[1] | たまねこさんからのコメント(2002年06月06日 00時21分52秒 ) | パスワード |
今、読んでいた本に、このようなことが書かれていました。
『平家物語』の成立時期、作者については全く不明である。琵琶法師の語りが先行するのか、著述が先行するか、云々。
『徒然草』226段の伝承(天台座主慈円が信濃前司行長に物語を作らせ、生仏という琵琶法師に教え語らせたという)は、『平家物語』成立から100年以上経たものであり、直ちに信をおくことはできない。
物語生成途上で、最も確実な資料は、親尊書写『普賢延命鈔』の紙背に発見された醍醐寺僧深賢の手になる建長頃の書状に認められている『平家物語合八帖(本六帖・後二帖)』。『合八帖』の詳細は不明だが、少なくとも13世紀中期頃の深賢の手元に『平家物語』が存在した。
これによりますと、学僧の深賢を中心とした情報網(1100〜1300年)が、物語を生成したのであって、具体的な作者について指定することは、あまり意味がない。
『平家物語』の魅力は、一個人の創作ではなく、豊かなネットワークによるものなのだということです。私もそう思いたいところです。
忠勇な従者たちが、生き残ることで己の罪を償い、琵琶法師となって、亡者の鎮魂のために平曲を語って歩いた。それが、いつしか、さまざまな物語として伝えられるようになった…と、私は思っているのですが、本当のところはどうなのでしょうね??
[2] | 川口 信さんからのコメント(2002年06月06日 08時54分31秒 ) | パスワード |
天野さん初めまして。たまねこさん相変わらず夜中派ですね。
>『平家物語』の魅力は、一個人の創作ではなく、豊かなネットワークによる ものなのだということです。私もそう思いたいところです。
>忠勇な従者たちが、生き残ることで己の罪を償い、琵琶法師となって、亡者 の鎮魂のために平曲を語って歩いた。それが、いつしか、さまざまな物語 として伝えられるようになった…と、私は思っているのですが、本当のと ころはどうなのでしょうね??
同感です。民衆の文学だとおもいます。それで作者というより関係者が多くおり、平家物語本の種類が多いのだと。
参考のため色々な説が載っているURLがあります。
http://www26.tok2.com/home/gokenin/zousho/heike.htm
http://www.kourataisya.or.jp/heikebon/
http://www.tokyo-np.co.jp/doyou/text/d49.html
などあります。
[3] | 天野さんからのコメント(2002年06月06日 17時53分21秒 ) | パスワード |
たまねこさん、川口さん、返信有難うございます。
調べたところ、
『徒然草』226段に言う信濃前司行長・盲人性(生)仏合作説。
『尊卑分脈』に言う藤原氏、葉室家の時長説。
『醍醐雑抄』に言う時長説、時長・吉田資経・源光行合作説。
『臥雲日件録抜尤』に言う菅原為長・性仏合作説、悪七兵衛・平時忠・菅原為長・玄恵合作説。
『庶軒日録』に言う流布本玄恵改作説。
『天地根元歴代図』に言う西の息憲耀(憲曜か)説。
などなど、色々な説があるようですね。貴族と琵琶法師の合作としている説が多いように見受けられました。様々な人が語り、また聞くことによって、平家物語は洗練されていったんだと思います。また、多種多様な諸本があるのも『平家物語』の醍醐味といったとことでしょうか。。
[11] | 後藤朗さんからのコメント(2011年05月05日 15時40分10秒 ) | パスワード |
平曲の祖「生仏」「性仏」について考察しております。
読んで頂ければ幸いです。
「http://www10.ocn.ne.jp/~tengaiya/heikemonogatari.html 」(「天海屋源七本
舗」ホームページ)に掲載
石川県小松市土居原町186
後藤朗
tengaiya@cyber.ocn.ne.jp
近いうち(4月中)に、世に出る直前(日本史に登場する直前という意味でもありま
すが)の平正盛(平家の祖・平清盛の祖父)に関する論考を発表する予定です。今ま
で誰も考察していない、知られていない内容が多くあります。
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内容紹介
『平家物語』成立の謎やその作者などについて多様に論じられる。とくに、物語を琵
琶の平曲にしたとする『徒然草』にいう生仏(性佛検校)について、筆者は「生仏は
