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 投稿番号:100314 投稿日:2002年06月14日 21時22分49秒  パスワード
 お名前:服部 明子
平家盛:「頼朝一命を拾う」の裏:家盛生存説

コメントの種類 :人物  パスワード

源 頼朝が一命を助かった裏に
清盛の父の後妻・池の禅尼の嘆願があった事は広く知られていますが
実はその裏にもう1つ知られざる秘密があったのです。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年06月14日 21時27分02秒 ) パスワード
  

私が誤解していたのは
当時14歳の頼朝に似てたということから
平 家盛は10代あたりで亡くなったのだろうと想像してましたが
実は27歳で亡くなってたのです。

さらに彼の死には当時ある事が噂されていたとご子孫の方よりメールを頂きました。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年06月14日 21時59分32秒 ) パスワード
  

頂いたメール:


家盛の早世は、熊野詣での帰途での病没となっています。
ただ当時の京の人々は、
その死を延暦寺の僧たちの集団呪詛によるものと、
噂し合ったとも言われています。

つまり、家盛の死の二年前、
1147年の清盛の引き起こした「祇園乱闘事件」における、
清盛に対する咎が罰金刑と非常に軽かった為、
清盛の配流を訴えていた延暦寺僧たちは大きな不満を抱え、
平家一門を仏法で呪詛しており、
家盛の早世はその呪詛のためである
と噂されていたそうです。
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年06月14日 22時06分21秒 ) パスワード
  

メール:続き:頼朝を助命した理由について


池禅尼は後に残る記録からみると、非常に聡明な女性ですので、
そのような噂は信じなかったと思いますが、
ただ自らの大切な第一子であるので、
心のどこかでは、何故、没したのが清盛でなく家盛なのかという事について、
釈然としなかったところもあったのではないかとも思われます。

また清盛自身も、呪詛等非合理的な事は一切信じない、
おそらく池禅尼以上に聡明な人物であったと思われるのですが、
やはり事が弟の死という一大事でしたので、
どこかで家盛は自身の身替わりになったのではという、
普段では考えられない思いにとらわれたのかも知れません。

おそらくその清盛の思いが、
家盛、および池禅尼への負い目となり、
禅尼の頼朝助命の嘆願に従ってしまった要因のひとつではないかとも思われます。

さらに池禅尼からの頼朝助命の理由が、
亡き家盛に似ているからと言われれば、
清盛も成すところがなかったのではないでしょうか。



以下はわたくしとのメール交換のレス:

ただ27歳で亡くなった家盛と14歳の頼朝が似ているというのも、
そのまま通じる話ではありますが、
さらに家盛に頼朝と同年代の遺子があり、
池禅尼はその子と頼朝を重ね合わせることによっても頼朝斬殺が忍びなく、
強く助命に動いたという服部様の御説も、自然に受取れます。
[4]服部 明子さんからのコメント(2002年06月14日 22時11分34秒 ) パスワード
  

このメールのお相手の方は池禅尼のご子孫で
一応池禅尼の息子・池の大納言・平頼盛のご子孫と系図の上ではなっていますが
ご自身では池禅尼の最初の子・家盛の系統ではないかとお考えです。
[5]服部 明子さんからのコメント(2002年06月14日 22時31分12秒 ) パスワード
  

ここで清盛の兄弟の生年を書き込みます:


清盛:1118年生まれ
家盛:1122年?(1149年に27歳で亡くなってるそうですから)
経盛:1124年生まれ
教盛:1128年生まれ
頼盛:1132年生まれ
忠度:1144年生まれ
頼朝:1149年生まれ(友情出演)参考までに

こうして並べますと家盛は清盛が幼い時に生まれているのですねぇ。


忠盛には妻がたくさんいたと思いますが
池禅尼は出身が藤原氏ですから「後妻」とは呼ばれますがレッキとした正妻だったのでしょうね。
清盛の本当の父親は実は白川法皇という噂もありますから
ちょっと難しい家庭環境だったようですね。

池の禅尼を平 忠盛の後妻と呼ぶのは失礼なんだって思いました。
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年06月15日 09時50分34秒 ) パスワード
  

頼朝ファンからレスを頂きました:


色々な本を読んでいると、どれが本当か判らなくなります。
大体が「頼朝に似ていた」説です。

私はその説に、昔から疑問を持っていました。
今更、そのことを確かめる術はありませんが、
「他人の空似」にしては、話が出来過ぎていると思っているのです。

じゃ何故そんなことをしたのか?

