかったと思われますが、
でもご縁があるものですね。

スレッドに関係ないだろうって?
えっ?ここ和泉モトヤスレじゃなかった?(オオボケ)

能楽界も最近色々とありますね。(大橋家いじめるから後醍醐天皇のタタリ?)

さすがは大観世、和泉流とはスキャンダルのスケールも違う。
ということらしいですが。
北朝鮮の拉致問題があるせいかあまり話題にならないのが残念・・
いやいや幸いです。

長くなりますが能楽関係で気になることがでてきたので少し。
といっても世阿弥についてですが、
能楽を調べていくと本能寺の変に繋がるように思えるので。

世阿弥スパイ説これはよく聞く話です。
これも真相はわかりませんが。

観、世阿弥の系図をみると宗系の服部家と何らかの関りがあったと思いませんか?
宗のつく名が親戚にちらつくと言うか。
現在の宗家は観世清和氏ですが、
観世流のHPに平宗清の孫、保清が世阿弥の祖と書いてありました。
保清ってさ〜。
と言いたいところですが観世宗家のHPではないし向こうも判らないのでしょう。

能楽界も最近は観阿弥を伊賀の服部家の人と認めてるみたいなので少しは進展?

こちらの服部家の先祖は後醍醐天皇の宗良親王にお仕えしてたのですが、
宗良親王の母は藤原定家のひ孫にあたる二条為世。
二条家は冷泉家と同じ系統で和歌の家です。
宗良親王に和歌の才能があったというのはこの流れなのですね。

途中ですが今日はここで終わります。
いつもながらごめんなさい。



[46]服部 明子さんからのコメント(2002年11月17日 23時38分53秒 ) パスワード
  

和泉家は源氏だそうですね。
佐々木源氏。
[47]さちこさんからのコメント(2002年11月18日 21時29分18秒 ) パスワード
  

そういえば先日、
モトヤさんが和泉家にゆかりある滋賀県の佐々木家の神社で公演をして好評だった。
という記事が新聞に載ってました。
バサラ大名の佐々木家の関係なのでしょうか。
室町時代、能等の新しい芸術をバックアップしたとかでしたか?
服部家とは相性よくない?

モトヤさんの本名は山脇だそうですが。

世阿弥のことに戻ります。
観阿弥の子世阿弥が足利義満にみそめられ(?)
支援をうけて能を大成させたお話は有名ですね。

当時は能といわず猿楽。
猿楽師といえば川原乞食といわれた賤しい身分とされてました。
実際はどうだったのかは判りません。
結構今の俳優さんやアイドルみたいに庶民の憧れだったかもと思うのですが。
現在と同じくピンからキリまでというところでしょうか。

でも貴族にしてみれば賤しい身分に違いない。
そんな世阿弥を引き立てる義満に批判的な公家もいたそうですが、
世阿弥の芸はそんな貴族たちをも魅了したようです。

特に世阿弥にぞっこんだったのが、二条良基。

(1320〜1388)南北朝時代の公卿・歌人。▽北朝に仕えて,太政大臣・摂政・関白にまで進んだ。和歌を学んだが,特に連歌(何人もの人が短歌の上の句と下の句を交互によみつづけるもの)にすぐれ,最初の連歌集『菟玖波集*』をまとめた。また連歌の表現形式をうちたて,連歌を芸術的に高めることにつくした。

政治家であり当時一流の文化人だったそうです。

為世の二条家とは家図では別になってますが、
ほぼ同じ時代に出来た家のようなので全く別の系統ではないだろうと思います。

ちなみに良基の叔父は南朝方です。
良基が世阿弥について書いた手紙が残っているのでコピーします。

〈藤若暇候はば今一度同道せらるべく候。一日は美わしく心空なるようになりて候。わが芸能はなかなか申すに及ばず、鞠、連歌などさえ堪能には、只者にあらず候。なによりも又顔立ち、振舞い風情ほけほけとして、しかもけなわげに候。かかる名童候べしとも覚えず候。将軍様賞玩せられ候も理とこそ覚え候え。得難きは時なりとて、かようの物の上手も折を得候こと、難きことに候に、逢いに逢いて候こと不思議に覚え候。知る人なき時は正体なきことにて候。相構え相構えこの間に同道候べく候。埋もれ木に成り果てて身の何処に心の花も残りてんと我ながら覚え候。この状やがて火中に入れ候べく候〉

