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 投稿番号:100292 投稿日:2002年05月15日 19時46分41秒  パスワード
 お名前:兼政
平時忠公ゆかりの兼政姓・真頼姓
キーワード:能登 落人 時忠 兼政
コメントの種類 :その他  パスワード

はじめまして。兼政と申します。
以前より、先祖のルーツを知りたくてインターネット等で検索をしながら調べていました。先日、この場所を発見し、みなさんのお話を興味深く拝見させていただきました。
さて、私の先祖は、平時忠と伴に能登へ流されてきたと聞いております。地元にある珠洲群史という文献には、平時忠と伴に12人が漂着したとなっています。
自分なりに調査を試みようとしたのですが、実家は以前火災に遭い、全焼しているため、古文書や家系図等が一切ありません。また、門徒となっていたお寺も300年前に全焼しているらしく情報がありません。
ちなみに、実家の近くには時忠直系の子孫である「時国家」があります。

苗字や時忠と伴に流されてきたという事で何か解りますか?。
よろしくお願いいたします。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年05月15日 23時37分36秒 ) パスワード
  

>私の先祖は、平時忠と伴に能登へ流されてきたと聞いております。

どこかに従者の氏名が記録されているかも知れませんね。
ご名字が「兼政」さんとおっしゃるのですか?

「時国家」の事はよく見掛けます。
その線で何か出てるといいですね。
私も調べてみますね。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年05月16日 11時51分19秒 ) パスワード
  

「兼政」さんってご名字ですか?お名前の方ですか?
お名前ですと兼政さんっておっしゃる方は結構いらっしゃるようですよ。

上杉兼政ゆかりのご名字という事はございませんか?
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年05月16日 12時00分17秒 ) パスワード
  

伴姓で兼政を名乗る鹿児島の一族がいらっしゃるようです。


平家方では(備前、備中、備後を治めた)武将妹尾太郎兼康のご子孫にも兼政を名乗る方がいらっしゃるようですよ。
[4]服部 明子さんからのコメント(2002年05月16日 12時04分37秒 ) パスワード
  

七尾の益田家は兼の字を通字としているので、ここも調べてみる価値がありそうです。
場所的には近いですよね。
[5]服部 明子さんからのコメント(2002年05月16日 12時25分58秒 ) パスワード
  

「兼政」さんというのは名字と名前の両方で使用されるということが分かりました。

ご先祖のお名前が名字になったというのも考えられますね。

「兼」というのは平安時代末期にもよく使われる漢字なので
平家の中にもいたと十分推測出来ます。

ただ平 時国の家来で、という方はみつかりませんでした。
時国は堂上平氏出身なので家来だった方はそちら系かも知れないですね。
または護衛という事で武士だったかも知れないですし。

かなり絞れるとは思いますが矢張り「平 時国」を調べていくのが良いと思います。
[6]そりちゃんさんからのコメント(2002年05月16日 13時27分55秒 ) パスワード
  

こんにちは、そりちゃんです。
兼政さんもあまり手掛かりが残っていなくて残念ですね。
なんだか他人事とは思えないです。
でも、服部さんのおっしゃるとおり「平時国」で調べていけば
意外な発見が得られると思いますよ。
時間はかかるかも知れませんが、絶対そのうちわかってくると
思います。
がんばってください。
[7]川口 信さんからのコメント(2002年05月16日 14時03分18秒 ) パスワード
  

 兼政さん。初めまして。

 「輪島の歴史」URLの中「時国家」に下記文章がありました。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/6989/WajimaHistory.htm# 時国家

 ところで、話は平時忠に戻るが、彼の一族の墓は、珠洲は大谷の集落から海岸を離れて、国道沿いに約2kmほど入った、それも道路から少し下った森陰にあり、15基の墓が苔むしてひっそりと建っている。その墓を見ると平家物語の「奢る平氏は久しからず」という言葉を思い起こされる。墓は現在、時忠の子孫といわれる則貞家の人たちによって守られている。多くの人の口にのぼることもなく、いかにも配流の人の墓にふさわしく、質素で、権勢をほしいままにした大納言の面影はなく、寂しさの中にある。
 墓に近い大谷の集落は、烏川によって作られた狭い平地だが、住人の大半は時忠ゆかりの深い従者の子孫と言われている。頼兼、頼光、頼正、兼正、それに先ほどの則正など、実名を氏としており、俗に大谷十二名と言われている。従者の実名を氏としたのは、時国と同様に、平氏系の姓を名乗りつづけることに障害を感じたせいかもしれない。

 それには「兼政」でなく「兼正」とありますが、同一と思われますが何時ごろから「兼政」を使っていたのか判ればいいのですが。
[8]川口 信さんからのコメント(2002年05月16日 14時19分18秒 ) パスワード
  

 続き:

