くりらじ アクアジャンクション シャベリン(アーツ)
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
 投稿番号:100325 投稿日:2002年07月07日 00時25分02秒  パスワード
 お名前:丸に抱き茗荷紋の大橋氏の代理
薬屋の小西家+丸に抱き茗荷紋の大橋家

コメントの種類 :その他  パスワード

以下のメールを頂きました:


はじめまして。突然のメール失礼します。
私は現在、静岡県清水市に住んでおります大橋と申します。
以前より大橋家のルーツを知りたいと思っておりましたところ
大橋家について語られているHPを発見しお邪魔したところです。

@私の先祖は大橋茂右衛門という人で福島正則の上代家老をしていた。
A先祖は静岡県掛川市に流れそこで 「小西屋 」という屋号で薬問屋をしていた。
B現在の掛川駅周辺の土地を所有していた。

これが私の唯一知っている先祖の事です。
ちなみに現在も掛川市の真如寺にお墓があり
そこにはかなり古い墓石が何個かあります。
その墓石にも「小西」という屋号の記されたものがありました。
ただかなり風化がすすんでおりそのほかのものは解読がかなり困難です。
家紋は丸に抱き茗荷です。

何かご存知の事がありましたら
どんな些細な事でもかまいませんので教えていただけないでしょうか?
どうぞよろしくお願いいたします。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年07月07日 00時32分40秒 ) パスワード
  

日本史上
薬屋さんで小西さんとおっしゃると
堺の豪商・小西隆佐の次男のかの有名な「小西行長」を連想しますが。

小西行長は太閤秀吉の朝鮮出兵では加藤清正と対立したので
加藤清正の親戚の福島正則の家来になってるというのは?と思いましたが
行長の兄弟かも知れませんから
縁は確かにあったと思います。

小西隆佐の子供達を調べたらご先祖さまが出て来るかも、です。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年07月07日 00時46分41秒 ) パスワード
  

大橋家は後醍醐天皇ゆかりのそもそも愛知県西部の名家ですし
その後太閤秀吉がらみで尾張の名門となった加藤・鬼頭(福島)家とも
縁はあったと思いますし
家康がらみで静岡に移住したのも分かりますし

薬屋さんで小西さん親子と言えば小西隆佐・行長親子でしょうね。
大坂の役で処刑された小西行長の件で遠慮なさって本業に戻られたというのも分かります。
実際にそういうお方が大坂にもいらっしゃいます。

福島家も断絶になってますから小西家ご一族はご本業の薬屋さんに戻ったという事でしょうね。


ミョウガ紋は平氏の川口氏の紋というのは私の本にも出ています。
大橋さんもミョウガ紋だったのかも。
小西行長が「利家とまつ」に出て来るでしょうから
その時の紋をしっかりビデオに録られると良いと思いますよ。

でも違っててもガッカリなさらないで下さい。
紋って各家いろいろ複数あるのが普通ですから。
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年07月07日 00時55分06秒 ) パスワード
  

小西さんという一族は日本史上でも理工系に強い一族のようですよ。
私の本にそう書いてあります。

小西薬品とか
日本臓器製薬会社とか
武田製薬副社長とか
小西儀助商店とか
薬品系の一族であり

また日立工機社長の小西嘉雄
工学博士の小西謙三+小西一郎
その他

そういう家系のようですよ。


大橋氏とどう繋がっていったのか興味は尽きないですね。
[4]服部 明子さんからのコメント(2002年07月07日 01時10分02秒 ) パスワード
  

大橋家というのは南朝方で後醍醐天皇の親王を頂いて信州?浪合村まで転戦した、
という家で、この皇子さんの子供?と大橋家の娘が結婚もしてます。
その子供が服部家で亡くなってるのかな?

徳川家も一応新田義貞の4男という触れ込みで南朝方だったのです。
それで徳川家は源氏を称しているのですけど
明治維新で「浪合記」という軍記物が歴史的に否定されたのです。
新田義貞に4男なんていないとかなんとか。
(ま、これは徳川氏を滅ぼした明治政府の政治的判断なんですが)
オトコというのはアチコチに子供を作りますから否定も出来ないと思いますけどね・・・


大橋家というのは徳川時代はそういう意味で重んじられた家だと思います。


江戸時代に昔の有名な家の子孫を捜して来て召し抱えたので
南朝方の大橋家でしたら当然召し抱えられたと思います。
その前の段階の秀吉時代でしたらもっともっと召し抱えられた可能性は高いですから
福島正則の伝記をお読みになるとご先祖さまの大橋茂右衛門という方が出てるかもです。
[5]川口 信さんからのコメント(2002年07月07日 06時57分38秒 ) パスワード
  

 出遅れましたが隈さんのスレッド「茗荷紋の服部氏」の[6]に書き込みましたが大橋茂右衛門は福島正則の家来に確かにいました。
 このところマシンが立ち上がらなくなって、ふるいマシン98を引っ張り出してやっと書いております。ご本人がこちらに登場していただければ嬉しいのですが。お待ちしております。
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年07月07日 09時20分35秒 ) パスワード
  

川口さま
凄い記憶力ですね。
引っ張って来ました:詳しくは下記URLを参照なさって下さい。

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100311_10.html
[6]

川口 信さんからのコメント(2002年06月11日 20時19分33秒 )

