[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年06月23日 12時21分43秒 ) | パスワード |
>何故、巨勢氏の一族である九十瀬入道と平清盛とがつながるのか分かりませんが
巨勢氏とは竹内宿禰の子孫で古代の身分の高い一族だったそうですね。
では次回の妹川水天宮、楽しみにしておりますね。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年06月23日 13時43分33秒 ) | パスワード |
タイトルをちょっと変更させて頂きました。
検索がし易いように。
[3] | 妹川武史さんからのコメント(2002年06月29日 09時48分41秒 ) | パスワード |
先日から、大変お世話になっています。
この度、妹川朝臣について少しわかりましたので、報告いたします。
浮羽町郷土歴史研究家の方によれば、「妹川朝臣は、巨勢氏の子孫で、平家関係の人。」だそうです。また、浮羽町妹川に住む鑓水氏については、平家の子孫で、巨勢氏と関係があるそうです。
妹川の地名については、郷土会誌『うきは』第5号に「妹川という地名は、壇ノ浦合戦の2年後くらいから呼ばれたのでしょう。佐賀県には姉川(あねがわ)という地名があります。元祖は平教盛(のりもり)で、こちらの妹川は平経盛(つねもり)です。これは教盛の妻が姉で経盛の妻が妹と言うわけです。(尊卑分脈系図による)普通の系図では兄弟が逆になっています。」とあります。
以上のことから、平安時代末期、巨勢氏の子孫で平家と関係のある妹川朝臣が開墾したので、妹川村と呼ばれるようになったと思います。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2002年06月29日 10時18分48秒 ) | パスワード |
妹川があれば姉川があって当然ですから
佐賀県に姉川という地名があるのでしたら安定が良くなります。
2人とも清盛の弟達ですね。
普通の系図では清盛>経盛>教盛ですね。
清盛の弟達は姉妹で妻を迎えたようですね。
面白いですね。
[5] | 妹川武史さんからのコメント(2002年06月29日 19時15分54秒 ) | パスワード |
いつも貴重な御教授をいただき、ありがとうございます。
本日は、妹川水天宮について報告いたします。
久留米水天宮については、源三さんが詳細にされてありますが、浮羽町妹川にも水天宮が存在します。由来についてはわからないそうですが、祭神は安徳天皇です。大山神社と共に、平家と深い関係のある神社です。宝物も神社に陳列しているそうです。
現在は、小さな祠でありますが、妹川の住民には、妹川水天宮こそが本家で、久留米水天宮はのれん分けである旨の言い伝えがあるそうです。
機会があれば、見に行こうと思っております。
しかし、妹川については、姓氏に関する本やインターネット等で調べても、情報量が少ないため、苦労します。
[6] | 隈さんからのコメント(2002年06月30日 10時28分24秒 ) | パスワード |
妹川さん、どうも初めまして。
私の主人の故郷が久留米市大善寺で、やはり平家伝説が残っています。
下のスレッドに書きました。
http://bbs.c-studio.net/heike/100085.html
やはり筑後川沿いはかつて平家の荘園で占められ、平家寄りの人々も多かったようですね。
この周辺はもともと古代から水神信仰が盛んだったようで、それと海に沈んだ平家の人々の話が結びついて、入道河童等、様々な伝説が生まれたようです。
ちなみに、水天宮はかつては決まった場所で祀られていたのではなく、筑後川沿いの安徳天皇隠棲地伝承のある場所を点々としていたそうです。それが江戸時代になってから、久留米藩主の有馬氏の手篤い保護により、現在の地にお社を建てて落ち着いたのだということです。
だから、水天宮はもともと妹川にあったのだという伝承も、そういった意味で嘘ではないと思います。
[7] | 妹川武史さんからのコメント(2002年06月30日 13時20分32秒 ) | パスワード |
隈さん。はじめまして。
私も、現在は、久留米市に住んでいます。2年前から先祖調査をはじめ、月に2回ほど久留米市立図書館へ行って調査してますが、なかなか史料等がありません。でもこのサイトのお陰で、妹川姓について判明しつつあります。
今後も、妹川姓及び妹川の平家伝説について、調査しようと思っておりますが、何かご存知のことがあれば、教えてください。よろしくお願いします。