 配所であった則貞、曽々木の岩倉山麓にある上時国家と下時国家は、時忠の末裔の代、時国・時康(則貞)が平の姓を名乗り続けることに支障を感じ、実名を姓とした一族が居住した場所。多くの平家落人伝説が広がる中、国道249号の沿線には、確かに現代まで続く平家一族の歴史がある。

 http://japan.road.jp/History/Ishikawa-R249.htm (上記文章記載あり)

 兼政姓に関係がないのですが平家落人に関係するURLがありました。興味深いものがありますので。

 http://www.tajimagaku.org/action/2001/01.htm

 「平家村御崎の百手(ももて)の儀式」と言うタイトルです。
[9]兼政さんからのコメント(2002年05月16日 20時08分21秒 ) パスワード
  

服部 明子さん、たくさんの返答ありがとうございます。

>伴姓で兼政を名乗る鹿児島の一族がいらっしゃるようです。

鹿児島にも兼政姓があるとは思いませんでした。

>平家方では(備前、備中、備後を治めた)武将妹尾太郎兼康のご子孫にも兼政を名乗る方がいらっしゃるようですよ。

この方は、年代的に時忠と行動することはあるのでしょうか?。
[10]兼政さんからのコメント(2002年05月16日 20時23分58秒 ) パスワード
  

川口 信さん、輪島の歴史を確認しました。

>頼兼、頼光、頼正、兼正、それに先ほどの則正など、実名を氏としており、俗に大谷十二名と言われている。

たしかに「兼正」となっていますね。珠洲群史には、頼兼、頼光、頼正、兼政となっているのですが、もしかすると「兼正」から「兼政」になったのかもしれません。
祖母に聞いてみたいと思います。
[11]服部 明子さんからのコメント(2002年05月16日 22時00分07秒 ) パスワード
  

>平時忠の一族の墓に近い大谷の集落は、
>烏川によって作られた狭い平地だが、
>住人の大半は時忠ゆかりの深い従者の子孫と言われている。

>頼兼、頼光、頼正、兼正、それに先ほどの則正など、
>実名を氏としており、俗に大谷十二名と言われている。


これは凄いですね。
「大谷12名」から出て来そうですね。
頼兼・頼光・頼正・兼正は名前からすると一族のようですね。
兄弟みたい。
かなり核心に迫ったと思いますよ。

私自身は勝手に七尾の益田家も調べては?と思ってますが。


さすがでございますね>川口さま
[12]服部 明子さんからのコメント(2002年05月16日 22時02分06秒 ) パスワード
  

やっぱり「平時忠」の生涯を扱った文献を調べたら従者の名字が出て来ると思います。
[13]兼政さんからのコメント(2002年05月17日 12時28分14秒 ) パスワード
  

平時忠について文献を調査したいと思います。
>頼兼・頼光・頼正・兼正は名前からすると一族のようですね。
>兄弟みたい。

確かに名前の付け方が使い気がします。
兄弟って可能性は高いのでしょうか?。
[14]服部 明子さんからのコメント(2002年05月21日 00時12分49秒 ) パスワード
  

タイトルをちょっと変えさせて頂きました。
これですと「平時忠」に詳しい方からも情報が得られるかも知れませんから。
そして「兼政姓」を名乗る方も検索がし易くなるのでは、と願いまして。

もしご希望のタイトルがございましたらご遠慮無くおっしゃってくださいね。
[15]兼政さんからのコメント(2002年05月22日 12時58分56秒 ) パスワード
  

服部 明子さん タイトルの変更ありがとうございます。
確かにこっちの方がわかりやすいですね。
[16]川口 信さんからのコメント(2002年05月28日 12時32分02秒 ) パスワード
  

  「奥能登と時国家」という本がありますが、その文書の中に十二姓に関係のありそうな氏名を見つけましたが?ご存知ならご容赦ください。

 天正四年の年貢米関係の文章ですが、氏名として使用している家は時兼、行友、則友、以上三家は現在でも氏名として使用していますが、あと友貞、則久、則政、成正、成兼が見出せます。この中に大谷十二姓が入っていればいいのですが。則貞(平時康)家は地名をとって姓氏としたもので、平時忠の御墓を守っている家だそうです。

 時国家の子孫の記事が「歴史読本・昭和44年10月号」にありますが、その中で面白い箇所がありました。
 
 頼朝と義経と義仲などの関係が不和になった原因を色々考えて見ると、二人は自分の身内である。これは何者か判らぬが平家の残党がいて源氏を内輪もめさせ、力の弱くなった処で平家再興をはかっている者があるに違いないと云う様に考えて、平家の残党を色々と詮議してみると、誰一人として名の知れた者は残っていず、ただ京都に例外的な大物の時忠が一人いる。これは時忠の策謀に相違ないと言うことで文治元年捕えられ、奥能登の珠洲の浦(現在の大谷)に配流された。という事です。
[17]川口 信さんからのコメント(2002年05月29日 20時11分26秒 ) パスワード
  