もしかして間者とバレバレで誉め殺しではないかと思うぐらい絶賛してます。
芸だけではなく、蹴鞠や連歌にもたけ教養もありただものではない。
顔立ちや仕草にも品があり、しかもけなげで可愛い。

明子さん、
私たちとても悲しい事だけど両親に似ずに世阿弥に似てしまったようですね。

つづく
[48]さちこさんからのコメント(2002年11月19日 12時51分25秒 ) パスワード
  

45に宗良親王の母が二条為世のように書いてしまいましたが、
正しくは為世の娘です。

後醍醐天皇には沢山子供がいたらしいが男にも子供を生ませてたんか!?
とびっくりする方がいらっしゃるといけないので訂正しておきます。

最近能楽に関する本を読んで気になった所を書いてますが、
何がいいたいのかよく判らないと思います。

結論から言うと結論はありません。

時間のあるときに少しづつ書きますね。
とにかく付け焼刃の能楽研究ですので誤りも多いと思いますが。

宗系の服部家と世阿弥の関係。
和歌関連の二条家繋がり。
気になるのですけど。
これといった決めてはないです。

参考になることがありましたら教えてくださいね。
[49]川口 信さんからのコメント(2002年11月20日 12時09分03秒 ) パスワード
  

ご無沙汰です。
 例の件、貸し出し中と思いきや、検索したら別の図書館のほうに所属してしまいました。そこは貸出がないので躊躇していたらこの時節に。ごめんなさい。

 「別冊歴史読本:伊賀・甲賀忍びのすべて」に蓑笠之助さんが『さちこさん』より頂いた「服部氏系図」を参考にして服部氏家系図・蓑氏家系図が記載されております。その文章の中から・・・。

 『柳営婦女伝系」という徳川将軍夫人の経歴を収めた書物の中に、二代将軍秀忠の生母宝台院(西郷局)の記述として、服部平大夫正尚という伊賀者の名前を見つけることができる。徳川家康の寵愛を一身に受けた西郷局こと於愛の方は、戸塚忠春の娘として誕生した。しかし、忠春が戦死したため、於愛の母(貞宗尼)は乳飲み子を連れ、伊賀者服部平蔵正信の長男平大夫と再婚したのである。平大夫はもと丹波の武士で、猿楽師(能役者)であったという。於愛の母と結婚した頃には、遠州掛川あたりに住んだようで、おそらくは母方の実家青山氏か、あるいは妻の実家西郷氏の縁により徳川家に仕えたものと推察できる。
 などとあります。

 世阿弥については、下記のURLがありました。参考になれば。

 http://www.geocities.jp/fwgd4538/kodai/zeami.htm
[50]さちこさんからのコメント(2002年11月20日 13時00分31秒 ) パスワード
  

川口さん

ありがとうございました。
「伊賀・甲賀忍びの全て」まだ読んでません。
探しても売ってなかったのです。
取り寄せてもらおうかとも考えたのですが。。

「伊賀甲賀忍びの全て取り寄せていただけますか?」

「はい。お名前は?」

「服部です」

・・恥ずかしくて。

なんとかして読みたいと思ってますが。

於愛の母(貞宗尼)というのが引っかかります。

服部友貞
 服部宗純

無関係でしょうか?