大橋茂右衛門は福島正則に仕えて、武功が多く、
のち池田家に仕えて子孫は備後岡山にあるという。
以前川口家も福島家に使え三原に居たと書いたことがありますが
備前福山とはなれている。

茗荷紋は多くの支族に共通して使われており、
主従関係とか縁戚関係から探すより方法がないかも知れませんですね。
[7]服部 明子さんからのコメント(2002年07月07日 09時27分40秒 ) パスワード
  

徳川家康の生母の母である華陽院の出身が大橋家と縁があるとも言われ
華陽院は旧愛知県の殿さまの間を転々とした経緯もあり
大橋家より出た川口家とも縁があり
とにかくヤヤコシイお気の毒な女性なのですが

大橋家と徳川家は浅からぬ縁がある為
静岡に大橋家のご子孫がいらっしゃるのは
何重にも理由があるのです。
[8]川口 信さんからのコメント(2002年07月07日 10時33分04秒 ) パスワード
  

 我其昔芸州広嶋に在候時、福嶋伊与守宅の書院の雪隠に化物有。夜厠に行者をは必臀を 撫る。其手毛生て爪長しと言。暮ては其厠へ行者なし。殊に座敷より弐拾五六間も遠ふ して植篭の内也。或夜伊与守方へ武藤修理・坂井主膳・大橋茂右衛門・牧主馬・村上彦 右衛門なと夜咄に行。判団右衛門も行。夜半前に団右衛門厠へ行。亭主心得て小姓に手 燭持せ、供に遣。団右衛門は何心なく手燭請取、厠へ行、用を達する。厠の上に二抱程 成る大松に蔦這、茂りたる梢は十二三間も高し。其梢より何共不知蔦の葉鳴りさはき物 の伝下る音して厠の屋ねへ飛下る。其足音大男なとの足音也。団右衛門吃と驚思ふに 「内々世間に言習はす化物ならん」と思ひ居たるに、厠の屋ねより内を差のそく。其面朱 をぬりたることく、眼の光鏡のことし。牙を噛出しさなから鬼面に似たり。・・・「武辺咄聞書」・第26話より。

 「津島の歴史・本文」より
 http://nagoya.cool.ne.jp/yomagi/tsushimanorekishi.htm
 大橋氏の、奴野屋荘園役所の地頭就任の年代を補佐するものに、同家に菩提寺で日蓮宗本蓮寺の創設年代があげられる。[津島町史]に『妙栄山と号し、肥後の大橋太郎左衛門通貞の子、一妙丸貞経の創建したものだ。尾張に来り愛知郡中根村(名古屋市瑞穂区)天台宗法華堂を造立した。元中九年(1392)その家臣の末裔志願を発し、津島布屋(奴野屋)に移寺して本蓮寺を開山した』と書く。山号には一妙丸の『妙』を取り入れ、文内容のごとく彼の一族に繁栄を祈願して建立したのである。このことから、大橋太郎左衛門が奴野屋に入り、その子一妙丸が跡を継ぎ、津島に定住を決めた。その時点で中根村から菩提寺を移寺し本蓮寺を創建したのだ。なお大橋家家系図には一妙丸は記述されるが、年代が五〇年ほど溯っており、寺創建の年代は確定できない。系図は[並合記]が近世初頭に発刊されてから、それにあわせて操作した気配が見受けられることから、筆者は寺伝の方が年代的には正確と想定する。この事実からも、南北朝時代に入ってから大橋氏が奴野屋城に居を構え、南朝勢力が衰退を始めた元中九年に本蓮寺を建て、荘園に依存しない活動の発展を願ったと思われる。
 
 以上により日蓮宗関係、茗荷紋関係、大橋家より出た中根家では丸に茗荷、揚羽の蝶、五七桐紋などを使用しておりますが、五七桐は松平の紋なり、中根但馬守正次(母は服部石見守保長が女)が中根の名を継ぎ家紋とした。はじめは葵の紋をも紋として使用していたが今は用いずとあります。
[9]服部 明子さんからのコメント(2002年07月07日 12時14分00秒 ) パスワード
  

昔のお便所はホント怖かったですからね。
今の水洗トイレでさえ手が伸びて来たらどうしよう
なんて夜中には思います。

こんなお話が昔からずっと続いてあるのですねぇ。
面白いですね。
[10]大橋佐知子さんからのコメント(2002年07月07日 16時22分33秒 ) パスワード
  

はじめまして。昨夜、服部様に代理としてこちらに投稿していただきました
大橋と申します。
短時間でこんなにも大橋家について知ることができ大変感謝しております。
今度、真如寺に行って過去帳を調べて何かわかった事がありましたらお知らせいたします。
また、お邪魔しますのでその時にはどうぞ宜しくお願いいたします。

[11]川口 信さんからのコメント(2002年07月07日 16時55分50秒 ) パスワード
  

 大橋佐知子さん 初めまして。お仲間が増えて喜んでおります。
 
 真如寺について検索しましたらびっくり「於大の方」の所縁の寺でした。その孫にあたる松平遠江守定吉のお墓があるそうですね。「於大の方」と川口文助宗吉は異父同腹の姉弟であります。