上記コメントの氏名を羅列してありますが、時国家文書の中から私が勝手に推測して書き出したものです。誤解のないようにお願いします。

 「石川県姓氏大辞典」を借りてきました。その中に大谷十二姓と書いてある家がありました。

 兼政、頼兼、頼政、頼光、政頼、助友、助光、吉盛で、則政家については記載がありませんが前に確認したので間違いないと思われます。
「珠洲市 ○○」で検索すると行友、時兼は氏名として現在も氏名として使われているみたいであります。

 兼政家については珠洲市・8、金沢市・1、小松市・1、辰口町・1、計11とあります(1998年石川県の電話帳に登録された件数)。これを元に調査されれば何処かの家に記録があるかも知れませんね。

[18]兼政さんからのコメント(2002年05月30日 12時26分33秒 ) パスワード
  

川口さん

貴重な情報をありがとうございます。
現在、珠洲市立図書館で資料を調査依頼したところ、2〜3冊、関連資料がありようです。

少しづつ、何かが解ってきた気がします。

これからも、みなさんの情報をお待ちしております。
[19]服部 明子さんからのコメント(2002年05月30日 12時54分51秒 ) パスワード
  

詳しい経緯が分かるといいですね。
[20]川口 信さんからのコメント(2002年05月30日 20時34分38秒 ) パスワード
  

前回に記載するのを忘れましたが、大谷十二姓より派生した「大兼政(おおかねまさ)」という家もあるそうです。

 大谷十二姓は家来筋ではなく、みな平時忠の末裔となっております。
[21]服部 明子さんからのコメント(2002年05月30日 21時20分45秒 ) パスワード
  

>大谷十二姓より派生した「大兼政(おおかねまさ)」という家もあるそうです。

なんとなく「兼政」姓のホンヤさん的立場のように思いますが。
こちらも研究対象になさってはいかがでしょう?
[22]兼政さんからのコメント(2002年06月03日 12時51分48秒 ) パスワード
  

川口さん

>大谷十二姓は家来筋ではなく、みな平時忠の末裔となっております。

このような情報は、どこから入手されるのでしょうか?。
現在、珠洲市立図書館の資料を確認したところ、かなり古い事しか解っていません。

よろしくお願いいたします。
[23]川口 信さんからのコメント(2002年06月03日 13時59分42秒 ) パスワード
  

「石川県姓氏歴史人物大辞典」を見ているだけですが、この本を編纂した時に「種本」として大田亮著「姓氏家系大辞典」から採譜したものと思われます。以前所有していたのですが古本屋に売ってしまい、今にしては残念です。

 「石川県姓氏大辞典」はおおかた加賀藩の人名に費やされ他の県に比べるとちょっと薄いのでその分、あまり詳しくないみたいです。

 「大兼政」については分家なら「大」の字を使うのが憚れますので、明子さんの云うとおり、電話帳などで当たってみてはいかがでしょうか。

 「平兼基」という人物が鎌倉期に珠洲郡大谷に住んでいたとあります。大般若経六○○巻の書写を発願、三崎高座山住僧の協力を得て、能登国鳳至郡町野郷(輪島市)の総社八幡宮に奉納した。初願の七年前に、能登に流罪となった平時忠が没しており、時忠と深い関係を有した人物とみられる。
同じ「兼」を使っておりますのでこちらのほうも調べてみてはと思います。

 平時忠:珠洲郡に館を構えがあり、同地で没した。同地には宗左衛門家があり、また支流という十二家は、大谷十二名と呼ばれていた。

 平氏系図によれば時忠-時実-時秀
           └時家
           └時定
           └女子(藤原忠親室)
           └女子(源義経室)

 とあり、時国家においては、時忠が能登に流されてから時国、時康が生まれ、時国が跡を継ぐと彼には三種の神器の帰座という功が無い為に鎌倉より刺客が能登に派遣され、其の為時国は大谷に居る事が出来なくなり近くの牛尾という山中に身を隠し、危険のため平姓を捨て時国姓にしたのか、次の代の左京亮時晴が時国姓を名乗ったのか、その点は不明であるが、時国と云う名が姓に取替えられたとも伝えているという(前述歴史読本・時国恒太郎氏談)




           
[24]川口 信さんからのコメント(2002年06月04日 10時11分45秒 ) パスワード
  

 平兼基については「月間まいどさん11月号」に記事がありました。

   http://www.amusewajima.gr.jp/maidosan.htm  

一、昭和三十六年朝日ジャーナル記載。文治元年三月(1185)壇ノ浦の合戦で源義経軍に敗れ捕虜となつた平時忠公「平氏にあらずんば人にあらず」と云われた文人鎌倉に送られたが後白河法皇の助命願ひで能登は珠洲大谷に流刑六月越後の国府、直江津より対岸珠洲に向ふも荒天で半死半生で大谷に流着。文治五年二月(1189)六十一才没の間に都の貴人貴種で土地の側使ひの娘との間に産まれた子が平兼基ではないかと。元久三年は時忠公の十七回忌に当る処より父祖一族の追善供養のために最末端奥能登珠洲郡の思いもよらぬ遺児が大金を投じての偉業かと推定されている。
[25]服部 明子さんからのコメント(2002年06月04日 10時35分27秒 ) パスワード
  