池の禅尼の立場は微妙でした。
良かれと思って清盛に勧めた婚礼を清盛に拒否され、
いやいや説得させて結婚させても、子供をもうけてすぐ亡くなってしまう。

次の妻の時子に、愛を注ぎ込む清盛をみて、禅尼の心が穏やかな筈はありません。
私はそうした禅尼と清盛の確執に注目しています。

心の何処かに「清盛に対する対抗心」があったと言ったら言い過ぎでしょうか。
そこから、「頼朝でも誰でもいい。清盛をギャフンと言わせたい」というチャンスを
狙っていたと言ったら考え過ぎでしょうか。

まだ私自身、その考えに到達はしていませんが、「似ている」というだけでそこまで
命をかける池の禅尼の本心をじっくり探ってみたいのです。

しかし何はともあれ、頼朝が池の禅尼に命を助けられたことは事実です。
それには頼朝ファンの私は感謝しています。
そして、「助けてもいいのではないか」と思っていた重盛にも感謝です。

何故か清盛ではなく、源義朝墓の隣に眠る、池の禅尼の墓。
今地下でほくそえんでいるのは、一体誰でしょうか。
[7]川口 信さんからのコメント(2002年06月15日 17時51分19秒 ) パスワード
  

 平家盛の子孫と名乗っている家があるそうです。

 平家盛(清盛の弟で、忠盛の正妻池禅尼の子)は、壇ノ浦の合戦後、文治3年(1187年)宇久島に上陸して、土着の豪族を平定して、山本の地に館を築き領主となり、宇久家盛と称した。
 宇久家盛は、鎌倉幕府より所領安堵、従五位下、肥前の守に任ぜられた。
 以来、8代覚が弘和3年(1383年)、福江島に移るまでの約200年間、当地にあって、五島列島一円を勢力下においた。
 1592年「朝鮮の役」の時、20代純玄が「宇久姓」を「五島姓」と改めたので、五島家の発祥地は宇久島であり、始祖は平家盛である、ということになる。      

 http://www1.pref.nagasaki.jp/sima/html/profile/hirado/heike.htm
  (平家の歴史)

 
 http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/jinbutujiten/jinbutujiten.html

 上記アドレスは「平氏人物辞典」と言うURLです色々と便利です。「平家礼賛」と言うホームページの中に入っております。
[8]服部 明子さんからのコメント(2002年06月17日 12時36分02秒 ) パスワード
  

宇久の五島氏は
・重盛の4男有盛の子孫とも
・清和源氏武田氏の子孫とも
・松浦党の子孫とも
いろいろなお説があるそうですね。


地理的に松浦党の子孫というのは納得が行きます。
源氏を名乗ったというのも時代が時代なので理解出来ます。


問題は平家の子孫とも称しているところ。
家盛子孫説・有盛子孫説。
どちらもロマンがあって素敵ですが
家盛が生きていたというのはロマンがあって面白いのですけど
http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/jinbutujiten/jinbutujiten.html
によれば清盛と家盛は確執があったようでございますね。


上記<2>の呪詛で死んだという事にして落ち延びさせた、という家盛生存説。
謎でございますね。
[9]服部 明子さんからのコメント(2002年06月17日 12時56分56秒 ) パスワード
  

宇久の町は平家盛で町起こしをしているのですねえ。
そして
宇久町役場 : 長崎県北松浦郡宇久町平郷2581-5
町の紋も揚羽蝶なんですねえ。
ビックリしました。


http://www1.pref.nagasaki.jp/sima/html/profile/hirado/heike.html
上記URLには l が抜けてたので改めてこちらに訂正させて頂きますね。
[10]服部 明子さんからのコメント(2002年09月03日 11時10分51秒 ) パスワード
  

<2>の追加

最近、村上元三の「平清盛」を読み直しております。
徳間文庫の660円の本です。

148ページに「家盛」の話がほんの2行書かれていました。
頼朝が宗清に捕えられ池の禅尼の前に引き出された時の事です。

「禅尼の長男家盛は、12年前、鳥羽上皇の熊野御幸のおん供をして
都へ帰る途中、病を得て、宇治のあたりで世を去ってしまった」

これだけでしたが
もしご興味ございましたら
是非お読みになって下さい。


池の禅尼と頼朝の出会いは1160年2月の事ですね。
家盛は1149年27歳で亡くなっているそうです。
[11]takahiroさんからのコメント(2002年09月03日 14時53分41秒 ) パスワード
  

平家盛については、早世のためか、あまり史料は後世に残されていないようです。

 1123年 父平忠盛、母藤原宗子(池禅尼)のもとに生まれる
 1134年 六位蔵人に補される
 1138年 石清水八幡宮臨時祭にて新舞人を務める
       従五位下左衛門佐に補される
 1147年 従五位上常陸介に補される
       賀茂臨時祭舞人(左兵衛佐として)を務める
 1148年 従四位下常陸介右馬頭
 1149年 病没する

