[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年06月23日 23時20分21秒 ) | パスワード |
takahiroさんよりのレス:
「剣花菱」紋について
浮羽郡妹川に於いて平孫を称される家々の家紋が「剣花菱」で統一されているとの事ですが
それはおそらく、
平家一門の氏神である安芸の厳島神社の御神紋「三盛り亀甲剣花角(菱)」に
由来されているのではないでしょうか。
http://www.genbu.net/data/aki/itukusima_title.htm
上記のアドレスに厳島神社の御神紋が掲載されています。
私の家も平孫を称する家系図が本家に伝えられているのですが、
家の家紋は「丸に剣花角」です。(本家は菊紋ですが。)
また、「柘植姓の研究」のサイトにも、次のような文章が掲載されていました。
発祥地伊賀の柘植一族を調べてみると、
日置神社の屋根瓦には『丸に二引』(略紋)が使われて居り、
同地の柘植氏は皆『三ッ巴』で、西川・勝島・福地などの一族も同様『三ッ巴』だが、
松尾は『丸に剣花菱』『丸に立羽』『丸に矢違い』など様々な定紋である。
しかしこれら松尾家の様々な家紋は、
総て平家一門が『三ッ巴』と共に使用していた定紋であるから、
同族関係にあることは肯(うなず)ける。
この文章によると、「丸に剣花菱」は、平家一門の使用していた定紋の一つと見なされますので、妹川様の御家紋も、妹川の地の伝説同様、平家由来のものであると、私見ですが思われます。
(「剣花菱」と「剣花角」の違いは、「菱」の角度の違いだけですが、
上記サイトの厳島神社の御朱印帳に押された御神紋の画像では、正確には、
亀甲の中は「剣花角」であると思われます。
ただ、神社紹介等の書籍では、「剣花菱」「剣花角」ともに記載を見ることができます。)
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年06月23日 23時49分35秒 ) | パスワード |
http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100136_74.html より
[73]
妹川武史さんからのコメント(2002年06月23日 19時06分48秒 )
福岡県浮羽郡浮羽町大字妹川にも、平家の末裔といわれる姓があります。
私が知るところでは、「鑓水」「佐藤」「掘江」姓です。
家紋は「剣花菱」で統一されています。
実際、家系図等もあるそうです。
ところで、「菱」紋といえば、武田氏が始まりといわれていますが、
何故、この地に流行っ たのかは分かりません。今後、調査しようと思います。
なお、私の先祖も妹川の住民でありましたが、家紋は「丸に剣花菱」です。
何か関係があるのかなと、思っております。
[74]
服部 明子さんからのコメント(2002年06月23日 21時42分32秒 )
「丸に剣花菱」紋使用で有名どころは龍造寺家だそうです。
大友宗鱗を破ったのを記念して「杏葉紋」に替えたそうです。
その辺りが絡んでいるかも知れませんね。
[3] | 妹川武史さんからのコメント(2002年06月25日 22時22分54秒 ) | パスワード |
takahiro様
貴重な御教授、誠にありがとうございました。
短時間にもかかわらず、これだけ豊富なことをご存知ですので、歴史の研究をなさっているのですか。
確かに、浮羽町妹川には、平家色が強いので、地元の歴史研究家の先生から平家との関係を示唆されていましたが、根拠となる資料等がありませんでした。
浮羽町妹川は、平安時代、平家が支配しておりましたが、鎌倉時代は、長谷部氏、その後、八女郡星野村を本貫地とする星野氏が支配するようになりましたので、星野氏の家臣の誰かが妹川の支配を任され、妹川姓にしたのだと思っていました。
今後、妹川氏と平家について、調査できますので、うれしい限りです。
[4] | takahiroさんからのコメント(2002年06月27日 16時25分52秒 ) | パスワード |
妹川様
>今後、妹川氏と平家について、調査できますので、うれしい限りです。
当スレッド上記、妹川様の記述を拝見しますと、浮羽町妹川の地には多く
の平家伝説が残されているとの事ですので、いろんな角度から調査できそ
うですね。