>>大谷十二姓は家来筋ではなく、みな平時忠の末裔となっております。

私も「家来筋」じゃなかったように感じます。
と言いますのは「家来」だったら大谷とか、もっと地名や姓らしい名を名乗るのでは?と。

なぜ「いかにも名前」から派生した名字なのか?という疑問があるからです。

ここの謎が解けるといいですね。


私が「名前」を名字にした理由と思うのは皆さんの身分が「対等だったから」じゃないか?
と。
[26]兼政さんからのコメント(2002年06月04日 17時38分04秒 ) パスワード
  

川口さん・服部さん
いつも貴重なご意見をありがとうございます。

兼基・大兼政について調べてみたいと思います。
また、兼政が大谷近辺(馬緤)に居住していたらしく、この時の菩提寺が解りました。このお寺が今も現存しているかまでは確認できていませんが、調査してみたいと思います。

[27]服部 明子さんからのコメント(2002年06月04日 22時48分52秒 ) パスワード
  

菩提寺が分かりましたか。
凄い発展ですね。
現存してればかなりの事が分かりそうですね。
[28]兼政さんからのコメント(2002年06月24日 17時46分17秒 ) パスワード
  

先日、実家へ帰り祖母にいろいろ聞いていた時にこんな話を聞きました。

兼政家の墓が、平時忠公が眠る土地(則貞地内)にあると言うことです。

自分の実家では、祖母の記憶のある限りお参りに行った事が無いとのことですが、大昔、当家から分家したと思われる「兼政家」では、お盆などにお参りに行くと聞いたことがあると...。

このお家の方に確認をとっていないため定かではありませんが、今年のお盆には確認を取り、1度、このお墓にお目にかかりたいと思います。
[29]服部 明子さんからのコメント(2002年06月24日 22時19分41秒 ) パスワード
  

はい
ぜひ御先祖さまのお墓にお参りなさってください。
御自分が今あるのは御先祖さまが大変な苦労をなさったからですから
それを感謝なさって下さい。

そして家紋などいろいろ調べてみて下さい。

更に御先祖さまのお墓に行きましたら
両隣のお墓も綺麗にしてあげて
お花など一緒に供えてあげて下さい。

ちょっとした心遣いです。
もしかすると今は知らないけど一族か古い友人かも知れませんから。
[30]川口 信さんからのコメント(2002年06月25日 07時55分14秒 ) パスワード
  

 兼政さん 良かったですね。
 
 私も先祖の墳墓の地に初めて訪れた時の感動は今でも忘れません。先祖と同じ地に立ち、同じ空気を吸い、同じ景色を眺め、遠い先祖もお墓参りしたんだなと思うと自然と頭が下がりました。大げさに言えば人生観も変わりました。

 是非とも墓参して、先祖と語り合ってください。今後の発展をお祈り致しております。
[31]兼政さんからのコメント(2002年08月29日 21時57分25秒 ) パスワード
  

ご無沙汰しております。
いろいろあり、引越ししました。
今日、久しぶりに確認にきたところ、同じ珠洲市内の馬緤さんも先祖について調べられていることを知りました。
何かの機会に情報交換できたらいいと思っています。
また、今年のお盆に時忠公のお墓参りをしようと計画していたのですが、実現できませんでした。もうすでに収穫の時期となり、今度、稲刈りに実家へいきます。この時に必ず実現したいと思っています。
以前、資料収集にお世話になった方からも、調査のお手伝いをしていただけるというお話もいただけました。

今後、いったいどんな経緯でこの地に兼政家が存在するのか、が解れば自分の代での仕事はひと段落と思っています。
出来れば、焼失したという家系図を少しでも復旧できればと思います。

これからもみなさんの貴重な情報をお待ちしております。
[32]服部 明子さんからのコメント(2002年08月29日 22時43分03秒 ) パスワード
  

兼政さま

馬緤さんの所でも書きましたが
珠洲市の開催している掲示板をご利用になったら
何か分かる事が出てくるのじゃないかと思います。

>焼失したという家系図を少しでも復旧できればと思います。

本当に回復出来ると良いですよね。
どなたから出てるのか、それだけでも。

また何か分かりましたらこちらでもよろしくお知らせ下さいね。
[33]川口 信さんからのコメント(2002年08月30日 18時19分19秒 ) パスワード
  

9月12日に能登大谷神社において大谷キリコ祭りが行われるそうです。(たぶん今年の事と思いますが)