■遠江守定吉の出生
 定吉の父松平隠岐守定勝は、家康の異父弟である。家康の実母伝通院お大の方が政略結婚の末に阿久比城(愛知県知多郡阿久比町)の城主久松佐渡守俊勝に婚して生んだ三人の男子の一人が松平隠岐守定勝である。長男が康元、二男康俊、そして三男が定勝である。お大の方が末子の定勝が豊臣家に養子に出される話が進んだとき、兄源三郎康俊の二の舞いになるのでは‥‥となげき家康を説き、一旦は決まっていたこの人事を解かせて定勝の代りに家康自身の子於義丸(結城秀康)を養子にさせたという事が『藩翰譜』にみえている。
 大名再配が行なわれたこの時期、重用されていたのは井伊直政、榊原康政、本多忠勝ら、いわゆる三人衆で、松平一族は比較的軽視されている。家柄や一族にこだわらない家康の合理主義がうかがわれる。

 
[12]さんからのコメント(2002年07月10日 17時36分52秒 ) パスワード
  

大橋佐知子さん

どうも初めまして。平熱に時々お邪魔させて頂いている、隈(くま)と申します。
最近多忙のため、ご挨拶がすっかり遅れてしまい、申し訳ありません。

私は主に母方の祖母の先祖を調べていて、このサイトにお世話になっています。

先祖の姓は明子さんと同じく『服部』ですが、広島県の出身で、家紋が大橋さんのお家と同じ、『丸に抱き茗荷』です。

尾張大橋氏の一部が福島正則に付いて広島に移動した名残りでしょうか、広島県尾道周辺の代官の名にも、大橋姓が見られます。彼らは福島氏が改易されて広島を去った後もここに残り、福山藩(広島藩は福島氏改易後、広島藩と福山藩に分かれる)に再就職したのではと思われます。

広島藩は毛利氏が防長移封された後、福島氏が尾張から大勢の家来を引き連れて来た訳ですが、
その後福島氏が改易され、たくさんの尾張出身の武士達が再就職先を模索しなくてはならない羽目になったそうです。他の藩に再就職した人も居ましたし、帰農した人も少なくなかったそうです。

だから、大橋さんのご先祖様も、その時転職されたのでしょう。

尾張の大橋家の家紋は下のページをご覧下さい。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ow_ohasi.html

『(抱き)茗荷に一文字』です。福島氏に仕えていた事を考え合わせると、やはり尾張の大橋氏の系統だと思います。


川口さん

「津島の歴史・本文」〜中根氏の姓の由来って、名古屋市瑞穂区中根だったのですね。大橋氏が中根にも足跡を残していたとは、驚きました。

私が学生時代住んでいたのも、名古屋市瑞穂区(中根の約2km北西)です。
一度友達が住んでいた会社の社宅に泊めてもらいましたが、そこが中根でした。

やはり尾張の大橋氏とは縁があるように思えてならないのですが。
[13]大橋佐知子さんからのコメント(2002年07月10日 18時26分29秒 ) パスワード
  

皆さんこんばんわ。

このページにお邪魔してからだいぶ「大橋」について知る事ができました。
ありがとうございます。
みなさんから教えてもらった事を両親にも教えておきました。
父も母も皆さんの知識の深さに大変驚いていました。

再来週くらいにでもお寺に行ってこうようと考えておりますので
過去帳を見る事ができて何かわかった事がありましたらまたお知らせいたします。
では、またよろしくお願いいたします。

[14]川口 信さんからのコメント(2002年07月10日 22時56分33秒 ) パスワード
  

大橋さん 隈さんこんばんは

隈さんご紹介のURLに書いてあるとうりで以前、他スレッド「平姓川口・尾張大橋氏」にも書きましたが

[14] 
 >大橋家のその後
 数年前に大橋源三右衛門家(重国)の系図(手書き・原稿用紙に記載)を手に入れました。

 定安ー重一ー重長ー重定とあり、重定の弟正良の項に滝川左近将監益一の感状ありと記載がある。重定の子重国の弟・重賢の項に福島左衛門大夫に仕え、同氏改易のあと松平出羽守に仕えたとある。

 その重賢が茂右衛門と名乗っております。
 松江藩に幕末時点の家老に大橋茂右衛門を名乗っている人物がいますが重賢の系統みたいですね

 以前から大橋茂右衛門についてはコメントしていたみたいでこれも縁かと思います。
[15]hazuさんからのコメント(2002年07月13日 21時09分12秒 ) パスワード
  

 大橋茂右衛門重賢は福島正則家中分限帳のほかに京極高次分限帳にも載っているようですね。
 福島正則のときは千石(歩行同心20名)で鉄砲頭、京極高次のときは五千石で鉄砲23名を従えていたようですから、鉄砲頭だったのでしょう。
 鉄砲頭となると火薬はお手の物でしょうから、土着すると薬屋というのも頷けます。
 ですが、重賢は松平直政に仕え、子孫が幕末まで松江藩に残っているとなると、重賢付近から分かれた諸流という可能性が高いでしょうね。重賢の子供等も含めてですけど・・・。


 参考:尾張群書系図部集(下)


筈衛
[16]川口 信さんからのコメント(2002年07月14日 09時34分18秒 ) パスワード
  

 筈衛さん 詳しいご解説有難うございます。
 
 実は私もそう思っていたところで、何故かといえば重賢の叔父・某(号専安)は医術を業として民部卿玄以法印に入魂也仍て玄以法印返[卓へんに解]あり(マシンに字がない)とあり、身近に医術・薬業に長けた人物がいたことになり、福嶋家が改易後すぐか、早いうち分家していたのではないかと。松平家に仕えてからでは遅すぎるので。