*安徳天皇が祭神である妹川水天宮について
*平経盛が築城したと伝えられる妹川城について
*平家が支配していた平安期の妹川について
*平孫に連なる家系図を所有されるという、妹川の「鑓水」「佐藤」
「掘江」姓について
(これらの家の家系図には、平孫としての同族として「妹川」姓の方
との婚姻関係等が記されている可能性もあると思われます。)
*「妹川」「鑓水」「佐藤」「掘江」姓の家が共通して使用されてい
る家紋、「剣花菱」紋について
また、妹川姓の御本家を当たられて、そこに妹川家の家系図が伝えら
れていれば、より詳細に「妹川」姓と平家との関係が判明するかも知
れないですね。
私は歴史を専門に研究している者ではなく、京都で手描き友禅染めの
着物作家として活動しています。
そのかたわらに、自家と平家との関係を、服部明子様にいろいろと助
けて頂きながら、考察しています。
貴家、「妹川」姓について、また何か判明しましたら、是非お教え下
さい。
[5] | 上田 八重子さんからのコメント(2005年09月14日 09時27分04秒 ) | パスワード |
夫の本籍は大分県宇佐郡安心院町です。家紋は剣花菱で平家の子孫という事です。本家には家系図も残っているそうです。天生時代のお墓も残っていました。もう字が見えなくなるほど侵食していました。
[6] | 妹川武史さんからのコメント(2006年05月15日 14時50分10秒 ) | パスワード |
八女市に「平(たいら)」という地名があり、そこがルーツである「平(たいら)」さんがいます。そこで、八女市の隣りの八女郡立花町の平氏にルーツを聞いてみると、「よく分からないが、家紋は丸に剣花菱です。」との事です。地元の郷土会誌によれば、「八女郡の「平」氏は、平知盛を先祖とする」と記載されていますので、立花町の平さんは、平家の末裔であると思います。
[7] | 堀江氏さんからのコメント(2006年09月27日 23時11分25秒 ) | パスワード |
はじめまして。その、妹川の住民です。
概ね、前句の通りで、わたくしも聞いておりますが、掘江姓は、堀江です。
お間違えの無いように。また、妹川の庄屋は、国武姓であり、こちらは、源氏方で、
元有地区及び持木地区に大山祇神社を建立し堀江家他の差別化を図ったとされております。
[8] | 妹川武史さんからのコメント(2006年10月01日 16時52分21秒 ) | パスワード |
堀江様
氏を誤記してしまい、大変申し訳ございませんでした。うきは市妹川地区の平家伝説については、ある人から教わった事で、今だ謎が多く、暇を見つけて調べたいとは思っております。例えば、姓氏家系辞典によれば、堀江氏は、黒木氏の分家であるとしていますが、それであれば、堀江氏は、源姓になると思うのですが・・・。また、浮羽町史によれば、鑓水氏は平経盛(だったと思います)の末裔と記載されていますが、江戸初期の古文書によれば、鑓水氏は巨勢姓を名乗っています。しかし、西日本新聞によれば、妹川地区の堀江氏をはじめ、多くの妹川地区の住民の方が、自分は平家の末裔であると考えているとの事。先祖代々平家の末裔との言い伝えがあるという事は、それなりの事実に基づいて受け継がれていると思いますが・・・。
[9] | 星野さんからのコメント(2007年01月13日 02時31分26秒 ) | パスワード |
はじめまして。うちの家紋も剣花菱です。祖父は、新潟県上越市の上綱子の出身です。平家の末裔ではないかとの話を聞いたことがあります。父の話では、刀や家系図もあったようです。
妹川様がおっしゃっていた、星野氏とは家紋が違うのですが、無関係なのでしょうか?また、その星野氏の子孫が、越後の方に渡ったという話も、何かで見たのですが、本当なのでしょうか?もし、なにか、ご存知でしたら、教えて下さい。
[10] | 安部正義さんからのコメント(2007年04月07日 21時29分55秒 ) | パスワード |
質問なんですが。自分の家の家紋を調べていて丸に剣花菱だったんですけど、これは平家と何か関係があるのですか?
ちなみに姓は「安部」です。
[11] | 山口さんからのコメント(2008年03月05日 22時29分03秒 ) | パスワード |
初めまして。
私の家の家紋は丸に剣花菱です。
茨城に住んでいるのですが・・・何か分かる人いらっしゃいますか?