 9月12日:場所・大谷神社 21:00〜24:00頃

 平家にあらずんば人にあらずと豪語した平家の中枢人物である平時忠が流罪となってたどり着いたのも、この大谷の地であった。平家の子孫と伝えられる大谷12名が谷の各地に勢力を誇り、大谷神社はこれらの名が守ってきた神社を中心に13社を合祀している。
 合祀社の代表、森吉で神迎えを行い、伝説とロマンを秘めた大谷川沿いをキリコが練り歩く。秋の冷気の中、素朴なキリコ太鼓が海に響き、谷にこだまし、実りの秋の風情をいやが上にも高める。

 http://www.nsknet.or.jp/kitano/otani.html

 ご先祖と関係のあった子孫の方々と接触できるチャンスではないでしょうか。お忙しいとは存じますが。
[34]兼政さんからのコメント(2002年08月30日 22時44分20秒 ) パスワード
  

能登半島の祭りは「キリコ」祭りがおおく、キリコをかついで練り歩きます。
ここ十数年は、なかなか参加する機会に恵まれていませんが、その時期になると血が騒ぎます。
今年は参加できませんが、「平家の子孫と伝えられる大谷12名」が関係する祭りと言う事がわかったからには、いつのひか訪ねてみようと思います。

川口さん、貴重な情報をありがとうございました。
[35]兼政さんからのコメント(2002年09月08日 17時44分31秒 ) パスワード
  

今回、実家へ行く用事があったため、時忠公のお墓参りに行ってきました。
まだまだ何も解っていませんが、何かのお導きがあればいいと思っています。

また、その昔、兼政の菩提寺だったという本光寺(ホンコウジ)も現存しているような情報をつかみました。その資料によると、本光寺にはその筋の古文書がありようです。

次回、帰省した際には、本光寺を訪ねてみたいと思います。
[36]川口 信さんからのコメント(2002年09月09日 15時14分04秒 ) パスワード
  

 良かったですね。ご先祖様もさぞかしお喜びのことと思われます。
お参りした事によって心が洗われ、落ち着きが出てくることでしょう。またよりよい情報が飛び込んでくることを願っております。

 馬繋さんの方に書き込みを入れて置きましたので見に行って下さい。
「奥能登の研究」:和嶋俊ニ氏著に平兼基について書かれた個所がありましたので。」

 それによれば時忠と関係のありそうな兼基を考えてみると、藤原忠通の子の基実の妻は平清盛女盛子、基実の子基通の妻は清盛女「ゝ子」または「寛子」、その子に家実、道経、兼基等がいる。道経は母平信範で妻が時忠の娘であり、北小路とある。
 信範は時忠の父時信の弟であり、その孫の時兼は右京大夫、従三位で、時忠卿の子となる。時忠の子となったため時兼になったのではないか。その子が兼親で、その後、子孫に「時」をつける者がいないことから、時忠の配流後、源氏をはばかり名を兼基に改めたのではないか。とある。いずれにしても八幡寺の大般若経六百巻の写経の願主は、近衛家につながる平氏ゆかりの者であったと考えられる可能性が大きい。とある。

 本光寺は大谷と馬繋のちょうど真中ぐらいの所にありました。
[37]川口 信さんからのコメント(2002年09月19日 09時20分48秒 ) パスワード
  

馬緤の文字が間違ってましたね。お詫びいたします。

 本光寺:馬緤町9-140 пF87-2733
 福井県有形文化財
      常俊家…馬緤本光寺文書 13件
       管理者…常俊弁志氏
  檀 家:常俊家
      頼兼家(近世に檀家になる。藩主前田家が曹洞宗にならったもの)
      三百刈家(次郎兵衛家)平時忠の末裔と伝える。

【東若山校下の旧家 聞き書き】
 時真家(火宮) 向村の時長家とともに、平時忠の子孫と伝える。(ただし、時長家では黒峯の安部判官の家来と言っている)
 先祖の墓は小谷(コダン)にあって、現在の墓は家の高にあり、嶺一つ越した所である。(中略)……隣には一段屋敷を低くして兼政、黒津の二軒あるが、もと家来であったと、したがって以前は火宮中の人が年頭に必ず来たが、家の衰えとともにこなくなったけれども、この二軒だけは決まって来る。また中という家は、俗称マツナギヤというが、これは西海村馬緤から来て一戸を構えさせたものであると。(以上・奥能登の研究より)
[38]服部 明子さんからのコメント(2002年09月19日 10時23分49秒 ) パスワード
  

発展的な情報でございますね。
これで兼政家や馬緤家が分かって来ると良いですね。
[40]服部 明子さんからのコメント(2003年02月19日 03時39分20秒 ) パスワード
  

