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 投稿番号:100315 投稿日:2002年06月15日 21時42分14秒  パスワード
 お名前:川口 信
梶原七家臣と山姥物語
キーワード:梶原内羽黒七人衆 福富新蔵国平
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

 山姥物語は源頼朝の功臣梶原平三景時一族が正治2年(1200)正月20日駿州清見関で討死後、相州寒川の梶原屋敷にあった景時次男平次景高の遺児豊丸君のちの梶原景親公を守護して尾州丹羽郡羽黒村に落ちのびた景時家臣福富万蔵国秀ら七家臣にまつわる物語である。七家臣とは福富万蔵国秀、福住治部定清、吉野兵衛忠明、丹羽彌右衛門家兼、斎木外記貞住、寺澤右門充重、田山地右京綱原である。七家臣の血脈は尾北の地に継ぎ、この地の豪族として枝葉を張っている。

 梶原景時については服部明子さんのスレッド「梶原景時」・「梶原景時:寒川」を参照してください。
 

[1]川口 信さんからのコメント(2002年06月15日 21時54分37秒 ) パスワード
  

 この福富万蔵の末葉が山姥退治の主人公福富新蔵国平で亀山院弘長2年(1262)のことである。福富家は代々羽黒城主に仕えたが織豊期には二条城で討死した福富平左衛門がある。新蔵の墓は羽黒高橋の村墓地にあり、延慶2戌6月29日、甚四郎建立の刻名がある。山姥退治から47年後である。「羽黒興禅寺記録」によれば現当主は神戸市にお住まいとのこと。
梶原景時については尾張に関係が深く興禅寺は承安4年(1174)梶原景時によって建立されたとあり、また甚目寺の南大門も源頼朝公の命で、景時によって建てられたと言われ、現在国宝の指定を受けている。
 
「山姥物語」とは岐阜・尾張北部に伝えられている伝承で、あら筋は文久九年、折柄の名月に福富新蔵は狩装束で二匹の犬をつれ、本宮山に狩に出た。山頂の奥宮の灯明の火影に白金のごとく髪一丈に余る女があり、そのすさまじい姿こそ世人の恐れるこの山の山姥なりと南無八幡を念じ五人張の弓を丁と放つ、灯明は消え、一山振動して雲霧一天を覆うとある。晴れるのまって社頭を見ると真っ黒な血が流れ、点々と血痕を辿っていくと、小池与八郎の家の門にたどり着いた。屋内を調べると障子に二首の辞世が残されて妻女の姿は消えていたという。
 
 これらの伝承をまとめた「梶原内羽黒七人衆と山姥物語」という本が七家臣の一人「吉野兵衛忠明」のご子孫が先祖五百年諱に編纂・発刊されました。
 これら関係資料は山姥物語が伝説でなく史的背景も明らかで、梶原景時末流その家臣にまつわる山姥物語と理解すべきであろうと。
 
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年06月15日 23時21分38秒 ) パスワード
  

愛知県春日井市に梶原家の所領地があったとは聞いていましたが
尾州丹羽郡羽黒村に落ちのびた
というのはその縁を頼って落ちて来たという事だったのですね。
[3]川口 信さんからのコメント(2002年06月19日 10時31分09秒 ) パスワード
  

 梶原景時は平忠盛につかえ、忠盛は尾張守を受領した(1144年)。景時は目代として尾張国府に下向し、この時以来、小弓荘や稲木荘とは関係があったとされている。源頼朝の家臣となってからは、景時の受領国は、播磨・美作の両国であるが、一族の所領地は九州はじめ全国各地に点在しており、尾張では篠木庄が、次男平次景高、内海野間の庄が同じく景高妻室(野三刑部丞成綱女)の所領地で尼御前(北条政子)の寵愛深かったので梶原一族滅亡後もこの地は安泰であったとされている。 
 梶原景時の弟・景高の遺児豊丸(後・景親)を連れて尾張に来たのは「隅の方」縁で、「隅の方」は豊丸の乳母で梶原屋敷の女中頭をつとめた才女で、出身は尾張羽黒村高橋の長谷部左善(のち長谷川に改名)の娘であった為とされ、嫡男景季の妻室・景茂の妻室らをも伴って羽黒村に移り住んだといわれている。本来なら景時が没したのは今を去ること七百九十年余になりますが、吉野家中興の祖、吉野顔右衛門尉吉次の五百年諱には同族、七家臣のご子孫等があつまり、美濃梶原の血を継がれる岐阜県知事梶原拓氏を梶原景時公顕彰会名誉会長に選び、吉野家、長谷部家、福富家等が代表で挨拶し法要をされたということです。

