キーワード:緒環 緒方三郎惟栄 源為朝 大蛇伝説 保元の乱 椿説弓張月 コメントの種類 :人物
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初めて参加いたします。よろしくお願いします。
実を言うと私は「平家物語」よりも「保元物語」派というか、「崇徳天皇」派なんですけれども、どうしても探りたいことがあっての書き込みです。
「平家物語」には「緒環」の章をはじめ、後半の所々に「緒方三郎惟栄(惟義)」が出てきますね。九州豊後の武将で、「平家太宰府落ち」、さらには「判官都落ち」まで、結構重要な人物ですがほとんど知られていないようです。
資料を紐解いても、養和元年(1181)から文治二年(1186)までのわずか6年間しか彼の足跡は見あたりません。
出年についても正確な記載はありませんが、渡辺澄夫氏の「源平の雄 緒方三郎惟栄」によると、2説あって、「豊前国緒方宗家系図」では大治二年(1127)とし、「三鱗三本杉」の著者木村高士の家伝では康治元年(1143)となっているようです。
私は前説をとるものですが、その場合、正史への登場年齢は54歳であり、前半生が見えません。そこでいろいろ調べるうちに解明しなければならないことが生じました。それは源為朝との関わりです。
為朝は保元の乱の前、6年ほど豊後(大分県)にいて、阿蘇の平忠国と手を組み北部九州を制圧しています。1149年~1154年の間です。この時の緒方惟栄の年齢を逆算すると、22歳~28歳です。
豊後国府と阿蘇氏の領地に挟まれた「緒方庄」の統領である惟栄が為朝と戦っていないはずはありません。しかも、後年、「平家物語」で活躍しているのですから敗死してもいないのです。しかし、為朝は一帯を制圧している。
とすれば、惟栄は為朝と戦い、降伏して配下となったと考えることが一番自然だと思うのです。
源為朝と緒方惟栄の戦いの記録は今もって見つかりません。しかし、大分県由布岳山麓の為朝大蛇退治伝説や、佐賀県から長崎県に掛けて分布する為朝の黒髪山大蛇退治伝説などは、緒方惟栄の出生秘話である姥岳伝説(「緒環の章」で語られている大蛇の末裔伝説)と重なると思うのです。
もし、これが繋がれば、四国山中に忽然と現れる「為朝伝説(=崇徳逃亡説)」に俄然有利な展開が望めます。
「瀬を速み 巖に急かるる 滝川の 別れても末に 逢はむとぞ思ふ」の歌が四国山中の急流の中でしか歌えないと信じてやまない田舎ロマンチストの妄想かもしれませんが是非ともこれを証明してみたいのです。
そこで、みなさんにお尋ねします。源為朝と緒方惟栄の関係についての説話や考察文献、あるいは、個人的な見解など何でもよろしいのでお教え願いたい。
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