三瓶さま

お書き込みをありがとうございました。
スレッドのタイトルを変更させて頂きました。

御本家の時国家の奥さまにおっしゃって頂いて名誉な事ですね。
本家が分家をいつまでも忘れないでいてくださることは嬉しいですよね。
[41]兼政さんからのコメント(2003年05月13日 22時21分25秒 ) パスワード
  

お久しぶりです。
先日、大兼政さんと言う方から直接メールをいただきました。
メールをいただいた大兼政さんも、先祖のルーツについて調査をされているようでした。
現在、先祖のルーツについては思いのほかすすんでおらず、難航しています。
しかし、同じ血筋と思われる方で同じ先祖のことを知らずに過ごされている方が大勢おいでるような気がします。
長い年月をかけ、闇に消えた情報を確認することは出来ませんが、現在、最有力情報として考えているものは、馬緤にあった本光寺というお寺の資料、平兼基という人物の情報、珠洲市若山町にある中という集落を作った時点で存在していたとされる7件の家の情報です。
どんな些細な手がかりでも知っておい出る方は、スレッドへの書き込みをお願いします。
[42]川口 信さんからのコメント(2003年05月14日 08時03分11秒 ) パスワード
  

兼政さん、お元気でしたか。

 そうです、継続こそが大事です。ちょっとした情報・資料が集まれば大きな情報の塊になり、そこから真実が見出せます。あせらずに、まだお若いのですから、まだまだ頑張ください。

 旧家などは自分の素性や系図を公開するのを嫌いますので、根気よく調査するのみです。こうやってBBSにコメントを出すことによって、検索の機会が増え、それだけ大勢の方々が情報や問い合わせが多くなります。特に『平家物語を熱く語る』は検索機構に入っておりますので、最適です。
[43]川口 信さんからのコメント(2003年05月21日 10時48分03秒 ) パスワード
  

大谷町の則貞家に関する記述がありましたので。(以前則貞家は地名を称したと記しましたが、反対に姓が地名になったと訂正してお詫び致します)。

 前述の『奥能登の研究』和嶋俊二氏著の中に大谷十二姓の
一つの則貞家について。(以下同書より引用させて頂きました)

【則貞家】
 平大納言時忠の子孫との貴種の誇りにふさわしい、広大な土地を所有していた則貞惣左衛生門も、たまたま起こった真宗大谷派の広栄寺と頼兼(当時は山廻役、近世初期の十村)との地境争いに、広栄寺側の惣代として宝暦語年(1755)前後、三年間におよぶ公事沙汰入牢などで家運やや傾いたとはいえ、脈々として平大納言の遺績・伝承を守り、語り伝えられている貴重な存在である。

「大般若経」について

 時忠供養の写経と考えてよいとすれば、その願主平兼基とはどんんな人物であろうか。当時にあってその料紙をそろえるだけでも能登に居を構える人間のなし得ることではない。いずれにしても八幡寺の大般若六百巻の願主は、近衛家につながる平氏ゆかりの者であったと考えられる可能性が大きいのである。(この文は前と重複している部分もあります。念のため)

 時国家は、大谷町から山を越して町野町の牛尾、そして現在地に移動したという。

 いずれにしても大谷の諸氏(大谷十二姓)は大谷から始まっているので、大谷の則貞家を探し出し、訪問されるのが重要かも知れません。(則貞宝作氏の家か?)

[44]兼政さんからのコメント(2003年05月24日 22時37分01秒 ) パスワード
  

川口さん貴重な情報をありがとうございます。
このような情報は、どうやって取得されているのでしょうか?。
和嶋先生の著書をご購読されているのでしょうか?。
次回、時忠公のお墓参りに行った際に則貞家を訪れて見ようと思います。
また、和嶋先生は地元に在住ということで、今度、直接お話を聞いて見たいと思っています。
[45]川口 信さんからのコメント(2003年05月25日 17時06分38秒 ) パスワード
  

私にはそれほど知識がありませんので、もっぱら本などを読み漁っているだけで、ただの受け売りです。

 
 姓氏関係の本は日比谷図書館(結構姓氏関係の本は揃っております)を利用して借りて来ます。和嶋俊二氏の『奥能登の研究』は購入しました。これは東京駅前の「ブックセンター」(6階建て?)ビル全部が本の売り場になっており、なかなか購入出来ない地方関係の本も一部扱っております)を利用しております。

 『奥能登の研究』にはもっと色々な事、能登の風土、旧家の伝承、歴史や口承文芸にあらわれた珠洲、など兼政さんが読めば参考になることがいっぱい記述されておりますが、著作権の関係からあまり転載出来ませんので、地元図書館には置いてあるかと思いますが、是非一読されれば、能登の生活、民間信仰まで理解ができます。