[12] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年03月05日 23時59分30秒 ) | パスワード |
山口さん
初めまして。
何にも分らない、としか書けません。
本当に家紋からでは何にも分りませんよ。
アメリカでもアメリカ人が「カッコいい」という理由で葵の御紋を使ってる人がいます。
笑
日本人ですと16弁の菊の御紋を使うなんて考えられませんけどね。
これがアイデンティティということです。
ですから家紋からちょっとは見えてくることもあります。
・いつから使っているのか
・誰から使い始めたのか
・どういう事情だったのか
こういう御家しか分らないことをお調べになってください。
1番良いのは明治初期の御先祖さまの除籍謄本を取得なさって当時どこに住んでたかを調べます。
だいたい江戸時代そのあたりにお住まいだったでしょうしね。
その地の歴史資料を読み
更に遡って調べまくる。
本家にお尋ねなさり
菩提寺を捜し(お礼は包まなきゃいけませんよ)
お彼岸やお盆やお正月に御親戚の老人達にお話を伺う
取り敢えず今年の春のお彼岸にでも御親戚のお年寄りからお話をお聞きになってみてはいかがでしょう。
源平時代はどっちの側だったのか?
南北朝時代はどっちだったのか?
この辺りの言い伝えからヒントは得られますよ。
[13] | 山口さんからのコメント(2008年03月06日 21時07分23秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん
ありがとうございます。早速お彼岸に親戚の方にお話を聞いてみます。
[14] | 吉井の堀江氏さんからのコメント(2008年05月19日 18時55分22秒 ) | パスワード |
はじめまして。僕も堀江です。僕の祖父(うきは市)は角野氏から堀江氏に養子として、迎えられたわけですが、たしか祖父のいとこの所だったそうです。この角野氏って言うのはなんでしょうか?
[15] | 友納さんからのコメント(2009年05月05日 22時55分48秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2012年06月16日 23時12分23秒
[16] | 海人さんからのコメント(2009年10月06日 07時58分41秒 ) | パスワード |
私は宮崎県の延岡市に在住ですが、家紋は丸に剣花菱です。
ご先祖は江戸時代中期に赤穂より塩田作りを指導するため
この地へ来たそうです。平家とは全く関係ないのかな・・・
[17] | 長 泉さんからのコメント(2009年10月25日 15時38分45秒 ) | パスワード |
長(ちょう)と申します。中国人・韓国人に間違えられて、学校で嫌な思いをし、名字の由来を知りたくて・・・
祖母が足利氏の誰かに関係のある長谷部○○という人が、栃木県に逃げてきた時に、長谷部をそのまま名乗ると殺されてしまうから、長谷部の一番上の「長」の字のみを取って名乗ったというのですが、それ以上聞けないまま祖母は他界してしまいました。
家紋は「揚羽の蝶」です。どなたか栃木には多い「長」という名字の由来を知っていたら教えてくれませんか?
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年10月25日 16時35分42秒 ) | パスワード |
長 泉さま
1番良いのは栃木県教育委員会から史料を頂くことです。
うろ覚えでごめんなさい。でも書いてみますね。
源平時代:
http://www.town.anamizu.ishikawa.jp/anamizu/anamizu_kanko/hasebe/hasebe_nobutura.jsp
長谷部信連で検索なさいますと「長谷部氏」「長氏」などたくさん出てきます。
この人の場合は以仁王関係ですね。
確かに平家一門で栃木に逃げた人は多いですよ。
足利氏関係で栃木に逃げたというと
この足利さんは源氏じゃなくて
平家一門で藤原氏系の足利なんとかという人がいましたが
名前を忘れました。
その他の可能性として
もしかすると南朝方関係ということはありませんか?
家紋が揚羽蝶なら平家関係かも知れないですね。
でも揚羽蝶紋だからと言って平家とは限らないですし。
長姓+揚羽蝶紋でしたら平家方の長氏なのかな?
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年10月25日 16時43分51秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%BF%A0%E7%B6%B1
足利忠綱です。
平家物語にはたくさん出て来ますよ。
そうすると
お宅さまは長谷部一族でも平家と行動を共にした一党なのかもね。
それで揚羽蝶紋を今に伝えているのかな?
この足利忠綱は平家が衰えた時に「戻っても良い」と言われて離脱したんだと記憶しています。
この時に一緒に東下したのかもね。
*足利というと後世の足利尊氏を考える人が多いでしょうけど違いますよ。
[20] | 長 泉さんからのコメント(2009年10月25日 19時59分16秒 ) | パスワード |
ありがとうございます。
書いてあるページを一生懸命読んでみて、少し分かった気がします。
詳しいことは、栃木県の教育委員会に質問できたらしてみます。
とにかく、長谷部の「長」を取って名乗っているのは正解ということですよね。
頑張って調べて、長の元になった、長谷部さんの名前を知りたいと思います。
足利忠綱さんが分かって良かったです。
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年10月26日 03時42分53秒 ) | パスワード |
長 泉さま
足利忠綱の行動を読めば長谷部氏または長氏の名前が出てくると思いますよ。
ひょっとすると長谷部信連の一族(子供か甥か、そのあたり)でしょう。
さらにひょっとすると足利家の家老をしてたか乳母の子かも。乳母の夫の家か。そのあたりでしょう。
そうしますと栃木県教育委員会
または足利忠綱ゆかりの市の教育委員会から
平安時代の資料を頂けば載ってるんじゃないかな?
