[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月16日 23時06分00秒 ) | パスワード |
[131]
さちこさんからのコメント(2002年07月16日 20時29分28秒 )
E-mail=sachiko-hattori@mpd.biglobe.ne.jp
大志万さん
はじめまして。
めずらしい名字ですね。
今別のスレッドで古事記に関った秦氏系の多氏についての話題があります。
オオシですが、大志万さん何かかかわりがあるのでは?
このスレッドは本当に千客万来ですね。そりちゃんさん。
今から出かけますのまた明日にでもコメント入れさせていただきますので
よろしくお願いします。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月16日 23時27分20秒 ) | パスワード |
大志万さん
初めまして。
ようこそ。
<私市>
有名なところでは武蔵7党の1つでしたから
東国が発祥の地ということで
そちらから福知山+綾部の方に移動したのじゃないか、と思いますが
足利尊氏で福知山というのも何かあったようにも記憶にあります。
大志万姓とは珍しいですね。
地名にあれば簡単ですが?
拝領でしたら
足利尊氏関係を読んでいれば何か書かれているかも知れませんね。
足利尊氏に従って東国から移住して来たのでしょうか?
揚羽蝶柄は奈良時代から盛んに使われて来た日本的な紋だそうで
平安時代には武士によって使用されたそうです。
一応平氏が揚羽蝶紋で有名ですが
源氏でも藤原氏でも三善氏でも大江氏でも高階氏でも菅原氏でも使用しています。
たぶん元々武士の家系なのでは?と思います。
[3] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年07月17日 02時25分23秒 ) | パスワード |
各方面からのご回答、誠に感謝であります。
皆様の深い見識に、大変、感動致します。
また、ご指導をよろしくお願い致します。
●さちこさん
どうも、はじめまして。多氏についてのご返答、ありがとうございました。
意外なアプローチに、大変、驚いております。
さちこさんのご指摘を基に、一度、小生の親戚をはじめ、
足元から調査を開始したいと思います。また、よろしくお願い致します。
●そりちゃんさん
どうも、はじめまして。ルーツへのアドバイス、ありがとうございました。
「何にも変えられない資産だと思います」の言葉には、目頭が熱くなりました。
拙族も、歴史観の世代交代が始まっており、身近な歴史は、
周囲の他界と共に、だんだんと消えていく今日この頃でもあります。
そりちゃんさんのスレッドに出会えたことを、大変感謝しております。
また、よろしくお願いします。
●服部 明子さん
はじめまして。色々とよろしくお願いします。
小生のために新たにスレッドを作成して頂き、大変恐縮であります。
(先ほど、気がつきました。すみません)
私市の件、これまた、意外な発見でした。
足利尊氏の件、福知山というのもあったのも意外でした。
大志万という姓は、そんなに古いものではなくて、
戦国時代に「大嶋(おおしま)」から「大志万(おおしまん)」に変わったと祖父から聞きました。
しかし、なぜ変わったかは、よくわからないということでした。
(現在の大志万家一同は、変わった姓で周囲から、まともに読まれないため、
4月などの人事異動や学校のクラス替え等の時期は、大変苦労しています)
揚羽蝶紋の由来、奈良時代から使用されていたとはびっくりしました。
しかも、源氏・藤原氏・三善氏・大江氏・高階氏・菅原氏でも使用されているとは、
ダブルにびっくりしました。
確か、前に叔父が「大志万家は、平氏でもあり、源氏でもある」ということを言っていたのを思い出しました。(でも、根拠が分かりませんが・・・)
武士の家系というのは、さかのぼれば、皇族や公家とは、一応、
血縁関係と捉えることができるのでしょうか?
例えば、明子さんのように「服部家」のようにです。
また、よろしくご指導のほど、お願いします。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月17日 05時46分47秒 ) | パスワード |
>前に叔父が「大志万家は、平氏でもあり、源氏でもある」ということを言っていた
そうなのですよ。
日本の家はいろいろな意味で平氏でもあり源氏でもあるという複雑な事情があったのです。
婚姻や婿入りで変わったり利害関係で変わったり
大志万さんのお宅もいろいろ事情があったのだと思います。
元々関東と言いますか坂東は「平氏+源氏+藤原氏+武蔵7党」のバッコする土地でした。
それこそ武士の世界でした。
坂東平氏でも源頼義や義家親子の時代に家来となって東北地方へ攻め入ったり
源頼朝の治承の挙兵の後、平家によって冷や飯を喰わされていた坂東平氏は
遅かれ早かれ頼朝に従いました。
その後の足利尊氏にも従ったでしょうから当然<源氏方>だったと思います。
お家に足利尊氏がらみの伝承があるのでしたら
やはり元々は関東のご出身だったのでは?
多分「坂東8平氏の1つ」が「源氏方」になったお家だと思います。
この<方>というのが取れて単純に<源氏>と言い伝えて混乱したのでは?と思います。
大島姓は源氏がらみで確かにいろいろあるようですよ。
源義家の子孫義国の流れ
源義光の末
経基の6男の満快の末
その他
信濃国諏訪神社の1派の神家(みわけ)からも大島姓が出てるそうです。
中国は姓もそのまま守りますし紋も1つだけを守りますけど
日本は姓が簡単に変わりますし紋も替えます。
何かの事情で「大島」姓が「おおしまん」になったのでしょうけど
足利尊氏公が「大きな志が万もある武士だな」と武勇を誉めたのかも知れません。
姓って勝手に名乗りたくても周りが認めなくては意味が無いので
これまで伝わって来たという事はそれなりに周りの人も認めて来たという事ですから
誇りになさったら良いのですよ。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月17日 12時48分54秒 ) | パスワード |
なぁ〜んか気になるので足利尊氏と福知山の関係を調べて来ました:
尊氏は後醍醐天皇の呼び掛けで丹波で突如反幕の挙兵を興し六波羅探題を襲ったのです。
それで尊氏と福知山の関係を調べました。
つまり尊氏のママ・上杉清子の実家の「上杉家」の本貫地が丹波国上杉荘だったのです。
上杉さんは観修寺系藤原氏で庶流だった。
そして福知山というよりは現在の綾部市がポイントのようですね。
ここに安国寺があります。
歴史上の人物「足利尊氏」が生まれたお寺。
現在も尊氏が生まれた時に使われたとされる「産湯の井戸」が残っており
尊氏・尊氏の妻「登子」・尊氏の母「清子」三人の墓「宝篋印塔」もあります。
これでなんとなく浮かんで来ませんか?
私市という地名がどうして丹波にあるのか?
私市は普通名詞なのか固有名詞なのか?固有名詞なら坂東からでしょう。
普通名詞なら、どこにでも「私市」は存在した。大志万氏は元々丹波の一族?
大志万さんのご先祖さまと足利尊氏の関係は私が思ってたよりもうちょっと古いのかも
そして絆はもっと深いのかも
ですね。
尊氏のママの方で繋がってたのかも、ですね。
もう少しで全容が出て来そうな感じ。
大志万家のホンヤさんに問い合わせては?
これだけ基礎知識があれば教えてくださいますよ。
全く知らないで出掛けてはホンヤさんも引くでしょうけど。
勇気を出して問い合わせてみてはいかがでしょう?
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月17日 12時50分19秒 ) | パスワード |
世の中、服部家本家のホンヤさんみたいには寛大じゃないかも、ですね>さちこさん
[7] | さちこさんからのコメント(2002年07月17日 22時54分29秒 ) | パスワード |
う〜ん。私は服部家のホンヤさんしか知らないのでなんとも言えませんが。
寛大なのは確かです。
元は同じ服部同士、わしの嫁さんも同然だがね。
いつでも遊びにきてちょ〜。
とおっしゃてます。どういう発想?
大志万さんを検索していたら、
大志万明子の発声講座。なんてでてきて大笑い。
大志万さん
綾部、福知山近辺は秦氏フェロモンがプンプンしてます。
綾部駅の由来にアヤハトリのことが書いてあるぐらいですから。
近辺の地名も秦氏伊賀と関連ありそうです。
福知山、大江。福地氏、大江氏は伊賀の一族です。
鍛冶氏、物部、烏岳・・・。秦氏ぽい。
ご親戚が元伊勢の宮司さんをなさってるのですか?
秦さんこれはすごいですよね!
元伊勢には色々怪しい話が・・・?
曹洞宗ですか。うちと同じです。
長禅寺といいます。似てますね。
[8] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年07月18日 02時02分31秒 ) | パスワード |
●服部 明子さん
博識なるご教示、誠にありがとうございました。
小生の家族一同、明子さんのご見解に仰天いたしました。
祖父母は、あまり歴史に関心がなかったそうで、小生の質問に窮しておりました。
そもそも、お恥ずかしい限りで、拙家の名前の由来ひとつみても、
足利尊氏公の時代と戦国時代のずれがあるほど、いい加減な把握の仕方でした。
とりあえず、「一度、大志万本家より、話を聞いておく必要がある」という見解で一致しました。
今夏、小生が中心となって「いとこ会議」を開催します。そこで、ご指導して頂いた内容を親族に話し合いたいと思います。
そして、明子さんの御資料を基に、一度本家に行って聞いてみたいと思います。
幸い、本家と祖父母と仲が良くて、私も個人的に本家の当代と年賀状をやり取りする間柄であります。
よく知る間柄ですが、お会いすると、いつも、近況ばかりの身の上話で終始しておりました。
そして、今まで、先祖の話をしたことはありませんでした。
さて、祖父から、また別の話を聞きました。
大志万家が私市に住み着く前、福知山の隣にある氷上(現・兵庫県氷上郡)にいたらしいです。
そこで、私市いたある豪族を滅ぼして、そして私市に住みついたらしいです。(いつの話か知りませんが…)
ところが、別の豪族・赤井悪右衛門(兵庫県の豪族)に戦で敗れて、領地を取られて、家来に従属(帰農)させられたと聞きました。
信憑性はわかりませんが、このように聞きました。
本日、偶然にも、福知山市史のHPで、以下のものを発見しました。
大変、驚きであります(親族も、知りませんでした)。
かなりマイナーな文献ですが、一度、原物を確認してみたいと思います。
あまり確定したことが述べられていないかと思いますが…。
http://www2.ocn.ne.jp/~fukuchi/sidannkai/kaihou/kaihou.htm
会報「ふくち山」63号(昭和32年 9月)
『赤井悪右衛門の伝記巻物』芦田 完
会報「ふくち山」124号(昭和37年 7月)
『私市の大志万氏由来書』芦田 完
会報「ふくち山」128号(昭和37年11月)
『大志万家文書拾遺』芦田 完
この論稿と明子さんの話が、一致してくる可能性が大きいことかと思います。
また、よろしくご指導のほどお願い致します。
追記:よく分かりませんが、ここのHPに出会ってから、小生の内なる部分、
つまり、今まで小生の中に眠っていた何かが騒ぎ出すのを感じます。
昨日も、偶然に位牌の写しを見ていたら、大志万本家より隠居した「一閑宗牧」
(大志万治左衛門<享保3年7月16日>・現在の小生家の分家先祖)の命日(285周忌?!)でした。
この事実も、偶然発見したものであり、親族誰一人知りませんでした。
気のせいかもしれませんが、とにかく、ここ2〜3日、色々と不思議なことが続いています。
●さちこさん
秦氏との関係、ありがとうございました。
またまた、びっくりしました。
小生の母の実家が綾部市であり、綾部駅にはよく行きます。
アヤハトリのことも、全く知りませんでした。
伊賀一族や秦氏など、色々と繋がっているのですね。
小生は、行ったことありませんが、確かに、本家の伯父様が、
元伊勢(もといせ)の宮司をしていると言っておりました。
まあ、ビジネスだと思います(笑)。
神主の免許を所持しているので、今も、多分勤めているかと思います。
もし来られる際には、小生に言って頂ければと思います。
伯父様にお伝えしておきます。
しかしながら、サービスできるかどうかわかりませんが(笑)。
ところで、検索で拙宅の苗字をしてくださり、ありがとうございます。
大変、恐縮です。引っかかってくる名前の大半の者は、小生の親戚の者です。
某大学地震研究科にいる叔父様や甲子園に出た者など、身近な繋がりです。
大志万明子様も有名ですが、どこの分家か小生はわかりかねます。
しかし最低なのは、たまに事件で検挙されている者がいるので、この場合、一族はかなり迷惑をしております。
当人とは、ぜんぜんお会いしたことがなく、小生の家との繋がりもわからないのですが、姓が同じのため、
周囲からは同一に考えられます。そういう場合は、いつもなぜか謝罪しています。
「うちの遠い親戚が、ご迷惑をおかけしました」と。
こういう場合、本当に全く関係ないけれども、周囲には恥ずかしいですし、迷惑千万であります。
さて、さちこさんとは、曹洞宗の繋がりですね(笑)。
うちの菩提寺の長圓寺は、昔は、違う宗派であったと親戚の叔父より聞きました。
それが、いつの間にか、曹洞宗になったそうです。
福井の永平寺にも近いからでしょうか?
また、現在、小生の家は、複数の宗教があって困っています。
お祈りの間には、曹洞宗や神道など色々あります。
ある宗教の行事のたびに、よくわからないまま、お金を払っております。
檀家でもあり、氏子でもある当家の宗教観に、改めて奇怪さを感じます。
(親族も、神仏習合という感じです。)
また、よろしくご指導のほどお願い致します。
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月18日 02時37分53秒 ) | パスワード |
大志万さん
上記
見に行きましたが目次を読むだけでも凄い量ですね。
赤井氏についてですが
丹波氷上郡赤井村発祥の赤井氏は清和源氏頼季流。
丹後の赤井氏はこの末。
その他にも数流れ、
とあります。
福知山市教育委員会または図書館でこの資料を読ませていただいてはいかがでしょう。
コピーをお願いすればしてくれると思いますよ。
大志万家ホンヤさんに是非お話をお聞きになって下さい。
かなりのお家だと思いますよ。
宗教にしてもご先祖を大切になさった結果がいろいろなお祭りを今でも継承なさった
という事です。
ね、ここのサイトってホントにオカルトかかってるでしょ?!
もっと詳しく調べて行きますと向こうから情報がドンドンやって来ますよ。
テレビや新聞でも大志万家に関する情報が出ますし。
珍しい名字ですと新聞に名前が出ますと同じ名字ですから恥ずかしいですけど
そういう人は昔の武士の時代の性格がモロに出たのだと思って下さい。
なにせ武士というのは人を殺してナンボの世界の人間です。
私の先祖でも親を亡くした身内の平将門の土地を一族で寄ってたかって奪ったそうなので
最近の遺産相続問題や保険金殺人などを見ますと50歩100歩あんまり変わらない
と思ってます。
氷上という名前は日本の古代史に出て来ますから
もともと福知山のあたりに大昔から土着してた豪族だったかも
ですね。
力関係であっちに行ったりこっちに押されたりはたまた追い出したり。
ホントだんだん大志万家の過去が見えて来ましたね。
[10] | さちこさんからのコメント(2002年07月19日 00時29分04秒 ) | パスワード |
秦氏がらみでごめんなさい。
元伊勢と、元伊勢神宮は違うのですね。
丹後なので同じだと思ってました。
元伊勢はなにかと取り上げられます。
マナイ神社がともにあって六ボウ星が刻まれているらしいですね。
篭神社でしたっけ?篭目=ダビデの星なのでしょうか?
とんでも説はとりあえずぬきにして、
この地は秦氏にゆかりがあるのは間違いないと思います。
烏ヶ岳でしたね、
この山を中心として何らかの信仰が行われていたのは地名からして間違いないです。
丹後は聖徳太子の母、穴穂部間人ともゆかりが深いそうです。
秦さんの説の、
秦氏渡来日本海ルート、瀬戸内ルート。
地図を見ると京都太秦でつながります。
なるほどと思いました。(このへんはまた詳しく)
新羅の王子天日矛とアルカヒメ
こういうロマンがあったのか?
簡単に言えば瀬戸内ルートで来た秦氏と、
日本海ルートで来た秦氏の伝承では?
つまり別々に渡来したものの元は同じ一族でこの地でめぐり合えた。
*新羅の王子天日矛。
日本に行ったアルカヒメを探し日本に行ったがめぐり合えなっかた。
確かにこの地は不思議です。
大志万様御協力お願いします。
[11] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年07月19日 10時12分34秒 ) | パスワード |
●服部 明子さん
色々とありがとうございます。
赤井氏の清和源氏頼季流について、大変びっくりしました。
ただの悪右衛門では、なかったのですね。
また、本日も祖父と話をしておりました。
教えて頂いたご見解を話したところ、祖父もびっくり仰天でした!