源資時(資時入道)であり、しかも仲恭天皇(九條廃帝)の皇女和徳門院の外祖父で
ある」とする。
本文
一、『平家物語』成立の謎と『徒然草』第二百二十六段
『平家物語』がいつ頃、どのようにして作られたのかを知ることができる現存資料
のうち、いちばん古く具体的なのは、『徒然草』の第二百二十六段である。作成時期
と関与した人について、「後鳥羽院の時代、慈鎮和尚(慈円)のもとにいた行長入道
が物語を作り、生仏という盲人に語らせた」というのがその要点である。この記述の
中に、『平家物語』が作られた時の謎を考えるうえで手がかりになる重要な材料がひ
そんでいる。
作者の特定については、藤原為房流の信濃守をつとめた中山行長(信濃入道)をは
じめ、複数の人物ということにとどめて、この稿では論じない。
『徒然草』二百二十六段の最後の部分には次のように書かれている。
《武士の事弓馬のわざは、生佛東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの
生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり。》
誤写によるものか語脈にすっきりしない点があるが、ふつう次のように現代語訳され
る。
「武士の事、弓馬のわざは、生仏が東国出身の者なので、武士に問い聞いて書いた。
生仏の生まれつきの声を、今の琵琶法師は学んだのである」
これでは直訳そのもので誤解をうみやすい。たとえば、生仏を琵琶法師と決めてか
かったり、〈東国出身の者〉と〈生まれつきの声〉から、「うまれついた東北なまり
の発音」などとする例である。
筆者はこの部分を、「東国に縁があり、武門でない郢曲相伝の公家出身で、天性の
美声をもった盲目の生仏という高僧が、物語を琵琶の平曲にして伝授したのを、当今
の琵琶法師たちが習って語っている」と解する。そして結論を先にいうと、生仏すな
わち平曲伝承にいう性佛検校は、今様の名手とされた源資時(資時入道)であり、明
治まで九條廃帝とされていた第八十五代仲恭天皇の皇女和徳門院の外祖父となった人
である。
二、「生仏」は綾小路源資時か否か
『徒然草』の「生仏(生佛)」について、以下のような先学の見解がある。
■「生仏=資時説」
《さて生佛といふものゝ事明かならざりしが、校者は之を源資時の法名正佛といひし
を基として誤り傳へられしものかと思ふ。この資時はこの物語にも載せたる人にして
郢曲の名家たる綾小路家に生れ、當時天下無雙の達人なりしが故ありて出家し、これ
また慈鎭和尚の坊官となりて世を終へし人なり。徒然草に生佛を東国の人なりといへ
るは恐らくは如一檢校の出身を混じたるものなるべし。》(『校定平家物語』山田孝
雄・高木武 大正4年 東京寶文館)
山田孝雄氏は、この生佛は綾小路家の源資時(法名正佛)である、と指摘してい
る。角川日本古典文庫『徒然草』(今泉忠義訳注 昭和二十七年初版)にも、《生佛
―綾小路資時。叡山の検校。聲明の妙手。》との注がある。しかし、近年発行された
『徒然草』に関する書籍においては、「生仏」の注には、おしなべて「伝不詳」と書
かれている。
■「生仏=資時説」否定論
後藤丹治氏はこの「生仏=資時説」に否定的であった。いくつかの反論をあげて、
《生佛即資時と看做す訳にはゆかぬと思う。》としている。(『戦記物語の研究』後
藤丹治 昭和十一年 筑波書店)
他に「生仏=資時説」を否定するものとして次のような論説もある。
《山田孝雄氏は生仏の素性について、綾小路資時(出家後性仏)をあてられたが(平
家物語考)、綾小路家は郢曲の家であり、代々笛をよくする家ではあるが、琵琶とは
関係ないようである。笛の家であるからとて琵琶も奏し得るであろうが、それは楽琵
琶であるから、盲僧の「琵琶語り」についての素地はなかったと考えられる。それに
生活の安定している貴族が、出家したからとて慈鎮に扶持されることはあり得ない。
行長の場合は例外中の例外と言うべきであろう。従ってこの生仏は、やはり盲僧琵琶
の人で、その道の名手(特に坂東語りの)として、慈鎮に扶持されていたと見るのも
最もふさわしいのである。》(『平家物語の基礎的研究』渥美かをる 昭和五十三年
笠間書房)
さらに渥美女史は、岩波書店刊『日本古典文学大系 平家物語』(昭和三十二年)
の解説において次のように書いている。
《故山田孝雄氏の考証による綾小路資時説よりも、単に一介の盲僧と見る方が優勢で
あり、従って平曲は先行盲僧琵琶師の「語り」と同様、賤民の「語り」にすぎなかっ
