[1] | hazuさんからのコメント(2002年05月04日 20時44分55秒 ) | パスワード |
種子島信基のことですね(^^;;
平行盛は清盛の子基盛の子になります。『「さつま」の姓氏』(川崎大十著)によりますと、行盛が壇ノ浦で戦死すると、信基は母とともに逃れ、後、北条氏の養子になり、種子島他に領地を貰い、種子島氏を称したようです。
肥後氏はこの信基の弟宣盛の子孫になります。肥後氏を称したのは宣盛の3代後の政盛からですが、信基が肥後守を称したからといいます。
ということで、種子島氏、肥後氏に関することは『「さつま」の姓氏』に詳しいです。
筈衛
[2] | 加藤ですさんからのコメント(2002年05月04日 22時04分02秒 ) | パスワード |
hazuさん早速のご教授ありがとうございます。
平姓と思っていたので、種子島氏を見落としました。
しかも信基に弟がいたとは知りませんでした。
平姓から離れてもう少し調べてみます。
まずは「さつま」の姓氏からですね。
ありがとうございます。
他にもどんな些細なことでも結構ですので
ご教授お願いいたします。
[3] | 川口 信さんからのコメント(2002年05月07日 13時56分56秒 ) | パスワード |
お探しの肥後姓について記載されているURLがありました。
一 島主元祖之事
肥後守信基と号す信基は、太政大臣清盛公の二男(家伝嫡男)安藝判官基盛の男左馬頭平行盛の子なり。平家没落の後、北条平時政の養子と為り、鎌倉に在り。時政、執奏を以て種島(家伝 屋久・恵良部を加領す)を賜はり、之を領す。
元祖信基、信式、信真、真時、時基、時充、頼時、清時、時長、幡時、時氏、忠時、恵時、時尭、時次、久時、忠時、当久時まで十八代凡そ五百年餘。是れより先、此の島鎌倉御蔵入、地頭大浦口氏、鎌倉に在りて事を聴く。上妻氏、代官と為りて在島し、貢税を宰る。亦、高野入道・野間入道・熊毛入道、以上三入道、上中下三郡の司なり。
上記は信基についての部分ですが、「肥後家」についても記載があります。
詳しくは種子島の歴史:「懐中島記」に。家紋についても種子島氏関係からきていると思われます。
http://www.asahi-net.or.jp/~qk5j-kuzm/kaityuutouki.htm
[4] | 加藤ですさんからのコメント(2002年05月09日 18時40分48秒 ) | パスワード |
川口 信さんありがとうございます。
種子島氏について少し調べてみましたが、坂東平氏川邊氏・大隅国の多邇氏(しめすへん?)の末裔とありました。川邊氏の出自について調べていますが、見当がつきません。何かご存じの方、ご教授お願いいたします。
また、北条時政が何人かの武将の子どもを養子にしたと過去の投稿にありました。
頼朝との関係や時代背景を考えてもあり得る話だと思うのですが、記録等に残すのは大変危険だと思います。実際に記録として残っている養子の話はどのくらい有るのでしょうか・・・。
質問ばかりで恐縮です。
よろしくお願いいたします。
[5] | 川口 信さんからのコメント(2002年05月09日 19時16分39秒 ) | パスワード |
種子島が初めて国史に登場したのは鉄砲伝来ではありません。
天武6年(677年)に「多禰(たね)嶋人が飛鳥寺に行った」という記録がありす。
大化の改新が645年ですから、それより32年後という事です。
朝廷では種子島に使いを遣わし、多禰国の地図など作成したとか、天武11(682年)に多禰人、掖玖(やく)人、阿麻彌(あまみ)人に禄を賜ったとか…
この天武11年頃から種子島は日本領土として本格的にその支配化に組み入れられたのです
しかも古代の朝廷の南島経営は種子島を基地として行ったとあります。
これは「種子島の歴史」にでてが、多禰氏の発祥のもとになる文章ではないかと思いますが。
[6] | 川口 信さんからのコメント(2002年05月10日 10時12分47秒 ) | パスワード |
[5]続き(脱字がありました「種子島の歴史」に出ていますが、) ペコリ
平行盛の子が壇ノ浦の役の後に北条時政に養育され、長じて時信と称したとする俗説がある。坂東平氏川邊氏の多禰有道を祖とする説もある。大隅国の多禰氏の後裔とする説が有力。
(多分この文書で迷っているかと思われますが。)
前回お知らせしたURL「懐中島記」の懐中島記目録にはっきりと肥後家の事はかかれております。
一、島主元祖之事
一、同姓之事
一 肥後家
二代信式四男
左衛門尉信清より当助左衛門まで十七代。
とあります。あまり俗説に振り廻されず、調査されるほうが良いのではないかと思われますが。
[7] | 加藤ですさんからのコメント(2002年05月12日 12時59分21秒 ) | パスワード |
川口 信さんありがとうございます。
ご指摘の通り、多禰有道を祖とする説も調べてみたいのですが、当方現在静岡でなかなか現地入りできません。いずれはご先祖様の菩提寺等々へ行くつもりでおります。
それまでにもっと情報収集をおこなっていこうと思います。お気づきのことがありましたら、今後ともご教授をお願いいたします。
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2002年05月12日 13時43分45秒 ) | パスワード |
平姓肥後姓について他の方も参加し易いようにタイトルに加えてみました。
もしご希望のタイトルがございましたらご遠慮なくおしゃって下さいね。
変更致しますから。
さてジャトウインって、以前さちこさんのお書きのツゲの<げ>を使って
げ答院という地名があります。ネ扁に邪のツクリです。
この場所の南西にいむた池というのがあります。
イグサのい+牟+田です。
入来から大口にかけての途中です。
ここに平家伝説?ですか?