祖父と孫(小生)の会話が弾んだのも、久しぶりのことです。
資料についても、どこで入手したら良いかわからなかったので、
大変、助かりました。一度、トライしてみます。
宗教においても、拙宅には複数あって、その芯のない祭り方に疑問と憤りを感じておりました。
しかし、今回の明子さんのご指摘に、はっとしました。
自分の考えが、恥ずかしく思えてきました。
ここのサイトは、確かにオカルトです(笑)。
小生は、いつも科学的な観点からしか信じない人間でした。
まあ、今でもそうですが、とにかく、このHP(具体的には、明子さんやさちこさんの皆様)
に出会ってから不思議な御縁と力を感じます。
ご指導に、いつも感謝しております。
また、よろしくお願い致します。
●さちこさん
色々とありがとうございます。
毎日、毎日が勉強であります。
>元伊勢と、元伊勢神宮は違うのですね。
>丹後なので同じだと思ってました。
すみません。小生の勉強不足で、2つの違いを知りません。
でも、親族が勤めている方は、多分、大江町にある元伊勢神宮の方だと思います。
その他、詳しい由来など、本当に知りませんでした。
秦氏とは、本当にゆかりの深い地域なのですね。
聖徳太子の母(穴穂部間人)も驚きです。
>瀬戸内ルートで来た秦氏と、日本海ルートで来た秦氏の伝承として、
>別々に渡来したものの元は同じ一族でこの地でめぐり合えたということ。
不思議な繋がりですね。ロマンを感じます。
はっきり言って、京都府北部は、ずばり「何もない田舎」という
イメージでしかなかったですが、お話を聞いて見方が変わりました。
(「大江山、鬼も逃げる田舎町(いなかまち)!」と馬鹿にしておりましたが反省しております。
しかし、このあたりの人柄は、みんな親切で、確かに良い人たちです。)
>大志万様御協力お願いします。
とんでもないです。こちらこそ、よろしくお願い致します。
[12] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月19日 12時02分02秒 ) | パスワード |
私は土地鑑が無いのでよく分かりませんが
そもそも福知山とか綾部という土地近辺は日本史の古くからの重要な場所だったのです。
私市とか氷上とか土地の名前から古さを感じます。天平時代とか奈良時代です。
土地の名前の由来が分からないのでなんともハッキリしませんが
<兵庫県氷上・氷上姓>
氷上というのも土地名が先にあったのか良く分かりませんが
姓の氷上というのは天武天皇の孫の塩焼王が758年に賜わった姓です。
塩焼王とその子孫達といいますか
氷上一族の不幸は
塩焼王の妻が聖武天皇の娘であった為
つまり彼女は天武天皇から聖武天皇への正統な流れですから
そうではない桓武天皇が平安京を建てる前の、日本史が平安時代を迎える前の、
産みの苦しみの犠牲者だったと思います。
うまく表現出来ません。
日本史の暗黒部分なのですから。
歴史は勝者の記録しか残りませんから
冤罪だったのかどうか
そこに丹波であちこちしてた大志万家が関わってるのかもです。
もしかすると元々おおしま姓を万葉仮名で「大志万」と書いてたのかもですよ。
それから普通の漢字表記の「大島」に変え
再び「大志万」に戻したのかも。
平安京遷都のいろいろな闇の部分は
天武天皇や聖武天皇の系統ではない桓武天皇のサイギ心から起きています。
この桓武天皇を経済的に支えたのが秦氏になります。
ですからさちこさん達がオカルトかかって当然なのです。
何か感じてる筈です。
大志万家は元々丹波の豪族だったのか?
東国から移って来たのか?
ここが分かると面白いです。
大志万家が日本史に深く関わってたというのはかなり古くからだったと思う私の勘は
どうでしょうねぇ?
[13] | そりちゃんさんからのコメント(2002年07月19日 16時56分35秒 ) | パスワード |
大志万さん、HPにカキコミありがとうございました〜!
第一号ですよ、本当に嬉しい!
日本家系図学会会長の丹羽基二さんによると、
姓の漢字を縁起を担いで佳字に変えることはよくあったそうです。
<大志万家は元々丹波の豪族だったのか?
<東国から移って来たのか?
<ここが分かると面白いです。
本当にわかるといいですね。
でも、絶対大志万さんの家にはなにかありますよ!
だって、ずっと語り継いできているし、「何か」が
あったから子孫にご先祖は伝えたかったのかも。
表舞台から消されてしまったとか、ね。
[14] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月20日 00時59分04秒 ) | パスワード |
ちなみに
桓武天皇は天智天皇の子孫です。
桓武天皇の母は高野新笠という半島のご出身です。
塩焼王も彼の妻である井上内親王も共に天武天皇の子孫です。
天智天皇と天武天皇は兄弟で
天智天皇の没後
天武天皇は奥さんと共謀して天智天皇の後継者である弘文天皇を殺しました。
弘文天皇の妻の1人は確か伊賀の女性でした。
兄弟は他人の始まりと言いますが
皇位継承権とか遺産相続の争いというのは昔も今もスサマジイですね。
桓武天皇の即位にはおどろおどろしい内部抗争がありました。
[15] | さちこさんからのコメント(2002年07月20日 02時08分34秒 ) | パスワード |
天智天皇の后も伊賀です。
伊賀の釆女宅子(?)名張の人で大友皇子=弘文天皇を産んだ人です。
大友皇子は伊賀皇子ともいわれます。
壬申の乱、伊賀の阿拝国は天武天皇側だったそうですが、
伊賀も色々あったのでしょう。
大志万さん。
私が以前買ったとんでも本に面白いことが書いてありましたので、
日曜日にでもまとめてみますね。
[16] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年07月20日 12時45分59秒 ) | パスワード |
●服部 明子さん
いつもご指導ありがとうございます。
土地の名前からのご指摘で、天平時代や奈良時代にまで
遡るってことは、気の遠くなるような感じが致しました。
氷上姓や塩焼王の悲劇の日本史の暗黒部分など教えて頂き、大変、びっくりしました。
確かに、歴史は勝者の記録しか残りませんからなんと言えませんが、
これが事実だと、本当に悲しい歴史ですね。
また、皇位継承権とか遺産相続の争いというの凄いですね。
明子さんのおっしゃるように、今も変わらないのですね…人間というのは。
このような現実のもとで、当時、丹波で細々と生活していた小生の先祖が関わっていたかと思うと、
難しい政治の前に、大志万家一族は、さぞかしオロオロしていた事だろう、と考えています。
名前の漢字表記の件も、大変、納得致しました。
桓武天皇を経済的に支えておられたのが、秦氏の方々ということは、
確かに、神秘的になりますね。世紀を越えて…。
もともと丹波の豪族なのか、東国から来たのかに焦点を当てて、
この夏、調査してみたいと思います。
>大志万家が日本史に深く関わってたというのはかなり古くからだったと
>思う私の勘はどうでしょうねぇ?
恐れ多い話です。まあ言えることは、昔も今も、国からの租税を搾取される
対象であったことは間違いなさそうです(苦笑)。
また、よろしくお願いします。
●そりちゃんさん
はじめて拝見いたしましたが、本当に素晴らしいHPで感動いたしました。
小生の父母も
「このご時世において、このような形で先祖を大切にされている方もおられるのだな」
と感心しておりました。
>姓の漢字を縁起を担いで佳字に変えることはよくあったそうです。
そうだったのですか。知りませんでした。
もし、それが可能であれば、小生であれば易きに流れ、
人生の中で4回も5回も姓を変えていただろうな、と思いました(笑)。
>「何か」があったから子孫にご先祖は伝えたかったのかも。
>表舞台から消されてしまったとか、ね。
恐れ多い話です。伝言があるとすれば「盆・正月には、きちっとお墓にお参りに来なさい」
ということでしょうか(笑)。また、掃除もしなさいとか(笑)。
最近、ふっと思うのですが、どうして私達の世代で、このような先祖の回帰現象に駆られるのでしょうかね。
小生の父や祖父以上の代で、そのようなことは思わなかったのでしょうかね。
そう考えると、拙宅の怠惰な家系図が見え隠れし、少し呆れ気分になります(苦笑)。
また、書き込みに行きますので、よろしくお願いします。
●さちこさん
伊賀も本当に、色々あったのですね。
かなり、昔への想いに、本当に気が遠くなりそうです。
小生は、この一週間前には、歴史に対して、何も知りませんでした。
改めて、今、小生が元気に生かして頂いている有難さをかみしめております。
さちこさんが、以前に購入された本を勉強された後、またご教示して頂けると幸いです。
また、よろしくお願いします。
[17] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月20日 14時06分10秒 ) | パスワード |
大志万さん
我が家も歴史や先祖に興味があるのは母と私だけです。
母が自分の実家は源氏方で83代目と誇りにしていたからで
それを聞かされて育ったので私も母方先祖が誇りでした。
でも母は姉や弟には言って無いのですよ。
これも不思議でしょ?
父は伊賀まで何度も足を運んだのですけど
何も感じなくて
昔の事なんか分かるものか
と諦めています。
私の場合
凄く寒い日に1人で名古屋方面から伊賀に行った時
途中で顔のあたりだけが空気が変わって不思議な感じがしました。
数人の人が私の周りに来た体温の感じ?
その場所が佐那具という場所だと知ってビックリしました。
私を迎えに来た
そう思いました。
その日はいろいろ不思議な体験をしましたよ。
いつか機会がありましたら先祖がいたかも知れないような場所を訪ねてみて下さい。
初めての場所の筈なのに懐かしく思ったりするかも、です。
私には私市という地名が丹波国にあるというのが実に不思議です。
勿論三重県には四日市という地名が残ってますし
他にも八日市とか廿日市とか残ってますから
丹波国の私市が今に地名として残っていても不思議ではないのですが
東国の私市党と関係があるのかないのか
とても気になります。
さちこさん
桓武天皇の塩焼王一族に対する弾圧は
桓武天皇の先祖・天智天皇の子孫に対する天武天皇方よりの冷遇への意趣返しだったので
しょうかねぇ。
そうすると伊賀の人間や秦氏が塩焼王一族の弾圧に大きく関わってた?
織田信長の暗殺事件の真相みたいに面白くなりますね。
歴史が大きく動く時は闇で「あの一族」が暗躍してた?
[18] | 川口 信さんからのコメント(2002年07月21日 09時27分17秒 ) | パスワード |
服部明子さんのおっしゃるとおり武蔵七党の私市党に関係は繋がっておりました。
【私市氏】
開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、日下部氏より別れる。
河内国交野郡私市村から地名を負つて、武蔵国埼玉郡私市村に移住したものと思われる。私市氏一族は武蔵七党の私市党とも呼ばれ、埼玉郡北部を中心に大里郡に分布する。
また「交野市のいわれ」には次のように書かれおります。
[6世紀の終わりごろ、敏達天皇は、皇后豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)のために皇后領として、全国各地に稲の実りの良い田を求められたが、その中に河内交野の「あま田」があった。以来この田を守る民部(かきベ=私有民)は、皇后のために労投するものとし「きさいべ」(私部)と総称する5〜6カ所の農村落が「あま田」の周辺に制定されるようになった。
「私」は、中国の前漢時代から「后」と同じ意味に使われ、我が国ではこれを「きさき」と読み、「きさい」は音便である。「部」は、朝廷に属する各種職業人の集団であり、「私部」は、皇后のために稲作をする人々の集団である。
この「私部」の範囲は、天野川流域を含め私部、寺、森、私市、星田、茄子作(枚方)、郡津を合わせた地域の総称と恩われる。
そして現在の「私部」「私市」は、皇后領の中でも主要集落であったため、皇后領廃止後もその名称は残ったと思われる。
なお、私市は一方に山はあるが、その周りを「きさいべ」の村々に囲まれた中心集落で、ここに「あま田の宮」を祭ったから、「きさいべの内」すなわち略して「きさいうち」と称し、後に「きさいち」と変化したものと思われる。]
大志万姓についてはあちこちリサーチしているのですがなかなか遭遇しないのですが続けて探して見ます。あせらずドッシリ構えてください。幸いに本家があるそうなのでこんなに良い条件があるのはラッキーですね。
[19] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月21日 10時42分31秒 ) | パスワード |
川口さま
ありがとうございます。
「きさいち」の「きさい」とは「后」から出ているのでございますか。
知りませんでした。
また河内国から武蔵国に渡って有名な私市党が武士として発展して行ったのですか。
場所的に当然でしたでしょうが
丹波国とは都にとっては重要な場所だったという確信が持てました。
漢字の本来の意味が現代とはかけ離れていますから
こうして昔々の語源まで辿りますと
見えなかった歴史が浮かんで来ますね。
ありがとうございました。
[20] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年07月21日 13時37分55秒 ) | パスワード |
●服部 明子さん
お母様の実家が83代目とは、びっくりしました。
凄いですね!!明子さんで、84代目ですね。
本当に、代々大切に守られた歴史を感じますね。
また、明子さんのオカルト体験も、納得がいく感じでした。
今、上記で川口さんがご指摘された「交野市私市」ですが、実は、
現在の小生の通勤途中地です。
ここを通るたびに、前から、「福知山・綾部の私市一緒の名前だな」
と思っていました。しかし、今回のご指摘でびっくりしました。
もし、何がしらの由来が「私市」で繋がっていると考えると、
夏の暑さも、一気に冷えた気分でした。
明日からの通勤が、怖いです…。
>丹波国とは都にとっては重要な場所だったという確信が持てました。
小生も、本当に知りませんでした。
また、よろしくお願い致します。
●川口 信さん
はじめまして。一緒のご協力、並びに、ご指導ありがとうございました。
武蔵七党の私市党に関する情報、大変驚きました。
また、交野市私市についてのご教示、大変、感謝でした。
まさか、そのような由来があるとは、知りませんでした。
明子さんもおっしゃたように、漢字の本来の意味が、現代とはかけ離れているのですね。
川口さんのご指摘通りに、昔々の語源まで辿りますと、そこの地には、
必ず深い歴史があり、何かの変化で現在の名に繋がっているのですね。
とても、身近に考える事ができて、大変、勉強になりました。
本当に、見えなかった歴史が浮かんで来ますね。
>大志万姓についてはあちこちリサーチしているのですがなかなか遭遇しないのですが
>続けて探して見ます。あせらずドッシリ構えてください。
>幸いに本家があるそうなのでこんなに良い条件があるのはラッキーですね。
リサーチ、どうもありがとうございます。本当にお手数をおかけしています。
川口さんや明子さん、さちこさん、そりちゃんさんのご指導により、
ここ1週間で拙宅の知らなかった歴史が、一気に急展開する事態に家族共々、
正直、動揺が隠せません。でも、ご指導どおり、どっしりと構えたいと思います(笑)。
本家の件も、親戚がどこまで歴史を知っているかわかりませんが、
また、直接インタビューにトライしてみたいと思います。
今後も、ご教示のほど、よろしくお願い致します。
[21] | 川口 信さんからのコメント(2002年07月21日 14時51分03秒 ) | パスワード |
大志万さん 初めまして。
大志万姓について。発想を変えて「大島家」で検索したところ豊臣秀吉公に仕えた大島光義にたどり着きました。
旗本大島家の項目です。
家紋:揚げ羽蝶/梅
清和源氏新田氏流。美濃の大島に住んで大島を名字とした。大島光成は信長、秀吉に仕えて一万五千石を領したという。関ヶ原の役を機会に家康に従った。その跡は三人の弟に分知して、されぞれ庶流家を出している。同じ揚げ羽蝶紋を使用しており、この関係を調査するのも良いかも知れません。だけど源氏とありますが。
あくまでも推論ですが貴「大志万家」がこの大島家関係だとしたら、もしかして足利尊氏でなく足利義昭から大志万姓を拝領したかも知れませんね。
岐阜には足利義昭に滞在し、織田信長は義昭を奉じて上洛したことは有名で、その近辺には明智光秀などおり、これで美濃から福知山にも関係してきますが。この岐阜大島家で桔梗紋を使用した家もあります。
[22] | さちこさんからのコメント(2002年07月21日 23時16分29秒 ) | パスワード |
大志万さん
以前読んだ秦氏ユダヤ人説の本を今日まとめる予定でしたが、
梅雨も開けて天気もいいし暑くなりそう、山へでもいかない?
伊吹山は花がいっぱいで涼しいなどと友人に騙されて行ってしまいました。
実は山頂も下界に比べれば涼しいといえ、
約一時間の山頂への道のりは暑いわ、日焼けするわで大変でした。
伊吹山〜? どこなんだあ〜?