県の大きな図書館なら関連史料があるでしょうしね。
東京に近いなら国会図書館に取り敢えず登録なさってはいかがでしょう?
今後はイヤミを言われたら
「うちは平安時代に最盛期だった。後は南北朝かな?」
とさらりとかわしてはいかがでしょう?笑
平安時代に最盛期だった家という日本人はそんなにいないですし
平安時代=貴族社会=ですから
クソッ!負けた!
と相手を悔しがらせることが出来ますよ。
別にあなたが悔しがらせたんじゃいですよ。
相手がヒトを蹴った勢いで自分で勝手に引っ繰り返ったということです。
悪いのは変なコトを言ったヒトです。
諺で表現すると、天に唾した報い、か。笑
藪を突いて蛇が出た、とかね。
どうせ無教養なコトを言う人は自分の先祖のことも知らないような馬の骨でしょう。
もし自分の先祖のことを知っていれば
初対面の人の名字を聞いたらスグ自分の先祖との関連性が分かりますから
(アソコのアイツ)とか(うちとは刎頚の友だった家か)とか
変なコトを言ってヒトを貶めようとする人間は自分の先祖のことを知らないから変なコトを言うのですよ。
要するに自分の家がたいしたことないからヒトの家をバカにしたいのです。
でも多くは語らない方が良いですよ。
教養ある人間はベラベラしゃべらないのよ。
特に相手のことを知らないなら黙っているのが1番です。
笑
検索してみると
長谷部氏・長氏というと長谷部信連以降になってしまいますね。
穴水関係の。
長谷部と「部」がついてるところを見ると先祖は古代豪族なのかな?
ここのところは7000傑さんや播磨屋さんのサイトを参考になさると良いですね。
うちのPCは文字化けして見られないので頑張って検索なさってください。
長 泉さまの場合は・・・・足利にくっついて・・・栃木に逃れたという家伝が
おありですから
平家の敵になった長谷部信連とは袂を別ったということで「揚羽蝶紋」をお使いなんでしょうね。
頼朝や鎌倉幕府を避けて「長」氏にしたというのは合理的ですね。
でも長谷部一族で「長」氏を称していて「信連の子孫」を語っている人は謎です。
笑
でも後世になんらかの関係があったのかも知れませんから
長氏でも信連の子孫はアリと思いますよ。
ま、その家は家紋に揚羽蝶紋は使わないでしょうね。
平家物語を読んで
同じ長谷部家でも以仁王を助けて頼朝に領地を貰った一党と
平家に忠誠を誓って栃木でひっそりと世を送り南北朝の動乱で新田に従って大暴れしたかも・・・の一党があったこと
(笑)
いろいろ空想してみてください。
御先祖さまと一体化できますよ。
御自分の御先祖さまを教育委員会などの史料で捜してみてください。
御先祖さまがお喜びになりますよ。
ひょっとすると困った時に見えない力で助けてくださるかも。
[23] | 長 泉さんからのコメント(2009年11月23日 18時42分36秒 ) | パスワード |
いろいろありがとうございます。
栃木の教育委員会あてにメールは送ったのですが、なしのつぶてでした。
残念ですが、仕方ないです。
何とか日本人だってこと言いたいと思います。
そんなこと言う人は最低だとは思いながら、
実際にはそういう人が居て・・・
そんなことで嫌な思いをしなければならなくて
すごく、理不尽です。
「長」っていう有名人が出てきて「日本人だ」
って言ってくれたらいいなあとか思います。
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年11月24日 04時04分30秒 ) | パスワード |
長さん
返事は来なかったですか。
栃木県教育委員会歴史編纂課は地元の歴史の調査をしていないのでしょうか?