私が島津家ゆかりの旧華族の方に聞いたお話では
なんとかという植物の葉っぱの蔭に隠れて命を助かったって。
しっかり聞いておけば良かったですね。
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2002年05月12日 14時14分27秒 ) | パスワード |
祁答院です。
[10] | 川口 信さんからのコメント(2002年05月12日 16時16分54秒 ) | パスワード |
懐中島記に次のような記述がありました。
三、種子島氏はどこから来たか
今回校訂に使用した「鹿児島県資料・旧記雑録拾遺家わけ四」の解題によれば、種子島島主の中で史実として認められるのは五代時基以降であり、初めは肥後氏を称していたという。肥後氏は、鎌倉時代前期、島津氏に代わって多祢島地頭となった北條氏一族名越氏の被官で、地頭代を勤め、幕府滅亡後島主化して、後に多祢島氏を称し、中世の末島津氏に服属して縁戚関係を結び、外様ながら島津氏の一門化し、藩の家老職を勤める種子島家に転身したという。
また、「歴史読本」(戦国大名家370出実総覧)によれば平信基が母とともに鎌倉に逃れていたところ北条時政に助けられ、始め時信と名乗って時政の養子となり、時政の執奏によって種子島に封じられ、深川院および財部院を兼領し、信基と改めた。それらを裏付ける資料は一つとなく俗説と言うべきものであろう。多禰直などの後裔と考えられる。(中略) 十六代久時のとき、秀吉公により種子島は島津氏に与えられ、久時は薩摩の知覧院に移されている。しかし、慶長四年(1599)、独立の大名としてではなく島津の重臣として旧領種子島に復した。とあります。
[11] | 川口 信さんからのコメント(2002年05月12日 16時40分39秒 ) | パスワード |
祁答院(ゲトウイン)と読むそうです。鹿児島県薩摩郡にあります。地図でいうと鹿児島市より30〜40キロ上のほうにあります。
祁答院町(ゲトウイン)のURlによれば
院とは
「鹿児島県史」(第1巻)より
「この院というのは、もと役所のことで、倉院はすなわち倉庫の事務を執る所であるが、 延暦十年(791)二月に、諸国の倉庫の距離を十丈以上とし、場所の寛狭によって、 宜しきを量ってこれを置かしめたが、さらに十四年(795)七月、諸国が新たに倉院を 建てる場合には、郷毎に一院を置き、今年の租税から新院に輪納せよと定められ、又同年 九月に至り、郷毎に正倉院を建てることは頗る穏便でないから、彼此相接する比近の郷には、 その中央に一院を置けと改められた。郡家以外、郡内の適当の地に倉院を造って租税を 出納するため、何時しか院は郡家と同等の位置を占め、倉院のことを司る院司なる者ができて 郡司と対立するに至って、遂には院司をも郡司と称するものがあるようになった。 このようにして、院は郡と対立するような行政上の区域となり、ついには郡と混同される ところまで発展したのである。この院という地名は九州に多く特に島津荘に多い。」
とあります。
[12] | 川口 信さんからのコメント(2002年05月12日 18時46分00秒 ) | パスワード |
いつもあわてもので、祁答院(ケドウイン)と読むのが正しい読み方です。ペコリ。
祁答院の名は、紫尾山祈祷院神興寺という寺が、継体天皇のとき空覚上人によって創設され、朝夕勤行の鐘の響き渡る地、すなわち、祈祷院が後世祁答院になったのが始まりと言われ、1200年ごろ、薩摩国司大前氏の一族が祁答院郡司となって統治したのが祁答院の名の史上に現れた始めである。
[13] | 川口 信さんからのコメント(2002年05月13日 18時11分16秒 ) | パスワード |
服部明子さんの言うとおりでした。祁答院の近くに藺牟田池がありこの地が加藤さんの探し求めていた場所です。
肥後関係文章:
12世紀には島津荘に属し、田500余町歩。鎌倉時代に入って伊作平氏有道・有平が領有したが、のち地頭名越(なごえ)氏の代官肥後氏が勢力を伸ばした。南北朝時代以降島主となる種子島氏はその系統であるが、《種子島家譜》は平家落人の子孫と伝える。
肥後氏は平清盛の曾孫信基の二男信行が13世紀頃種子島から下大隅(垂水)地頭としてこの地にきて高城を築き、ここを居城として近郷を統治した。
しかし、応永19年(1412)伊地知季随の孫、季豊が太守島津久豊より垂水本城村を賜り代々所領するようになったので、伊地知氏と肥後氏の勢力争いが始まり遂に肥後氏は大永2年(1522)滅亡していった。