と思われることと思います。
天下分け目の関ヶ原のすぐ近くです。
明子さんは当然ご存知ですよね。
思わぬ所で不思議な旅でした。
明子さんが伊賀の地で不思議な体験をされたのはよく判ります。
私もそうです。
母の実家細川家(大阪)へ行く途中いつも名阪国道を通りました。
伊賀のあたりを車で通ると行ったはずがないのに、
私はここは知ってるとか、
ここで降りたことがあるとか変なことを言ってたらしいです。
まあ、うちの両親は仕事で忙しかったし、
伊賀へは遠足、町内の旅行で行っていたのでこのへんの記憶はあいまいですが。
でもここにお城があって、
大きな蛙がいて?私が紅い小物(何か判りません)を持っていた。
そんな記憶があって。不思議だったのです。
今日三重県の北勢地方、藤原町を越えて岐阜、滋賀へと抜けたのですが、
不思議な所でした。
薬子の変で敗れた秦氏系藤原氏(式家)がこの地へ落延びたことは、
他のスレッドでお話しましたが。
伊勢長島一向一揆の服部友貞が(明子さんや私の先祖)
織田信長に追われ自害したところです。
その後、この地の畑中家が、(秦氏です)
友貞を守護神として現在まで供養をしてをしてくださってるしいです。
で、不思議だったのは丹後の真奈井神社(元伊勢にある六ボウ星の神社)
と同じ、真奈川、そして多志田川が藤原近辺にあったのです。
びっくりしました。
私の言ってる多氏(オオシ)は、
古事記の太安万呂が多氏とされるように、
多=太=大は同じと考えられてます。
古代のことなのではっきりしたことは言えませんが、
万多親王が多氏と親密で、多氏がマン田氏を(字が出ない)
けなしていることからも逆に親密だったと考えるのですが。
だから大志万さんのマンの字は特別な意味があるのではと。
聖徳太子のママ、穴穂部間人。
間というのは神と人とをむすぶ人、
穴は山に住む人=鬼という意味。
曽我氏でありながら丹後へ逃げてきたという言い伝えがあるらしいです。
だから実は聖徳太子のママは秦氏なのではということです。
間は間者、忍者でもあるそうな。
太子のママ、うちとご同業なの?
話は支離滅裂ですが、
藤原の山奥に明智工業というお店がありました。
ただの屋号か明智氏がこの地に来たの?
本当に不思議な藤原越えでした。
[23] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月21日 23時55分21秒 ) | パスワード |
だって上記「藤原」は
私やさちこさんのご先祖の平貞盛と盟友だった藤原秀郷公のご子孫が移り住んだ所で
共に平家一門として、途中南朝方としても、我が服部家とは伊勢長島一揆まで
長い長い日本の歴史を一緒に生きて来た人達の住んできた土地ですもの。
私も行きたいと思ってるのですけどね。行かない方が良いのかも、とも思ってます。
あの米野の相場の伊藤家ホンヤさんは蔵の資料を絶対公開したくないそうな。
服部家ホンヤさんとはエライ違いですが
江戸時代へのいきさつを考えれば伊藤家ホンヤさんがいじけるのも仕方無いとも思います。
我が家は江戸時代うまくやったと向こうは思ってるのかな?と。
江戸時代での境遇の差。
これが資料公開をするかしないかの差になってるのじゃないかな?と。
公開して下さったら平家の藤原(伊藤)忠清一族の凄い記録があるのかも。
関ヶ原前夜大垣城を石田三成に明け渡した時の伊藤盛正?の意外な情報が
埋もれているのかも。
あそこって伊藤家のそういう思いが沈んでいるのですから
服部家の人間が通過すればビシビシ感じるのは当然だと思います。
[24] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月22日 00時01分06秒 ) | パスワード |
今朝頂きました平家の血を受け継ぐ方よりのメールを「平家オタク度」の方に
書き込ませて頂きますね。
こちらにも重複して掲載しましょうか?
明子様
私市・私部は私の生まれ故郷ですよ。交野は枚方の外れで
私の通学路でした。その昔、交野が原の桜狩り、と詠われ有名
なところでここの春霞が好きでした。
高校は四条畷で、楠一族の戦死した所でした。
なんとも不思議な書きこみに出会って、ゾーッとしています。
私市は、きさいち、といってましたが、私部は、きさべ、といいま
した。この辺りの田圃で蛙をとったり、イチゴ畑で美味しいイチゴ
を盗み食いしたものです。
このスレッドも目を離せません。いつか私も書きこみをと思って
いますが、皆さんの博識に圧倒されています。
[25] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月22日 00時32分43秒 ) | パスワード |
お旗本・大島家=揚げ羽蝶紋?
かなり背筋が・・・
明智光秀も福知山に関係しますから
凄いお話が出て来ましたね。
旗本・大島家が源氏の新田を称しているのは
やはり南朝方だったからでしょうね。
私の母の家の言い伝えでは南朝方で戦っていた時は
菊水紋を使用した
と聞いています。
そういう時もあったのでしょうね。
我が家の家系書には「折敷3文字紋」で大坂の役で落武者になって「松皮菱の尻合わせ」
に替えた、と書かれているので、なんらかの事情で楠氏の菊水紋を使ったこともあった
という事だと思います。
[26] | さちこさんからのコメント(2002年07月22日 00時44分52秒 ) | パスワード |
うへ〜!
今寝かけていたら、
オイノ坂。西に指せば備中の道、
東を指せば天なを暗し。なんて本能寺の漢詩を思い出し、
たしかオイノ坂、
以前城之崎温泉から京都にむかう途中にこの辺りがオイノ坂と父に教えてもらった
記憶があるのです。
多分このルートは福知山(大志万かさん)ら亀岡(秦さん)への道だったのですが。
オイノ坂はどのあたりだったのでしょう?
と、思いついて書き込もうとおもったら。
あらら。
四条畷ですか?
私の母が四条畷高校の出身です。
四条畷の戦い、
摂津湊川の戦い両親は古いのでよく知ってます。
でもびっくり。
[27] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年07月23日 00時52分35秒 ) | パスワード |
●川口さん
大変、御貴重なご意見、ありがとうございます。
「旗本大島家」について、びっくりしました。
字は違いますが、確かに、「大嶋(おおしま)」から「大志万(おおしまん)」に
変わった経緯があると祖父から聞きました。
もし、この現象と結びつくなら、川口さんがおっしゃったような関係があることになりますね。
また、名前の拝受の件も、足利尊氏でなく足利義昭からという見解は、感銘を致しました。
確かに、岐阜には足利義昭に滞在し、織田信長は義昭を奉じて上洛したことは有名ですね。
そして、明智光秀も関係してきますから、美濃から福知山の繋がりも出てきますね。
実際、私市の周辺には、「大志万家」という姓よりも、「大島家」が多いです。
「大島家」の家紋は、丸に揚羽蝶でしたが…。しかし、桔梗紋を、今度、探してみたいと思います。
もし見つかれば、これは、本当に大発見です。
また、よろしくお願いします。
●さちこさん
伊吹山、お疲れ様でした(笑)。
ドライブウェイから登られたのですか?
僕も一度行ってみたいのです。標高1377メートルで、伊吹高原が綺麗なんですね。
>明子さんが伊賀の地で不思議な体験をされたのはよく判ります。
>私もそうです。
僕は、まだ、伊賀に行ったことがありません。
行けば、何か感じるかもしれませんね(笑)。
もし何も感じなければ、僕は違う系統ということですね(笑)。
とにかく不思議な藤原越えも、お疲れ様でした。
>万多親王が多氏と親密で、多氏がマン田氏を(字が出ない)
>けなしていることからも逆に親密だったと考えるのですが。
>だから大志万さんのマンの字は特別な意味があるのではと。
そのようなご見解、考えたこともありませんでした。
一度できる限り、調査したいと思います。
老ノ坂(おいのさか)とは、亀岡市と京都市西京区の境目にある、国道9号線の峠道の名前です。
俗に、老の坂峠と呼ばれています。
現在は、京都縦貫自動車(京都丹波道路。有料道路)が出きて、老ノ坂は、した道となっています。
さちこさんが、城之崎温泉から京都に向かわれた時、多分、
高速で老ノ坂付近を通られたときに「新老ノ坂トンネル」がありますので、そこで、
父上様がおっしゃったのでしょう。
ちなみに、国道9号線沿いは、以下のルートです。
福知山市→天田郡三和町→船井郡瑞穂町→船井郡丹波町→<観音峠>
→船井郡園部町→船井郡八木町→亀岡市→<老ノ坂峠>→京都市西京区(西芳寺(苔寺)付近)
母上様が、四条畷高校ですか?
小生の周辺にも、四条畷高校の出身の方が多いです。
ちなみに、今、通勤途中に、JR四条畷駅を通っており、
たまに四条畷高校の前も通ります。
色々と、ご縁がありますので、本当にびっくりしています。
また、よろしくお願いします。
●服部 明子さん
他のスレッドのご紹介、ありがとうございました。
歴史だけでなく、皆様の各人生の側面が、何かの引力によって、
このHPに参加している方々の生活に、密接に繋がっている気が致しました。
「世間が狭い」とはいえ、こんな短期間で、異様な感じを受けます。
>私も(藤原へ)行きたいと思ってるのですけどね。
>行かない方が良いのかも、とも思ってます。
思い切って行かれては?
明子さんなら、もっと感じるものがあると思います。
僕は、最近、オカルトに恐怖を感じていますが…。科学主義者なのに(涙)。
>お旗本・大島家=揚げ羽蝶紋?
>かなり背筋が・・・
>明智光秀も福知山に関係しますから
>凄いお話が出て来ましたね。
本当に、びっくりしました。
大島家=揚げ羽蝶紋なら、私市に多く見られます。
とにかく、仕事のメドがつき次第、8月にでも、本家に訪ねていきたいと思います。
服部本家様のように、色々なお話が聞ければと願っております。
また、よろしくお願いします。
[28] | さちこさんからのコメント(2002年07月23日 00時59分36秒 ) | パスワード |
昨日は疲れてたので支離滅裂でごめんなさい。
なんで急に本能寺なのかですね。
福知山から亀岡このルートを車で走ってた時に父がいいました。
ずっと前のことですが、
「備中に向う途中、光秀が本能寺に進路を変えたのはこの辺り」
そんなことを思い出したからなのです。
なんかまた秦氏絡みかと。
明子さん
藤原町は怖くありませんよ。とって食われるわけじゃない。
ぜひお越しください。ご案内します!
確かに不思議な所ですが、
結構交通の要所で田舎なのに飲食店が沢山あります。
(すぐ近くの菰野や大安にはマクドナルドもありますよ)
「焼肉の藤原」
なんていうのがあります。
こんなのは全国でここだけかも?
でも「迷える子羊さん」は、
遠慮したほうがいいかもです。
美味しいラム肉入荷しました!なんてことに??
冗談はさておいて、
関ヶ原の戦いの後、
島津家が鳥羽のあたりへ逃げたのもこの藤原ルートだそうです。
島津も秦氏。
秦氏にとって特別の場所かも?
平家にも関るのであればなんか面白いことに!
私は伊藤家ホンヤさんのことは判りません。
伊藤家には近づきたくないのです。(笑い)
また教えてください。
明子さんが日本へ帰省(?)なさった時は、
藤原へご案内します!(伊吹山へもね)
そして友貞のお墓参りも一緒にしましょう。
費用は私が持ちますから御心配なく。
そのかわり私がアメリカへ行ったら、
ラスベガスとグランドキャニオンに案内してください!
[29] | さちこさんからのコメント(2002年07月23日 01時05分29秒 ) | パスワード |
多志万さん
もたもた書いてるうちに、
先越されてしまいました。
寄り道ばかりでごめんなさい。
でも結構、寄り道が後でなるほどということも?
大志万さん。A型?
[30] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年07月23日 01時13分16秒 ) | パスワード |
●平家の血を受け継ぐ方さん
明子さんより、書き込みで拝見いたしました。
交野市私市出身とのこと、大変、身近に感じております。
本当に素晴らしく、良いところですね
また、四条畷高校との関係も、びっくりしました。
色々と繋がっているかもしれませんね。
これが、ご縁の始まりであることをお祈りいたします。
[31] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年07月23日 01時28分59秒 ) | パスワード |
●さちこさん
秦氏繋がりのインスピレーション、感心いたします。
また、何かありましたら、お願いします。
ちなみに僕の血液型は、B型です。
遺伝的に、正確にいうとBO型ですが。
さちこさんは、O型ですか?
几帳面にカキコしていますが、興味深々でたまらないからです(笑)。
おかげで寝不足続きですが…。
周囲から、僕の寝不足の目の隈を見て、
「何かにとりつかれているよう」というお言葉をもらいました。
その時は、かなり苦笑いでした。
それでは、またです。
[32] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月23日 02時26分45秒 ) | パスワード |
大志万(おおしまん)さんへ
はじめまして、『迷える子羊』と申します。
実は、私、
川口さんの〜
>【私市氏】
>、武蔵国埼玉郡私市村に移住したものと思われる。私市氏一族は武蔵七党の
>私市党とも呼ばれ、埼玉郡北部を中心に大里郡に分布する。
この『私市党』の支配地域に住んでいます。
私も、この『武蔵七党(しちとう)』を調査しているのですが、
この『諸党』〜複雑怪奇なのです。・・・???
特に『私市党』には謎が多くあります。
従って調査段階に付き、『筆』(PCだろ!)が思う様に進みませんでした。
でも、川口さんすごい。(ひょっとして関東の方ですか。?)
も、もしかして、古代日奉姓の川口さんでは、ないですよね。・・・?
私も『曹洞』繋がりで〜す。
私市党(きさいとう・「騎西党」ともいう)
[33] | 川口 信さんからのコメント(2002年07月23日 09時37分01秒 ) | パスワード |
『迷える子羊』さん 宜しくお願いいたします。
日奉姓の川口家ではありませんが興味があるので以前調べたことがあるのですがあまり資料がないので良く分かりませんでした。宗派は徳川家に仕へ浄土宗、知行地の関係で真言宗、曹洞宗等のお寺に関係し、現在は法華宗のお寺に檀家として名を連ねております。
大志万さん あくまでも素人の歴史好きな者の仮説ですので興味があったら調べてください。一族が何百年も親戚関係を続けているなんて羨ましい限りですね。
なんだかこちらの「大島家」の系統が気にかかるで。
現在静岡県の大島家について調べたのですが、やはりこちらにも美濃安八郡大島村に興る新田氏流大島光俊の後裔という家々があり、家紋も揚羽蝶(丸に揚羽蝶も含む)を使用しており、また浮線蝶、対い揚羽蝶、浮線蝶菱なども使っております。
「大名廃絶禄」より
大島光義(おおしまみつよし)1508(永正5)〜1604(慶長9)
美濃関藩主。初名光吉。美濃大島の出身で、幼少にして孤児となったが、13歳の時に戦場で敵を射殺して以来、弓の名手として世に知られるようになったという。織田信長に仕えて姉川、長篠の戦いなどに参加し、本能寺の変後は丹羽長秀、次いで豊臣秀吉に属して弓大将を務めた。1598年、摂津・美濃・尾張国内で1万1200石を与えられる。1600年、関ヶ原の役が起こると自身は東軍の一員として会津征伐に従軍したが、2男・3男は西軍に属させ、家名の存続を図った。戦後、美濃関1万8000石に加増され、1604年、97歳で没。生涯53度の合戦に臨み、41通の感状を得たという歴戦の勇士であった。没後、遺領は4子に分封され、それぞれが旗本となったため、関藩は光義の死によって廃藩となった。のち長男光成・4男光朝の系統は断絶したが、2男光政の川辺大島家・3男光俊の迫間大島家は明治まで無事に存続している。
あまり関係がないと思いますが参考までに。
[34] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月23日 12時27分28秒 ) | パスワード |
>色々と繋がっているかもしれませんね。
実際は繋がっているでしょうね。
神代の時代から。
●平家の血を受け継ぐ方さん●は日本武尊が腰掛けたという言われのある石の存在する
土地のご出身ですから、日本の歴史に深く深く係わっていらっしゃる、ので
大志万さんのご先祖さまの時代からかもですね。
●平家の血を受け継ぐ方さん●は本姓源氏俗姓のご名字自体が
木曾義仲の孫の義茂の末裔でいらっしゃいますから源氏とは係わりがありますね。
信玄の時代に、このご名字を継ぐように、と頂いたそうです。
●平家の血を受け継ぐ方さん●はご先祖さまが甲斐武田騎馬軍団の4名将の内でも
特に知謀をうたわれた方で
(百姓衆も入れて人望の高さでも群を抜くとうたわれた方です)
長篠の合戦では武田勝頼に引くように進言したのに受け入れられず
わざわざ戻って勝頼が無事に逃げ延びたのを確認して死を選んだという
武士の鑑とされる人物ですから
有名人をご先祖さまに持ってはご子孫としては大変でしょうね。
●平家の血を受け継ぐ方さん●のお名前を拝見すれば
ご先祖さまの逸話の数々がすぐに連想されてしまいますから。
●平家の血を受け継ぐ方さん●のご先祖さまは
さらに甲陽軍鑑では信玄が今川氏真を攻めた時
城内にあった宝物を全て持ち出すようにと信玄が命じたのを
「そんな事をしたら殿は貪欲な武将として後世に名が残ってしまう」と諌めて
全て火中に投じたという逸話が語られていますね。
そして生涯1度も負ける戦さをした事がなかった、という有名な武将の
ご子孫でいらっしゃいます。
お祖母さまの方が平 維盛の子孫でいらっしゃって
皇竹さんのお友達でいらっしゃいます。
●平家の血を受け継ぐ方さん●は
ご容貌は
平家系じゃなくて源氏系でいらっしゃるようですよ。
わたくしの手元に持ってる資料のご先祖さまにソックリ。
どこかから画像を手に入れてコピー&ペイストしたいくらい。
でも、以上で合ってるのかどうか、ご本人さまはどうおっしゃいますでしょうか?