 小田原市内にも小西薬局があり、この家も数百年の歴史があるそうです。これから察すると今で言う薬局のフランチャイズ制かチェーエン店みたいなものがあったのではないかと思われ、なぜ「小西の屋号」を使ったのかがカギとなるみたいですが。(勝手な解釈ですが)

 また静岡県には大橋家は平内三郎を祖とする(島田市)、小田原北条家臣酒井左衛門康治の後裔大橋市郎左衛門を祖とする。沼津に名主を務めた大橋家。榛原郡相良町の大橋姓は、地頭方地区、相良・大江地区にあり、それぞれ系統が異なっているように思われる。とあります(静岡県姓氏家系大事典)
[17]川口 信さんからのコメント(2002年07月24日 09時32分53秒 ) パスワード
  

 松江城 大橋茂右衛門で検索しましたら次のような文がありました。
 絵図によって城下町の全体像を見ると、小高い丘に設けられた本丸・二の丸、そしてそれに接続した平地の三の丸という城郭を囲んて内堀が掘りめぐらされ、その周辺に重臣・上級家臣の武家屋敷が並び、それを外堀(北の北堀川、東の米子川、南の京橋川、西の四十間堀)が包んでいる。この外堀の内側が城下町としては最重要地域であり、そこに南から入るために渡る京橋の北詰には軍勢を集結させて敵を迎え撃つための広い勢溜が設けられ、その勢溜の両側には鉄砲20〜30人を付けられている上級家臣の屋敷が配置されている。最も大きい勢溜は南方天神橋北詰にあり、今は鉄道が斜めに走ってはいるが広場の名残は今に伝えられてきた。
 外堀の外側に沿って北・東・南側に町人町が続き、外堀をコの字型に囲んている。米子町の東側は埋立地である田町地区で、中級家臣の屋敷が並んでいたが、東南隅の大きな一画だけは家中ナンバーワンの屋敷地であった(堀尾期は堀尾修理家、京極期は多賀越中家、松平期は大橋茂右衛門家)。

 上記の文から察すると大橋家と松平家とは特別な関係が想像されます。

 また大橋系図によれば、津島市坂口に居住する大橋伴右衛門祖裏隣故大橋茂右衛門先祖の屋敷を今以預かり居る。とあります。前述のHP「津島の歴史」にも

☆筏場村は玄関を坂口・高町に移動
 坂口・高町は筏場川祭りを主催する町だ。車名の筏場町は両町の南を走る道に面する町である。祭りを始めた当初は同町(村)から祭りを出していたからこそ筏場車名が付いたと考えられ、何時の頃から坂口・高町に祭り主催者が移行したのである。 
 大橋家の例で見る如く、本町通りは沼か川で、筏場村の家屋敷裏に面する位置だったとすれば、筏場通りが表通りだったのである。坂口から筏場へ抜ける横町は、左右に大橋茂右衛門屋敷横塀、北側が堀田屋敷の横塀が並ぶ。直線的な横塀と横塀に挟まれた道筋であるので「横町」と命名されたのである(延享古絵図参照)。両家とも江戸初期ないしそれ以前の屋敷地で、筏場通り近くまでの奥行を持っていたのだ。現在も坂口・高町の豪商は筏場通り近くまで敷地を持つ。とあります。

[18]服部 明子さんからのコメント(2002年07月24日 09時47分26秒 ) パスワード
  

今でも東南の角地は最高の場所ですから
力のあるお家が占めていたでしょうね。

そうしますと大橋家はかなりのご重臣だったという事になりますね。
[19]pigunoriさんからのコメント(2003年02月11日 01時33分00秒 ) パスワード
  

はじめまして。
私は岡山県岡山市に実家がある大橋と申します。
(今は大阪の大学に通っているため、大阪に住んでいます。)
私は先祖が大橋茂右衛門という人だと親に聞いたことがあり、なにか詳しいことが調べられたらと思い、ネットで検索していたところ、この掲示板にたどり着きました。
私は先祖の詳しいことは何も分かっていませんが、家紋は抱き茗荷だったと思います。
みなさんとても詳しいので、勉強になります。
[20]服部 明子さんからのコメント(2003年02月11日 01時52分56秒 ) パスワード
  

<10>の方と御親戚かもしれませんね。

最近知りましたが薬屋の小西さんは遺産90億だったかしら?50億だったかしら
さすがですね。
[21]pigunoriさんからのコメント(2003年02月11日 01時57分34秒 ) パスワード
  

大橋茂右衛門さんの写真が松江城にあると知り、去年、松江城に行ってきました。
自分のご先祖様かも!?という感じで、とても不思議な感覚でした。
[22]川口 信さんからのコメント(2003年02月11日 09時24分16秒 ) パスワード
  

pigunoriさん 初めまして。
 
 大橋姓 大歓迎です。その他関係スレッドで大体お分かりの事と存知ますが貴大橋家に伝わる事など、どしどしコメントしてください。お待ちしております。
 また先祖繁栄の地、尾張津島の方にもお出かけください。津島神社なども訪ねればもっと不思議な感覚が体験出来ると思います。
[23]pigunoriさんからのコメント(2003年02月11日 15時37分57秒 ) パスワード
  

