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 投稿番号:100297 投稿日:2002年05月21日 00時21分17秒  パスワード
 お名前:服部 明子
伊予河野一族:えびの市真幸の境田姓

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

日本の名字は平安時代後期にたくさん始まり室町時代にほぼ今の名字群が完成した
と何かで読みましたが現在の名字から過去を遡ったり調べたりするのは大変!

薩摩の「肥後姓」の方のスレッドから昔お仲間だったかも知れない境田姓について
お知らせをメールで頂きました。

とても貴重な情報でしたから勝手に新しいスレッドを立ててしまいますが
是非ともお許しを!

もし不都合がございましたら削除致しますのでご連絡を。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年05月21日 00時29分20秒 ) パスワード
  

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100285_17.html
の「平姓肥後姓」のスレッドに書き込みました内容です。



薩摩郡祁答院がらみで以下のメールを頂きました。


『えびの市真幸の境田姓は、伊予国の住人として名高い河野一族の出身で、
 河野伊予守通広は、弘安4年(1281)の蒙古襲来の弘安の役で武功を立
 てた。通広より4世の孫、河野四郎通安は初めて、明徳3年(1392)に
 薩州祁答院の内境田に来て住んだ。境田の地は今の薩摩町求名狩宿の内、字
 境田で、大口市針持より都之城行き県道にバス停留所もある。それより前河
 野通安は天満宮を尊拝していたため境田に来住と共に天満宮を建立した。そ
 の後通安の孫通正は、真幸院領主北原氏の家臣となり、境田より吉田に移住
 して来たのを契機に、河野姓を境田姓に改めた。狩宿の境田の地名を苗字と
 したものである。今でも狩宿地区には下境田姓があるが、彼等はその時残留
 した者の子孫で、吉田移住の境田一族を「上の境田」と言い、自分達を「下
 の境田」といい、自分達を下の境田と言っていたものをそのまま姓としたも
 のである。
  境田氏は吉田に移住と共に天満宮をそのまま持参し建山の上に天満宮を建
 立、後享録4年(1531)に槻ヶ牟礼に遷座したが、以来吉田郷の宗廟と
 して尊拝され、境田家は代々社家として奉仕して来た。
  島津義弘公は境田新右衛門満重の時、天満宮に誤参詣になり、満重の邸に
 臨まれて酒盃を賜り鎗1本を賜った。今のえびの市にある境田姓はその一族
 であり、吉田郷の境田満重の子孫は、代々吉田郷の郷士年寄職を務めて来た
 旧家一族である。柳水流の境田光政所蔵の境田系図によれば、歴代の吉田郷
 地頭17名の氏名を知る事ができる。吉田郷地頭は他に知る資料がないだけ
 に貴重であると言える。<あさね五郎>』
[2]川口 信さんからのコメント(2002年05月23日 16時34分30秒 ) パスワード
  

 「境田」姓については 鹿児島県姓氏大辞典にも大同小異ですが記載されていました。

 河野通久の弟通広が出てきたので一言。
 通広の子供に「智真」がおります。すでにご存知とは思いますが一遍上人(時宗開祖)と言ったほうが判りやすいですか。

  http://www.dokidoki.ne.jp/home2/kunik/ippen.html

 上記URLに詳しく乗っております。

 また肥後姓の調べ中に南海諸島にも安徳天皇関係の記事がありました。何れ別のスレッドを立てて見たいとおもっております。
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