[35] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月23日 15時54分19秒 ) | パスワード |
え!?
誰!?だれ!?
『○○昌○』って私の隣村ですが・・・???
○○○○さん???
やっ!?やはり『○○○景』だったの・・・?
納得!
[37] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月23日 16時44分17秒 ) | パスワード |
だめだ!美濃って・・・?
土地勘のない私には『市名』だと『とんと』見当が付きません。
>平家の血を受け継ぐ方さん
・・・私、色んな家姓を持つ人間(少数派=良くわからない)としては、
なんだか寂しく感じます。
せ!?せめて『平家物語を熱く語る!!』の皆さんに留めて頂けませんでしょうか。(出来れば)
だ!だから私『迷って』います。
[38] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月23日 22時32分38秒 ) | パスワード |
『飯富』ですか・・・?
『http://www.ymg.urban.ne.jp/home/kenf/zassou/zassou-akinotakedaitizoku.htm 』でしょうか。
私この『武将』大好きなのですが・・・?
『鬼退治』とか・・・?
???『善光寺』とか・・・(なぜか、ここでも善光寺)
きっと私の先祖は『善光寺』に違いない。・・・?
意味不明なので引っ込みます。
それでは、また。
[40] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月24日 01時51分59秒 ) | パスワード |
大変失礼しました。
上記、〔36〕削除は、『訂正』の為、削除いたしました。
[41] | 隈さんからのコメント(2002年07月24日 21時10分08秒 ) | パスワード |
大志万さん、初めまして。
すっかりご挨拶が遅れまして、申し訳ありません。
私も2年前からこのサイトの不思議なパワーに呼び寄せられ、ご先祖探しをしています。
うちは母方の祖母の家が服部姓で、女紋が向かい蝶(蝶が2匹向かい合っている)です。
この間からエールを贈るためにカキコをしようと思いつつ、
忙しかったのと、他の常連さんの溢れるパワーに押されてしまったのとで、
なかなか書けませんでした。
ご先祖様探しはいろいろな事が分かってくるにつれ、
次々と新たな疑問点が浮かんできたりして長期戦になることが多いですが、
本当に飽きない冒険旅行の様なもので、楽しいです。
それでも行き詰まった時は、このサイトで思わぬヒントが得られますよ。
お互い頑張りましょう。
で、川口さんが書いておられた戦国武将の大島氏ですが、
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/osima_k.html
『尊卑分脈』に拠れば、里見義俊の孫義継がはじめて大島蔵人を称しており、上野国新田郡に大島七郷と呼ばれる地域があり、そこを名字の地としたものと考えられているが、『姓氏家系大辞典/大田亮氏著』では、新田流ではなく、土岐流の大島氏ではないかとしている。
とあります。もし土岐氏流なら、桔梗紋を使っていても不思議はないですね。
丹波に縁があったとしても不思議はないし。
秦氏系ですね〜。
ちょうど昨日、本屋でこんな雑誌を見つけました。
「週刊 日本の街道11 京都・周山街道」
国道9号ではなく、162号ですが、京都御室仁和寺を起点に
嵯峨〜高雄〜槙尾〜栂尾〜中川〜小野〜周山〜美山〜堀越峠〜名田庄〜小浜
という経路を辿ります。
周山は明智光秀の城があったところですね。
名田庄には、天社土御門神道本庁(ここは古くからの安倍氏の領地)があります。
嵯峨野から小浜。ここも秦氏街道ですねぇ。
密教寺院もたくさんあります。
高雄の神護寺は、もともと和気氏の氏寺。空海所縁の寺院ですね。
このお寺は源氏と平家、双方に縁の深いお寺。
源頼朝に平家追討を勧めた文覚上人が、一度没落した寺を復興。
そして、安徳天皇の異母弟・後高倉院とその妃・北白川院も、復興に尽力しました。
この寺に「伝源頼朝像」と「伝平重盛像」がともにあるのは、
この寺に源氏と平氏、それぞれに縁の深い人々が集まったからではないか、
と書かれています。
大志万さんのお家が「源氏でも、平家でもある」とおっしゃっていたのを思い出しました。
[42] | 隈さんからのコメント(2002年07月25日 11時19分13秒 ) | パスワード |
そういえば、柘植氏の中にも揚羽蝶紋を使っている家がありました(三つ巴紋が主流らしいですが)。
揚羽蝶紋って、もともとは蚕の蛾を紋章化したのを、「蝶の方が格好良いから」と改めたものらしいですね。
やっぱり機織り人・秦氏が好んで使う紋なのでしょうか?
[43] | 川口 信さんからのコメント(2002年07月25日 18時05分21秒 ) | パスワード |
大志万さん 大変失礼申し上げました。
貴大志万家はやはりご先祖様の言い伝えは正しいかと思われます。何故かというと
「太平記 足利 大島」で検索すると出てくる出てくる。まだちょっとしか検索していなのですが。下記のようなのがありました。
☆十寄神社
(東京都大田区矢口2−17−28)
新田義興に従って、矢口の渡しで憤死をとげた井弾正忠・大島周防守・南瀬口六郎・由良兵庫助・同新左衛門・世良田右馬助・市川五郎・土肥三郎左衛門・松田与市・宍道孫七・堺壱岐権守・進藤孫六左衛門の12騎と、主新田義興を祀っています。古くは十時明神・十騎神社などともよばれました。社殿のうしろに小円墳(現在は樹木が茂っている)があり、これが従者の墓だと伝わっています。
☆その情報をキャッチした上野国住人・大胡(おおこ)と山上(やまがみ)の一族らは、おそらく他人に先を越されたくないと思ったのであろう、新田(にった)一族に所属の大島(おおしま)某を大将に取りたてて500余騎の軍団を編成し、「いざ、薩タ峠へ援軍!」と、笠懸原(かさがけのはら:群馬県新田郡)へ繰り出した。
これは違う浅野家の検索ですが
☆これは忠臣蔵で有名な茅野三平の父のことです。父重利は、大島家に迷惑の及ぶことを考えて、これを許さない。 大島家は美濃出身の旗本で、萱野家は大島家の所ちなみに、後に、茅野三平は同志と合流するために江戸に上ろうとするが、 その意図をさ領の椋橋荘(豊中市大島町)の代官を勤めており、 三平も大島家の推挙で浅野家に仕官し長矩の中小姓となったものである。 三平は、忠孝の板挟みになり、翌元禄十五年一月十四日の主君の月命日の日に、自宅の長屋門の一室で自害する。 時に二十七歳。
などがありいずれも美濃「大島家」に繋がります。揚げ羽蝶を使い、新田氏族、足利尊氏に仕えたなど状況証拠が揃いました。貴大志万家はやはり足利尊氏に仕え武功をあげ苗字を拝領したことが推察されます。足利尊氏の在任期間は1338〜1358年でその時に拝領なら六百六十年から六百四十年余となり、分家する以前にも長い歴史があった旧家と伺えます。
「太平記」を良く読んでみようと思っております。何か分かりましたらまた書き込みます。
[44] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年07月25日 19時26分03秒 ) | パスワード |
●『迷える子羊』さん
はじめまして。いつも色々と書き込んでくださりまして、ありがとうございました。
仕事の関係上、ご返答が遅くなり、失礼しました。
今後とも、よろしくお願いします。
さて、『私市党』の支配地域に住んでおられ、また、曹洞宗とのこと、大変ご縁を感じいたします。
『武蔵七党(しちとう)』を調査されて、いかがでしょうか?
謎が多いとのことでしたが、是非とも、『迷える子羊』さんのご尽力によって、
解明されることをお祈り致します。
福知山と綾部の私市について、ここで皆様にご指導してくださった内容を元に、
今度、調査に行きます。
『私市党』について、何かありましたら、ご報告致します。
小生は、わからないことが多いので、またご教示お願いします。
●川口 信さん
いつもご教示、ありがとうございます。
素人とは思えない川口さんの博識に、大変、勉強させて頂いております。
大島光義公についての記載、とても感謝でした。
美濃安八郡大島村に興る新田氏流大島光俊の後裔なのですね。
また、家紋も揚羽蝶(丸に揚羽蝶も含む)を使用している事実に、びっくりです。
小生の姓と家紋を考えれば、川口さんのご指摘は、確かに近いです。
記載して頂いた大島家の歴史より、戦国時代、関が原、そして、明治まで、
家名存続に、苦労していた歴史を強く感じました。
結構、これだけでも感動でした。
大島家との関係について、今後も注意を払って見守っていきたいと思います。
また、よろしくお願いします。
●服部 明子さん
いつもご指導、ありがとうございます。
「平家の血を受け継ぐ方さん」についての記載、大変感謝でした。
「武士の鑑」とは、スゴイ先祖をお持ちなのですね。
有名人をご先祖さまに持っては御子孫様も、おかしなことはできませんね。
「生涯1度も負ける戦さをした事がなかった」って、まさに孫子の兵法ですね。
小生の「数打てば、当たる!」というモットーとは、恥ずかしいばかりです(笑)。
ご容貌も、ご先祖さまにソックリとは…。
先日、徳川家の末裔の方がテレビに、出ておられました。
今は、牛を飼って農業をされていましたが、末裔の方のお顔が、
あの家康公の肖像画にそっくりでした。びっくりしました。
「皆から、そのように言われます」
とテレビでもコメントされていました。
やはり、DNAは、隠せないものがあるのですね(笑)。
また、よろしくお願いします。
●隈さん
はじめまして。どうも、ご丁寧に御挨拶及びエールをありがとうございました。
隈さんも、2年前に来られたのですか。
女紋が「向かい蝶」とは素晴らしいですね。
ご教示の通り、本当に御先祖様探しは、新たな発見や疑問が出てきたりと
毎日が冒険の気分であります。
小生は、まだ、「冒険暦10日」という新米者ですが、
今後ともよろしくご指導のほど、お願い致します。
大島氏について、大変勉強になりました。
「週刊 日本の街道11 京都・周山街道」についても感謝です。
周山の地名にびっくりです。実は、20年前に京北町周山に住んでおりました。
とても、自然が多くて、緑豊かな町でした。
また、小学校の時、レクレーションで城跡にも登った記憶がありました。
(余談ですが、団体一行が城跡(全くの森の中)に到達したときに、ススメバチの巣と遭遇し、
みんなススメバチに刺されて、パニックになって下山したという恐怖の場所でした。
関係のない話ですみません。)
まさか、隈さんのお話で、周山が出てくるとは思いもよりませんでした。
高雄の話など、源氏と平家、双方に縁の深いお寺に、感心しました。
そのようなお寺もあったとは驚きです。今度、訪ねたいと思います。
本当に、小生は知らないことが多いので、またご教示をよろしくお願いします。
[45] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年07月25日 20時10分09秒 ) | パスワード |
●隈さん
いつもご教示、ありがとうございます。
7月25日の記載分、只今、拝見いたしました。
仕事の関係で、ご返答が遅くなり、大変失礼しております。
柘植氏の中にも揚羽蝶紋を使っている家があることに驚きました。
揚羽蝶紋って、もともとは蚕の蛾を紋章化したものとは、知りませんでした。
そう考えると、機織り人・秦氏とかなり関係が深いですね。
また、よろしくお願いします。
●川口 信さん
いつもご教示、ありがとうございます。
7月25日の記載分、只今、拝見いたしました。
仕事の関係で、ご返答が遅くなり、大変失礼しております。
川口さんの豊富な博識に、本当に感心しております。
「太平記」や「足利」「大島」、そして十寄神社について、
詳細にご教示くださり、大変、感謝をしております。
浅野家からの検索を通して、美濃「大島家」に繋げ、揚げ羽蝶、新田氏族、
足利尊氏に仕えたなど状況証拠が揃えられたとは、驚きました。
>大志万家はやはり足利尊氏に仕え武功をあげ苗字を拝領したことが推察されます。
大変、恐れ多いご見解に、恐縮しております。
>分家する以前にも長い歴史があった旧家と伺えます。
小生の知識では、考えも及びませんでした。
また、よろしくお願いします。
[46] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月25日 21時00分16秒 ) | パスワード |
新田義興と共に大島氏が出ていらっしゃいましたか。
義興が欺されて殺されるお話は安部龍太郎だったかの短編小説集「鎌倉掻擾」だったかに
に出てた記憶です。
この大島氏は南朝方でしたか。
この平熱は南朝方の子孫が多いように思いますが。
美濃の土岐氏でしたらバリバリの「足利」系ですね。
[47] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月31日 09時38分42秒 ) | パスワード |
ビックリの発見がありました!
朝日新聞社の週刊朝日百科(1)の日本の歴史:源氏と平氏の
4ー34ページに驚くべき発見がありました!
タイトルは「平氏知行国・荘園・家人図」の章ですが
この若狭国の欄に
嶋時康(遠敷郡志万郷)
の名前がありました。
この本は平熱の管理者の方に送って頂いたばかりの本でして
この知行国のページはすごく気になってたのです。
で、さっき新しいスレッドにこの本の紹介をして、詳しく見てたら
「志万」という地名を発見!
オカルトかかってるぅ〜
「志万」の豪族のお名前は「嶋」氏だった?
そして「読み」は「しま」だった?