こんにちは、pigunoriです。
私は愛知には一度も行ったことがないので、ぜひ学生のうちに一度は訪れたいと思います。
他にも大橋家に関係あることなど、私のほうで分かりましたらまた書き込ませていただきます。
みなさんのコメントも楽しみにしております。
[24]pigunoriさんからのコメント(2003年02月13日 23時00分12秒 ) パスワード
  

去年、松江城へ行った時の写真を何枚かHPに掲載していますので、よろしかったらご覧ください。
◆国内転々 というコンテンツの『02’冬 鳥取・島根』から入れます。
URL:http://www.eonet.ne.jp/~o-hashinoriko/
[25]服部 明子さんからのコメント(2003年02月13日 23時30分20秒 ) パスワード
  

拝見しました。
なかなか「凛々しい」御先祖さまではありませんか。
素敵ですね。

年代としては30歳前後ぐらいでしょうか?
[26]pigunoriさんからのコメント(2003年02月13日 23時39分47秒 ) パスワード
  

そうおっしゃってくださると私も嬉しいです。
年齢は記載されていませんでしたが、私も「もしかしたら20代後半!?」というような感想を持ちました。
私は行きませんでしたが、松江城付近に「大橋屋」というおそば屋さんもあるみたいです。(記憶違いかもしれないですが。)
[27]川口 信さんからのコメント(2003年02月14日 16時42分34秒 ) パスワード
  

江戸時代のご先祖のお写真が存在しているなんて羨ましいですね。

代々茂右衛門を襲名しておりますが多分幕末の頃に活躍した大橋茂右衛門殿と思われますが、幕末は目まぐるしく移り変わる時代であり、松江藩の態度は複雑であったそうですね。親藩なるが故に、幕府と朝廷の狭間に立って苦悩しなければならなかった。それをあの若さで取り仕切った家老職であるので頭の回転が良さそう、意思の強さが顔に現れているみたいですね。(色々な問題で切腹騒動もあったそうでそれを知ると尚さらそう思えます)

 もれ伺うところによれば服部家は美男・美人系だそうで祝着至極。服部家に優るとも劣らず大橋家も美男、美女系ですね。○○○○ママを除いて(笑)
[28]服部 明子さんからのコメント(2003年02月14日 23時15分31秒 ) パスワード
  

当時は尾張藩も大変だったそうですね。

何とか事件が起きて(青松葉事件?)
日比野の?町人が嘆いて切腹したとか?

この時の抵抗勢力が北海道の森の近くの八雲に移住したとか。
八雲っていかにも名古屋らしい地名ですものね。
納得いきました。


>○○○○ママを除いて(笑)

首絞められませんように。
ふふふ
[29]川口 信さんからのコメント(2003年03月13日 13時41分20秒 ) パスワード
  

>○○○○ママを除いて(笑) 首絞められませんように。人の悪口を言ったので風邪を引いて1週間ばかり頭痛でした。やっと回復したので。心を入れ替えてまして。

八雲が出てきましたので。

 県都松江市にも八雲村があります。古代出雲文化発祥の地と云われている。小泉八雲ことラフカディオ・ハーン。1890年、40歳のときに来日し、熊本へ移るまでの1年余りを、英語教師として松江で過ごしました。八雲村の中央を貫流する意宇川の上流に鎮座する「熊野神社」は、八岐大蛇を退治した厳神スサノヲノミコトを主祭神とする出雲国一の宮。
「八雲立つ記念公園」があるところです。

私が新婚時代アパートを借りていた所が駒沢公園の近く目黒区八雲でした。町名の由来は:八雲にある氷川神社で祭っている素戔鳴尊が櫛名田姫の新居を構える時に、詠んだ「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるそのその八重垣を」という日本最初の和歌といわれる和歌の言葉から「八雲」をとり町名となったとあります。これは名古屋熱田神宮の祭神「素戔鳴尊」繋がり。津島市の津島神社御祭神、建速須佐之男大神は、天照大神の御弟神です。
 また八雲の隣町は「中根」でこれまた「大橋家」繋がり。東京は尾張・三河出身者で占められていたので似通った町名があるのは当然なのですが。

 不思議ですね。知らない間にご先祖様と関係のある場所に訪れたり、住んでいたりこのように偶然が繋がるなんて。因縁、地縁があるのでしょうか。

[30]服部 明子さんからのコメント(2003年03月13日 21時37分49秒 ) パスワード
  

川口さま

やっと治りましたか?
引き直すという事のございませんように!

八雲町でしたら名古屋の昭和区にもありますね。

どこが発祥なんでしょうね?
というより
>「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるそのその八重垣を」
「八雲」という言葉は日本古来の言葉のようですね。

という事は日本中にあっても良いように思えますが
名所旧跡であんまり見掛けないですね。
八雲で1番有名でしたら「小泉八雲」ですものね。
その次が北海道の八雲町。(尾張藩の八雲から?)

