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 投稿番号:100332 投稿日:2002年07月16日 04時50分47秒  パスワード
 お名前:『迷える子羊』
『為朝』が琉球王朝を開いた?
キーワード:『中山世鑑』『椿説弓張月』
コメントの種類 :書籍・文献
本人によりコメントは削除されました。 2004年05月25日 11時41分10秒
[1]服部 明子さんからのコメント(2002年07月16日 08時50分35秒 ) パスワード
  

推古天皇の24年(616年)
沖縄から30人帰化した、と日本書紀に出ているそうです。

ですから4〜500年の間に日本人が沖縄に行ったり
沖縄の人が日本に来た
というのはありえると思います。

そこで出て来た為朝の沖縄征服ですが
ロマンはありますが
どうなのでしょうね?
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年07月16日 09時05分25秒 ) パスワード
  

参考になさって下さい。
http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100234_5.html
保元物語の20章に為朝が鬼ケ島に行った話が出てますね。
これが元のお話かと思います。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/9333/hog.html
[4]『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月16日 12時05分48秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年05月25日 11時41分25秒
[5]『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月16日 12時16分58秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年05月25日 11時41分38秒
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年07月16日 13時09分07秒 ) パスワード
  

スレッドの重複は構いません。
検索でいろいろ出て来て嬉しいのですから。
ご心配なく。


例の船長さんの漂流事故は
長崎?から鹿児島・四国沖・和歌山沖・そして千葉沖でしたっけ?
その次の海流では、ハワイ方向に流されるところだった、とテレビでやってました。


伊豆大島で死んだ?
八丈島で死んだ?

どこで亡くなったのかハッキリしないですよね。
伊豆の狩野が本当に始末したのか
これだって謎ですよね。

治承1年3月6日に亡くなったことになってるけど

潮の流れからは伊豆から奄美大島方向に行くとしたら逆方向の上
その途中の和歌山とか四国での噂は?
佐賀県には為朝伝説があるそうですがどうしてでしょうね。


私は「椿説=鎮西」だと思い込んでいるのです。
何故か分からないけど子供の時から。
奄美大島に行ったというよりは九州北部に隠れてた
という思い込みがあるのですよ。
そこから奄美大島に行ったというなら納得が出来るのですけど。


私には「伊豆」と「肥前」が繋がらないのです。
大男という話ですから陸路では目立ちますから
やっぱり海路だったのかな?と。
そうすると海流から当時は大変過ぎただろうな、と。


題名は忘れましたが滝沢馬琴には宇宙船?のお話があります。
確か流れて来るんだった、ような。
美女が中にいた、って。


狩野の動きも納得いかないし。
ホント謎です。
[7]『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月16日 14時33分12秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年05月25日 11時41分54秒
[8]礫の紀平治さんからのコメント(2002年07月18日 23時01分38秒 ) パスワード
  

横からすみません。
面白い仮説だと興味深く読ませていただきました。

馬琴の「椿説弓張月」における為朝の白峰での話はさらに前があって、礫の紀平治と為朝の妻白縫による崇徳奪還計画(平治の乱時)が布石となっています。
しかし、「保元物語」と「中山世鑑」を併せて下敷きにしたものが「弓張月」とすると、この場面は二つの物語のいずれにもない取って付けたような挿入です。

私が考えるに、馬琴はどうも、四国出身の誰かにその当時四国に伝わっていた伝説を聞いて加えたのではないかと思います。
というより、保元物語と中山世鑑を重ねること自体、誰かからヒントを貰ってるような気がします。

多分、着想は当時流行っていた上田秋成の雨月物語でしょう。
そして、中山世鑑などという一般に知られていない歴史書を馬琴に紹介したのは、植物学において琉球に詳しかった讃岐出身の平賀源内だと考えています。

源内は讃岐に根強く残っていた崇徳暗殺説をベースに崇徳の隠し子(顕末)の逃亡説を立て、保元物語と中山世鑑の矛盾の謎を解こうとしたのですが、それによって時の権力に暗殺されていまった源内の末路を見た馬琴は、ビビって、単純にこの二つをくっつけて物語りにしてしまった。
しかし、それでは源内に対する寝覚めが悪かった馬琴が償いとして無理矢理挿入したのが崇徳奪還未遂と為朝白峰詣でだと私は解釈しています。