[48] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月31日 10時08分15秒 ) | パスワード |
遠敷郡というのは今の福井県に遠敷郡というのがあります。
さらに小浜の近くに大島半島というのがあるそうです。
昭文社の「ミニミニガイド文庫26近江・若狭」の85ページに
「大島半島」という項目があり
エンゼルラインと蘇洞門で脚光を浴びている内外海半島に対して
大島半島は地味な存在だったが小浜線の若狭本郷駅近くから青戸の大橋が掛けられて
おとずれる人もしだいに増えてきた
という書き込みがあります。
奈良大安寺の荘園だった関係で重文の仏像が6体もある。
海底にはビシャモンテン、キッショウテンなどがある清雲寺、
波切不動と呼ばれる常禅寺は西村の山ぎわにある。
藤原期の阿弥陀如来がある長楽寺日角浜と畑村の間にある。
また小浜潟にくいこんだ赤礁崎は岩礁と海の色が美しい岬だ。
とあります。
[49] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月31日 10時16分08秒 ) | パスワード |
遠敷は「おにう」と読むみたいですよ。ルビが小さくて「お」だと思う。
また遠敷川というのが東小浜駅の東を流れ北川と合流して小浜湾に注いでる。
[50] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月31日 10時22分37秒 ) | パスワード |
丹波と若狭の境あたりに遠敷郡というのがありますね。
大島半島のずっと南、丹波の方向になります。そして丹後にも近い。
もとはそちらにいらっしゃったかもです。
[51] | 川口 信さんからのコメント(2002年07月31日 10時57分43秒 ) | パスワード |
☆ どこまで本当なのか定かでないが、祖父の手で判明したところによると、大島家は室町時代以降、武士だったらしい。それがおかしいことに、戦争が起こる度に負けそうな方に味方する癖があるのだ。ある時は足利将軍と一緒に没落し、またある時は大阪の陣で豊臣家について炎の中に消え、挙げ句の果てに函館の五稜郭にたてこもって政府軍と戦ってしまう有様である。いつもまるっきり時局を読めていない。もしくは読もうとしていない。どうも父方の系譜をたどってゆくと腕は立つがマイペースなタイプの人が多かったようだ。ある人などは京都で有名な剣の達人だったらしいが、応仁の乱で天下が乱れている時に、その剣の腕を活かして一旗上げるどころかのんきに九州旅行なんぞに出かけ、阿蘇で山犬退治をしては「20頭もやっつけた」などと悦に入ったりしている。この人はぜったい実在の人物だ、という気がする。
上記文は「拝啓 ご先祖様」という大島家の人が作ったHPです。
ご先祖が同じ「大志万」さんと同じ先祖探しの心境を吐露していると思われます。HPなので住所もメールもわかりませんが。
新田系図によれば義俊--義成--義継--時経が大島姓を名乗った。太平記に出てくる大島讃岐守は時経--盛義--義員--義政でその義政だそうです。前述の十寄(騎)神社には大島周防守は新田義興(新田義貞の子)と共に武蔵・矢口渡しで討死したとありましたね。私の自宅から私鉄に乗って八つ目の駅でこれも何かの縁と思い、近いうちに訪れて見たいと思っております。
また大島光義の子孫は盛岡藩にもおりました。豊臣家関係の文書も伝わっているみたいです。
子孫に大島高任と言い、日本の製鉄業に貢献して有名な人物です。(検索で初めて知った訳ですが)
日本姓氏大事典(山梨県版)の大島の項目に大嶋・大志万とも書くとありました。
それによれば大島讃岐守為元、その子五郎左衛門為重は、弘治二年武田氏に降ったという。三つ揚羽蝶紋使用か。ちょっと名前が違うが同一人物か?(讃岐守使用)。
[52] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月31日 11時10分09秒 ) | パスワード |
小浜は遠敷郡内という事でした。
川口さまお書きにちょっとだけ「武田」で関係します。
小浜はもともと「若狭武田家」の所領の地でした。
残念ながら秀吉に詰め腹を切らされて
この人の妻だったのが京極高次の姉で秀吉の側室になった女性・松丸殿です。
遠敷郡(おにゅうぐん)に町が2つありました。
上中町と名田庄村(なたしょうむら)。
上中町には古墳などたくさんあります。
[53] | 隈さんからのコメント(2002年08月01日 15時20分04秒 ) | パスワード |
> 週刊朝日百科(1)の日本の歴史:源氏と平氏
私もこの本は持っているのですが、大志万さんの書き込みを見る前だったこともあり、気付きませんでした。
しかし、びっくりしましたよ。。。
若狭国遠敷郡って、周山街道の終点ですね。
周山街道の事を書いた時、
正直「もし全然見当違いだったら、また話を反らして悪いなぁ」と思っていたのですが、やっぱり関係あったのかも。
ついでに、志万郷の事が書かれたページがありましたので、ご紹介。
http://www.wakasaji.org/chimei/03_katsumi.html
[54] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月01日 21時23分10秒 ) | パスワード |
隈さん
隈さんのパワー
たいしたものですね。
かなり大志万さんのご先祖さまに近づいた感じ。
内外海半島にそびえる久須夜ヶ岳(くすやがたけ)の西麓に位置し、
小浜湾に面する堅海は、「勝海」「勝見」とも書き、
中世には、島山(大島)、泊、堅海は、「志万郷」に属していたようであった。
集落の北東の山裾に鎮座する久須夜神社は、延喜式神名帳所載の古社であり、
若狭国鎮守大明神十社の一つとして崇敬されてきた。
久須夜ヶ岳の山腹エンゼルラインに沿って、そびえ立つ巨岩、
狼岩(おおかみいわ)は祭神大己貴命(おおなむちのみこと)が天下った岩と
伝えられている。この辺りから山麓の神社あたりまでの一帯を烏帽子の森(えぼしのもり)と称し、
古くから堅く不浄を禁じているが、荘厳な神域を形成する見事な社叢の存在もこうした
厳しい禁忌と篤い信仰の所産である。このことが、地名の由来に関係があるかもしれない。
応安2年(1369年)創建と伝えられる臨済宗長慶院の木造観音菩薩坐像は、重要文化財である。太造りで堂々とした体躯であるが、穏やかな顔が印象的だ。
内外海半島西側に位置する堅海の「長慶院(ちょうけいいん)」は、臨済宗南禅寺派の寺。開祖、開基など詳しいことは不明だが寺に伝わる木造観音菩薩坐像は平安時代の作といわれ、国指定の重文になっている。
[55] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年08月02日 04時37分35秒 ) | パスワード |
服部 明子さん
川口 信さん
隈さん
● いつもご丁寧に、ご指導のほど、ありがとうございます。
仕事の繁盛期にて、ご返答が遅くなりまして、すみませんでした。
各皆様のご教示の内容に、毎度ながら、大変、びっくりしております。
朝日新聞社の週刊朝日百科から、昭文社『ミニミニガイド文庫26近江・若狭』、
大島家の人が作られたHP、そして、志万郷の事が書かれたHPとの文献に絶句の一言でした。
オカルトもさることながら、自分の知識の至らなさを痛感しております。
内容に関しては、後日、改めてご挨拶申し上げます。
取急ぎ御礼にて失礼します。
追伸:本人(大志万)不在時のご教示、いつも大変、恐縮でございます。
仕事中、コメントが書き込めないのですが、このHPは毎日、
ダウンロードをして拝見しておりますので、
引き続きご指導のほど、お願い申し上げます。
[56] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月02日 04時52分09秒 ) | パスワード |
おやおや午前4時半の書き込みだなんて大変!
ごゆっくりお休みください。
お身体壊しては台無しです。
[57] | 隈さんからのコメント(2002年08月02日 17時47分51秒 ) | パスワード |
大志万さん
無理して急いでコメントなさらなくても、大丈夫ですよ。
私も最近忙しくて、レスが遅れがちだし(あまり自慢にはなりませんが)。
充分休養を取って下さいね。
明子さん
私に限らず、最近皆さんのオカルトパワーに拍車が掛かっていますね。
私は最近ますます、自分の先祖が伊賀の服部氏と無関係とは思えなくなっています。
自分がこの2年間試行錯誤しながらあちこち調べていた事が、
最近になって急速に繋がり始めていますので。
本当に怖いくらい。
[58] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年08月05日 05時32分22秒 ) | パスワード |
●服部 明子様
いつもご指導、ありがとうございます。
そして、暖かいメッセージ感謝です。
朝日新聞社の週刊朝日百科の日本の歴史:源氏と平氏の
タイトル「平氏知行国・荘園・家人図」の章ですが
この若狭国の欄に嶋時康(遠敷郡志万郷)の名前があったのは、
びっくりでした。
また、小浜近くある大島半島も、父(大志万)が大好きな釣りの場所なので、
不思議な感じを受けました(笑)。
>丹波と若狭の境あたりに遠敷郡というのがありますね。
>大島半島のずっと南、丹波の方向になります。そして丹後にも近い。
>もとはそちらにいらっしゃったかもです。
明子さんのご指摘の通り、本当にそうかもしれないと、今感じております。
>内外海半島にそびえる久須夜ヶ岳(くすやがたけ)の西麓に位置し、
>中世には、島山(大島)、泊、堅海は、「志万郷」に属していたようであった。
>集落の北東の山裾に鎮座する久須夜神社は、延喜式神名帳所載の古社であり、
>若狭国鎮守大明神十社の一つとして崇敬されてきた。
>久須夜ヶ岳の山腹エンゼルラインに沿って、そびえ立つ巨岩、
>狼岩(おおかみいわ)は祭神大己貴命(おおなむちのみこと)が天下った岩と
>伝えられている。この辺りから山麓の神社あたりまでの一帯を烏帽子の森(えぼしのもり)と称し、
>古くから堅く不浄を禁じているが、荘厳な神域を形成する見事な社叢の存在もこうした
>厳しい禁忌と篤い信仰の所産である。このことが、地名の由来に関係があるかもしれない
すごい伝説の内容ですね。その内容を感じ取るだけでも、ひと苦労です。
もし、この由来から地名となって、その地名を取って、何らかの変化を伴って、
小生の先祖が「大志万」という姓になったということでしょうか。
また、ご教示のほど、お願い致します。
●川口 信さん
いつもご指導、ありがとうございます。
「拝啓 ご先祖様」という大島家の人が作ったHPのご紹介、感謝でした。思わず笑ってしまいました。
「戦争が起こる度に負けそうな方に味方する」という「半官びいき」というか「見極めが甘い」のか、
とにかくスゴイですね。特に、天下混乱の時に、山犬退治をしているところは最高でした。
>日本姓氏大事典(山梨県版)の大島の項目に大嶋・大志万とも書くとありました。
>それによれば大島讃岐守為元、その子五郎左衛門為重は、弘治二年武田氏に降ったという。
>三つ揚羽蝶紋使用か。ちょっと名前が違うが同一人物か?(讃岐守使用)。
それは、知りませんでした。ひょっとすれば、関係があるかもしれませんね。
また、ご教示のほど、お願い致します。
●隈さん
いつもご指導、ありがとうございます。
そして、暖かいメッセージ感謝です。
志万郷の事が書かれたページのご紹介もありがとうございました。
大変、参考になりました。
>若狭国遠敷郡って、周山街道の終点
知りませんでした。びっくりです。
隈さんの周山街道のご指摘から、本当に不思議なオカルトを感じます。
>自分がこの2年間試行錯誤しながらあちこち調べていた事が、
>最近になって急速に繋がり始めていますので。
>本当に怖いくらい。
そうですか…。
でも、皆様とは、本当に不思議な関係ですね。
IT技術で、単にお互い結ばれているのですが、広い世界の中で、
どうしてこのような時期に、このような場所で、これだけの素晴らしい人同志に出会えるのでしょうか。
人間の引力関係は、本当にオカルトの一言で片付けないと、
答えが見つからない感じを受けました。
また、ご教示のほど、お願い致します。
[59] | 川口 信さんからのコメント(2002年08月06日 16時14分42秒 ) | パスワード |
山梨県の「大志万家」について。
穴山梅雪の家臣におりました。
穴山梅雪・信君[あなやま ばいせつ・のぶきみ]?-天正10(1582).6
武田家の重臣 信玄・勝頼と二代にわたって武田家に仕え、信玄の姉を妻とし、甲斐下山(山梨県南巨摩郡身延町)を本拠とした。
天正10(1582)年3月、信長の甲斐進攻に際しては、武田の前哨拠点である江尻城の守将であったが、家康の降誘を受け入れ開城した。この背信によって甲斐武田家は事実上崩壊することになった。勝頼の死後、家康の仲介によって信長から旧領を安堵され、所領安堵のお礼のため安土に伺候。その後、堺遊覧中に「本能寺の変」が勃発し、三河へ脱出する途中、山城宇治田原で土民に襲われ死亡したとされる。
その穴山梅雪の:穴山衆覚えのものほか同心・被官のなかに「大志万与次郎」の名前があり、「川口与左右衛門」(当川口家との関係は不明)の名前もあった。
ここでも「明智光秀関係」の繋がりが出てきた。
[60] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月06日 21時36分47秒 ) | パスワード |
穴山梅雪がらみで出て来ましたか。
>家康の降誘を受け入れ開城した。
>勝頼の死後家康の仲介によって信長から旧領を安堵され所領安堵のお礼のため安土に伺候
これで甲斐の一族の身分が江戸時代家康によって安定したのは確かでしょうね。
この人物を調べたら福井の若狭武田に仕えたかも知れない大志万氏が分かるかもですね。
[61] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月06日 21時56分07秒 ) | パスワード |
学研の歴史群像シリーズ(5)武田信玄の38ページの
支城網と家臣団(38ページ)に江尻城を発見。
地図がデフォルメされているのでなんとも言えませんが
伊豆半島のつけねの西、ツツジが崎館の真南?九能山城の北東に江尻城があって
城主は武田信光→山形昌景→穴山信君と変遷しています。
[62] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月06日 22時09分29秒 ) | パスワード |
続き:
学研の歴史群像シリーズ(5)武田信玄の82〜83ページの
「軍事体制・編成:信長を震えあがらせた甲軍の組織力」の83ページの
「武田軍陣構えの図」という標題の<え>の真下に
大島
と出てます。
また85ページには「信玄秘蔵の武田水軍」には
小浜景隆という名があり
伊勢国北畠の家臣でもとは伊勢海賊衆の出であった、と書かれています。
永禄11年駿河を手に入れてようやく編成することが出来た海賊衆である、と書かれています。
江尻城は結構海の近くなのでその関係は?と期待しています。
[63] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月06日 22時29分00秒 ) | パスワード |
続き
196〜197ページに「武田氏主要城郭一覧」というのがあり
197ページの静岡県の所に江尻城が出ています。
江尻城:
清水市江尻町。平城。
蛇行する巴川の流れを活用した城で
構造は複雑ではない。
江尻はかつて「江尻の津」と呼ばれた湊町。
今川氏の時代から物流基地として重要視されていた。
駿河に進攻した信玄は北条・徳川両氏との戦いのための補給基地として
1570年きゅうきょ駿河先方衆つかって築城工事を起こした。
設計は馬場信房。
武田信光を城代に命じている。
なおこの頃巴川河口近くに水軍基地袋城(清水城)を構えている。
ここで馬場信房(=美濃守信春)が出ましたよ>大志万どの!
[64] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月06日 22時36分04秒 ) | パスワード |
<61>の書き込み
>地図がデフォルメされているのでなんとも言えませんが
>伊豆半島のつけねの西、ツツジが崎館の真南?九能山城の北東に江尻城
土地鑑の無い私には
デフォルメされた地図から
現在の裾野とか沼津とか三島かな?富士かな?富士宮かな?なんて想像してました。
恥ずかしいですね・・・
もともと方向音痴なので推測した地名をわざと書かなかったのですが
良かった!