やっぱり引っ掛かるというのは
>因縁、地縁があるのでしょうか。
本当に不思議でございますよね。
[31]川口 信さんからのコメント(2003年03月25日 11時51分33秒 ) パスワード
  

先日3月16日、念願の尾張・津嶋神社に詣でました。何か感じるかと思ったのですが、あまりそう言う体質でないので、残念なが何も感じませんでした。

その節神社関係者のお話をお聞くするチャンスがありましたので、大橋家について率直にお話聞くことができました。現在においては神社関係者には大橋家の方がいらしゃらないとのニュアンスでした。尾張藩に仕えていて、代々小傳次を名乗る大橋家や今市場にお住まいの大橋家、坂口にお住まいの大橋家が地元にあるのと思われるのに、残念です。
 また津嶋神社の参道には氷室家の屋敷跡(現在はお寺)になっている。
 そんな事で各々の家が言っている事跡の根拠となる「浪合記」及び「信濃宮伝」などは時代においても食い違いがあり、信をおけないなど言われ、大橋家の根幹をなす事が疑われているような状態です。平家の大橋家が集まってそれらの事を払拭しなければとつくづく感じました。全国の大橋家の方々頑張ってください。

 それと話は違いますが、現在、名古屋市昭和区(八雲町がある)に江戸中期に分家した京都川口家の長男がお住まいです。これもまた、因縁、地縁でしょうか。仕事の関係で転居してきたものと思いますが、引っ張られてきたのでしょうか。不思議ですね。
[32]服部 明子さんからのコメント(2003年03月25日 13時53分42秒 ) パスワード
  

川口さま

>そんな事で各々の家が言っている事跡の根拠となる「浪合記」及び「信濃宮伝」などは時代においても食い違いがあり
>信をおけないなど言われ、大橋家の根幹をなす事が疑われているような状態です。


これは<政治的に>仕方が無いというのが前提にございまして

・明治維新で徳川家を否定するのに<政治的に>「浪合記」が否定されたという事で
 御一新に負けた側としましては時の政権が否定するなら反論が出来なかったという事情がございました

・何でも(平家物語でさえ)いろいろな説や本がございますから「浪合記」は「浪合記」で良いと思います。
「浪合記」とは違うことを記す他の書があっても良いではございませんか。
「浪合記」には「浪合記」を記した人の思いが書かれているということで。
(「明月記」は藤原定家に、「吾妻鑑」は鎌倉方に都合の良いように書かれているのでございますから)


ですから御自分のお家に伝わるお説で宜しいかと存じますが・・・


わたくしも母方に伝わる系図が南朝方特有の表現の仕方であるというのを知るまでは
 (あら?)と思いましたが
それが「南朝方子孫の系図の特徴である」というのを知り、
我が家は矢張り南朝方という言い伝えが正しかったと分かりました。

ですから同じ一族ではあっても(北朝方の系図とは使用文字や表現が)微妙に違うのは仕方無いのです。
わたくしの属します我が家の一党は頑固に北朝方とは異なる系図を伝えていくのが子孫の勤めと思っております。
最近わたくしの跡を継ぐ85代目が自覚を持ってくれましたので
「我が家は南朝方子孫でこういう系図で、北朝方の子孫はこういう系図を使用している」
と明確に教えておきました。

86代目以降が北朝方の系図しか知らない人達に惑わされないようにと願っております。
我が家の系図・我が家の家書が我が家の先祖の記録でありアイデンティティである、と。


神戸には宗良親王御自筆の和歌を記した書をお持ちのお家が御存続なさってますから
いつかこのお家とお知り合いになって
川口さまのお家に伝わるお説とその神戸のお家に伝わるお説をつき合わせて
お杯をお交わしなさいます事が出来ましたら一興ではございませんか。

     「おやおや、お宅さまはそのように伝わっていますか」

そんな会話が成立する度量の広さに歴史を感じたく願っております。



>名古屋市昭和区(八雲町がある)に江戸中期に分家した京都川口家の長男がお住まいです。

不思議でございますね。
矢張りご縁という事でございましょうか?


現在川口さまに霊的な感触が得られないのは
多分、阿久比辺りに先に来て欲しい、という事かも知れません。
華陽院さま関連を先にして欲しい、という事。
核心はもっと後で、と望んでいらっしゃるのかも。

わたくしが思いますには
華陽院さまが御自分の女としての苦しみを川口さまにもっと知って欲しい
と望んでいらっしゃるのでは?と。

そんな感触を得ました。
[33]川口 信さんからのコメント(2003年03月25日 14時30分03秒 ) パスワード
  


良いご教示を頂きまして、有難うございます。早速明子様のおっしゃる方向で取り組んで行きたいと思います。
ずいぶん大橋家の知名度向上には力を尽くしてきたと思いますので。大橋家の事は大橋家の皆様方でと言う事で。
[34]川口 信さんからのコメント(2003年04月04日 07時50分06秒 ) パスワード
  

皆様方のコメントが無いので、また登場。
 加賀藩(前田家)に仕えた大橋家・服部家・川口家がある。
 大橋 加賀藩士に、美濃国(岐阜県)を本国とし、浅野長政に仕えた九郎兵衛に始まる大橋氏がある。九郎兵衛は浪人したのち、慶長四年前田利長に仕え、一三○○石、九郎兵衛―外記―又兵衛長成(三一○○石)―又郎兵衛恒成―九郎兵衛―九左衛門信成――九郎兵衛方成―又右衛門―九左衛門苗成と続く。
九左衛門の名は加賀藩給帳に見え、四○○石で、家紋は丸内大の字。明治初年には苗成の子又平克成がおり、四○○石で、菩提寺は大乗寺、克成の弟と見られる周三郎道成は八○石、九郎是成は九○石であった。帳成の弟市右衛門は三六○○石で、市右衛門
―市右衛門―長兵衛直成(一○○○石)―主水興成―作左衛門毘成―長兵衛―作左衛門則成―作之進成之と続く。明治初年には、大橋作之丞成徳の子作平成政がおり、八○○石で、菩提寺は妙成寺。信成の弟弥藤次通直は二○○石で、子に助三がいた(諸士系譜・先祖由緒)など。
 
