小川もこ シャベリン(アーツ) マイホームフォーラム
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 投稿番号:100300 投稿日:2002年05月26日 10時41分12秒  パスワード
 お名前:服部 明子
源頼家の娘:竹御前;竹の御所:妙本寺

コメントの種類 :人物  パスワード

頼家の娘については
林原さまの「比企一族」に詳しいので参考になさって下さい。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年05月26日 10時42分08秒 ) パスワード
  

メールを頂きました:


頼家に娘がいたことを知っていました?
それとも、私が知らなかっただけなのかな。

比企が滅ぼされた時、生き残ったのは公暁とこの娘だった。
名前は忘れた。

墓は妙本寺だって。
知らなかった、知らなかった。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年05月26日 10時44分11秒 ) パスワード
  

2通目のメール:


系図を見たら、頼家には
壱萬・栄実・公暁・禅暁・竹御前の5人の子がいたんだね。

妙本寺には、竹の御前の墓があるんだと思う。
知らなかった、知らなかった。
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年05月26日 11時23分15秒 ) パスワード
  

3通目のメール:


女人の名前で「御所」と呼ぶのは、ちょっと首を傾げた。
そうしたら、どうも鎌倉の妙本寺は、竹の御所の跡にできたらしい。

妙本寺は一般的には比企の屋敷跡と言われているからね。
竹の御所に住んでいたから、竹の御前は納得いった訳。

それより、そこには墓があるとは全くの無知。
早速、今度鎌倉に行ったら見てこようと思う。

どの本にも、藤原頼経の室で、死産の後が悪く、亡くなったとある。
親は殺され、子供は死産。
幸薄い人生だったんだね。

やはり、「歴史」の流れに翻弄された、短い生涯。
でも、今は親兄弟、皆で幸せかも。

そう思ってやらねば可哀想。
[4]服部 明子さんからのコメント(2002年05月29日 23時00分14秒 ) パスワード
  

「平家物語の史跡を訪ねて 12」と1部重複:


妙本寺へ行く。

竹の御所跡の碑を見て、墓に向かう。
墓には誰が供えたのだろう。
新しい花が、初夏の日に鮮やかだ。

竹の御前こと、○子の墓とある。
(○は部首は女、旁は美と書く。 そういう字がないのだ。 読みも不明)
[5]服部 明子さんからのコメント(2002年05月30日 11時56分42秒 ) パスワード
  

メールを頂きました:


妙本寺と言えば、昔から「杉の寺」で有名でしょ?
今だって、うっそうとした杉林が凄い。

なのに何故、「竹の御所」と言ったんだろうって。
本来なら、「杉の御所」の方が合ってるよ。

普通は「竹の御所」と聞いたら、あの報国寺を連想する。
竹林の中、緋毛氈の上での抹茶と和菓子。
そこに竹の御所ならピッタリなのに。
[6]林原英祐さんからのコメント(2002年06月08日 18時48分38秒 ) パスワード
  

しばらくご無沙汰して失礼致しました。「竹の御所」のスレッドを作られたら何か書き込まないと失礼と考え、書くことにしました。
以前の「比企一族」とだぶる部分があるかもしれませんが、悪しからず!! 

竹御所悲話

1)『竹御所』の生い立ち…………『鎌倉を騒がせた5人の比企筋の女達』
 前に、比企一族と言う服部明子さんのスレッドに練習(PC)も兼ねて投稿しましたがその比企筋の女達のなかで一番「大物」娘がこの『竹御所』ではなかったかと、『野口実』先生の書物を目にしてから、思いが深まる一方です。
 今回の書き込みは出来るだけ解りやすい平易な文章で書いてみたいと思います。
 前にも書きました通り、、、、
 
比企筋の女達の元祖は、、、
 @『比企禅尼』で横綱格で『源頼朝』の実質的な母親のような存在の人です。この人に対してだけは、鎌倉の御家人衆の誰もが一目を置く存在の人でありました。
 当然、生い立ちから考えても『北条一族(時政、政子、義時等)』も数段下の存在感しかなかったと考えられます。
 老後も頼朝の凛々しい姿を目にして満足しながら、この世を後にしたと思います。
 幸せいっぱいの人生だったと言えるでしょう。
 