たとする説が起ってくるのである。》
『平安時代史事典 本編下』(古代学協会編 角川書店)では、〈源資時〉項目の
終尾に次のように書かれている。
《音楽に優れた資時が元暦の清暑堂の御神楽に声がかれて失敗し、出家して右馬入道
と名乗って慈鎮和尚の坊官になったこと、『禁秘抄』に「馬の入道正仏」とあること
や語り本の書き入れ、江戸の考証家の説によって、『徒然草』にある信濃前司行長が
『平家』を作って教えて語らせたという生仏がこの資時ではないかと推測する説もあ
るが、正仏と生仏の文字の相違や『徒然草』が生仏を東国出身の盲人とするのに対
し、資時は東国の生まれでないことを挙げて否定している説もある。》
現在の学会においては否定説の方が大勢であり、「生仏=資時説」はほとんど顧み
られることがないようである。
■「生仏=資時説」否定論のあやまり
筆者は後藤、渥美両氏の否定論などに強い疑問をいだく。後藤丹治氏や渥美かをる
女史の反論は説得性に欠けるものばかりであり、「反論のための論」のような内容で
ある。
渥美かをる女史の論には、「綾小路家は郢曲の家であり、代々笛をよくする家では
あるが、琵琶とは関係ないようである」とか「貴族が、出家したからとて慈鎮に扶持
されることはあり得ない」などとあり、否定の前提そのものに大きな誤解と偏った思
い込みがある。とくに「代々笛をよくする家」というのは致命的なあやまりである。
「郢曲」というのは笛の演奏だけでなく、むしろ声楽つまり謡い、朗詠、今様などが
主なのである。資時は器楽演奏家ではなく声楽家である。『梁塵秘抄口伝集巻第十』
を読めば、後白河法皇が称賛するほどの優れた今様の歌手であったことがわかる。ま
た、貴族であっても出家した後に誰かに扶持されることはじゅうぶんあり得ることで
あり、「一介の盲僧と見る」というのは、根拠がしめされておらず、人物の特定を恣
意的にさけるための仮説にすぎない。
両氏の否定論は説得力のないもので、かえって、それが山田孝雄氏の「生仏=資時
説」が的を得ているということを示す結果になっている。
「正仏と生仏の文字の相違」や「資時は東国の生まれでない」という理由は、「生
仏=資時説」を否定する論拠にはならない。
漢字の意味を無視して恣意的に「正」のかわりに同音の「生」を宛字として使うよ
うな例は昔の文献によくある。平曲家楠美晩翠の著作『平曲統伝記』では、「『当道
要集』などで〈生佛〉を〈性佛〉としているので、〈性佛〉と表記する」としてい
る。(『平家琵琶にみる伝承と文化』平成十九年 大河書房)ここでは「性」であれ
「生」であれ、問題にしていないのである。後述するが、筆者はこの「性佛」が元の
ものに最も近いと考える。
源資時は、治承三年の政変で、父の資賢、甥の雅賢とともに信濃国に配流されてい
る(治承四年に召還)。この一族は応保二年(一一六二)から二年間、同じ信濃国に
流されており、記録に父資賢、兄通家、年長の甥雅賢の名があるが、資時の名がない
ので、まだ元服前の子供の時あるいは現地での出生かと考えられる。信濃国はもちろ
ん東国であるから、「東国の生まれ」ではなくても、東国にゆかりの深い人といえる
のである。
三、『平家物語』『盛衰記』に登場する源資時
『平家物語』や『盛衰記』の中に、源資時なる人物が少なくとも四度登場する。
@ 治承三年(一一七九)三月 後白河院の仙洞御所内で管弦の宴が催され、太政大
臣師長(妙音院)が琵琶を、資賢が家宝の笛を、雅賢が笙を演奏し、資時は得意の今
様を歌う。〔巻第五:文覚被流(仙洞管絃事)(『盛衰記』巻第十八)〕
A 治承三年十一月 治承三年の政変で後白河院は鳥羽離宮に幽閉され、師長をはじ
め多数の人が解官され流罪になる。資賢、資時、雅賢の三人も院近臣であったので、
解官され信濃国にふたたび流される。〔巻第三:大臣流罪(『盛衰記』巻第十二)〕
B 寿永二年(一一八二)七月二十四日 都落ちする平家が後白河院をお連れして西
国に向かう、とのうわさを耳にした法皇は、資時のみを伴って、夜半ひそかに御所を
抜け出て御姿をくらまされる。〔巻第七:主上都落(『盛衰記』巻第三十一)〕
C 同じ日の夜半、御所を出られた後白河院は、近習の右馬頭資時を伴ない鞍馬に逃
れる。鞍馬から峯々をこえ比叡山横川へ、そして東塔の円融房に入られてそこを御所
とされた。〔巻第八:山門御幸(『盛衰記』巻第三十二)〕
このとき平家が後白河院を西国にお連れできなかったことが、安徳天皇の在位中に
院の詔で後鳥羽天皇の践祚がなされるなど、平家の凋落を早める一因となる。その重