[65] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月07日 05時12分16秒 ) | パスワード |
<62>に書きました小浜(おはま)氏は
伊勢小浜に起こる者は藤原氏和田二郎の後
盛継に始まる
とありました。
ということは若狭国小浜とは関係無いようですね。
[66] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年08月12日 19時35分20秒 ) | パスワード |
いつもご指導、ありがとうございます。
毎回、勉強させて頂いております。
さて、先日、オカルトに導かれるままに、福知山・綾部の
故郷に帰ってきました。日帰りでしたが、家にあった本やお墓を見て来ました。
皆様からご指導を頂いた部分が、少しずつ繋がっているのを実感いたしました。
現在、資料を取り纏めており、随時、ご報告いたします。
なお、以下の文献は、家にあった本の引用であります。
また、ご指導のほど、よろしくお願い致します。
『●大志万宮内大輔長秀城跡
所在地は大字私市宮内殿にあり。往古幾千坪の屋敷を構え私市村、戸田村、大志万村、友渕村、淵垣村の数ヶ所を領し、政権近郊に振い威勢盛んなりと雖も、天正文禄の頃、氷上郡黒井城主赤井悪右衛門正直のため滅亡せられ、遺族の悉く民家に落つると口碑あり。古書により往時を鑑み、今時を案ずるに、「大志万家系図」に依ると、下私市を殿村と称え、また大門を称する小字あり。同時傍らに古墳あるを元禄11年の春大志万太郎右衛門(当代より8代以前)が黒鍬八郎右衛門に命じて堀しめたるに、鍬形・刀剣・矢の根・器物等を発見せり(現在、本家所持す)。その後150年を経て大志万太郎右衛門(当代の曾々祖父)大門の礎と唱えたる大石の埋もれたるを我庭前に移せり。また、耕地の中央に200余坪の山林あり。雑木生い茂ったる中に古井戸あり。壕の形跡あるは村民の能く知る所なり。
明治14年2月大志万重・(当代の祖父)は黒鍬に命じてこれを開拓せり。その後明治28年8月大志万藤吉、桑畑を耕作するに大きなる壷発見せり。開き見るに古代の漢銭蒼然として充満せり。その数27、8円を得たり。
依て古今の記跡に徴し口碑を疑わざる所なり。』※1
※1出所:田邉重敬編著『佐賀村誌』オカムラ出版,平成7年12月10日発行,26〜27ページ。
『●三坂女・の碑
足立氏、室町時代の中葉応仁の乱以後諸国兵乱止む事なく武力を以て各地方に割拠し、所謂戦国時代を現出したのである。
天文、弘治、永禄(1558〜1569年)頃には報恩寺城山に片岡近江守が居り、私市城には大志万長秀、小幡城には波伯部源内、位田城には荻野肥前守、物部城には上原周防守、猪崎には塩見播磨守、氷上郡黒井には赤井悪右衛門直正が居た。互いに虎視たんたんとしてすきあれば相手を倒してその領地を奪わんとする情勢であった。…以下、省略…。』※2
※2出所:田邉重敬編著『佐賀村誌』オカムラ出版,平成7年12月10日発行,29ページ。
[67] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月14日 11時47分06秒 ) | パスワード |
戦国時代の風雲が伝わって来ますね。
戦国時代にはちゃんと「大志万」姓でいらっしゃる。
どこで「大志万」姓になったのか分かると良いですね。
>耕地の中央に200余坪の山林あり。
>雑木生い茂ったる中に古井戸あり。
>壕の形跡あるは村民の能く知る所なり。
この感じは非常に「その土地の有力者の屋敷」のたたずまいですね。
私としては「古墳」だったんじゃないかな?と。
古さはよく分かりませんが。4世紀とかは、そこまでは、言いませんが。
こういうのって他でもいくつか知ってるので。
また鎌倉時代の豪族のお墓の作りも周りに「壕」があるんですよ。
かなりの身分の高い豪族のお墓になりますけどね。
私の母方先祖のお墓もこんな感じです。
やはり大志万さまのご先祖さまはかなり古くから力を持ってた豪族のようですね。
また何か分かりましたら書き込みをお願い致しますね。
[68] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年08月17日 23時58分59秒 ) | パスワード |
●川口 信様
いつもご指導、ありがとうございます。
穴山梅雪に関するご返答が遅くなり、失礼しました。
大変、びっくりしました。特に、穴山衆覚えのものほか同心・被官のなかに「大志万与次郎」の
名前には、本当に驚きです。
川口さんのご指摘を元に調べた結果、江戸時代でしたが「京都・私市」の地は、
武田家との繋がりが深く記載されていることがわかりました。
江戸時代では、旗本武田越前守575石余、同杉浦内蔵丞643石余の領地または知行所となったという
記載がありました。その後正徳3年(1713)武田知行所のうち400石を割いて
旗本川窪友之助に与えられた。詳細は、以下の通りです。
※1出所:田邉重敬編著『佐賀村誌』オカムラ出版,平成7年12月10日発行,59ページ。
☆武田・川窪領――大内・私市・安井・筈巻
武田氏は甲斐国武田氏より出て同国川窪に住んだところから川窪と称したが、信貞の時に武田に復した。
信貞(越前守、兵庫頭)は書院番から大番頭に進み、天和2年に氷上、天田、何鹿3郡合わせて5710石を知行していた。
宝永7年(1710)信貞の孫信喜が襲封した際、私市村のうち400石を叔父信慈に分地し、信慈は川窪を名乗った。
これが川窪氏のはじまりである。
武田氏の所領は5郡16ヶ村に及ぶが、陣屋を口丹波の河原尻村に設けて散在する知行所の支配にあたった。
この内天田・何鹿両郡内4ヶ村は奥4ヶ村としてまとめられていた様であった。安政4年(1857)の大庄屋連名
「郷方並大庄屋小前書附控」(芦田家文書)には7人の名がみえるが、その内の芦田惣左衛門と大志万忠助は私市に、
高橋喜兵衛は筈巻に住んでおり、数ヵ村のまとめ役として、大庄屋というよりも格式を示す意味あいが強かったの
ではないかと思われる。…省略…
宝永7年(1710)に川窪氏に分地された私市村の400石分は、正徳3年(1713年)に実際の分地が行われている。
分地にあたってはくじ引きで百姓と田畑を分け、大志万太郎左衛門が川窪家付きになり代官役を勤めることになったという。
この時、川窪領に配属されたと思われる太郎左衛門以下70名の百姓の「請書控」(大志万家文書)が現存している。
この川窪領の支配は、実質的には本家の武田家によって行われていたらしく、免定(享保20年)
役人名は本家のそれと似かよっている。…省略…
武田家との関係は、よくわかりませんが、何かしら繋がっている可能性が出てきたと思っております。
実は、小生の身近な人で、武田信虎、信玄二代に仕えた武田譜代の名将「甘利備前守虎泰」の
子孫の方がおります。現在、その方と小生は親しくしているので、過去のご縁から、かなり驚いております。
関係のないお話をしましたが、また、よろしくご指導のほどお願い致します。
●服部 明子様
いつもご指導、ありがとうございます。
それと、小生の記載へのアドバイス、大変、嬉しい限りです。
自分自身、文献をまとめておりますが、正直なところ、何が記載されているのかよくわかっておりません(苦笑)
このHPに参加させて頂き、はや1ヶ月が経ちましたが、ますます勉強しますので、引き続きよろしくお願いします。
さて、過去のカキコのご指導に沿って、色々とまとめて参りました。
ランダムに記載することになりますが、重ねてお願い致します。
※2出所:柴田實・高取正男監修『日本歴史地名体系26 京都府の地名』1981年,312〜313ページ。
☆丹波国(たんばのくに)
<古代>
〔国勢〕
北は丹後・若狭国、東北は近江国、東は山城国、南は摂津国、西・西南は播磨・但馬国に接し、海に面していない。
[支配の推移]
長岡京・平安京が山背国に造営されて以後、丹波国は都に近い地域となったが、その性格は根本的には前代と変化していない。
しかし都に近くなったということで宮都の造営・維持にしばしば役夫などの動員が命ぜられた。
延暦10年(791)には越前国・但馬国などとともに平城宮の門を長岡宮に移建し(続日本紀)、
同18年には伊賀国・伊勢国などとともに造宮役夫を派遣し(日本後紀)、同19年には山城国・大和国などと合わせて
1万人の役夫を葛野川(かどのがわ・大堰川・桂川)の修復のために徴発している(日本紀略)。
同様の例はほかにも多く、かなりのちの天慶元年(938)の地震による宮城垣の破壊の修理にしても
「5畿内升近江・美濃・丹波・播磨合9箇国長官」に命ぜられており(本朝世紀)、美濃国はともかく近江国・
播磨国と並んで畿内に最も近い国として重要性の度合を強めていく。平安時代末期に至っても事は同じで、
平宗盛が5畿内・伊賀・伊勢・近江・丹波の惣管となり(玉葉)、また平盛俊が丹波国諸荘園総下司に任命されるの
もそのためである(同書)。両者とも平氏が源氏との対決を深めていく養和元年(1181)の任命であるが、
平氏の政権を維持していくのに丹波国は政治的・軍事的に重要な地域として考えられていたということをよく示している。
〔荘園〕
平安時代、丹波国(多紀・氷上郡を除く)に成立した荘園の主なものとしては次のものがある。いずれも中小規模の荘園である。
何鹿郡(いかるが)…志万庄(しま)・私市庄・栗村庄・小幡庄・吾雀庄(現綾部市)
桑田郡…篠村庄・桑田庄・瓦屋庄・曽我部庄・賀舎庄(現亀岡市)・宇都庄(吉冨本庄)・細川庄・山国庄・弓削庄(現北桑田郡)
船井郡…野口牧・野口庄(現園部市)・質美庄(現瑞穂町)
天田郡…拝師庄・六人部庄・土師庄・雀部庄・河口庄・佐々岐庄・奄我庄(現福知山市)
※3出所:同書,560ページ。
★私市村 現:福知山市私市、綾部市私市町
西流する由良川の右岸に位置し、支流相長川の谷の入口一帯を占める。村内は上私市(現:綾部市)・下私市(現:福知山市)に分かれ、
下私市の西は川北村、北は報恩寺村、南は由良川を隔てて観音寺村・興村に対する。
江戸時代の私市村は、何鹿郡に属し、初め福知山藩領であったが、寛文8年(1668)福知山城主松平忠房が肥前島原(現:長崎県島原市)
へ転封となり、私市村は代官支配下に入り、遠山主殿頭(陸奥国磐前郡湯長谷藩主)162石余、旗本武田越前守575石余、
同杉浦内蔵丞643石余の領地または知行所となった。その後正徳3年(1713)武田知行所のうち400石を割いて旗本川窪友之助に与えられた。
寛文8年、当村に、日中狼が出て人を殺傷した事件があった。福知山藩日記(島原市立図書館松平文庫)同年2月16日条による…省略…。
小字尾林に7基の古墳があったが、多くは破壊された。享保3年(1718)古墳を発掘して、墳石を引いて佐須賀神社の御手洗石
にしたという伝えもある。現在残る1基は径約10メートルの横穴式古墳である。小字宮内殿の地は、室町時代末期の
大志万宮内大輔長秀の居館跡という。大志万氏は氷上郡黒井城主赤井悪右衛門に滅ぼされ、帰農したと伝える。
小字稗田に、曹洞宗嶺松山長円寺がある。…省略…文政7年(1824)に火災に遭い再建した。…省略…
村の北方須賀の山に佐須賀神社があり、「延喜式」神名帳にみえる何鹿郡「佐須賀神社」に比定される。
祭神は建速須佐之男命、主配神は稲田宮足名椎命。神社は付近に大馬場・馬出し・的場・灯明田などの字がある。
※4出所:同書,599ページ。
★私市村 現:福知山市私市、綾部市私市町
古代は私部郷(きさいちべ)(和名抄)、中世は私市庄に属するが、天文19年(1550)の大志万一族知行目録(大志万家文書)に
「私市むら」と出る。…省略…
[69] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月18日 01時34分35秒 ) | パスワード |
大志万さま
>小生の身近な人で、
>武田信虎、信玄二代に仕えた武田譜代の名将「甘利備前守虎泰」の子孫の方がおります。
>現在、その方と小生は親しくしているので、過去のご縁から、かなり驚いております。
やっぱり前世からのご縁でしょうかねぇ。
武田氏とは縁があった?
一族の方が矢張り甲斐武田にいらっしゃった?
甲斐武田に結び付いた前提は若狭武田氏?
そしてその基となるのは足利尊氏?
よく分からないけど会った瞬間「なんとなく生涯に亘って信頼出来てしまう」とか
逆に「なんとなく嫌いな存在」ってありますよね。
その理屈を超えた「なんとなく」というのの正体、
DNAの中に代々記憶されているのでしょうか。
>平安時代・・・何鹿郡(いかるが)…志万庄(しま)・私市庄・栗村庄・小幡庄・吾雀庄(現綾部市)>
ここで「志万庄」で出て来ますか。
という事はもともとは「志万」という原型の名称があったのかもですね。
福井県の「志万」郷とも共通の。
平安時代には丹波に志万という名称が存在してた。
ということは矢張り「志万」という名称はかなり古くからあったということでしょう。
古代日本の丹波・若狭あたりで勢力を張ってたという事でしょうね。
>平宗盛が5畿内・伊賀・伊勢・近江・丹波の惣管となり(玉葉)、
>また平盛俊が丹波国諸荘園総下司に任命されるのもそのためである(同書)。
>平氏の政権を維持していくのに丹波国は政治的・軍事的に重要な地域
小浜氏について<65>に関係無いみたいですねとは書きましたが
伊勢の小浜氏は藤原系和田さんの一族と言えば
藤原(=伊藤)忠清つまり平清盛の軍事部門担当者・藤原の家老が和田家ですから
平盛俊がここに出て来るということは若狭国小浜も無関係とは言えなくなるのかも。
平氏でもあるし源氏でもあるというややこしい過去は
やっぱり大志万さまのご先祖さまは豪族というか武士というか
経済力と軍事力を有し、更に、なかなかの政治好きだったのかも。
平安時代以前の古代日本時代からでしょうね。
かなり見えて来ましたね。
「大」がついた経緯が分かると良いですね。
[70] | 川口 信さんからのコメント(2002年08月18日 08時25分24秒 ) | パスワード |
<文禄の頃、氷上郡黒井城主赤井悪右衛門正直のため滅亡せられ、遺族の悉く民家に落つると口碑あり
この戦いに出てくる塩見播磨守について、出自は武田義清から出た信濃源氏小笠原氏とあり、足利尊氏にその地を拝領したとあります。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/siomi_k.html
上記URLに戦いの様子、天田の戦国時代について詳しく出ております。
先日(15日)近くの新田神社、十寄神社にお参りしてきました。
新田神社は静かで荘厳な感じ、境内には樹齢数百年のケヤキがあり歴史の重みを十分に味あわせくれ、真夏でもヒンヤリとした佇みで、石の塀には一両引の家紋が2m間隔ぐらいで付してあり、今まで見た神社とは違った趣きでした。
十寄神社は新しく立て直されたみたいで朱塗りと白のコククリのコントラストが現代と言う感じであるがこじんまりとして何か風格を備えており、横10m奥行30mぐらいで民家が近くまで建ち並び日当たりのよい所でした。入口に神社の由来書があり大島周防守義遠等十名の名前が記載され、他に大島兵庫頭義世の名前もありました。
その由緒書は大島兵庫頭義世の末裔に当る大島康夫氏が奉納したものです。先祖の事跡が代々言い伝えられて数百年経た現在においても継承されているなんて羨ましい事ですね。
真夏の一時、太平記の時代に甦ったみたいでした。
[71] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月18日 10時33分13秒 ) | パスワード |
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/siomi_k.html
これは面白いですね。
日本がだんだん統一されて行く時の地方の様子が。
群雄割拠
ほんとうに日本全国至る所でこういう事が起きていたのでしょうね。
>大島兵庫頭義世
この名前からすると「源氏系」のようですね。
当時「義」という文字は使用をかなり厳しく制限されてたと思いますから。
かなり頑張って「我が家は源氏なので「義」の字を使いたい」と訴えた
というのが頭をかすめました。
最近そういうお話をして下さったかたがいらっしゃるのです。
藩によっては「忠」とか「家」という字を非常に制限してた、と。
ですから名前の頭に「義」を使ったということは、と考えたのです。
[72] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年08月19日 15時14分42秒 ) | パスワード |
服部 明子様
いつもご指導、ありがとうございます
記載へのアドバイス、大変、わかりやすく感動しております。
>よく分からないけど会った瞬間「なんとなく生涯に亘って信頼出来てしまう」とか
>逆に「なんとなく嫌いな存在」ってありますよね。
>その理屈を超えた「なんとなく」というのの正体、DNAの中に代々記憶されているのでしょうか。
その言葉、とても身にしみます。
今まで、考えたこともなかったので、本当に不思議な感じです。
先日、小生の親しい甘利氏に、武田関係についてお話したところ、
「甲斐国武田氏の穴山梅雪の被官のなかに「大志万与次郎」の名前があった?!