 また参考になる箇所があれば、コメントします。

[46]谷川須佐雄さんからのコメント(2004年12月27日 21時35分36秒 ) パスワード


 兼基の大般若経に関する記述は、「写経と版経」(石川県立歴史博物館)88頁にあります。願主兼基の奥書のある写経の写真もいくつか掲載されています。
まだ研究の途中ですが、兼基は若山荘の有力経営者であり、現地の珠洲古窯を支配していたのではないかと推測しています。
[47]兼政さんからのコメント(2006年05月12日 22時18分41秒 ) パスワード

みなさま。お元気でしょうか?。

おひさしぶりです。

この2年あまり、なかなか時間がとれず、ただ、みなさまのスレッドに目を通すことが限界の日々がつづいていました。

先日、親戚の祖父が他界し、先祖の歩みの解読が困難な状況になりつつあります。しかし、先祖の歩みを認識し、少しでも後世に伝えることが宿命と思っていますので、何か手がかりがありましたら書き込みをお願いいたします。
[48]田中愛造さんからのコメント(2006年05月19日 02時36分55秒 ) パスワード

兼政様

 川口様が勢力的に協力され、粗出尽くしてると思います。小生も少々調べて見ましたが全く同じ事の繰り返しで重複致すのみです。
 姓氏家譜や姓氏家紋の大谷頁を抜粋致しますと。大谷氏も存在します、但し十二氏とは家紋が違います、同じく時忠流とはありますが。殆どが揚羽蝶紋を使用と考えますが、剣片喰・蔦・抱き茗荷・木瓜を使用(大谷四家)。
 家譜には、則貞宗左衛門の事に続き、時忠卿の支流として、是を大谷の十二名と呼ぶと見えたり。今の西海村にして皆時忠の子孫と云えり。十二名とは頼兼・則貞・頼政・頼光・兼政・政頼・友安・吉盛・友吉・助光・助友・国吉の十二氏にて、猶それより別れし大兼政氏と云うもあり。と記されております。各家々の頁は、何れも著し方は同じで時忠卿の子孫とし出自村のみ記される。
 国吉は(能登郡若山村)他は(珠州郡大谷庄)、日本の姓氏に、大兼政・桓武平氏、能登国西海村大谷の十二氏より分かれる氏に大兼政氏あり、平時忠の後裔という系は詳細にはわからない。としている、只、珠州市中央図書館長大兼政忠男氏に問い合わせれば大筋は解明されると思います。
 時国氏に付いては『時国家史料書』が在るらしいが系図は確かでなく、子孫の方に尋ねるが確かでしょう。宮廷公家系図には時忠卿の子も記されてはいますが詳細ではなく、一人一人を調べ、関連を知るのが必要ですね、更に祖先からも、現存する子孫からも、上から下へ下から上に繋いで行けば何れは答えが出ます。
 時忠1130-ii89(正二位権大納言)以下は子
時実1151-1213(従三位・子、時秀兵部少輔・宰相の局)
時家 ? -1193(従四位下ほ伯耆守・千葉広常婿)
時康(則貞家初代以下子孫墓あり)
時宗1172- ? (1178従五位上叙侍従尾張守)
時定(1178従五位下叙)
時国(時国家初代以下子孫あり・子、時晴左京亮)
時兼1168-1249(猶子、従三位右京大夫・子、兼親・子孫繁栄)
道忠?
女 (藤原頼実室)
女 (中山忠親室)
女 (近衛道経室)
女 (京の君、源義経妾)
 多分、お調べの事とは思いますが書いて見ました。


[49]珠洲人さんからのコメント(2009年05月07日 03時45分37秒 ) パスワード

珠洲と町野に兼田姓があり、共に時忠の従者の子孫と聞いています
珠洲の兼田家は珠洲市馬緤町の本光寺の檀家です
[50]高山かよこさんからのコメント(2009年08月18日 17時29分40秒 ) パスワード

昨年なくなった母が馬緤の常俊家の子孫です 祖母は平なつ 祖父は常俊常盛でバリバリ平家ですね 紋がのぼり藤なのが? 実家には忠誠という金箔の額や、あとお宝的なものが数点あります。 人のよい純朴な家で対外はだましとられてるみたいです。偶然この記事を見つけたので 今年も実家でのんびり、
ちなみに詩吟してますが、初めて大会で知らずに詠んだ歌が偶然にも 壇ノ浦を過ぐという 平家の歌でした で海辺で吟じておりました。
内容は 若くして入水した安徳天皇の無念さを歌ったものです 
[51]多胡 亜紀子さんからのコメント(2010年11月04日 22時09分34秒 ) パスワード