垂水市と祁答院町は40〜50キロ離れており、その間の経緯がわかりません。
[14] | 川口 信さんからのコメント(2002年05月14日 15時18分59秒 ) | パスワード |
鹿児島県姓氏家系大辞典に記載あり。
薩摩郡祁答院町藺牟田に、桓武平氏種子島氏流肥後氏の十二代盛広の子盛直を祖とする肥後氏がある。同家が伊佐郡藺牟田郷(祁答院町)に移住した年代や人物は不詳。盛直-盛光-盛政-盛重-盛与-盛貞-盛安-弥三左衛門-弥左衛門-新左衛門-早右衛門-弥三左衛門-覚太夫-覚太夫-覚太郎-伊左衛門(湯之前絶次次男)-伊右衛門-直次郎と続く。八代弥三左衛門の次男盛春は寛永十三年、三男十太夫は同十七年に、九代弥左衛門の三男弥五左衛門は宝永四年に、それぞれ分家した。また、十三代覚太夫の次男太左衛門は天明四年に分家しており、さらに、これらの分家からも多くの分家が分出した(稿本薩隈日諸系図纂)。
まだ多くの肥後家が記載されておりますが、貴肥後家はこの子孫ではないでしょうか。
[15] | 服部 明子さんからのコメント(2002年05月14日 21時33分42秒 ) | パスワード |
>薩摩郡祁答院町藺牟田に、
>桓武平氏種子島氏流肥後氏の十二代盛広の子盛直を祖とする肥後氏がある。
川口さま、すっごぉ〜い!
ここまで分かってしまうなんて。
[16] | 加藤ですさんからのコメント(2002年05月16日 16時23分35秒 ) | パスワード |
加藤です。ありがとうございます。
まだ、整理がつかず混乱しておりますが、
ご教授いただきましたことひとつひとつ調べてみたいと思います。
祖父は、明治維新後に西郷従道と行動を共にし、
2・26事件では、警察官として軍隊の動きを事前に察知し、
現警視庁を守ろうと車で向かう途中銃撃を受けて引き返したという話も
聞いております。近代に分家がすすんだことで、調査も大変ですが、
ご先祖様の足跡を知る手だてがあったことに感謝し、
今後、自分の足で足跡をたどりたいと思います。
更に詳しいことがわかりましたら是非ご教授のほどよろしくお願いいたします。
[17] | 服部 明子さんからのコメント(2002年05月21日 00時03分29秒 ) | パスワード |
薩摩郡祁答院がらみで以下のメールを頂きました。
『えびの市真幸の境田姓は、伊予国の住人として名高い河野一族の出身で、
河野伊予守通広は、弘安4年(1281)の蒙古襲来の弘安の役で武功を立
てた。通広より4世の孫、河野四郎通安は初めて、明徳3年(1392)に
薩州祁答院の内境田に来て住んだ。境田の地は今の薩摩町求名狩宿の内、字
境田で、大口市針持より都之城行き県道にバス停留所もある。それより前河
野通安は天満宮を尊拝していたため境田に来住と共に天満宮を建立した。そ
の後通安の孫通正は、真幸院領主北原氏の家臣となり、境田より吉田に移住
して来たのを契機に、河野姓を境田姓に改めた。狩宿の境田の地名を苗字と
したものである。今でも狩宿地区には下境田姓があるが、彼等はその時残留
した者の子孫で、吉田移住の境田一族を「上の境田」と言い、自分達を「下
の境田」といい、自分達を下の境田と言っていたものをそのまま姓としたも
のである。
境田氏は吉田に移住と共に天満宮をそのまま持参し建山の上に天満宮を建
立、後享録4年(1531)に槻ヶ牟礼に遷座したが、以来吉田郷の宗廟と
して尊拝され、境田家は代々社家として奉仕して来た。
島津義弘公は境田新右衛門満重の時、天満宮に誤参詣になり、満重の邸に
臨まれて酒盃を賜り鎗1本を賜った。今のえびの市にある境田姓はその一族
であり、吉田郷の境田満重の子孫は、代々吉田郷の郷士年寄職を務めて来た
旧家一族である。柳水流の境田光政所蔵の境田系図によれば、歴代の吉田郷
地頭17名の氏名を知る事ができる。吉田郷地頭は他に知る資料がないだけ
に貴重であると言える。<あさね五郎>』
日本人の関係は何重にも繋がっているのを実感します。
それにこのスレッドの関係も(私には世界が全く違う)と思ってたけど
ジャトウインというのが何か気になって祁答院と分かった経緯も。
このメールを下さったかたも平家の一門の方でいらっしゃいます。
それも他のスレッドの「兼政氏」とご先祖がお知り合いだったんじゃないかと想像しております。