[51]takahiroさんからのコメント(2002年11月20日 14時19分11秒 ) パスワード
  

服部さちこ様 はじめまして。
川口信様   いつもお世話になります。

私も服部家とお能、服部家と観阿弥・世阿弥の関係に非常に興味があります。
未だ私のこの分野への知識では何も書き込む事はできないのですが、
服部さちこ様のこのスレッドでの展開、楽しみにしています。

初めてこのスレッドを読まれています方には、
http://hikoshima.com/bbs/heike/100213.html
(平宗清裔:観世・伊賀服部・本能寺真相)
も併読されることをお薦めします。
[52]服部 明子さんからのコメント(2002年11月20日 16時30分05秒 ) パスワード
  

>「伊賀・甲賀忍びの全て」

もし甲賀の藤田という家が出てましたらお知らせをお願い致します。
[53]川口 信さんからのコメント(2002年11月20日 18時58分18秒 ) パスワード
  

 >甲賀の藤田という家・・・・・・
 
 甲賀五十三家には藤田家はないので多分、甲賀流忍術屋敷の引用文の藤田西湖氏の事と思いますが、氏の事については残念ながら何も書かれておりません。甲賀流忍術屋敷については1ページにわたり紹介されています。甲南町竜法師の甲賀二十一家の望月出雲守の住居あとで元禄年間に建てられたとあります。

 服部家については全国に十万人いるといわれているがそのすべてが伊賀の服部氏というわけではないが、寛政重修諸家譜に三十家近くについて書かれております。
 まず伊賀の服部を称する武家は全て「源平盛衰記」に登場する服部平六(平内左衛門尉)家長を氏祖としている。家長の平内兵衛保清(家清)には三人の子があり、それぞれ上服部、中服部、下服部と称して分家し、徳川家の隠密頭となった服部半蔵は上服部を称した尹行(保内)の末裔とされている。

 寛政重修諸家譜の1168:保長系(家長の末裔・石見守)
    〃    1169:保長系の保郷の次男系
    〃    1170:家長の末裔・貞長系
    〃    1171:保長が男平内兵衛保清系
 平氏にして葛原親王の後胤伊賀平内左衛門保長が男、平内兵衛保清、伊賀国服部に住せしより家号とす。保清九代の孫を修理亮保宗とし、其子を伊賀守宗純とし、その子を左京亮宗家とし、其子を伊賀守宗信とし、その子を左京亮宗政とし、政家は宗政が男なりという。
その政家→政光(政秀)→政光(政季)→政信の四男信成の妻に川口久助宗次の娘が嫁いでいる。
 
 寛政重修諸家譜の1172:平氏高棟王流にして彌平兵衛宗清より出、頼朝将軍より伊賀国阿拜・山田二郡のうちにおいて三十二村の地をたまひ、服部村に住せしより、子孫服部を家号とす。保次は其後裔伊賀守宗純が末裔なりという。

 寛政重修諸家譜の1173:平氏なりという。(少壮のとき伊賀国において人を殺し、たち去りて駿河国にいたり、今川義元に仕える)
 
 などと色々と始祖の書き出しのところで違っておりますが、服部宗純は保長の末裔となり同じ系統になってしまいます。でも左京亮を使っているのはこの系統だけです。(ウグイ浦の服部系か)
 
 だが服部半蔵正成は保長が男とありますが、宗純は平内左衛門保長が男平内左兵衛保清が九代の孫を修理亮保宗とし、其子を伊賀守宗純としてあるので、保長違い(年代に隔たりがあり過ぎる:多分「保」が「家」の書き違い)であると思われます。

 こんなところで如何ですか。よく分からないと思いますが。書いていて混乱してしまいました。

 ちょうど和泉モトヤさんの映像がテレビで放映中です(外国人記者クラブでアピールしております。もちろんモトヤママも)。
[54]服部 明子さんからのコメント(2002年11月20日 23時33分37秒 ) パスワード
  

川口さま

ありがとうございます。
甲賀の藤田家は服部家と同じ「並び矢」を家紋としているので
元は同じなのかしら?と思った次第ですが
忍者について書いていらっしゃる方が存在するのでは
矢張り忍者関係のようでございますね。
[55]さちこさんからのコメント(2002年11月21日 13時50分21秒 ) パスワード
  

takahiro様

はじめまして。
能と服部家について関心をもっていただいて嬉しく思います。
でもあまり期待しないでさい。
調べても大したことは出てこないと思います。多分。
何かご意見等ありましたら是非おきかせください。