[8] | 隈さんからのコメント(2002年07月04日 16時41分31秒 ) | パスワード |
私の手元の資料は、少し前に久留米市立図書館に調査依頼して取り寄せたコピーですので、もうご存知かも知れませんが。
「筑後地区郷土研究」によれば、妹川・樫ヶ平の水天宮には、
「水徳天皇」と書かれた天牌が建っている、とあります。
また、妹川・元有には、二位ノ尼のお墓もあるそうです。
以下、同書より一部抜粋します。
いま水天宮のきた100mばかりのところに「鷺ヶ鼻」という地名が残っている。
かつての鷺野原の名残りといわれる。
『水天宮由来記』には「鷺野原は千年川(筑後川)の河原にして其頃は未だ筑肥の界も定まらず、荒漠たる所なりき。
後に高き所を高野といひ、森ある所を小森野といひ、下の方なりければ下野といふとかや」とある。
筑後の平家伝説は、こうした荒涼たる筑後川の河原に発生したのであった。
しかし「尼御前(下級の巫女。琵琶法師の女性版。)」たちの斎きまつる水天宮の歴史は、残念ながら極めて曖昧模糊としたものである。
社伝では建久初年鷺野原に創建されたとしながら、筑後川沿いを転々としたといい、
久留米市郊外の下野・小森野・梅林寺山頂の神池・光勝寺・旧山本郡常持の庄前神社・
八女郡妹川の水天宮など、いずれもその旧地であると伝えている。
それが旧久留米港脇の現社地に落ちついたのは、慶安三年(1650)のことで、久留米藩主有馬忠頼の格別の信心からだといっている。
水天宮の歴史に不明の点が多いのは、「八百比久尼」がその信仰を支えていたためである。
「八百比久尼」の著しい特徴は、定まった祭場をもたず、一生漂白して歩くことにある。
水天宮の「尼御前」たちもまた、筑後川を上り下りしながら沿岸各地の河の神祭りに参加し、
水難除けの祈祷、あるいは雨乞いの祈祷―いわゆる水天供をつとめながら、
有名な「護文字」の神符を売りさばいていたのであった。
「ごぜ=《「鼓」の下に「日」》+女」として芸達者な彼女達が、祭のアトラクションに語ったのが、水神祭の由来譚である。
それは彼女達が斎きまつる水神―平家一門の哀史であった。
その祭場の名残りが、現在各地に残る平家伝説地であり、
それを綴りあわせれば『水天宮神徳記』―筑後の平家物語にもなる。
[9] | 妹川武史さんからのコメント(2002年07月06日 18時34分30秒 ) | パスワード |
隈さんありがとうございました。
「筑後地区郷土研究」は、筑後市のことを記載しているものと思っておりましたので、見ていませんでした。妹川のことがよく分かって、うれしかったです。今度、図書館に行った祭、読んでみようと思います。
[10] | 矢羽田さんからのコメント(2002年07月31日 19時41分53秒 ) | パスワード |
ごめんください。
初めまして。
巨瀬川を調べていましたら、このサイトにたどり着きました。
妹川、尼ヶ瀬生まれ、現在東京に暮らす43の男です。
故郷の妹川にこんな歴史があることを全く知らないまま今日に至ってますが、
改めてまして、言葉にできない程の凄さを感じ、心高まり熱くなっております。また、同時に、熱心に調べておられる妹川武史様並びに皆様に、頭が下がる思いです。
お盆に帰りますが、樫ヶ平の友人及び周囲の人達に、少し聞いて回ろうかと思っています。歴史にうとい自分ですが、そこで何か分かりましたらご報告致します。
最後に、ここに書き込みできることに心から感謝致します。
[11] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月31日 22時45分01秒 ) | パスワード |
矢羽田さん
初めまして。
>お盆に帰りますが、
>樫ヶ平の友人及び周囲の人達に、少し聞いて回ろうかと思っています。
>そこで何か分かりましたらご報告致します。
是非お願い致しますね。
[12] | 我 故郷さんからのコメント(2004年12月21日 14時51分56秒 ) | パスワード |
( ^-^)ノ(* ^-^)ノこんにちわぁ♪ 先日ITができるようになったので妹川で検索していたところ、歴史について掲示してあったココにつきました!! 自分が住んでたところはこんな歴史があったかと思うとまだまだ奥の深いところだと思います。 住んでたときは興味がなかったんですが・・・
今は名古屋にいるのですが懐かしさに浸りながら見てきたいと思います。
寒くなりますが体には気をつけてくださいねっ!!
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