[18] | higoさんからのコメント(2002年06月06日 23時04分21秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2002年06月06日 23時05分31秒
[19] | higoさんからのコメント(2002年06月06日 23時05分56秒 ) | パスワード |
なにげに、ネットサーフィンしていると
こんなところに、遠い親戚がいるじゃありませんか。
鹿児島の島嶼(種子島のちょっと南)の出で
家紋は『向かい蝶』、肥後姓です。
ここの皆様のやり取り、大変勉強になりました。
[20] | 服部 明子さんからのコメント(2002年06月06日 23時34分21秒 ) | パスワード |
higo さん
お宅に伝わっているご先祖さまのお話等ございましたら
ご披露下さいね。
[21] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月31日 22時50分24秒 ) | パスワード |
祁答院
朝日新聞社の週刊朝日百科(1)源氏と平氏によれば
祁答院は大隅国の中にあって平氏の荘園だったとなっています。
[22] | くみんさんからのコメント(2002年07月31日 23時37分06秒 ) | パスワード |
いろいろ顔出してます。
種子島で特化して多い姓が古市だそうです。
調査中らしいですが、なんかあるんでしょうかね?
伊勢の安保と古市について書き込んでいたのですが、どうも両家とも
同根らしい? 私は、そのハーフです。。。
[23] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月14日 13時12分11秒 ) | パスワード |
牛(糞)屎氏:ごゆえうぐつ
薩摩国伊佐郡牛屎院より起こる。
平基盛の子、信基は保元の軍功で薩摩国牛屎院を賜わる。
子孫は代々院司となり牛屎氏を称した。
[24] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月14日 14時15分56秒 ) | パスワード |
上記基盛の子信基が拝領したと書いてありますが
基盛自身がまだ17歳ぐらい?でしたから
子の信基はまだ幼い子供だった筈なので信基自身が貰ったという意味じゃないと思います。
また信基は基盛の子の行盛の子という説もあり
なんとも・・・
ですね。
この牛屎氏について調べればもうちょっとハッキリした事が分かるかもですね。
[25] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月14日 14時30分37秒 ) | パスワード |
牛屎氏:うぐつ
ちょっと調べましたが
大口に牛屎氏があったそうです。
それから菱刈に太良(たら)城跡があり、別名「平城」「本城」とも呼ぶそうです。
[26] | 有山昌邦さんからのコメント(2002年10月15日 23時33分33秒 ) | パスワード |
札幌の高校の同級生に「キトウイン」と読む同級生がいました。
[27] | 竜伯さんからのコメント(2007年05月16日 11時18分58秒 ) | パスワード |
こんちわ、大口に祁答院屋敷て、ありますよ
[28] | 竜伯さんからのコメント(2007年05月16日 11時24分57秒 ) | パスワード |
平家伝説より、肥後氏が、種子島の領主なる過程で分家したんじやないんですか。種子島家も最初の名乗りは肥後氏ですから。
[29] | 竜伯さんからのコメント(2007年05月16日 11時58分46秒 ) | パスワード |
種子島家の家譜の三代目の項目に信清 号 肥後左衛門 子孫あり。あと 5代 時基あて書状に、畠山修理亮書下 南北朝時代の書下では、肥後中務太郎殿てなってます。種子島氏になるのは6代からです。
[30] | 肥後昭男さんからのコメント(2007年10月28日 14時00分53秒 ) | パスワード |
川崎在住の肥後昭男と言います。
亡父主税は種子島西之表市納曾出身です。
古くは種子島家の家老職を勤め家紋は「向い蝶」です。
亡父は4男ですが、戦後まもなく長男が鹿児島本土に移り住み、
その後行方不明となっています。
どなたか心当たりある方は連絡頂ければ幸いです。
2002年のコメントにhigoさんで、家紋が「向い蝶」というのがありましたが、ひょっとして姻戚関係かも?