要するに舜天王は為朝の子ではなく、崇徳の子である可能性があると思います。
当然、これには重仁親王も関わっていると考えられますし、西行だって一枚噛んでる。
さらに、この逃亡には緒方惟栄と河野通清も深く関わっていると思われます。

実は香川県から徳島県にかけて、崇徳ゆかりの人物の逃亡ルートを示す痕跡(神社祭神)が点々と連なっているのです。

私はこれを10年近く、追い続けています。

[9]『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月19日 09時08分24秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年05月25日 11時42分13秒
[10]『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月23日 21時19分00秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年05月25日 11時42分35秒
[11]礫の紀平治さんからのコメント(2002年07月24日 21時13分03秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年07月24日 21時23分51秒
[12]礫の紀平治さんからのコメント(2002年07月24日 21時56分25秒 ) パスワード
  

迷える子羊さん、旅に出られるのですか?
新たな発見があるといいですね。

私は、為朝の肥後出航はやむを得ずの創作だと思っています。
為朝の白峰詣でを書いた関係上、瀬戸内ルートでの阿蘇帰国は当然ですし(為朝が平家を恐れて瀬戸内を迂回したとは到底書けない)、そこから琉球へ流れるとすれば肥後出航とならざるをえないでしょう。もし、京都へと攻め上るつもりなら豊後出航となるのが自然ですから、無理矢理作ったとしか思えません。

それよりも、むしろ、私は琉球行きは意識的だったと思っています。
それも、為朝ではなく、為朝の家臣団に守られた崇徳上皇の子が国外逃亡を図ったのだと思います。

なぜ、琉球だったか。
それは先導者が海賊だったからです。
特に、臼杵水軍は琉球ルートで来る宋船を狙って奄美方面を猟場としています。
琉球ルートは彼等にとって庭みたいなものです。

その臼杵水軍の頭領は緒方惟栄です。彼等は為朝による九州制圧時に為朝の配下に入っているはずですから。
さらに、河野水軍も加わった可能性があると思いますが、源平以前の平家が最も強い時期の話しですから、河野水軍が総体で動いたかどうかは微妙です。

ただ、その当時は瀬戸内海の制海権は安芸の平家水軍が握っていますから、瀬戸内海ルートによる逃亡は困難だったと思われます。
そのため、彼等は四国の山人(忌部一族や大神一族など=後の南朝方山岳武士団の原集団)と連携し、四国山脈を越えて紀伊水道に出、そこから四国の南岸沿いを琉球に向かったのだと思っています。

この考えのもとになったのは琉球王朝の祖、舜天王の生まれ年です。
彼の没年とその時の年齢から逆算すると、生年は1164年になり、崇徳没年です。
その頃、為朝はまだ伊豆大島です。
少なくとも為朝が琉球で浦添安司の娘に産ませた子ではあり得ません。

では為朝が伊豆で産ませた自分の子を連れて黒潮に逆らってまで琉球に行く必要があるか。答えはノーでしょう。あくまで再起を図るなら豊後です。

馬琴も礫の紀平治を琉球出身としています。
どうしても琉球に詳しい人間が必要だったのでしょう。

もし、舜天王が崇徳の子なら、琉球王朝は日本の王朝と対等な関係になってしまいます。いや、天皇家すら怯える怨霊天皇の子孫だとしたら、あだや疎かにはできないはずです。
琉球を属国支配していた島津藩にとっても幕府にとっても極めて都合の悪い話だったでしょう。
ところが平賀源内がその秘密を暴こうとした。
そのために慌てた幕府が彼を獄につなぎ、暗殺した、というのが真相ではないかと思っています。

明治天皇が東京遷都に際して、崇徳陵を詣でたのも、当時、崇徳怨霊伝説が復活していたからでしょう。

追伸

上の投稿削除は文書作成途中での投稿です。ごめんなさい。
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