 ところが、次の世代、、、
 A比企禅尼の嫡女『丹後内侍』の代になると、『北条政子』の恋敵的な存在になってきます。
 現に『丹後内侍』には『源頼朝』との御落胤バナシが絶えません。
 『島津忠久』『若狭忠季』『安達景盛』等、歴史家が実名を残すだけでもたくさんの人が上げられます。
 この人のエピソードは薩摩藩島津家の『本系図』に書かれてあるといわれます摂津住吉村で『島津忠久』を『北条政子』の嫉妬の目を逃れ一人で生み落とす下りが全てを語っているように思えます。
 この人は凄い人だったと思います。
 比企筋の女達の中で、『丹後内侍』は明らかに『大関格』の人だったと考えます。
 『比企尼』に守って貰えなくなってからの『丹後内侍』は頼朝一筋だったと考えます。私は『丹後内侍』の末裔(孫)とされる『松下禅尼(北条時頼の母)』をイメージしようと努力するのですが、もっと『傾世の美女(妖婦的)』であったのではと考えてしまいます。

 そして対角線上に存在する、もう一方の『大関』格、、、
 B『姫の前』は比企藤内朝宗(元の比企本家筋)の嫡女で頼朝の口利きで『北条義時』の正室に嫁いでいます。
 この人も、元は頼朝の官女(腰元)で頼朝の『お手付き…』が噂される人です。
 北条政子の年下の恋敵で自分の弟(義時)の正室とは複雑な存在でした。
 後の名越流北条朝時、、極楽寺流北条重時の実母となった人です。
 問題は父親が誰か(頼朝?)が永く北条一族の中に、内紛(本家筋?)を生むことになるのです。
 とにかく、この人は絶世の美人であったそうです。
 北条義時の正室が比企家から出ている等は少し漫画的で、そのお腹に既に『北条朝時(名越)』が懐妊されていた等は、後の頼朝の執事:北条義時(江戸時代の柳沢吉保)を想像してしまいます。

 そして、比企家の本筋であります、、、
 C『若狭局』が比企の乱(1203)の首謀者とされる『比企能員』の娘で2代将軍『源頼家』(金吾将軍)の妾(しゅう)で、嫡男(一幡)の母であります。
 この人は「本当のお嬢さん」的な存在の人であったようです。
 鎌倉比企ヶ谷(現妙本寺)で壮絶な家族死をとげる比企一族(北条氏の陰謀)の中で、『私も一緒に死にます!』と健気に言う『お嬢様』が『若狭局』であったと思います。
 実は、源頼家の嫡男である『一幡』が後の『実朝(3代将軍)』と競い合わされていたことが有名な話になって、『若狭局』が『一幡』の他に妹(鞠子…竹御所)を生んでいた事は余り知られていません。

 1203年『比企の乱』の時、確か2歳になっていたか?源氏最後の人(血)といわれる、、、
 D竹御所が比企筋:「最後の鎌倉を騒がせた女達」として登場するのであります。
 正式には、鎌倉2代将軍『源頼家』(金吾将軍)の娘で母は比企能員の娘『若狭の局』別に『讃岐の局』といわれています。
 前置きが永くなりましたが、そのような歴史的な背景のなかで、『竹御所』が登場したと言うことで御座います。
 次回に『竹御所』は『北条政子』の孫にして、比企筋!… を書きます。
[7]服部 明子さんからのコメント(2002年06月08日 22時28分06秒 ) パスワード
  

林原さま
まとめて下さいましてありがとうございました。
これで分かり易くなったと思います。


>後の名越流北条朝時、、極楽寺流北条重時の実母となった人です。

「名越」氏というのは北条時政が「名越どの」と呼ばれていたそうで
「名越氏」の正統性が分かろうというものです。

昨年の「北条時宗」の中で桔梗さんが頑張ってたのはその名越氏のプライドからでもあります。
[8]林原英祐さんからのコメント(2002年06月10日 19時37分43秒 ) パスワード
  

竹御所悲話A

2)北条政子の孫娘『竹御所』…実は比企筋の女達(ラストバッタ−)

前段(前)に比企家のあらゆる悲劇を全部背負った形での竹御所の存在を、前置きとして述べました。比企家の『怨念の塊』が『竹御所』の双肩に懸かっている。
 
1203年の『比企の乱』の時、比企一族がことごとく比企ヶ谷(現妙本寺跡)に族滅したのに、何故『竹御所』のみが難を逃れて生き延びたか?解らない!