 石川県の家紋
 大橋家:三つ寄せ笠・剣片喰及び丸に剣片喰・蔦及び丸に蔦・丸に一つ引き・木瓜及び丸に木瓜・藤輪に中陰片喰。
 川口家:丸に抱き柏・違い鷹の羽及び丸に違い鷹の羽・丸に鬼蔦・丸に一文字。
 両家とも丸に抱茗荷紋には記載無し。
 服部家:源輪に並び矢・七宝に花菱・丸に揚羽蝶・丸に並び矢・八つ矢車。

 いずれも通常、夫々の家々で使われている家紋とは異なっている。中には初見のものもある。
 なんでだろう〜なんでだろう〜?
[35]さちこさんからのコメント(2003年04月05日 12時21分00秒 ) パスワード
  

服部家に関してですが。

http://www.e-tmm.info/syuuzou/amanoya.htm

江戸時代を通して高岡の有力な町人であった天野屋(服部家)の見取図。
土間・白洲・奥・貸他家・他白洲・他人家がそれぞれ色分けされている。
 天野屋はそれまでの加賀藩営であった「御旅屋(おたや)」に代わり、
正徳元年(1711)4代伝兵衛の時に「御本陣」(藩主の旅館)に指定され、
13代嘉十郎まで代々世襲した。初代甚吉はもと尾張津島の人で、
天正年間(1573-92)に前田利長に従って越中守山、富山と移り御用商人となった。
高岡開町時に御馬出町に広大な宅地を賜り、
以後「由緒町人」として高岡の経済発展を支えた。

という事です。
並び矢の服部家はもしかしたら同系かも?
加賀には服部神社もあり古くから服部家がいたと思いますので、
詳しくは判りませんが。





[36]川口 信さんからのコメント(2003年08月11日 18時55分16秒 ) パスワード
  

 
 
 >わたくしが思いますには
 >華陽院さまが御自分の女としての苦しみを川口さまにもっと知って欲しい
 >と望んでいらっしゃるのでは?と。
 服部明子様がおっしゃったとおり。

今日静岡市の玉桂山・華陽院にお参りに行って参りました。

 そこでちょっと良い話を住職ご夫人に伺いました。

 つい先日徳川宗家がお参りに同寺を訪れ、その足で久能山・東照宮に向かわれたそうです。お殿様御自ら徳川家康公御縁のところをお参りするなんて、日光東照宮には元旗本の子孫達とお参りするとは聞いておりましたが、華陽院を訪れたとは、有難いことと思いました。

 実は私もそういうスケジュールで動こうと思って行ったわけでして、徳川宗家様には先を越されてしまいました。これも格が違い過ぎますから当然でしょうね。

 寺内をくまなく見学させていただき、華陽院のお墓を撮影したのですが、
 何か色調が悪いみたいで、後の駿府城や久能山・東照宮の画像は綺麗に撮れているのですが、華陽院殿がまた撮りに来てくれということでしょうか。

 寺内には緒家のお墓も沢山ありました。鈴木家のお墓も何基もありましたが、揚羽蝶紋を附してあるのはありませんでした。だけど抱き茗荷紋の川口家のお墓がありました。当川口家との関係はわかりませんが。
 伊藤(下り藤)・長谷川(下り藤)・水野(おもだか)。ご住職は堀田氏であいにくご不在でしたが帰りに「華陽院由緒」という小冊子カラー印刷(約30頁)を住職夫人より頂きました。
 
 台風一過、暑さが厳しくなって参りましたが、お体を大切に、皆様も良いお盆休みをお過ごしになられますよう。願っております。

 
[37]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年08月11日 23時02分08秒 ) パスワード
  

川口さま

さようでございますね。
華陽院さまは、また来てたもれ、とおっしゃってるのかも。

住職さんが「堀田家」からというのが因縁めいてますね。
尾張徳川家も堀田さんから来ていらっしゃったそうですから。

堀田さんでしたら尾張南朝方でのお仲間でもありますから
やっぱり徳川氏が新田家子孫というのは本当だったのだろうと思いますね。
いろいろ否定さなる話も聞きますが。
[38]はせがわさんからのコメント(2005年09月28日 16時41分04秒 ) パスワード

抱き茗荷の紋を検索していたらここのサイトが出ていたので投稿させてもらいます。
私の祖母は旧姓大橋(直系は祖母で終っています)で紋は抱き茗荷に一文字(茗荷紋の中に漢数字の一)です。浅野藩の家臣が書かれている本(昭和の初期に発刊されたもの)が家に有ります(祖母が大切なものという事でこの本と浅野幸長からの感状だけは田舎に置いていたため原爆の被害に遭わなかった)その本によると大橋家は越前の出身だと書かれていました。尾張の大橋家となにか関係が有るのでしょうか?
[39]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月28日 21時35分56秒 ) パスワード

はせがわさん

全然分かりませんが
鎌倉時代末期に南朝方だったとの言い伝えはございませんか?