それなら、甘利家の方が少し身分が高いってことやね(笑)。今後、私の意見を聞いてもらわなあかんよ(大笑)。」
と言われてしまいました(苦笑)。
>「志万」という名称はかなり古くからあったということでしょう。
>古代日本の丹波・若狭あたりで勢力を張ってたという事でしょうね。
ご指摘に従いまして、志万庄について調べてみました。
よろしくお願いします。
★志万庄(しまのしょう)
古代の志麻郷(和名抄)に立荘されたと考えられる。
初見は養和元年(1181)12月8日付後白河院庁下文案(新熊野神社文書)で、「丹波国 吾雀庄 志万庄」
と記され新熊野社(現:京都市東山区)領28所の1として吾雀庄とならびあげられている。
現上延町東光院蔵の大般若写経奥書(室町末期、一部平安中期)に「丹波国何鹿郡志万庄法隆寺」、
あるいは文明6年(1474)6月付の同経奥書に「上志万宝隆寺」と示される。
ここにみえる法(宝)隆寺は東光院の古名で、延・大島辺りがかつての志万庄であったことを示している。
ちなみに近世の「丹波負笈録」は「志摩郷今ハ大嶋郷と云(中略)大嶋・延・岡・安場是を大嶋4ヶと云、
古ハ大嶋村と云一村の所也」と述べる。
なお長和元年(1012)の大嘗会の歌(「栄花物語」巻10)に
"天の下富緒川の末なればいづれの秋か潤はざるべき"
とある富緒川は何鹿郡の名所とされているが、この富緒川は志万庄の中央を流れる安場川の異称とされる。
すなわち大和斑鳩里(現:奈良県生駒郡斑鳩町)の法隆寺に擬して丹波国何鹿郡(いかるがぐん)法隆寺とよび、
そこを流れる川を大和斑鳩の富小川に擬して富緒川と名付けたものであろうとの説がある。
(※1出所:柴田實・高取正男監修『日本歴史地名体系26 京都府の地名』1981年,597ページ。)
>平氏でもあるし源氏でもあるというややこしい過去は
>やっぱり大志万さまのご先祖さまは豪族というか武士というか
>経済力と軍事力を有し、更に、なかなかの政治好きだったのかも。
>平安時代以前の古代日本時代からでしょうね。
政治好きは、恥ずかしながら、当っているかもしれません(苦笑)。
本日も、綾部市市会議員選挙に、姓は違いますが小生の親戚が立候補することになり、
色々と出陣式で沸き立っておりました。また大志万姓の中には、色々な議員職に就いた者もおりました。
小生の祖父も…確かに…。まだ関係者の方が多く活躍されているので、カキコを控えますが、
明子さんの記載は、かなり痛いご指摘です。
>当時「義」という文字は使用をかなり厳しく制限されてたと思いますから。
>かなり頑張って「我が家は源氏なので「義」の字を使いたい」と訴えた
>というのが頭をかすめました。
>最近そういうお話をして下さったかたがいらっしゃるのです。
>藩によっては「忠」とか「家」という字を非常に制限してた、と。
>ですから名前の頭に「義」を使ったということは、と考えたのです。
知りませんでした。確かに、その話は納得がいきます。
よって、大島兵庫頭義世の名前からすると「源氏系」という推測になるのですね。
>かなり見えて来ましたね。
>「大」がついた経緯が分かると良いですね。
明子さんや川口さん、隅さん、さちこさん等のご指導内容が、全て関係している感じであります。
本当に感謝をしております。また、よろしくお願いします。
●川口 信様
いつもご指導、ありがとうございます。
塩見播磨守についてのHP等、感謝でした。
塩見姓は、確かに京都府の綾部市・福知山市など塩見姓が多いです。ご近所にも何軒かあります。
他に、大槻姓・上原姓も、綾部市・福知山市には多く残っております。源氏関係の内容も、びっくりしました。
示して頂いた参考略系図では『福知山史談会・会報「ふくち山」所収の芦田完氏の論文』であり大変驚きました。
芦田完先生とは、大志万家に関する文献も研究されていた、京都府史学の研究者と聞いております。
また、芦田先生は、HP記載中の「芦田治部大夫為家」子孫の方と思います。
江戸時代では、武田氏の所領の下で、芦田惣左衛門と大志万忠助が大庄屋をやっていたと前の文献で記載されていました。
>天文・永禄にかけて丹波の雄、波多野氏や内藤氏が、三好氏をまきこんで抗争を繰り広げている隙に
>黒井城主赤井氏は不気味に天田・何鹿郡を蚕食しはじめていた。
この時期に、赤井悪右衛門直正は、黒井城城主荻野家を下克上で乗っ取り、
自ら「荻野」と名乗って、一気に天田・何鹿郡を制圧していたとありました。
その過程の中で「大志万家は赤井家に滅ぼされた」と本で書いてありました。
ここで、祖父の話で面白いことを聞きました。
実は、大志万家は、確かに赤井家に占領されたましたが、本当の合戦はしていなかったということでした。
つまり、大志万家は、赤井家に脅されてか、出鼻を挫かれてか分かりませんが、とにかく赤井家に降伏したそうです。
その後、赤井家に領地をかなり取られたそうですが、反面、大志万一族は生き残り、私市の地に残ったということでした。
>荘厳な感じ、境内には樹齢数百年のケヤキがあり歴史の重みを十分に味あわせくれ、
>真夏でもヒンヤリとした佇みで、石の塀には一両引の家紋が2m間隔ぐらいで付してあり、
>今まで見た神社とは違った趣きでした。
新田神社、十寄神社についてのカキコ、暑い中、心が大変安らぎました。
いい感じのところに、行かれたのですね。
本当に、気持ちが洗われる感じですね。
大島兵庫頭義世についても、ありがとうございました。
「大島」についても、一度調べたいと思います。
また、よろしくお願いします。
[73] | 川口 信さんからのコメント(2002年08月22日 10時48分09秒 ) | パスワード |
十寄神社に行ったお蔭か何か色々と見えてきました。
幕臣大島家は美濃土岐氏流などとよく書かれていますが、「寛永諸家系図傳」の大島系図によればはっきりと新田氏流と記載されている。以下
新田氏流大島家は源義家の三男義国の長子義重が上野国新田郡を開発して新田氏を称するようになった。翻て祖を同じくする新田氏は上毛における開墾領主として、分割相続により支族脇屋、山名、里見、鳥山、大井田、大島、田中、大館、細谷、安養寺、堀口、今井、西谷、世良田氏などの支族を生み、上毛および越後に発展した 。
コメント[33]大島光義及び(隈さんのコメント)[41]旗本大島家の系図(http://www2.harimaya.com/sengoku/html/osima_k.html から以下のようになっている。「日本姓氏家系総覧」(歴史読本特別増刊)及び上記URLの系図には大島周防守義遠は義員―義昌―義賢―義遠となっており、十寄神社の大島兵庫頭義世は義高(左衛門佐)の子供として記載がある。大島光義の系統は義継(大井田)―氏継―義隆―経隆―経兼……この間七代…某―光宗―光義となっている。
土岐氏は清和源氏頼光の子孫光信が美濃国土岐郷に居して地名を姓とする。その流の光衝―光行―光定―光時―光清―光吉(大島)姓を称しており(郡上郡白鳥町大島か、各務郡・土岐郡にもそれぞれ大島村がある)。正長元年(1428)の「建内記」に七代守護持益の京都代官大島入道、また、文明(1469〜87)頃の斎藤利藤書状によれば、郡上上保の代官とし大島弾正忠、土岐三奉行のひとりに大島瑞信の名前を見出せる(谷口研語著:美濃・土岐一族より)が新田氏流とは別流である思われる。
太平記に登場するのは新田氏流の大島家で、旗本大島家の系図には新田系図のとおりに連綿と続いている。が、大島光義の父光宗またその父・某(童名・西翁丸)は生国伊豆とあり、その前の代々の先祖名がはっきり示しているのに二代前が「某」とは何かが隠されているのか?(二代前が分からないとは私には考えられない)
大島光義の父・光宗は生国・丹波とあり(寛永諸家系図傳より)、光義は生国・美濃とあり、この時に美濃大島家と繋がりができたのか?混同したのか、父が偶然丹波生まれなのか、丹波・大志万家と関わりがあるのか。今後の研究課題が増えました。
[74] | 大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年09月04日 12時18分49秒 ) | パスワード |
●川口 信様
いつもご指導、ありがとうございます。
長い間、ルーツを訪ねるべく、福知山へ帰郷しておりました。
色々と教えて頂き、いつも感謝です。
また、改めて書きますのでよろしくお願いします。
[75] | 大嶋好美さんからのコメント(2003年10月17日 22時33分26秒 ) | パスワード |
大嶋を検索してたどり着きました。
こちらの大嶋と先祖が同じかもしれませんね。
埼玉県児玉郡美里町 大嶋農機
[76] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年10月18日 00時29分30秒 ) | パスワード |
大嶋好美さま
もし先祖代々埼玉にお住みですと鎌倉幕府関係や清和源氏系かもですね。
埼玉県史をお読みになりましたら出てるかも。
「大嶋」という名は古事記の時代からその名称がありますから古い古い名字となりますね。
[77] | 高校生さんからのコメント(2004年03月11日 20時27分30秒 ) | パスワード |
初めまして!!大島を検索していたら発見しました!!
すごい詳しい情報がのってて感銘をうけました。
ところで、自分の名字も大島なのです。栃木県在住です。家紋は三つ柏です。
なにかの参考になれればと思います。と同時になにか情報がありましたら教えていただきたいです。
ついでにといったらなんなのですが、母方は和田といいます。徳川家康が譜代大名である戸田さんに仕えていました。出身は三河の国で、戸田さんとともに越後高田、島原、最終的には宇都宮で明治維新を向かえました。このことは私の家に伝わる家伝によって知ることができます。
家紋は丸に花菱です。鎌倉時代に活躍した侍所筆頭和田義盛、藤原秀郷などの人物が先祖としてからんでくるかと推測しているのですが、何か情報はないでしょうか??
新参者のくせにこんなに質問をしてしまってすみません。
[78] | 河口健次郎さんからのコメント(2005年05月08日 12時33分17秒 ) | パスワード |
ちょっと話の脈絡と外れるますが、私の名前は河口健次郎と言います。
当家は長州萩藩士、ご維新まで毛利の側役でした。河口は毛利に仕える以前
は越前に居たようです。越前には今も河口庄(日本最古の荘園:奈良藤原系
の興福寺・春日大社の領地、蓮如の再興の地:吉崎でもあります。現在の福井北部の穀倉地帯)の名前は地元の方には良く知られています。
河口の地は平家と藤原の縁の地でもあります。河口氏は平清盛の幕下で、
藤原の一族でもありました。興福寺・春日大社・浄土真宗ともに寺社紋は
下がり藤です。当家は藤の丸です。河口には春日神社は数十あり、十郷十社は
皆春日神社で、現在1000年際の準備をしており、河口も奈良からその当時越前守護職として送られたようです。平安末期に平氏方でしたが、その後頼朝の狩に出席せず、岡野氏(牧氏)に領地を没収されたようです。
荘園の名前にはそれ以後5百年近く、朝倉氏まで河口の名が残りました。又、本HPを読み戦国には土岐の一族と戦い越前岐阜にて河口一族は武士として生き残ったようで、目から鱗の思いがしました。その後は朝倉方に付いたせいか、戦国末期に信長対抗勢力として毛利方に付き、一向宗・石山本願寺と信長
と戦ったようです(萩の寺の言い伝え)。関が原以後は毛利と広島(吉田郡山)から萩へったようです。現在は東京の南青山に住んでいます。
河口についてもう少し教えて頂けませんか?
[79] | 大島誠二さんからのコメント(2005年07月22日 01時10分25秒 ) | パスワード |
服部明子 様
はじめまして、大島氏の由来について調べていたところ、ここにたどりつきました。
私の名字も大島といいます。
私の父も祖父も出身は愛知県大府市でした。現在は近隣の市に住んでおります。
大府市の中でも、祖父の家周辺は、現在でも大島と名の付く家が多くあります。また、同じ大島でも大嶋の名字を使っている家も同数程あるようです。
大府市の隣市、豊明市及び名古屋市緑区あたりには大嶋または大島の名字を
使う家が多くあります。
私なりに調べたところ、文献によれば、「尾張大島氏は、元、美濃の国(現在の岐阜県大垣市大島町)に住した大島光成で、戦国の時代、織田信長に仕え
一万一千石を領し、後に豊臣秀吉に使え一万八千国を領するも、光成の死後、3人の弟に所領を分地して、それぞれ庶流を出す、また、その庶流の一つが徳川旗本として幕末まで残る」とありましたが、現在、大府市に残る大島氏は
この流れをくむものと考えてよろしいのでしょうか?
知る限りで結構ですので、教えていただけませんでしょうか?
[80] | 服部 明子さんからのコメント(2005年07月22日 12時52分00秒 ) | パスワード |
大島誠二さま
全く分かりませんがわたくしでしたらこのように調べていきます:
・岐阜県大垣市大島町の歴史を調べます。
これには岐阜県や大垣市の教育委員会の歴史編纂課から資料を取り寄せます。
大島光成公の情報をチェックします。家紋も。
大垣でしたら美濃3人衆あたりの動向もチェックですね。
齋藤とか稲葉とか堀田とか
この人達とどういう関係にあったか?
稲葉家や堀田家に取り込まれて関東に行った人達はどうなったか?
織田信長の家臣団の本が出てると思いましたがここに大島氏が載っているか?
いつから織田旗下に組み込まれたのか?
江戸幕府下の旗本の名前の一覧に載っているか?家紋は何か?
これは本が出てると思いますので大きな図書館で見られるかも。県立図書館とか。
でも8万旗といいますから大島氏を見つけるのは大変かもですね。
・大府の歴史を調べる
大府は尾張藩のどこの管轄になるんでしょうか?
愛知県または大府市の教育委員会から情報を取り寄せる。
愛知県または名古屋の博物館に問い合わせて大府関係の分限禄を手に入れる。
・御自分から遡って明治初期の御先祖さまの除籍謄本を取得する。
または御親戚で1960年代あたり迄の戸籍謄本をお持ちのかたがいらっしゃっるか調べる。
身分が載ってるので(士族とか平民とか)
尾張藩の士族でしたら御先祖さまを調べるチャンスがありますから新聞をチェックする。
・まもなくお盆なので一族の長老に御先祖のことを訊き、どこが本家になるのか訊く。
大垣の大島の大島家を調べる。家紋も。
系図を持っている人を訊く。
とにかく家紋もチェックしなくてはね。
家書には家紋の変遷についても書かれている筈ですから
戦国時代の美濃の大島家がどのような紋を使用してたか?
現在の大垣の大島近辺の大島家の家紋が分かると良いですね。
まもなくお盆ですから御先祖さまから働きかけが来てるのかもですね。
[81] | 高校生:山田さんからのコメント(2006年01月04日 20時04分17秒 ) | パスワード |
山田ともうします。私の親戚に大嶋がおります。埼玉県北本市ですが、非常に大嶋が多く、チョット調べましたら、新田系があり家紋も蝶紋.巴紋.丸二引き等有ります。もしかしたら大嶋の出が新田系と為朝系と入り混じっているのか?また、その殆どが北本の宮内.古市場に有ります。お墓もお寺では無く、殆どが一族の墓になっています。とても不思議なのですが。参考まで
[82] | 小次郎さんからのコメント(2006年05月04日 22時03分26秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2010年08月20日 12時04分45秒
[83] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月05日 03時46分40秒 ) | パスワード |
NHKの朝ドラの「ファイト」で四万温泉というのがあって群馬だから
もとはこちらの御出身かな?と。
[85] | 大志万さんからのコメント(2006年06月10日 10時39分15秒 ) | パスワード |
>書き込みをしてくださった皆様へ
いつも大変お世話になっております。
大志万家について、色々と博学のご指導を誠にありがとうございます。
長らくご返答が遅くなり、すみませんでした。
過去の経緯から葬られていたこと、またわからなかった事など、
少しずつ明確になってきたように思います。
引き続き、ご指導のほどよろしくお願い致します。
[86] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月10日 14時14分50秒 ) | パスワード |
お久し振りでございます。
NHKの朝の連続ドラマ「ファイト」が放送されてた時
四万温泉
という所があるのを知って(群馬?)だったら足利?
と連想してました。
御先祖さまのことが分かると良いですね。
最近ある事から御先祖さまを大切にすると陰日向なく助けられるというのを知り
御先祖さまのお墓が分かってたらお墓参りはすべきというのを実感しました。
わたくしも此れまで何度命が助かったか
最近の大きなところでは
2002年7月4日のアメリカの独立記念日のロス国際空港の銃撃事件でした。
いつもと同じ日でしたら巻き込まれて死亡してるか大怪我してるか植物人間になってました。
文字通りの「神風」が吹いたのでこの日は「いつも通り」の所にはいなかったのです。
いつもは3階にいた時刻でしたが当日は「台風」で1階にいたのです。
現世的には仕事にも恵まれましたし経済的にも困ったことはありませんし
御先祖さまに守られているというのを実感しています。
何十年もかけて分かれば良いのですから
御先祖さまに今生かされていることを感謝なさっていらっしゃれば
必ず良いことがあると思います。
人生は長いのですから
長い人生をボチボチやっていきましょう。
[87] | 小次郎さんからのコメント(2006年09月07日 00時54分53秒 ) | パスワード |
大志万さんへ
---------------------------------------------------------------
【 室町幕府奉行奉書案 】(東寺文書 ノ九−十七)
丹波国大山庄内役夫工米事、於東寺領者、可被止催促由候也。
仍、執達如件。
享徳弐 飯尾備前入道
九月十七日 常暹(似た文字で書いてます)
大志万修理亮殿
加藤出羽守殿
--------------------------------------------------------------
【 室町幕府奉行奉書案 】(東寺文書 や十五−号外)
「大山庄反銭支証案文等」
丹波国大山庄之庄内御要脚段銭事、於東寺領分者、来十五日以前
可京済之上者、可被止国催促候由候也、仍、執達如件。
享徳弐 飯尾備前入道
九月廿七日 常暹(似た文字で書いてます)
大志万修理亮殿
加藤出羽守殿
-------------------------------------------------------------
大志万氏は室町幕府の公人で、当時段銭奉行であったことは明白です。
大山庄は現在の兵庫県篠山市大山です。
出典は大山村史 昭和39年 丹南町大山村財産区
兵庫県史の史料編にも所収されています。
[88] | 大シマさんからのコメント(2006年09月21日 01時24分17秒 ) | パスワード |
名古屋の大島と申します。以前より、気になってはおりましたが、新しいカキコミが少なく躊躇しておりました。
身の上の紹介をさせていただきます。
私は現在9代目で、本家は16代目です。家紋は丸に揚羽蝶、新田氏流里見氏もしくは土岐氏の流れだと思われます。本家では新田氏になってます。
代々庄屋をさせていただいたらしく、尾張公からの拝領の品も本家には残っています。当家にも武家の名残も武具などが残っております。
初代は忠右衛門といい、先祖は源氏であり平家でもあるとの話があります。
現在のお寺は、臨済宗東福寺派ですが、昔は曹洞宗であったとも言われております。
仏具、仏壇に関しても現在の様式とは異なり、いろいろな変遷があったことを聞いております。
また寄せていただきます。
[89] | 田中愛造さんからのコメント(2006年09月22日 00時54分52秒 ) | パスワード |
大島様
ネットに(尾張大島氏)で見てください、以後の系図が載せられて居ります。又、寛政譜も照らし合わせると全てが理解されると思います。
[90] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年09月22日 01時14分03秒 ) | パスワード |
では展開させまして<21>を御覧ください。
ここにコピー&ペイストしますね。
[21] 川口 信さんからのコメント(2002年07月21日 14時51分03秒 )
大志万さん 初めまして。
大志万姓について。発想を変えて「大島家」で検索したところ豊臣秀吉公に仕えた大島光義にたどり着きました。
旗本大島家の項目です。
家紋:揚げ羽蝶/梅
清和源氏新田氏流。美濃の大島に住んで大島を名字とした。大島光成は信長、秀吉に仕えて一万五千石を領したという。関ヶ原の役を機会に家康に従った。その跡は三人の弟に分知して、されぞれ庶流家を出している。同じ揚げ羽蝶紋を使用しており、この関係を調査するのも良いかも知れません。だけど源氏とありますが。
あくまでも推論ですが貴「大志万家」がこの大島家関係だとしたら、もしかして足利尊氏でなく足利義昭から大志万姓を拝領したかも知れませんね。
岐阜には足利義昭に滞在し、織田信長は義昭を奉じて上洛したことは有名で、その近辺には明智光秀などおり、これで美濃から福知山にも関係してきますが。この岐阜大島家で桔梗紋を使用した家もあります。
これですね。
[91] | アカコッコさんからのコメント(2006年09月22日 14時14分41秒 ) | パスワード |
上記コメントを読み返し色々と思い出しました。
他スレ「京都時代MAP/安土桃山桃編」にも書き込みましたが何故(大志万さん)のところで大島光義にあんなに肩入れしたか、先祖からの付き合いが知らずしらずのうちに脳に刷り込み(インプット)されていたのかもしれません。
以前調べたことですが。
鎌倉幕府が倒れて、かわって後醍醐天皇を首班とする建武政権が成立すると、麾下にあった里見一族の活躍も、それなりのものだったに違いない。当然建武政権からの論功行賞は、新田党の面々に厚かった。
従四位上 新田義貞・左兵衛督兼上野介兼播磨守、武者所別当
正五位下 里見義俊・式部大輔(脇屋義治の後任)
従五位下 大島義政・兵庫頭のち讃岐守、武者所寄人
(・はいずれも延元元年四月以降)
などとあります。大島光義は上記新田党の末裔で、後醍醐天皇繋がりになります。
また尾張藩士系図『士林泝・』の家紋には大島家が四家乗せられておりますが。
大島家:
丸に揚羽蝶・九曜・組合井桁・丸に違畳扇などの紋を使用しているのがみられます。
名古屋の大島さんもご存知の事ドシドシ投稿下さい。お待ちしております。
[92] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年09月23日 00時38分04秒 ) | パスワード |
>従五位下 大島義政・兵庫頭のち讃岐守、武者所寄人
南朝方の御友達・御仲間ということになりますね。笑
やはり遠い昔の御先祖さま繋がりで血が騒ぐのでしょうね。
DNAに過去の記憶が刷り込まれているから
そう思うのが合理的なんて書いて良いのかしら?