 多分、密かに、北条政子の館に預けられていたのではないかと思います。

 私はその意味から、ここで北条政子の孫娘『竹御所』と呼ぶことにしました。

 政治の表舞台は『源頼家(2代)』から『源実朝(3代)』へと移り、後ろ盾も『頼家』の乳父であった『比企氏』から『実朝』の『北条氏』へその実権を移すための闘いが続いていったと想像されます。

実際は直接『北条氏』へというシナリオは無く、『和田氏』が『実朝』の後継御家人となったと歴史家はいいます。

そのことであの和田家も族滅するはめになると考えると恐ろしい限りです。

 比企氏と和田氏との関係は『親戚』関係にあり、『比企家系図』によれば、1203年の『比企の乱』の後、生き残った女性と子供たち、具体的には、比企能員の妻、その子圓顕(2歳)比企四郎員茂の妻(懐妊中)等が預けられた場所が「和田家」であったと書かれてあります。

 物の本によれば、『比企』の総本家は『三浦氏』で一番親しい「親戚」が『和田氏』であったとあります。
特に『和田氏』の『朝比奈三郎(豪傑)』は根っからの『比企』ビイキで比企の兄弟(若狭局を含む)とは実の兄弟のような付き合いだったと読んだことがあります。

 周囲の御家人達(特に北条家)は別にして、『頼家』と『実朝』と『北条政子』の関係はそんなに悪くはなかったと思います。
特に『実朝』は「心の優しい男性」であったことが、後家人達の心離れに繋がったと考えると痛々しい気持ちに襲われます。
 そのような背景の中で『竹御所』の存在がはっきり見えてくるのですが……
「北条政子」の考える序列によれば、、@源頼家A源実朝B竹御所C(三寅)D竹御所E藤原頼経の順であったと思えてなりません。
後家人(バック)で言いますと、@比企家A和田家B北条政子C(三浦家)D北条名越E北条時頼の順であったと考えます。
 
このように考えると……  私の大胆な推論が出てきます。

◆『実朝』の後の4代将軍は『竹御所』(女将軍)であったのでは?(政子の願い)
 表将軍は『尼将軍(北条政子)』で、裏将軍は『竹御所』であったのでは……
 だから、以前に野口実先生が言われた『方違え』の回数が女性で最高の数になる等が解ってきます。

◆次に、1216年の『竹御所』実朝夫人(坊門信清の娘)の猶子になる。
 当時、実朝(25歳)竹御所14歳は???実朝が『坊門姫』との間に子供が出来ないことを苦慮しての「政子」の計らいではなかったかと考えてしまう。女性14歳は当時の成人式の年齢だと書物で読んだことがある。

◆3年後、1219年正月『実朝』は「竹御所」の実の兄である『公暁』の手に掛かり、鶴岡八幡宮の露と消えるのでありますが、その犯人が誰であるかに興味が集中する余り、その時『竹御所』が懐妊していたということは知られていない。

◆翌1220年に竹御所は『姫君』を生んでいます。歴史書では1234年竹御所が34歳の高齢初産(難産)で親子ともども死去したとあります(悲話)が、実際は2度目のお産であったと言うお話です。その時『竹御所の姫君』は14歳になっていました。

◆翌1225年7月27日(竹御所の一周忌)の吾妻鏡の記事に『竹御所御姫君於相州御亭、有除服之儀』と言う記事を載せていますが、一年間、竹御所の喪に服した『姫君』は誰かと野口先生は結んでいらっしゃいます。