 また、ちがう話ですが。下記のような記事(URL)もありました。

     ☆★ 景時公の石像除幕 ☆★

   〜河口湖県立実行委 子孫招き150人祝う〜

 歴史愛好家でつくる梶原景時公像の県立実行委員会(梶原等代表世話人)は河口湖町船津の町有地に、鎌倉時代の武将、梶原景時(1140−1200年)の石像を建て3日、除幕式を行った。
 同実行委員会によると、梶原景時は鎌倉幕府の将軍源頼朝の側近として活躍したが、執権北条氏との抗争に敗れ現在の静岡県清水市で自刀。県内では景時の八男、景則が北麓(ろく)から東部地域を治めていたとされ、「鎌倉大草紙」や「甲斐国志」では県内の梶原氏は景時に関連した一族の末裔(まつえい)であるとしている。
 県内の梶原姓、約730世帯のうち、3割以上に当る約240世帯が同町内に住んでいることから、同実行委員会の要望にこたえ町が像建立のための敷地を提供した。像は花こう岩でつくられており、高さは約1.6メートル。江戸時代の役者絵の中の景時の絵を参考に製作したという。
 式典には、景時の直系に当る神奈川県鎌倉市の平田忠敬さんや東京都大田区の梶原敏正さん、同町の関係者ら約150人が出席し、石像建立を祝った。

          資料提供:山梨日日新聞 2001年11月4日(日) 23面
[4]田山地 さんからのコメント(2004年12月29日 17時33分39秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2005年01月03日 17時09分13秒
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月30日 10時34分50秒 ) パスワード

検索してみました:


御一族ということで岐阜県多治見西高の田山地先生にお問い合わせになっては?と思いますが。
お名前を出して良いのかとも思いましたがネットで出てましたから
検索なさってフルネームをお調べください。


田山地さんって珍しい御名字ですね。
坂東から下向していらっしゃったのか?それとも尾張のもともとの豪族の1家でしょうか?

梶原氏は春日井にも土地を持っていたと読んだことがあります。
美濃尾張あたりに田山地氏は今でも大勢いらっしゃるのでしょうか?

岐阜知事が梶原さんとおっしゃるそうですね。

なにか分かると良いですね。
[7]アカコッコさんからのコメント(2005年01月01日 08時22分23秒 ) パスワード


ネットで検索しても田山地右京綱原(つなもと) について研究している人がおられる方がないみたいですね。
 田山地(昔は多[大]陽寺ともあり)姓の方が沢山の方がおられますね。

 『梶原内羽黒七人衆と山姥物語』という本には田山地右京綱原の名前が記載され、七人衆の家系譜がチョット記載されており、田山地右京綱原の子孫田山地○○さんの名前がでております。そして、同氏所蔵のなぎなた・田山地家平家門鬼瓦・同平家門の家紋のUP写真など掲載されております。

 田山地九右衛門綱延の名前があり、代々の法名が記載されおります。それによれば、九エ門を代々襲名しておられるみたいです。
 
 また、七人衆が土着した事については「梶原家臣七人衆等は七家各富家にて栄える」(現時田山地家は大口村○○、他の六家は羽黒村に)とあります。

 ○○はちゃんと書いてありますが、いちおう伏字にしておきました。

 七人衆のご子孫も記載されており、寺沢家においては、初代が承久弐年より始まっており、現地調査をすれば詳細が判明すると思われます。すでに上記本をご覧になっておられましたら、すみません。

 

 
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年01月01日 08時58分24秒 ) パスワード

アカコッコさん、さすが〜


ということは梶原景時の自伝や歴史を調べたら載っていそうですね。


>田山地家平家門鬼瓦・同平家門の家紋

これはどうして平家なの?と思いましたが、ま、歴史は複雑怪奇ですから。


南朝方あたりで動乱期も活躍なさったのかしら?と思いました。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年01月01日 09時08分46秒 ) パスワード

アカコッコさんからの情報を元に調べてみましたら

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/kyakata.html


<文献にみる河越館跡>に<川越藩主・秋元涼朝の家臣である大陽寺盛胤が>というのが出てました。
詳しくは上記 URL を御覧ください。

また多[大]陽寺を検索しますと秩父あたりに関係あるのかしら?とも思いました。


もともとは坂東平氏なんでしょうかねえ。
河越藩の分限禄を調べたら詳しいことが分かるのかもですね。
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年01月01日 09時11分28秒 ) パスワード

坂東平氏ならもともとは梶原氏の御一族だったかもですね。
[11]太陽寺 綱行さんからのコメント(2005年02月21日 12時09分23秒 ) パスワード

おおお!!
なんとなく自分の名前で検索したら先祖の名前が出てきて
驚きました。
田山地と申しますが、上の方とは別人です。
田山地 右京 綱原と明記されてましたが、正式には太陽寺 右京 綱原です。
祖父が残した文献では綱原は右大臣だったと、聞き及んでます。
それが真実なのか、知りたくて色々探してはみましたが、まだ探し出せずにいます。
もし歴代の役職に詳しい方がいましたらお教え頂きたいです。
因みに太陽寺から田山地に改名したのは西暦1757年12月に徳川公より
御改め、田山地と改名したそうです。
[12]名古屋さんからのコメント(2011年09月15日 20時11分05秒 ) パスワード

このスレッドは、既に誰もご使用されておられませんか?
私も田山地なのですが、先祖のことをもっと詳しく
知りたいと思っております。
[13]長谷川さんからのコメント(2012年12月11日 00時49分46秒 ) パスワード

はじめまして。
羽黒高橋在住の長谷川です。
まあおそらく長谷部左善の末裔だろうと思ってはいるんですが・・
じいちゃんに聞いたら親戚に七家臣の吉野家と田山地家があるそうで。
ルーツがもっと詳しく知りたいです・・・
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