大橋家は尾張の津島神社を中心とする南朝方で(敵の中心は江南あたりの妙興寺だったと思います)
1・新田義貞にくっついて鶴賀の金ヶ崎?に行ってそこで落ち着いたということも考えられますが
2・戦国時代にどなたかについて越前に行ったのでは?柴田勝家あたり。前田利家かも。
または1と2の両方。



わたくし思いまするに
お宅さまの場合はモトモトは尾張西部にお住まいで
戦国時代にも活躍なさっていらっしゃったのでは?
浅野方だったようですね。

織田信長・秀吉・幸長・おねねさん・おややさん
この線で調べたら御先祖さまが出ていらっしゃいますかも。


そうしますと
平家の平貞能の子孫で→南朝方になって→織田信長方についていた
こういう流れでしょうか?


大橋家は後に川口家というのが徳川家康と親戚ですから
そっちの流れよりは織田信長系のように思います。


抱き茗荷に一文字紋を調べたらかなり特定出来ると思いますよ。
これについては家紋研究家の小林先生がプロでいらっしゃいますから
小林先生にお尋ねになるのが良いと思います。
[40]小林雅成さんからのコメント(2005年09月29日 01時07分28秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

呼ばれて出ました小林です。

大橋氏については、その家紋のデータが柏書房『都道府県別 姓氏家紋大事典』東日本版796ページ(福井県)に掲載があります。
ご参考までにお近くの大規模図書館で閲覧くださいませ。

抱き茗荷に一文字を入れる方法は、婚姻により入れたと見做すのが無難かと存じます。ですからもともとは抱き茗荷であると。違い鷹の羽と抱き茗荷が表裏一体の使用であることはこれまで小生が何度も言及している通りです。浅野の殿様と仲良くなるのも自然の道理です。

私事ですが、執筆話が入ってきたので、ちょくちょくはコメントできなくなりますので、御用のある方は、日本家紋研究会関西支部ホームページの問合せ先にご連絡くださいませ。

小林雅成
日本家紋研究会 理事
大阪よみうり文化センター 家紋講座 講師
近鉄文化サロン阿倍野 講師
朝日カルチャーセンター 講師
[41]大橋 なおこさんからのコメント(2007年07月16日 17時29分19秒 ) パスワード

東北出身の大橋と申します。我が家の歴史が少しでも参考になればと思い
レスいたします。詳しくは「太平記」をご覧下さい。
※ちなみに、家紋は「上り藤に鷹の羽」
(祖母に聞いたところによると、上り藤は家運をあげ、鷹の羽は武将運を
あげるそうです。)
※銘刀は「月山」です。(南北朝時代から鎌倉時代まで作られた日本刀ですが、江戸時代など戦いがなくなってからは作られなくなったそうです。)
柄の細工など本当に美しい日本刀です。

大橋家(南朝家臣団)
北畠顕家の家臣として朝廷の命令で奥羽を平定(もとは岡山あたりにいた
そうですが、詳しくは知りません)
         ↓
現在の福島県伊達郡霊山町に霊山城を築城。北畠顕家が陸奥国府に
朝廷より任命。ちなみに北畠顕家をまつった霊山神社は旧別格官幣社で
明治天皇など皇族も訪れたとのこと。大橋家ゆかりの神社です。
         ↓
 北朝(足利・新田勢)により霊山城落城。
         ↓
 戦後から現在にいたるまで地主として土着。村会議員などの名誉職を歴任。

戦後、減反などで小作人がいなくなり家の存続もあやぶまれましたが、
なんとか持ち直してます。ご参考になりましたでしょうか?

[46]大橋 えみこさんからのコメント(2014年01月26日 09時21分04秒 ) パスワード

大橋 なおこさま、

拝読しまして、胸が騒ぎました。

我が家の家紋も、「登り藤に鷹の羽」でございます。

よろしければ、個人的にお話をもう少し お聞かせ願いないでしょうか??

大橋 えみこ  (父の名前には、茂の字が入ります。)
[47]13代当主本井紀吉さんからのコメント(2015年11月01日 06時53分43秒 ) パスワード

13代当主 本井と申します。 9代の時に松平定安次男と婚姻を結んでおります。その後、静岡県に移り住んだ赤松大三郎良の娘様と婚姻を果たしており、姻戚には大鳥圭介、出雲国造北島氏がおられ、出雲大社の名代にも当たります。
さて、大橋家当主としてお答えいたしますが、大橋のルーツは真田信綱になります。討ち死にした後、縁故である福島正則に拾われ、その後、松江藩の筆頭家老になりました。
11代当主であった祖母より託された真田家であるという証拠の刀剣類の寄贈録もございましたが、現在居住の千葉県柏市にて、創価学会系企業やハローワーク、商工会の金欲主義者、政治家、その他居住地の学者等の悪事により紛失する結果となりました。
ですが、寄贈録に関しましては寄贈主である叔母が存命であり、また刀剣類を幼いころ見ておりますので、大橋家は間違いなく真田信綱が先祖に当たります。ご参考になれば幸いでございます。
[48]谷古宇さんからのコメント(2015年12月01日 14時57分28秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2016年04月21日 22時38分56秒
[49]本井 紀吉さんからのコメント(2016年04月05日 15時21分04秒 ) パスワード

大橋家 当主 の答えは島根県よりの系図です。

 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.20 by Rapha. WEB design Rapha.