私も旧姓(兼政)です。

父方の田舎は石川県金沢市と聞きました。

父からは、先祖は

『前田一兵衛上兼政』という人だったっと聞いてますが、そんな方が

存在してるかも分からないです。。。
[52]室谷さんからのコメント(2010年11月11日 00時21分56秒 ) パスワード

はじめまして。
ネットサーフィンしてたら見つけて先ほど違うスレにも書き込みしちゃったのですが、うちの祖父は兼政です。のちに養子に入り名前変わりましたが能登半島出身です。
まだ能登半島のお家や大きなお墓はあります。
父が小さい頃うちのご先祖様は平家だときいて、なにか巻物をみせて貰ったそうです。
うちの親戚は石川県で旅館などしていて、祖母も富山県の人です。
自分のルーツもっとしりたいです。
養子に入った後は室谷やので、孫の私の名前は室谷です。
室谷のルーツもしりたいです。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2010年11月11日 12時07分49秒 ) パスワード

室谷さん

初めまして。

まったく分かりません。

でも北陸の歴史をお調べになると、どこかにヒントが書かれていると思いますよ。

石川県。富山県。
その辺りの歴史を調べてください。


養子でしたら室谷家の明治の初めのあたりの除籍謄本は手に入らないかも知れないですね。
兼政家の遠縁かもね。

兼政家の明治の初めの除籍謄本は手に入らないでしょうか?


頑張ってくださいね。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月06日 18時12分53秒 ) パスワード

室谷肇さま


全く分かりませんが

和歌山にも室谷姓がいらっしゃるし
http://www.wakayamashimpo.co.jp/news/11/03/110323_10101.html

石川県の加賀市や奥能登にも

それから
神戸の須磨区の豪商(材木商)に室谷氏がいらっしゃったようですよ。


やはり明治の初めの戸籍を取得するのが良いと思います。
御自分から遡って取っていくのですが

現在80代ぐらいの室谷姓のご親戚の方にお願いして戸籍謄本を見せていただいたり
その方の御両親や御祖父母さまの除籍謄本を取得なさってはいかがでしょう?

取得理由は
法要
このあたりなら充分な理由になると思いますが。


明治の初めにどこにいたか
北海道に渡る前の住所が分かると良いですね。


それから奥能登の歴史の情報が手に入ると良いですね。
教育委員会から頂くのが良いと思いますが。
今は不景気なので良く分かりません。


多分
平家 → 南朝方  こういう流れだったように思いますが。


どなたか御存知の方からレスがつくと良いですね。
[56]室谷肇さんからのコメント(2011年05月08日 10時12分19秒 ) パスワード

空の青海のあをさんどうもありがとうございます。頑張って調べてみます。
[57]友安さんからのコメント(2012年10月01日 00時35分55秒 ) パスワード

兼政さま

はじめまして友安です。
長く馬渡の地に暮らしてきましたが、本家は絶えてしまいました。
十二の姓が消える前に何か繋がりが出来るといいですね。
頑張ってください。
[85]頼光さんからのコメント(2021年02月16日 09時02分52秒 ) パスワード

頼光と申します。

私も先祖のルーツを調べていたところ、こちらにたどり着きました。
どこよりも詳細な情報が載っていて大変勉強になりました。ありがとうございます。

大谷十二姓に、"頼兼・頼政・頼光・兼政・政頼"とあるように、兼政さんとは兄弟のような関係だったのではないかと想像しています。

彼らが@時忠の従者なのか、A時国/時康/時兼の分家なのかでただいま調査が行き詰まっております。

いつか珠洲大谷の本家を伺い調べてみたいと思うのですが、他界した祖父が、本家の蔵だったかお寺の火事で家系図が消失したと話していた記憶があります。

なにか進展ありましたらご報告しますので、10年前のスレッドではありますが、大谷十二姓のルーツについてご存じの方いらっしゃいましたら、今後ともご教授いただけましたら幸いです。
[86]頼光さんからのコメント(2021年02月16日 09時13分49秒 ) パスワード

素人発想ではありますが、当時"頼"や"兼"が頻出するのは藤原氏で、藤原に由来をもつ時忠の従者だったのではないかとも疑っております。

もし、ご先祖様が平時忠の従者であるなら壇ノ浦にも同行していて一緒に捕まった可能性が高いと思うのですが、平家物語に出てくる、壇ノ浦の捕虜38名や、市中引き回しになった侍20余名の名簿リストのようなものは現存しているでしょうか。

【平家物語 巻第十一「内侍所都入」】
生け捕りには、前の内大臣宗盛公、平大納言時忠、衛門の督清宗、内蔵の頭信基、讃岐の中将時実、大臣殿の八歳の若君、兵部の少輔尹明、僧には二位の僧都全真、法性寺の執行能円、中納言の律師忠快、経誦坊の阿闍梨祐円、侍には源大夫の判官季貞、摂津の判官盛澄、藤内左衛門の尉信康、橘内左衛門の尉季康、阿波の民部成良父子、以上三十八人なり。

【平家物語 巻第十一「一門大路被渡」】
同じう壇ノ浦にて生け捕りにせられたりし二十余人の侍どもも皆白き直垂にて、鞍の前輪に締め付けてぞ渡されける。
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