 この病没については、『本朝世紀』久安五年三月十五日の条に次のように記されています。

 「是日。法皇自熊野還御。令着鳥羽御。年来例。無殊事之時。令参稲荷御。今度無比事。是日。従四位下右馬頭兼常陸介平朝臣家盛卒。扶病扈従熊野御供。自去十三日殊以更発。今日於宇治川落合之辺気絶了云々。乳母父右衛門尉維綱自京馳向。不耐哀慟忽剃頭了云々。」

  
[12]服部 明子さんからのコメント(2002年09月03日 21時35分22秒 ) パスワード
  

takahiroさま

原典もお書き下さり恐縮です。

>乳母父右衛門尉維綱自京馳向。不耐哀慟忽剃頭了云々。

乳母の父親という人物が自ら大急ぎで都に戻って母の池の禅尼に伝えた
というのが短くはあるのによく伝わって来る文章ですね。

そして悲しみに耐え切れず頭を丸めて出家した・・・
可愛がられていたのが分かりますね。

ありがとうございました。
[13]takahiroさんからのコメント(2002年10月10日 06時56分45秒 ) パスワード
  

池禅尼による頼朝助命についての「平治物語」における記載、以下の
アドレスを紹介します。

 「平治物語」現代語訳 <頼朝が遠流に赦されること>
 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/9333/hei16.html


『平安時代辞典』には、「藤原宗子」として、次の記載があります。

  従四位上修理権大夫宗兼女。宗兼は白河法皇の近臣であり、また待
  賢門院の祇候者でもあった。忠盛も白河法皇の近臣且つ待賢門院別
  当であった。その関係から宗子は保安二年(1121)〜三年ごろ、忠
  盛の後妻となり、翌四年家盛を、そして長承元年(1131)頼盛を生
  んだ。保延六年(1140)崇徳天皇の皇子重仁親王の乳母となる。仁
  平三年(1153)正月、忠盛と死別、即日出家し六波羅第内の池殿に
  住したところから、池禅尼と呼ばれた。保元元年(1156)保元の乱
  に際して後白河天皇につくように諭し、永暦元年(1160)二月源頼
  朝が捕らえられた時、その助命を嘆願するなど、実子のみならず継
  子に当たる清盛に対しても発言権を有していた。

 また池禅尼の系譜については、

 中関白藤原道隆ー隆家ー良頼ー良基ー隆宗ー宗兼と続き、宗兼の娘が
 宗子(池禅尼)となります。

 宗兼の妹にも、宗子という人物がおり(隆宗の娘)、彼女は藤原家保
 の室となり、家成を生んでいます。

 (平家盛の「家」とは、この藤原家保系統からの縁りなのでしょうか。
  また平頼盛の「頼」とは、「良頼」からの縁りなのでしょうか。)

 家成の子には、隆季、成親がおり、隆季の子が隆房で、隆房は清盛の
 娘を室にしています。また成親の娘は平維盛の室となり、後に六代御
 前を生んでいます。
 
 また家成の娘は、清盛長子重盛の室となり、清経、有盛、師盛、忠房
 らを生んでいます。
   
 藤原家成の家と、平家一門は、非常に深い関係を結んでいたようです。
  
 清盛が若年時、藤原家成邸に出入りできていたのは、宗子(池禅尼)の
 由縁に拠ることが大きく、その事が後に、清盛が池禅尼にはどこか遠慮
 があった事の、遠因となっているのかも知れません。

 池禅尼は、忠盛の正室であるうえ、後の平家と藤原氏の関係の、その端
 緒を開いた人物でもある故、一門内では、発言権が大きかったのかも知
 れません。
[14]川口 信さんからのコメント(2002年10月10日 08時26分27秒 ) パスワード
  

 保元の乱に後白河方に清盛、頼盛、敦盛、重盛など平家の面々が参集しておりますが、清盛と頼盛とは兄弟といっても異母であり、しかも頼盛の母(忠盛の後妻。池禅尼)は崇徳の長男である重仁の乳母であった。頼盛は本来は崇徳方に加わるべき立場にあったのであり、その頼盛が後白河方となったのは、『愚管抄』によれば、母の指示によるものであったという。この頼盛の離反は、崇徳方にとっては手痛い打撃であったという。

 【保元の乱にも、頼盛が母が新院の一宮をやしなひまいらせければ、新院の御方へまいるべき者にて有けるを、「この事は一定新院の御方はまけなんず。勝つべきやうもなき次第なり」とて、「ひしと兄の清盛につきてあれ」とおしへて有ける。】
 
 なお、1159年の平治の乱において、源頼朝は頼盛の懇望によって助命されることになるが、これが許されたのは、保元の乱における頼盛の帰参が高く評価されていたためではないかと推測される。(保元の乱・平治の乱」:河内祥輔著)より

 色々な見方もあります。が『愚管抄』の文も納得させられるものがあります。
 
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