まさかねえ。
1)
能登の豪族「長」氏は長谷部信連の子孫だそうですよ。
2)
日本の土着の神々の子孫になる地祇氏で出雲神族=すさのおのミコト+大国主命の末に「長」氏があるそうです。
3)
室町時代羽後由利郡の豪族に由利12党というのがあって
(赤尾津・鮎川・子吉・仁嘉保・内越・潟保・石沢・滝沢・矢島・玉米・下村・岩屋)
これは正中年間(1324〜1325)に由利正春が鳥海弥三郎に攻められて滅んだので
鎌倉幕府が郡内12箇所に武士を置いて守らせたのがこれらの人々で
由利氏は本姓が「中」で
なか、とか
ちゅう、とか
称する中氏は 那珂とも、那賀とも、仲とも、長とも称して
往古(過ぎ去った昔、大昔)常陸第一の大族であった 那珂国造の子孫。
つまり元々「長」という名字は日本古来からの立派な家だったということです。
[25] | 空の青海のあをさんからのコメント(2009年11月24日 04時39分24秒 ) | パスワード |
ということは
昔っから日本人だったということですよ。
「うちの名字はね、
神代の時代は、出雲の国にいて、すさのおのミコトや大国主命の流れなんだよ。
もうちょっと時代が下がる古代日本の時代は常陸で国造をしてた那珂氏だよ。
平安時代は平家で、だから家紋は揚羽蝶だよ
こんなところがウチの名字の由来だよ。
本当の名字は長谷部って言うんだよ。でも画数が多すぎるから1字にしちゃったんだ」
これぐらい言いなさい。
日本人が大陸や半島から来た人間の子孫だろう、というなら
天皇家は海外では朝鮮半島の出身なんて言われてますよ。その前は大陸かな?笑
朝鮮の「高」氏が食い詰めて、渡った先が日本ってね。
そのずっとずっと前の何百万年も前はアフリカらしいしね。
その前は猿と仲間だった・・・自爆
ヒトからイヤなコトを言われた時
それを逆にユーモアに転換できるといいね。
言った本人が(しまった!言わなきゃ良かった!クソ!)と思えるようにしてやれるといいね。
>「長」っていう有名人が出てきて「日本人だ」って言ってくれたらいいなあとか思います。
有名人になれるような人は、
「うちの先祖は中国人か朝鮮人かって?そうかも知れませんね。日本人は元々向こうからやって来たらしいですね」
あたり言うと思いますよ。
人間は元はアフリカ出身だそうですね、
なんてね。
長曽我部という高知の武将がいますね。
こちらでも曽我部をとって長なんて称している家があるかもですね。
名字はね、血とともに誇りなんですよ。
御先祖さまから続くのですから御先祖さまに感謝しないとね。
これからお正月が来ますが
本家に御挨拶に行って由来を聞くとか
お盆に伯父さま伯母さまから御先祖さまについて聞くとか
なさいますように。
大っ嫌いだった名字が御先祖さまを知ったら大好きになりますよ。
それはいつのことかしら?
将来自分のお金が自由になったら
島根県や栃木県や石川県や茨城県など
長氏の由来を捜しに各県の図書館へ行ったり国会図書館に行ったりなさってはいかがでしょう?
将来生まれて来るであろう御自分のお子さんに由来を話せるぐらいになっていましょうよ。
[26] | RUNさんからのコメント(2011年03月16日 17時35分26秒 ) | パスワード |
はじめまして
大阪府在住のランと申します。
実はひいおじいちゃん?祖祖父?が
浮羽郡妹川の出身で
平家の末裔だと聞かされてきました。
家紋は剣花菱みたいです
何となく検索していたら
ここにつきました。
ひいおじいちゃんの名は
鑓水源八 です。
何か情報あればと思い書き込みました。
大変失礼いたしました
[27] | 空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月16日 23時29分34秒 ) | パスワード |
RUNさん
初めまして。
「鑓水氏」という名字を初めて見ました。
珍しいですね。
かなり地域限定かもですね。
でも地名としては関東地方、多摩というか八王子というか、存在しているんですよねえ。
と、いうことは
元は坂東の出身だったのかしら?
坂東平氏 → 伊勢伊賀国へ下向 → 平家方として 福岡県浮羽に定着
こんな感じ?
ということで、福岡県の郷土史、それから多摩あたりの郷土史を丹念にお読みになってはいかがでしょう。
それぞれ県や市の大きな図書館、それから国会図書館で、史料が読めると思います。
こういう時代ですから教育委員会から取り寄せるのは、協力してもらえるかどうか、分からないですが
福岡県の教育委員会の歴史編纂の所で何か分かりそうですよね。
大阪在住でいらっしゃったら大阪大学や京都大学の図書館とか利用できないですか?