[31] | さつま太郎さんからのコメント(2009年12月28日 22時31分24秒 ) | パスワード |
鹿児島県薩摩川内市祁答院町大字藺牟田小字原(はる)に肥後姓が十数件あります。
[32] | mokuさんからのコメント(2010年03月04日 13時03分28秒 ) | パスワード |
鹿児島県薩摩川内市入来町浦之名出身の曾祖母は肥後家の人でした。墓地を調べて知ったのですが、家紋は丸に九曜です。現在入来では肥後姓の人は聞きません。
[33] | 川邉さんからのコメント(2010年04月24日 23時43分45秒 ) | パスワード |
はじめまして川邉と申します。
私も自分の先祖について教えて頂きたいと思いメールさせて頂きました。
突然で申し訳ございませんが、何か知っていること、ございましたら教えて頂きたいと思っております。
祖父が鹿児島県姶良郡出身で生前(私が小学生の頃)、先祖が源氏であると聞いていました。しかし今、祖父も他界し先祖について気になり調べたところ、先祖は川辺町にいた川辺氏で、祖父が源氏と平家を間違えて伝えたのでないか?と疑問を感じました。
ちなみに家紋は「丸に桔梗」です。宜しくお願いします。
[34] | 肥後さんからのコメント(2011年07月09日 22時44分59秒 ) | パスワード |
薩摩藩 鹿児島城下士 御小姓与 西田村に在住していた、肥後家の末裔です。
明治維新後、隣家に西郷南州公が住んでいました。高祖父の弟、肥後直熊が南州公没後に描いた肖像画が、鹿児島市黎明館に保存されています。
祖父から、高祖父直右衛門が直ドンとかわいがられていたと聞いています。
西南の役では、西郷軍として出征しています。
肥後氏の祖は、平安末期の公卿、藤原北家勧修寺流、正二位権大納言藤原(吉田)経房卿の二男、肥後守藤原時経の子、時信(改名して信基)です。
その辺りは、公卿補任、国司体系、蔵人補任で確認出来ます。
時経は公卿補任に不孝逐電と記載されています。
吉田家は代々伊豆守を遥任しているので、伊豆北条氏とつながりが深かったと思います。
その後、北条氏の被官となり、名越流北条氏に仕え、越後、越中、大隅等の守護代を務めています。但し、この頃の守護代は鎌倉にあって守護代を務めていたので、一族を各地に配しました。
種子島家の四代まで業績不明なのは、鎌倉にあって執務を執っていたからでしょう。鎌倉滅亡後、大隅に逃れ、種子島を支配下に置く事に成功したのが、今の種子島家であり、当初は藤原氏で肥後を称していた事は、種子島家譜からも確認できます。
[36] | 岩山宏至さんからのコメント(2015年03月21日 19時24分42秒 ) | パスワード |
西郷隆盛妻いとの実家の岩山家です。いとさんの妹千恵は、肥後宗右衛門に嫁ぎ、弟の直方(私の曾祖父)の三男の謙の妻は、肥後桃子、娘達が、維新ふるさと館に西郷さんを語るテープを寄託して、常設で流れています。肥後家の家紋は丸にアゲハでした。肥後直熊が直坊と呼ばれ武の西郷屋敷で遊んでいたのは、何か関係がありそうですね。当時までは、同じ学舎の舎内で縁組してますから。岩山家は、興国学舎で、この肥後家の墓は興国墓地にあります。鹿児島市内に住んでますから、一度会いたいですね。
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