大な局面にたまたま資時が深くかかわっていた、という事実は特筆に値することであ
る。
同じ年の十一月、義仲軍を敵として後白河院の仙洞御所法住寺で合戦がある。武芸
の家でないが、院近臣ゆえに資時と雅賢の両人は出陣して生け捕りにされてしまう。
ところが、『平家物語』に資時の名がみえない。これは作者の配慮によるものであろ
うか。
父の資賢は後白河院の今様の師匠であり、当時もっとも著名な音楽芸能人であっ
た。『平家物語』で資時や雅賢のことを、「資賢の子資時」「資賢の孫雅賢」と表す
るのは親がたいへん有名な人であったゆえであろう。ちなみに、幸若舞『敦盛』に
は、《按察使の大納言資賢の卿の姫君十三にならせ給ひしが天下一の美人にてましま
すを…》とある。この姫君(玉織姫)は平敦盛の内室になっている。資賢の養女とも
いわれる。敦盛愛用の笛の名が「青葉」であることはよく知られているが、『盛衰
記』巻第十八では、治承三年三月の管弦の宴で、「紅葉」という名の家宝の笛を資賢
が奏している。
賢資、資時、雅賢は、法皇みずから編纂された『梁塵秘抄』の主要な選者だったと
言ってまちがいない。賢時は郢曲の音楽家の家系に生まれただけでなく、天性の美声
であったらしく、『梁塵秘抄口伝集』に書かれているように、後白河法皇にとくに寵
愛された。
四、資時の出家とその後
『系図纂要』では源資時のことを次のように記す。
資時 母同通家朝臣 右少將 正四下 右馬頭 後白川院近習 號上馬入道
卅五歳出家 法名阿寂 改正佛 又改勝因
資時は後白河院崩御の日には、「資時入道」として御入棺の役も仰せつかっている
(『名月記』建久三年三月十三、十四日条)が、その後の人生は明かでない。
資時が出家した理由について、原典を確認していないので孫引きになるが、『平家
物語』(山田孝雄 昭和八年 寶文館)に《元暦の清暑堂の御神楽に声がかれて失敗
し、出家して「右馬入道」となのって慈鎮和尚の坊官になつている。》とある。これ
は、「信濃前司行長が樂府の御論議の番で七徳の舞のうちの二つを忘れるという失敗
をおかし、あだ名までつけられた不本意を苦にして出家し、信濃入道として慈鎭和尚
の扶持をうけた」というのとまったく同類の話である。
「坊官」というのは元来は「春宮坊」の官職をさすのであるが、広い意味で御所や
門跡寺院に奉仕した在家の僧のことを称した。出家といっても多くはお歯黒をしたり
妻帯もしていたという。資時や行長はともに慈円のもとで坊官をつとめていたのであ
る。
両人とも生没年が不明なのは坊官になったからであろうか。資賢、通家、時賢、雅
賢たちの生没年はわかっている。元暦(文治元年)(一一八五)ごろ三十五歳で出家
したなら、資時の生没年は[久安七年(一一五一)〜 仁治元年(一二三○)頃]と
推定できる。
五、『禁秘御抄』(『禁秘鈔』)の記述
順徳天皇御製の『禁秘御抄』〔女房 小上臈〕の項に次のような記述がある。
《右京大夫大納言資賢孫也 而父雖爲坊官不着織物 依人異事也》
(右京大夫ハ大納言資賢ガ孫也 而ルニ父ハ坊官爲リト雖モ織物ヲ着セズ 人ニ依テ異
ナル事也)(右京大夫は大納言資賢の孫娘であって、父親は坊官であるが、織物を着
ている。人によって異なるのである。)
後宮女房の位のうちで、上臈と中臈のあいだに、おもに公卿の娘がなる小上臈があ
り、上臈に準じて織物の唐衣を着ることが許された。ここでは「父が坊官でその祖父
が公家である小上臈には織物を着るものと、右京大夫のように着ないものがいるが、
それは人によって異なる」というのである。
『禁秘御抄』の註釈書がいくつかあるが、この部分はつぎのように解釈されてい
る。
@『禁秘抄考注』牟田橘泉(元禄十四年)
○右京大夫大納言資賢孫也 資賢者宇多源氏綾小路家也(資賢ハ宇多源氏綾小路家
也)
○而父雖爲坊官 資時歟 右少將 號上馬入道 後白河院近習 右馬頭正四位下 然
無女子 如何猶可勘(資時歟 右少將 上馬入道ト號ス 後白河院ノ近習右馬頭正四
位下 然レトモ女子無シ 如何猶勘ス可)
A『禁秘御鈔階梯』藤原公麗(安永五年)
資時 資賢卿子 正四位下少将右馬頭 出家 廿九歳 号馬入道 青門慈鎮和尚
坊官 法名 阿寂 改 正佛 又改 勝円
B『禁秘抄講義』関根正直(大正十四年)
「右京大夫」は女房の名なり。資賢は宇多源氏にて家を綾ノ小路といふとぞ。其の子
資時は、後白河院の近習右馬頭右少将たりき。後入道して吉水僧正(慈円)の坊官た
りし由階梯(禁秘抄階梯)に見えたり。
『禁秘御抄』に〈右京大夫大納言資賢孫也〉とあるが、資賢の孫で坊官資時入道の