[28] | 国武 さんからのコメント(2011年04月03日 22時56分56秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2011年05月20日 02時50分05秒
[29] | 野村さんからのコメント(2011年10月22日 05時46分28秒 ) | パスワード |
元浮羽郡出身です。
星野、うきは近隣で丸に剣花菱を使用しているのは、妹川城を治めていた平家の末裔と、家紋研究科の方が申されていました。
かなり前に亡くなった祖父の話でも、先祖は平家だと言っていました。
本家には代々のご先祖様の写真や肖像画が飾ってあるのですが、平家の時代まで古いものは無いと思いますが、烏帽子をかぶった肖像画まで残っていますので、何かしらのお偉いさんだったとは思います。
絵には名前が書いて無いので、それが平家と関係あるかは判りません。
姓は野村です。
近所は野村と佐藤の姓だらけで、各20軒づつくらいです。
野村家、佐藤家それぞれに年に一度「先祖祭り」というのが開催されております。
その一部が丸に剣花菱を使用していますが、この近辺の野村、佐藤はそれぞれ全部血が繋がっております。
現在では私より年上の方が少なく、歴史に興味がある人もいないので、直接聞き出すことが出来ないのですが、もしかしたらどこかの家に古い家系図が残っているかもしれません?
[30] | 匿名さんからのコメント(2012年04月08日 02時49分14秒 ) | パスワード |
母の実家は志波ですが平家方といわれ女はあげは蝶で男は花剣菱です。
[31] | 小野さんからのコメント(2012年04月30日 18時46分41秒 ) | パスワード |
我が家も丸に剣花菱ですが、佐賀の旧大和町です。
竜造寺隆信が大友宗麟を破るまで丸に剣花菱を使っていたとの話があるので、何か縁があったのかもしれません。近所に小野姓の家はなく、本家の人の話では、佐賀の白石町は小野姓が多いので、移り住んできたのではないかとのことです。白石町は須古鍋島家があったところですが、須古鍋島家は元々竜造寺家の血筋なので、やはりそうなのかとも思ってしまいます。ただ家系図とかは残っていないようなので想像の世界でしかありません。
[32] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2012年04月30日 22時43分44秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
小野さんへ
おそらく発祥地は肥前国高来郡小野邑(現:長崎県諫早市小野町)でしょう。
出自は藤原氏隆家流西郷氏族。
西郷氏は肥後の豪族として有名だが、肥前国高来郡西郷邑(現:長崎県諫早市西郷町)発祥。
現在の西郷町にも小野姓が存在します。
肥前西郷氏は龍造寺氏や有馬氏に属し、没落後は平戸藩松浦氏に仕える。
剣花菱は龍造寺氏の紋ではなく鍋島氏の紋との説もある。
鍋島藩三家老の一、諫早氏は龍造寺家門の嫡子鑑兼の裔。
[33] | 小野さんからのコメント(2012年05月03日 11時43分25秒 ) | パスワード |
ありがとうございます。参考にさせていただきます。
除籍謄本で遡りましたが、1800年代初めに佐賀の旧大和町に住んでいたのは間違いありません。江戸時代の感覚だと諫早と旧大和町は少し遠い気もしますが、それよりずっと前、戦国時代は戦の連続で転戦したのでしょうから、諫早から白石、あるいは旧大和町に移ったのかもしれません。
我が家は分家で、本家の人も出自が分からないと言っていますが、自分の子供たちや子孫のために、出自がどこなのか、何故家紋が丸に剣花菱なのか、もっと自分のルーツを知りたいと思っています。
[36] | RYUTAさんからのコメント(2014年09月30日 23時15分18秒 ) | パスワード |
はじめまして
私の父親方は、剣花菱です。
出身は鹿児島県志布志になります。
[37] | 中山さんからのコメント(2016年09月13日 01時38分04秒 ) | パスワード |
はじめまして。
佐賀県嬉野市出身の中山です。
私の家の家紋は『丸に花剣角』です。
満州開拓などで、昔の書物も行方不明となり、
自分のルーツにとても興味があります。
家系図としては天保13年に中山徳エ門という部分までしか
遡れそうにありません。
ここの掲示板を拝見する限りだと、平家の流れを組む
龍造寺家の影響があるのでしょうか。
龍造寺家に由来のある「面浮立」という踊りが、地元で踊られております。
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