◆同年1225年11月の吾妻鏡の記事に去る10月の28日『将軍家御姫君御卒去(御他腹)15歳』とあるのを見つけました。私は大発見をしました。この姫君こそ『源氏最後の血筋』の姫であったと考えます。私の嫌らしい想像は『この1225年に御他界した姫君の発見』から膨らんで、『実朝』と『竹御所』の関係、そして『4代将軍(実)竹御所』が北条政子尼将軍の思いであったと断じたいのです。

◆しかし、実際の『竹御所』は1225年の『政子』の死後は豹変するが如く、『京都』や『名越北条氏』や『足利氏』と接近していった。そのことで『北条泰時』や『三浦氏』は困惑した。このまま放置すると『北条家』は元より『三浦』『安達』等の鎌倉御家人達の存亡に関わると考えていたようです。

◆その頃から、『比企筋の血』が騒ぎ始めるのです。武蔵国比企郡吉見荘に『比企家』の再興を果たしています。又鎌倉比企ヶ谷妙本寺に比企家の菩提寺(日蓮宗)の開山を許している。そして由緒書に『竹御所』のためと書き込んである。
そのように、比企家を中心とした勢いも次第に大きくなりだした頃、鎌倉は騒々しさを増していったのです。
(『北条時頼』の逆転満塁本塁打はこの後に出ます!)

◆相州亭(北条時房)で1234年7月に何があったかは、未だに謎に包まれています。考えてみたら、『比企家』に取って『北条時房』は鬼門の人だと考えています。(ここが竹御所に用意された産所だったのですが、、、)
 以上が私(林原)の嫌らしい『竹御所』悲話であります。

◆もし『竹御所』が『毒殺』か何かで滅せられていたら、当然、1年3ケ月後の『将軍家姫君(御他腹…15歳)も暗殺の匂いが致します。北条時頼の逆転満塁本塁打の為の、舞台装置が着実に進められていたと考えるのは、被害妄想でしょうか、、それぐらい『北条家の陰謀』は根が深いというお話なのです。(北条得宗家の執着!)

書き流しで失礼致しました。
この『竹御所』と「源実朝」の関係、15歳まで健在だった『姫君』の存在は吾妻鏡の上での大発見と思うのですが、如何なものでしょうか?
坊門信清の娘(正室)が怒り狂うでしょうか??それとも、だから私はそんな鎌倉をすぐに断った(京都に帰ってしまった)
。と至極当然の話としてはき捨てるでしょうか?とにかく歴史の真実は解明されないまま過ぎて行きます。
[9]林原英祐さんからのコメント(2002年06月18日 19時33分30秒 ) パスワード
  

 竹御所の謎々(私の創造的推理小説??)

@『竹御所』は死亡年月日から逆上ると西暦1203年(建仁3)生れと言う事になる。
*父:源頼家(頼朝の嫡男)母:若狭局(比企能員の娘)の間に生まれる。

A翌1203年(建仁3)に比企の乱で母、『若狭局』を失う。(竹御所1歳)
*実兄:『一幡』が3代将軍候補とされたことが、比企家の悲劇を生む結果となる。

B翌々1204年(建仁4)に伊豆修善寺にて父『源頼家』を失う。(竹御所2歳)
*3代将軍『源実朝』の内定(北条氏)により、『頼家』は不要になり「誅殺」される。

C『竹御所(金吾将軍姫君)』は北条政子(尼将軍)のもとで守り育てられた。
*北条政子は北条家への不信感を深め、将来の後継者として『竹御所』に掛けた。

D1216年(建保4)『竹御所』源実朝夫人(坊門)の猶子となる。(竹御所14歳)
*源実朝に子供が生まれないので、北条政子の計らいで『竹御所』を猶子とする。
*猶子は養子、それとも『妾???』定かではない??

E1219年(承久1)1月源実朝、甥の公暁に殺される(実朝28歳)(竹御所17歳)
*『4代将軍:竹御所(代理:政子尼将軍)』が背景に潜んだシナリオか?