ふふふ
隈さん御紹介の地図にも大島家邸宅跡が記されてますから
御先祖さま達が主張してるんでしょうね。爆
[93] | 田中愛造さんからのコメント(2006年09月23日 02時17分34秒 ) | パスワード |
大嶋氏(義家流)里見伊賀守義成の子蔵人義継は、美濃国に住し、大嶋をもって家号とし大嶋蔵人を称えた。家紋・三連揚羽蝶、梅花、笹竜胆。
清和天皇ー貞純親王ー源経基(六孫王、左馬頭・鎮守府将軍)−満仲(多田、左馬允・鎮守府将軍)−頼信(鎮守府将軍)−頼義(鎮守府将軍)−義家(八幡太郎、鎮守府将軍)−義国(足利、式部大夫・加賀介)−義重(新田太郎、九条院判官代)−義俊(大新田太郎、新田六郎、里見冠者)−義成(里見太郎、里見冠者、伊賀守)−義継(大嶋弥太郎、大嶋大井田蔵人、義実)−氏継(大井田三郎、兄弟大嶋修理亮時継)−義隆(蔵人・左兵衛尉、義澄)−経隆(従五位下・蔵人大夫)ー経兼(従五位下・民部丞、兄弟弾正弼氏経・左馬助讃岐守経世)ー兼経ー光兼ー光継ー義勝ー光泰ー忠右衛門ー忠右衛門ー覚右衛門ー惣助ー文蔵ー宇右衛門(兄弟仁右衛門・木宗)−十右衛門(兄弟宇兵衛)ー安太郎(兄弟宇右衛門の子近蔵・竹三郎・宇吉)為三郎=宇吉(宇右衛門の子)=慶次郎(竹三郎の子、兄弟藤次郎・仁三郎)ー武(従兄弟一郎は藤次郎の子)・・
[94] | 田中愛造さんからのコメント(2006年09月23日 02時36分35秒 ) | パスワード |
新田流大嶋氏に関しては、大名家・旗本家・尾張家臣家・加賀家臣家・在地帰農家と其の一族は膨大で、書き表すには紙面が足りません。一冊の本が出来ます。
必要のみに留めます。 以上。
[95] | 大シマさんからのコメント(2006年09月23日 17時21分21秒 ) | パスワード |
田中愛造様
[93] の先は
武(タケルと読みます)(従兄弟一郎は藤次郎の子)ー勉ー正とつづきます。
宇右衛門(兄弟仁右衛門・木宗)の仁右衛門がウチの初代になります。
ご存知のことがあれば、またお教えください。
[97] | 小次郎さんからのコメント(2007年03月06日 18時52分24秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2010年08月20日 12時03分37秒
[98] | 岡野正昭さんからのコメント(2008年04月04日 09時26分19秒 ) | パスワード |
河口健次郎さんの越前河口荘でのご先祖が頼朝の命で岡野氏(牧氏)に領地を没収されたということですが、福知山牧にも同じ伝承があり平家残党討伐のため丹波河口荘の河口氏を牧左衛門が頼朝の命で出撃したと伝えられています(福知山城天守閣に記録あり)池の禅尼の子平頼盛の知行地でいとこの関係にある牧の方(頼朝義母)の後ろ盾もあったと丹後誌にも書かれています、牧の方の父牧宗親は駿河岡野牧の荘官でしたので岡野氏(牧氏)という苗字となったものです、私の十三代先祖は江戸幕府旗本牧長勝であり、その長子牧左兵衛尉家恒は丹波山家藩主谷衛友が伯父となり、石山本願寺、下間頼廉が母方の父でもあります、丹波では岡野氏も牧氏も大庄屋を勤めています、荒木村重の伊丹城での信長謀反により一族が殺害され丹波に避難したと伝えられ岩佐又兵衛はその後の調べで従兄弟になるようです私は若狭牧家の長男に生まれましたがご神託により伯父岡野家の猶子となりました、院殿号、院号が四百年間つづいている事と通字(正)が続いている家の伝統であります。
[99] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年04月05日 01時09分11秒 ) | パスワード |
>私は若狭牧家の長男に生まれましたが
>ご神託により伯父岡野家の猶子となりました、
>院殿号、院号が四百年間つづいている事と通字(正)が続いている家の伝統であります。
「家」って大切ですものね。
なかなか続けられるというのは難しいことです。
>池の禅尼の子平頼盛の知行地でいとこの関係にある牧の方
こういうこともありましたか。
歴史の人間関係は奥が深いですね。
貴重なお話をありがとうございました。
[101] | 大槻さんからのコメント(2008年04月09日 04時00分53秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2009年08月15日 18時05分34秒
[102] | 大嶋有喜さんからのコメント(2008年07月19日 05時30分08秒 ) | パスワード |
初めまして。
東京で一人暮らしをしています。
先祖について以前から興味があり、このHPの存在は前から知っていましたが、
初めて書き込みさせて頂きます。
父親の実家は、愛知県 大府市 横根町というところにあり、
非常に大島・大嶋性の多い土地です。
馬瀬性と合わせると8割程度でしょうか。
たまに墓参りに行くと、半分以上が大島家・大嶋家の墓です。
残念ながら、両親の結婚時の事情などから親戚付き合いもほとんど
無かったので、先祖のことについて話を聞く機会もなく、
両親も名古屋から関東へ越してきてしまったので、もう親戚から
詳しく話を聞く機会は恐らく無いでしょう。
ただ、一度、父親から
「横根町の大嶋家は、もともと今川義元の家来が桶狭間で織田信長に破れ、
そのまま(桶狭間の南数キロにある)横根に定着した末裔らしい。」
と聞いたことがあります。
そのような話はこのネットで調べていても全く検索されませんし、
どの程度信憑性のある話かは全く分かりませんが。
このHPの内容を拝見していると、大嶋・大島家は武士の流れのようですね。
子供の頃、法事などで集まった祖父や伯父たちの顔を今思い出すと、
割と精悍で目鼻筋の通った顔つきが特徴的で、武士の雰囲気も感じさせるものでした。
以上、つらつらと脈絡も無く書いてしまいました。
将来、先祖について詳しく調べる機会を持てればと思っています。
よろしくおねがいいたします。
[103] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年07月19日 09時58分28秒 ) | パスワード |
大嶋有喜さま
初めまして。
全く分りませんが
1.大府教育委員会編纂の大府の歴史資料を頂く
2.静岡の教育委員会から今川家関連の資料を頂く
3.群馬県でしたっけ?足利家関連の資料を手に入れる
こんな感じで資料を集めまくって読みまくることですね。
大府の歴史によれば
飛鳥時代 惣作遺跡(横根町)というのがあったそうですよ。
ということは特別なエリアで古くからひらけていた
ということになりますね。
また
天正年間に梶川五左衛門が横根城を築城
とありますから
水野家との関係やら
いろいろ面白い話が出て来そうですよ。
状況証拠からしますと
やはり足利家関係の御先祖さまだったのでしょうか?
戦国時代まで御先祖さまが日本中を駆け回っていた御様子が目に浮かぶようです。
織田信長との桶狭間の合戦で敗れて落人になって横根村に棲みついた。
この事実の裏には大嶋家と横根村の関係があったからですよ。
だから横根村に隠れ棲むことが出来た。
それがどういう関係だったのかは資料を読みませんとね。
ムカシ横根村に所領があったとか
親戚がそこに残っていたとか
そういうことで横根村で命を繋いで来たのです。
歴史的に最低足利家関連から読んでいきませんとね。
横根のあたりは今川の勢力だったでしょうから北朝方の歴史も読んだらいいですよ。
[105] | アラキさんからのコメント(2008年08月06日 00時34分05秒 ) | パスワード |
皆様、初めまして。
我が家に伝わる話がどうにも眉唾もので、色々ネット検索していて
平家の関係の子孫の方の家紋スレッドからこちらにたどり着きました。
私の家は 伊賀服部郷荒木村 の出だそうで、姓もそのまま、「荒木」です。
伝わっている話では、もともとは服部の一族だけど婚姻で平氏となり(逆?)、
壇ノ浦後に現在の福岡に落ちのびたということです。
以来福岡在住で、江戸時代は秋月藩に仕えていました。
逃げて隠れても平氏だということを忘れないように、とのことで
必ず本家の男の名前には「平」の一字を入れるという決まりがあり、今も守られています。
でも何故か家紋が「丸に違い鷹の羽」です。
曽祖父の代に分家となり、曽祖父、祖父と早逝した為、残念ながら現在本家との関わりは途絶えています。
親戚とも色々あったそうでほぼ絶縁しているのでそのあたりからの情報も集められず…
父は幼少の頃、本家に出入りし家系図等さまざまな物を見て、出自を言い聞かされてきたそうなのですが、
ここのコメントを拝見するに、記憶が都合のいいようにミックスされている気がします…うーん(笑)
[106] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年08月06日 09時26分45秒 ) | パスワード |
アラキさん
家紋から御先祖さまを辿ることは、物凄く不確実なのですよ。
殿様から紋を拝領したり、殿様より格上になってはいけないから変更したり、本家に遠慮して替えたり、
本家と喧嘩して変えたり、
普通の日本人の家は家紋っていくつかあると思いますよ。(我が家もいくつかありますよ)
最近は紋は1つに限って使用するようになっていますから、その家紋からは御先祖さまのことは分らないですよ。
>でも何故か家紋が「丸に違い鷹の羽」です。
こうなった経緯というのが普通は家書に書かれているのですが
家書が伝わっていないと
なんで「丸に違い鷹の羽」紋なんだ〜?
ということになります。
ですから
>我が家に伝わる話がどうにも眉唾もので
これは絶対クチにしてはいけません。笑
お宅さまに伝わるお話がお宅さまのアイデンティティなのです。
細かい部分のお話が飛んでいるから「眉唾物」に思えるだけです。
1番良いのは三重県の教育委員会や伊賀上野市の教育委員会から史料を取り寄せましょう。
・伊賀服部郷荒木村
・荒木姓
・もともとは服部の一族だけど婚姻で平氏となり(逆?)、← 11世紀の時の話かもね
・通字が「平」
・壇ノ浦後に現在の福岡に落ちのびたということです。
もう本貫地が伊賀伊勢出身のバリバリの平家の御子孫じゃあないですか。
確かに11世紀に桓武平氏の子孫が伊勢伊賀に来た時に
ムカシっからいた伊賀の名家の服部氏と婚姻して服部姓を名乗り、姓を平氏に変えた、
ということかもですね。
(血取りとか地取りとかね)地と血で関係が出来たということですよ。
平家が活躍するのはもう少し後になりますから、それまでに何重にも婚姻で服部氏と平氏が結んでますから
どっちにしても服部氏・伊賀平氏は同じことですよ。
いろいろな事情で九州に住み続けたわけで
途中で南北朝の戦いもあったから
伊賀伊勢の一族とも交流があったはずですし
同じく平家の他流の皆さんとも交流があったでしょうし
ですからお宅さまに伝わるお話がお宅さまのアイデンティティなんです。
>記憶が都合のいいようにミックスされている気がします…
いえいえ
細かいところが伝わっていないからですよ。
どなたか家書を持っている人が見つかると良いですね。
「平家系荒木家懇親会」をお始めになって情報を集め整理なさったら良いのですよ。
もうすぐお盆ですから御先祖さまが「アラキよ、お前がそういう作業をしろ」とおっしゃってるんですよ。
ライフワークとしてなさってはいかがでしょう?
[107] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年08月06日 09時52分32秒 ) | パスワード |
荒木又右衛門の一生をお読みになってはいかがでしょう?
彼もいろいろな姓に変えたりしてますし
服部姓にしたり荒木姓にしたりまたまた別の姓にしたり
結局は荒木姓と服部姓は切っても切れない関係ですから同じことなのに。
でも彼の中では彼なりのアイデンティティがあったのでしょう。
こういうところはアラキさんには共感するものがあるかも。
また荒木又右衛門が若死にして
そうしますとね
いろいろな藩主が荒木又右衛門の一族の者を抱えるということもあったでしょうし。
「鍵屋の辻」事件の荒木の一族の者は抱えたかったと思いますよ。
ちょうど赤穂浪士の子孫が重宝されたように。
それでひょっとすると九州にいる遠い親戚の家に伊賀から養子に入ったということも考えられますしね。
可能性は限りなくあります。
ですからお宅さまに伝わるお話の謎の部分をいろいろな教育委員会発行の史書で埋め繋いだら良いのですよ。
[108] | 大志万さんからのコメント(2008年08月25日 22時27分10秒 ) | パスワード |
はじめまして!私も福知山の大志万です確か家門も丸に揚羽蝶だったと思いますちなみに興村のダメな長男です。おじいちゃんは校長もしていました。私の親父も亡くなりました。何か縁を感じました
[109] | 大島さんからのコメント(2008年09月02日 17時06分52秒 ) | パスワード |
仙台藩儒臣の家系で私で、仙台藩家臣として12代目の大島です。
家祖は、大島俊則伊左衛門と名乗り、1600年ごろの生まれであります。
この人は、越前の浪人で、申楽師として伊達政宗に召しだされたとあります。妻は土岐氏の出とあります。
家紋は、丸に桔梗であります。
さて、大志万さまのプログ大変興味深く拝見させていただいております。
この中でたびたび登場する大島光義の三男光俊(迫間大島家)と、当家がなんらかの関係があるのではと推測しております。
・大島光俊の生年が、1572年であり俊則は子息である可能性がある
・光俊は、久左衛門とも称していますが、俊則は伊左衛門を称し、俊則の二人
の息子も仲施四郎左衛門、仲敬義左衛門を称していること。
大志万さま、私は大島家に深い敬意を表するものの一人でありますが、
貴方も同様に敬意をもっていらっしゃる方だと感服しております。
(明智光秀公は、かつて福知山で善政を施し領民から慕われたとあります。
明智家の家紋は、桔梗紋でありますし、足利支族の所領も福知山にあったと記憶しておりますが・・・)
今回の愚話、何かのご参考になれば幸いと存じております。
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