子という後宮女房「右京大夫」はいかなる人物なのか。『平家物語』の時代で、女官
の〈右京大夫〉といえば、〈建礼門院右京大夫〉を指すのが普通であるのだが。
建礼門院右京大夫の生年は保元二年(一一五七)ごろとされ没年は不明である。定
説では、藤原伊行の娘で母は大神基政の娘夕霧となっている。承安三年(一一七三)
から数年のあいだ建礼門院徳子に仕えている。源資賢の孫という可能性もないことは
ない。では、『禁秘御抄』のこの記述が間違っているのであろうか。前掲の『禁秘抄
考注』(元禄十四年)において、牟田橘泉は不審に思ったのか、坊官である右京大夫
の父を〈資時歟〉とするも、〈然レトモ女子無シ 如何猶勘ス可〉と添えている。
六、九条廃帝(仲恭天皇)御内室
水戸徳川家編纂『大日本史』〔卷之八十二 列傳第九 后妃九〕に次のようにあ
る。
九條廢帝 九條廢帝後宮某氏法印性慶女也稱右京大夫〔?代皇紀 女院小傳 ○性慶
女據皇胤紹運?〕生和・門院〔皇胤紹運?〕(九條廢帝 九條廢帝の後宮は某氏法印性
慶の女である、右京大夫と称す、和徳門院を御産された)
『大日本史』が典拠にした『女院小傳』には、たしかに〈母順徳女房右京大夫〉とあ
り、『本朝皇胤紹運?』には〈和徳門院 義子内親王 母法印性慶女〉とある。
九條廢帝は明治三年(一八七〇)に第八十五代天皇として追号された仲恭天皇[建
保六年(一二一八)〜天福二年(一二三四)]で、承久三年(一二二一)四月〜 同
年七月と、史上もっとも在位期間の短い天皇である。和徳門院は帝の皇女である。
『禁秘御抄』は、建保年間から承久二年(一二二〇)ごろにかけて順徳天皇みずか
ら編纂されたもので、「禁中の故実作法」などについて例をあげて詳しく書かれてい
る。だから、〈右京大夫大納言資賢孫也 而父雖爲坊官不着織物〉という記述は伝聞
ではなく、順徳天皇の御身辺の事であり、疑いをはさむ余地のない事実である。『禁
秘御抄』が編纂されていた時に、たしかに後宮に〈右京大夫〉と称する小上臈の女房
がいたのである。同じ女官名ではあるが、あの〈建礼門院右京大夫〉と別人であるこ
とは明かである。
したがって、順徳天皇の第四皇子懐成親王(仲恭天皇)の後宮で〈右京大夫〉と称
する女房は、按察使大納言資賢卿の孫であり、『禁秘御抄』の注釈者が言ってきたよ
うに、右馬頭右少将資時の子であると断定できる。さらに、〈某氏法印性慶〉とは源
資時その人のことであり、とりもなおさず皇女和徳門院の外祖父であったことが判明
する。これまで注釈者をはじめ、誰ひとり〈性慶〉という名が源資時の法印号であ
り、和徳門院の外祖父であるというこの事実を指摘していない。
資時入道(性慶法印)は、失明の後に「性佛検校」として、行長などの作者の依頼
をうけて物語を音曲の語り物にし、さらに琵琶の楽譜に直して平曲を完成させ伝授し
た、と想像される。その平曲は琵琶法師たちに教えられ、さらに物語の内容も、語り
手の立場や都合によって増補や改訂がさまざまになされつつ各地に広まっていったの
である。 (了)
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『徒然草』第二百二十六段
後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、
七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にし
て、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば、下部までも召しお
きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。この行長入道、平
家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。さて山門のことをことに
にゆゝしく書けり。九郎判官の事はくはしく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は能く
知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事弓馬のわざは、生佛東國
のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶
法師は學びたるなり。
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