F同1219年6月、三寅(後の藤原頼経)鎌倉へ下向する。(三寅3歳)
*実朝暗殺後、わずか5ヶ月での『三寅』下向は「出来過ぎの感」があります。

G翌1220年(承久2)『竹御所』女児を出産(父:実朝か?…実朝遺児(姫)?)
*『この実朝遺児』が男子なら、北条政子にとって4代将軍はこの人が本命であった!が女児(姫)であったことで、急に『三寅』後継説が浮上する。

H1221年(承久3)5月『承久の乱』が起こる。
*尼将軍『政子』の正念場を迎えるが、この段階で『4代将軍:女帝竹御所(ごしょ)』を『政子』は決心したと思われる。『竹御所』の名が残った「いわれ」がここに…

I1224年6月北条義時死去(62歳)、1225年7月北条政子死去(69歳)
*尼将軍『北条政子』の一周忌の喪に服したのは『竹御所』その人であった。実質的な鎌倉幕府の『カリスマ』は名実共に『竹御所』に集中することになる。

J1226年1月藤原頼経(三寅)4代将軍になる。(摂家将軍の初め)
*『竹御所(4代女帝将軍)』の養子(飾り)将軍であったと推察する。

K1230年(寛喜2)12月竹御所(28歳)と藤原頼経(13歳)が結婚する。
*『実朝』13回忌の喪明けを待って、二人の婚儀が行われたことは、『実朝』と『竹御所』の関係がチラチラする。(何かがあった…実朝との間に…)
*丁度、この年『実朝』の遺児(姫)は10歳になっていたと思う。(竹御所姫君)

L1234年(文暦1)竹御所、相州亭(北条時房)で死去、難産による。(竹御所32歳)
*私は、今でも、『竹御所』毒殺説…北条家の陰謀を信じている。(北条時房が臭い!)
*1234年は竹御所(比企)にとって最高の年であり、頂点を見極めた状態であった。
*逆に、北条家にとって、「万事窮す」の状態にあり、転落寸前の崖っぷちにあった。 

M1235年(嘉禎元)7月、竹御所の一周忌の喪に服した『竹御所姫君』のことが吾妻鏡に記事として残されている。(当時15歳か?…実朝と竹御所の遺児か??)
*この姫君(通称:竹御所姫君)が謎の人である。源氏の最後の血筋であるような気がする。
*本当はこの『姫』が4代将軍『藤原頼経(三寅)』の妻(妾)に相応しい年齢である。
*まだ、この『竹御所姫君』と『頼経』との「再婚話」は取り巻き『三浦家』『足利家』『名越北条家』『京都朝廷』にはあったと考えます。(皆の夢的な存在の人)
*北条家の敵意はこの『竹御所姫君』の存在に集中したと考えます。(暗殺が必要!)

N1235年11月、去る10月に将軍家姫君死去。御他腹、享年15歳也と…???

*7月27日の『竹御所』の一周忌は『姫君』の鎌倉幕府挙げての行事で『姫』以外にその大任を勤める者はいない。(その日未明の暗殺は許されない、御家人達…)

*なぜ10月に死去した『将軍家姫君』が翌月まで内密にされたか不自然である。暗殺の噂は北条家にとって、致命傷になりうる。慎重に取り扱われたためか?

*『御他腹』の三文字が目立つ! 何か物を言っている!時の将軍『頼経』の正室は、後妻「藤原☆☆の娘(頼嗣の母)」であったから、その母 に対して『御他腹』か?? さりながら存在『重し!』…重要人物  

*竹御所が実在して、若君(世継ぎ)を設けていたら、がもっぱらの話題であったが、私の史的考察によれば、この『竹御所姫君(実朝×竹御所)』の方が本命であると思える。

*『源氏の血筋』(父:実朝…姫)そして『源頼家』の娘(竹御所)が母は『北条家』も手が出ない良血。この姫の存在が『竹御所』をここまで鎌倉幕府で「地位」を押し上げ ていた。と考えている。そして、歴史(北条氏の陰謀)の犠牲にされるのであます。

*私は『比企系図』に残る。『比企員長(能員の曾孫:小太郎)』の蘭に書き残されてある『4代将軍頼経の御台所『竹御所(頼家の女)』が比企郡吉見郡高麗郡の3郡の竹御 所領地を『員長』の御庶族に下げ渡した』とある。のは『比企氏』が復興してきていた ことの証しであると考えます。それ程『竹御所』の権威が大きかったのでしょう。
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