昨年伊賀の敢国神社に行ったのですが、
近所に瓦に並び矢紋のついた家が何軒かありました。
何という名字かは忘れましたが、
服部ではなく木村とか中村のような平凡なものだったと思います。

名古屋だけかもしれませんが、
アメリカへ留学していて射殺された服部よしひろ君。
あれから十年というニュースをしてました。
よしひろ君のお墓の映像が流れたのですが家紋は丸に違い矢でした。

ところで金日成の靴がテレビにうつってました。(すごい上げ底)
和泉モトヤンと御揃いだという噂です。

[56]服部 明子さんからのコメント(2002年11月21日 23時31分01秒 ) パスワード
  

違い矢だったら一族でしょうね。


[57]さちこさんからのコメント(2002年11月24日 17時24分09秒 ) パスワード
  

モトヤンと靴がお揃いなのは金正日でした。
判っていると思いますが訂正します。
モトヤン小室哲哉の結婚披露宴に出席したそうです。
とうとう吉本興行入り?

世阿弥の系図です。


                上島景盛
 _______________|____________
 | |   |    |     |          |
       恵仁   行心    元成        元盛
       |         服部次郎
       宗斎        妻は楠木正遠の娘
      播磨永富氏祖      |    
 _________________|__
 |      |    |     |
四郎大夫    元仲  李宗     清次
 |           |    (観阿弥)
 元重         宗滋     |
 (音阿弥)       |     |
世阿弥の養子 祐道 元清
 |                (世阿弥)
 正盛                |
       _________________________
       |  |    |      |   |     |
       李滋 之氏  元能     元雅   元次    女子
              越智観世の祖          (金春禅竹の妻)




なんか元やんがイッパイという感じですが。



         楠木正遠
           |
          _|________
          |   |     | 
          正成  正李   観阿弥の母
       ___|__
       |     |
       正行    正儀


[58]さちこさんからのコメント(2002年11月24日 17時33分50秒 ) パスワード
  

何故か肝心な所がずれました(泣)
すごく判りづらいですね。

元成_清次___元清__元雅
   (観阿弥)(世阿弥)

   


[59]川口 信さんからのコメント(2002年11月24日 18時38分05秒 ) パスワード
  

 系図掲載ご苦労さまです。だいぶご苦心なさったことでしょう。

 補足として下記URLをご覧になってみてはいかがでしょうか。さちこさんの掲載系図より詳しくないが、色々と興味あることが書かれております。

「上嶋本家文書」観世系図が載っている

 http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/dust/ninj/nin-1.htm

 蓑系図が載っている「笠之助随筆集」

 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/4898/zuihitsu.htm

 など参考になります。




[60]服部 明子さんからのコメント(2002年11月25日 01時24分25秒 ) パスワード
  

せっかくなので新しいスレッドでトライしてくださいよ>さちこさん
埋もれては惜しいので。
[61]さちこさんからのコメント(2002年11月25日 13時00分38秒 ) パスワード
  

明子さん、川口さん。

ありがとうございます。
系図投稿を書き込んでいたときは一応線がまっすぐだったのですが。
何故かずれてしまいました。
ホンヤさんにあった服部家一族の系図をもとにしてあります。

長くなりそうですし、
明子さんおっしゃるとおり後で別スレッド立てさせていただきます。
和泉元彌スレ。
えっ?違う?

上の系図には省略したのですが観阿弥の叔父にあたる人物に、
蓮池、伊賀に住す。
というのがあります。
あの蓮池さんとどう繋がるのでしょうか?
珍しい名字なので無関係ではないと思うのですが。
蓮池さんんの御先祖が観阿弥の叔父だとしたら、
蓮池さん忍者説なんてでたりして?
[64]相良四郎さんからのコメント(2022年10月15日 15時40分48秒 ) パスワード


貴重な意見を見させていただきました。
ありがとうございます。
参考にさせていただきます。
[65]相良四郎さんからのコメント(2022年10月15日 15時47分46秒 ) パスワード


敷地 式地姓が確認できます。
https://myoujijiten.web.fc2.com/todouhuken/kochi.htm
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